穂高岳槍ヶ岳縦走記

鵜殿正雄




    一 神秘の霊峰

 信飛の国界にあたりて、御嶽おんたけ・乗鞍・穂高・槍の四喬岳のある事は、何人なんぴと首肯しゅこうするところ、だが槍・穂高間には、なお一万尺以上の高峰が沢山群立している、という事を知っている者はまれである。で折もあらばこの神秘の霊域を探検して世に紹介しようと思うていた。幸い四十二年八月十二日正午、上高地かみぐちの仙境に入門するの栄を得た。
 当時、この連峰の消息を知っている案内者は、嘉門次かもんじ父子の他にはあるまいと思って、温泉の主人に尋ねると皆おらぬ、丁度そこに類蔵がいたので話して見たが、通れぬという。三時頃嘉門次のせがれ嘉与吉が来たからこの案内を頼む、彼は都合上島々しましまに行って来ると言って、十五日を登山日と定める、二日間滞在中穂高行の同志が四名増して一行五名。
 十四日嘉与吉が来た、彼は脚気かっけで足が痛むというので、途中宮川の小屋に立ち寄り、親父おやじに代ってもらう事に話して来たゆえ、明朝父の居を尋ねて行かるれば、小屋からすぐ間道かんどうを案内するという。よろしい、実際痛いものなら仕方がない、嘉門次ならなおくわしかろうとそう決めた。

    二 穂高岳東口道

 十五日前三時、起て見ると晴、ずこの様子ならりではなかろう、主人の注意と下婢かひの働きで、それぞれの準備を終り、穂高よりすぐ下山する者のためにとて、特に案内者一名をやとい、午前の四時、まだくらいうち、提灯ちょうちん便たよりての出発。あずさ川の右岸に沿い、数丁登って河童橋かっぱばしを渡り、坦道たんどうを一里ばかり行くと、徳合とくごうの小屋、左に折れ川を越えて、少々下れば、穂高仙人、嘉門次の住居、ほうけん余、屋根・四壁等皆板張り、この辺の山小屋としてはかなりのつくり、檐端に近き小畠の大根は、立派に出来ている、東は宮川池に注ぐ一条の清流。嘉門次は炉辺で火をきながら縄をうている、どうも登山の支度をしてはいないらしい、何だかいぶかしく思うて聞いて見ると、穂高の案内なら昨夜のうちに伝えて下さればよかった、と快く承知し、支度もそこそこ、飯をかっこみ、四十分ばかりで出発した。時に前五時四十分。
 嘉門次は、今年六十三歳だ、が三貫目余の荷物を負うて先登するさまは、壮者と少しも変りはない。梓川の右手、ウバニレ、カワヤナギ、落葉松からまつ、モミ、ツガ等の下を潜り、五、六丁行き、左に曲がると水なき小谷、斑岩の大塊を踏み、フキ、ヨモギ、イタドリ、クマザサの茂れる中を押し分けて登る。いかにも、人間の通った道らしくない。大雨の折りに流下する水道か、熊や羚羊かもしかどもの通う道だろう。喬木では、ツガ、モミ、シラベ、カツラ、サワグルミ、ニレ等混生している。登るに従い、小谷が幾条にも分れる。気をつけていぬと、わからぬほど浅い、が最初の鞍部あんぶに出るまでは、右へ右へと取って行けば、道を誤る事はあるまい。この鞍部の前面は、小柴が密生している、山麓では緑色の毛氈もうせんを敷いたように見えるから、よく方位を見定めておくとよい。海抜約二千米突メートル以上は、雑木次第に減じ、ミヤマカンバ、ミヤマハンノキ、ミヤマナナカマド等の粗く生えたる土地、ここをぬけると上宮川原かみみやがわら「信濃、上宮川原、嘉門次」、左の方数丁には、南穂高の南東隅に当るしゃ色の絶嶂ぜっしょう。一休して、この川原を斜めに右方に進み、ベニハナイチゴ、ミヤマナナカマド、ミヤマカンバの小柴を踏み、午前八時には前記の鞍部、高さ約二千二百六十米突、ここに、長さ十間幅四間深さ三尺ばかりの小池がある、中ほどがくびれて瓢形ひょうけいをなしているから、瓢箪池ひょうたんいけといおう。池のまわりのツガザクラ、偃松はいまつは、濃き緑を水面に浮べている。これより左折暫時ざんじ小柴と悪戦して、山側を東北に回り十丁ばかりで、斑岩の大岩小岩が筮木ぜいぼくを乱したように崩れかかっている急渓谷、これが又四郎谷「信濃、又四郎谷、嘉門次」、やや下方に、ざあ、ざっと水の流るる音、これから上は、残雪の他、水を得られないとて水筒にみたし、一直線にこの急坂を登る。
 一岩を踏むと、二つも三つも動く、中には戛々かつかつと音して、後続者の足もとをかすめ、渓谷に躍って行くので、皆横列になって危険を避ける。約二千六百四十米突の辺から、三丁余の残雪、雪上では道がはかどらねば、の嶂壁の下に沿うて登る、この雪が終ると、峡谷が四岐する、向って左から二番目がよい、午前十時五十分、約二千八百四十米突の山脊つく。
 すぐ目についたは温泉場、その南にとなって琉璃色るりいろのように光る田代池たしろいけ焼岳やけだけも霞岳もよく見える、もうここに来ると偃松は小くなって、処々にその力なき枝椏しあを横たえ、黄花駒の爪はひとり笑顔をもたげている、東南方数町に峰「信濃、前穂高岳、並木氏」二つ、高さは二千八百米突内外、その向うが今朝登って来た上宮川原。間もなく南麓から、霧がぽかぽかやって来た。急遽右に折れ、三角点目的に登る。このあたり傾斜ややゆるく、岩石の動揺が少ないので、比較的容易だ。

