「私のアイスアックスはチューリッヒのフリッシ製」……と書き出すと、如何にも「マッターホーン征服の前日ツェルマットで買った」とか、「アルバータを下りて来た槇さんが記念として呉れた」とかいう事になりそうであるが、何もそんな大した物ではなく、実をいうと数年前の夏、大阪は淀屋橋筋の運動具店で、貰ったばかりのボーナス袋から十七円をぬき出して買ったという、甚だ不景気な、ロマンティックでない品なのである。だが、フリッシ製であることだけは本当で、持って見ると仲々バランスがよく取れている。その夏、真新しくて羞しくもあり、また、如何に勇気凛々としていたとは言え、アイスアックスをかついで大阪から汽車に乗りこむ訳にも行かないので、新聞紙に包んで信州大町まで持って行った。この時は針ノ木峠から鹿島槍まで、尾根を伝うのだから大した雪がある筈は無く、真田紐で頭を縛って偃松の中や岩の上をガランガラン引ずって歩いたもんだから、石突きの金具や、その上五六寸ばかりの処がザラザラになって了った。
この年から大正十五年の六月まで、私のアイスアックスは大町の対山館に居候をしていた。居候と云っても只安逸な日を送っていたのではなく、何度か対山館のM氏に伴われて山に行った筈である。今年六月、まる二年振りで対山館へ行って見たら、土間の天井に近い傘のせ棚に、大分黒くなった長い身体を横たえていた。即ちこれを取り下し、大町から針ノ木峠、平、刈安峠、五色ガ原、立山温泉、富山という旅行に使用した。非常な雪で、また大町――富山の大正十五年度の最初の旅行だったので、アイスアックスが大いに役に立った。
富山から同行者二人は長野経由で大町へ帰り、私は直接大阪へ帰ることになった。従ってアイスアックスも大阪へ帰って来たが、何もすることがない。戸棚の隅でゴロゴロしている丈である。時々令夫人が石突きで石油の鑵をあけたり、立てつけの悪い襖をアックスを用いてこじあけたりする。山ですべてを意味するアイスアックスも、大阪郊外の住宅地では、かくの如く虐待されている。
所で、私はこのアイスアックスが非常に好きである。時々酔っぱらうと戸棚から出して愛撫したりする。アイスアックスが、登山のシンボルであるような気がするからである。元来私が、氷河の無い日本の山を、而も夏に限って登るのに(将来あるいは冬登るかもしれないが)大して必要でないばかりか、ある時には却って邪魔になるアイスアックスなんぞを買い込んだ理由は、実にこれなのであった。刀剣の好きな人が、日本刀に大和魂を見るように、私はアイスアックスに登山者の魂を見出す。それにまた、冬の夜長など、心しきりに山を思う時、取り出して愛撫する品としては、アイスアックス以外に何も無い。
登山者としての私は道具オンチではないから、あまり色々な物を持っていはしないが、それにしても若干ある登山具を、一つ一つ考えて見るに、座敷に持ち込んで愛撫し得るものは、アイスアックス丈である。登山靴――これはツーグスピッツェの麓なるパルテンキルヘンで買った本場物には相違ないが、酒盃片手に泥靴を撫で廻すことは出来まい。ルックサック――これも登山にはつきものであるが、空の
そこでいよいよアイスアックスが出て来る。アックスは鋼鉄を冠った鍛鉄である。柄はグレインの通ったアッシで出来ている。長さ三尺、重量は手頃と来ているから、よしんば振り廻しても大したことはない。右手に持ち、左手に持ち、あるいは柄の木理を研究し、アックスをカチカチ爪でたたいて盃の数を重ねて行けば、いつか四畳半の茶の間も見えなくなり、白皚々たる雪を踏んで大雪原に立つ気になったりする。寒風身にしみてくさめをし、気がついたらうたゝ寝をしていたなどというのでは困るが、とにかくアイスアックスは、我をして山を思わしめ、山を思えば私はアイスアックスを取り出して愛撫する。
一九〇二年のことである。モン・ブランの頂上から四人の登山者が下りて来た。内二人はスイスのガイドであった。グラン・プラトーと呼ばれる地点まで来た時、突然物凄い雪嵐が一行を襲い、進むことも退くことも出来なくなって了った。止むを得ず、アイスアックスで雪に穴を堀り、四人がかたまって一夜をあかすことにしたが、気温は下降する一方で、ついに暁近く二人は凍死した。
翌日はうらゝかに晴れ渡った。残った二人は、とにかく急いで下山することにしたが、あまり急いだので、その中の一人が深いクレヴァスに落ちて了った。クレヴァスとは氷河や雪田に出来る裂目である。深いのも浅いのもあるが、この男の落ちたのは二百尺近くもあったという。そんな所に落ち込めば、命は無いものであるが、この人は不思議に、大した怪我もせずにいた。
一行四人が、今はたった一人になった。この最後の一人は、これは大変だ、どうしたろうと、しきりにクレヴァスをのぞいている内に足をすべらして、自分もまた同じクレヴァスに落ち込んだ。同じクレヴァスと云った所で万古の堅氷に、電光のように切れ込む裂目である。勿論前に落ちた男は、自分の仲間がクレヴァスに落ちて即死したとは知る由も無い。どっちを見ても氷ばかりの狭い場所で、早くあいつが麓に着いて、救援隊をよこしてくれゝばいゝとばかり思いつづけた。だがその、救援隊を求む可き人は、今はもう死んでいるのである。これ程頼り無い、心細い話は無い。
所でその地点から一万尺下に、シャモニの町がある。この町には非常に強力な望遠鏡が据えつけてあり、この日もある人が晴れ渡ったモン・ブランを山嶺から山麓まで、しきりに観察していると、ふとレンズに入ったグラン・プラトーの人の姿。どうやらクレヴァスを覗き込んでいるらしい。はてな、今頃たった一人で、何をしているんだろ、と思った次の瞬間、もう黒い姿は、どこをさがしても見えない。
グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちた。すぐ救助に行かなくてはならぬ。この叫び声によって救援隊は立ちどころに組織された。選りぬきのガイド達、手足まといの登山客がいないだけに足が早い。羚羊のように岩を飛び雪を踏んで、遮二無二に急ぐ。
一方、グラン・プラトーの上方に五六人のガイドが無事に前夜を送った登山者達と一緒に休んでいたが、ふと気がつくと麓から一群の人々が登って来る。只登って来るのなら何の不思議もないが、恐ろしく足が早い。とても普通の登山ではない。何か起ったに相違ない。応援に行こう。とばかり山を下りかけた。
数時間の後、救援隊とガイド達とは落ち合った。グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちたと云う。それでは一緒にさがして見ようということになって、さてグラン・プラトーに来て見まわしたものの果してどのクレヴァスのどの辺に落ちたのかハッキリしない。あちらこちら覗き込んでは呶鳴って見ても、一向返事がない。さては死んで了ったのか、さっき望遠鏡で見た時から、七時間余も経っている。よしんば即死しなかったにしても、もう死んだのだろう。仕方がない帰ろう――と話し合っていると、どこか変な処で変な声がする。まだ生きている!と一同急に元気を出して、又、あちらこちらと覗いては呶鳴り、呶鳴っては覗くうちにとうとう落ちている場所を発見した。そら、こゝにいる。繩を下せ。だが、どの位深いところにいるか判らぬ。一番いい奴を下せ。かくて百五十呎の繩が、スルスルと氷の裂目に呑まれて行った。すると下から声がする――まだ四十呎ばかり足りないと云う。そこで五十呎のをつぎ足した。都合二百呎である。「よし、引っ張ってくれろ!」という声を聞いて、一同は力を合せて繩を引いた。二百呎の氷の裂目を、ブランブランと上るのは、危険至極である。氷の壁にたゝきつけられたら、頭を割るか、足を折るか、とにかく碌なことは無い。だが、どこ迄も運のいゝこの男は、無事に表面まで出て来た。
前夜、すくなくとも十時間は雪に埋った穴の中で凍え、二人に死なれ、たった一人でクレヴァスにうづくまること八時間、たいていの人間なら、もう山は沢山、ガイドなんぞするよりは、山麓のホテルで門番でもした方がいゝと思うであろうが、この男はどこからどこ迄アルプスのガイドに出来上っていた。もう弱り切って、ヒョロヒョロしているにもかゝわらず、「誠に申訳ないが、もう一度繩でしばって、クレヴァスに降して呉れ」という。救援隊の声を聞いた悦しさについ夢中になってアイスアックスをクレヴァスの底に忘れて来て了ったのである。懇望するまゝに、また二百呎の繩を彼の胴に縛りつけて、クレヴァスに降してやる。後生大事にアイスアックスをかゝえ込んだ男が、再びクレヴァスの口に顔を出したのは、それからしばらく経ってのことである。
この話はコリンスという人の書いた「マウンテン・クライミング」なる本に出ている。アルプスのガイド達は登山中如何なる事情があってもアイスアックスを置きざりにしてはならぬという不文律を固く守るのだそうである。一寸面白い話だから、うそか本当か知らないが――まさかうそではあるまいけれど、コリンス先生の著述目録を見るとカメラ、ワイヤレス、飛行機、山、等いろいろな物に関して本を出しているので、いさゝか当世流行の大衆向きライタアらしく、従って面白く書くことを目的としているから、ひょっとしたらこの話も又聞き位かも知れぬ。――アイスアックスの話の序に紹介する。
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クレメンツ・ルッペンはその時すでに五十の坂を越していた筈である。ヒョロヒョロして、思いがけぬ所に妙な角度が見える奇怪な身体つき、そしてオープン・アンクルの靴が彼の固い、やせた脛の後から、変な格好につき出ている。而もひとたび岩に触れ、氷を踏み、通路も碌に無い場所を疲れず倦まず大股に急ぐとなると、こんな風な調子の悪さはすべてなだらかな「力」のカーヴに変るように思われ、彼は屈強なフォームの確かさと優美さとを以て動いて行くのであった。山の農夫のはげしい生活は、彼を肉体的にも心理的にも、磨り耗らし曲げ歪めたが、彼の快活な精神には手を触れなかった。
彼は若い時ティンダル教授のもとで訓練されたのであって、その影響はホテルの顧客をたよりとして暮した三十年間に、彼の身にしみ込んだマナリズムにさえも――このマナリズムは山に入っている間は全く影を消すがホテルの廊下に一歩足がかゝると同時に、ほとんど喜劇的にあらわれる――打ち消されないのであった。抑えても抑え切れぬ子供らしさと、冒険に対する華美なユーモアとは、彼の貧乏が彼に、子供は一人もいず牝牛を九頭持っている彼の競争がたきのトニイ・ワルデンの方が、牝牛二頭に子供九人の彼自身よりも如何に好運そうに見えるかをしみじみ思わせる時にでも、彼が煙ったい小屋で私と一緒に次の登山を玄妙不可思議に企画しつゝ、私の耳に如何にもわるさかしげに Habe was neues fur Sie, Herr Jung ! と囁く時にでも、教室を逃げた所を捕まった生徒のような見えすいた無関心で、彼が「発見」した背稜をふざけまわる時にでも、あるいは――これは最も見馴れた画である――夕方我々が家路に向い、そして例の致命的なピアザに近づく時、肩ごしに私に一瞥をくれ、我々の勝利による彼の大恐悦を請願的な Sind Sie zufrieden, Herr ? に和げ鎮める時にでも常に彼の気むずかしい隅々をつゝみ、彼の瘤や皺から洩れ出ていた。彼の両眼は彼の性格と世渡りの方法との通弁であった。胡桃みたいに皺のよった、褐色の頭と顔とについた細い曲った二つの裂目には、悪戯と計画との薄青い噴火山が、限定された出口に取って余りに生々と明光を発していた。
クレンメンツは[#「クレンメンツは」はママ]あらゆる場合に、ローンの溪谷越しにペンナインスを指しては、自分は「あすこにいる連中みたいな一流のガイドではない」と主張するのであった。が然し彼自身の山々は、後向きに歩くことも出来る位よく知っていた。彼はもっと人の大勢行く地方にいたのならば、必ず有名になったに違いない。彼はその時すでにアレッチホーンを百回ばかり登っており、ネストホーンに至っては何度登ったか覚えていられない程であった。この年令でより安全な、より敏捷な岩と氷の巨匠が、この奇妙な動作態度でより勇敢な、よりしっかりした冒険者が、山を、それが幾許の金銭をもたらしたが故にでなく、単に山その物として愛すること、彼の如きは他に類を見ない。
この彼に、晩年に近く、一つの機会が与えられた。それは導くべき一少年である。登山の規範とロマンスにあこがれを持った一少年である。彼はこの上もなく陽気な交友関係をそれからつくり上げた。夜あけ前の暗い時に、私はいつも方言の咽喉言――喉よりむしろ肺の言葉で、私にとっては常に山の正しい言語である――によって起される。私が本当に寝台を離れ、着物を着て了う迄は、白髪まじりの頭が、用心深く開かれたドアから、のぞいたり引っこんだりしつづける。我々のザックは前の晩に殆ど準備されてあった。そこで我々は闇の中を歩き出す。近くのスロープを上下すると、足の方では草と百合の新しい湿った匂がし、また夜明け前の風のつめたい戦慄は灰色の光の約束を横切って身動きし、しっとりした衣服の下から睡眠の殿軍を追い払う。私にとっては、アルプスに於ける「短い」一日の思い出は、必ず露にぬれた草や、松の枯葉や、氷の上の濡れたモレイン砂礫の早期の匂いに、先に行く影のような姿から来る、泥炭にいぶされたフェルトやダッフル(一種の粗羅紗)の暗示が、気持悪くなく交ったものに関連している。恰度「大きな」一日の思出が、太陽の照らさぬ氷河から吹く夜風が舌に与える清冽な「石に似た」味に、前方にある、あるいは私が手にぶら下げたランタンの、焦げた金具と蝋燭脂の、親しみ深い、頭痛を起させるような香とが混じり合ったものであるように。(G. W. YOUNG より)
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播州の山の中に、Sという温泉場がある。山陽線を姫路で乗りかえて北へ向うこと約一時間、A駅で下車してから一里西へ向って歩く。そこでB川という水の綺麗な、夏だと盛んに河鹿の鳴く川にぶつかる。川添いの道を南へ四丁、左に曲ってものゝ二三丁も山道を登ると、そこにS温泉がある。宿屋一軒、駐在所。不便なとこへ持ってって、西向きの山の斜面を一寸ひらいた場所だから、夏はあつかろうし、冬は恐らく寒いだろう。おまけに温泉とはいえこの辺によくある――というより、この辺一般に然るが如く、井戸の水を汲み上げてそれを沸す式のものだから、伊香保や箱根や山陰の各温泉に馴れている目から見ると、不景気なこと夥しい。その代り少女歌劇もなく、芸者の連れ込みもなく、静かなこともこの上なしである。
何故またこんな温泉を私が知っているかといえば、ほかでもない、大正十×年の初夏、播州S山がロック・クライミングに適した岩壁を多く持っていることを聞き込み、どんな具合だか見に行こうじゃないかと、T君という若い人と一緒に出かけた。その時発見したのである。もっとも、どこからどう行ったらいゝのか、まるで見当がつかぬ。やむを得ず陸地測量部の地図を四五枚買って来て、シーツの上の蚤をさがすようなあんばい式にキョロキョロ眺めると、なる程S山という山が出ている。ジャガジャガと引っ掻いた傷みたいな符号は岩壁、道路を伝って南に下ると播但線のA駅に出る。これで大体のことは判ったが、次に一晩とまる所を考えねばならぬ。で、駅から山まで五六里の間をさがすと、所々に人家はあるが部落らしいのはたった一つ。こゝには村役場も郵便局もあるから、たぶん木賃宿位あるだろう……よし、第一日はこゝ泊り、第二日朝早く出て山に登り、出来れば即日姫路まで引き上げよう。と、こう話をしながら、ふと見ると、この部落の南に温泉の符号がある。「おや君、こんな処に温泉があるんだぜ。こゝで泊ることにしょう。」といゝはしたものの、その温泉も、符号と、ちょびっとした家の黒マークが一つあるきりで、古い地図ではあるし、すこぶる頼りない。
所で大正十×年六月何日、日の暮れがたに姫路から和田山行きの二等に乗り込んだT君と私、相手がどんな山だか見当がつかぬだけに、仕度もいく分仰々しかった。登山服、何やかや詰め込んだルックサック、鋲を打った靴、私のルックサックのポケットにはロック・クライミングの教科書が入れてあった。これはこの本の写真を見て、その通りの格好をして私が岩を登る処をT君が撮影する手筈になっていたこと迄喋舌って了うと、正直すぎて莫迦らしくなる。とにかく二人は車室内の視線をあびて――もっとも三四人しか乗っていなかった――いささか照れていると、前に坐った中年の男が、たまり兼ねたと見えて口を切った。「どちらへお越しです?」
槍とか穂高とかいうのなら即座に返答するのだが、前にもいったように相手はいまだ正体の判明しない山である。なんだい、Sに登るのにこんななりをして……といわれそうな気がしたので、私は「ちょっとAまで行きます。」と下車駅の名を云った。そして「あなたは?」と問い返すと、「わしもAまでです」との返事。いきなりポケットから地図を出して「恰度いい都合ですから伺いますが、こゝに温泉の符号がありますね。どんな温泉だか御存知ですか。」
するとこの男は立ち上って、私の横に腰を下した。そしてT君と私とをかわりばんこに見ながら、S温泉の説明をしてくれた。すなわち湯は打身切傷、胃腸心臓何にでも効く上に、B川は螢の名所で鮎の名所。「是非御一泊なさい。こんな大きさの」――こゝで大将、両手を二尺ばかりひろげて見せた――「鮎があります。A駅からは乗合が出ます。今からだと貸切になりますが、私が話して、やすくさせましょう。」
やがて二人は五人乗のフォードに楽々と乗って、平坦な道路を走っていた。B川にぶつかって左へ。一軒の百姓家の前でとまると、こゝからはもう自動車が行きませんという訳。ルックサックを肩に、クリンケルだか、トリコニだかで馬糞を踏んで、間もなく大きな一軒家の前に立った。玄関、右手が台所、左手は庭で、長い縁側と部屋が五つか六つ。二階はあったか無かったか忘れて了った。今晩は!一晩とめて下さい。というと、女中が出て来てどうぞこちらへと、縁側をトントン歩いて一番すみの部屋の障子をあけた。我々は庭からその部屋へ。
とりあえず生温い、綺麗なんだかきたないんだか暗くって判らない風呂に入って部屋へ帰ると、庭とは反対の方の障子があいて、十七八の娘さんが現れた。御飯は?まだです。お酒は? のみます。何本? さァ、二本位。さっと引き下ったあとで――「君、とても、ヒナマレだね。」「いゝですね。」「あのヒナマレのお酌で鮎の塩焼か。悪くないな。S山なんぞよして、明日一日ここにいようか。」「駄目ですよ。そんなことを云い出しちゃあ。」
間もなくさっきのヒナマレ――鄙には稀なるの意味である――が朱塗のお膳を二つ運んで来た。玉子焼、湯葉と高野豆腐、その他いろいろといった処で二皿位だが……「あの、鮎はとれませんか。」「とれますけどお客様がないと腐りますから――。泥鰌でよければ……」「へー。」「今お酒を持って参ります。」トントントン。トントン。ガタリコトンと障子があいて美しい娘さんが、二合はたっぷり入る徳利を二本。あとからさっきの女中がお櫃。「ごゆるりとお上り」で、二人とも行って了った。
部屋の中では我々二人、しばらく顔を見合わせて黙っていた。とりつく島もないじゃありませんか。
その夜は固い布団二枚の間に身をよこたえ――かけ布団が身体を中軸にシーソーをしていたっけ――あくる朝早く、赤ン坊の頭位ある握り飯を二つずつ貰って御勘定一人前八十銭。素敵な勢でS山の岩をはい上ったことはいう迄もなし。
その後、「一泊旅行をしたいが金が無い」という人があるたびには、私はS温泉へ行きたまえ、夏なら河鹿、鮎、螢。秋は紅葉に松たけ、しめじ。冬は知らないが温泉は万病に効いて一泊八十銭。「しかも君、すごい美人がいてね……フヽヽ。」と話して聞かせる。たいていの奴は、この「フヽヽ」を変な意味に解釈して「お安くないぜ。そんな処へは断然行かぬ。」というが、こっちにとってはそれが幸い。人を莫迦にしやがってとか何とか、あとで怒られたり撲られたりしないで済むから。
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柚子がだんだん大きくなって、酒がうまくなる。酒はどうしても秋から冬にかけてである。ことに宵、あたりの沈黙を聴きながら、ゆっくりと、ほんの一合か二合。
蚊帳をつるのをやめた夜、暁近くの肩のあたりに寒さを覚えて、戸棚から出す小掻巻に、かび臭いような、古めかしい香が、ほんのりとまとわりついているのは、いゝものである。かゝる朝は朝顔の花が、殊に小さく、数知れず咲く。
余程前のこと――
ボストンの北に当るセーラムで、このセーラムが生んだ最も有名なる人物、ナザニエル・ホーソンの孫という老婦人を訪れたことがある。九月の末の、月のいゝ晩であった。
お婆さんは、ミセス何とか言ったが忘れて了った。忘れたといえば、このお婆さんがホーソンの孫だったか、従兄弟の孫だったか、それも覚えていない。甚だ「頼りない」話だが、それは要するにどうでもいゝので、私が覚えているのは、お婆さんがもう九十いくつかで、ブリキのラウドスピーカーみたいな物を耳に当てゝは、私の喋舌る覚束無い英語を聞いたことゝ、その晩恰もその家に遊びに来ていた、マーガレット何とかいう、隣の家の娘のことである。
一通り話が済むとお婆さんが、私の庭は荒れているが、ナザニエル・ホーソンが遊びに来たことがある庭だから、見たらどうだ。マーガレット、お前御案内おしなさい。と云った。
マーガレットは、すこぶる気軽に立ち上った。十六か七位だろう。すらりとした娘で、「カム・オン!」とか何とか云って、ポーチの階段を下りて行く。――月がいゝので、私どもは部屋に入らず、東南に面したポーチに坐っていたのである。
ポーチを下りると石を敷いた路が、家に添って裏の庭に通じている。その庭は、どの位の広さがあるのか、また何が植えてあるのか、陰影が多くて判らない。南瓜の大きな葉に、露がキラキラ輝いていた。
マーガレットは靴のさきで南瓜の葉の下をかき廻していたが、やがてしゃがんで、大きな林檎を一つひろった。「これはこの林檎の樹」――なる程南瓜のまん中に林檎の木が立っている――「から落ちたので……おゝ冷たい。露で冷えている。」こう云いながら、カリッと音を立てゝ林檎を噛った。―― Have a bite !
