………
己は名前を
庄太郎と云って、今年十六歳になる商店の小僧だ。己の勤めて居る商店は、銀座三丁目の大通りにある、池田屋と云う洋酒店だが、京橋近辺に住んで居る人は大概知って居るだろう。日本橋の方から来て、京橋を渡って、五六丁行った左側に、あんまり立派でもないけれど、小綺麗なショウ、ウインドウの附いて居る、二階建て西洋造りの店があるだろう。その二階の窓から、夕方になると、十七八の、髪をハイカラに結った美しいお嬢さんが、時々うっとりと往来を眺めて居ることがあるだろう。池田屋と云って分らなければ、
此のお嬢さんの住んで居る店だと云ったら、多分知らない者はあるまい。己の信ずる所によると、内のお嬢さんは、銀座
街頭第一の
美姫なのだから。
しかし、
若しも読者が、今後銀座の大通りを散歩する折があったら、二階の窓のお嬢さんを拝む
序に、店先の帳場の
椅子に腰かけて居る、色の黒い、眼の窪んだ、極めて陰鬱な表情を持った一人の小僧に一
瞥を与えてくれ給え。そうして、
能う
可くんば
其の小僧の貧相な顔つきと、哀れな服装と、
見すぼらしい境遇とに、一
片の同情を寄せてくれ給え。
尤も、
己ばかりが小僧をして居る訳でもないから、従って己ばかりが諸君の同情を要求する権利は無いかも知れない。
先ず此の銀座通りだけでも、
門並の商店に奉公して居る
丁稚の
数は、幾百人幾千人あるか分らない。己と同じくらいの年配で、自分の実家が貧しい為めに、中学へも行けず、親の
傍にも置かれず、奉公に出された人間は定めし多勢あるだろう。
内の店などは、主人夫婦も割合に親切だし、店員にも意地の悪い者は少いし、おまけに例のお嬢さんのお顔を、朝晩拝む事が出来るのだから、
孰方かと云うと、まあ己なんかは小僧の中で運のいゝ方なんだ。考えて見ると、己が自分の境遇を
呪ったりするのは、
我が
儘過ぎる話なのだ………けれども
或る一人の人間の境遇が、幸福になり不幸になるのは、主として
其の人の客観的の
位地に
依って決するのではなく、
寧ろ彼自身の主観の状態に依って決するのだ。小僧の
癖に生意気な事を云うようだが、世間には奉公人と云う、
窮屈な不公平な、
何等の価値も意義もない地位や生活に満足して、
せっせと働いて居る丁稚や番頭が
沢山ある。
或は又、奉公人のする仕事を無意味であり無価値であると知りながら、到底自分は其れ以上の身分に登れる資格がないと
あきらめて、現在の地位に満足して居る人間もある。
彼等に取っては必ずしも其の境遇は不幸でなく、彼等は決して同情を要求する権利はないのだ。ところが己は、そう云う種類の人間と全く頭が違って居る。己は自分の能力や
材幹を、丁稚奉公に適当であると思った事は一遍もない。己は今でも、中学校の一年生や二年生には負けない積りだが、若しも順当に高等教育を受ける事が出来たら、どんなにえらい人物になれるか分らない男なんだ。それだけに、己がこんな小僧の境遇に
堕ちて居るのは、
外の人間よりも一層
勿体ない、一層残念な気がするのだ。
己が
斯う云うと、
世間の
奴等は恐らく冷笑するだろう。―――「其れはお前の
己惚と云うものだ。誰だって小僧になるより学問をする方が、早く出世するにきまって居る。お前がほんとうに偉大な人間なら、奉公して居たってえらくなれる。学校に行かなければ学問が出来ないような、教育を受けなければ立身が出来ないような、そんな人間なら別段
非凡な能力や材幹があるのじゃない。」と云うだろう。
成る
程其れも一と理屈ある。非凡な人物はいかなる境遇に育っても、遂に
穎脱すると云う事は、多くの場合に於いて真理である。だが少くとも其の真理は、己の場合にだけは当て
嵌らない。若しも己の材幹が、政治とか、実業とか、学問とか、宗教とか、云うような方面に発達する素質を持って居たなら、そうして其の素質が
真に非凡なものであったら、己は決して現在の境遇にへたばりはしないだろう。己は必ずや、
敢然として外界の壓迫に抵抗しつゝ、ぐんぐんと目的地へ猛進して行くだろう。
然るに己の素質は、不幸にして政治家にも、学者にも、実業家にも、宗教家にも不適当なのである。己はたゞ、自分を未来の藝術家―――或は詩人として観察する時、
其処に始めて非凡なる素質の
閃きを感ずるのである。
己は勿論、詩だの歌だのと云うものをまだ一遍も作った事はない。
況や藝術とはどんな物だか、ハッキリとした考えなんぞある
筈がない。けれども
何だか己のような傾向を持った人間が、満足な境遇に育てられ、適当な刺戟を与えられたら、きっと偉大なる詩人とか藝術家とかになれるのだろうと、云うような気がしてならない。
尤も、己の心に
斯う云う自覚が生じたのは、
つい近頃の事なのだ。
此の間まで、己は自分の詩人的傾向を、
寧ろ
忌まわしい缺点だと信じて、
私かに
警めたり嘆いたりして居た。どうして己の頭の中には、いつもいつも
茫漠とした、取り止めのない空想ばかりが湧き上って来るのだろう。どうして己は世間一般の青年のように実着な仕事を真面目に働こうとしないで、夢のような美しさに憧れてのみ居るのだろう。己の耳には年中不思議な音楽が聞えて居る。乱雑な騒々しい往来の