    三 南穂高岳

 午前十一時十五分、遂に、南穂高岳「信濃、又四郎岳、嘉門次」「信濃、奥穂高岳、並木氏」「信濃、前穂高岳、徹蔵氏」一等三角点の下にじ、一息して晴雨計を見ると約三千米突。最高峰の南に位するゆえ、南穂高岳と命名した。
 先刻より気づこうていた霧は、果然包囲攻撃してくる、まるで手のつけようはない、打ってもついても、音もなければ手応てごたえもない、折角せっかく自然の大観に接しようとしたがこの始末、そこでやぐらに登り中食をしながら附近を見る、櫓柱は朽ちてなかば以上形なし、東下の石小屋は、屋根が壊れていて天套テントでもなければ宿れそうもない、たまたま霧の間から横尾谷の大雪渓と、岳川谷たけがわだに千仞せんじんの底より南方に尾を走らしているのが、瞬間的に光るのを見た。
 やがて、米人フィシャー氏、嘉与吉を案内として、南口から直接登って来た、氏は昨夜温泉で、わが行を聞き、同一逕路けいろを取らんため来たのである。いつまで待っても、れそうもなければ、正午一行と別れ、予とフ氏とは、嘉門次父子を先鋒せんぽうとし、陸地測量部員の他、前人未知の奥穂高を指す。北の方嶮崖けんがいを下る八、九丁で、南穂高と最高峰とを連ねている最低部、横尾谷より来ると、この辺が登れそうに見えるがはなはだ危険だ、奥穂高と北穂高との間を通るがよい。霧は次第に深く、かてて雨、止むを得ず合羽かっぱまとい、岩陰で暫時雨を避け、小降りの折を見て、また登り始める。

