○
春琴、ほんとうの名は
鵙屋琴、大阪
道修町の薬種商の生れで
歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の
浄土宗の
某寺にある。せんだって通りかかりにお墓参りをする気になり
立ち
寄って案内を
乞うと「鵙屋さんの墓所はこちらでございます」といって寺男が本堂のうしろの方へ連れて行った。見るとひと
叢の
椿の木かげに鵙屋家代々の墓が数基ならんでいるのであったが琴女の墓らしいものはそのあたりには見あたらなかった。むかし鵙屋家の
娘にしかじかの人があったはずですがその人のはというとしばらく考えていて「それならあれにありますのがそれかも分りませぬ」と東側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。知っての通り下寺町の東側のうしろには
生国魂神社のある高台が
聳えているので今いう急な坂路は寺の
境内からその高台へつづく
斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと
珍しい樹木の
繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな
空地に建っていた。光誉春琴恵照禅定尼、と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春琴、明治十九年十月十四日歿、
行年五拾八歳とあって、側面に、門人
温井佐助建之と刻してある。琴女は
生涯鵙屋
姓を名のっていたけれども「門人」温井
検校と事実上の
夫婦生活をいとなんでいたのでかく鵙屋家の墓地と
離れたところへ別に一基を選んだのであろうか。寺男の話では鵙屋の家はとうに
没落してしまい近年は
稀に一族の者がお参りに来るだけであるがそれも琴女の墓を
訪うことはほとんどないのでこれが鵙屋さんの身内のお方のものであろうとは思わなかったという。するとこの仏さまは
無縁になっているのですかというと、いえ無縁という訳ではありませぬ
萩の茶屋の方に住んでおられる七十
恰好の老婦人が年に一二度お参りに来られます、そのお方はこのお墓へお参りをされて、それから、それ、ここに小さなお墓があるでしょうと、その墓の
左脇にある別な墓を指し示しながらきっとそのあとでこのお墓へも
香華を
手向けて行かれますお経料などもそのお方がお上げになりますという。寺男が示した今の小さな墓標の前へ行って見ると石の大きさは琴女の墓の半分くらいである。表面に真誉琴台正道信士と刻し裏面に俗名温井佐助、号琴台、鵙屋春琴門人、明治四十年十月十四日歿、行年八拾三歳とある。すなわちこれが温井検校の墓であった。萩の茶屋の老婦人というのは後に出て来るからここには説くまいただこの墓が春琴の墓にくらべて小さくかつその墓石に門人である
旨を記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の遺志がある。私は、おりから夕日が墓石の表にあかあかと照っているその
丘の上に
彳んで脚下にひろがる大大阪市の景観を
眺めた。けだしこのあたりは
難波津の昔からある
丘陵地帯で西向きの高台がここからずっと
天王寺の方へ続いている。そして現在では
煤煙で痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなく
埃まびれに
立ち
枯れた大木が
殺風景な感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと
鬱蒼としていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番
閑静で見晴らしのよい場所であろう。
奇しき
因縁に
纏われた二人の師弟は
夕靄の底に大ビルディングが数知れず
屹立する東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここに
眠っているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の
俤をとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟の
契りを語り合っているように見える。元来温井検校の家は
日蓮宗であって検校を除く温井一家の墓は検校の
故郷江州日野町の某寺にある。しかるに検校が父祖代々の
宗旨を捨てて浄土宗に
換えたのは墓になっても春琴女の
側を離れまいという
殉情から出たもので、春琴女の存生中、早くすでに師弟の法名、この二つの墓石の位置、
釣合い等が定められてあったという。目分量で測ったところでは春琴女の墓石は高さ約六尺検校のは四尺に足らぬほどであろうか。二つは低い
石甃の
壇の上に並んで立っていて春琴女の墓の
右脇にひと
本の
松が植えてあり緑の枝が墓石の上へ屋根のように
伸びているのであるが、その枝の先が届かなくなった左の方の二三尺離れたところに検校の墓が
鞠躬加として
侍坐するごとく
控えている。それを見ると生前検校がまめまめしく師に
事えて
影の形に
添うように
扈従していた有様が
偲ばれあたかも石に
霊があって今日もなおその幸福を楽しんでいるようである。私は春琴女の墓前に
跪いて
恭しく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を
愛撫しながら夕日が大市街のかなたに
沈んでしまうまで丘の上に
低徊していた
○
近頃私の手に入れたものに「鵙屋春琴伝」という小冊子がありこれが私の春琴女を知るに至った
端緒であるがこの書は
生漉きの和紙へ四号活字で印刷した三十枚ほどのもので察するところ春琴女の三回
忌に弟子の検校が
誰かに頼んで師の伝記を編ませ配り物にでもしたのであろう。されば内容は文章体で
綴ってあり検校のことも三人
称で書いてあるけれども
恐らく材料は検校が授けたものに違いなくこの書のほんとうの著者は検校その人であると見て
差支えあるまい。伝によると「春琴の家は代々鵙屋
安左衛門を称し、大阪道修町に住して薬種商を営む。春琴の父に至りて七代目
也。母しげ女は京都
麩屋町の
跡部氏の出にして安左衛門に
嫁し二男四女を挙ぐ。春琴はその第二女にして
文政十二年五月二十四日をもって
生る」とある。また
曰く、「春琴幼にして
穎悟、加うるに
容姿端麗にして
高雅なること
譬えんに物なし。四歳の頃より
舞を習いけるに
挙措進退の法
自ら備わりてさす手ひく手の
優艶なること
舞妓も及ばぬほどなりければ、師もしばしば舌を巻きて、あわれこの
児、この材と質とをもってせば天下に
嬌名を
謳われんこと期して待つべきに、良家の子女に生れたるは幸とや云わん不幸とや云わんと
呟きしとかや。また早くより読み書きの道を学ぶに上達すこぶる
速かにして二人の兄をさえ
凌駕したりき」と。これらの記事が春琴を
視ること神のごとくであったらしい検校から出たものとすればどれほど信を置いてよいか分らないけれども彼女の生れつきの
容貌が「端麗にして高雅」であったことはいろいろな事実から立証される。当時は婦人の身長が一体に低かったようであるが
彼女も身の
丈が五尺に
充たず顔や手足の道具が非常に小作りで
繊細を極めていたという。今日伝わっている春琴女が三十七歳の時の写真というものを見るのに、
輪郭の整った
瓜実顔に、一つ一つ
可愛い指で
摘まみ上げたような
小柄な今にも消えてなくなりそうな
柔かな目鼻がついている。
何分にも明治初年か
慶応頃の
撮影であるからところどころに星が出たりして遠い昔の
記憶のごとくうすれているのでそのためにそう見えるのでもあろうが、その
朦朧とした写真では大阪の
富裕な町家の婦人らしい気品を認められる以外に、うつくしいけれどもこれという個性の
閃めきがなく印象の
稀薄な感じがする。年
恰好も三十七歳といえばそうも見えまた二十七八歳のようにも見えなくはない。この時の春琴女はすでに両眼の
明を失ってから二十有余年の後であるけれども
盲目というよりは眼をつぶっているという風に見える。かつて佐藤春夫が云ったことに
聾者は
愚人のように見え
盲人は
賢者のように見えるという説があった。なぜならつんぼは人の云うことを
聴こうとして
眉をしかめ眼や口を開け首を
傾けたり
仰向けたりするので何となく
間の
抜けたところがあるしかるに盲人はしずかに
端坐して首をうつ向け、
瞑目沈思するかのごとき様子をするからいかにも考え深そうに見えるというのであって果して一般に当て
篏まるかどうか分らないがそれは一つには
仏菩薩の眼、
慈眼視衆生という慈眼なるものは半眼に閉じた眼であるからそれを
見馴れているわれわれは開いた眼よりも閉じた眼の方に慈悲や
有難みを覚えある場合には
畏れを
抱くのであろうか。されば春琴女の閉じた
眼瞼にもそれが取り分け優しい女人であるせいか古い絵像の
観世音を拝んだようなほのかな慈悲を感ずるのである。聞くところによると春琴女の写真は
後にも先にもこれ一枚しかないのであるという彼女が幼少の頃はまだ写真術が輸入されておらずまたこの写真を
撮った同じ年に
偶然ある災難が起りそれより後は決して写真などを写さなかったはずであるから、われわれはこの朦朧たる一枚の映像をたよりに彼女の
風貌を想見するより仕方がない。読者は上述の説明を読んでどういう風な
面立ちを
浮かべられたか
恐らく物足りないぼんやりしたものを心に
描かれたであろうが、仮りに実際の写真を見られても格別これ以上にはっきり分るということはなかろうあるいは写真の方が読者の空想されるものよりもっとぼやけているでもあろう。考えてみると彼女がこの写真をうつした年すなわち春琴女が三十七歳のおりに検校もまた盲人になったのであって、検校がこの世で最後に見た彼女の姿はこの映像に近いものであったかと思われる。すると晩年の検校が
記憶の中に存していた彼女の姿もこの程度にぼやけたものではなかったであろうか。それとも
次第にうすれ去る記憶を空想で補って行くうちにこれとは全然異なった一人の別な貴い
女人を作り上げていたであろうか
○
春琴伝は続けて
曰く、「されば両親も琴女を
視ること
掌中の
珠のごとく、五人の兄妹達に
超えて
唯りこの
児を
寵愛しけるに、琴女九歳の時不幸にして
眼疾を得、
幾くもなくしてついに全く両眼の明を失いければ、父母の
悲歎大方ならず、母は我が児の
不憫さに天を
恨み人を
憎みて一時
狂せるがごとくなりき。春琴これより舞技を断念して
専ら琴
三絃の
稽古を
励み、糸竹の道を志すに至りぬ」と。春琴の眼疾というのは何であったか明かでなく伝にもこれ以上の
記載がないが後に検校が人に語ってまことに
喬木は風に
妬まれるとやら、お
師匠さまはご
器量や芸能が諸人にすぐれておられたばかりに一生のうちに二度までも人の
嫉みをお受けなされたお師匠さまの御不運は全くこの二度のご災難のお
蔭じゃと云ったのを思い合わせれば、何かその間に事情が
伏在するようでもある。検校はまたお師匠さまのは風眼であったとも云った。春琴女は
甘やかされて育ったために
驕慢なところはあったけれども言語動作が
愛嬌に富み目下の者への思いやりが深く加うるに至って花やかな陽気な性質であったから、人あたりもよく兄弟仲も
睦じく一家中の者に親しまれたが一番末の妹に附いていた
乳母が両親の愛情の
偏頗なのを
憤って
密かに琴女を憎んでいたという。風眼というものは人も知るごとく
花柳病の
黴菌が眼の
粘膜を
侵す時に生ずるのであるから検校の意は、けだしこの乳母がある手段をもって彼女を失明させたことを
諷するのである。しかし確かな
根拠があってそう思うのか検校一人だけの想像説であるのか
明瞭でない。春琴女が後年の
烈しい気象を見ればあるいはそういう事実が性格に
影響を及ぼしたのかとも
猜せられなくはないがこの事に限らず検校の説には春琴女の不幸を
歎くあまり知らず
識らず他人を傷つけ
呪うような
傾きがありにわかにことごとくを信ずる訳に行かない乳母の一件なども恐らくは
揣摩臆測に過ぎないであろう。要するにここではあえて原因を問わずただ九歳の時に盲目になったことを記せば足りる。そして「これより舞技を断念して専ら琴三絃の稽古を励み、糸竹の道を志」した。つまり春琴女が思いを
音曲にひそめるようになったのは失明した結果だということになり彼女自身も自分のほんとうの天分は舞にあった、わたしの琴や
三味線を
褒める人があるのはわたしというものを知らないからだ眼さえ見えたら自分は決して音曲の方へは行かなかったのにと常に検校に
述懐したという。これは半面に自分の不得意な音曲でさえこのくらいに出来るという風に聞え彼女の驕慢な
一端が
窺われるがこの言葉なども多少検校の
修飾が加わっていはしないか少くとも彼女が一時の感情に任せて発した言葉を有難く
肝に
銘じて聴き、彼女を
偉くするために重大な意味を持たせた
嫌いがありはしないか。
前掲の萩の茶屋に住んでいる老婦人というのは
鴫沢てるといい
生田流の
勾当で晩年の春琴と温井検校に親しく仕えた人であるがこの勾当の話を聞くに、お師匠さま〔春琴のこと〕は舞がお
上手だったそうにござりますが琴や三味線も五つ六つの時分から春松という検校さんに手ほどきをしておもらいなされそれからずっと稽古を励んでおられました、それ
故盲目になってから始めて音曲を習われたのではないのでござります、よいお
内の
娘さん方は
皆早くから遊芸のけいこをされますのがその頃の習慣でござりましたお師匠さまは十の歳にあのむずかしい「残月」の曲を聞き覚えて
独りで三味線にお取りなされたと申しますそうしてみれば音曲の方にも生れつきの天才を備えておられたのでござりましょうなかなか
凡人には
真似られぬことでござりますただ盲目になられてからは
外に楽しみがござりませぬので
一層深くこの道へお
這入りなされ、
精魂を打ち込まれたのかとぞんじますとのことである。多分この説の方がほんとうなので彼女の真の才能は実は始めより音楽に存したのであろう
舞踊の方は果してどの程度であったか疑わしく思われる
○
音曲の道に精魂を打ち込んだとはいうものの生計の心配をする身分ではないから最初はそれを職業にしようというほどの
考はなかったであろう後に彼女が琴曲の師匠として門戸を構えたのは別種の事情がそこへ導いたのであり、そうなってからでもそれで生計を立てたのではなく月々
道修町の本家から仕送る
金子の方が
比較にならぬほど多額だったのであるが、彼女の
驕奢と
贅沢とはそれでも支えきれなかった。されば始めは格別将来の目算もなくただ好きにまかせて一生
懸命に技を
研いたのであろうが
天稟の才能に熱心が
拍車をかけたので、「十五歳の頃春琴の技大いに進みて
儕輩を
抽んで、同門の子弟にして実力春琴に
比肩する者一人もなかりき」とあるのは恐らく事実であろう。鴫沢勾当