さし出した林檎を、私も一口噛って見た。冷たかった。
話はそれ丈だが、考えて見ると呑気なものである。生れて初めて逢った日本人を、陰影の多い裏庭に案内して、おまけに自分の噛った林檎を噛らせるのだから。
信州の友人から、しょっ中、山の便りがある。春は雪が解けたと云って来る。夏は登山者が多いと云って来る。冬は炬燵に入ってこの手紙を書くと云って来る。その、いずれの時節の便りにも私は心を引かれ、山を思うのであるが、一番誘惑の強いのは秋の便りである。――霜が降りた。白樺の葉が黄色くなった。梅擬の枝を山からとって来た。そろそろ鳥焼きが始る。昨日は落葉松の林で時雨を聴いた。青木湖の水がますます澄んで行く。――かゝる文句に接するごとに、私は鼻の穴を大きくして、――甚だ芸術的でない、妙な言葉だが――馬が若草の香を嗅ぐように、北安曇高原の秋の空気を嗅ごうとする。私の目には、鋼鉄のように光る空と、その空にクッキリ、アウトラインを見せる山々とが見える。長い、暑い、忙しい夏に疲れ切った心は、今晩にでも大阪を立って信州へ行こうと思う、だが、いつも金がないか、時間がないか、あるいは両方が無いかして、その儘になる。私は仕方がないから酒をのむ。「秋の高原」なる、素晴らしい随筆が、いつ迄も世の光を見ずにいることを自ら惜しみ、訳の分らぬことを云いながら寝て了う。
四五年前の秋、スコットランドのアクレイ湖畔で摘んだヘザアの花、小さな額ぶちに入れて置いたが、いつか忘れていた。四五日前、ふと思い出した戸棚をさがしたら、硝子が割れて、只さえ乾いた花や葉は、ボロボロになっていた。この次、思い出して見る時には恐らく鼠が喰っちまっていることであろう。なまなましい心の痛手も
秋といっても十一月。スコットランドは冬が長い。ストーヴのそばを離れると寒くてやり切れぬような季節である。
朝、九時近くなってトロサックス・ホテルの人気の無いヴェランダに立った私は、まっ向から照りつける太陽に、いさゝか面喰ったが、ズラリと並んだ籐椅子の一つに腰を下してシガレットに火をつけると同時に、太陽の光が極めて強いのに似合わず、空気は霜を含んで恐ろしく寒いのに気がついた。と見る、ヴェランダからだらだらと傾斜した芝生。芝生に接してコンクリートの大道、それから長い草の原がちょっと見えて、あとは一面に乳白色の霧である。霧の上に岩と、茶褐色の草とに掩われた山巓が浮き上るのは、恐らくベン・ベニュウであろう。
前の晩、暗くなってから着いたのだから、実は何が何やら判らぬ筈ではあるが、旅に馴れた身の、ベッドの中でトロサックスの地図を開いて、いさゝかあたりの地理を調べて見た。それによると、この乳白色の濃霧は、アクレイ湖の上に漂っているのに相違ない。九時半、十時、十時半と、太陽が昇るに従って霧が散り、やがて美しい秋晴れになるのであろう。だが、あの、往来の向うの草の中で動いているのは、一体何だろう?
両手を上衣のポケットにつっこんだ儘、私はヴェランダを下りた。芝生を横切って道路に出る。もう靴は露で濡れている。道路の向うの原には……足を踏み込む気がしなかった。長い、膝位までは充分ありそうな、枯れた羊歯に露と、それから針の様な霜とが一面に着いている。見る見る霧は上って行く。恰度大きな毛布を巻くような有様である。突然ガサッと音がして、私の前に立ち現われたのは、一匹の羊であった。長い、黒い毛。ふくふくと太って、顔がむやみに小さく見える。その小さい顔を曲げて、しばらくは私とにらめっこである。
Baa, baa, black sheep,
Have you any wool ?
あんまりいつ迄も私の顔を見るので、すこし顔負けして、いきなり私はこう云ってやった。羊は吃驚したらしく、ちょっと首を振ったが、ガサリと草を分けて霧の中にかくれた。Have you any wool ?
それから三十分ばかり、私は湖畔の路を歩いた。いたるところ、ヘザアの花の盛りである。二三本摘んで手帳にはさむ。いつの間にか霧はすっかり上って、アクレイ湖にさゞなみも立たぬ美しい日になった。
――考えて見ると、あれが大正十一年の秋だから、この秋でまる四年になる。忘れるにしては早すぎるようだが、私の記憶には大分黴が生えた。
二三日前の朝、今年はじめての百舌の声を聞いた。珍らしく早く起きて、と云っても七時頃、ねまきのまゝで新聞を読んでいると、ギー、ジュルジュル!という声。
私は新聞を持ったまゝ、あけ放した窓の所に行って見た。するとすぐ前の電線に、肩をいからし、胸を張って、ギー、キーン!と威張っている鳥、バックは澄んだ空と、松の丘である。前にひらける景色は、私の家と、はるか向うの山である。若い勇士が得意になるのも当然ではあるまいか。
私は大きなアームチェアにポコンと埋って、大人しくパンを噛っている子供を抱き上げた。子供は抱いて貰った嬉しさに、足をバタバタさせて笑った。
「陽ちゃん、あれを御覧!」
子供は窓わくに立って、私の指さす方を見た。電線にとまる鳥の姿は、すぐ彼女の目に映じた。パンをつかんだまゝ、右手をのばして百舌を指さす。目を見張って、一挙一動を見守る。
見物人があると知ったからでもあるまいが、百舌は盛んに高い声を出した。子供はパンを忘れて見詰めた。
突然、パッと百舌は飛び立った。私の家の屋根を越して西北の方へ。あとには電線が空で揺れた。
子供はほっとしたように私の顔を見て、「にゃいにゃ、にゃいにゃ。」と云った。無くなったの意味である。
「あゝ、どこかへ行って了ったね。」――私は彼女をもとのアームチェアに下しながら云った。
去年の夏生れた私の長女が、初めて、意識して聞いた秋の声と、意識して見た秋の姿は、実にこの百舌である。やがて生長して行く彼女にとって、秋が悲しいものになるか、うれしいものになるか。私はしばらく、新聞も読まずに彼女を見た。もう百舌のことなぞは忘れて了ったらしく、私の方にパンを差し出して、しきりに「あん、あん、あん」とうなづいている。私に呉れるというのである。
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お父さんは××会社の重役、お嬢さんは××学園の二年生、北信××温泉の裏山へ、スキーをやりに来た。お父さんは数年来スキーに親しんでいるそうだが、お嬢さんはこれが最初である。
こゝで一寸、この××温泉のスキー場を説明したい。手取早くいえば、Vの字に、もう一つサイドをつけた形なのである。即ち温泉宿のある所から、急な坂を登って行くと、なだらかな斜面が目の下を下って行き、斜面の底部からは、自分の立っている所と相向って急な斜面が、かなりな高さでかゝっている。この二つの斜平面と交るのが右側の斜面で、こいつは恐しく急であり、シャンツェが出来ている。これで三つの側が出来た。残る一つの側は小さな谷口にひらけ、なだらかで狭い路がついている。
地形がこのようになっている以上、スキーをする人達が巧拙に依って各々その斜面を選ぶのは理の当然である。即ち最も上手な青年達は、シャンツェのある側へ行き、それ程でない人達は向う側の斜面で滑ったり止ったりし、一番下手な我々は、こちら側の斜面をころびながら上下し、より下手な連中はまるで斜面にさしかゝらず、その上の、平坦な場所で、立ったり坐ったりするのであった。
坂の上までたどりついたお嬢さんは、器用にスキーをはいた。恐らく東京で練習して来たのであろう。お父さんは先ずお嬢さんの写真をうつした。そして、写真機を革の箱に仕舞い込むと、
「さあ、[#「「さあ、」は底本では「 「さあ、」]杖をこう持って、グンと押して御覧!」といゝながら、ズルズルと、かなり固く踏まれた雪の上を滑って行った。お父さんはもう会社の小使さんにやってもいゝような外套を着、狐の毛皮を首にまいた上に、絵葉書型のコダックを肩にかけ、外套の裾から長靴下を出している。どうもスキーに来た重役というよりも、兵営建築用の材木を見に来た陸軍御用商人といった形である。それはとにかく、二三間滑ったかと思うと、ドサリと倒れて了った。
お嬢さんはほがらかな声を立てゝ笑った。
お父さんは雪まみれになって呶鳴った――「笑う人がありますか、スキーは三千遍ころばなくっちゃ上手になれないのだ。何より先に、ころびようと起きようとを練習しなくてはならぬ。起きる時には足をこう揃えて……」というのだが、外套の裾や狐の皮やコダックが邪魔をして、中々起きることが出来ない。お嬢さんは、
「パパ。だって……だって……」といゝながら、雪眼鏡を外して涙を拭う程笑った。
やっと起き上ったお父さんは、旧式な八字鬚のさきに雪をつけたまゝ、「さあ××ちゃん、こゝ迄来て御覧!」といった。
お嬢さんは僕達が見ているので幾分てれたようだったが、それでも勇敢に両脚をそろえてズルズルと滑った。そして、一間ばかり行った所で、ヘタと雪の中に坐って了った。そこは雪がやわらかかった。お父さんは盛んに「スキーを揃えて、膝をおなかに引きよせて……」と教えるが、中々そううまくは行かぬ。お嬢さんはニッカースもスウェッターもまっ白にした。まだ起きられぬ。いくら××学園で無邪気だとはいえ、もう十六七になるのだから、知らぬ男の前で雪の上をころがるのは、いゝ加減恥しいであろう。僕達は二人をそこに残したまゝ、青年達が飛ぶのを見るために、斜面の中程まで下りて行った。
その日の晩方、チラチラと粉雪が降って来たので、もう帰ろうかなと、二三人で谷底から上って来ると、上からお嬢さんが滑って来た。大分しっかりしている。底部まで行ってバタンと横に倒れた。スキーを揃え、うまく起き上った。僕達はお嬢さんが上って来るのを待って、一緒に上まで行った。もう誰もいない平坦地には、お父さんが水っぱなをたらして待っていた。お嬢さんはその横まで行って、「パパ、今度は下まで倒れずに行けたわよ」と、如何にもうれしそうに叫んだ。お嬢さんの赤くほてった頬が、白い雪と、白いスウェッターと、白い帽子とに、可愛らしく輝いた。お父さんは、僕達がいなかったら、その頬っぺたにキスしたかも知れぬ。
その翌日、僕達は、僕達だけで温泉宿の裏山へ行ったが、翌々日、僕だけ午後の汽車で発つので、そろって、例のスキー場へ行って見た。丁度お昼前で、あまり人がいない。坂を登りきると、例の平坦地に、あのお父さんが一人で立っている。不相変長外套、鳥打帽子、狐の毛皮といういで立ちだが、写真機はもっていなかった。
僕達の仲間で、このお父さんをよく知っているのが、
「××さん、今日は。お嬢さんは?」というと、
「それが君、どこかへ行って了ったんですよ」という返事である。どこかといっても手前の斜面は一目で見下ろせる、真正面のは急すぎる。さりとてスキーをはいて三日目のお嬢さんが、ジャムプをやりに、右側の急斜面を登る筈はない。左の方の谷へまぎれ込んだとすれば、あすこには川があり、若し落ちでもすれば大変である。僕達は一寸緊張した。お父さんを知っている友人は、すぐさま斜面を滑り下り、左へ曲って谷へ姿を消した。
僕は雪眼鏡を外した。キラキラして目が痛い。出来るだけしかめっ面をして、真向うの斜面を見上げ見下しすると、はるか上の方を、えらい勢で滑り下りる人がいる。その辺は段々になっているので、見えたり見えなかったりするが、どうもお嬢さんらしい。白いスウェッターの襟から、下に着た赤いスウェッターがチラリと見えている。
素敵な勢で滑って来たお嬢さんは、段の一つに来て、ザラザラと転げ落ちた。左の方にはジグザグな路がある。お嬢さんは、恐らくそこを登って行ったのであろうが、コントロールを失っているから、どこでも構わず滑り落ちるのであろう。
「××さん、お嬢さんはあすこにいますよ」僕の指さす方向を、これもしかめっ面をして眺めたお父さんは、
「や、や、大変な所へ行ったもんだ。仕方のない子だ」といゝながら、滑り出そうとしたが、考えなおしたと見えて、
「大丈夫でしょうな、大丈夫なら見ていましょう」といった。
お嬢さんが、無事に段々の箇所を通りぬけた時、我々は底まで滑って行った。丁度左手の谷をさがしに行った男も帰って来たので我々四人、上を向いていると、ヒョッコリ、上の棚みたいな所にお嬢さんが身体を出した。
「ヨホー!」と叫ぶとお嬢さんは片方の杖を大きく振って、勇敢に滑り始めた。ころぶ、起き上る、ヒョロける、ころぶ、滑る。そして間もなく、帽子も雪眼鏡もふっ飛ばした雪達摩みたいなお嬢さんが我々の横に立った。
「お前は一体何て真似をする。お父さんに心配かけて!」お父さんは水っぱなをすゝりながらいった。お嬢さんは、それに構わず、
「パパ、お腹で雪がとけて冷たいわよ」といった。
その日の晩方、暮れて行く千曲川にそって走る汽車の中で僕は四日前の晩、スキーを背負い出す僕を玄関まで送った娘のことを思い続けた。彼女はピョンピョン跳ねながら、
「お父ちゃん、お弁当持ってスキーに行くのね。陽ちゃんも学校に入ったら、お弁当持ってお父ちゃんとスキーに行くのよ」と、繰り返していったものである。僕はこの陽子をつれてスキーに行く僕自身と、××さんとを思いくらべた。
陽子があのお嬢さん位になる時には、僕は五十近くになっている。僕も狐の毛皮を首にまくか知ら……と思ったら、腹の底から笑がこみ上げて来て、何とも始末が悪いことであった。
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何というあたゝかさだ。このまゝ春になって了うのだろうか。そして、もう十一時だというのに、どこの子供だ、往来で騒いでいるのは。あたゝかい晩には火の番の拍子木の音があまり聞えないから妙だ。
今日会社では、参観に来た一群の女学生が階段をあがって来るのを見て、ませた給仕が二人、ゲラゲラ笑いながら廊下でつきとばしっこをしていた。春なんだ、テニソンがいった「若者の幻想がやわらかく恋の思いに向いて行く」春なんだ。蛙が繁殖作用をいとなみ、オホイヌフグリ――変な名である――が瑠璃色の花を咲かせ、中学二年生の額ににきびの出来る春なんだ。僕も今日は終日、頭の中で歌をうたっていた。ヴァレンシヤ、ラモナ、バルセロナ。だが三十五になると、春の幻想も恋の思い出には向いて行かぬ。もう駄目だ。
信州にいる僕の親友、三十七になるのが、このお正月スキーに行った時、いったことがある―「つくづく駄目だと思う。毎朝新聞を読んでいるが、強盗、掏摸、喧嘩、殺人、なぐり込み、すべて三面に出ている奴等の年令を見ると、みんな僕より年下だ。たまに年上のがあるかと思うと、せいぜい詐欺だ。僕なんぞこんな山の中にいて、善いことも悪いことも何もしないで老人になって了うんだ」と。その時は笑ったが、三十五、六、七という年令は、まったく憂鬱を感じさせる。気は若いが、山登りをしても、スキーをしても夜更しをしても、酒を飲んでも、すぐ参る。四十になったら仕事にばかり夢中になることも出来よう。だが、僕等の年令は中途半端だ。二月の末に春めけば、バルセロナを歌う若さの残りと、何ひとつやらずに死んで了うに違いないという、妙な暗示の始まりとが、こんがらかっているんだから。
ピータア・パンには「二つのエンドのビギニングである」という文句がある。が、本当の終末の端緒は三十五だ。
蛙の繁殖作用は、浅間しいの凄じいのというのを通り越して、むしろサブライムである。僕は子供の時、四谷の家から永田町の幼稚園へ行っていたので、毎朝清水谷公園の前を通ったが、あすこの大きな溝が、春になると、蛙の死骸で一杯になった。
二三年前の六月上旬、信州から越中へ山を越えた時、一日黒部川の平で遊んだ。岩魚を釣りに、左岸の岩を伝わって行くと、とある岩の水たまりに蛙が沢山いて、例のいとなみをやっていた。こんな山の中でさえもと、蛙という動物が平素人間に近く住んでいるものであるだけに、変な気持がした。
南米には助産蛙というのがいる。雌が産卵する時、雄は上から押したり、腹をさすったりして、それを助ける。「妻君がお産をする時、亭主が安居酒屋へビールを飲みに行ったりする人間よりも、余程感心ではありませんか」――これは動物学教授が講義の中にはさむユーモアの一例である。
こう暖かくては雪もとけるだろう。いよいよスキーも駄目になる。僕等のようにスキーが好きで、而も一年に一度か二度しかスキーに行けぬ都会の勤め人は、どうしてもスキーの道具をいじったり、ビンディングの優劣を考えたりばかりするようになる。従ってセオリストになり、道具オンチになるが、これはやむを得ない。
赤城山のシャンツェで、諾威の選手や日本の選手が、秩父、高松両殿下にジャンプをお目にかけた時、ある新聞が「アプローチ君八十米を飛ぶ」という見出しで記事を載せた。日本人の名前にはさまって、ヘルセット、スネルスルード、コルテルード等の外国名が入って来るのだから、アプローチを外国選手の名前と考えたのであろうが、これはいさゝか世界記録的の間違いである。アプローチとは出発点から飛び台の踏切りまでをいうので、この長さが増せば飛ぶ時のはずみも増すから、飛跳距離も大きくなる。赤城の記事は三回飛んだ最後に、アプローチを八十米にしたら、A選手三十何米、B選手四十何米というのであった。この新聞の編輯者はそこを間違えたのである。
だが、如何にも間違えそうな間違いである。かく申す僕なんぞも、偶然このテクニカル・タームを知っていたから、こんなこともいえるが、専門以外のことは、どんな間違いをしているか判ったものでない。
春のスキーは素敵にいゝらしい。今年は何とかして経験したいと思っている。あたゝかい日に、半裸体ですべり、疲れたら緑の草原にねころがって休む――なんていうのは、実に理想的である。ヘンリー・ヘックの「雪・太陽・スキー」には、そんな写真が沢山入っている。晴れた夜の星みたいにクローカスが咲いている所の写真もある。この本はいゝ本だ。
一月六日の夜、信州の大町から二里ばかり北の、国道に添った山の中のヒュッテに泊った時の経験は、容易に消え去らぬ印象を僕に与えた。
元来この小屋はスキー客のために建てたのであるが、山中ではあり、温泉は無し、東京から出かけて行く人なんぞ丸でなく、却って国道を通行する人の避難小屋として、主な存在理由を持っているのである。
あれは八時頃だったろうか。猛烈な吹雪で屋根も飛びそうな最中、突然戸があいて、雪まみれの男がよろめき入った。この小屋から更に一里あまり北にある一寒村の青年で、大町へ買物に行った荷馬車と一緒に来たのだが、吹雪のために馬がとまって了い、蝋燭も燃えつくした。蝋燭があるなら売って貰いたいというのである。小屋には蝋燭が無かったが、私のルックサックにはフォールディング・ランタンと一緒に数本の蝋燭が入っていた。それを二三本出すと、彼は銭を払うといったが、そんな詰らん心配はするなという訳で、彼――小屋番の話では兵隊から帰ったばかりで村の青年団長をしているそうである。どうりで言葉つき等もはっきりしていた。――は持ってきた提灯に火をつけ、吹雪の中ですくんでいる馬子と馬と車との所へ引きかえした。しばらくすると今度は村から、帰りつかぬ荷馬車を案じて三人の男がやって来た。これこれと話すると、それで一安心、先ずこゝで待とうと、落葉松の薪をどんどん焚くストーヴをかこんで、所謂四方山の話だ。僕は固い布団の中から、スウェッターを頸にまいた頭だけ出して、半分ウトウトしながら話を聞いていたが、何でも年内に婚礼があるので村中でその準備をしていると、急病人が出来て死んだ。村中が今度はそっちの方の手伝いで忙殺され、婚礼は日延になった。所が連日の大雪で、大町から来る筈の坊さまがやって来ない。待つのは一向かまわぬが、掘った墓穴が雪で埋り、何度も何度も雪をかき出している。この荷馬車も、実は葬式と婚礼との両方に使用する品を買いに行く序に、坊さまも呼びに行ったのだが、この吹雪ではとても坊さまは来まい。墓はまた埋ったろう。……僕達がねている頭の上で、彼等は遠慮会釈もない大声を出した。殊にさっきの青年と、馬子とが辿りつくと、話は余計盛んになった。が、僕は一向気にかけなかった。
一週間ばかり前に、この小屋の番人が蕎麦粉を送ってくれた。婚礼と葬式とがかち合ったあの寒村は、蕎麦の名産地なのである。買ったのか貰ったのか、手紙には只「手に入れましたから」と書いてあったが、三十五才のロマンティストなる僕は、この蕎麦粉が、あの吹雪の夜の蝋燭に対するお礼として、あの村の人々から贈られたものゝような気がしてならぬ。
帰りのバスに、とても変な洋装の女性がのっていた。派手なので、こんでいる間は若い人だろうと思っていたが、麹町六丁目で急にすいて、後の座席から僕のすぐ前へ坐り直した――それもよろけて、短いスカートの下から膝の上の肉を出した。――のを見ると、どうしても四十は越している。
洋服は粋であった。靴下は肉色の絹であった。帽子は深いトークであった。四十を越していなければ、それから頸にフワフワな、寒冷紗みたいな絹の布をまいていなければ、―― tulle だろうって?