    四 雲の奥岳

 道はますますけわしくなる、鋸歯きょし状の小峰を越ゆること五つ六つ、午後二時二十分、最高峰奥穂高「信飛界、奥穂高岳、徹蔵氏」「信飛界、岳川岳、フィシャー氏」の絶巓ぜってんに攀じ登った。南穂高からは半里で、およそ二時間かかる、頂の広さ十数歩、総て稜々ぎざぎざした石塊、常念峰のような円形のものは一つもない、東隅には方二寸五分高さ二尺の測量杭がたった一本。東南は信濃南安曇みなみあずみ郡安曇村、一歩転ずれば飛州吉城よしき上宝かみたから村、海抜約三千百十米突、従来最高峰と認められていた、南穂高をしのぐ事実に一百余米突、群峰の中央に聖座しているから、榎谷氏のいわれた奥穂高が至当だろう。またも雲の御幕で折角の展望もめちぁめちぁ、ただ僅かの幕のを歩いた模様で、概略の山勢を察し得られたのは、不幸中の幸。
 遥か南々西に位する雄峰乗鞍岳にあたるのには、肩胛けんこういと広き西穂高岳が、うんと突っ張っている、南方霞岳に対しては、南穂高の鋭峰、東北、常念岳や蝶ヶ岳をむかうには、屏風岩の連峰、北方の勁敵けいてき、槍ヶ岳や大天井おおてんしょうとの相撲すもうには、北穂高東穂高の二峰がそれぞれ派せられている、いずれも三千米突内外の同胞、自ら中堅となって四股しこを踏み、群雄を睥睨へいげいしおるさまは、丁度、横綱の土俵入を見るようだ。さはいえ、乗鞍や槍の二喬岳を除けば、皆前衛後衛となって、うやうやしく臣礼を取っているにすぎぬ。槍ヶ岳対穂高岳は、常陸山ひたちやま対梅ヶ谷というも、あながち無理はなかろう、前者の傲然てる、後者の裕容迫らざるところ、よく似ている。あわれ、日本アルプスの重鎮、多士済々の穂高には、さすがの槍も三舎を避けねばなるまい、彼は穂高に対し、僅かにこれと抗すべき一、二峰派しているも、大天井や鷲羽わしばに向う子分は、貧乏神以下、先ず概勢はこんなもの。
 この絶大観に接した刹那せつな、自分は覚えず恍惚こうこつとして夢裡むりの人となった。元来神は、吾人の見る事の出来ぬ渺漠びょうばくたるもの、ては、広大無限、不可思議の宇宙を造り、その間には、日月星辰山川草木と幾多の潤色がしてある。今我が立てる処もまたその撰にもれぬ。人為では、とてもそんな真似は覚束おぼつかない、平生へいぜい名利のちまた咆哮ほうこうしている時は、かかる念慮は起らない、が一朝塵界じんかいを脱して一万尺以上もある天上に来ると、吾人の精神状態は従って変ると見える。これ畢竟ひっきょう神の片影なる穂高ちょう、理想的巨人の御陰おかげだろうとしみじみ感ぜられた。
 標高千米突内外の筑波つくばや箱根では、麓で天候を予想して登っても、大なる失策はなかろう、が三千米突以上の高山となると、山麓で晴天の予想も、頂上へ行くとがらりかわり、折々雲霧に見舞われる、これによると、今回のように度々御幕がかかるのが、かえって嵩高すうこうに感ぜられる。万山の奥ともいわるる槍でさえ、はやくから開け、絶頂始め坊主小屋等は、碑祠を建立せられたるため、幾部分汚されてるが、世に知られないのは穂高の幸か、空海も、播隆(槍ヶ岳の開山和尚)も、都合よく御開帳に出っくわせなかったろう、とこしなえにこのままの姿で置きたいものだ、とかくに浮世の仮飾かしょくこうむってない無垢むくなんじを、自分は絶愛する。
 岳名の穂は、秀の仮字にて秀でて高き意なるべしと、また穂高を奥岳ともいう、と『科野しなの名所集』に見ゆ、俊秀独歩の秀高岳、まことにこの山にして初めてこの名あり。

    五 北穂高岳

 午後二時三十分、最愛の絶頂に暇を告げ、北に向いて小一丁も進むと、山勢が甚しく低下して行くので、驚いて岳頂を見ると、はや雲深く※(「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1-84-68)とざされ、西穂高が間々まま影を現わすより、蒲田がまた谷へ下りかけた事と知れ、折り返して頂上にで、東北へと尾根伝いに下る。
 此処ここから槍までは、主系の連峰を辿たどるのだ、即ち信・飛の国界、処々に石を積み重ねた測点、林木の目をさえぎるものはなく、見渡す限り、※※らいら[#「石+雷」、265-12][#「石+可」、265-12]たる岩石、晴天には槍がよく見えるから、方向を誤る気支きづかいはない。山稜は概して右側にかぶり、信州方面には絶峭が多い、二、三の場所を除けば、常に左側十数歩の処に沿うて行けばよい。
 八丁ばかり行くと鞍部、右手には、残雪に近く石垣をめぐらせる屋根なしの廃屋、此処は、燃料に遠く風も強くて露営には適せぬ。北に登る四丁で三角点の立てる一峰、標高三千七十米突、主峰の北々東だ、が北穂高岳「信飛界、空沢岳からさわだけ宛字あてじ)、嘉門次」と命名しておく。
 櫓の下より東に向いて、数十丈の嶮崖を下らねばならぬ、ここが第一の難関、相悪あいにく大降り、おまけに、横尾谷から驀然ばくぜん吹き上ぐる濃霧で、足懸あしがかりさえ見定めかね、暫時茫然として、雨霧のしずまるをてども、止みそうもない、時に四時三十分。今朝出がけには、槍の坊主小屋あたりにまる考だのに、まだその半途、今日はとても行けぬ、しかしこんな峰頂では、露営は覚束おぼつかない、ぐずぐずしていると日が暮れる、立往生するのも馬鹿げている、かようにれては、火が第一番だから林を目的に下れ、途中に岩穴でもあらば、そこに這入はいろうと、後方鞍部に引き返し、山腹を斜に東に下る。