曰くお師匠さまがいつも
自慢をされましたのに春松検校は
随分稽古が
厳しいお方だったけれど、わたしは身に
沁みて
叱られたということがなかった
褒められたことの方が多かった、私が行くとお師匠さんは必ずご自分で稽古をつけて下されそれはそれは親切に優しく教えて下さるのでお師匠さんを
怖がる人たちの気が知れなんだということでござります、でござりますから修行の苦しみというものを知らずにあれまでにおなりなされたのは天品だったのでござりましょうと。けだし春琴は鵙屋のお
嬢様であるからいかに厳格な師匠でも芸人の児を仕込むような
烈しい
待遇をする訳に行かない幾分か手心を加えたのであろうその間にはまた、千金の家に生れながら不幸にして盲目となった
可憐な少女を
庇護する感情もあったろうけれども何よりも師の検校は彼女の才を愛し、それに
惚れ
込んだのであった。彼は我が児以上に春琴の身を案じたまたま
微恙で欠席する等のことがあれば直ちに
使を道修町に走らせあるいは自ら
杖を
曳いて
見舞った。常に春琴を弟子に持っていることを
誇りとして人に
吹聴し
玄人筋の門弟たちが大勢集まっている所でお前達は鵙屋のこいさんの芸を手本とせよ〔注、大阪では「お嬢さん」のことを「
糸さん」あるいは「とうさん」といい姉娘に対して妹娘を「
小糸さん」あるいは「こいさん」などと呼び分けること現在もしかり。春松検校は春琴の姉にも手ほどきをしたことあり家庭的に親しかったので春琴をかく呼んだのであろう〕今に
腕一本で食べて行かなければならない者が
素人のこいさんに及ばないようでは心細いぞといった。また春琴をいたわり過ぎるという
批難があった時何をいうぞ師たる者が稽古をつけるには厳しくするこそ親切なのじゃわしがあの児を叱らぬのはそれだけ親切が足らぬのじゃあの児は天性芸道に明るく
悟りが速いから捨てて置いても進む所までは進む本気で
叩き
込んだらばいよいよ
後生畏ろしい者になり本職の弟子共が困るであろう、何も結構な家に生れて
世過ぎに不自由のない娘をそれほどに教え込まずとも
鈍根の者をこそ一人前に仕立ててやろうと
力瘤を入れているのに、何という心得違いをいうぞといった
○
春松検校の家は
靱にあって道修町の鵙屋の店からは十丁ほどの
距離であったが春琴は毎日
丁稚に手を
曳かれて稽古に通ったその丁稚というのが当時佐助と云った少年で後の温井検校であり、春琴との縁がかくして生じたのである。佐助は前に述べたごとく江州日野の産であって実家はやはり薬屋を営み彼の父も祖父も見習い時代に大阪に出て鵙屋に奉公をしたことがあるという鵙屋は実に佐助に取って
累代の主家であった。春琴より四つ歳上で十三歳の時に始めて奉公に上ったのであるから春琴が九つの歳すなわち失明した歳に当るが彼が来た時は既に春琴の美しい
瞳が永久に
鎖された後であった。佐助はこのことを、春琴の瞳の光を一度も見なかったことを後年に至るまで
悔いていないかえって幸福であるとした。もし失明以前を知っていたら失明後の顔が不完全なものに見えたろうけれども幸い彼は彼女の容貌に何一つ不足なものを感じなかった最初から円満具足した顔に見えた。今日大阪の上流の家庭は争って
邸宅を
郊外に移し
令嬢たちもまたスポーツに親しんで野外の空気や日光に
触れるから以前のような深窓の
佳人式箱入娘はいなくなってしまったが現在でも市中に住んでいる子供たちは一般に体格が
繊弱で顔の色なども
概して青白い
田舎育ちの少年少女とは
皮膚の
冴え方が違う良く云えば
垢抜けがしているが悪く云えば病的である。これは大阪に限ったことでなく都会の通有性だけれども江戸では女でも浅黒いのを自慢にしたくらいで色の白きは京阪に及ばない大阪の旧家に育ったぼんちなどは男でさえ
芝居に出て来る
若旦那そのままにきゃしゃで骨細なのがあり、三十歳前後に至って始めて顔が
赭く焼けて来て
脂肪を
湛え急に体が太り出して
紳士然たる
貫禄を備えるようになるその時分までは全く婦女子も同様に色が白く衣服の好みも随分
柔弱なのである。まして旧幕時代の豊かな町人の家に生れ、非衛生的な
奥深い部屋に
垂れ
籠めて育った娘たちの
透き
徹るような白さと青さと細さとはどれほどであったか田舎者の佐助少年の眼にそれがいかばかり
妖しく
艶に映ったか。この時春琴の姉が十二歳すぐ下の妹が六歳で、ぽっと出の佐助にはいずれも
鄙には
稀な少女に見えた分けても盲目の春琴の不思議な
気韻に打たれたという。春琴の閉じた眼瞼が姉妹たちの開いた瞳より明るくも美しくも思われてこの顔はこれでなければいけないのだこうあるのが本来だという感じがした。四人の姉妹のうちで春琴が最も器量よしという評判が高かったのは、たといそれが事実だとしても
幾分か彼女の不具を
憐れみ
惜しむ感情が手伝っていたであろうが佐助に至ってはそうでなかった。後日佐助は自分の春琴に対する愛が同情や
憐愍から生じたという風に云われることを何よりも
厭いそんな観察をする者があると心外千万であるとした。わしはお師匠様のお顔を見てお気の毒とかお
可哀そうとか思ったことは
一遍もないぞお師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞお師匠様があのご気象とご器量で何で人の憐れみを求められよう佐助どんは可哀そうじゃとかえってわしを憐れんで下すったものじゃ、わしやお前達は眼鼻が
揃っているだけで
外の事は何一つお師匠様に及ばぬわしたちの方が片羽ではないかと云った。ただしそれは後の話で佐助は最初燃えるような
崇拝の念を胸の奥底に秘めながらまめまめしく仕えていたのであろうまだ
恋愛という自覚はなかったであろうし、あっても相手は
頑是ないこいさんである上に累代の主家のお嬢様である佐助としてはお供の役を
仰せ付かって毎日
一緒に道を歩くことの出来るのがせめてもの
慰めであっただろう。いったい新参の少年の身をもって大切なお嬢様の
手曳きを命ぜられたというのは変なようだが始めは佐助に限っていたのではなく女中が附いて行くこともあり外の小僧や若僧が供をすることもありいろいろであったのをある時春琴が「佐助どんにしてほしい」といったのでそれから佐助の役に
極まったそれは佐助が十四歳になってからである。彼は無上の光栄に
感激しながらいつも春琴の小さな
掌を
己れの掌の中に収めて十丁の道のりを春松検校の家に行き稽古の済むのを待って再び連れて
戻るのであったが途中春琴はめったに口を利いたことがなく、佐助もお嬢様が話しかけて来ない限りは
黙々としてただ過ちのないように気を配った。春琴は「何でこいさんは佐助どんがええお云いでしたんでっか」と
尋ねる者があった時「誰よりもおとなしゅうていらんこと云えへんよって」と答えたのであった。元来彼女は愛嬌に富み人あたりが良かったことは前に述べた通りだけれども失明以来気むずかしく
陰鬱になり晴れやかな声を出すことや笑うことが少く口が重くなっていたので、佐助が余計なおしゃべりをせず役目だけを大切に勤めて
邪魔にならぬようにしている所が気に入ったのであるかも知れない〔佐助は彼女の笑う顔を見るのが
厭であったというけだし盲人が笑う時は間が抜けて
哀れに見える佐助の感情ではそれが
堪えられなかったのであろう〕
○
おしゃべりをしないから邪魔にならぬからというのが果して春琴の真意であったか佐助の
憧憬の一念がおぼろげに通じて子供ながらもそれを
嬉しく思ったのではなかったか十歳の少女にそういうことは有り得ないとも考えられるが、
俊敏で
早熟の上に盲目になった結果として第六感の神経が
研ぎ
澄まされてもいたことを思うと必ずしも
突飛な想像であるとはいえない気位の高い春琴は後に恋愛を意識するようになってからでも容易に胸中を打ち明けず久しい間佐助に許さなかったのである。さればそこに多少の疑問はあるけれどもとにかく始め佐助というものの存在はほとんど春琴の念頭にないかのごとくであった少くとも佐助にはそう見えた。手曳きをする時佐助は左の手を春琴の
肩の高さに
捧げて掌を上に向けそれへ彼女の右の掌を受けるのであったが春琴には佐助というものが一つの掌に過ぎないようであったたまたま用をさせる時にもしぐさで示したり顔をしかめてみせたり
謎をかけるようにひとりごとを
洩らしたりしてどうせよこうせよとはっきり意志を云い現わすことはなく、それを気が付かずにいると必ず
機嫌が悪いので佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落さぬように
緊張していなければならずあたかも注意深さの程度を試されているように感じた。もともと
我が
儘なお嬢様育ちのところへ盲人に特有な意地悪さも加わって片時も佐助に油断する
暇を与えなかった。ある時春松検校の家で稽古の順番が
廻って来るのを待っている間にふと春琴の姿が見えなくなったので佐助が
驚いてその辺を
捜すと知らぬ間に
厠に行っているのであった。いつも小用に立つ時には黙って春琴が出て行くのをそれと察して追いかけながら戸口まで手を曳いて連れて行き、そこに待っていて
手水の水をかけてやるのに今日は佐助がうっかりしていたのでそのまま
独り手さぐりで行ったのである。「済まんことでござりました」と佐助は声をふるわせながら、厠から出て手水
鉢の
柄杓を取ろうと手を
伸ばしている少女の前に
駈けて来て云ったが春琴は「もうええ」と云いつつ首を
振った。しかしこういう場合「もうええ」といわれても「そうでござりますか」と引き
退っては一層後がいけないのである無理にも柄杓を
ぎ取るようにして水をかけてやるのがコツなのである。またある夏の日の午後に順番を待っている時うしろに
畏まって
控えていると「暑い」と
独りごとを洩らした「暑うござりますなあ」とおあいそを云ってみたが何の返事もせずしばらくするとまた「暑い」という、心づいて有り合わせた
団扇を取り背中の方からあおいでやるとそれで
納得したようであったが少しでもあおぎ方が気が抜けるとすぐ「暑い」を
繰り
返した。春琴の強情と
気儘とはかくのごとくであったけれども特に佐助に対する時がそうなのであっていずれの
奉公人にもという訳ではなかった元来そういう素質があったところへ佐助が努めて意を迎えるようにしたので、彼に対してのみその
傾向が極端になって行ったのである彼女が佐助を最も便利に思った理由もここにあるのであり佐助もまたそれを苦役と感ぜずむしろ喜んだのであった彼女の特別な意地悪さを
甘えられているように取り、一種の
恩寵のごとくに解したのでもあろう
○
春松検校が
弟子に稽古をつける部屋は奥の中二階にあったので佐助は番が廻って来ると春琴を導いて
段梯子を上り検校とさし向いの席に直らせて琴なり三味線なりをその前に置き、いったん控え室へ
下って稽古の終るのを待ち再び迎えに行くのであるが待っている間ももう済む頃かと油断なく耳を立てていて済んだら呼ばれない
中に
直ちに立って行くようにしたされば春琴の習っている音曲が自然と耳につくようになるのも道理である佐助の音楽
趣味はかくして養われたのであった。後年一流の大家になった人であるから生れつきの才能もあったろうけれどももし春琴に仕える機会を与えられずまた何かにつけて彼女に同化しようとする
熱烈な愛情がなかったならば、恐らく佐助は鵙屋の
暖簾を分けてもらい
一介の薬種商として
平凡に世を終ったであろう後年盲目となり検校の位を称してからも常に自分の技は遠く春琴に及ばずと
為し全くお師匠様の
啓発によってここまで来たのであるといっていた。春琴を九天の高さに持ち上げ百歩も二百歩も
謙っていた佐助であるからかかる言葉をそのまま受け取る訳には行かないが、技の
優劣はとにかくとして春琴の方がより
天才肌であり佐助は刻苦
精励する努力家であったことだけは間違いがあるまい。彼が
密かに
一挺の三味線を手に入れようとして主家から給される時々の手あてや使い先で
貰う
祝儀などを貯金し出したのは十四歳の
暮であって翌年の夏ようよう
粗末な稽古三味線を買い求めると番頭に
見咎められぬように
棹と
胴とを別々に
天井裏の
寝部屋へ持ち込み、夜な夜な
朋輩の寝静まるのを待って独り稽古をしたのである。しかし当初は、父祖の業を
継ぐ目的で丁稚奉公に住み込んだ身の将来これを本職にしようという
覚悟も自信もあったのではなかったただ春琴に忠実である余り彼女の好むところのものを
己れも好むようになりそれが
昂じた結果であり音曲をもって彼女の愛を得る手段に供しようなどの心すらもなかったことは、彼女にさえ極力秘していた一事をもって明かである。佐助は五六人の手代や丁稚共と立つと頭がつかえるような低い
狭い部屋へ寝るので
彼等の
眠りを
妨げぬことを条件として内証にしておいてくれるように頼んだ。
幾ら眠っても寝足りない
年頃の奉公人共は床に這入るとたちまちぐっすり寝入ってしまうから苦情をいう者はいなかったけれども佐助は皆が
熟睡するのを待って起き上り
布団を出したあとの
押入の中で稽古をした。それでなくても天井裏は蒸し暑いのに押入の中の夏の夜の暑さは格別であったに違いないがこうすると
絃の音の外へ洩れるのを防ぐことが出来、
鼾ごえや寝言など外部の
音響をも
遮断するに
都合が好かったもちろん
爪弾きで
撥は使えなかった燈火のない
真っ
暗な所で手さぐりで弾くのである。しかし佐助はその
暗闇を少しも不便に感じなかった盲目の人は常にこう云う闇の中にいるこいさんもまたこの闇の中で三味線を弾きなさるのだと思うと、自分も同じ暗黒世界に身を置くことがこの上もなく楽しかった後に公然と稽古することを許可されてからもこいさんと同じにしなければ済まないと云って楽器を手にする時は眼をつぶるのが
癖であったつまり眼明きでありながら盲目の春琴と同じ苦難を
嘗めようとし、盲人の不自由な
境涯を出来るだけ体験しようとして時には盲人を
羨むかのごとくであった彼が後年ほんとうの盲人になったのは実に少年時代からのそういう心がけが影響しているので、思えば
偶然でないのである
○
いずれの楽器も
蘊奥を極めることのむずかしさは同一であろうがヴァイオリンと三味線とはツボに何の印もなくかつ
弾奏の
度ごとに
絃の調子を整えてかかる必要があるのでひと通り
弾けるようになるまでが容易でなく
独稽古には最も不向きであるいわんや
音譜のない時代においてをや師匠についても琴は三月三味線は三年と
普通に云われる。佐助は琴のような高価な楽器を買う金もなし第一あんな
嵩張るものを担ぎ込む訳に行かないので三味線から始めたのであるが調子を合わせることは最初から出来たというそれは音を
聴き分ける生れつきの感覚が少くともコンマ以上であったことを示すと共に、平素春琴に
随行して検校の家で待っている間にいかに注意深く他人の稽古を聴いていたかを証するに足りる。調子の区別も曲の詞も音の高低も
節廻しも
総べて彼は耳の