御冗談でしょう、あれは安芸者が、白粉の衿につくのをふせぐ為に使うもので、夜店へ行けば廿銭位で売っています。――そして御同伴の紳士に、あゝ迄ペチャペチャ、表情たっぷりで話さなければ、あたゝかい晩だ、あるいは彼女、僕の幻想を「やわらかく恋の思いに向けた」かも知れない。その時も僕は頭の中で「バールセロナの、乙女子よ、来ませずや我が胸に!」と歌っていたのだから……。
日曜と、病気でねている時とを除いて、一週間に十二回、僕は大木戸と有楽町の間をバスで通行する。市営、青バス両方の回数券を持っていて、さきへ来た方に乗るのだが、青バスには築地行があるので、同じ三円の回数券でも、自然市営バスの切符の方が早くなくなる。
僕は孔子様みたいに品行方正だが、それでも一週間に十二回乗るバスの車掌に、全然無関心ではあり得ない。往きには築地行のバスにばかり、復りには渋谷行のバスの方に、美しい車掌が乗っているような気がする。これはヒューマン・ネーチュアだ。
暖かになって一番有難いのは、二重廻しを着る人のへることである。二重廻しはパクパクして、公共の乗物に着て入るべき品ではない。坐れば両方にひろがる。その上に腰をかけると、たいていの人は怒る。立っていれば坐っている者の鼻さきを、袖が撫でる。元来和服、下駄等は、ひとりでブラブラなり、シャナリシャナリなり、往来を歩くには適しているだろうが、多数の人が乗る電車やバスに着て乗っては、他人は迷惑であり、当人にとっては危険である。
女車掌に無関心であり得ぬ僕は、同様に運転手に無関心であり得ぬ。幸にして今迄一度も僕の自動車が衝突したり、人を轢いたりしたことが無いから、そんな風に心配を抱きはしないが、万一運転中の運転手が、突然目をまわしたり、心臓麻痺を起したりしたら、どんなことになるだろうとは、しょっ中考えている。
いう迄でもないが新宿から行くと、麹町三丁目から傾斜して半蔵門にいたり、あすこを直角に曲ると三宅坂まで、かなり急な坂である。麹町三丁目あたりでウンといったら、果してどうなるだろう。更に半蔵門を曲った所でそんな事変が起ったら、バスよ、汝は何処へ行く? である。乗客中に自動車の操縦を知っている人があれば無事である。車掌がかゝるエマージェンシイに処する知識を持っていれば、これは結構である。さもなくば大変な結果になるにきまっている。こんな事を考えているので、数日前夢を見た。僕がバスのハンドルを握って、文字通り夢中でそれを廻しているのである。ハンドルを右へ廻せば車体も右へ廻る。が、廻しきりでは理論上、車体は円を描いて了うから、一度方向が変ったら、すぐ元へもどさねばならぬ。これは僕も知っていた。然し止めようを知らぬ。右の方に二三本出ている棒を、いくら押しても引張っても、何のききめも無い。仕方がないから運を天にまかせて、あのお堀ばたの坂を突破し、電車の線路がY字形になっている所で桜田門の方へ行かず、まっすぐに参謀本部の裏口の坂へのし上げた。するとバスはうまく止ったが、止ると同時に逆行しはじめた。こいつはいけないと思う途端に目が覚めた。
紐育の地下鉄道――恐らく他の都市のもそうであろうが――は、運転手に万一のことが起る場合、直ちに自動停車をするようになっている。何でも運転手は制動機のハンドルを常に押えつけているので、この力がゆるむと電流が切れ、従って電車は停車するとのことである。これは僕が紐育にいた時、ひどい事故が起り、その時新聞に出ていた話なのであるが、すべての地下鉄道、路面電車、電気機関車が、そんな仕掛になっているのかどうか、僕は知らぬ。事実そうであるとしても、僕は当然だと思う。
紐育にいた時に起った、一番面白い事件は、エレヴェーター・ボーイ達のストライキであった。彼等にもユニオンとノンユニオンとがあり、従って紐育中のエレヴェーターがとまって了ったのではないが、所謂ダウンタウンの何十階という建物のが動かなくなったには、閉口した人が多かった。十階、二十階と口でいえば何でもないが、余程の登山家ならばとにかく、普通のビジネスマンに取っては、エッサエッサ登って行くことは、容易ではない。
その時の噂によると、ストライキを起したくても、口実を持たぬオペレータア達は、一策を案じ、その一人の、ウルウオース・ビルディングだかに勤めていたのが、婦人の客に乱暴を働いた。表面的には婦人天下の米国のことだから、この乱暴というのも、あるいは客の前で「ダム」とか、「ヘル」とかいった程度なのかも知れない。あるいはもっと、すくなくとも男として得をした程度の乱暴だったかも知れぬ。何にしても婦人は大きに怒り、地階に達するや否や巡査にこれを訴えた。その結果、この男は首になり、彼に同情してストライキが始ったとのことであった。この話、あるいはストライキ・ブレーカア達の悪宣伝かも知れぬが、中々面白い。
エドワード・エス・モース氏は明治十年から十六年にわたって、三度日本を訪れた生物学者で、同時に陶器の蒐集をした人であるが、同氏の著述「ジャパン・デー・バイ・デー」を読むと、日本人はみな正直で、杉憲や説教強盗はまるでいないようなことが書いてある。如何に太陽の黒点が活躍しなかった頃とはいえ、これ程日本がよかっとも[#「よかっとも」はママ]思われない。日本が好きで、万事に同情を持って日本を見たから、このようなことに成ったのであろう。何にしてもうれしい話である。
日本人で外国へ行き、一から十まで外国をいゝと思う人とまるで外国をけなす人と、両方ある。が、それ等のどちらもが一致するのは、外国、殊に米国の辻便所その他に、楽書が無いということである。
僕の経験によっても、それは事実だ。便所の壁が、多くはツルツルしたタイル張りで、楽書が出来ぬというのも事実である。
ペンシルヴェニア鉄道でニュー・ジャーシイの首府トレントンへ行くと、この都のはずれに短いトンネルがあるが、そのトンネルの内部の楽書は、ひどく猥雑なものである。楽書は勿論他所にも沢山あるが、こゝは日本の旅行家が通るところだから、一例としてあげる。もっとも今は消したかも知れない。
ある倶楽部で聞いた話――。東京の社交界、ことにダンス場や高級な西洋料理屋の常連から、クイーンと呼ばれていた若夫人が、三度目兼最後に働いた不義の相手は、活動写真の監督だか俳優だかであった。三度目が最後になったというのは、旦那様に見つかって離縁になったからである。それはとにかく、男との最初のランデヴーに横浜へ出かけた夫人は、二千円をバッグへ入れて持って行った。監督だか俳優だかが、これは有難いと思っていると、横浜へ着くなり夫人は自動車をとても贅沢な店へ乗りつけ、目を廻している男の前で、一千円のファーコートを買った。千円や二千円のファーコートはざらにある。目を廻した男も男だが、やがて事実を知って、夫人を実家にかえした旦那様が、夫人の居間や寝室の戸棚を調べると、驚くなかれ税金たった一万円ではないが、洋服が百二十五着、帽子が八十七個、靴が七十八足、靴下が三十ダース(この数字はもちろん正確ではない、いく分大袈裟だろうと思う)という始末である。旦那様は見るも目のけがれとばかりそれを全部夫人の実家へ送りとゞけたが、汝ふたたびこれ等の綺羅を飾り、世人を迷わすことなきようにと、洋服、帽子、靴下には鋏で、靴は斧で、一寸きざみ五分きざみにしてから風呂敷に包んだという。支那にも衣類を裂いたり、小刀で穴をあけたりした男があった。この旦那様も、多少はそんな感でこれを行ったかも知れぬが、何にしても豪勇な話である。
ある席で「キング・オブ・キングス」といったら、居合わせた一人が「君、あれは本当にいゝのかい」といゝ、他の一人は「あいつは、値段の割にうまくないや」といった。僕は映画の話をしかけていたのである。これだから話が面倒になるが、映画「キング・オブ・キングス」は、恐しく大がかりで、そして、同名のウィスキーみたいに、値段の割にうまくなく、同名の薬みたいに、本当にいゝのかどうか判らぬ。よしんば本当にいゝにしても、いさゝか「大がかりさ」に圧迫された気味である。
これの試写を見ていて僕は、しきりにオーバアマガウの受難劇を思った。あれは純真であり素朴である。中央の舞台の左右の翼には、本当の窓が明いていて、そこからは初夏の丘が見え燕が出たり入ったりした。僕はまた外国へ行き度くなって来た。考えると、二度目の外遊を終えて帰ってから、まる六年になる。何も外国がいゝとは思わぬが、バイエルンの初夏や、スコットランドの晩秋には、忘れられぬことが多い。スカンジナヴィヤやスペインはまだ知らぬ。だがその時と違って、今では家庭を持ち、今度の所得税は子供三人いるから三百円控除して貰えるぞ、なんて思っている僕である。これでは行ったとこで、暑さ寒さにつけて子供のことを心配し、神経衰弱になるかも知れない。
まだ二月の末なのに、何というあたゝかさだろう。このまゝ春になって了うのか知ら。それとも、また寒くなるのか知ら。とにかく今晩は、蚯蚓も鳴こうというあたゝかさだ。
子供の時には、こんな晩のあくる朝、きっと輜重兵第一大隊か、近衛四聯隊から喇叭が聞え、そして風がすこし強いと、喇叭と一緒に練兵場の砂ほこりが舞い込んで、二階の縁側がザラザラになったものである。中学時代には、こんな晩、テニソンの詩を読んで、「若者の幻想」云々にアンダー・ラインを引いた。高等学校時代には、ハイネの「すべての蕾がめぐむ時」を口吟みながら、我が胸の一隅に恋愛の種子をはぐくんだ。これでも僕は詩人だったのである。今だって、こう急にあたゝかい日が来れば、四五日さきの月末に支払う可き金や返すべき金のことはすっかり忘れて、幻想にふけりはする。だが如何にクレーヴン・ミックスチュアの紫煙に見入っても、それは、BAH! 要するに中途半端な、中年者の幻想に過ぎないのである。
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松本から信濃鉄道に乗って北へ向うこと一時間六分、西に鹿島槍の連峰、東には東山の山々を持つ大町は、安曇高原の中心として昔から静かに、ちんまりと栄えて来た町である。もちろん信州でも北方に位するので、雪は落葉松の葉がまだ黄金色に燃えている頃から、チラチラと降り始めるが、昨年(昭和二年)は概していうと雪の来ることが晩かった。が、来るべきものは来ずにはおかぬ。十二月二十三日の晩から本式に降り出して翌日も終日雪。その翌日、即ち二十五日の朝、信濃鉄道の電車は十一人の元気な若者たちを「信濃大町」の駅へ吐き出した。いずれもキリッとしたスキーの服装に、丈夫なスキーを携え、カンジキと、アイスアックスを持って、大きな荷物はトボガンにのせ、雪を冒して旅館対山館に向った。彼等の談笑の声は炬燵にかじりついていた町の人々の耳を打った。ああ、早稲田の学生さんたちが来ただ! 町の人々はこういって、うれしく思うのであった。こゝ三年間、毎年冬になると雪が降る、雪が降ると早稲田の学生さん達が大沢の小屋へスキーの練習に入る。で、今年が四度目。雪に閉じ込められ、暗い、淋しい幾月かを送る町の人々にとっては、この青年達が来ることが一種の興奮剤となり、かつ刺激となるのである。
◇
対山館のあがりかまちに積まれた荷物の質と量とは、山に馴れた大町の人々をも驚ろかす程であった。食糧、防寒具、薬品、修繕具その他……すべて過去における大沢小屋籠りと針ノ木付近の山岳のスキー登山とから来た尊い経験が、ともすれば危険を軽視しようとする年頃の彼等をして、あらゆる点に綿密な注意を払わしめた。人間は自己の体力と智力とのみをたよりに、兇暴なる自然のエレメントと対抗しようとする時、その準備についてのみでも、ある種の感激を持たずにはいられない。この感激が人を崇高にし、清白にする。この朝大町に着いた若い十一人はかくの如き感激を胸に秘めた幸福な人々であったのである。
◇
対山館の宿帳には左の如く記された。
近藤 正 二十四
渡辺 公平 二十一
河津 静重 二十一
山田 二郎 二十三
江口 新造 二十二
富田 英男 二十三
家村 貞治 二十三
上原 武夫 二 十
有田祥太郎 二十一
関 七郎 二十三
山本 勘二 二十二
渡辺 公平 二十一
河津 静重 二十一
山田 二郎 二十三
江口 新造 二十二
富田 英男 二十三
家村 貞治 二十三
上原 武夫 二 十
有田祥太郎 二十一
関 七郎 二十三
山本 勘二 二十二
この宿帳に早大山岳部員の名前が十一人そろったのはこれが最後である。年がかわって、宿帳に書き込まれた名も激増したが、そのどのページを繰っても、家村、上原、関、山本四氏の名は見あたらない!
◇
荷物を置いて身軽になった一行は、八日町の通りを東へ、東山の中腹にある大町公園へスキーの練習に出かけた。狭いけれども雪の質は申分ない。一同は心ゆくまですべるのであった。テレマーク、クリスチャニア、ジャンプ・ストップ……近藤リーダーは時おり注意を与えた。もっと右に体重をかけて! 腰はこういう風に曲るんだよ! 長い二本のスキーが、まるで身体の一部分みたいにいうことを聞いて、公園の処女雪には何百本もの見事なスプールが残された。
◇
大町の盆地をへだてた向うには籠川入りが吹雪の中で大きな口を黒くあけて待っていた。川に添って岩茸岩まで二里半、畠山の小屋まで三里、大沢の小屋まで五里、そこから夏でも三四時間はかかる針ノ木峠にさしかゝって頂上を極めると、右には針ノ木岳、左には蓮華岳……スキー登山の素晴らしいレコードをつくった去年のことを考えて、心の踊るのを禁じ得なかった人もあろう。
◇
その晩には信鉄沿線の有明村から案内者
◇
二十六日の朝九時頃、ガッチリと荷物を背負った一行は、例のトボガンをひっ張って、大町を立った。大和を入れた十二名に大町の案内者黒岩直吉ほか三人が加わり(この四人は畠山の小屋まで荷物を持って送って行ったのである)バラバラと降る雪の中を一列になってあるいて行った。見送る町の人々は彼等が一月の十日頃、まっ黒になって帰って来る姿を想像しながらも、年越の仕度に心は落ちつかなかった。
◇
十一人を送り出した大町は、またもとの静けさに帰った。霏々として降る雪の下で、人々は忙しく立ち働いた。二十七、二十八、二十九、三十日の夜は殊に忙しく、対山館の人々が床についたのは三十一日の二時を過ぎていた。家内では鼠も鳴かず、屋根では雪も滑らぬ四時過ぎ、雪まみれになった二つの姿が対山館の前まで辿り着いたのを知っている人は誰もなかった。
◇
二人は叫んだ、二人は戸を叩いた。「百瀬さん、百瀬さん、起きて下さい」――何度叫んだことであろう。何度叩いたことであろう。夜あけ前の、氷点下何度という風は、雪にまみれた二人を更に白くした。「百瀬さん、百瀬さん!」
◇
布団の中で百瀬慎太郎氏は目を醒ました。深いねむりに落ちていたのであるが、声を聞くと同時に何事かハッと胸を打つものがあったという。とび起きて大戸のくぐりを引あけると、まろび込んだのが大和由松、「どうした?」という間もなく近藤氏が入って来た。
「どうした?」「やられた!」
◇
遭難当時の状況は早大山岳部が詳細にわたって発表した。要するに大沢小屋に滞在して蓮華、針ノ木、スバリ等の山々に登る予定であったが、雪が降り続くので登山の見込みがつかず、僅かに小屋の外で練習をするにとゞまった。然るに三十日は、雪こそ多少降っていたが大した荒れではないので、すこし遠くへ出かけようと思って針ノ木の本谷を電光形に登って行った。そして十一時頃赤石沢の落ち口の下で(通称「ノド」という狭いところ、小屋から十町ばかり上)第五回目かのキック・ターンをしようとしている時(渡辺氏はすでにターンをおわり右に向っていた)リーダーの近藤氏が風のような音を聞いた。雪崩だな! と直感して、「来たぞ!」と叫ぶ間もなく、もう身体は雪につつまれていた。
◇
近藤氏の「来たぞ!」を聞いて最も敏感に雪崩を感じたのは恐らく山田氏であろう。反射運動的にしゃがんでスキーの締具を外そうとしたが、もうその時は雪に包まれ、コロコロところがって落ちていたという。
◇
何秒か何分かの時がたって、スバリ岳方面から二十町ばかりを落ちて来たらしい雪崩は、落ちつく処で落ちついた。十一人全部埋ったのであるが、河津、有田両氏は自分で出られる程の深さであったので直に起き上り、手や帽子の出ているのを目あてに、夢中で雪を掘って友人を救い出した。近藤氏は片手が雪面上に出ていたから自分で顔だけ出した所へ二人が来たので、俺はかまわないから他の人を早く掘れといった。そこで山田氏を掘り出す。近藤氏は山田氏に早く大和を呼んで来いといった。山田氏は凍傷を恐れ、ゲートルを両手に巻きつけて、雪の上を這って小屋まで行った。
◇
(雪崩れたばかりの雪の上は、とうていあるけるものではない。四つばいにならざるを得ない。自然両手は凍傷を起こす。山田氏がこの際それに気がついて、ゲートルを外して手に巻いたとは、何という沈着であろう。また、顔は出ているとはいえ、刻一刻としめつけ、凍りついて行く雪に身体の大部分を埋められながら「他の人からさきに掘れ」といった近藤氏のリーダーとしての責任感は、何と壮厳なものであろう。私はこの話を聞いて涙を流した。)
◇小屋では大和がゴンゾ(藁靴)をはいて薪を割っていたが、山田氏の話を聞いて非常に吃驚し、ゴンゾのまゝで飛び出しかけて気がつき、直ちにスキーにはきかえ、スコップを持って現場にかけつけた。そこでは山田氏を除く六人が狂人のように友人をさがしていたが、何せ最初に出た河津氏と、最後にスキーの両杖の革紐によって発掘された江口氏(人事不省になっていた)との間は三町余もあり、雪崩の巾も四十間というのでとうてい見当がつかない。一同は二時半頃一先ず現場を引上げて小屋に帰った。
(この日の午後、更に赤石沢から雪崩が来て、スバリの方から落ちて来た奴の上にかさなったという。これに加うるに雪は降り続く。死体捜査の困難さも察し得よう。)
◇とにかく一刻も早く急を大町に報ぜねばならぬ。そこで近藤氏と大和とは残っていたスキーをはいて三時半頃小屋を出た。夜半には大町に着く予定であったが、思いの外に雪が深く、斜面に来てもスキーをはいたまゝ膝の上までズブズブと埋ってしまうという始末。二人は無言のまゝラッセルしあいながら、おぼろな雪あかりをたよりに午前三時半頃野口着、駐在所に届けて大町へ、警察署へたちよってから対山館へ着いたのが四時過ぎであった。
◇
時刻が時刻だから、火の気というものは更にない。百瀬氏はとりあえず二人を食堂に招き入れて、ドンドンとストーヴに石炭を投げ込んだ。話を聞くと小屋に残して来た生存者六名中、江口氏は凍傷がひどいので心配だが、他の人々は大丈夫だ。埋った四人はとても助かるまい。が、掘り出すのは容易だろう。とにかく人夫を二十人至急に送ろうということになった。
◇
大町は電気で打たれたように驚いた。八千五百に余る老幼男女が、ひたすらに雪に埋った四名を救い出すことのみを思いつめた。こうなれば暮もない。正月もない。人は黎明の雪を踏んで右に左に飛び交った。警察署長は野口に捜査本部をうつし自ら出張、指揮をとった。署長の命で小笠原森林部長、丸山、遠藤両巡査が現場に向って出発した。対山館で集めた人夫十一人と、警察から出した二人とが先発した。慎太郎氏の弟、百瀬孝男氏は、その朝関から来た森田、二出川両氏と共に凍傷の薬、六人分の手袋、雪眼鏡等(いずれも近藤氏の注意によって)をルックサックに納めてスキーで出発。三十一日に大沢に入る筈の早大第二隊の森氏は大町に残り、近藤、百瀬両氏と共に百方に救援の電報を打つのであった。
◇
スキーで出た三人は四時半畠山着。あとから来る人夫たちの指揮を孝男氏に託し、両氏はひた走りに走って八時半大沢小屋に到着した。その時の有様は想像に難くない。同時に警察側の三氏、野口村の消防組六名も大沢に着いた。
◇
孝男氏は畠山小屋で待っていたが、大町の人夫が来たので八時出発、十一時に大沢小屋に着いた。非常な努力である。
一方大町には各方面から関係者が続々と集まって来た。長野県を代表して学務課長と保安課の人とが来る。深い哀愁にとざされて関氏の遺族が到着する。松本から島々を経て穂高岳に行く途中の鈴木、長谷川、四谷の三先輩は、急を聞いて三十一日晩大町にかけつけ、直に現場に向ったがその夜は野口一泊、翌日大沢小屋に着いた。
◇
あくれば昭和三年一月元旦である。空はうらゝかに晴れ渡り、餓鬼から白馬にいたる山々はその秀麗な姿をあらわした。町の人々は、然し、正月を祝うことも忘れていた。
◇
朝の空気をふるわせて、けたゝましい自動車の号笛が聞えた。松本から貸切りでとんで来た大島山岳部長の自動車である。対山館には「早大山岳部」なる札がはられた。いよいよ対山館が組織的に本部となったのである。
山では五十余名の人夫がスコップを揮って雪を掘った。雪崩の最下部から三十間の巾で五尺掘るのであるが、凍りついた雪のこととて、磐石の如く堅い。作業は思い通りに行かぬ。平村の消防組が三部協力してやったのである。大町の人夫は糧食その他の運搬や、炊事等につとめた。
◇
対山館では大島部長を中心に、遺族の人々がいろいろと発掘方法を考えた。鉄板を持って行って、その上で焚火をしたら雪がとけるだろうとの案も出た。ポンプで水をかけたらよかろうと考えた遺族もある。山の人々は同情の涙にむせびながら、それ等の方法の全然不可なるを説いた。雪はとけよう。だが、とけた雪は即刻凍ってしまう。現に、さぐりを入れるために数十本を作って現場に送った長さ二間の鉄のボートが、何の役にも立たぬというではないか。やっとのことで一尺ばかり雪の中に入れたと思うと、今度はもう抜き出すことが出来ぬという始末ではないか……。
◇
一日はかくて暮れ、晩には関で練習中のスキー部の連中が大町にかけつけた。二日からは大雪、それを冒して大町警察署長の一行が現場に向った。山本氏の令兄も行を同じくせられ、自らスコップを握って堅氷を掘って見られたが、何の甲斐もなかった。
発掘方法も相談の上変更し、深さ七尺ずつを三尺おきに溝みたいに掘って見たのである。然し掘る一方雪が降りつむ。スキーの尖端、靴の紐だに現れなかった。
◇
二日には近藤氏を除く六人の生存者が、無理に……まったく追い立てられるようにして、大沢の小屋を離れた。なき四人の体躯を自ら発見せねば、なんの顔あってか里に下ろうとの意気はかたかったが、なだめられ、すゝめられ、涙を流しながら、踏みかためられた雪をあるいて野口まで下り、そこから馬橇で大町へ向った。
如何なる困難に出あうとも、四人のなきがらをリカヴァーせねばおかぬとの志は火と燃えたが、たゝきつけ、圧しつけ、凍りついた雪は頑強にその抵抗を継続した。遺族の人々も現場に赴いて、まったく手の下しようのないことを知った。かくて三日、作業を中止するに至ったのである。後髪ひかれる思いとはこのことであろう。大沢から畠山、岩茸岩、野口と、長蛇の列は蜿々と続いた。そのあゆみは遅かった。
◇
三日の晩、遭難者中の四人が先ず帰京した。その状況は当時の新聞紙に詳しい。
◇
四日、関氏の遺族八名は籠川を遡って岩茸岩付近の河原まで行き、こゝで山に向って香華をささげた。感極まったのであろう、誰かの啜り泣きをきっかけに、一同はついに声をあげて泣いたという。
◇
五日朝、ドンヨリと曇った雪空の下を、関氏遺族一同は大町を引上げた。停車場まで送ったもの、百瀬孝男氏を初め、大和由松、大町の案内者玉作、茂一、直吉等。
続いて大島山岳部長が帰京。晩の七時三十分の電車では近藤、山田、富田三氏および他の部員全部が引上げた。ピーッという発車の笛は、人々の胸を打った。針の木峠の[#「針の木峠の」はママ]下、大沢小屋の附近に埋れている四人の胸にも、この笛の音は響いたことであろう。
◇
大町はもとの静けさにかえった。人々は炬燵にもぐりこんで、あれやこれやと早稲田の人々を惜しんだ。八日、九日、見事に晴渡った山々を仰いでは、あの美しい、気高い山が、なぜにこんな酷いことをしたのだろうと、いぶかり合うのであった。
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昭和四年六月末から七月のはじめにかけて上州から越後へぬける旅をした。主な目的は工事中の清水隧道を見ることで、それと同時に、所謂清水越をやって見ようと思ったのである。新道は清水隧道、旧道は清水越である。清水越は地図で見るのとは大違いの廃道で歩けなかったが、三国越をやって越後へ出た。以下はその簡単な記録である。