    六 空沢の石窟

 道すがら、大きな石を探る二つ三つ、十二、三丁も下ったと思うころ、方三間高さ一間余の大石の下、少々空虚あるを見出す。さいわい、近くには偃松はいまつ、半丁余で水も得られる。かかる好都合の処はないとて、嘉与吉と二人で、その下の小石を取り除けて左右に積み、風防かぜよけとし、居を平にならす、フ氏と嘉門次は、偃松の枝を採りて火をける、これでどうやら宿れそうだ。やがて、雲霧も次第に薄らぐ、先ず安心、と濡た衣裳を乾かす。
 この大谷を、横尾の空沢または大沢「信濃、横尾の空沢、嘉門次」という。空沢とは、水なき故なりと。上方は、兀々こつこつとした大磧、その間を縦に細長く彩色しているのは草原、下方は、偃松、ミヤマハンノキ、タケカンバ等が斑状に茂っている。南穂高から東北にわかれ、逓下ていげして梓川に終る連峰は、この谷と又四郎谷との境で、屏風びょうぶ岩または千人岩(宛字)「信濃、屏風岩、嘉門次」と呼ばれ、何れもよく山容を言いあらわしている。
 この石窟は、穂高の同胞で取り囲まれ、東方はやや低下しているので、丁度少し傾斜した大摺鉢すりばちの中点にあるようだから、風は当らない、その上絶えず焚く焔で、石の天椽は暖まる、南方に大残雪を控えているにもかかわらず、至極しごく暖かだ。雨はやみ、風は起らず、鳥も歌わない、虫も鳴かねば、水音も聞えぬ、一行のきょうじ声が絶えると、しんとして無声、かくも幽寂さびしき処が世にもあろうかと思われた。九時、石造の堅き寝台に横たわった、が昼のつかれで、ついうとうとと夢路を辿る。
 十六日前四時、目をこすりながら屋外に這い出して、東方を見ると、今しも常念は、ほんのりとした茜色の曙光を負いて、独特のピラミッド形を前山の上に突き出し、で妹子の蝶ヶ岳を擁している、近くは千人岳とて、多くの羅漢が如鬼如鬼にょきにょき並んでいるようだ。ぎは、昨日通った、南穂高・奥穂高・北穂高とあざやかにそれと仰がれる。その北穂高の東北に接し、槍と同形の峰が二百尺ばかりも屹立つったっている、小槍とでもいいたい、が穂高の所属だから、剣ヶ峰というておく。忘れていた晴雨計を見ると、約二千六百五十米突、華氏五十六度。