記憶を頼りにしなければならなかったそれ以外に頼るものは何もなかった。かくして十五歳の夏から約半歳の間は幸い同室の朋輩の外に誰にも知られずに済んだのであったがその年の冬に至って一つの事件が起ったある夜明け方と云っても冬の午前四時頃まだ真っ暗な夜中も同然の時刻に、鵙屋の
御寮人すなわち春琴の母のしげ女がふと厠に起きてどこからともなく洩れて来る「雪」の曲を聞いたのである。昔は寒稽古と云って寒中夜のしらしら明けに風に吹き
曝されながら稽古をするという習慣があったけれども道修町は薬屋の多い
区域であって
堅儀な
店舗が
軒を
列ね遊芸の師匠や芸人などの住宅のある所でもなしなまめかしい種類の家は
一軒もないのであるそれにしんしんと
更けた真夜中、寒稽古にしても時刻があまり突飛過ぎる、寒稽古なら一生懸命撥音たかく弾くであろうに
微かな爪弾きで弾いているそのくせ一つ所を
合点の行くまで繰り返して練習しているらしく熱心のさまが
想いやられた。鵙屋の御寮人は
訝しみながらもその時は大して気にも止めず寝てしまったがその後二三度も夜中起き
出でるごとに耳についたことがありそう云えば私も聞きましたどこで弾いているのでござりましょう、
狸の
腹鼓とも違うようでござりますなどと云う者も出て来て店員たちの知らぬ間に奥で問題になっていた。佐助は夏以来ずっと押入の中でしていればよかったのだが誰も気が付きそうにないので
大胆になって来たのと、何分激しい業務の
余暇に
睡眠時間を
盗んでは稽古するのであるから次第に寝不足が
溜って来て暖い所だとつい
居睡りが
襲って来るので、秋の末頃から夜な夜なそっと
物干台に出て弾いた。いつも夜の四つ時すなわち午後十時には店員たちと共に眠りにつき午前三時頃に眼を覚まして三味線を
抱えて物干台に出るそうして冷たい夜気に
触れつつ独習を続け東が
仄かに白み
初める刻限に至って再び寝床に帰るのである春琴の母が聞いたのはそれであった。けだし佐助が
忍び出た物干台というのは
店舗の屋上にあったのであろうから真下に寝ている店員共よりも
中前栽を
隔てた奥の者が渡り
廊下の雨戸を開けた時にまずその音を聞きつけたのである。奥からの注意で店員共が取り調べられ結局佐助の所為と分って一番番頭の前に呼びつけられ大眼玉を
喰った上に以後は断じて
罷りならぬと三味線を
没収されたことは当然の成行を見た訳であるが、この時意外な所から佐助に救いの手が伸ばされたとにかくどのくらい弾けるものか聴いてみたいという意見が奥から持ち出されたのであるしかもその首唱者は春琴であった。佐助はこの事が春琴に知れたら定めし機嫌を損ずるであろうただ与えられた手曳きの役をしていればよいのに丁稚の
分際で生意気な
真似をすると
憫殺されるか
嘲笑されるか、どっちみち
碌なことはあるまいと恐れを
抱いていただけに「聴いてやろう」と云われるとかえって
尻込みをした。自分の誠意が天に通じてこいさんの心を動かしたのなら有難いけれども多分
一場の笑い草にしてやろうという
慰み半分のいたずらであるとしか思えなかったしそれに人前で聴かせるほどの自信もなかった。しかし聴こうと云い出したからはいかに辞退しても許すはずのない春琴である上に母親や姉妹たちも
好奇心に
駆られているのでついに奥の間へ呼び出され独習の結果を
披露することになったのである彼に取ってはまことに晴れの場面であった。当時佐助は五つ六つの曲をどうやらこなすまでに仕上げていたので知っているだけを皆やってみよと云われるままに度胸を
据えて精限り根限り弾いた「
黒髪」のようなやさしいものや「茶音頭」のような難曲や
素より何の順序もなく聞き
噛りで習ったのであるからいろいろのものを不規則に覚えていたのである鵙屋の家族は佐助が
邪推したように笑い草にする積りであったかも知れないが、短時日の独稽古にしてはかんどころも確かなら節廻しも出来ていることが分って聴いた後には皆感心した
○
春琴伝に曰く「時に春琴は佐助が志を憐み、
汝の熱心に
賞でて以後は
妾が教えて取らせん、汝
余暇あらば常に妾を師と頼みて稽古を励むべしと云い、春琴の父安左衛門もついにこれを許しければ佐助は天にも
昇る心地して丁稚の業務に服する
傍日々一定の時間を限り指南を仰ぐこととはなりぬ。かくて十一歳の少女と十五歳の少年とは主従の上に今また師弟の
契を結びたるぞ
目出度き」と。気むずかしやの春琴が佐助に対して
突然かかる温情を示したのはなぜであったろうか実は春琴の発意ではなく周囲の者がそう仕向けたのであるともいう。思うに盲目の少女は幸福な家庭にあってもややもすれば
孤独に
陥り
易く
憂鬱になりがちであるから親たちはもちろん
下々の女中共まで彼女の
取扱いに困り、何とかして心を慰め気を晴らさせる術もあらばと
苦慮していた矢先たまたま佐助が彼女と趣味を同じゅうすることを知ったのである。大方こいさんの
我が
儘に手を焼いていた奥の奉公人たちは佐助にお相手役をなすり付けて少しでも自分たちの荷を軽くしようという考から、何と佐助どんは奇特なものではござりませぬかあれをせっかくこいさんが仕込んでおやりなされましたらどうでござります定めし本人も
冥加に余り喜ぶことでござりましょうなどと水を向けたのではなかったであろうか。ただし
下手におだてるとツムジを曲げる春琴であるから必ずしも周囲の仕向けに乗せられたのではないかも知れぬさすがに彼女もこの時に至って佐助を
憎からず思うようになり心の奥底に春水の
湧き出づるものがあったのかも知れぬ。何にしても彼女が佐助を弟子に持とうと云い出してくれたのは親兄弟や奉公人共に取って有難いことだったいくら天才児だと云っても十一歳の女師匠が果して人を教えることが出来るかどうかは問う所でない、ただそういう風にして彼女の
退屈が
紛れてくれれば
端の者が助かる云わば「学校ごッこ」のような
遊戯をあてがい佐助にお相手を命じたのである。だから佐助のためよりも春琴のために計らったことなのであるが結果から見れば佐助の方が
遥かに多く
恩沢に浴した。伝には「丁稚の業務に服する
傍日々一定の時間を限り」とあるけれども今まででも毎日手曳きを勤め一日の
中の何時間かはこいさんに仕えていたのであるその上こいさんの部屋へ呼ばれて音楽の授業を受けたとすると店の仕事を
顧みる暇はなかったであろう。安左衛門は商人に仕立てる積りで預かった子を娘の
守りにしてしまっては国元の親たちに済まぬという心づかいもあったらしいが丁稚一人の将来よりも春琴の機嫌を取る方が大切であったし佐助自身もそれを望んでいる以上、また当分はそうして置いてもと
黙許の形になったのであろうと思われる。佐助が春琴を「お師匠様」と呼び出したのはこの時からであって常には「こいさん」と呼んでよいが授業の間は必ずそう呼ぶように春琴が命じたそして彼女も「佐助どん」と云わずに「佐助」と云い、すべて春松検校がその内弟子を
遇する様を真似
厳重に師弟の礼を
執らせたかくして
大人たちの企図したごとくたわいのない「学校ごッこ」が続けられ春琴もそれに
紛れて
孤独を忘れていたのであるが、二人はその後月を重ね年を経ても一向この遊戯を中止する模様がなかったかえって二三年後には教える方も教えられる方も次第に遊戯の
域を脱して
真剣になった。春琴の日課は午後二時頃に
靱の検校の家へ出かけて三十分ないし一時間稽古を授かり帰宅後日の暮れまで習って来たものを練習する。さて夕食を済ませてから時々気が向いた折に佐助を二階の居間へ招いて教授するそれがついには毎日欠かさず教えるようになりどうかすると九時十時に至ってもなお許さず、「佐助、わてそんなこと
教せたか」「あかん、あかん、弾けるまで夜通しかかったかて
遣りや」と激しく
叱する声がしばしば階下の奉公人共を
驚かした時によるとこの幼い女師匠は「
阿呆、何で覚えられへんねん」と
罵しりながら
撥をもって頭を
殴り弟子がしくしく泣き出すことも
珍しくなかった
○
昔は遊芸を仕込むにも火の出るような
凄じい稽古をつけ
往々弟子に
体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形
浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、
摂津大掾亡き後の名人三代目
越路太夫の
眉間には大きな
傷痕が三日月型に残っていたそれは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるというまた文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある玉次郎若かりし頃「
阿波の
鳴門」で彼の師匠の大名人吉田玉造が
捕り
物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、その時キット
極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない「阿呆め」というなり立廻りに使っていた
本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。しかも玉次郎を
殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で
真赤に
染まった。彼はその血だらけになって
砕け飛んだ人形の足を師匠に
請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては
慈母の
霊前に
額ずくがごとく礼拝した「この人形の
折檻がなかったら自分は一生
凡々たる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。先代
大隅太夫は修業時代には一見牛のように
鈍重で「のろま」と呼ばれていたが彼の師匠は有名な豊沢団平俗に「大団平」と云われる近代の三味線の
巨匠であったある時蒸し暑い真夏の夜にこの大隅が師匠の家で
木下蔭挟合戦の「
壬生村」を稽古してもらっていると「
守り
袋は遺品ぞと」というくだりがどうしても
巧く語れない
遣り直し遣り直して
何遍繰り返してもよいと云ってくれない師匠団平は
蚊帳を
吊って中に這入って
聴いている大隅は
蚊に血を吸われつつ百遍、二百遍、三百遍と際限もなく繰り返しているうちに早や夏の夜の明け
易くあたりが白み初めて来て師匠もいつかくたびれたのであろう
寝入ってしまったようであるそれでも「よし」と云ってくれないうちはと「のろま」の特色を
発揮してどこまでも一生
懸命根気よく遣り直し遣り直して語っているとやがて「出来た」と蚊帳の中から団平の声、寝入ったように見えた師匠はまんじりともせずに聴いていてくれたのであるおよそかくのごとき
逸話は枚挙に
遑なくあえて浄瑠璃の太夫や人形使いに限ったことではない
生田流の琴や三味線の伝授においても同様であったそれにこの方の師匠は
大概盲人の検校であったから不具者の常として片意地な人が多く勢い
苛酷に走った
傾きがないでもあるまい。春琴の師匠春松検校の教授法もつとに厳格をもって聞えていたことは前述のごとくややもすれば
怒罵が飛び手が伸びた教える方も盲人なら教わる方も盲人の場合が多かったので師匠に
叱られたり打たれたりする度に少しずつ後ずさりをし、ついに三味線を
抱えたまま中二階の
段梯子を転げ落ちるような
騒ぎも起った。後日春琴が琴曲指南の看板を
掲げ弟子を取るようになってから
稽古振りの
峻烈をもって鳴らしたのもやはり先師の方法を
蹈襲したのであり由来する所がある訳なのだが、それは佐助を教えた時代から
既に
萌していたのであるすなわち幼い女師匠の
遊戯から始まり次第に本物に進化したのである。あるいは云う男の師匠が弟子を折檻する例は多々あるけれども女だてらに男の弟子を打ったり
殴ったりしたという春琴のごときは他に類が少いこれをもって思うに幾分
嗜虐性の傾向があったのではないか稽古に事寄せて一種変態な
性慾的快味を
享楽していたのではないかと。果してしかるや
否や今日において断定を下すことは困難であるただ明白な一事は、子供がままごと遊びをする時は必ず
大人の真似をするされば彼女も自分は検校に愛せられていたのでかつて
己れの肉体に
痛棒を
喫したことはないが日頃の師匠の
流儀を知り師たる者はあのようにするのが本来であると幼心に
合点して、
遊戯の際に早くも検校の真似をするに至ったのは自然の
数でありそれが
昂じて習い性となったのであろう
○
佐助は泣き虫であったものかこいさんに打たれる度にいつも泣いたというそれがまことに意気地なくひいひいと声を挙げるので「またこいさんの
折檻が始まった」と
端の者は
眉をひそめた。最初こいさんに遊戯をあてがった積りの大人たちもここに至ってすこぶる
当惑した毎夜おそくまで琴や三味線の音が聞えるのさえやかましいのに
間々春琴の
激しい語調で叱り飛ばす声が加わりその上に佐助の泣く声が夜の
更けるまで耳についたりするのであるあれでは佐助どんも
可哀そうだし第一こいさんのためにならぬと女中の
誰彼が見るに見かねて稽古の現場へ割って
這入りとうさんまあ何という事でんの
姫御前のあられもない男の
児にえらいことしやはりまんねんなあと止めだてでもすると春琴はかえって
粛然と
襟を正してあんた
等知ったこッちゃない
放ッといてと
威丈高になって云ったわてほんまに
教せてやってるねんで、遊びごッちゃないねん佐助のためを思やこそ一生懸命になってるねんどれくらい
怒ったかていじめたかて稽古は稽古やないかいな、あんた等知らんのか。これを春琴伝は記して
汝等妾を少女と
侮りあえて芸道の神聖を
冒さんとするや、たとい幼少なりとていやしくも人に教うる以上師たる者には師の道あり、妾が佐助に技を授くるはもとより一時の
児戯にあらず、佐助は生来音曲を好めども
丁稚の身として立派なる検校にも
就く
能わず独習するが
不憫さに、
未熟ながらも妾が代りて師匠となりいかにもして彼が望みを達せしめんと欲する
也、汝等が知る所に
非ず
疾くこの場を去るべしと
毅然として云い放ちければ、聞く者その
威容に
怖れ弁舌に
驚き
這々の
体にて引き
退るを常としたりきと云っているもって春琴の勢い込んだ
剣幕を想像することが出来よう。佐助も泣きはしたけれども彼女のそういう言葉を聞いては無限の感謝を
捧げたのであった彼の泣くのは
辛さを
怺えるのみにあらず主とも師匠とも頼む少女の
激励に対する
有難涙も
籠っていた
故にどんな痛い目に
遭っても
逃げはしなかった泣きながら最後まで
忍耐し「よし」と云われるまで練習した。春琴は日によって機嫌のよい時と悪い時とがあり口やかましく
叱言を云うのはまだよい方で黙って
眉を
顰めたまま三の
絃をぴんと強く鳴らしたりまたは佐助一人に三味線を弾かせ可否を云わずにじっと聴いていたりするそんな時こそ佐助は最も泣かされた。ある晩のこと茶音頭の
手事を稽古していると佐助の
呑み