――むさし野の花は白い。栗、ごぼう、ねぎ、レールに添う鉄道草、街路の生垣になってほこりをあびた……こゝまで書いて手帳には大きな? がついている。名を知らぬ木にぶつかったからである。こまかい白い花を沢山つける、あまり品のよくない木である。? に続いて――目に痛く青いものは生薑の葉、麦は根まで枯れていて、畑の一隅に火をつけたら、ボーッと燃え上ってしまいそう――と、
こんなことを手帳に書くために出て来た旅ではないが、恐ろしく暑い日で、昼近い水上行の汽車の中へ、それが進行中であるにも関わらず、風さえ吹き込まぬ。高崎までの退屈な三時間、仮睡するなり、本を読むなり、時間を潰す方法はあるが、それでは余り無責任なような気もして、窓から外を見ると、それがこの「むさし野の花は白い」になる、といった次第。
然し高崎からは景色がよくなった。右が赤城、左は榛名、榛名は雲でよく見えなかったが、赤城の裾の線には、まったくのんびりしてしまう。その間を流れて来る利根川を、渋川のさきの「第一利根川橋梁」で越して敷島駅を過ぎると、山が両方から迫って来て、川と線路とがからみ合う。第三橋梁棚下トンネル、第四橋梁と、殆ど連続しているあたりの景色、殊にこの棚下トンネルを出て鉄橋にさしかゝった時、右には切り立った岩壁、下には紺碧の瀞水、そして左にやゝひらいた沼田の、いわば盆地ともいうべき小平原と、その向うの葉山茂山の上に雪をいたゞく谷川岳あたりの山とを見た時、それがほんの一瞬間であっただけに、思わずあっ!と声を立てた。
沼田に着くと、駅まで来た友人Uに、文字通り引ずり下された。バスで勢いよく急坂を上り、Uの家で冷水一杯、汗をふくと同時に空のルックサックを背負ってまた靴をはいた。沼田は真田信幸の居城、利根川の東にて片品、薄根の二水を南北に帯び……というと古めかしいが、赤城山が北東にのばした緩やかな大裾野を、以上の三川が切りきざんで残した不規則のテーブル・ランド、攻めるに難い上に、この丘陵の上から豊富に清水がわき出すのだから、いざ籠城という時にも至極便利だったろうと思う。今でも昔ながらの碁盤目の街路、何度も大火はあったが、このプランだけは変っていない。このような真直な通の一つを、ものゝ一丁も行くと、もう急坂だ。それを下り片品川をあぶない吊橋で渡って糸井の部落まで一里。散在する家々は養蚕で忙しく、初夏の静かな空気にさわさわと蚕が桑をかむ音さえ伝わる。この青空、赤城山、桑の広葉、黒く赤い漿果! われわれは塵をあげて路を急いだ。
こゝに清雲寺という禅寺がある。
この附近にも水のわく段丘があり、われわれはそこで蚊に刺されながら指で地面をひっかき廻した。石斧、石鏃、石匙、繩紋のある土器の破片、動物の骨等がこゝから出るのである。赤城の裾に住んでいた太古の人々、かれ等の生活、恋愛……泥だらけな手でバットを吸いながら、われわれはとりとめもない話にふけった。
何百年か前に建てられたまゝの、釘をまるで使わず、何から何までくさびどめのUの家の一間で、言葉は出せず、ウーンとうなって、目の前の壁に立てかけられた、驚嘆すべき品物を見た。ほかでもない木の盆で……。
直径は三尺にあまる。丸く、菊の花のような模様がついている。が、これ、模様というような生やさしいものではない。熟達の生む恐るべき正確と放胆とを以て、中心から外辺へ、力まかせに刀で刳った痕跡である。そしてそれに塗った漆の色は、いさゝか唐突で気恥かしいが、最も佳良なダンヒルのパイプが持つ、あの濃赤紫である。これこそ腕力の工芸品、見て力を感じる。
大利根の原流地、二千メートルを越える山々の麓にかたまった藤原の部落、鬱蒼たる処女林の中で、霧の深い朝夕、山刀をたっつけの腰に結びつけた男が、グイグイと木を刳ってこれを作ったのだ。大小角円いろいろな盆、相当の数に達すると背に負って、湯檜曾へ三里、沼田へ八里、売りに出たのを、人々は別に何とも思わず買い求めては使用し、使用しては壊していた。が、今ではもう藤原盆は出来ない。
芸術といえば、あの禁芸術売買の清雲寺の本山というのが、沼田の北三里余の迦葉山にある龍華院彌勒寺で初祖は天台の慈覚大師(円仁)、中興は慈運律師云々と書いたところで大した面白味もなかろうが、迦葉山は日本三天狗の一、大峰(大和)小峰(下野)の間に位する中峰、開運の神として附近の尊敬をあつめている。糸井への途中二三人の男が旅姿で路を急ぐのを見た。その一人が腰に天狗の面を下げていたのを、子供へのみやげだろう位に思っていたが、あれは迦葉山へ参るので、毎年蚕を当てるために参詣し、紙張りの天狗の面を借りて来ては翌年返しに行き、新しいのを借りて来るのだと聞いた。
開運の神であるが故に、迦葉山では金を貸す。神様がお寺で金貸業をやっているとは如何にも出鱈目みたいだが、これがいわゆる縁起で、種銭と称し、金額は普通廿銭程度、せいぜい五十銭どまり、証文も入れねば何もしない。円の中に「心」とした紙に包んで貸してくれるのを、翌年倍にして返す。つまり心を抵当に……といって語弊があるなら良心による貸借で、いつ頃から行われて来たのかは知らぬが、興味の深い習慣である。
迦葉山を信仰する者が非常に多数である一つの大きな原因に、現住職――この辺では御前と呼んでいる――清水浩龍師の人格があることは疑いない。師は絶対無妻、社会事業にもいろいろと尽力され、殊に不遇な男の子、例えば孤児とか、片親の無い子とかを集めて育てあげ、現にそのような子供が三十人以上に達していると。
先ず第一に数字をあげる。清水隧道は六百五十万円の工費を投じ大正十一年の夏から着手したもの、総延長が三万一千八百三十一呎八、これは九七〇二米に当る。こゝに世界の主な隧道所在地や長さを列記して見ると(単位米)
シンプロン(アルプス) 一九、七三〇
サン・ゴタルド(同) 一四、九九〇
レッチベルグ(同) 一四、六〇六
アプリ水道(アペニン) 一二、七三〇
モン・スニ(西アルプス) 一二、二三三
アールベルグ(墺) 一〇、二七〇
リッケン(スイス) 八、六〇三
サン・ゴタルド(同) 一四、九九〇
レッチベルグ(同) 一四、六〇六
アプリ水道(アペニン) 一二、七三〇
モン・スニ(西アルプス) 一二、二三三
アールベルグ(墺) 一〇、二七〇
リッケン(スイス) 八、六〇三
このトンネルが出来て、上越南北両線が結びつくようになると、現在信越線による上野長岡間の距離が約六十マイル短縮される。と同時に信越線は海面上最高基面高が軽井沢三〇八六・四四呎であるのに、上越線は土合土樽間の二二三〇・七八呎で、その最急勾配に非常な差があるから、線路換算延長は上越線において百六十四マイルの逓減を見ることになる。この他、こまかい数字を羅列すればきりが無いが、この位にしておこう。トンネルの両端にそれぞれ一つづつのループがある。そしてその各々が二個のトンネルから出来上っている。突然ループといってはわからぬ人もあるかも知れぬが、これはレヴェルの著しく異なる点へ出る一つの方法で、俵藤太に退治された百足のように、山をくるりと一巻きまき、より上方の地点で今来た線路の上に出るのである。現在では鹿児島線に大きなのがあるが、今度はこれが二つ出来る。またトンネルは、北線に現在の終点越後湯沢からトンネル入口の土樽信号所まで約九マイルの間に二つ(ループをなすもの)南線には水上駅から土合信号所まで約七マイルの間にループをなすトンネル以外に二つある。
はじめ東京鉄道事務所の好意になる地図を見た時、湯沢の方のこのトンネルループの存在理由が了解出来なかった。湯沢から中里を経て土樽信号所まで、魚野川の相当に広い平地で極めてゆるい上りであるにも拘らず、線路は正面山の麓の平沢部落まで来て急に東へ折れ、この平地を横断して魚野川の流域の右の山裾を走り、中里の部落から再び川を越し、松川第二トンネルで用もない山のどてっ腹にもぐり込み、ループをなして松川第一トンネルに出現し、三度魚野川を越して土樽へ行っている。真っすぐに行ってしまったらよさそうな物をと思ったが、三国峠を越して湯沢へ行き、軽便鉄道――それは魚野川に沿って、いわゆる真っすぐに走っている――の窓から工事を眺めながら土樽まで行って来て、さて改めて工事中の線路を朱で書き込んだ地図を見るに至って、はじめてこの疑問が氷解した。即ち線路は平沢から松川まで、正面山東側の急な斜面からの雪崩を避けて東方へ逃げ、土樽信号所と近いレヴェルに達するために松川第二トンネルでループをなし、再び雪崩を避けるため松川第一トンネルで山の裾を抜け、恐ろしく高い鉄橋で魚野川を渡って一直線に土樽へ向っているのである。このような例は諸所にあるだろう。気がつかずに走ってしまえばそれまでの事だが、また専門家の眼からは当然のことだろうが、素人はこんなことに気がついて、ちよっといゝ気持になる。
上越の国境には相当に高い山が並んでいる――と、こう書いていわゆる微苦笑をもらした。高い山脈があるからこそ、それが国境になったのだ。それはとにかく、西南方の稲包山から東北方の朝日岳にいたる山脈中の、最も低い場所を求めて、人が山越をしたのは当然のことである。然し山の横腹に穴をあけるとなれば、山の高低は敢て問う所ではない。かくて清水隧道は一九七八米の茂倉岳の直下を、遠慮会釈もなく一直線につらぬいているのである。だが何ゆえ、特にこゝを選んだのか。
廿七日朝、水上まで汽車、そこから自動車みたいにガソリンで動く軽便鉄道で土合の建設事務所へ着いて、次席技師の内田氏にあった時、この点を質問した。すると、それには色々技術上の問題もあるが、何はとまれ、土合、土樽間が四点で見通しのつくことが、この上もない強みだとのことであった。即ち土合の信号所から茂倉岳の頂上が見え、頂上から山中のある一点が見え、そこからは土樽信号所が見下せるという。これは一つの啓示であった。
所で、土合へ来て驚いたのは、狭い谷を埋めつくした家である。湯檜曾にも鉄道関係の人は多数いるが、これは昔ながらの部落であった。しかるに土合は大正十一年この工事がはじまるまでは、人家とて碌にありはしなかったのが、いまでは二千人ばかりが集っていて、病院、学校、倶楽部等があり、この附近では最も文化的設備がとゝのっているのだが、さて隧道が貫通すると、あとには信号所が残るだけで、またもとの山猿の遊び場になってしまう。これは土樽とても全く同様である。
思いがけなかっただけに面白かったのは、糞尿焼却装置である。いさゝか話が尾籠になるが、これだけの人類の糞尿が、狭い湯檜曾川へ流れ込んだ日には、岩魚ややまめばかりでなく、下流に住む人々までが、とても生きてはいられまい。そこでゴ式焼却器という、大きな釜をそなえつけ、すべてこゝで処分してしまう。
学校は先生三人に生徒百六十五人の複式教育。生徒は日本中から来ていて、朝鮮人の子供も多い。教室に電燈が下っているので、夜学でもするのかと思ったがそうではなく、冬は屋根まで雪に埋ってしまうので、こういう設備がしてあるとのことであった。高等科の子供は湯檜曾へ通うのだが、トロッコなので、一つには工事中の岩石等が飛んで来るのを防ぐため、頑丈な金網が張ってあり、子供達は鶏みたいにその中に入って学校へ行く。越後側の土樽も、先生、生徒の数は偶然ながら土合のと殆んど同じである。
内田さんの案内で隧道の一番奥まで、約一万四千尺入って見た。途中坑口から九千尺ばかりの所で、素敵な勢いで水がふき出している。大正十五年十一月、こゝまで掘って来て断層に逢い、猛烈な噴水のために工事を中止して別に九千呎に近い排水隧道をつくった。今隧道入口の左手に盛んに水を吐き出しているのがそれである。
隧道の一番奥の光景は、物凄いものであった。六名の鑿岩夫、六名の「さき手」以下数名が濛々たる岩粉、轟々たる音響の中で鑿岩機を使用して、固い岩に穴をあけると、その後ではマイヤーホーレーが不気味な恰好で岩屑をすくい上げる。二尺乃至二尺五寸間隔で五尺ほどの深さに四個穴をあけ(これを真ヌキという)その周囲に廿四個小さいのをあけると、ダイナマイトを填めて先ず真ヌキを爆破させ、丗秒位してから周囲の廿四を同時に爆破させる。そこで坑内の空気を吸い出し、新鮮な空気を送り、あらためて鑿岩機の活動がはじまる。たゞ今のところ現場交代で四交代、昼夜兼行、工事を急いでいる。
一時間ばかりいて坑外へ出たら夏の日ざしに目がくらんだ。事務所の前に給料をもらう人達が列をつくっている。ふと、今日はわが社でも月給と上半期のボーナスとが出る日だなと思った。
土合から湯檜曾まで軽便鉄道で来て、こゝの宿で遅い昼飯を済ませ、温泉に入った。それから驟雨の中を自動車で水上へ、上牧で途中下車して、新しく出来た大室温泉に入って見た。後者の方が湯は綺麗だが、古い湯の宿の趣は前者の方が遙かにすぐれている。湯檜曾の宿の若い主人は、この冬は貸スキーも五六十台置くつもりだから、是非来てくれと、しきりにいっていた。トンネルが出来て、夜行が通るようになるとこの辺は便利なスキー場になる。
沼田から湯檜曾までの間、利根川に添っていたる処に温泉がある。上越線の開通をあて込んで温泉掘鑿願いを出したものや許可を得たものが九十数件。あちらこちら、石油を掘るように温泉を掘っている。そんなに沢山温泉をつくってどうする積りだか。勿論湯が出たら権利を売ろうといった手合も多いのであろう。
翌日は後閑から赤谷川に添う三国街道を入った。汽車の中から川――利根の本流――向いの崖の上に浅黄の布を周囲にさげた、何の面白味もない社が見える。これが磔茂左衛門を祭った地蔵で以前は崖の下の小さな地蔵さんであったが、藤森成吉氏や築地小劇場のために(まさか!)大きく、また殺風景になったとのことである。
一体この辺には、対照の奇妙な史跡が多い。三国街道を月夜野、押出、廻戸と一里歩いて下新田へ行くと塩原太助の生家があり(代議士生方大吉氏の厳父太吉氏等によって遺跡保存会が設けられ、倉庫には遺物が蒐集してある)、後閑、上牧間には高橋お伝の生家が現存し、利根の右岸、即ち線路の対岸には白木屋お駒がかくれ住んだと伝えるお駒堂がある。講談愛好者にとってはこの辺は地上の天国であろう。
鬱陶しい梅雨空の下を、ルックサックを背負ってボソボソ歩いた。昔ながらの三国街道である。広い道の両側に並ぶ、屋根に石を置いた大きな家は、一様に黒ずんだ褐色をしていて、所々の軒にさがったエナメル・ペンキ塗の売薬やその他の看板が、不気味な程鮮かに目立つ。新治村の役場で村長さんにあい、猿ガ京の関所のことや、三国峠の話を聞き、役場の裏の麦畑の畔で完全な石鏃を二つ見つけた。この辺、山河のたゝずまい、どこか京都の裏の、出石、豊岡附近に髣髴たるものがある。
低い空から雨が落ちはじめた。大きな月見草が真昼、頭をもたげて咲き、河鹿の声が街道に添う川からしきりに聞える。鬱蒼たる木立の中に立ちぐされる大きな家、崩れる荒壁、太い柱……、何かしら旅愁に近いものを感じ出した時、後から猿ガ京行の乗合が走って来た。とめて乗ると人絹の靴下をはいた女車掌、前橋あたりから新婚旅行にでも来たらしい男女。湯宿の温泉も相俣の宿もぐらぐらゆれて過ぎ、笹の湯で夫婦者が下りると間もなく猿ガ京。待っていたフオードに乗って永井の宿――こゝには大きな本陣がある――から本街道を離れ、V字形をなす西川の溪谷の、Vの右斜線の上を走って法師温泉へ二里余。
後閑から猿ガ京までの道は、田舎とは思えぬ位、良好である。猿ガ京から法師温泉までの路は、いさゝか良好でない。その代り景色はいゝ。
われわれの乗ったフオードは、山の中腹を、右に曲り左に折れて進んだ。右は山で左は谷。所々谷の方が赤く崩れていたり、また坂になっていてその最低部に路と直角に欄干の無い橋がかゝっていたりした。
運転手は馴れているので、話をしながらハンドルをあやつる。「こないだ東京のお客が来てさ、こわくなって了って、賃銀を倍出すから下してくれといったよ。」
川が細くなり谷が浅くなる。お仕舞には川と路とが同じレヴェルになり、突然急な丘を登って下りると杉の林、くすぶった家が二軒。そして小雨の法師温泉。
温泉めぐりをして歩く年頃でもないが、割に旅をしているので、各地の温泉を知っている。だが、今迄のところ、一番気に入ったのはこの法師温泉である。
赤谷川の景色はいゝ。が、法師温泉まで来ると、水源に近いので、ハイネの所謂「後向きにでも飛び越せる」位の川になって了って、一向面白味はない。眺望といっても別に何もない。食物は山の中、勿論何といって御馳走がある筈はない。然らば何が気に入ったか。
法師温泉の宿は長寿館というのがたった一軒だが、これが三軒から出来ている。即ち自動車がとまると、そこに玄関があり、その玄関のある、いわば母家と称すべき二階建が一軒、この母家の二階から渡り廊下で往来を越すと、崖の上に平家が一軒、平家だが崖の上にあるので二階だての位置になる。それから、往来をもう少し行くと、また大きな二階建が一軒ある。
長寿館の経営者は岡村氏という。越後の人で先代は有名な代議士だった。上越鉄道の計画をした程の人で、三国峠の北側には岡村家の「お助け小舎」というのがあったりする。冬、吹雪に悩む人のために建てた頑丈な小舎である。温泉はこの岡村氏の経営に移ってから、恐らく二軒の家を合併し、崖の上の平家を増築したのだろうが、とにかく三軒家がとりとめもなく建っているのが、間がぬけていて面白い。
玄関を上ると、右手に階段があり、左手は大きな台所。囲炉裡にドンドン火が燃えている。天井から並んで下っているランプに頭をぶつけながら階段を登り、太い樅の木を近く見て渡り廊下を越すと、恐らく長寿館では一番いゝ部屋が並んでいるのであろう所の、崖の上の平家に出る。
この平家の、一番とっつきの部屋に、Uと私とは通された。部屋のまん中の長火鉢に近く、どてらを着ていても暖かすぎはしない。
鍵の手になった障子の、今入って来たのでない方のをあけると、山でガレと呼ぶ、三角石の堆積で、その上には白い菊みたいな花が五六本咲き、ガレの向うは荒壁のなかば崩れ落ちた大きな納屋。
長い夏の日ではあるが、小雨が降って暮れは早く思えた。川の音以外には、何の物音もしない。台所の囲炉裡から出る煙が、木造で屋根のついた、四角い煙出しから出て、そして風が無いので屋根を這っている。およそ落つくといって、こゝ位落つく場所もすくないであろう。落つかざるを得ないのだから……。
こゝの湯がまた素晴しいものである。浴槽は二カ所、その一つは滝といって、大きさも普通の浴槽位なものだが、普通の方は、何間に何間か、測量もしなかったけれど、大した大きさで、それに量が豊富であり、驚く程清く澄んでいる。浴槽の底は天然の岩、その間から噴き出すのと、浴槽の辺を越して流れ込むのと、両方なので、底に湯垢がたまるということは無い。
浴槽を横切って丸太棒が一本かゝっている。これは両端に切り込みがあり、浴槽の辺を自由に動くようになっている。この棒に後頭部をのせ、両足を辺にかけて、何十分でもつかっていることが出来る。同じ大きさの浴槽が男湯に二つ、女湯に二つ、夜は薄暗い石油ランプが一つつくきりなので一人でつかっていると物すごい気もする。
湯檜曾まで行ったのではあるし、いわばトンネルの上を歩くことになるから、本来ならば清水峠を越すべきであった。陸地測量部の地図「湯沢」を見ると「清水越」とした大きな国道が九十曲り百曲りして上州から越後へぬけている。この道は現在では雪崩のために殆ど跡をとゞめず、必要あって山越をする人は湯檜曾川をさかのぼって一二八五米の白樺小屋址に出、七ツ小屋と茂倉岳との鞍部を越えて蓬沢を下り、土樽に出る。またその昔、上杉謙信が上州へ出た時には魚野川の支流大源太川をさかのぼったらしく、現に滝ノ又の南には「謙信目当ての松」という独立樹がある。
この謙信の話は六日町の今成準一郎氏によるものである。更に、昔から下越後の大名が参勤交代に通行した三国街道があるのに、なぜこんな大きな工事を起したかについても今成氏は興味ある話をされた。即ち明治初年、新潟と東京とをつなぐ鉄道が問題になった時、清水越は碓氷越(信越線)と同時に候補地としてあげられたのであるが、政治的に勢力を持っていなかった越後は信濃にその権利を奪われてしまい、その、いわばコムペンゼーションとして清水越の国道工事がはじまった。明治十八年竣工、北白川宮の台臨を仰いで開道式を行ったが、前にも書いた雪崩で間もなく駄目になった。一方、依然として清水越に鉄道を敷く計画はあり、岡村貢氏等は会社を起しさえしたが、遂に実現に至らず、そのまゝになっていた。今度の鉄道省のプランが、岡村氏のと殆ど同じであるのは興味が深い。
さて法師から三国峠の頂上まで折からの霧雨の中を、何の苦もなく登ったのはよいが、肝心の景色がまるで見えず、おまけに風さえ吹きつのるので、ほんの煙草一服で越後へ入り、割合にいい道を下りて来ると、突然霧がはれて、前山の向うに大きな山が現れた。山の高さからいっても、方向からいっても苗場山(二一四五)に違いないが、こゝから見えたのは恐らく神楽ガ峰(二〇二九)で、主峰は長く美しい尾根の、もっと左にあるのであろう。大きな雪渓、カール状の雪田、今年になって、まだ一度も山に登っていないので、足がムズムズした。
気がつくと目の下に、石を置いた屋根が見える。下りは早い。一里の道をもう浅貝へ来たのである。三股、二居と共に三宿と呼ばれ、信越線開通までも繁昌した部落であるが、今はひどくさびれ、(三十六年六十戸あったのが現在は十八戸になっている)大きな家が夏の日ざしの中にガランと建っている。こゝの本陣、戸長綿貫氏の家で、かたく、美味なそばで早い昼飯をしながら、いろいろと話を聞いた。今でも残っている上段の間、乗物通し、宝暦年間の隠密帳……家の前には九輪草が咲いて風は涼しかった。
二居、三股、それぞれ清津川に沿うて二里。いずれにも本陣があり、いずれもさびれている。三股からは川を離れて芝原峠を越える。珍らしく澄んだ空の下、白い路を登りきると、突如目の前に飯士山、目の下には芝原の部落と段になった水田!峠の面白さは予期せざりしを見るところにある。
上越北線の終点、越後湯沢に着いたのは、五時頃だったろうか。峠を二つ越して、よく歩いたものである。
湯沢で一泊、こゝの温泉は駅から一寸離れた丘の上にあり、従って家の建て方などに面白い点もあるが、惜しいことには外湯なので、気分が落つかない。翌日はトンネルを見て柏崎へ。木食上人の作品を見、三階節の由来を聞き、佐渡ガ島を空しく海上面に求めて、この旅を終った。
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いつか小説風に書いて見たいと思いながら、時間と根気とが無いのでそのまゝにしてある、いわば山の小説の未加工原料が三つ。別にパテントを取っているのでもないし、誰かゞ本当の小説にしてしまうと困るが、まァ発表することにする。
北アルプスの、ある有名な登山中心地、これをAとする。Aへ行くには省線の鉄道でDまで、こゝから電車か自動車でBという小村まで、そこからは峠を越して六里。Bは電車が出来るまでは人家が二三軒の寒村だった。電車が出来てからも、人家は四五軒になったゞけ、一番大きな建物は終点であるところの停車場と乗合自動車の発着場。
駅のすぐ前に旅館兼休憩場で、煙草を売ったり、親子どんぶりを食わせたりする家がある。登山者は大勢Bの村落を通過するが、泊る人はめったになく、親子どんぶりを食う人もすくない。山から下りて来る人の方が、むしろこの家に立寄ることが多い。電車の出る一時間前に着いてしまったりして、退屈まぎれにこの家の土間で駄菓子を食う人もある。また六里の峠を雨で濡れて、土間で洋服を乾す人もある。
この旅館に娘がいる。ちょっと綺麗な顔をしているので、一部の登山者仲間では評判になっている。当人もそれを知っているのだが、また毎年きまってBを通過する登山者の中には、妙に彼女の印象に残って仕方のない人もいるのだが、勿論どうすることも出来ない。
Bには夏になると荷物かつぎをする若者が二三人いる。その一人がこの娘に惚れている。惚れたといっても山の中のことだから、ラヴ・レターを書いたり、音楽会へ招待したり、そんなことはしない。第一音楽会はないし、ラヴ・レターを書いたところで、Dまで投函に行き、それが電車に積まれてBへ帰って来て娘の家の前を通過し、半みち離れたBの本村の三等郵便局へ行き、そこから一日一回の配達が娘の家まで持って来るような有様だ(もっともこんな莫迦話は本物の小説には書かない。)せいぜい娘の家の背戸へ来て尺八を吹いたり、娘が行水をつかっているのをカボチャの葉がくれにのぞいて娘の親爺にぶん撲られたり、まアそんな真似をしている。