    七 東穂高岳

 六時、朝食をすまし、右手のかわらにつき、最近の鞍部目的に登る、僅か十町つい目先きのようだ、が険しくて隙取ひまどれ、一時間ばかりかかった。昨日で辟易へきえきした幔幕まんまく、またぞろ行く手をさえぎる、幕の内連が御幕の内にいるのは当然だ、と負け惜みをいいつつ、右に折れ、巉岩ざんがんにて築き上げた怪峰二、三をすぎ、八時、標高三千十四米突の一峰にじて腰をえる。位置は信飛の界、主峰奥岳の東北に当る、が東穂高岳と命名しよう。
 霧が少しくはげて来たので、北方の大渓谷をへだたって、はるか向いの三角点が見えて来た。左折して、四十度以上の傾斜地を斜めに、西北にとり、低き山稜に出ると、巉岩や偃松で織りなされた美景が正面にくる。南方数十歩には、天工のまさかりで削ったような、極めて堅緻けんちの巨岩が、底知れずの深壑しんがくから、何百尺だかわからなく、屹立きつりつしている。猪や羚羊も恐れてちかづかねば、岩燕や雷鳥でも躊躇ちゅうちょするだろう、何だか形容のしようもない。今眼前咫尺しせきに、この偉観に接した自分は、一種の魔力に魅せられてか、覚えずあっとしたまま、暫時言葉も出なかった。此処が東穂高の絶嶂、天狗岩とでも名づけよう。

    八 横尾谷

 今われらのいる前後数町の間は、かつて、測量員すら逡巡して通行しなかったところ、案内者も、今回が初対面、岩角にすがり綱を手繰たぐり、または偃松を握りなどし、辛くも、連稜の最低部=槍と穂高の交綏点こうすいてんについた。高さは約二千六百八十米突。此処で少々山稜と離れ、東へ五、六丁、大磧を過ぎ残雪を踏み、十時五十分、横尾の谷底につき、休憩して中食をしまう。
 同行のフ氏は、おそくも本日午前十時までに、槍下で、昨日温泉から直接槍に向うた友人と出逢う手筈てはずだ、というていたが、今後なお五時間もかからねば、目的地に達する事が出来ぬのに、はや定刻を過ぎているので、すぐ東に分れ、くだんの谷を下り、温泉へと霧の裡に影を没し去った。

    九 南岳

 フ氏と分れ、大磧を西北にさし、高山植物の茂れる急斜地を踏みわけ、二十分で手近き山稜、右に折るれば、槍の最南峰に当る絶嶮地、半ば以上登ると、錫杖の頭を並べたような兀々こつこつした巉岩が数多あまた競い立っている。先ずこの右側を廻り、次に左側に向って大嶂壁の下を通り抜ける、今度は「廻れ右」して、この嶂壁の中間にある幾条かの割目を探り、岩角にかじりついて登るのだ。峰頭を仰ぐと危岩が転げ落ちそうで、思わず首がすくむ、足下は何十丈だかしれぬ深谷、ちょっとでも踏みそこなうものなら、身も魂もこの世のものとは思われぬ。右に左に、折り返し、繰り返して山頂に攀じ、零時三十五分、三角点の下につき、ほっと一息つく。標高約二千九百四十米突。峰頭平凡で記すべき事はない、南岳と命名した。

    十 岩石と偃松

 この近辺を界して、南方の岩石は、藍色末に胡摩塩ごましおを少々振りかけたような斑点、藍灰色で堅緻だから、山稜も従って稜々ぎざぎざして、穂高の岩石と、形質がいささかも違わぬ。同じ石英斑岩でも、これから槍下までのは、胡摩塩状斑点が減じて青色を帯び、赤褐色の大豆だいず大の塊が点々混ってやや軟かい、砂礫の多量に含む処を見ると、風化しやすいように思われる。山稜は大抵牛脊のようで、兀々した処が少ないから、気骨が折れぬでさっさと行ける。しかし、大槍だけは穂高と同じだ、これが今日の槍を形造った所以ゆえんだろう。
 槍も穂高も、最高点から二百米突以下は、ぼつぼつ偃松が生長している。五百米突も下ると、かなり繁っているが、乗鞍や信州駒ヶ岳のように沢山はない。今まで通った主系の山稜について見るに、蒲田谷方面は、のびのび手足を出している、が梓川方面は、枯れ松が多い、後者は常に残雪の多いのと、傾斜峻急なとの御蔭だろう。

    十一 中の岳

 南岳より北の方へ大畝おおうねりに畝って行く事半里で、連嶺第二の低地、その先きは盆地で沢山の残雪、雪解けの水も流れている。水を一掬ひとむすび勢をつけて、難なく三千三十米突の一峰を踏む、頂には石を重ねた測標が一つある。相変らず雲の海で山勢は見れぬ。南岳と大喰岳おおばみだけ(宛字)との間にあたるので中の岳と称えておく。