込みが悪くてなかなか覚えない
幾度やっても間違えるのに業を
煮やして例のごとく自分は三味線を下に置き、やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガンチリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトンと右手で激しく
膝を
叩きながら口三味線で教えていたがついには
黙然として
突っ
放してしまった。佐助は取り着く
嶋もなくさればと云って
止める
訳にも行かず何とか
彼とか独りで考えては弾いているといつまで立ってもよいと云ってくれないそうなると逆上してますますトチリ出す体中に
冷汗が
湧く何が何やら
出鱈目を弾くばかりであるしかも春琴は
寂然として一層
唇を固く閉じ眉根に深く刻んだ
皺をピクリともさせないかくのごときこと二時間以上に及んだ頃母親のしげ女が寝間着姿で上って来て、熱心にも程がある度が過ぎては体に毒だからと
宥めるようにして二人を引き分けた。明くる日春琴は両親の前へ呼び出されてそなたが佐助に教えてやる親切は結構だけれども弟子を
罵ったり打ったりするのは人も許し我も許す検校さんのすること
也そなたはいかに上手と云っても自分がまだお師匠さんに習っているのに今からそんな真似をしては必ず慢心の
基になろうおよそ芸事は慢心したら上達はしませぬ、あまつさえ女の身として男を
捉え
阿呆などと
口汚く云うのは
聞辛しあれだけはなにとぞ
慎んで下されもうこれからは時間を定めて夜が
更けぬうちに
止めたがよい佐助のひいひい泣く声が耳について皆が寝られないで困りますと、ついぞ叱言をいったことのない父と母とが
懇ろに
説諭したのでさすがの春琴も返す言葉がなく道理に服した
体であったがそれも表面だけのことで実際は余り利き目がなかった。佐助は何という意気地なしぞ男の
癖に
些細なことに
怺え
性もなく声を立てて泣く
故にさも
仰山らしく聞えお
蔭で私が叱られた、芸道に
精進せんとならば痛さ骨身にこたえるとも歯を
喰いしばって
堪え
忍ぶがよいそれが出来ないなら私も師匠を断りますとかえって佐助に
嫌味を云った
爾来佐助はどんなに辛くとも決して声を立てなかった
○
鵙屋の夫婦は娘春琴が失明以来だんだん意地悪になるのに加えて稽古が始まってから
粗暴な
振舞さえするようになったのを少からず案じていたらしいまことに娘が佐助という相手を得たことは
善し
悪しであった佐助が彼女の機嫌を取ってくれるのは
有難いけれども何事もご無理ごもっともで通す所から次第に娘を増長させる結果になり将来どんなに根性のひねくれた女が出来るかも知れぬと
密かに胸を痛めたのであろう。それかあらぬか佐助は十八歳の冬から改めて主人の計らいに依って春松検校の門に
這入ったすなわち春琴が直接教授することを
封じてしまったのである。これは親達の
考では娘が師匠の
真似をするのが最も悪い何よりも娘の品性に良からぬ影響を与えると見たからであったろうが同時に佐助の運命もこの時に決した訳であるこの時以来佐助は完全に丁稚の任務を解かれ名実共に春琴の
手曳きとしてまた
相弟子として検校の家へ通うようになった。本人がそれを望んだのは云うまでもないとして安左衛門も大いに国元の親達を説き付け
諒解を得るように努めた商人になる目的を
放棄させる代りには
行末のことを保証し必ず捨てて置かぬからとそこは言葉を尽したものと察せられる。
按ずるに安左衛門夫婦は春琴のために
慮って佐助を
婿に
貰ったらと云う意志が動いていたのであろう不具の娘であってみれば対等の結婚はむずかしい佐助ならば願ってもない
良縁であると思うのも無理からぬ所である。しこうしてその翌々年すなわち春琴十六歳佐助二十歳の時始めて親達は結婚のことを
諷したのであったが意外にも彼女はにべもなく
峻拒した自分は一生夫を持つ気はない
殊に佐助などとは思いも寄らぬと
甚しい不機嫌であったしかるに何ぞ
図らんそれより一年を経て春琴の体にただならぬ様子が見えることを母親が感づいたのであるまさかとは思ったけれども内々気を付けてみるとどうも
怪しい、
人眼に立つようになってからでは奉公人の口がうるさい今のうちならとかく
繕ろう道もあろうと父親にも知らせずそっと当人に
尋ねるとそんな覚えはさらさらないと云う深くも追及しかねるので
腑に落ちないながら
一箇月ほど捨てておくうちにもはや事実を
蔽い
隠せぬまでになった。今度は春琴は素直に
妊娠を認めたがいかに聞かれても相手を云わない強いて
問い
詰めるとお
互に名を云わぬ
約束をしたと云う佐助かと云えば何であのような丁稚
風情にと頭から否定した。誰しも一往佐助に疑いを持って行くところであるけれども親たちにしても去年の春琴の言葉があるのでよもやと思ったのであるそれにそう云う関係があればなかなか人前を隠し切れぬもの、経験の浅い少女と少年がどんなに平気を
装っても
嗅ぎ付かれずにはいないものだが佐助が同門の
後輩となってからは以前のように夜更けるまで
対坐する機会もなく時折兄弟子の格式をもっておさらいをしてやるぐらいなものその他の時はどこまでも気位の高いこいさんであって、佐助を
遇するに手曳き以上の
扱いはしていないようなので奉公人共も二人の間に間違いがあろうとは思っても見なかったむしろ主従の区別が有り過ぎ情味が
乏しいほどに思えた。しかし佐助に聞いたらば様子が知れよう相手はきっと検校の門下生であろうと見当をつけたが佐助も知らぬ存ぜぬの一点張りで、自分の身に覚えのないのはもちろん誰といって心あたりもないと云う。けれどもこの時
御寮人の前へ呼ばれた佐助の態度がオドオドして
胡散臭いのに不審が加わり
問い
詰めて行くと
辻褄の合わないことが出て来て実はそれを申しましてはこいさんに
叱られますからと泣き出してしまった。いやいやこいさんを
庇うのはよいが主人の云い付けをなぜ聴かぬ隠し立てをしてはかえってこいさんのためになりませぬ
是非相手の名を云ってごらんと口を
酸ッぱくしても云わぬそれでも結局のところ相手はやはり当の本人の佐助であることが
言外に
酌み取れた決して白状しませぬとこいさんに約束した手前を
恐れて
明瞭には云わないのだがそれを察してもらいたそうに云うのであった。鵙屋夫婦は出来てしまったことは仕方がないしまあまあ佐助だったのはよかったそのくらいなら去年
縁組をすすめた時なぜあのような心にもないことを云ったのやら
娘気というものはたわいのないものと
愁いのうちにも
安堵の胸をさすり、この上は人の口の
端にかからぬうち早く一緒にさせる方がと改めて春琴に持ちかけてみると、またしてもそんな話はいやでござります去年も申しましたように佐助などとは考えてもみませぬこと、私の身を
不憫がって下さいますのは
忝うござりますがいかに不自由な体なればとて奉公人を
婿に持とうとまでは思いませぬお
腹の子の父親に対しても済まぬことでござりますと顔色を変えて云うのであるではそのお腹の子の父親はと聞けばそればかりは
尋ねないで下さりませどうでその人に
添う積りはござりませぬという。そうなるとまた佐助の言葉がアヤフヤに思えどちらの云うことが本当やらさっぱり訳が分らなくなり
困じ果てたが佐助以外に相手があろうとも考えられず今となってはきまりが悪いのでわざと反対なことを云うのであろうそのうちには本音を
吐くであろうともうそれ以上の
詮議は
止めて
取敢えず
身二つになるまで有馬へ
湯治にやることにした。それは春琴が十七歳の五月で佐助は大阪に居残り女中二人が附き添って十月まで有馬に
滞在し
目出度男の子を生んだその
赤ん
坊の顔が佐助に
瓜二つであったとやらでようやく
謎が解けたようなものの、それでも春琴は縁組の相談に耳を借さないのみならずいまだに佐助が
赤児の父親であることを否定する
拠ん
所なく二人を対決させてみると春琴は
屹となり佐助どん
何ぞ疑ぐられるようなこと云うたんと違うかわてが
迷惑するよって身に覚えのないことはないとはっきり明りを立ててほしいと云う
釘を打たれて佐助はひと縮みに縮み上り仮りにも御主のとうさんを
滅相なことでござります、
子飼いの時より
一方ならぬ大恩を受けながらそのような身の程知らずの
不料簡は起しませぬ思いも寄らぬ
濡れ
衣でござりますと今度は春琴に口を合わせ
徹頭徹尾否認するのでいよいよ
埒が明かなくなった。それでも生れた子が
可愛くはないかそなたがそんなに強情を張るなら
父なし
児を育てる訳には行かぬ
断って縁組みが
厭だとあれば
可哀そうでも
嬰児はどこぞへくれてやるより仕方がないがと子を
枷にして
詰め寄るとなにとぞどこへなとお
遣りなされて下さりませ一生独り身で
暮らす私に足手まといでござりますと
涼しい顔つきで云うのである
○
この時春琴が生んだ子はよそへ
貰われて行ったのである
弘化二年の生れに当るから今日存命しているとも思われないし貰われて行った先も知れていないいずれ両親がしかるべく処置したのであろう。そんな訳でとうとう春琴は
我を張り通し
妊娠の一件を
有耶無耶に
葬ってまたいつの
間にか平気な顔で佐助に
手曳きさせながら稽古に通っていたもうその時分彼女と佐助との関係はほとんど公然の秘密になっていたらしいそれを正式にさせようとすれば当人たちがあくまで否認するものだから、娘の気象を知っている親達はやむをえず
黙許の形にしておいたと見えるかくして主従とも相弟子とも
恋仲ともつかぬ
曖昧な状態が二三年つづいた後春琴二十歳の時春松検校が死去したのを機会に独立して師匠の看板を
掲げることになり親の家を出て
淀屋橋筋に
一戸を構えた同時に佐助も
附いて行ったのである。けだし彼女は検校の生前すでに実力を認められいつにても独立して
差支ないよう許可を得ていたことと思われる検校は
己れの名の一字を取って彼女に春琴という名を与え晴れの演奏の時しばしば彼女と合奏したり高い所を
唄わせたりして常に引き立ててやっていたされば検校
亡き後に
門戸を構えるに至ったのは当然であるかも知れぬ。しかし彼女の
年齢境遇等に照らしにわかに独立する必要があったろうとは考えられないこれは恐らく佐助との関係を
慮ったのであろうというのは、もはや公然の秘密になっている二人をいつまで
曖昧な状態に置いては奉公人
共の示しが付かずせめて一
軒の家に
同棲させるという方法を取ったので春琴自身もその程度ならあえて不服はなかったのであろう。もちろん佐助は淀屋橋へ行ってからも少しも前と異った
扱いはされなかったやはりどこまでも手曳きであったその上検校が死んだので再び春琴に師事することになり今は誰に
遠慮もなく「お師匠様」と呼び「佐助」と呼ばれた。春琴は佐助と夫婦らしく見られるのを
厭うこと
甚しく主従の
礼儀師弟の差別を厳格にして言葉づかいの
端々に至るまでやかましく云い方を規定したまたまそれに
悖ることがあれば平身低頭して
詑まっても容易に
赦さず
執拗にその無礼を責めた。
故に様子を知らない新参の入門者は二人の間を疑う
由もなかったというまた鵙屋の奉公人共はあれでこいさんはどんな顔をして佐助どんを
口説くのだろうこっそり立ち
聴きしてやりたいと
蔭口を云ったというなぜ春琴は佐助を待つことかくのごとくであったか。ただし大阪は今日でも
婚礼に
家柄や資産や格式などを
云々すること東京以上であり元来町人の見識の高い土地であるから
封建の世の風習は思いやられる従って旧家の
令嬢としての
衿恃を捨てぬ春琴のような娘が代々の家来筋に当る佐助を低く
見下したことは想像以上であったであろう。また盲目の
僻みもあって人に弱味を見せまい
馬鹿にされまいとの負けじ
魂も燃えていたであろう。とすれば佐助を我が夫として
迎えるなど全く己れを
侮辱することだと考えたかも知れぬよろしくこの辺の事情を察すべきであるつまり
目下の人間と肉体の縁を結んだことを
恥ずる心があり反動的によそよそしくしたのであろう。しからば春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであろうか多分意識的にはそうであったかと思われる
○
伝に
曰く「春琴居常
潔癖にしていささかにても
垢着きたる物を
纏わず、
肌着類は毎日
取換えて
洗濯を命じたりき。また朝夕に部屋の
掃除を
励行せしむること厳密を極め、
坐するごとに一々指頭をもって
座布団畳等の表面を
撫で試み
毫釐の
塵埃をも
厭いたりき。かつて門弟の胃を病む者あり、口中に
臭気あるを
悟らず師の前に出でて稽古しけるに、春琴例のごとく三の
絃を
鏗然と
弾きてそのまま三味線を置き、
顰蹙して一語を発せず、門弟
為す所を知らずして恐る恐る理由を問うこと再三に及びし時、妾は盲人なれども鼻は
確なり、
々に去って
含嗽をせよと云いしとぞ」と。盲人なるが故にかくのごとく潔癖だったのでもあろうがまたこういう人が盲人であったとすると身の周りの世話をする者の心づかいは推量に余る。手曳きという役は手を曳くばかりが受け持ちではない飲食
起臥入浴
上厠等日常生活の
些事に
亘って面倒を見なければならぬしこうして佐助は春琴の幼時よりこれらの任務を担当し
性癖を
呑み
込んでいたので彼でなければ到底気に入るようには行かなかった佐助はむしろこの意味において春琴に取り欠くべからざる存在であった。それに道修町の時分にはまだ両親や兄弟達へ気がねがあったけれども一戸の
主となってからは潔癖と
我が
儘が
募る一方で佐助の用事はますます
煩多を加えたのであるこれは
鴫沢てる女の話でさすがに伝には記してないが、お師匠様は厠から出ていらしっても手をお洗いになったことがなかったなぜなら用をお足しになるのにご自分の手は
一遍もお使いにならない何から何まで佐助どんがして上げた入浴の時もそうであった高貴の婦人は平気で体じゅうを人に洗わせて
羞恥ということを知らぬというがお師匠様も佐助どんに対しては高貴の婦人と選ぶ所はなかったそれは盲目のせいもあろうが幼い時からそういう習慣に
馴れていたので今更何の感情も起らなかったのかも知れない。彼女はまた非常にお
洒落であった失明以来鏡を
覗いたことはなくとも己れの容色については並々ならぬ自信があり衣類や
髪飾りの配合等に苦労することは眼明きと同じであった思うに
記憶力の強い彼女は九歳の時の己れの顔立ちを長く覚えていたであろうしその上世間の評判や人々のお世辞が始終耳に這入るので自分の器量のすぐれていることはよく承知していたのであるされば
化粧に
浮身を
窶すことは
大抵でなかった。常に
鶯を飼っていて
糞を
糠に
交ぜて使いまた
糸瓜の水を
珍重し顔や手足がつるつる
滑るようでなければ気持を悪がり地肌の
荒れるのを最も
忌んだ
総べて絃楽器を弾く者は絃を
押える必要上左手の指の
爪の
生え加減を気にするものだが必ず三日目ごとに爪を
剪らせ
鑢をかけさせたそれが左の手ばかりでなく両手両足に及んだ剪ると云ってもほとんど眼に見えて
伸びていないわずかに一