娘は婦人雑誌を読んでいるからロマンチストでセンチメンタリストだ。都会の生活にあこがれを持っている。村の男に対しては非常に冷淡でお高くとまっている。然し夏になると、この男にひどく親切にする。男が山から帰って来ると冷い水を汲んでやったり、長さ三寸位な貧弱な玉蜀黍――山だから大した玉蜀黍は出来ない――を焼いてやったりする。男はよろこんで、たまに登山者の荷物を持ってDまで行ったりすると、何かしら手みやげを買って来る。だが男はこの娘の親切が、都会の登山者がいる時にかぎられていることに気がつかぬ。娘はハッキリした意思もなしに、都会の人々に自分にも恋愛があることを示したいような気持がして、それで男に親切にしてやるのである。
やがて秋になり、桑の葉がカサカサ鳴るようになると、娘は憂鬱になってしまう。男など見向きもしない。男は相当に悩み、ある日山へ入ってあけびを沢山とって来る。日暮れ、埃っぽい路をポクポク歩いて娘の家へ帰って来ると、娘は五燭の電燈を低くさげて、一人で雑誌を読んでいる。上りかまちから声をかけても、娘は知らん顔をしている――「おい、お千代さん」と二度目にやゝ声高く叫んだ時、お千代は顔も上げずにいった「何さ?」「俺あ朝から大滝山の北谷へ入ってな、見な、あけびを籠一杯とって来た」「籠一杯のあけびをどうする気だね」お千代はプイと立って隣の座敷へ行ってしまった。――こんな風な結末にしようかと思っている。
これは四五年前、丗枚ばかり書いたまゝ中止した話である。いつかまた書くかも知れないが、恐らく素材だけを頭に持って、書かずにしまうことだろう。
主人公は山の案内者、山には剛胆だが、人間としては正直すぎる程正直で小心な四十男を選ぶ。第一の神さんが病気で死に、後妻にもらった若い女が、結婚後一年ばかりで内職に駄菓子屋を始めたが、どうもそれは近所の若い男たちを集める一種の口実であるらしく、面白くない噂が立っているが、女が気が強くて喋舌り立てる上に、尻尾を押えられるような間抜けではないので、何ともいたし方がない。それやこれやでポシャポシャしているもんだから、よく物を忘れたり何かする。気がめいって弱っていると、東京の山田さん――前に半分書いた時、何故ともなく、山田という名を使用した――から手紙が来て、この夏は夫婦で山へ行く、案内者組合の方へも通知しておいたが、出来れば君に行ってもらいたいといって来る。
これで見違える程元気が出た……というのは、山田さんは中学校の時以来彼を知っているので、高等学校、大学と、六七度一緒に山へ入り、彼とは登山者対金銭でやとわれる山案内以上に親しい関係になっていたからである。大学を出ると山田さんは二年ばかり外国へ行き、去年三年ぶりで一緒に登山したが、今年は会社に入った上、春にはお嫁さんをもらったので、とても駄目だろうと思っていたのである。その山田さんが奥さんをつれて、彼が十数年前、はじめて案内した鹿島槍へ天幕を持って行くというのだから、神さんに厭味をいわれるくらい、彼ははしゃいでしまう。
彼は死んだ女房の弟の十九になるのをつれて、山田さん夫婦を鹿島槍へ案内する。鹿島槍と来れば吉田絃二郎さんの「静夜曲」に出て来る「O町」以上に、信州の大町であることがハッキリ判るだろうが、別にそこにモデルがある訳ではない。が、ヒントはある。数年前、Kという案内者が発狂して死んだ……たゞこれだけの事実である。
自分を信頼しきっている三人の若い男女をつれ、彼等に対する全責任を負って山へ入ることは、彼に新しい元気と体力とを与えた。が、何かしら彼は重大な忘れ物をしたような気がしてならぬのである。しきりに考えるが、どうしても思い出せぬ。時々トンチンカンな返事をして笑われる程、一所懸命に考えるのだが、何を忘れたのか、どうも見当がつかない。
鹿島川の岸で弁当にする時、彼は突然思い出した。マッチを忘れて来たのだ。四人の一行に対して山田さんが一箱と彼が一箱、いずれも煙草用のを持っているだけである。炊事、焚火等に、これでは足りない。いや、マッチ一本あれば雨中生木で焚火をすることも出来るが、何かの場合、これでは心細い。自分はとにかく、また義弟はとにかく、更に山田さんはとにかく、万一山田さんの奥さんに不自由な思いをさせては申訳ない。彼は山田さんにあやまり、その晩の夜営地を最初の予定地より二里ばかり手前にしてもらって、弁当も食わずに大町まで飛んで帰る。荷物は磧の石の間にかくした。空身だからとても早い。間もなく大町の旅館につくと、旅館の主人に「お前が出るとすぐ神さんが来て山の案内賃を三日分前借して行った」といわれる。
これは不愉快なことだった。そんな真似をしてはいけないと固く申し渡してあったのだ。が、まア或いは親類に病人でも出来たのかも知れぬと思って、一寸自宅に寄って見た彼は、恐ろしいものを見てしまった。女房がまっぴる間、若い男を引き入れて、いわゆる不義の快楽にふけっていたのである。
気がつかずにいる不義の二人のみだらな姿に、かっとなった彼は納屋から鉈を取り出して台所に忍びよったが、ふと太陽を横切った雲が地上に投げた影に、空を仰ぐと思いもかけぬ雷雲が現れている。彼は鉈を投げ出し、近所の荒物屋で油紙を一枚買うとそれでマッチを包み、一目散に山をめがけて走り出した。電光、雷鳴、沛然たる豪雨、彼は狂人みたいに走った。朝から何も食わず、おまけにひどい精神的打撃を受け、心身ともに疲労困憊している彼の頭の中で、善玉と悪玉が猛烈に争った。悪玉はぽってりした彼の女房である。悪玉はこの雷雨を幸に、雨戸をしめて更に不義の快楽をくりかえしていることだろう。これに反して善玉は、若くてスラリとした山田さんの奥さんだ。奥さんは定めしこの雨に苦しんでいることだろう。救わねばならぬ……保護せねばならぬ……という気持でいるのが、いつの間にか自分の子供みたいな年齢の奥さんが、自分を救ってくれ、保護してくれる観音様みたいな気がして来た。まろびつ、ころげつ、彼は走った。いつか雨はやんだ。そして日の暮れ方、とある野営地に山田さんの緑色のテントが張られ、その前には焚火が勢いよく燃えさかり、白いスウエッターを着た山田さんの奥さんが虹を見上げているのを見ると、彼はクタクタと濡れたいたどりのしげみの中に膝をついてしまった。まっかに充血した目に、涙がうかび出た。
これは「彼」の第二部になるか、独立したものになるか、まだ見当がついていない。彼は山田さん夫妻と死んだ女房の弟とをつれて山へ入った。女房が間男をしている暗く淫な場面は依然頭にこびりついているが、山に馴れぬ義弟を自分の後継者として教育することと、山田さんの昔にかわらぬ気持と、別して山田さんの奥さんの清浄な美しさと無邪気さと、この若くて美しい奥さんの世話を焼くことの愉快さとが、彼の心を明るくすることが多い。彼はしみじみ、自分の結婚生活を思い出し、また考える。同じ夫婦という名で結ばれていても、山田さん夫婦と自分達とは何という相違だろう。境遇か、学問か……と、いろいろ考えるが、どうも漠然としてよく判らない。
山の上で、山田さん夫婦が写真をうつしてくれという。岩の上に立って並んだのを見て、彼はまたしても夫婦という問題を考える。と、自分の立っていた岩がぐらりと動いたように感じ、ハッとした途端、写真機を落してしまう。これはフィアンセーユ時代、山田さんが奥さんに買ってやったので、二人にとっては結婚生活の一つの重大なランドマークになる性質のものであった。これを知っている彼は山田さんが驚いてとめる間もなく、岩角から下のガレに飛び下り、急な雪渓をすべり下りて、はるか下の岩にひっかゝっている写真機を取り戻す。ガレに飛び下りた時、彼は後頭部を岩に打ちつける。頭から血が出るが、彼は写真機をさがすのに夢中になっていて、そんなことに気がつかない。が、こわれた写真機を見つけると、腰が立たない。心配した山田さんと義弟が横の方の岩を下りて来て見ると、彼は莫迦みたいな顔をしてニヤニヤしている。
天気はいゝし、もっと山の上で遊んでいる予定であったが、彼の状態に不安を抱いた山田さんは、もう帰ろうといゝ出した。いざ天幕をたゝみ、荷ごしらえをするとなると、彼は昔の彼にかえった。何という手際だろう。ピシピシと荷をまとめ、繩でしばって背負子にくゝりつけ、しっかりした足取りで急な雪渓を下りて行く。「晩にや女房のおまんまが食える」などというので、山田さんは安心するが、実はもう頭がすこし変になって来たのである。
彼は大町に帰っても、自分の家に泊らず、一晩を死んだ女房の実家で送り、あくる日山田さん夫婦を見送る。間もなく女房は叩き出した。
彼は大酒をのみ始めた。そして秋、高原にさわやかな風が吹き渡る時、とうとう彼は発狂してしまった。親類の者が集って座敷牢をつくって入れると、彼は着物でも何でも皆引きさいては繩に綯ってしまう。首をくゝるのではない。存在しない荷物をまとめて、それを背負子にくゝりつけるのである。数日、あるいは十数日、はげしい山歩きをして、今日はいよいよ山を出るという、その最後の朝を、彼は夢みているのである。座敷牢の中で陽気にしているのだから、これは悲惨だ。里では女房が待っている。竈の前で、丸まげに結った頭を向うに向けて、飯をたいている。叩き出した女房ではない、死んだ女房だ。荷ごしらえは出来た。米も味噌も草鞋もウンと減ったので荷は軽い。さア行こうぜ!と立ち上る。そこでボンヤリして「俺は何か忘れたぜえ」といゝ出す。忘れて来たのは山田さんの奥さんの写真機だ。「奥さん、内蔵助平にウンと金が埋めてあるので来年はその金を掘って来るからね。それで写真機を買っておくれや」……毎日、これをくりかえしている内に、秋が深くなった。二日時雨が続いた。三日目の朝、カラリと雲が上ると、後立山の山々には、初雪が輝いている。その朝東京から着いた山田さんの夫妻が、彼の死んだ神さんの弟の案内で座敷牢へ見舞に行くと、彼は襤褸で綯った繩を両手で持ったまゝ死んでいた。義弟は持って来た朝飯を縁側に置いて、手ばなしに泣き出した。そして山田さんに生きている内に見舞に来てくれたら、兄貴は定めし悦んだでしょうが……といった。然し本当に悦んだかどうかは判らない。
以上の二つが一つの小説になるものならば、素材の第三はこの「財布」である。
黒部川に落ち込んでいる沢の一つに小舎をかけて、しゝ撃ちの猟師が五人生活している。しゝとは羚羊のことである。今は禁猟になっているが、昔は自由に猟することが出来た。冬深い雪の中で、あらゆる危険を冒して猟したものである。
もう一週間になるが不猟で、三頭しか取れない。その晩、疲れ果てゝ帰って来た四人の一人が、小舎に残して行った財布が見えないといって、留守番をしていた男を責める。男も負けてはいない。誰かほかの奴が盗んだのかも知れぬという。濛々たる煙の中で、雪やけの顔を焼酎で醜くした五人が、口角泡をとばして口論する。里にいる女の話まで出て、まるで獣物みたいにつかみ合う者さえある。その内に財布を失った男が、ある一人の荷物を勝手にさがすと、財布が出て来る。見つけた男、見つけられた男、疑られた男三人が物すごい勢で山鉈を取り上げ、とめに入った男の右手から血がほとばしった刹那、雪崩が落ちて来て、四人までが梁に圧される。一人残った男は財布の持主で、梁の下から出た手が握っている財布をひきむしるが、彼もまた二度目に落ちて来た雪崩でやられてしまう。
この小説を実際書く場合が来れば僕は先ず第一にこれが純然たる小説であることを明瞭にことわるだろう。何故かといえば、数年前しゝ撃ちの猟師が棒小屋沢で雪崩にやられたことがあり、何等かの思い違いで僕がそのことを書いたと思う人があると困るからである。次に僕は冬季の雪崩について、もっと詳しい研究をしてから執筆するだろう。冬季、春に出るような雪崩が出たりしては、あまりに滑稽だから……。
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山で困ったことはあるが苦しんだことは只の一度もない。というと如何にも大きく出るようだが、実は苦しむ――つまり自分の体力なり資金なりの範囲以外に出るような山へは、行ったことが無いのである。
勿論へたばったり、大雨で猿股まで濡れて了ったり、白馬尻の岩小屋で二日間雨にとじ込められ、小屋の中まで水びたりになった為に、まるで鶏みたいに石の上にとまっていたり――これは十数年前の話である――そんな時には苦しいとも思った。だが後から考えると、苦しみよりも愉快さの方が多い。
◇
恐らく一番困ったのは「山で」ではなく「山に就て」であろう。大阪にいた頃、大阪市に近いある郡で一年に一回神主さんの会合があり、それには毎年きまって毎日新聞社の人が講演に行くことになっていた。これに引張り出された。何でもいゝから、山に就て話せという命令なのである。会場は淀川にそった古い町の神社、崖の上にあるので、とても景色がよく、凉しくていゝ気持だったが、講演会場が社務所。入って行って驚いた。無慮三四十名の聴衆がみんな御老体ばかりで、白い鬚をしごきながらしゃちこばっている。当方夏向の膝をキチンと折って上座に坐ると、そろってサーッとお辞儀をされた。何か一言いうたびごとに、ハヽーン!と頭をさげる人が多い。ことごとく面喰って、急に日本アルプスの話を富士山の話にし、木華開耶姫命のことや何かでお茶を濁しはしたものゝ、満喫した凉風にもかゝわらず、背中にしみ出る程汗をかいた。
◇
大町から立山をぬけて富山まで酒を求めて歩いた時も、相当に困った。勿論山で酒を飲もうなんていうのが悪いので、それに、この旅は始めから終りまで、儼正アルピニズムの立場から見れば、批評外ともいうべき邪道であった。だが、何等の職務を帯びず、また責任も持たずに、気の合った友達と、まだ本当の登山期に入っていない時、いわばブラブラと山へ入ったのだから、呑気になったのもやむを得まい。
一行は三人、大町のM君と案内者のK、それに僕で、いずれも多年の交遊がある。六月一日だかに大町を立った。雪の多い年で、扇沢を渡る頃からポツポツ雪が現れ、大沢の小屋には排雪して窓から入った。
◇
こゝで一つ、とんでもない余談だが、近年山岳文学の最高ナンセンスともいうべき小話を紹介する。今年の一月、劔沢で遭難事件があった時、富山県から出た捜索隊が強行して立山室堂に着き、一同「排泄した上小屋に入った」という記事が都下の大新聞に麗々しく出ていた。やれやれというので関東の連小便をやってから室堂に入ったようだが、そんなこと迄新聞に書く必要はあるまい。これは勿論雪に埋っている室堂の入口の雪をかきわけ、つまり排雪して入口を求めたことなのだが、富山あたりから電話か電報で「ハイセツ」と来たのを、冬の山についてまるで知識も想像も持たぬ東京本社にいる社員が、排泄として了ったにきまっている。
◇
我々も二種類のハイセツをして小屋に入り、ストーヴに火を焚し、炉に鍋をかけて飯の仕度をした。我々にとっては、一番楽しい時である。煙草を吸いながらボンヤリしていたら、酒が飲み度くなって来た。すこしは残っていそうな物だというので、ありとあらゆる瓶や樽をゆすぶって見たが、コトンともジャブンともいわぬ。あしたは平の日電の小屋だ、あすこには酒がワンワンとあるに違いないと思って大人しくしていた。
◇
その翌日、針ノ木峠を越して黒部川の岸まで来はしたものゝ、雪崩で路が墜ちて了って薄明では危険で吊橋まで行くことが出来ぬ。対岸に日電小屋の燈……それはあらゆるコンフオートと、酒とを意味していた……が輝くのを見ながら、我々は東信の小屋という笹の葉で葺いたような掘立小屋を一夜の宿とした。
こゝでもあやしげな蝋燭の光をたよりに、手さぐりで酒をさがした。小さな樽がジョボンジョボンといったので狂喜して詮をぬき掌にうけて見たら醤油だったりした。
◇
翌日は九時頃日電の小屋に着いたのだが、盛んにとめられるまゝに、一日遊ぶことにした。さて晩方、釣り上げたばかりの岩魚の塩焼、熊の肉とキャベツの煮込み――ところで酒がない、ないとなると余計ほしくなって、その翌日は素敵な勢で立山温泉まで雪を踏んで歩いた。
◇
前にも書いたが、これは邪道である。登山とはこんな物ではない。山で酒がなくて困ったなど云っていると今に本当にひどい目にあうかも知れぬが、こんな風な山歩きも思出の一つになっている。
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もし時間が自由になる身分ならば、私は夏よりも秋か晩春かに旅行をしたいと思う。海・山・平地……どの旅行にも夏は向かない。
◇
旅行のシーズンとしての夏の缺点は、暑いことである。寒い所へ旅行すればいゝにきまっているが、例えば東京から北海道へ行くとしても、途中は暑いし、また暑い東京へ帰って来なくてはならず、その時の苦痛は大したものである。殊にトンネルの多い汽車の旅行は、たまったものではない。
大阪にいた時、毎夏信州へ山登りに行った。名古屋から中央線で、木曽の谷へ入って行く景色はいゝが、あすこもトンネルが多く、相当につらい。更に東京から松本までの中央線は、まったく殺人的のトンネルと煤煙である。早く電化してくれないとやり切れない。
◇
昨年の夏は、二度富士山麓の山中湖へ行った。山梨県ではあるが御殿場から行った方が便利なので、最初は帰りにも御殿場へ出たが、二回目には吉田へ出た。山中湖から富士吉田へ二里、ほこりっぽい路だが高原の風が乗合自動車に吹き込んで、涼しい。それが富士電気軌道で、小沼、谷村と桂川の谷を下りて来ると、一駅ごとに暑さが加り、大月に着いた時には、まったく釜の中にでもいるような気がした。それから汽車が一苦労。が、小仏のトンネルをぬけて浅川を離れると青々とした水田から午後五時の、素晴しい風が吹き込んだ。まったく、これは、どういう吹き廻しか、ほとんど一陣の疾風ともいうべき風だった。網棚にのせた誰かの麦藁帽子を窓から吹きとばし、座席の頭に当る場所にかけた麻の白布を天井に吹きつけた程の風だった。扇風器が面喰ったように、カリカリと音を立てた。
◇
暑いと汽車弁が不安心になって来る。また駅々で売っている怪しげなアイスクリームなる品を、子供などに買ってやっているのを見ると、他人事ながら気がもめてならぬ。すべて食物が腐敗しやすい時に、自宅を離れて食いつけぬ物を食わねばならぬのは、考えものである。
◇
高い山への旅は、本当は夏がよい。日が永いし、割合に寒気を感じることがすくないし、高山植物は多く咲いているし、雨はすくないし……。だが多くの場合、裾野の草原の草いきれがひどく、又はいよ/\山へかゝる迄の路が遠く暑く(例えば立山の、千垣から常願寺川に添う路)又は都会から山までへの鉄道にトンネルが多く、おまけに山は満員で、静寂という気持が全然味えぬ場所さえある。これは「見て来たような」でなく、事実見て来た話だが、夏の盛りの上高地の夕方よりも、神宮外苑に沿う信濃町・権田原のあたりの方が、遙かに静かで、深山幽谷の感がある。
◇
秋の山をひとりで歩いて見たい気持がしきりに起る。またこの新緑の頃に、奥上州の、利根川の上流地方をポツリポツリ歩いて見度い。
◇
はじめて太平洋を横断し、ことにホノルルへ寄港する汽船(或はモーター船、例えば浅間秩父等)に乗る人は、夏より冬を選ぶべきである。私は三度ホノルルに立寄った。その中の一度は真夏、アメリカからの帰りで、他の二回は冬、日本からの途中であった。その第一回の印象は、もう十年以上も前のことだが、いまだに新鮮である。
◇
横浜を出た時は雪が降っていた。それが一日々々と暖くなり、そして十日目の朝、ポートホールから外を見ると、これは何と青々とした半島が目の前にあったことだろう!緑の丘、ヒビスカスの花、小鳥、椰子の葉をバサバサいわせる風、ワイキキの浜での水泳。よくいう常夏の国だ。日本や米国が夏である時に行っては、一向面白くない。
◇
どう考えても夏は旅行のシーズンではない。が、日が永いのと、休暇があるのと(私のような会社員にあっては、僅か十日足らずではあるが)それから六月末に貰うボーナスで何とかやりくりがつくのとで、私はやはり夏に旅行することが一番多い。今年はどこへ行こうかと、今からしきりに考えている。
◇
子供が段々大きくなるので、避暑というよりも、広い所で自由に遊ばせ度くて、夏の転地を考えるようになる。昨年も一昨年も親類がいるので、千葉の海岸へやった。東京から近いから、ちょいちょい見に行くことも出来て便利だが、理想的な海とはいえぬ。どこか山の中で、綺麗な水が流れていて、而も東京から比較的近い場所はあるまいかと考えている。このような条件を具えているのは、先ず上越線開通後の、沼田の奥あたりだろうと思う。現在では汽車が不便だが、急行が通るようになると、東京から楽に行けて、いゝだろうと思う。
◇
子供達はどこか涼しい場所で遊ばせておき度い。自分は旅行をしたい。と、こうなって来ると、如何にも財産の無いのが、邪魔になるが、同時にありあまる財産を持ちながら、それを、実に愚劣な方法で浪費したり、あるいは、全然使用しないでいる人々が、すこし可哀想にもなって来る。
◇
これも気のせいかも知れぬが、私はこの頃、私ひとりの問題ならば、苦しんで旅行するよりも、夏は子供達をよそへやって、キチンと取り片づけた自宅に、静にしている方が、遙かにいゝのではあるまいかと思うようになって来た。
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◇
「今年はどちらへ?」と聞く人がある。その人は私が今年も山へ行くものと思っているのだから、私が「エヴェレストへ行きます」と答えたとすれば、「いや! それは大変ですね」といゝはするものゝ「逗子へ家族づれで泳ぎに行きます」と答える程驚きはしない。逗子へ――鎌倉でも静浦でもどこでもいゝが――行きますというと、この人は必ず目を見はり、急に暑くなったので、自分の頭か、私の頭かどっちかにすこし罅が入ったのではないかを確める可く、頭を振った後、いうのである――「へえ、あなたが逗子へ?」或は考えたあげく、「逗子アルプス御登山ですか?」
◇
私は山に登った。そして山のことを書いた。ひとつには書くことが好きだったからであり、ひとつには山のことを書くべく登山したことも二三あったからである。いつの間にか私は山岳家にされてしまった。尤も聰明なる社会は、私が前人未踏の、いわゆる処女峰の征服もしていなければ、冬の山で遭難もしてもいないので先ず三流どころの山岳家と認めているらしい。三流どころの山岳家を最もよろこばせるのは、「今年はどちらへ」と質問することである。山岳家は、それが晩※[#「餮」の「珍のつくり」に代えて「又」、U+4B38、99-2]の席上であるならば、テーブル・クロスにフォークの柄で谷を書き、塩をひっくり返して山をつくり、「北穂」の第三ピークと第四ピークとの関係を説明するであろうし、それがカフェーであるならば、コックテールをつくる氷の一片を貰い受け、女給のヘヤ・ピンでそれに穴をあけては、この夏行かんとする劔岳の平蔵谷の上方の、ステップの切りようを語って、女給の胆と自分の財布とを寒くすることであろう。
◇
もちろん私はテーブルマウンテニヤでもなければ、カフェーアルピニストでもない。だが三流の登山家であることは、聰明な世間も、愚昧な私自身も知っている。そこで世間は私に「今年はどちらへ?」といゝ、私は非常な犯罪、例えば殺人を、打ちあけでもするかのように、声を低くし、世間の耳に口を近づけて――「誠に相済みませんが、今年は会社が忙しく、その上赤ん坊がまた一人殖えたので、山へ行く費用が出来ません。ですから女房と子供とは千葉にある女房の実家へやり、私は時々浅い海でボシャボシャやりに行くつもりです。」というのである。
◇
山も好きだが、海とても嫌いではない。只、海岸の生活――夏の――に、いろいろと気に入らぬ点が多い。潮風がベトつくし、ねむくなるし、おまけにマック・セネットのバッシング・ガールみたいなのが横行濶歩して、マック・セネットのバッシング・ボーイみたいなのと、ふざけ廻るし、とにかく宜しくないです。
◇