    十二 大喰岳

 中ノ岳より北に行くこと二十分で、槍ヶ岳第一の子分、峰は二つで、間は一丁余もあろう、標高約三千七十米突、少しけわしくなってきた。槍に登って余裕のある人は、中途高山植物の奇品をりながらこの峰に登るも面白かろう。大喰岳「信飛界、大喰岳、嘉門次」とは、群獣のこの附近に来て、食物をあさりくらうので、かくは名づけたのであると。
 右手嶂壁の下には、数丁にわたる残雪、本年は焼岳の火山灰が、東北地方に降下したから、穂槍及び常念山塊の残雪は、例年に比し、はなはだ少ないとの事だ、よく見ると鼠黒い灰が一面にある。少々先きの嶮崖を下れば、梓川の本流と飛騨高原たかはら川の支流、右俣との水源地で、大きな鞍部、大槍に用のない猟手らは、常に此処を通って、蒲田谷方面に往復するそうである。四、五間向うに、数羽のひなとともにたわむれている雷鳥、横合よこあいから不意に案内者が石を投じて、追躡ついじょうしたが、命冥加いのちみょうがの彼らは、遂にあちこちの岩蔭にまぎれてしまう。此処が槍の直下だろうとて、荷物をてて行こうとすると、もう一つ小峰があるとの事、で早々まとめてまた動き出す。途中、チョウノスケソウ、チングルマ、ツガザクラ、ジムカデ、タカネツメグサ、トウヤクリンドウ、イワオウギ、ミヤマダイコンソウ、等を見た。

    十三 槍ヶ岳絶巓

 小峰を越して少し登れば大槍、これから上が最も嶮悪の処と聞いていた。が穂高の嶮とは比べものにならぬ、実に容易なもの、三時四十分、漸く海抜三千百二十米突の天上につく、不幸にもこの絶大の展望は、霧裡に奪い去られてしまった、が僅かに、銀蛇の走る如き高瀬の渓谷と、偃松で織りなされた緑の毛氈を敷ける二の俣赤ノ岳とが、見参に入る、大天井や常念が、ちょこちょこ顔を出すも、おのれの低小を恥じてか、すぐ引っこむ、勿論もちろん小結以下。
 槍からは大体支脈が四つ、南のは今まで通った処、一番高大、その次は西北鷲羽に通ずる峰、次はこの峰を半里余行って東北、高瀬川の湯俣と水俣との間に鋸歯状をなして突き出している連峰、一等低小のが東に出て赤ノ岳につらなる峰。これらの同胞に登って、種々調査をしたなら趣味あることだろう。

    十四 坊主小屋

 四時下山し、殺生せっしょう小屋を過ぎ、二十分で坊主小屋、屋上には、開山の播隆上人の碑、それを見越して上は、先きに吾々われわれの踏まえていた大槍、今は頭上をうんと押さえつけて来る、恐ろしいほど荘厳だ。小屋の内に這入はいって見ると、薄暗い、片すみに、二升鍋が一個とわんが五つ六つ、これは上高地温泉で登山者のためとて、備品として置かれたもの、今後この小屋で休泊するものは、大いに便利だろう、何か適法を設け、各処の小屋の修理や食器等の備え付をしたいものだ。此処で残飯を平らげ、鞋の緒をしめ、落合の小屋「信濃、二ノ俣の小屋、嘉門次」「信濃、※(「革+堂」、第3水準1-93-80)やりどう(宛字)、類蔵」に向う。

    十五 落合ノ小屋

 六時半、赤沢ノ小屋を見舞う、此処は昨今の旱天かんてん続きで容易に水を得られぬから、宿泊出来ぬそうだ。七時二十分には、目ざす落合ノ小屋、ところは梓川と二ノ俣川との合流点、小屋というても、小丸太五、六本を組み合せ、小柴を両側にあてた一夜作りのもの、合羽でもないと雨露はしのげぬ、水や燃料は豊富だが三、四尺も増すと水攻にされる。こっちの山麓から、向側まで二十間とない峡間、殊に樹木は、よく繁っているので、強風は当らぬ。槍・常念・大天井に登臨するむきのためには、至極便利の休泊処。





底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 五の一」
   1910(明治43)年3月
初出:「山岳 五の一」
   1910(明治43)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出の本文末尾の気象観測データの記載は底本には省略されています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について