厘二厘に過ぎないのをいつも同じ
恰好に正確に剪るように命じ剪った
痕を一つ一つ手でさぐって見て少しでも
狂いがあることを許さなかった佐助は実にこのような世話を一人で引き
請け合間にはまた稽古をしてもらい時にはお師匠様に代って後進の弟子達に教えもした
○
肉体の関係ということにもいろいろある佐助のごときは春琴の肉体の
巨細を知り
悉して
剰す所なきに至り月並の夫婦関係や恋愛関係の
夢想だもしない密接な縁を結んだのである後年彼が
己れもまた盲目になりながらなおよく春琴の身辺に奉仕して大過なきを得たのは偶然でない。佐助は一生妻妾を
娶らず丁稚時代より八十三歳の老後まで春琴以外に一人の異性をも知らずに終り他の婦人に比べてどうのこうのと云う資格はないけれども晩年
鰥暮らしをするようになってから常に春琴の
皮膚が世にも
滑かで
四肢が
柔軟であったことを左右の人に
誇って
已まずそればかりが唯一の老いの
繰り
言であったしばしば
掌を伸べてお師匠様の足はちょうどこの手の上へ
載るほどであったと云い、また我が
頬を
撫でながら
踵の肉でさえ己のここよりはすべすべして
柔かであったと云った。彼女が小柄だったことは前に書いたが体は
着痩せのする方で
裸体の時は肉づきが思いの
外豊かに色が
抜けるほど白く幾つになっても
肌に若々しいつやがあった平素魚鳥の料理を好み分けても
鯛の造りが好物で当時の婦人としては
驚くべき美食家であり酒も少々は
嗜んで
晩酌に一合は欠かさなかったと云うからそんなことが関係していたかも知れない〔盲人が物を食う時はさもしそうに見え気の毒な感じを
催すものであるまして
妙齢の美女の盲人においてをや春琴はそれを知ってか知らずか佐助以外の者に飲食の態を見られるのを
嫌った客に招かれた時なぞはほんの形式に
箸を取るのみであったから至ってお上品のように思われたけれども内実は食べ物に
贅を
尽したもっとも大食というのではない飯は軽く二杯たべおかずも
一と箸ずついろいろの皿へ手をつけるので品数が多くなり給仕に手数のかかることは大抵でなかったまるで佐助を困らせるのが目的のように思えるほどだった。佐助は鯛のあら
煮の身をむしること
蟹蝦等の
殻を
剥ぐことが
上手になり
鮎などは姿を
崩さずに尾の所から骨を
綺麗に
抜き取った〕
頭髪もまた非常に多量で真綿のごとく柔くふわふわしていた手は
華車で掌がよく
撓い絃を扱うせいか指先に力があり平手で頬を
撲たれると相当に痛かった。すこぶる
上気せ性の
癖にまたすこぶる冷え性で
盛夏といえどもかつて肌に
汗を知らず足は氷のようにつめたく四季を通じて厚い
綿の
這入った
羽二重もしくは
縮緬の
小袖を寝間着に用い
裾を長く曳いたまま着て両足を十分に包んで
寝ねそれで少しも寝姿が乱れなかった。上気することを恐れるためなるべく
炬燵や湯たんぽを用いず余り冷えると佐助が両足を
懐に抱いて
温めたがそれでも容易に温もらず佐助の胸がかえって冷え切ってしまうのであった入浴の時は
湯殿に
湯気が
籠らぬように冬でも窓を
開け放ち
微温湯に一二分間ずつ何回にも
漬かるようにした長湯をすると
直きに
動悸がして湯気に上りそうになるので出来るだけ短時間に
煖まり大急ぎで体を洗わねばならぬかくのごときことを知れば知るほど佐助の労苦
真に察すべしである。しかも物質的に報いられる所は
甚だ
薄く給料等も時々の手当てに過ぎず
煙草銭にも
窮することがあり衣類は
盆暮れに仕着せを貰うだけであった師匠の代稽古はするけれども特別の地位は認められず門弟や女中共は彼を「佐助どん」と呼ぶように命ぜられ出稽古の供をする時は玄関先で待たされた。ある時佐助
齲歯を病み右の頬が
夥しく
脹れ上り夜に入ってから苦痛
堪え難きほどであったのを
強いて
怺えて色に表わさず折々そっと
合嗽をして息がかからぬように注意しながら仕えているとやがて春琴は寝床に這入って肩を
揉め
腰をさすれと云う云われるままにしばらく
按摩しているともうよいから足を
温めよと云う
畏まって裾の方に
横臥し懐を開いて彼女の
蹠を我が胸板の上に
載せたが胸が氷のごとく冷えるのに反し顔は
寝床のいきれのためにかっかっと
火照って歯痛がいよいよ
激しくなるのに
溜りかね、胸の代りに脹れた頬を蹠へあてて
辛うじて
凌いでいるとたちまち春琴がいやと云うほどその頬を
蹴ったので佐助は覚えずあっと云って飛び上った。すると春琴が
曰くもう温めてくれぬでもよい胸で温めよとは云うたが顔で温めよとは云わなんだ蹠に眼のなきことは眼明きも盲人も変りはないに何とて人を
欺かんとはするぞ
汝が歯を病んでいるらしきは大方昼間の様子にても知れたりかつ右の頬と左の頬と熱も違えば脹れ加減も違うことは蹠にてもよく分るなりさほど苦しくば正直に云うたらよろしからん妾とても
召使を
労わる道を知らざるにあらずしかるにいかにも忠義らしく装いながら主人の体をもって歯を冷やすとは大それた
横着者かなその心底
憎さも憎しと。春琴の佐助を
遇することおおよそこの類であった分けても彼が年若い女弟子に親切にしたり稽古してやったりするのを
懌ばずたまたまそういう疑いがあると
嫉妬を
露骨に表わさないだけ一層意地の悪い当り方をしたそんな場合に佐助は最も苦しめられた
○
女で盲目で独身であれば
贅沢と云っても限度があり美衣美食をほしいままにしてもたかが知れているしかし春琴の家には
主一人に奉公人が五六人も使われている月々の生活費も
生やさしい額ではなかったなぜそんなに金や人手がかかったと云うとその第一の原因は小鳥道楽にあったなかんずく彼女は
鶯を愛した。今日
啼きごえの優れた鶯は一羽一万円もするのがある往時といえども事情は同じだったであろう。もっとも今日と昔とでは啼きごえの聴き分け方や
翫賞法が幾分異なるらしいけれどもまず今日の例をもって話せばケッキョ、ケッキョ、ケッキョケッキョと
啼くいわゆる
谷渡りの声ホーキーベカコンと啼くいわゆる
高音、ホーホケキョウの地声の外にこの二種類の啼き方をするのが値打ちなのであるこれは
藪鶯では啼かないたまたま啼いてもホーキーベカコンと啼かずにホーキーベチャと啼くから
汚い、ベカコンと、コンと云う金属性の美しい
余韻を曳くようにするにはある
人為的な手段をもって養成するそれは藪鶯の
雛を、まだ尾の
生えぬ時に
生け
捕って来て別な師匠の鶯に附けて稽古させるのである尾が生えてからだと親の藪鶯の汚い声を覚えてしまうのでもはや
矯正することが出来ない。師匠の鶯も元来そう云う風にして人為的に仕込まれた鶯であり有名なのは「
鳳凰」とか「千代の友」とか云った様にそれぞれ
銘を持っているさればどこの
誰氏の家にはしかじかの名鳥がいると云うことになれば鶯を
飼っている者は我が鶯のために
遥々とその名鳥の
許を訪ね啼き方を教えてもらうこの稽古を声を附けに行くと云い
大抵早朝に出かけて幾日も続ける。時には師匠の鶯の方から一定の場所に出張し弟子の鶯共がその周囲に集まりあたかも唱歌の教室のごとき観を呈するもちろん
箇々の鶯によって素質の
優劣声の
美醜があり、同じ谷渡りや高音にも
節廻しの
上手下手余韻の長短等さまざまであるから良き鶯を
獲ることは容易にあらず獲れば授業料の
儲けがあるので価の高いのは当然である。春琴は我が家に飼っている一番優秀な鶯に「
天鼓」と云う銘をつけて朝夕その声を聴くのを楽しんだ天鼓の啼く音は実に見事であった高音のコンという音の
冴えて余韻のあることは人工の
極致を
尽した楽器のようで鳥の声とは思われなかったそれに声の寸が長く張りもあればつやもあったされば天鼓の取り扱いは
甚だ
鄭重で食物のごときも注意に注意を加えさせた普通鶯の
擦り
餌を作るには
大豆と
玄米を
炒って粉にした物へ
糠を
交えて
白粉を製し、別に
鮒や
鮠の
干したのを粉にした
鮒粉と云うものを用意してこの二つを半々に混じ大根の葉を
擦った
汁で
溶くなかなか面倒なものであるその
外声をよくするためには
という
蔓草の
茎の中に
巣食う
昆虫を捕って来て日に一
匹あるいは二匹
宛与えるかくのごとき手数を要する鳥を
大概五六羽は
飼育していたので奉公人の一人か二人はいつもそれに係りきりであった。また鶯は人の見ている前では啼かない
籠を
飼桶という
桐の箱に入れ
障子を
篏めて密閉し紙の外からほんのり明りがさすようにするこの飼桶の障子には
紫檀黒檀などを用いて
精巧な
彫刻を
施したりあるいは
蝶貝を
鏤め
蒔絵を
描いたりして
趣向を
凝らし中には
骨董品などもあって今日でも百円二百円五百円などと云う高価なのが
珍しくない天鼓の飼桶には支那から
舶載したという
逸品が
篏まっていた骨は紫檀で作られ
腰に
琅の
翡翠の板が入れてありそれへ
細々と山水
楼閣の
彫りがしてあった
誠に
高雅なものであった。春琴は常に我が居間の
床脇の窓の所にこの箱を
据えて
聴き入り天鼓の美しい声が
囀る時は
機嫌がよかった故に奉公人共は精々水をかけてやり啼かせるようにした大抵快晴の日の方がよく啼くので天気の悪い日は従って春琴も気むずかしくなった天鼓の啼くのは冬の末より春にかけてが最も
頻繁で夏に至ると追い追い回数が少くなり春琴も次第に
鬱々とする日が多かった。いったい鶯は上手に飼えば寿命が長いものだけれどもそれには細心の注意が
肝要で経験のない者に任せたら
直き死んでしまう死ねばまた代りの鶯を買う春琴の家でも初代の天鼓は八歳の時に死しその後しばらく二代目を
継ぐ名鳥を得られなかったが、数年を経てようやく先代を
恥かしめぬ鶯を養成しこれを再び天鼓と名づけて
愛翫した「二代目の天鼓もまたその声
霊妙にして
迦陵頻迦を
欺きければ日夕籠を
座右に置きて
鍾愛すること大方ならず、常に門弟
等をしてこの鳥の啼く音に耳を
傾けしめ、しかる後に
諭して
曰く、汝等天鼓の
唄うを聴け、元来は名もなき鳥の雛なれども幼少より
練磨の功
空しからずしてその声の美なること全く野生の鶯と異れり、人あるいは云わん、かくのごときは人工の美にして
天然の美にあらず、谷深き山路に春を訪ね花を探りて歩く時流れを
隔つる
霞の
奥に思いも寄らず啼き出でたる藪鶯の声の
風雅なるに
如かずと、しかれども妾は左様には思わず、藪鶯は時と所を得て始めて
雅致あるように聞ゆるなり、その声を論ずれば
未だ美なりと云う
可からず、これに反して天鼓のごとき名鳥の囀るを聞けば、居ながらにして
幽邃閑寂なる
山峡の
風趣を
偲び、
渓流の
響の
潺湲たるも尾の上の
桜の
靉靆たるもことごとく心眼心耳に浮び来り、花も
霞もその声の
裡に備わりて身は
紅塵万丈の都門にあるを忘るべし、これ技工をもって天然の風景とその徳を争うものなり
音曲の
秘訣もここに
在りと。また
鈍根の子弟を
恥じしめて、
小禽といえども芸道の秘事を解するにあらずや汝人間に生れながら鳥類にも
劣れりと
叱することしばしばなりき」なるほど
理窟はその通りであるが何かにつけて鶯に
比較されては佐助を始め門弟一同やりきれなかったことであろう
○
鶯に次いで愛したものは
雲雀であったこの鳥は天に向って
飛揚せんとする習性があり籠の
裡にあっても常に高く
舞い上るので籠の形も
縦に細長く造り三尺四尺五尺と云うような
丈に達する。しかれども雲雀の声を真に賞美するには籠より放ってその姿の見えずなるまで空中に舞い上らせ、雲の奥深く分け入りながら啼く声を地上にあって聞くのであるすなわち雲切りの技を楽しむ。大抵雲雀は一定時間空中に留まった後再び元の籠へ
舞い
戻って来る空中に留まっている時間は十分ないし二三十分であり長く留まっているほど優秀な雲雀であるとされる故に雲雀の競技会の時には籠を一列に並べて置き同時に戸を開いて空へ放ちやり最後に戻って来たものを
勝とする。
劣等の雲雀は戻って来る時
誤まって
隣の籠へ這入ったり甚しきは一丁も二丁も離れた所へ下りたりするが
普通はちゃんと自分の籠を
弁えているけだし雲雀は
垂直に舞い上り空中の一箇所に留まっていて再び垂直に降下するのであるされば自然と元の籠へ戻るようになる雲切りとは云うけれども雲を切って横に飛ぶのではない雲を切るように見えるのは雲の方が雲雀を
掠めて飛ぶためである。淀屋橋筋の春琴の家の隣近所に
家居する者はうららかな春の日に盲目の女師匠が物干台に立ち出でて雲雀を空に
揚げているのを見かけることが
珍しくなかった彼女の
傍にはいつも佐助が
侍り
外に鳥籠の世話をする女中が一人
附いていた女師匠が命ずると女中が籠の戸を開ける雲雀は
嬉々としてツンツン啼きながら高く高く
昇って行き姿を
霞の中に
没する女師匠は見えぬ眼を上げて
鳥影を追いつつやがて雲の間から啼きしきる声が落ちて来るのを一心に
聴き
惚れている時には同好の人々がめいめい
自慢の雲雀を持ち寄って競技に興じていることもある。そういう折に隣近所の人々も自分たちの家の物干に上って雲雀の声を聴かせてもらう中には雲雀よりも
別嬪の女師匠の顔を見たがる手合もある町内の若い衆などは年中
見馴れているはずだのに物好きな
痴漢はいつの世にも絶えないもので雲雀の声が聞えるとそれ女師匠が拝めるぞとばかり急いで屋根へ上って行った彼
等がそんなに騒いだのは盲目というところに特別の
魅力と深みを感じ、好奇心をそそられたのであろう平素佐助に手を曳かれて出稽古に
赴く時は黙々としてむずかしい表情をしているのに、雲雀を揚げる時は晴れやかに
微笑んだり物を云ったりする様子なので
美貌が生き生きと見えたのでもあろうか。まだこの
外にも
駒鳥鸚鵡目白
頬白などを飼ったことがあり時によっていろいろな鳥を五羽も六羽も養っていたそれらの費用は大抵でなかったのである
○
彼女はいわゆる
内面の悪い方であった外に出ると思いの
外愛想がよく客に招かれた時などは言語動作が至ってしとやかで色気があり家庭で佐助をいじめたり弟子を打ったり
罵ったりする
婦人とは受け取りかねる風情があったまた附き合いのためには見えを
飾り派手を喜び祝儀
無祝儀盆暮れの
贈答等には鵙屋の娘たる格式をもってなかなかの気前を見せ、下男下女おちゃこ
駕籠舁き人力車夫等への
纏頭にも思い切った額を
弾んだ。だがそれならば
無鉄砲な
浪費家であったかと云うのに、断じてそうではなかったらしいかつて作者は「私の見た大阪及び大阪人」と題する篇中に大阪人のつましい生活
振りを論じ東京人の
贅沢には裏も表もないけれども大阪人はいかに派手好きのように見えても必ず人の気の付かぬ所で
冗費を節し
締括りを附けていることを説いたが春琴も
道修町の町家の生れであるどうしてその辺にぬかりがあろうや極端に
奢侈を好む一面極端に
吝嗇で
慾張りであった。もともと派手を競うのは持ち前の負けじ魂に発しているのでその目的に
添わぬ限りは
妄りに浪費することなくいわゆる死に金を使わなかった
気紛れにぱっぱっと
播き散らすのでなく使途を考え効果を
狙ったのであるその点は理性的打算的であったさればある場合には負けじ魂がかえって
貪慾に変形し門弟より