バッシング・ガールにはおどろいた。映画専門の雑誌に出ているのを見た時には、一寸見当がつかなかったが、「マック・セネットの」とあるので之は Bathing Girl のことだと知られた。読みも読んだりバッシング! 所が、どうやら、バッシング・ガールという言葉が出来てしまったらしい。プロマイド、スチール、オーゲストラ等と同じく、正確に、又はより原語に近く、発音しては、通じない言葉である。
◇
それはとにかく、私は海それ自身は好きである。すでに太平洋を渡ること三度――と、大きく出ましたネ――は、どうでもいゝが、この前の日曜日、真鶴岬の突端まで行った時など、本当に海を讃美した。何十尺かの断崖を下りると、岩の磯で、そこの烈日の下で裸になった私は、ピョンピョン跳ねた。岩が熱かったからばかりでは無い、子供のようにうれしかったのである。太陽と南風とを膚に感じて、今新しく生れたような気がしたのであった。人が見ていたら、私はこの磯で、極めてリディキュラスな骸骨踊を演じたことであろうが、手をあげ、足をあげ、岩からいきなり海へ飛び込んだ。
水は深く澄んでいる。海藻、魚、かに……私自身の足が青白く綺麗に見えた。波はほとんど無かったが、大島の方から相当大きなうねりが来て、入江のようなこゝには、かなり強い水の起伏があった。泳ぎ得る者のみが持つ自信で、私は私を海にゆだねた。こゝの岩と、水と、海藻と魚とはベックリンの領域である。マーメードはいなかったが、それはそれでよかったことである。
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ボツボツと、ひまにまかせて、あちらこちらの峠を歩いて見たら、面白いことだろうと思う。この「ひま」がいつになったら出来るか判らぬが、また出来たにしても、日本中に峠と名のつくものは大変な数だろうから、果して生きている内に、そのいくつを越すことが出来るやら、見当もつかぬが、とにかく私は、時々そんなことを考える。
◇
今日、普通に行われる形式の登山、即ちスポーツの一つとして山に登ることは、比較的最近の流行である。それ迄の、長い時代を通じて、山、あるいは山脈は、邪魔物でこそあれ、人間の憧憬の対象とはならなかった。邪魔物である山は、同時に魔物であった。山は恐るべきものであった。そこは悪魔の住居であった。人は何かの――商業軍事その他――必要があって、山の向うの地へ赴かんとする時、その山脈中で、最も越えやすい点を求め、こゝを通った。
◇
最も越えやすい点は最も低い地点である。だが必ずしも、最低ということばかりが条件になりはしない。そこに達する迄の地形、地質が大いに関係する。とても登れぬような谷があったり、必ず雪崩の墜る斜面を通ったり、路をつけ得ぬような土砂の場所を横ぎらねばならぬのでは、そこを通る人は全然無いか、あるいは追々減って行くかする。そして、最低ならずとも、これ等の条件のよい地点が選ばれるに至ろう。要するに山脈を越えるのに最も都合のよい地点が峠になる。
いつの間にか単に山嶺を極めるということに興味を失いかけた私は――これは私の登山生活に対する一種の哀歌であるかも知れぬ――山嶺と山嶺との間に位し、一地方と他地方とを結ぶ峠に興味を感じ出した。もっともこれは私ばかりでなく、山の友達の、殊に私位の年配の人の大部分がそうであるらしいが、所謂前人未踏、又はそれに近い氷雪の峰に立ってグローリイを感じるよりも、昔から多くの人が通った峠の路を歩いて、そしてそれ等の人々のやったことや、考えたことや、感じたことを漠然と、リトロスペクテイブに空想する方が、面白くなって来たのである。
◇
何故この山脈を越すのに、この特定の一点を選んだか……地図でいろ/\と考え、さて実際歩いて見、土地の古老に質問を発すると、交通、政治、その他のあらゆる方面から興味深い解決が与えられることがある。或山脈の鞍部の一地点が、峠として選ばれたのが、必ずしも前に書いたような純粋な地理的、地質的の原因ばかりによらぬことが、意外に多いのを発見し、我々は「人間」、ことに昔の支配階級、大名とか地方の有力者、政治家とかいう人々の心の動きに、不思議を感じたりする。
理窟をぬきにして、峠の面白味は、予期せざりしを見ることである。これは必ずしも峠にかぎったことではない。山の峰、尾根、どこへ到達しても、同様であるが、峠はむかしながら「人」に縁が深いので、大きくいえば人文的な面白味に富むこと、他に比して多い。
今年の六月、上州から三国峠を越して越後へ入った。上越南線の後閑から谷に沿って、その谷のどんずまりの法師温泉というのに一泊、翌日は急な、山蛭の多いという間道を登って三国峠へ。ひどい風と雨を含む濃霧とで、景色はまるで見えなかったが、温泉を先発し、峠の権現堂で我々を待っていた、三国峠を越すことこれで十三回という一人旅のおばあさんから、この峠に関する最もエロティックな怪談を聞きながら、広い、庭芝を植えたような道を、浅貝の宿へ下った。(このおばあさんは、立場立場で洒々と恰で昔の雲助みたいで、うるさくて仕方が無いから、やがて別れた。)
かくて期待していた三国峠は、まるで駄目だったが、そこから六里ばかり下った芝原峠というので、私は予期せざる興奮と喜悦とを味ったものである。第一曇り勝だった空が晴れて、北国には珍しい、澄んだ色を見せた。午後四時、幅の広い、白い道を、何度か大きく曲って登りつめると、突如目の下に、美しい水田!それから人家、目の前に上田富士の秀麗な姿。それ迄、米も出来ず、畑のものも出来ず、昔は三国越しで賑っていたが、今では見る影もなく衰微したいわば灰色がかった街道をボツボツと歩いて来た私にとって、この、田植を終ったばかりの水田が、日に輝く有様は、プロスペリテイその物のように見えたのであった。
◇
東京附近から始めて、大小とり/″\の峠を歩いて見たいと思っている。両三日前、松井幹雄氏から「大菩薩連嶺」という著述を贈られた。大菩薩、小仏………先ずあの辺の秋をさぐろうか。
(四・一〇)
ウィンター・スポーツにもいろいろあるが、いずれも雪か氷かを必要とするものであり、従って冬が暖くて、雪が降らなかったり、氷が張らなかったりすると、ウィンター・スポーツマンは上ったりである。もっとも氷は四季を通じて人工的に出来るから、夏、両国の国技館でスケートをやったりすることもあるし、また伯林や倫敦では、雪の代用品を製造し、百貨店の中でスキーをやっているそうだが、スケートはとにかく、スキーは屋内でやっては本当の味は出ないにきまっている。
◇
こゝ数年間にスキーが流行して来たことは、誰でも知っているが、驚くばかりである。世間には流行というと一も二もなく渋面をつくる人があるが、スキーの流行は大いに結構だと思う。暮から正月の休を、金があっても無くても、酒を飲んで廻ったり、百人一首で畳の埃を吸いながら夜更ししたのに比べれば、一日中紫外線の多い雪の上を動き廻り、夜は疲れて早く寝る方が、どんなに健康に適しているか、素人考えでも判る。おまけにこれが、六才乃至六十才の人々に出来るスポーツだから余計いゝ。
◇
スキーは安くなった。日本でいゝスキーが出来るようになった。関税が下ったので、舶来のスキーも安くなったが、和製で結構間に合うようになった。
ジャパン・キャンプ・クラブという会でスキーをやる人約百名に手紙を出し、スキーは舶来と和製とどっちがいゝかと質問した。その返事中、どうしても舶来には負ける……という意味のはたった一人で、あとは全部和製でいゝ、いや和製の方がいゝ位だというのだった。
もっともこれはスキーだけの話で、これが締具、つまりスキーを靴に取りつける金具と革とでつくった品の問題になると、恐らく舶来品に信用をおく人の数がもっとウンと増加したろうと思う。
◇
スキーが流行する当然の結果として、スキーのポスターや漫画が盛んに出現して来た。その多くが、スキーをやらぬ人の手になっているらしいのも見逃せぬ事実である。漫画に締具をまるで無視して、これではどうしてスキーと靴とが仲よくしていられるか判らぬようなのがあるのは、まだいゝとして、堂々たるスキー場の宣伝ポスターに、こんな形では転倒せざるを得ぬスキーヤーが描いてあるのは、こんなに下手でも安全に、かつ面白く滑れることを暗示しているのならばとにかく、いさゝか微苦笑を禁じ得ない。
◇
妙高山麓の、非常に有名なスキー場へ来たお金持らしい夫婦づれ。一台四十円もするような舶来のスキーをはいているのに、どうしてもうまく滑れない。練習不足もあるにはあろうが、第一スキーがねっから雪の上を滑らない。……というのである。相談されてスキーの底を見ると、まるで足駄の歯の間に雪が詰ったような工合に、五寸ばかりスキーの全長にわたって雪がくっついている。何か塗りましたねというと、えゝ、ワックスを塗りましたの返事。ポケットから出したのが、固い急斜面を登るにはもって来いのワックス、それをコテコテ塗って、フワ/\な、やわらかい新雪の積った緩傾斜をすべり下りようとするから、雪はよろこんでスキーにくっついたのである。何故またこんなワックスを塗ったんです? と聞くと、だって某運動具店でスキーを買った時、そこの店員が、スキーにはワックスが絶対に必要です、これもお買いなさいと云って、これを八十銭で売ったのですとのこと。
◇
スキーの流行はいゝ。だが、あまり流行するスキー場は困ったものである。
第一宿屋が、六畳に五人、八畳に十人。これは我慢するとして、スキーをやる場所が夏の由比ガ浜か、晩方の銭湯みたいに混雑するのは、我慢出来ない。
こんな場所で、すこし出来る人が、所謂初心者から立て続けに受ける質問は、どうしたら止れますか、どうしたら曲れますか。
曲るも止るも、先ず真っすぐに滑れてからのことではありませんかというと、だってこう人が多くては、真っすぐには滑れませんとの返事。
この節、温泉は無くとも、雪の質のいゝ、変化に富む斜面の多い場所へ行く人が多くなったのも、もっともなことゝ思う。
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世にスポーツの数は多けれど、スキー位人を夢中にするものは無い。年齢、性、社会的の位置、その他すべての区別無しに、一度スキーをはくと、スキー・マニアになって了い、一年中、ねても覚めても、スキーのことばかし考えるようになる。これ一つには、スキーが冬に限り、而も特定の、即ち雪の多い地方に限って可能なので、いつ、どこでも出来る訳に行かぬから、人のあこがれの念を強くするのであろうが、何といっても、あの豪壮な味は、特別なものである。芥川龍之介氏の死を惜しんで、ある将軍は「文芸春秋」に、もし芥川氏にしてスキーをやっていたら、自殺はしなかったろうと発表された。これにはいさゝか痛み入らぬでもなかったが、事実スキーの好きな人は、これ程の信念を持つことさえある。
僕はスキーは駈け出しならぬ滑り出しで、二三年前の正月、信州の野沢温泉でやったのが初めてだが、もう立派なスキー・マニアになって了って、どうにもこうにもならぬ。スキーを足につけたのは、十数年昔、仙台の高等学校にいた時だが、これは「やった」とはいえまいと思う。高田の聯隊にいた大尉殿が兵式体操の先生としてやって来て、二三の有志に所謂スキーを教えたが、物干しに使用するサンマタみたいな竹の棒を斜にかまえ、両膝を「その間にはさんだハンケチが決して落ちぬ」程度にくっつけ、いわばサンマタを呑んだように、シャチコバッテ、只さえ雪のすくない仙台で、凍った積雪や枯れた草の上を、ザラザラ撫でて歩いたのだから、こいつはスキーではない。要するに、二度目に改めてスキーをやってから、僕は実に数回、ひまをつくり、金を工面してはスキーをかつぎ出したものである。上手にでもなるのならとにかく、いまだクリスチャニアとテレマークの区別さえ出来兼ねる位下手糞でありながら、もうこの冬のスキーを楽しみに、寒い風が吹くとワクワクしている位のマニアだ。このマニアが、浅い経験から、スキー・マニアの種々相を書くというのだから、こいつも、すさまじい話であるなんめりではあるまいか。閑話休題――
「あの時は、[#「「あの時は、」は底本では「 「あの時は、」]あすこで右のスキーをもっと前へ出せば、うまく行ったんだな……」と年がら年中、どこかの斜面でテレマークをやりそこなったことばかり考えているので、つい処を選ばず所謂テレマーク・ボジションをやるような病人。電車の中では、つり革につかまらず、両脚を変な恰好にしてバランスをとり、会社の廊下のリノリュームに油を塗ったばかりだと、そこを滑って重役に衝突し、日曜日には縁側から張板を庭にかけ渡した上でクラウチの真似をやり、事務所の回転椅子では、ジャークド・クリスチャニアを練習する。
六十度の斜面――実はせいぜい六度か七度――を、雪煙り立てゝ直滑降した時の気持が忘れられず、酔っぱらっては場所錯誤で、天婦羅屋の二階から、段々をドサドサと墜ちるマニア。
物事万事研究にしくはないが、やたらにスキーのそこを削り、こゝに板をはりつけ、そこに漆を塗り、こゝに墨をつけ、さて、これが物理的には雪の面にこうなり、どうなるに違いないと、誰をつかまえても研究発表を始めれば、もうマニアックである。
雪はもともと、水だから、ころべば濡れる。濡れるのがいやだとて、まるで難船をたすけて暗夜出かける水難救助隊員みたいに、防水服、防水帽子、レインコート、手首足首をゴム・バンドで締めてスキーをする人。雪は入らぬが汗が蒸発しないから、結局グショグショになる。
所謂ゲレンデで、斜面の中途に立ちどまり、知人、不知人の差別なく、コーチするマニア。「そこんとこは、君、こういう風にやるんだよ」で、ドサンと倒れたりする。
いつ、どこで、雪崩にあうか分らぬからとて、赤い雪崩紐を引きずってゲレンデを上下、左右し、常に腰にショベルを下げているマニア。
これも一種の用心のマニアだが、スキーの修繕道具を無闇に沢山持って出かけるマニアである。やっとこ、ナイフ、錐、針金位迄は無事だが、スパナァ、メートル尺、鉄床になると、もう病人だ。面白いのは、スキーの宿で道具マニアが道具をひろげ、その講釈をするのを聞くこと。
スキー・マニアこゝに侵入すれば、鍼薬も施すべからずである。元来、ワックスとは、スキーの裏に塗りつけ、上登に際して後すべりを除き、下降に際して滑りをよくし、また雪がスキーにくっつくのを防ぐ為に使用するものであるが、温度や雪の質によって種類を異にし、スキー大会等で一軍の監督が最も苦心する所である。然るにこれを、我々程度の素人が、いろいろと買っては試用する迄はいいが、自分で考えて、アラビアゴム、蜂蜜、蝋燭、ポマード、コーンスターチ、布海苔の混合物をスキーに塗ったら、底に雪が一尺もくっついて了ったなんてのは、まさに大病人といわねばならぬ。
初めの間は、修繕道具を入れる袋を自分で考えてつくる位だが、第二期になるとスキー杖の輪をつくり、第三期に達すると雨戸をひっぺがしてスキーをつくり、そこで成仏する。
主としてバア、カフェー等にてスキーのセオリーを論じ、時にジャンプ・ストップを実演して隣の客の卓子を倒し、撲られることあり。
これは春夏秋の三季節中、毎日、靴や締具にヴィスコール、スキーに麻の実油、修繕具に機械油と、油ばかり塗り込んでいるマニアで火事でも起れば、まっ先にポーッと焼けて了う人。
三千度ころばねばスキーは上達せぬという言葉を固く信じ、右手にナンバリング・マシン、左手に手帳を持ってはやたらに転んでカチン、カチン、顛倒数が三千に達するのをよろこぶマニア。
さーっ!とテレマークをやり、えっちらおっちら其の地点まで上って行き、雪上のスプールを見、さてHOW TO SKIをルックサックから出して、それに出ているテレマークの写真と自分のスプールとを比較し、泣いたり、笑ったりするマニア。他人がそのスプールの上を走ると、激怒する。
「君、[#「「君、」は底本では「 「君、」]済みませんがこゝに立っていて、僕のクリスチャニアを見て下さい。この絵とどう違うか……」とて、知らぬ人に「スキーイング・ターンス」の説明カードを手渡しその前で何度もクリスチャニアをやるマニア。こんなのに出くわしたら、カードを棄てゝ逃げないと肺炎になります。
恋を思案のほかとして八百八病スキー・マニアも数多いが、こゝらでやめる。以上十四のシンプトン、ことごとく実験済みとは、僕のスキー・マニアも膏盲に入ったものなり。
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◇
暑くなると私は山を思う。そして、もう随分長いこと山に行っていないなと嘆く。これは、然し、正確な嘆きではない。現に今年の四月、私は京都帝大の人々と富士山へ行った。頂上へは行かなかったが、御殿場口の二子山という場所で十日に近い楽しいキャンプ生活をした。それなのに、そんなことは忘れてしまうのはどういう訳だろう。
◇
もう廿年も前のことである。私はニューヨークにいた。あすこで下町と呼ぶ商業区域を、何のあてもなく歩いていた七月のはじめ、高層ビルの間から遠くの空に白い雲がむくむくと立っているのに気がついたとたん、私は日本郵船の支店へ行って横浜までの船室を予約した。こんな所にいないで、早く山のある日本へ帰ろうと思ったのである。米国にだって山はあるが、大西洋岸には、夏でも雪の残る山はない。私はそこに三年近くもいたのである。
◇
「夏でも[#「「夏でも」は底本では「 「夏でも」]雪の残っている山」……私が考える山はこれであるらしい。
だから四月にスキーで登った富士山のことを、とかく忘れ勝ちなのだろう。と同時に、「苦しい登攀」という条件もある。今までに何度か登った針ノ木の雪渓にしても、一番よく覚えているのは、一番辛かった時のことである。
◇
私は米の飯は一日二回で十分といわれる坐業者の一人である。平素肉体を酷使することは全くない。かるがゆえに、肉体の全力を傾けて山に登ることは、深く印象に残る。上高地から槍ガ岳の肩までの路にしても、カンカン照りに重い荷を負って行った時の印象の方が、秋の初め、時雨を番傘でよけて行った時のそれよりも、はるかに生々と記憶に残っている。
大町から富山にぬけたのは、大正何年だったろうか。梅雨前で籠川の谷は扇沢の下のあたりから一面の雪、大沢小屋には窓の雪を掻きよせて入った。勿論番人はいない。翌朝早く出発しようと予定は出来ていたが、跡片附けに時間を取り、いよいよ出かけたのは十時に近かった。照りつける日光も激しかったが、雪の反射がまた大変で、汗は出る、雪は食えず、やっとの思いで針ノ木峠の頂上に着いた時には、口も利かずルックサックを落し、はいまつの上に大の字にねころがった。昼飯時はとっくに過ぎているのだが、飯を食う気もしない。平の小屋の方へ下りるのさえ、実はいやいやだったが、紫丁場と呼ばれる水呑場へ来た時のうれしさは、まったく言葉ではいゝ現わし得ぬほどであった。
◇
雪と太陽と水と……この三つがふんだんにある山はたのしい。夏の山のいゝところはそこにある。この点で私は針ノ木岳に近いマヤクボというところを好む。けわしい岩が屏風のように立ち、その下が草地、草地の隣に大きな雪田がある。雪田の下の方では水がチロチロと溶けて流れている。私はこの草地で、半日を完全にのびていたことがある。まだ針ノ木峠に小屋の出来る前で、テントはマヤクボの小さい鞍部に張っておき、下の草地へ遊びにいったのである。シナノキンバイとハクサンイチゲの花盛りだった。
◇
山登りは楽ではない。汗が出る、息が切れる、心臓はドキンドキンと鳴る。ルックサックが肩にめり込む……それだけに山での休息が有難く、うれしく、生きていることをしみじみと感じる。草の上、平な岩の上、はいまつの枝の上、どこにでも長々とねてしまいたがるのだ。はいまつには、たいてい、石楠花がからみあっている。はいまつの黄金色の花粉がむせるように舞い立つところ、石楠花のつめたい花弁が頬にふれたりすると、詩人めいた気持が起って来る。
◇
山の真昼は静かである。聞えるものはアブの羽音と、場所によっては遠く深い瀬の音だけである。時々、カラカラと音がするのは、どこかで石が落ちるのだ。山は石を落す。変らぬような山だが、その実、絶間なく小さな変化が起りつつあるのだ。切りたった岩壁がすこしずつ崩れて、その下に扇形のガレが出来る。そのガレに、いつの間にか、ミヤマハンノキとかタケカンバとかいう木が生える。
◇
静かな山の真昼時、私は不思議な音を聞いた。ヒューヒューと、まるで笛である。峰を渡る風でもないし、岩燕の声でもなし、およそ私がそれまでに聞いたどんな音よりも可憐でもあり微妙でもある。何だろうと耳を傾け、息をとめると、その音はやむが、間もなく、また聞えて来る。が、しばらくして、私は馬鹿みたいにゲラゲラ笑った。この音は、私自身の鼻息だったのである。乾燥しきった高山の空気に、さっきまで汗と一緒に流れていた水っぱなが乾き、その一片が鼻毛にこびりついて、オルガンの瓣の役をしていたのである。
◇
八月に入って暑さはいよいよ激しくなって来た。私は、今年も行くことの出来ない山を思っている。山を急ぐことの嫌いな私は、短い休暇では山に登れないのである。
「短い[#「「短い」は底本では「 「短い」]休暇」とあるが、考えて見ると満洲事変の起った時以来、僕は夏休みをとっていない。旧体制式の夏休みというようなものを我々にゆるさぬ程、日本は大変動を続けているのである。それがたのしみで、一向に休みをとりたいと思わない。どうやら工面していた正月の休みも、こゝ数年来は中絶である。それでも富士山へ行ったり、近くの山を歩いたり、昔のことを考えたり、依然として山々との縁は切れていないから面白い。
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◇
秋が来て涼しくなると、身体はしゃんとするが、精神は意気地なくだらけてしまう。夏中忙しかったし、こんな暑さに負けてたまるかと、意識しないながらも頑張っていた。その緊張の反動なのだろう、朝飯が済むと、もうねむくなる。煙草に火をつけて縁側に坐り、空をながめては、ぼんやりと旅を思うのである。
◇
九月廿日――丁度昨日か今日のことだ。遅くとった夏休みに、北アルプスの針ノ木岳に登り、妙な谷を我武者羅に大沢まで下った。そこの山小屋で、山での最後の夜、窓硝子に、灯かげがさしたので「誰だ?」というと「石川さんはいるかや?」との質問。大町の案内が二人、夜路をかけて私を迎えに来たのだった。東京から電話で日清戦争が始ったし、関東地方は大地震だからすぐ帰れといって来た。大沢にいなければ針ノ木峠の小屋でも、どこでも、とにかく石川さんを見つける迄は登る決心をして来たと、二人は三日分の大きな握飯を出して見せた。満洲がゴタゴタしていたことは知っていたが、日清戦争は少々唐突であり、山の頂上で小さな地震は感じたが、関東大震災ならば東京から大町まで電話が通じる筈はない。詳しい事情を聞こうと思っても、二人は何にしても石川さんを見つけて早く帰れと伝えることばかりに一所懸命で、その理由は、本当にそんな電話があったのか、大町での流言蜚語なのか、更に要領を得ない。とまれ、一刻も早く大町に引き返そうと、しらじら明けを待って大沢小屋を出た。露が深く腰のあたりまで濡れた。これが満洲事変の始まりだったのである。この事変が原因して私は米国へ行き、帰国して一年足らずで英国へ行った。このようなあわたゞしい生活の出発号令は、実に日本アルプスの山小屋へ、夜道をかけてやって来た二人の山案内が、ゲット・セット・ドン! とやったようなものである。
◇
モスクワ、ミンスク、ネゴレロエ――国際列車は愚図々々と執念深く、ポーランドへ近づいて行く。ネゴレロエがソ連の国境駅でポーランドのそれはストロプセである。冬のさなか、赤松の林に雪が凍りつき、国境の警備は極めて厳重であった。やぐらの上から機関銃で列車の屋根を狙う兵隊、レールの横にはいつくばって汽車の底を見守る兵隊、あの兵隊どもはどうしたろう。ソ連兵は恐らく勢よくポーランドに入って行き、ポーランド兵は闇雲に逃げて了ったろう。
◇
ドイツとチェッコスロヴァキアの国境をなすリーゼンゲビルゲに行ったのも、思えば昔のことである。八月だか九月だか、よく憶えていないが、相当に寒く、山頂で雹にでくわしたことから考えると、八月ならば終りに近く、あるいは、あれも九月の今頃だったかも知れない。快晴の樅の森を登って行くと、霧がまいて来た。登ったのにリーゼンゲビルゲ(巨人山脈)中のシュネーコップフ(雪頭山)である。もう頂上も近かろうと思われる頃、横なぐりの風が霧と一緒に雹を吹きつけて来たのである。「頭」を以て呼ばれる山だけあって頂上は平な草原で、別に国境監視兵がいるとは思えなかった。