徴する月謝やお
膝付のごとき、女の身としておおよそ他の師匠連との振り合いもあるべきに自ら
恃することすこぶる高く一流の検校と同等の額を要求して
譲らなかった。そのくらいはまだよいとして弟子共が持って来る中元や
歳暮の付け届け等にまで
干渉し少しでも多いことを希望して
暗々裡にその意を
諷すること
執拗を極めたある時盲人の弟子があり家貧しき故に月々の謝礼も
滞りがちであったが中元に付け届けをすることが出来ず心ばかりに
白仙羹をひと折買って来て情を佐助に訴え、なにとぞ私の貧を
憐みお師匠様にそこをよろしくお
執成し下されお目こぼしを
願度と云った。佐助も気の毒に思い恐る恐るその
旨を取り次いで
陳弁するとにわかに顔の色を変えて月謝や付け届けをやかましく云うのを慾張りのように思うか知れぬがそんな訳ではない銭金はどうでもよけれど大体の目安を定めて置かなんだら師弟の礼儀というものが成り立たぬ、あの子は毎月の謝礼をさえ
怠り今また白仙羹ひと折を中元と称して持参するとは無礼の至り師匠を
蔑ろにすると云われても仕方がなかろう、せっかくながらそれほど貧しくては芸道の上達も
覚束ないもちろん事と品によっては
無報酬にて教えてやらぬものでもないがそれは行く末に望みもあり万人に才を
惜しまれるような
麒麟児に限ったこと、貧苦に打ち
克ちひと
廉の名人となる程の者は生れつきから違っているはず
根と熱心とばかりでは行かぬあの子は厚かましいだけが
取柄で芸の方はさして見込みがあろうとも思えず貧を憐んで下されなどとは
己惚れも甚しい、なまじ人に
迷惑をかけ
恥を
曝すよりもうこの道で立つことをふっつりあきらめたがよかろう、それでも習いたいのなら大阪には
幾らもよい師匠があるどこへなと勝手に弟子入りをしや私の所は今日限り
止めてもらいますこちらから断りますと、云い出したからはいかに
詑び入っても聴き入れずとうとう本当にその弟子を断ってしまった。また余分の付け届けを持って行くとさしも稽古の厳重な彼女もその日一日はその子に対して顔色を
和げ心にもない
褒め言葉を
吐いたりするので聞く方が気味を悪がりお師匠さんのお世辞と云うと恐ろしいものになっていた。そんな次第
故諸方からの到来物は一々自ら
吟味して
菓子の折まで開けて調べるという風で月々の収入支出等も佐助を呼びつけて
珠算盤を置かせ決算を明かにした彼女は非常に計数に
敏く暗算が達者であり一度聞いた数字は容易に忘れず米屋の
払いがいくらいくら酒屋の払いがいくらいくらと
二月三月前のことまで正確に覚えていた
畢竟彼女の贅沢は甚だしく利己的なもので自分が
奢りに
耽るだけどこかで差引をつけなければならぬ結局お
鉢は奉公人に
廻った。彼女の家庭では彼女一人が大名のような生活をし佐助以下の召使は極度の節約を強いられるため爪に火を
燈すようにして暮らしたその日その日の
飯の減り方まで多いの少いのと云うので食事も十分には
摂れなかったくらいであった奉公人は
蔭口をきいて、お師匠様は鶯や雲雀の方がお前
等より忠義者だと
仰っしゃるが忠義なのも無理がない、私等よりも鳥の方がずっと大事にされていると云った
○
鵙屋の家でも父の安左衛門が生存中は月々春琴の云うがままに仕送ったけれども父親が死んで兄が
家督を継いでからはそうそう云うなりにもならなかった。今日でこそ
有閑婦人の贅沢はさまで珍しくないようなものの昔は男子でもそうは行かぬ
裕福な家でも
堅儀な旧家ほど衣食住の
奢りを
慎み
僭上の
誹を受けないようにし成り上り者に
伍するのを
嫌った春琴に
奢侈を許したのは
外に楽しみのない不具の身を憐れんだ親の情であったのだが、兄の代になるととかくの
批難が出て最大限度月に
幾何と額をきめられそれ以上の請求には応じてくれないようになった彼女の吝嗇もそういう事が多分に関係しているらしい。しかしなおかつ生活を支えて余りある金額であったから琴曲の教授などはどうでもよかったに違いなく弟子に対して鼻息の荒かったのも当然である。事実春琴の門を
叩く者は幾人と数えるほどで
寂々寥々たるものであったさればこそ小鳥道楽などに
耽っている
暇があったのであるただし春琴が生田流の琴においても三絃においても当時大阪第一流の名手であったことは決して彼女の自負のみにあらず公平な者は
皆認めていた春琴の
傲慢を憎む者といえども心中
私かにその技を
妬みあるいは恐れていたのである作者の知っている老芸人に青年の
頃彼女の三絃をしばしば聴いたという者があるもっともこの人は浄るりの三味線弾きで流儀は自ら違うけれども近年地唄の三味線で春琴のごとき
微妙の音を
弄するものを他に聴いたことがないと云うまた団平が若い頃にかつて春琴の演奏を聞き、あわれこの人男子と生れて
太棹を弾きたらんには
天晴れの名人たらんものをと
嘆じたという団平の意太棹は三絃芸術の極致にしてしかも男子にあらざればついに
奥義を究むる
能わずたまたま春琴の
天稟をもって女子に生れたのを
惜しんだのであろうか、そもそもまた春琴の三絃が男性的であったのに感じたのであろうか。
前掲の老芸人の話では春琴の三味線を蔭で聞いていると
音締が
冴えていて男が弾いているように思えた音色も単に美しいのみではなくて変化に富み時には
沈痛な深みのある音を出したといういかさま女子には珍しい妙手であったらしい。もし春琴が今少し
如才なく人に
謙ることを知っていたなら大いにその名が
顕われたであろうに
富貴に育って生計の苦難を解せず
気随気儘に
振舞ったために世間から敬遠され、その才の故にかえって四方に敵を作り
空しく
埋れ果てたのは自業自得ではあるけれどもまことに不幸と云わねばならぬ。されば春琴の門に入る者はかねてより彼女の実力に服しこの人を
措いて師と頼む者はないと云う風に思い詰め、修業のためには
甘んじて
苛辣な
鞭撻を受けよう
怒罵も
打擲も辞する所にあらずという
覚悟の上で来たのであったがそれでも長く
堪え
忍んだ者は少く大抵は
辛抱出来ずにしまった
素人などはひと月と続かなかった。
按ずるに春琴の稽古振りが鞭撻の
域を通り
越して往々意地の悪い
折檻に発展し
嗜虐的
色彩をまで帯びるに至ったのは幾分か名人意識も手伝っていたのであろうすなわちそれを世間も許し門弟も覚悟していたのでそうすればするほど名人になったような気がし、だんだん図に乗ってついに自分を制しきれなくなったのである
○
鴫沢てる女はいう、お弟子さんはほんに少うござりましたが中にはお師匠さんのご器量が目あてで習いに来られるお人もござりました、素人衆は大概そんなのが多かったようでござりますと。美貌で未婚でかつ資産家の娘であったからこれはいかにもありそうに思われる彼女が弟子を
遇すること
峻烈であったのはそういう冷やかし半分の
狼連を
撃退する手段でもあったと云うが皮肉にもそれがかえって人気を呼んだらしくもある
邪推をすれば
真面目な
玄人の門弟の中にも盲目の美女の
笞に不思議な快感を味わいつつ芸の修業よりもその方に
惹き付けられていた者が絶無ではなかったであろう幾人かはジャン・ジャック・ルーソーがいたであろう今や春琴の身に降りかかった第二の災難を
叙するに際し伝にも
明瞭な
記載を
避けてあるためにその原因や加害者を判然と
指摘し得ないのが残念であるが、恐らく上記のごとき事情で門弟の何者かに深刻な
恨みを買いその
復讐を受けたと見るのが最も当っているようである。ここに考えられることは
土佐堀の
雑穀商
美濃屋九兵衛の
忰に利太郎と云うぼんちがあったなかなかの
放蕩者でかねてより
遊芸自慢であったがいつの頃よりか春琴の門に入って琴三味線を習っていたこの者親の
身代を鼻にかけどこへ行っても
若旦那で通るのをよい事にして
威張る
癖があり同門の子弟を店の番頭手代並みに
心得見下す風があったので春琴も心中面白くなかったけれども、そこは例の附け届けを十分にたっぷり薬を
利かしてあるので断りもならず精々
如才なく
扱っていた。しかるにさすがのお師匠さんも
己には
一目置いているなどと云い
触らし
殊に佐助を
軽蔑して彼の代稽古を嫌いお師匠さんの教授でなければ治まらずだんだん増長する様子に春琴も
癇癖を
募らせていたところ父親九兵衛が老後の用意に
天下茶屋の
閑静な場所を選び
葛家葺の
隠居所を建て十数株の
梅の古木を庭園に取り込んであったがある年の
如月にここで梅見の
宴を
催し、春琴を招いたことがあった。総大将は若旦那の利太郎それに
幇間芸者等の
末社が加わり春琴には佐助が附き添って行ったこと云うまでもない佐助はその日利太郎始め末社からちょいちょい
杯をさされるので大いに
当惑した近頃師匠の晩酌の相手をして少しばかり手が上ったけれども余り行ける口でなかったしよそへ行っては師匠の許可がない限り一
滴といえども飲むことを禁ぜられていたし
酔っては
肝腎の手曳きの役が
忽諸になるから飲む真似をして
胡麻化しているのを利太郎が
眼敏く見つけ、お師匠はん、お師匠はんのお許しが出な佐助どん飲みやはれしまへん今日は梅見だっしゃないかいな一日位ゆっくりさしたげなはれ佐助どんがへたばったかて手曳きになりたがってる者がそこらに二人や三人いまんねと
胴間声で
絡んで来るので苦笑いしながらまあまあ少しはようござります余り酔わさんようにしてやって下されと程よくあしらうとさあお許しが出たとばかりにあちらからもこちらからもさすそれでもきっと引き締めて七分通りは
盃洗に飲ました。その日一座に連なった
幇間も芸者もかねて聞き及んだ高名の女師匠を眼のあたりに見
噂に違わぬ
姥桜の
艶姿と
気韻とに
驚かぬ者なく口々に
褒めそやしたというそれは利太郎の胸中を察し歓心を買わんがためのお世辞でもあったであろうが当時三十七歳の春琴は実際よりもたしかに十は若く見え色あくまで白くして
襟元などは見ている者がぞくぞくと寒気がするように覚えた
甲の色のつやつやとした小さな手をつつましく膝に置いて
俯向き加減にしている盲目の
のあでやかさは一座の
瞳をことごとく
惹き
寄せて
恍惚たらしめたのであった。
滑稽なことは
皆が庭園へ出て
逍遥した時佐助は春琴を梅花の間に導いてそろりそろり歩かせながら「ほれ、ここにも梅がござります」と一々老木の前に立ち止まり手を
把って
幹を
撫でさせたおよそ盲人は
触覚をもって物の存在を確かめなければ得心しないものであるから、花木の
眺めを賞するにもそんな風にする習慣がついていたのであるが、春琴の
繊手が
佶屈した老梅の幹をしきりに
撫で廻す様子を見るや「ああ梅の
樹が
羨しい」と一幇間が
奇声を発したすると今一人の幇間が春琴の前に立ち
塞がり「わたい梅の樹だっせ」と
道化た
恰好をして
疎影横斜の
態を
為したので一同がどっと笑い
崩れた。これらは一種の愛嬌であって春琴を
讃える意味にこそなれ
侮る心ではなかったけれども遊里の
悪洒落に
馴れない春琴は余りよい気持がしなかったいつも眼明きと同等に
待遇されることを欲し差別されるのを嫌ったのでこう云う冗談は何よりも
癇に触った。やがて夜に入り
座敷を変えて再び宴を開いた時佐助どんあんたも
疲れはったやろお師匠はんはわいが預かる、あっちに
支度したあるさかい一杯やって来とくなはれと云われるままに、
無闇に酒を強いられぬうち腹を
拵えて置くに
如かずと佐助は別室へ引き退って先に夕飯の
馳走を受けたが
御飯を
戴きますというのを
銚子を持った
老妓の一人がべったり着き切りでまあお一つまあお一つと重ねさせるお蔭で思いの
外時間を
潰したが食事を済ませてもしばらく呼びに来ないのでそこに控えていた間に
座敷の方でどういう事があったのか、佐助を呼んで下されと云うのを無理に
遮り
手水ならばわいが附いて行ったげると
廊下へ連れて出て手を
握ったか何かであろう、いえいえやはり佐助を呼んで下されと強情に手を
振り
払ってそのまま立ちすくんでいる所へ佐助が
駈け付け、顔色でそれと察した。しかし結局こんな事から出入りをしなくなってくれたらいい
塩梅だと思っていたのに色男を台無しにされては素直にあきらめきれなかったものかまた明くる日からずうずうしくも平気で稽古にやって来たのでそれならば本気で
叩き
込んでやる真剣の修業に
堪えるなら堪えてみよとにわかに態度を改めてピシピシと教えた。そうなると利太郎は
面喰って毎日三
斗の汗を流しふうふう云い出した元来が自分免許の芸でおだてられているうちはよいが意地悪く
突っ
込まれたらアラだらけであるそこへ
無遠慮な
怒罵が飛ぶから稽古に事寄せて
隙もあらばと云うようなだらけた心では
辛抱しきれず次第に横着になりいくら熱心に教えてもわざと気のない弾き方をするついに春琴は「
阿呆」と云いさま
撥をもって
打った弾みに
眉間の皮を破ったので利太郎は「あ痛」と悲鳴を挙げたが、額からぽたぽた
滴れる血を
押し
拭い「覚えてなはれ」と
捨台辞を残して
憤然と座を立ちそれきり姿を見せなかった
○
一説に春琴に危害を加えた者は北の新地辺に住む
某少女の父親ではなかったかというこの少女は芸者の
下地ッ子であったからみっちり仕込んでもらう積りで稽古の
辛さを
怺えつつ春琴の門に通っていたところある日撥で頭を打たれ泣いて家へ
逃げ帰ったその
傷痕が
生え
際に残ったので当人よりも
親父がカンカンに腹を立てて
捻じ
込んだ多分養父ではない実父だったのであろう何ぼ修行だからと云って年歯も行かぬ女の子を
苛むにも程がある、売り物の顔に
疵をつけられこのままでは済まされないどうしてくれると大分
過激な言辞を使ったので持ち前の聴かぬ気を出し妾の所は
躾が
厳しいので通っているそのくらいなら何で稽古に
寄越しなさったのかと
逆捻じ的の
挨拶をしたすると親父も負けてはいず打つのも
殴るのもよいが眼の見えぬお人のすることは危険だどこへどんな
怪我をさせるかも知れぬ盲人は盲人らしく
殊勝にせよと、出様によっては暴力にも
訴えかねまじき気味合なので佐助が割って
這入りようようその場を預かって帰した春琴は
真っ
青になって
慄え上り
沈黙してしまったが最後まで謝罪の言葉を
吐かなかったこの父親が娘の器量を損ぜられた仕返しに春琴の
容貌に
悪戯を加えたという。しかし
生え
際と云っても額の真中か耳のうしろかどこかにちょっぴり
痕が附いたぐらいを根に持って一生
相好が変るほどの
凄じい危害を与えたと云うのは我が子いとしさに取り
上気せた親心にしても余り
復讐が
執拗に過ぎる第一相手は盲人であるから美貌を
醜貌に変ぜしめても当人にはそれほど打撃にはならないもし春琴のみを目的とするなら他にもっと痛快な方法もあろう。察する所
復讐者の意図は春琴を苦しめるに
止まらず春琴以上に佐助を
悲嘆せしめようとしたのではないかそれはまた結果において最も春琴を苦しめることになるのであるかく考えれば
前掲の少女の父親よりも利太郎を疑う方が順当のように思われるがいかに。利太郎の
横恋慕にどの程度の熱意があったか知るべくもないが若年の頃は誰しも年下の女より
年増女の美に
憧れる恐らく極道の果てのああでもないこうでもないが
昂じたあげく盲目の美女に
蠱惑を感じたのであろう最初は一時の物好きで手を出したとしても
肘鉄砲を食わされた上に男の眉間まで割られれば随分
性悪な意趣晴らしをしないものでもない。だが何分にも敵の多い春琴であったからまだこの
外にもどんな人間がどんな理由で
恨みを
抱いていたかも知れず
一概に利太郎であるとは断定し難いまた必ずしも
痴情の
沙汰ではなかったかも知れない金銭上の問題にしても、前に挙げた貧しい盲人の弟子のような
残酷な目に
遭った者は一人や二人ではなかったというまた利太郎ほど厚かましくはないにしても佐助を嫉妬していた者は何人もあったという佐助が一種奇妙な位置にある「手曳き」であったことは長い間には
隠し切れず門弟中に知れ渡っていたから、春琴に思いを寄せる者は
私かに佐助の幸福を
羨みある場合には彼のまめまめしい奉公振りに反感を抱いていたのである。正式の夫であるならあるいはせめて情夫としての
待遇を受けているなら文句の出どころはなかったけれども表面はどこまでも手曳きであり奉公人であり按摩から
三介の役まで勤めて春琴の身の周りの事は一切取りしきり忠実一方の人間らしく
振舞っているのを見ては、
裏面の消息を解する者には片腹痛く思えたでもあろうああ云う手曳きならちっとやそっと辛いことがあっても
己だって勤める感心するには当らぬと
嘲る者も少くなかった。されば佐助に憎しみをかけ春琴の美貌が
一朝恐ろしい変化を来たしたらあいつがどんな
面をするかそれでも神妙にあの世話の焼ける奉公を
仕遂げるだろうかそれが
見物だと云う全くの敵本主義からでも決行しないとは限らない。要するに
臆説紛々としていずれが真相やら判定し難いがここに全然意外な方面に疑いをかけようとする有力な一説があって曰く、恐らく加害者は門弟ではあるまい春琴の商売敵である某検校か某女師匠であろうと。別に証拠はないけれどもあるいはこれが最も
穿った観察であるかも知れないけだし春琴が居常
傲岸にして芸道にかけては自ら第一人者をもって任じ世間もそれを認める傾向があったことは同業の師匠連の自尊心を
傷け時には
脅威ともなったであろう検校と云えば昔は京都より盲人の男子に下される一つの立派な「位」であって特別の衣服と乗物を許され
尋常芸人の
輩とは世間の
待遇も違っていたのに、そう云う人が春琴の技に及ばないと云う噂を立てられては盲人であるだけに根強い意趣を含んだでもあろうし何とかして彼女の技術と評判とを
葬り去る陰険な手段をも考えたであろうよく芸の上の嫉妬から水銀を飲ましたと云う例を聞くが春琴の場合は声楽と器楽と両方であったから彼女の見え坊と器量自慢とに附け込み再び公衆の面前へ出られぬように相を変えさせたと云うのである。もし加害者が某検校にあらずして某女師匠であったとすれば器量自慢までが
面憎かったに違いないから彼女の美貌を
破壊し去ることに一層の快味を覚えたであろう。かく色々と疑い得らるる原因を数えて来れば早晩春琴に必ず誰かが手を下さなければ済まない状態にあったことを察すべく彼女は
不知不識の
裡に
禍の種を八方へ
蒔いていたのである。
○
前記天下茶屋の梅見の宴の後約一箇月半を経た三月
晦日の夜八つ半時頃すなわち午前三時々分に「佐助は春琴の
苦吟する声に驚き眼覚めて次の間より
馳せ
付け、急ぎ燈火を点じて見れば、何者か雨戸を
抉じ開け春琴が
伏戸に
忍入りしに、早くも佐助が起き出でたるけはいを察し、
一物をも得ずして逃げ
失せぬと覚しく、すでに四辺に
人影もなかりき。この時
賊は
周章の余り、有り合わせたる
鉄瓶を春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪を
欺く
豊頬に熱湯の
余沫飛び散りて
口惜しくも一点
火傷の
痕を
留めぬ。
素より
白璧の
微瑕に過ぎずして昔ながらの花顔玉容は依然として変らざりしかども、それより以後春琴は我が面上の
些細なる傷を恥ずること甚しく、常に
縮緬の
頭巾をもって顔を
覆い、終日一室に
籠居してかつて人前に出でざりしかば、親しき親族門弟といえどもその相貌を
窺い知り難く、
為めに種々なる風聞
臆説を生むに至りぬ」と云うのが春琴伝の記載である。伝は続けて曰く「けだし負傷は
軽微にして
天稟の美貌をほとんど損ずることなかりき。その人に面接するを
厭いたるは彼女が
潔癖の致すところにして、取るにも足らぬ傷痕を
恥辱のごとく考えしは盲人の思い過しとや云わん」と。
更にまた曰く「しかるにいかなる
因縁にや、それより数十日を経て佐助もまた白内障を
煩い、たちまち両眼暗黒となりぬ。佐助は我が眼前
朦朧として物の形の
次第に見え分かずなり行きし時、
俄盲目の
怪しげなる足取りにて春琴の前に至り、
狂喜して
叫んで曰く、師よ、佐助は失明
致したり、もはや一生お師匠様のお顔の
瑕を見ずに済むなり、まことによき時に盲目となり
候ものかな、これ必ず天意にて
侍らんと。春琴これを聴きて
憮然たることやや久し矣」と。佐助が
衷情を思いやれば事の真相を
発くのに
忍びないけれどもこの前後の伝の
叙述は故意に曲筆しているものと見る
外はない彼が偶然白内障になったと云うのも
腑に落ちないしまた春琴がいかに潔癖でありいかに盲人の思い過しであろうとも天稟の美貌を損じなかった程度の火傷であるならば何をもって頭巾で面体を包んだり人に接するのを厭ったりしようぞ事実は花顔玉容に無残な変化を来したのである。
鴫沢てる女その他二三の人の話によると
賊はあらかじめ台所に
忍び
込んで火を起し湯を
沸かした後、その鉄瓶を
提げて伏戸に
闖入し鉄瓶の口を春琴の頭の上に
傾けて
真正面に熱湯を注ぎかけたのであると云う最初からそれが目的だったので普通の
物盗りでもなければ
狼狽の余りの
所為でもないその夜春琴は全く気を失い、翌朝に至って正気付いたが焼け
爛れた
皮膚が
乾き切るまでに
二箇月以上を要したなかなかの重傷だったのである。されば
物凄い相貌の変り方について種々
奇怪なる噂が立ち
毛髪が
剥落して左半分が
禿げ頭になっていたと云うような風聞も根のない
臆説とのみ
排し去る
訳には行かない佐助はそれ以来失明したから見ずに済んだでもあろうけれども、「親しき親族門弟といえどもその相貌を
窺い知り
難」かったと云うのはいかがであろうか絶対に
何人にも見せないようにすることは不可能であろうし現に鴫沢てる女のごときも見ていないはずはないのである。ただしてる女も佐助の志を重んじ決して春琴の容貌の秘密を人に語らない私も
一往は
尋ねてみたが佐助さんはお師匠様を始終美しい器量のお方じゃと思い込んでいやはりましたので私もそう思うようにしておりましたと云い
委しくは教えてくれなかった
○
佐助は春琴の死後十余年を経た後に彼が失明した時のいきさつを側近者に語ったことがありそれによって
詳細な当時の事情がようやく判明するに至った。すなわち春琴が
兇漢に
襲われた夜佐助はいつものように春琴の
閨の次の間に
眠っていたが物音を聞いて眼を覚ますと
有明行燈の灯が消えてい
真っ
暗な中に
呻きごえがする佐助は驚いて
跳び起きまず灯をともしてその
行燈を提げたまま
屏風の向うに
敷いてある春琴の
寝床の方へ行ったそしてぼんやりした行燈の
灯影が屏風の金地に反射する
覚束ない明りの中で部屋の様子を見廻したけれども何も取り散らした
形跡はなかったただ春琴の
枕元に鉄瓶が捨ててあり、春琴も
褥中にあって静かに
仰臥していたがなぜか
々と
呻っている佐助は最初春琴が
夢に
魘されているのだと思いお師匠さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って
揺り起そうとした時我知らずあと叫んで両眼を
蔽うた佐助々々わては
浅ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴もまた苦しい息の下から云い
身悶えしつつ夢中で両手を動かし顔を
隠そうとする様子にご安心なされませお
は見は致しませぬこの通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が
弛んだものかそのまま
人事不省になった。その後も始終誰にもわての顔を見せてはならぬきっとこの事は内密にしてと
夢うつつの
裡に
譫語を云い続け、何のそれほどご案じになることがござりましょう
火膨れの痕が直りましたらやがて元のお姿に戻られますと
慰めればこれほどの
大火傷に
面体の変らぬはずがあろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が
恢復するにつれて
一層云い
募り、医者の
外には佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌がり
膏薬や
繃帯を取り
替える時は
皆病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた
瞬間焼け
爛れた顔をひと眼見たことは見たけれども正視するに
堪えずしてとっさに面を
背けたので燈明の灯の
揺めく蔭に何か人間離れのした
怪しい
幻影を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の
孔と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを
怖れたごとく佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を
外らすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら
避けた。しかるに養生の効あって負傷も追い追い快方に
赴いた頃一日病室に佐助がただ一人侍坐していると佐助お前はこの顔を見たであろうのと
突如春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に
違いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が
癒えたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら
余人はともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が
挫けたかついぞないことに
涙を流し繃帯の上からしきりに両眼を
押し
拭えば佐助も
諳然として云うべき言葉なく共に
嗚咽するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致しますご安心なさりませと何事か期する所があるように云った。それより数日を過ぎ
既に春琴も床を離れ起きているようになりいつ繃帯を
取り
除けても
差支ない状態にまで
治癒した時分ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡台と
縫針とを
密かに持って来て寝床の上に
端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を
突き
刺した針を刺したら眼が見えぬようになると云う智識があった訳ではないなるべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針をもって左の黒眼を突いてみた黒眼を
狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は
堅くて針が
這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと
巧い
工合にずぶと二分ほど這入ったと思ったらたちまち眼球が一面に
白濁し視力が失せて行くのが分った出血も発熱もなかった痛みもほとんど感じなかったこれは
水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し
瞬時にして両眼を
潰したもっとも直後はまだぼんやりと物の形など見えていたのが十日ほどの間に完全に見えなくなったと云う。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら
奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう
一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に
額ずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と
沈思していた佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった昔
悪七兵衛景清は
頼朝の器量に感じて復讐の念を断じもはや再びこの人の姿を見まいと
誓い両眼を
抉り取ったと云うそれと動機は異なるけれどもその志の
悲壮なことは同じであるそれにしても春琴が彼に求めたものはかくのごときことであったか過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな
災難に
遭った以上お前も盲目になって欲しいと云う意であったかそこまでは
忖度し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに
慄えているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えて来てただ感謝の一念より
外何物もない春琴の胸の中を
自ずと会得することが出来た今まで肉体の
交渉はありながら師弟の差別に
隔てられていた心と心とが始めてひしと
抱き
合い一つに流れて行くのを感じた少年の頃
押入れの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が
蘇生って来たがそれとは全然心持が違ったおよそ大概な盲人は光の方向感だけは持っている故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知りああこれが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれでようようお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思ったもう
衰えた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかったが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうっと
仄白く
網膜に映じた彼にはそれが繃帯とは思えなかったつい二た月前までのお師匠様の円満微妙な色白の顔が
鈍い明りの
圏の中に
来迎仏のごとく
浮かんだ
○
佐助痛くはなかったかと春琴が云ったいいえ痛いことはござりませなんだお師匠様の大難に比べましたらこれしきのことが何でござりましょうあの晩
曲者が
忍び入り辛き目をおさせ申したのを知らずに
睡っておりましたのは返す返すも私の不調法毎夜お次の間に寝させて
戴くのはこう云う時の用心でござりますのにこのような大事を
惹き起しお師匠様を苦しめて自分が無事でおりましては何としても心が済まず
罰が当ってくれたらよいと存じましてなにとぞわたくしにも
災難をお授け下さりませこうしていては
申訳の道が立ちませぬと
御霊様に
祈願をかけ朝夕
拝んでおりました効があって有難や望みが
叶い
今朝起きましたらこの通り両眼が
潰れておりました定めし神様も私の志を
憐れみ願いを聞き届けて下すったのでござりましょうお師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に
沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお
側に使って下さりませ
俄盲目の悲しさには立ち居も
儘ならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる
仄白い円光の射して来る方へ
盲いた眼を向けるとよくも決心してくれました
嬉しゅう思うぞえ、私は誰の
恨みを受けてこのような目に
遭うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を
外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり
難うござりますそのお言葉を
伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには
換えられませぬお師匠様や私を悲嘆に
暮れさせ不仕合わせな目に
遭わせようとした
奴はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの
悪企みも水の
泡になり定めし
其奴は案に相違していることでござりましょうほんに
私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります
卑怯な奴の
裏を
掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟
相擁して泣いた
○
禍を転じて福と化した二人のその後の生活の
模様を最もよく知っている生存者は
鴫沢てる女あるのみである照女は本年七十一歳春琴の家に内弟子として住み込んだのは明治七年十二歳の時であった。てる女は佐助に糸竹の道を習う
傍二人の盲人の間を
斡旋して手曳きとも付かぬ一種の連絡係りを勤めたけだし一人は
俄盲目一人は幼少からの盲目とは云え
箸の上げ
下しにも自分の手を使わず贅沢に
馴れて来た婦人の事
故是非ともそう云う役目を勤める第三者の介在が必要でありなるべく気の置けない少女を
雇うことにしていたがてる女が採用されてからは
実体なところが気に入られ大いに二人の信任を得てそのまま長く奉公をし、春琴の死後は佐助に仕えて彼が検校の位を得た明治二十三年まで側に置いてもらったと云う。てる女が明治七年に始めて春琴の家へ来た時春琴は既に四十六歳
遭難の後九年の歳月を経もう相当の老婦人であった顔は
仔細があって人には見せないまた見てはならぬと聞かされていたが、
紋羽二重の
被布を着て厚い座布団の上に
据わり
浅黄鼠の
縮緬の
頭巾で鼻の一部が見える程度に首を包み頭巾の端が
眼瞼の上へまで
垂れ下るようにし
頬や口なども
隠れるようにしてあった。佐助は眼を突いた時が四十一歳初老に及んでの失明はどんなにか不自由だったであろうがそれでいながら
痒い処へ手が届くように春琴を
労わり少しでも不便な思いをさせまいと努める様は
端の見る目もいじらしかった春琴もまた余人の世話では気に入らず私の身の周りの事は眼明きでは勤まらない長年の習慣
故佐助が一番よく知っていると云い衣裳の着附けも入浴も
按摩も
上厠もいまだに彼を
煩わした。さればてる女の役目と云うのは春琴よりもむしろ佐助の身辺の用を足すことが主で直接春琴の体に
触れたことはめったになかった食事の世話だけは彼女が居ないとどうにもならなかったけれどもその
外はただ入用な品物を持ち運び間接に佐助の奉公を助けた例えば入浴の時などは湯殿の戸口までは二人に附いて行きそこで引き
返って手が鳴ってから
迎えに行くともう春琴は湯から上って浴衣を着頭巾を
被っているその間の用事は佐助が一人で勤めるのであった盲人の体を盲人が洗ってやるのはどんな風にするものかかつて春琴が指頭をもって
老梅の幹を
撫でたごとくにしたのであろうが手数の
掛かることは論外であったろう万事がそんな調子だからとてもややこしくて見ていられない、よくまああれでやって行けると思えたが当人たちはそう云う面倒を
享楽しているもののごとく云わず語らず細やかな愛情が交されていた。
按ずるに視覚を失った相愛の男女が
触覚の世界を楽しむ程度は到底われ
等の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が
献身的に春琴に
仕え春琴がまた
怡々としてその奉仕を求め
互に
倦むことを知らなかったのも
訝しむに足りない。しかも佐助は春琴の相手をする
余暇を
割いて多くの子女を教えていた当時春琴は一室に
垂れ
籠めてのみ暮らすようになり佐助に琴台と云う号を与えて門弟の稽古を全部引き継がせ、
音曲指南の看板にも鵙屋春琴の名の傍へ小さく
温井琴台の名を掲げていたが佐助の忠義と温順とはつとに
近隣の同情を集め春琴時代よりかえって門下が
賑わっていた
滑稽な事は佐助が弟子に教えている間春琴は独り奥の間にいて
鶯の啼く音などに聞き
惚れていたが、時々佐助の手を借りなければ用の足りない場合が起ると稽古の最中でも佐助々々と呼ぶすると佐助は何を
措いても
直ぐ奥の
間へ立って行ったそんな
訳だから常に春琴の座右を案じて出教授には行かず宅で弟子を取るばかりであった。ここに一言すべきことはその頃道修町の春琴の本家鵙屋の店は次第に家運が
傾きかけ、月々の仕送りも途絶えがちになっていたのであるもしそう云う事情がなければ何を好んで佐助は音曲を教えようぞ
忙しい合間を見つつ春琴の
許へ飛んで行った片羽鳥は稽古をつけながらも気が気でなかったであろうし春琴もまた同じ思いになやんだであろう
○
師匠の仕事を
譲り受けて
痩腕ながら一家の生計を支えて行った佐助はなぜ正式に彼女と結婚しなかったのか春琴の自尊心が今もそれを
拒んだのであろうかてる女が佐助自身の口から聞いた話に春琴の方は大分気が折れて来たのであったが佐助はそう云う春琴を見るのが悲しかった、
哀れな女気の毒な女としての春琴を考えることが出来なかったと云う
畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ
永劫不変の観念境へ
飛躍したのである彼の視野には過去の
記憶の世界だけがあるもし春琴が
災禍のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼はどこまでも過去の
驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの
美貌の春琴が
破壊されるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を
喚び起す
媒介としたのであるから対等の関係になることを
避けて主従の礼儀を守ったのみならず前よりも一層
己れを
卑下し奉公の誠を
尽して少しでも早く春琴が不幸を忘れ去り昔の自信を取り
戻すように努め、今も昔のごとく
薄給に
甘んじ下男同様の
粗衣粗食を受け収入の全額を挙げて春琴の用に供したその他経済を切り詰めるため奉公人の数を減らし色々の点で節約したけれども彼女の
慰安には何一つ
遺漏のないようにした
故に盲目になってからの彼の労苦は以前に倍加した。てる女の言によれば当時門弟達は佐助の身なりが余りみすぼらしいのを気の毒がり今少し
辺幅を整えるように
諷する者があったけれども耳にもかけなかったそして今もなお門弟達が彼を「お師匠さん」と呼ぶことを禁じ「佐助さん」と呼べと云いこれには
皆が閉口してなるべく呼ばずに済まそうと心がけたがてる女だけは役目の
都合上そう云う訳に行かず常に春琴を「お師匠様」と呼び佐助を「佐助さん」と呼び習わした。春琴の死後佐助がてる女を
唯一の話相手とし折に触れては
亡き師匠の思い出に
耽ったのもそんな関係があるからである後年彼は検校となり今は
誰にも
憚からずお師匠様と呼ばれ琴台先生と云われる身になったがてる女からは佐助さんと呼ばれるのを喜び敬称を用いるのを許さなかったかつててる女に語って云うのに、誰しも眼が
潰れることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがないむしろ反対にこの世が極楽
浄土にでもなったように思われお師匠様とただ二人生きながら
蓮の
台の上に住んでいるような心地がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが
沁々と見えてきたのは目しいになってからであるその
外手足の柔かさ
肌のつやつやしさお声の
綺麗さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて
味到したいつもお師匠様は
斯道の天才であられると口では云っていたもののようやくその真価が分り自分の
技倆の
未熟さに比べて余りにも
懸隔があり過ぎるのに驚き今までそれを
悟らなかったのは何と云うもったいないことかと自分の
愚かさが省みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を
味えたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でずどこまで客観と一致するかは疑問だけれども余事はとにかく春琴の技芸は彼女の
遭難を一転機として
顕著な進境を示したのではあるまいか。いかに春琴が
音曲の才能に恵まれていても人生の苦味酸味を
嘗めて来なければ芸道の
真諦に
悟入することはむずかしい彼女は従来甘やかされて来た他人に求むるところは
酷で自分は苦労も
屈辱も知らなかった誰も彼女の
高慢の鼻を折る者がなかったしかるに天は
痛烈な試練を
降して生死の
巌頭に
彷徨せしめ
増上慢を打ち
砕いた。思うに彼女の容貌を
襲った
災禍はいろいろの意味で良薬となり恋愛においても芸術においてもかつて夢想だもしなかった
三昧境のあることを教えたであろうてる女はしばしば春琴が
無聊の時を消すために独りで絃を
弄んでいるのを聞いたまたその傍に佐助が
恍惚として
項を垂れ一心に耳を傾けている光景を見たそして多くの弟子共は奥の間から
洩れる
精妙な
撥の音を
訝しみあの三味線には
仕掛けがしてあるのではないかなどと
呟いたと云う。この時代に春琴は弾絃の
技巧のみならず作曲の方面にも思いを
凝らし夜中
密かにあれかこれかと
爪弾きで音を
綴っていたてる女が覚えているのに「
春鶯囀」と「六の花」の二曲があり先日聞かしてもらったが独創性に富み作曲家としての天分を
窺知するに足りる
○
春琴は明治十九年六月上旬より病気になったが病む数日前佐助と二人
中前栽に降り
愛玩の
雲雀の
籠を開けて空へ放った照女が見ていると盲人の師弟手を取り合って空を
仰ぎ
遥かに遠く雲雀の声が落ちて来るのを聞いていた雲雀はしきりに啼きながら高く高く雲間へ
這入りいつまでたっても降りて来ない余り長いので二人共気を
揉み一時間以上も待ってみたがついに籠に戻らなかった。春琴はこの時から
怏々として楽しまず間もなく
脚気に
罹り秋になってから重態に
陥り十月十四日
心臓麻痺で
長逝した。雲雀の
外に第三世の天鼓を飼っていたのが春琴の死後も生きていたが佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞くごとに泣き
暇があれば仏前に
香を
薫じてある時は琴をある時は三絃を取り春鶯囀を弾いた。それ
緡蛮たる黄鳥は
丘隅に止るとと云う文句で始まっているこの曲はけだし春琴の代表作で彼女が
心魂を
傾け
尽したものであろう詞は短いが非常に複雑な
手事が附いている春琴は天鼓の啼く音を聞きながらこの曲の構想を得たのである手事の
旋律は鶯の
凍れる涙今やとくらんと云う
深山の雪の
※[#「さんずい+鬲」、U+6EC6、383-4]けそめる春の始めから、
水嵩の増した
渓流のせせらぎ
松籟の
響き
東風の訪れ野山の
霞梅の
薫り花の雲さまざまな景色へ人を誘い、谷から谷へ枝から枝へ飛び移って啼く鳥の心を
隠約の
裡に語っている生前彼女がこれを奏でると天鼓も
嬉々として
咽喉を鳴らし声を
絞り絃の音色と技を競った。天鼓はこの曲を聞いて生れ故郷の渓谷を想い広々とした天地の陽光を
慕ったのであろうが佐助は春鶯囀を弾きつつどこへ魂を
馳せたであろう触覚の世界を
媒介として観念の春琴を
視詰めることに慣らされた彼は聴覚によってその
欠陥を
充たしたのであろうか。人は記憶を失わぬ限り故人を夢に見ることが出来るが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ
死別れたともはっきりした時は
指せないかも知れない。ちなみに云う春琴と佐助との間には前記の外に二男一女があり女児は
分娩後に死し男児は二人共赤子の時に
河内の農家へ
貰われたが春琴の死後も
遺れ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人の実父の
許へ帰るのを
嫌った。かくて佐助は晩年に及び
嗣子も
妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の
祥月命日に八十三歳と云う
高齢で死んだ察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよ
鮮かにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を
天竜寺の
峩山和尚が聞いて、
転瞬の間に
内外を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の
所為に
庶幾しと云ったと云うが読者
諸賢は
首肯せらるるや否や
(昭和八年六月)