◇
この年の春、私は碌にドイツ語も出来ぬのに、たった一人で南ドイツの旅をした。ガーミッシュパルテンキルヘンでは林檎の花盛り。ツーグスピッツェの氷河はつめたく岩は黒かった。もともとこの山に登ろうとして出かけたのだが、伯林で買った登山靴に足をやられ、やとった案内者まで解雇せざるを得ず、まことに残念だったが、却ってその方がよかったかも知れない。というのは、私はパルテンキルヘンの靴屋がつくった丈夫な半靴を一足買い、山麓を歩き廻ったからである。樅の森、牧場の草地、大きな九輪草、白壁に聖書の中のエピソードを画いた農家、皮の半ズボンを刺繍したズボンつりでつった男、緑と赤と白のこまかい模様の衣服を身につけた健康そうなチロル娘――山の向うはオーストリアだといっていたが、あの国境線も現在では無くなって了った。
◇
ミュンヘンからニュールンベルグ、ローテンブルグ、そしてこの旅はチューリンゲンの森で終った。ニュールンベルグはライラックの花がお城の空堀に咲き――あゝ、マイスタアジンガァの甘美な音楽とハンス・ザックスの店における若い二人の最初の出合い。あの素晴らしいオペラも今日は欧洲には行われぬことであろう。それとも伯林では、このシーズン、要塞の名につけたジーグフリードを主人公とするライン河のオペラを盛大にやるか。ヒットラーはワグナアが好きだ――ローテンブルグでは城門のそと、大道の真中に立つカスタニアの大木が、あふれるばかりに白い花をつけていた。
◇
チューリンゲンに入っては、タンホイザアのワルトブルク、ゲーテが「さすらいの夜の唄」を書いたキッケルハーン……ひとりの旅であっただけに印象が鮮かである。
◇
そういえば、晩秋初冬の頃の、スコットランドの旅も一人だった。朝鮮の旅も一人だった。どうも旅は一人に限るらしい。淋しさをしみじみ味わおうとか何とか、そんな感傷的な意味ではなく、一人だと景色にも人間にも、全身をあげて、立ち向うことが出来るからだ。新婚旅行、愛人との逃避行、どっちもやったことが無いからよくは分らぬが、相手に心を奪われることの方が多くなるのではあるまいか。よしんば男同士の、どんなに気のあった友達でも、やはり同伴者がいると対人要素が入りすぎる傾向が認められる。
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今年の夏、私は男の子二人を信州の大町へ連れて行った。日曜の夜向うに着き、月曜日には汽車で梁場へ行った。こゝは青木湖の水が中綱湖へ流れ込む場所で、まことにやなをかけるに適したところである。大町を出ると山が見え、木崎湖が見え、やがて中綱湖がとろりとした水面を見せる。数十回通った路ではあるが、それだけになつかしく、子供はほったらかしておいても、兄貴の方は大町は三年目なので弟に何か教えてやっているから、ひとりで景色をながめていた。が、ふと気がつくと、恐らく白馬にでも行くのだろう、軽い登山姿の若い男女が斜め向うの席にいる。はじめ私は女学校の生徒が先生に連れられて行くのかと思ったが、それにしても一対一は変だし、結局これは若い細君が女学生時代のセーラーを着て来たのだろうと判定した。それはどうでもいゝが、この二人がねっから湖水も山も見ていない。喋々喃々と、お喋舌りばかりしている。別に羨ましかった訳でもないが、あれでは二人で山に登って下りて来て「どこで君が何をしておかしかった」「どこであなたが何と云って面白かった」以外に、何の印象も残るまいと思われた。ひとのことだからそれだっていゝ。何も小言をいう筋は無いが、少々下らないような気がした。
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私は随分長い間、山に登っている。その記憶の中で一番、はっきりしているのは、ある尊いお方が穂高から槍へ行かれるのに、新聞記者としてお伴した時のことである。私の社だけで社員が八人、これに連絡係や荷物持ちの人夫が、何でも四十人に近かった。一行が穂高に登られるのについて私も登り、前穂の一枚岩と呼ばれる所から私一人上高地へ引き返した。上高地から鳩や写真の材料や食料を持つ人夫の一群を引率して、谷ぞいに槍へ向うためであった。この一枚岩から上高地までの短い時間が、まるで水に洗われたボヘミア硝子のように、鋭く、明るく、あざやかな印象として残っているのだ。それ迄は大人数だったのがたった一人になった。その対照もあるだろうが、あの朝の晴れ渡った空、乗鞍の山のひだ、同じ山の肩に浮ぶ小さな雲の塊(いやな雲だと思ったが、果してその日の午後は猛烈な雷雨になり、私は「五千尺」の囲炉裡で居ても立ってもいられぬ気持がした)――両手を上衣のポケットに入れて、ポッコリポッコリ山を下りて来た時は、本当にたのしかった。
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新婚旅行は羨ましく、愛人との逃避行は洒落ていると思う。だが、今迄の経験からすると、旅は一人にかぎる。
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今までに何回かいったことだが、夏山の季節に入ったについてまたしても繰返していゝたいのは、登山の注意である。
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今年の春、上越の谷川岳では致命的な遭難が多く、しかも名家の子弟が犠牲者の一人だったりしたので、社会の関心も大きく、新聞雑誌でも取上げて問題にしていた。あの山には悪い岩場があり、雪崩の恐ろしいのが出る。一般人がこれから出かける山には、岩場はあっても雪崩は出ない。だから、先ず危険は半分である。だが、時勢の変化を考慮に入れると、夏山の危険は以前にくらべて、増しこそすれ、減じたとは思われない。
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夏の山での遭難原因は十中八九が「無理」から来ていると僕はいう。それは体力に関する無理と、技術に関する無理との二つに分つことが出来る。技術に関する無理とは、たとえば岩を登って墜ちたり、雪渓をグリセードして転倒したりすることである。一口に岩登りといっても難易はいろいろだが、基礎的な練習が必要なのだ。それをいきなり、映画や写真の真似をすれば、あぶないにきまっているし、なまじロープがあるだけに、却って他の人々に被害をおよぼすことさえある。
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雪渓に両足を揃え、杖を後斜めに構えてすべり下るグリセードは、誰にでも出来そうだが、子供の時から馴れている人は別として、やはり相当な練習を必要とする。雪や草地の急斜面の横断、丸木橋の渡り方――このような場合に事故を起すのは、技術的な無理をあえてするからである。
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体力に関する無理とは文字その通りで、別に説明することはあるまいと思うが、たとえば普通一日行程六時間とされている山路を、身体が弱っていたために八時間かかったとすると、最後の二時間は全く無理をしていることになる。また身体の条件はよくとも、途中崖崩れがあって、一旦とんでも高所に登る必要があったりして、体力と時間を予定以上に消費する場合も、同じことになる。身体が弱ってい、あるいは弱って来ると、ちよっとした石に蹴つまづいてもひどくころんだり、雨を伴う寒気や空腹が極度にこたえ、致命的な結果に陥ることがある。
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右の二つはしばしばコンビとなってやって来る。これだけでも相当危険性が多いのに、特に今年は装備について考えねばならぬ点が多い。新しく登山具類を買った人は大きなハンディキャップを持っている。これに加うるに、どこも同じ人不足で、案内人も山小屋の従業員もウンと減っているから、自然登山者へ払われる注意の質も量も減っている理窟だ。
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いわゆる日本アルプスの登山はたしかに便利になった。夜行で立ち、バスを利用し、その日のうちに三千メートルに近い山頂に達することも可能である。事実そのようなプランを立てる人が多い。平素鍛錬の出来ている人々にはこれでもよかろうが、事務室やら、工場から、突如出かけて行く人々は、よほど考えてくれないと困る。汽車の中で眠れればまだしも、何時間も立ち通しということも、或は当然とされる昨今、くれぐれも無理をしないようにしてほしい。
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山はいゝ、山ほどいゝものはない。出来る人はみな山へ行って貰いたい。また山に入った以上は、多少の無理も忍ばねばならぬ。あるいは無理があるのが登山の魅力の一つであるともいえよう。だがあとから冷静に見て、どうも遭難者の手落が原因だったとしか思われぬような事故は、断然これを避ける工夫をして行かなくてはならない。いつでもそうだが、殊にただ今は人的資材の重要な時だ。僕みたいな登山道の隠居役がこんなことを繰返していう真意は、実にそこにあるのだ。
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八ガ岳の本沢温泉、蔵王山の遠刈田、青根、黒部の祖母谷、上高地、蒲田等々、考えると、これでも相当方々の山の温泉に行っている。それ等の中で本沢温泉こそは僕が最初に登った山らしい山の温泉なのだが、大きな樅の林の中に板屋根の家屋があったことだけしか印象に残っていない。二十名を越す団体だったので、何か用事を持ち、その方に気をとられていたのかも知れない。
◇
祖母谷は、今はどんな風だろうか。もう二十五年に近い昔のこと、大町から針ノ木を越して劔に登り、池ノ平、猿飛を経て、大黒を越え細野へ出ようという旅の途中で一泊した。まだ日の高い中に着いて見ると、無残に崩壊した建造物が残っていて、ブクブクの畳や水ぶくれの坊主枕が薄気味悪かったが、泊り準備は人夫衆にまかせ、僕等は河原の砂を掘って浅い浴場をつくり、砂の中から出て来る湯が、あまり熱くなると、川の水を流し込んではうめた。その夜は残りすくない食糧を、ありったけ出し、ひろって来たビールの空瓶に蝋燭を立てゝ盛大な宴会を開いた。あすの晩は大黒鉱山で泊めて貰える見込がついていたからである。地熱のせいか、この附近には大きなガマが沢山いて、僕等は泉鏡花の話などしたものである。
◇
蔵王山は二高にいた時登ったが、遠刈田や青根でブラブラしたのは高等学校から大学へうつる間の夏休みだった。その頃の遠刈田は不潔で蚤が多く、青根の宿は部屋と部屋との境が紙よりも穴の方が多い障子で――「その頃の」というよりも、「当時の僕が通された部屋は」といった方が穏当かも知れない――一向に有難くなかったが、両方の中間にある早川牧場で暮したいく日かは、温泉こそ無けれ、いまだに楽しい思い出である。僕はこゝで霧の深い朝晩を送り迎え、懸樋の水にひたした野生の菜のたぐいの美しさに心をひかれ、更に長い乾燥し切った昼間は牧場に出て草にねころび、何とかいう名の中年輩の牧夫と長話をした。この牧夫は、どういう了見か知らぬが、兵隊帽の庇のとれたのをかぶっていた。三年間の仙台生活で東北辯も了解できたのであろう、ながっぱなしの内容は勿論忘れて了ったが、まざまざと思い出すのは空を動く雲の形の面白さと、大小厚薄の異る雲が山に投げかける蔭の変化の美しさとである。後年メレディスの詩を読み、描写された自然の美をいきなり感得した素質の一部分は、恐らくこの東北の牧場で身につけたことだろうと思う。
◇
飛騨の蒲田に一泊したのも、長い山旅の終りであった。而もそれは新聞社の特派員として、あるお方のお伴をした山であったし、とにかく、相当以上に気づかれのした山だった。それが無事に終って、高貴のお方は蒲田で御中食後、直ちに高山方面へと出発され、随員、警察官、新聞記者団合計四十名も前後して去ったが、僕は万事を岐阜通信部に一任して、蒲田から上高地に引返すことにした。
その日の中に、中尾峠を越して上高地へ出られぬこともなかったのだが、僕は蒲田がとても好きになり、こゝに一泊ときめた。嵐のあとみたいに静かになった蒲田の部落は、午後の太陽の中で、如何にもねむそうだった。百日草が咲き、玉蜀黍の葉が風に鳴り、日かげは秋である。こゝの温泉も河津浪で流されたばかりで、道路を下った河原のゴロタ石の間に深さ一尺ばかりの溜り水に過ぎなかったが、日暮に近く、長々と身をよこたえて、あれで三十分ものびていたことだろうか。その晩の食事に、一尺を越す岩魚とさゝげが、大きな吸物椀のふたから首尾を出していたことは忘れられぬ。岩魚はもちろん焼いて串にさし天井裏にさして置いたものである。便所には紙が無く、きれいに削った杉の板片が揃って箱に入っていた。
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伊香保も箱根も山の温泉には違いないが、少々便利すぎて僕等の所謂「山」に入るかどうか、これは考えものだと思う。浅間温泉も同様、山の温泉といえるかどうか知らぬが、こゝは山への出入以外には寄らないので、すくなくとも僕にとっては、このカテゴリイに入れてもいゝような気がする。それだけにまた有名な浅間情緒は全く知らない。殊にこの頃は大変な繁昌だそうで、山のドタ靴などはいて行ったら、恐らく玄関ばらいを食うことだろう。幸か不幸か、僕は不況時代にばかり行っているので、いつも大事にされた。だから浅間温泉の悪口を聞くと不思議のような気がする。
ある年の夏、友達三人で西石川に泊った。あしたから山へ入ろうという前晩である。風呂に入り、軽く一杯やって床に入ると、大雨がふって来た。こんなにいゝ温泉の出るいゝ宿屋があるのに、俺達は何を好んで櫛風沐雨の生活に身を投じようとするのかと、何とかゴテゴテいい合ったものだが、翌朝の島々行初発電車には、もうニコニコと乗込む我々であった。
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妙高温泉と沓掛の星野温泉は、高原の温泉といった方がいゝだろうが、妙なことで印象に残っている。妙高温泉へは初夏の候、高田に講演に行った帰りによったのだが、それ迄両三回スキーに行った時のことを考えると、まるで別の所へ来たように感じられたし、閑散だったからでもあろうが、真実家族的に大事にしてくれた。星野温泉は盛夏、軽井沢に出張して一泊、まだ日の暮れきらぬ内に入浴していると、高原特有の物すごい雷鳴があり、硝子一枚の浴室で素裸になっていた僕は、雷に臍を取られる心配をした。というと変だが、何も着ていないで自然の暴威に立ち向うことが、如何に恐ろしいかを経験し、人間は着物を着ていなくては仕方が無いように馴致された動物だ、ということを、しみじみ感じた。
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最後に上越国境の法師温泉。考えると、もう六七年も行っていない。その間に、どんな風に変ったか思いもよらぬが、あすこは春行っても冬行っても、何かしら山の温泉らしいいゝところがあった。一緒に行った人も、紹介した人もみんなよろこんでいたが、近頃はどんな工合か。東京にはちょいちょい出かけるが、いつもギリギリ一杯で、法師まで足をのばす時間が無いのは残念である。
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いよいよ本当の冬になりました。秋の間、盛んに郊外散歩をしていた人々は家にとじこもり、火鉢にかじりついたり、背中を丸くしてこたつに入ったりしているのでしょう。この頃は野も山も静かになって来ました。
勿論寒い時には、着物を沢山着て、温かい部屋にとじこもり、静かにしているのもいゝものでありましょう。しかしながら、外に出て、少々汗ばむぐらい歩き廻るのも中々悪くないものであります。私は、とかくひきこもりがちな女の人達に、冬の山が持つ面白さと楽しさをお知らせしようと思います。それによって、一人でも二人でも、冬の山登りに出かける方が多くなれば、私は本望を達したという訳になります。
冬の山と申しても、富士山や日本アルプス、或はその他の、雪や氷におおわれた高い山をいうのではありません。この様な高い山の冬の登山は、事実面白くもあり、又楽しくもありますが、これは専門家にまかせておいた方がいゝでしょう。第一、支度が大変です。先ず麓から或程度の高さまでは、スキーで登りますが、これとて所謂スキー場で、遊び半分やるのとは、全く趣を異にします。どう違うかはくわしくお話すると長くなりますから略しますが、重いルックサックを背負っているので、身体のバランスがとりにくいことや、場所によって雪の変化が甚しいことなどが関係すると御了解ねがい度いものです。さてスキーが使用出来ぬ程雪が堅く凍りついている場所へ来るとスキーをぬいで、シュタイグアイゼンというものを、靴に結びつけます。これは鉄で出来ていて、六本、八本、或は十本の鋭い歯を持つカンヂキを、麻のさなだ紐で靴に結びつけるのであります。この鋭い歯がサックサックと堅い雪につきさゝって靴がすべるのをふせぎます。これは非常に大切な登山道具なので、万一はずれたりすると大変なことになります。それで、さなだ紐の結び方にも、一定の方法があります。
またこのような場所では、アイスアックスというものが、絶対に必要です。これは直訳しますと氷斧で、皆さんも運動具店やデパートで御覧になったことがあるでしょうが、頑丈なトネリコのステッキの石突と頭とに鉄がついている、その頭の方が斧になっていて、そこで氷をたゝき割って足場を作りながら山を登るのです。どうかして足をすべらした時などこのアイスアックスで、滑り落ちるのをふせぐという、大切な道具です。それで山登りをする人は、まるで武士が日本刀を大切にするように、アックスを大切にし、ステッキには常にアマニ油をぬり、鉄の部分はピカピカ光らせておきます。この放送の原稿を書きながら、私のアックスはどんなになっているかと思った所が、物置のスミの方に蜘蛛の巣にまみれ、赤く錆びているのを発見しましたが、これでは山のお話をする資格はありません。
ところが、先程申したシュタイグアイゼンも、このアイスアックスも、とにかく堅い氷に突きさゝるように出来ているものですから、余程取扱いになれていないと危いのでして、転んだはずみにおなかにつきさゝったり、足に怪我をしたりします。ですから、このような道具を使用する高い山へ行くことは、先ず専門家にまかせておく方が無難だろうと思います。登る登ると申しましたが、山のテッペンで一生を送るのでない以上、山をおりるのにも同様の道具が必要になり、而も技術的に申しますと、下山の方が登山よりはるかに困難で危険な場合が多いのです。
又このような山へ行くと、温度も零点下何度、或は十何度と降ることがありますから、防寒具も充分持って行かねばならず、よしんば山小屋があっても、設備は不完全ですから、自然、食糧、寝具、場合によっては燃料や、テントまで持って行かねばならず、如何に人夫をやとうにしても、相当な荷物は、自分でしよって[#「しよって」はママ]行くことになりますから中中大変です。もっとも、男に負けず、男以上の荷物をしよって[#「しよって」はママ]、どしどし山に登って行く女の方も、あるにはありますが、大抵の御婦人、殊に家庭をもっておられる方々には、この様なことにおすゝめも出来ないし、実際問題として、無理だろうと思います。体力的に無理であるばかりか、時間的にも無理でしょう。と申しますのは、こんな山では、いつ吹雪にあうかも知れず、そのような時にはテントの中なり山小屋なりでいく日でもスクンデいなくてはなりません。大体いく日の山旅をするという予定は立ててあっても、それがどう変化するか見当がつかぬのであります。そうすれば、一家の主婦ともあろうものが無鉄砲にウチをあけておくことが不可能である以上、このような登山はこれまた不可能ということになります。
私がおすゝめする山は、東京で申せば高尾山、あるいは三浦半島の背骨をなす山、大阪で申せば箕面、池田、六甲等北摂の山々、或は河内の山などであります。日帰りで楽に行ける山、或は丘と申した方がいゝかもしれませんが、このような低い山に下駄ばきで、御希望とあらば、ステッキの一本も持って、気軽に出かけて頂きたいのです。
山歩きばかりでなく、すべての運動に洋服がむいていることは、申すまでもありませんが、そのために洋服を作り、おばあちゃんがダンブクロみたいなものを着て、靴ずれの出来た足をひきずって歩くなんてのは、如何に体位向上の今日でも、余り見られたものではありませんから、和服でお出かけになったらいゝでしようが[#「いゝでしようが」はママ]、和服はとかく歩きにくゝ、さりとてしりっぱしょりも少々お色気がなさすぎますから、モンペをはくといゝと思います。話がいさゝか脱線しますが、私は以前からモンペ礼讃者でありました。従ってこの頃方々でモンペが使用されているのを見て誠にうれしく思います。ところが、例えば座談会などで私がモンペの話を始めると、あんな変なものを着て、往来が歩けますかという声が御婦人の間で盛んにおこります。座談会というのは不便なもので、しゃべりたい人が大勢いるものですから、私一人で長い時間話をするわけにはゆきません。それでいつもウヤムヤになってしまいます。今日は幸い放送で、誰も邪魔をしないから、諜舌りたいだけモンペ論をやらせて貰いますが、元来モンペというものは、仕事着なのであります。銀座や心斎橋筋を歩く時、或は人を訪問する時に着るものではありません。東北地方や信州あたりのモンペを常用している場所でも、仕事をする時以外にはモンペははきません。ですから、何もモンペをはいて都会の町を歩けというのではない。そら、地震だ、火事だ、空襲だという時に、不断着の上からはけばいゝのです。その為に、モンペを作っておき、どんな暗やみでも分るような場所に置いておけばいゝと思うのです。
中にはモンペという名前が気にくわないという神経質な人もあります。モンペというのはある地方での呼び名で、地方によってタチ方が違うように、名もちがいます。タッツケ、雪袴などとも呼ばれます。雪袴などは、風流な、いゝ名だと思いますが、どんなもんでしょう。タッツケと申すのも人形芝居で、現に人形つかいが用いている服装なのです。
さて、話をもとにもどしますと、山歩きには四季を通じてモンペが便利ですが、特に冬は、これが温くていゝそうであります。朝、ウチを出る時からモンペをはくことはありません。お弁当の風呂敷づつみなり、あるいは御主人のルックサックの中なりに入れて行き、いざ人里はなれて、山にかゝるという時出してはけばよろしい。そして、はき物は下駄に限ります。草履はすべっていけない。あとがけをすればいゝそうですが、兎角冬の山道は、日中になると霜がとけてぬかるみますから、この点から申しましても草履は不向です。
これで山登りに一番大切な足ごしらえは出来ました。あとは出掛けるばかりです。夏と違って大して汗をかきもしませんから、余り大きな水筒を持って行く必要もありますまいが、魔法瓶に熱いお茶でも入れていらっしやい[#「いらっしやい」はママ]。お弁当も夏と違ってくさる危険はありませんが、御飯等どうかするとひどくつめたくなりますから、熱い飲物が一入うれしく感じられます。
さて冬の山の楽しさは色々ありますが、先ず第一に温かいことが挙げられます。日蔭の道には一日中霜柱が立っていたりして、これは本当に寒いのですが、一度そのような所を通りぬけ、日向の風をよけた場所に出ますと、こゝは又驚く程温かいものです。枯草が太陽の熱を思う存分吸い込み、吸い込み過ぎてその熱をはき出しているという感じさえします。このような枯草や落葉をかき分けて見ますと、弱々しい緑色の草の芽がひそんでいたりします。冬のさなかというのに、自然は、もう春の支度をしているのであります。
同じようなことが樹木についても見られます。常磐木以外の木はすべて葉を失った裸木ですが、細かに見れば、今年の葉が落ちたあとには、もう来年の葉の赤ん坊がちゃんと出来ています。勿論厚い外套をかぶり、一寸見ては葉だか何だか分りませんが、一陽来復とともに、この赤ん坊は外套をぬぎすて、のびのびと手足をのばすのであります。葉が落ちたのは、来年の新しい葉の邪魔をしてはならないから、つまり新しい葉に場所をゆずったのだということを感じます。大きなことをいう様ですが、人間の死ぬこと生れることも、何かこれに似ているのではないでしょうか。木は万遍なく日の光を浴びて立っている。あなた方は裸の木をよく見たことがありますか。これ程無駄のない、しっかりした芸術品は、人間には造ることが出来そうにもありません。
色々な枯草の姿も亦面白いものです。山牛蒡や山法師などという草が、枯れてしかもシャンとしているのを見ると、墨一色の版画を思い出します。それに又、木や草の葉が落ちたので、小鳥の巣を、よく見かけます。どんな鳥がどんな卵をこゝに生み、どんな雛をかえしたのだろうなどと、想像するのも楽しいものです。序に申上げますが、今申した山牛蒡や山法師などという草は、葉も実も枯れたような色をしていますが、これを取って、持って帰りますと、面白い生花が出来ます。ことにリスリンを少々加えた水につけておきますと、一冬は十分もちます。
冬の山はまことに静かであります。たまに小鳥が鳴くくらいで、その他には何の物音もきこえません。小鳥は木の葉が落ちてしまっているので、思いがけない姿を現わすことがあります。その声をきゝ、その姿を見ると、自然その名前を知りたくなって来る。小鳥研究とまでは行かなくても、我々は、こゝで又、自然に対する愛情が、一つ増えたことを感じるのであります。
冬の空の美しさも忘れることが出来ません。幾月も霧がかゝったり、吹雪がふき荒れたりする地方は別ですが、我々の住む関西地方の冬の空は、どうかすると、全く雲が一つも見えぬ位晴れ渡ることが珍らしくありません。この様に空気が澄んでいますから、遠くの方がよく見えます。山の上から見おろす景色程我々に地理の観念をよく与えるものはありません。郷土を愛する心はこの様にして養成されるのでありましょう。
休んでいると、いくら暖かいといっても、とにかく、冬の山ですから、寒くなることがあります。しかし焚火は絶対にいけません。山での焚火は、いつでも禁物ですが、ことにお天気続きの冬は、枯草や枯葉に火が付いたら、とんでもないことになります。
冬の山には蛇とか、毛虫とか、芋虫とかいうような、いやらしいものは全くいません。ですから気軽に、草の上に寝ころがることも出来れば、ガサガサと藪の中をくゞることも出来ます。そして軽く汗ばんだころ、時間でいえば先ず午後二時半か三時頃には、山をおりるのです。日が暮れると急に寒くなりますから、初めから日暮れ時には家に帰っているように、プランを立てることです。
この放送をきいて下さる方は、主として御婦人方だと思います。御婦人方は一家の兵糧係と、昔からきまっています。それで、山登りのお弁当について、若干ウンチクをかたむけようかと思います。お料理の時間のようで一寸気がひけますが、私のうちには子供が沢山いて、よく遠足などに出かけるので、お弁当の研究は相当なものです。さて何といっても日本人にはお米の御飯、さるかに合戦以来のおむすびが第一ですが、これに一寸趣向を加えて見ますと、先ず海苔をやいて半分に切り、それで包める位の大きさに御飯をにぎります。この時お醤油を手に付けながらむすぶと、いゝ味がします。この海苔むすびの中に色々なものを入れ、品数を多くしますと、大人も子供も大喜びです。塩昆布、キャラ蕗、芹の味噌漬、小魚や三度豆の佃煮、でんぶ、鰹節などですが、豆をあまく煮つめたものなども、意外に歓迎されます。梅干は勿論結構ですが、私共銃後の国民はなるべく梅干を戦地に送るようにしなくてはなりません。
普通の海苔巻を作る時、中に沢庵を細長くきざんで入れると、干瓢や高野豆腐とちがって、煮る世話が省けるばかりか、水気があって山登りのお弁当などには持って来いです。
私は、よく子供のお弁当箱を借りて行きます。子供が学校へ持って行くお弁当を作って貰って、持って行きますが、新聞紙二三枚で丁寧にくるんでおけば、御飯がひどくひえることはありません。おまけに、新聞紙は、晩方など、急に寒くなった時、チョッキの下、胸と背中にあてがいますと、とても暖かですし、家へ持って帰ってしわをのばしておけば、一貫目四拾銭で売ることが出来ます。
山登りのお弁当にはサンドイッチにしましても、わざわざハムやソーセージを買って来ることはありません。前の晩の豚カツや魚のフライや焼魚の残ったのに、ちよっとソースか醤油をつけてはさむとか、或はじゃがいもをゆでてつぶしたものに、この様な肉類をまぜてはさむとか、色々方法はあります。一番簡単で又うまいのは前の晩、コロッケを少し沢山作っておき、翌朝これをつぶしてサンドイッチにすることです。あまいジャムサンドイッチも、少し作って持って行けば、お菓子の代りになります、但しパンはトーストにしないと、ジャムの水気をパンがすいこんで、ビショビショになります。さあ、どうぞ皆さん、この次の日曜日からでも、冬の山野にお出かけ下さい。「まず健康」――まったく我々は、大人も子供も、男も女も、丈夫で暮さなくてはいけないのであります。
昭和十三年の初冬「家庭の時間」に表題のような放送を頼まれた。この時は珍しく――事実この時以外やったことが無いが――時計を前において僕が喋舌るのを、家内がその通り筆記した。それがこの全文である。勿論書く方が喋舌るより遅いから、口述筆記の時間は放送時間の四倍くらいかゝったが、大体枚数が分っているので、あとですらすら読んで見ると、時間はきっちりあった。
この放送が原因してかどうかは知らないが、翌年早々「春の山野」について何か書いてくれという註文があった。それが即ちこの次の一文で、読みかえして見ると山野、別して「山」はまったくのお添え物、釣の話が主になっている。
[#改ページ]この放送が原因してかどうかは知らないが、翌年早々「春の山野」について何か書いてくれという註文があった。それが即ちこの次の一文で、読みかえして見ると山野、別して「山」はまったくのお添え物、釣の話が主になっている。
冬の初めに「冬の山野」という題で放送をした。家庭講座だったので、山といっても東京ならば三浦半島の背骨をなす丘や、せいぜい高くて高尾山、大阪ならば生駒連山、二上山、箕面の山を目標として、これ等の山歩きが如何に楽しいかを語った。秋の間、盛んに山野を歩いていた人々が、冬になると家に引き籠って了うが、それではいけない。冬こそは真に自然に近づき親しみ観察すべき季節である――というのが僕の結論だった。勿論今でもそう思っている。
だが、いよいよ春になって見ると、春の山野も悪くない。如何にも場あたりをいうようで、少々きまりが悪いけど、実際問題として、日本内地は、四季を通じて所謂気候温和、暑いといい寒いといっても、殺人的なことはめったに無く、従って、いつだって気軽に戸外に飛びだすことが出来るのだ。
二月十九日の日曜日に、吉野川まで釣に出かけた。下市口で電車を下り、三時間ばかり右岸の諸々方々を歩き廻ったが、気温が高い割合に水温が低く、魚はまるで釣れなかった。釣れぬとなると煙草に火をつけて景色をながめる。大天井や山上ガ嶽にはまだ雪が残っているが、姿の美しい高見山には霞がかゝり、電車の線路には陽炎が立っていた。その線路の横に、おほいぬふぐりの花が咲いていたのに気がつき、「まるで本当の春だな」という友人に、「もう草の花が咲いているからね」と合槌を打ったが、信用しない。それなら見せようと、竿も魚籠もおいたまゝで広い河原を横断して、わざわざ線路の所まで歩いて行った。おほいぬふぐりやはこべを先頭に、花はどんどん咲いて行く。春の進行はすこぶる速い。だから、「たれこめて春の行方も知らぬ間に」などと、悠長なことをいっていないで、山や川や野や原へ出かけて行くにかぎる。
僕みたいに、休みの日には必ずそとへ出る者にとって、一番有難いのは、日が長くなることである。四時半、五時、六時になってもまだあかるいことは、甚だ気持を落ちつかせ、のんびりさせる。これが北欧のように、九時になっても十時になっても明るいとなると、却って間がぬけるが、この辺では丁度いゝ工合の時間に暗くなり、電燈がつく。その頃にはいゝ加減つかれて家に帰り、風呂に入っていっぱいやる。酒ばかりは、どうも、灯がつかないとうまくない。
あたゝかいのも有難いことだ。寒さそれ自体は僕にとっては何等の苦痛でなく、こんな骨皮筋右衛門でいながら、暑い方に負けるが、とにかく服装が身軽になるのがいゝ気持だ。
現在の僕としては、魚が釣れ出すのが何よりもうれしい。寒バエ釣は玄人の芸だなどといわれ、冬中あちこち歩き廻ったが、釣れないこと、おびたゞしい。考えて見ると、猪名川では鼓ガ滝、多田神社の下、武庫川では宝塚の上下約一里半、それから、遠っ走りをして吉野川、どこへ行っても魚はかたまっているし、人間もかたまっている。近所の人々で毎日来るといった手合が、自転車で乗りつけるのだから、僕みたいなサンデー・アングラアは駄目にきまっている。それを、「好きこそ物の上手なれ」ならぬ「下手の横好き」で出かけるのだから、魚が釣れたらどうかしている。
たまに誰もいないと思うと、六甲の方からひどい吹雪が来たりする。何を糞とばかり、首を縮めて竿を持っているのは楽でない。魚が釣れでもするのならば、こいつは悪くないだろうが、ピンともシンとも来ぬ奴を、痩我慢で河岸に頑張っている中に、いつか暮色蒼然、凍えた手で糸を竿から外すと、水っぱながポタポタたれる――こんな真似をしていたが、さて、春ともなれば魚が動くのだ。一寸の麦、三寸の菜種、そのような畑のへりを流れる小川に、モロコやタナゴがピチピチとして、小さなウキの動きにあわせると、仕掛がこまかいから、ピリピリ、存外強く手に来て、よしんば十匹や廿匹でもうれしくなって了う。
昔のことを考えると、仙台の春。あのあたりは先ず五月にならねば春とはいえない位だが、郊外の丘に雪がとけて、そこにもろもろの草の芽が萠え出す。土はしめっていて空には雲雀の声。いちどきに花が咲く。カッコウの鳴きかわす声が聞える森には、いつの間にかかたくりの花がちらほらする。東京で生れて東京で大きくなった僕が、本当に春の呼吸を感じたのは、高等学校の三年間であった。
昔のことはとにかく、今では、至極温暖な関西に住み、物を見る目と感じる心をさえ持っていれば、冬でも緑の草にめぐまれた生活をしているのだが、それにしても、何かしらやはり特に心を打たれる春の現象はある。吉野川のおほいぬふぐりがその一つだし、今晩帰宅して、猫額大の畑にある高菜に、こまかい蕾がいっぱいついていると聞いたのも、その一つである。
菜といえば、大阪近郊の菜種――菜の花の盛りの頃は、電車の中にまでその香がたゞよい、朝の通勤に思わずウトウトしたくなったりすることがある。工場と住宅が多くなり、今では昔ほどのことは無いが、まったく大した菜の花だ。
菜の花のお花見をするのは、雀くらいなものだろう。梅は風流人、桜は有象無象。所謂お花見で騒ぐ人達は、染井吉野を対象とする。本当の桜の味は山桜だ。これは公園や遊園地にはすくなく、昔ながらの山や丘に自生している。
僕は現在、大阪府豊能郡箕面村牧落という所に住んでいる。こゝは箕面の山を北にし、豊中市との境をなす丘陵を南にした一種の高原――といったところで、海抜六十米位のものだが――で、自らゆるい傾斜をなしている関係上、相当大きな貯水池が、あちらこちらにある。
去年の春のことだ。日曜日のこととて箕面公園は大変な人出で、大きくいえば人声が聞える程だ。だが、牧落は至って静かなので、子供をつれてフラリとモロコ釣りに出かけると、ある貯水池で非常に愉快な光景を見た。
下萠はしているが、見たところまだ枯草ばかりの池畔に、お婆さんが二人、めいめい木綿の風呂敷をしいて坐り、二合瓶でお酒盛をしていたのである。年の頃は五十か六十だろう。重詰の弁当を間におき、いゝ気持そうにやっている。空には雲雀が囀り、池の土手にはしどめが咲き、池から流れる小川には芹の根が白い。僕は大きなビルディングで便所を掃除したり、床をこすったりするお婆さん達のくすんだ姿を思い浮かべ、何とはなしに涙ぐましい気持になった。J・M・バリイが日本人だったら、この酒盛をしているお婆さんを主人公に、いゝ脚本を書くだろうという気がした。
だが、これは、大阪人をよく知らぬ僕の誤謬だったかも知れぬ。存外大金持の、而も小金を貸して暮しているという婆さんだったかも知れない。そのような人達が、こんな風に、つゝましく、静かに春をたのしむことが、大阪では比較的多く行われているのだ。
とまれ、春になれば、誰でも戸外に出かける。冬と違って強いて思いをこらし「さアさア皆さん、山野を跋渉しなさい」と放送する必要は更に無い。ほっといても人々は山野に出る。名所や旧蹟は満員となり、汽車や電車は超満員で、酔っぱらいが騒いだり喧嘩が勃発したりする。さればこそ、貯水池の土手に坐っていたお婆さんの気持は尊重すべきであり、人出をさけたルートを考えて歩くハイキングをおすゝめすることも、まんざら無意義ではあるまいと思ったりする。
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山の旅から帰って来ると、どうもあとがよくない。いろいろなことが詰らなくなる。何をしていゝのか判らない。「ワーッ!」と騒ぎでもしないと、やり切れないような気がする。仕事が手につかぬ。――つまり急激な変化が生活に起った後だからであろう。心とからだとエクイリブリゥムが打ちこわされるからであろう。
まったくこれ位、急激な変化はあるまい。山の道具をつめたスーツケースを梅田の駅にあずけておいて、自分は会社に出る。所謂五分の隙もない夏服、ネクタイ、靴下、白い靴、その晩は二等の寝台にねて、翌朝はもう山の麓である。宿屋なり、友人の家なりに着くとスーツケースをあけて、登山の仕度をする、夏帽子は古いフェルトに変る。蕭洒な夏服は、十年着古したホームスパンに変る。やわらかい、薄いシャツは、ゴバゴバしたカーキのシャツになる。クロックスの入った絹の靴下を脱いで、あつぼったい、不細工な、ウールの靴下を三足もはく。白い、どうかするとダンスでも踊りそうな靴のかわりに、大きな鋲をベタ一面に打った登山靴をはく。一年中ペンと箸とナイフ位しか持った事のない右手は、アイスアックスの頭を握る。かくて山へ! すでに一歩山へ入ると、その前日までコクテールグラスの外側に浮く露を啜っていた唇は、直接に雪解けの渓流に触れる。大阪ホテルのシャトウブリヤンを塩からいと思っていた舌は、半煮えの飯を食道へ押し込み、固い干鱈の一片を奥歯の方へ押してやる。更に夜となれば、前夜寝台車のバースがでこぼこで眠れなかったという背中が、あるいは小屋のアンペラに又は礫まじりの砂の上に平気で横たわって平気でねる。
夜があける。顔を洗うでもなければ、歯を磨くでもない。一つには水がつめたくて手を入れたり、口にふくんだり出来ないからもあるが、それよりも「こゝは山だ。顔なんぞ洗わなくってもいゝんだ!」という気がするからである。髯は勿論剃らぬ。これが自宅にいると、顎の下に三本残っても気にする性質の男なのである。
今度私は山へ行って、つくづくと考えて見た。自分は一体何をしに登山するのだろうかと。
勿論六根清浄を唱える宗教的のものではない。岩石や植物を研究するには素養が足りぬ。遊覧を目的とするにしては、労働が激し過ぎる。「征服する」べく、北アルプスの山々はあまりに親し過ぎる。高い所に登ることが、別に精神修養になるとも思わぬ。三十を越した私に取っては、深夜酒に醉って尾崎放哉の句を読む方が、よほど精神修養になる。もとより山岳通にならんが為ではない。ローカルカラーを得る為でもない。
要するに何の目的もないのに私は登山する。常に登山がしたい。絶えず山を思っている。山、山、というと大きいが、実を言えば私の登っている山の数は至ってすくなく、また地方的にもかぎられている。即ち、蔵王、磐梯、赤城、筑波、八ガ岳その他若干の低い山を除いては、信州大町から針ノ木峠、五色ガ原、立山温泉と線を引いた、その線の北の方ばかりである。これは原因がある。即ち白馬は私が最初に登った高山であり、従って、自然、あの方面に引きつけられるのと、十数年前最初に白馬に登った時以来のよき友、百瀬慎太郎が大町に住んでいるのとの二つである。
かくの如く私の知っている山はすくないが、山を愛する心は人一倍深い。何故であろうか。
私は第一に私自身が、完全なる休息を楽しまんが為に山に登るのであることに気がついた。即ち、ありとあらゆる苦しみをして山を登って行く。平素運動をすこしもしていないのだから、ひどく疲れる。日光と風と雪の反射だけでも疲れる。汗水流して登って行くと、咽喉は乾く、ルックサックが肩に喰い入る。かゝる時、例えば針ノ木峠のてっぺんに着いてあのボコボコした赤土の上に、ルックサックを投げ出し、横手に生えた偃松に、ドサリと大の字になった気持。あれこそは完全な休息、Complete rest である。
もっとも疲れて休むことを望むのならば何もわざわざ山に登る必要はない。庭で草をむしってから、縁側に腰かけてもいゝし、須田町から尾張町まで電車と競走してから、カフェータイガーに入ってもいゝ。いゝ訳だが違う、まるで違う。
Complete rest は自宅の縁側や、カフェーの椅子では得られない。
その理由は、私が思いついた第二の目的に関係している。私は考えた。私が山に登り度いのは、野蛮な真似、換言すれば原始的な行為を行いたい希望が、私の心の中にひそんでいるからではあるまいか。
都会に於ける私は一個の文明人である。衣食住すべて、現代の日本が許すかぎり、またまた私の収入に於いて可能なる丈、文明的にやっている。また衣食住以外の不必要品――而も一個の文明人にあっては必要品である所のものに就いても、かなりな程度のディスクリミネーションを持っている。ワイングラスで酒を飲まず、リキュールグラスにコクテールを注がぬ等の知識は、生活には不必要にして而も必要なことなのである。
所が一度山へ入ると、先ず第一にかくの如き「文明人なるが故に必要な条件」が、ことごとく不必要になる。単純に生きること丈を営めばよいのである。都会にあっては、銀のシェーカアを振る指も、山では岩角につかまる。つかまらなければ下の雪渓に墜ちて死ぬからである。かなり洗煉された、うるさい口も、山では半煮飯を平気で喰う。喰わなければ腹が空って、死んで了うからである。寝台車のバースを固いという身体が、小屋の板の上で安眠する。その日の運動につかれた身体は、また次の日の労働を予期して、文明人のディスクリミネーション以上に睡眠を強いるからである。タクシーはスプリングが悪いから、ハイヤーに限ると言っている脚も、山では無理に歩かせられる。どうでもこうでも、野営地まで着かなくては仕方がないからである。(こう書いて来ると如何にも私が贅沢な、豪奢な生活をしているようだが、実はそうでない、こゝには只「文明人」としての私の半面を高調したにとどまる。)
万事かくの如くである以上、山に入る服装は極端に「人としての必要品だけ」を標準として行われる。文明人としての必要品は、一切不用なのである。帽子は、日光や雨や風をよける為にかぶるので、文明人だからかぶるのではない。靴は、素足では痛いからはくのである。登山服は、普通の背広よりも丈夫で、且つ便利だから着るのである。アイスアックスは手が淋しいから持つのではなく、急な雪渓にステップを切る必要があるから持つのである。
服装は人の心を支配する。都会にいる時には、椅子に腰をかけるにもズボンの折目を気にする人も、山に入れば古ズボンをはいているのだから、平気で土の上に膝を折る。また、如何に新しい登山服を着ていても、「この岩の横裂面は、四つ匐いにならなくては通れぬ」とすれば、ズボンなどは構っていられなくなる。命にかゝわるからである。
服装、準備、その他がすべて必要品だけであるから、登山者も、必要品だけを使用して必要なこと丈を行い、必要なこと丈を考える。六カ敷く言えば原始的になる。瀬戸引のコップ一つが水飲みになり、汁椀になり、茶碗になり、ある時は傷を洗う盤になる。一本のナイフが肉を切り、枝を切り、
更に疲れたらどこでも構わず腰を下し、小便がしたかったらどこへでもジャージャーやる自由さ――人間としては当然のことであるが、文明人としてはゆるされていない。――殊に星空の下、火をたいて身体をあたゝめる快楽に至っては、いずれも我等の先祖が経験した処のものである。
私がいた頃、米国では盛んに Back to nature ――自然にかえる――ということが流行した。何をしたかというと、きたない着物を着て、野原や林へ出て行く丈である。つまり野蛮な真似がしたいのである。又、ボーイスカウトなんてものも、やっている連中はいろいろと七面倒な規則や理屈をつけるかも知れぬが、要するに、路をさがしたり、焚火をしたり、つまり子供の持っている野蛮生活へのあこがれを、巧に利用した企なのである。
米国ついでに、もう一つ米国の話を持ち出すと、私のいた大学、プリンストンの寄宿舎には、全部ではないが、オープンファイアプレースを持つ部屋が沢山あった。大きな薪を燃やす炉である。寄宿舎には勿論完全なスティームが通っているのであるから、何も顔ばかりほてって背中の寒い炉を置く必要はないようだが、それでも、態々スティームを閉め切って、薪を燃す連中が沢山いた。何故薪の方がいゝのか判らぬ。どうも人間、あまり文明的になると、反対に野蛮な生活が恋しくなるものらしい。すくなくとも私はそうである。そして、最も野蛮に近い生活が許されるが故に、私は山に登るのである。
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昭和十三年の放送原稿などもありはするものゝ、大体この一冊に集めたのは、もっと古い昭和のはじめに書いたものである。だからチューリッヒのフリッシ製のアイスアックスが十七円で買えたり、鉱泉宿で酒が二本つく晩飯と朝飯と弁当の一泊が八十銭だったり、とにかくおかしなことばかり書いてある。おかしいといえばその頃丗歳を越したばかりの私が、いやに老成ぶっていて、還暦の今日考えもしないような、ヂヂむさいことをいっているし、山に関する態度も甚だ不真面目である。ロープを座敷に持込めば「井戸替え屋の新年宴会」だ、雪彦山ではロッククライミングの本の写真の真似をして写真をうつすのだ、などと、碌でもないことばかり書いて、誠に申訳ない次第である。
又読み直して訂正しようか、と思った箇所もある。ハイキングの弁当に「梅干は勿論結構ですが、私共銃後の国民はなるべく梅干を戦地へ送るようにしなくてはなりません」とか、ヒットラーワグナーを[#「ヒットラーワグナーを」はママ]聞いているかも知れないとか、今日となっては飛んでもない話なので、何とかせねばなるまいと一応は考えたが、そんな時代が事実あった以上、そのまゝにしておくことにした。「スキー場の父子」の文化学院のお嬢さんはどうしただろう。名前も何も忘れてしまったが、あの時十六としてももう四十六だから、孫があるかも知れない。ウチの陽子はその後女学校へ行く頃この文章を読み、社会に公表した以上スキーにつれて行けといった。それで一、二度つれて行ったが、時勢が悪くなって間もなくスキーも出来なくなった。その陽子に今では子供が二人いて、上の男の子は今年から小学校である。
山に関する態度はしばしば不謹慎だが、山は本当に好きだったし、山の人々にも心からなる興味は持つていた[#「持つていた」はママ]。
「素材三つ」など読んで下されば、これは御理解になると思う。そして今でもこの気持は変っていない。
それにしても、こんな昔に書いたものが何故一冊の本になるのか、そして売れるのか、私には分らないが、読んで下さる方があるのは、有難いことである。
昭和丗年 五月