噪音の奥から、身も心も浮き立つようなメロディとリズムとが響いて来る。己の眼には始終微妙な幻影が映って居る。朝な夕な店頭に据わって眺め暮らして居る銀座通りの光景が、
動ともすると
燦爛たる宝石の
羅列するように見えたり、
房々とした女の黒髪の
のたくるように見えたりする。
或る時などは、其れ等の音楽やら幻影やらが、多種多様な形式を取って、極めてハッキリと、現実の世界よりも
遥かに確実に、己の
魂を占領し、己の全生活を吸収してしまう。
之を要するに、己は絶えず酔っ拂って居る。酒は飲まないが、何か知ら
外の物に酔っ拂って居る。そうして、現在の仕事や義務や身分などを
悉く忘却して、想像の国に
漂泊しながら、恍惚たる心境を持続して居る。
「おい、おい、
庄どん! お
前は
何処を見てるんだな。ちっとシッカリしないかい!」
こんな
工合に、己は
時々番頭から
叱り飛ばされる事がある。叱られると己はいつでもハッと思って、気を取り直す。「一体自分は、なぜ
此のように
了見がふわふわして居るのだろう。
愚にもつかない事ばかり考えて居るのだろう。もっと心を入れ
換えて、沈着な、質実な人間になれ。それでないと、自分は到底立身出世をする事が出来ないぞ!」―――己は
屡々斯う云って、自分の心を
鞭撻ったが、一向効果がないらしかった。己の精神は、アルコオルや
揮発油よりも
もっと蒸発力の強い
気体のようなもので、いくら
壜詰めにされても、キルクや
封蝋で密閉されても、
纔な隙間からどんどん上昇して行くのだった。己は
漸く、自分の缺点が、非常に重大な、根底の深いものである事を発見した。
心が、
醜い現実よりも美しい幻影の方へ、
魂が、
生真面目な「冷静」よりも歓喜に充ちた「昂奮」の方へ、常に引き寄せられると云う、己の
性癖は、いくら
矯めようとしても矯め切れない、先天的の素質であるとしか思えなかった。
「自分は
何と云う不運な性分に生れついたのだろう。」―――こう考えて、己は
幾度か自分の
前途を悲観した。なぜと云うのに、己が池田屋へ奉公に来たのは、商売の道を覚える為めであって、
其の当時の己の希望は、云う
迄もなく将来偉大なる実業家として立つ事であった。にも
拘らず、自分は実業家として成功するのに、最も不適当な、
寧ろ最も有害な素質を備えた人間だからである。
「己の
此の傾向が、果して先天的の性癖に起因して居るなら、無理やりに其れを矯正しようとするのは、
恰も自然の不可抗力に
刃向うようなものではなかろうか。己が奇怪な幻を見たり、不思議な妄想に悩まされたりするのは、ちょうど桜の枝に
麗しい花が咲いたり
孔雀の体に
絢爛な
羽根が生えたりするのと同じく、自然の意志の純真なる発現ではあるまいか。」
そのうちに、己はふと、こんな理屈を考えるようになった。いや、己が考えたのではなくて、こんな思想が、
何処からともなく、自分の耳へひそひそと
囁かれるような気持ちがし始めたのだ。「お前は実業家なぞになる人間ではないのだぞ。お前の天職は外にあるのだぞ。お前が自分の缺点だと信じて居る性癖は、
其の
実、幾百萬の人間のうちで、
纔かに一人か二人しか持つ事の出来ない、
貴い珍しい能力なのだぞ。」―――と云う声が、折々
微に己の心に聞えて来た。己は
何だか、自分の周囲を包んで居た
暗澹たる雲の隙間から、遥かに
天日の光を仰いだような
心地がした。
そこで己は、更に考えを進めて行った。自分の天職が実業家でないとしたら、
如何なる方面に其れを求めたらよかろうと、再三再四熟慮して見た。
断って置くが、己が最初に実業家たらんと
志たのは、もと/\自ら
撰り好んだ訳ではないのである。自分が将来、従事し得る多くの職業の
内から、特に実業家を選択したのではなかったのである。己には始めから、選択と云う事が許されて居なかった。己は小学校の
尋常科を卒業すると、間もなく父親の命令に依って奉公にやられた。奉公にやられると云う事は、つまり実業の
見習いをする事だから、其の時
既に己の前途は、実業の一方面に限られてしまったのだ。
否でも
応でも、己は実業家になるより外に、道が開かれて居なかったのだ。金持ちの子供に生れて、中学から高等学校へ入学して、自分の好きな学科や職業を択び得る人々とは、大分育ちが違って居るのだ。
それに又、己は幼い時分から、極度に
貧窮な家庭の暮らしを見て居たので、生活難の問題が非常に鋭く頭を刺戟した。三度の
おまんまが無事にたべられて、その日その日を安全に過して行ける境遇を獲得するには、
可なりの才能と力量とを要するように考えて居た。食うと云うこと、即ち金を得ると云う事が、生きて行くのに第一の必須条件であると思った。従って、実業家になれば物質上の富が作られる訳だから、己は商店に奉公する事を、必ずしも自分の為めに不利益だとは感じて居なかった。
けれども、飽く迄も着実性を缺いて居た己の心は、「偉大なる実業家」と云う目的に向って、一歩一歩適確に、辛抱強く進んで行くのに耐えなかった。己は巨萬の富を獲得するに必要な手段を研究し、
或は実行しようとしないで、ひたすら
其の富を獲得した後の、歓楽に
充ち幸福に充ちた光景ばかりを想像した。内のお嬢さんのような素晴らしい美人を細君に持ち、まるで上野の博物館のような廣大な宮殿に住居して、朝な夕な
詩歌管絃の
宴楽を張り、
酒池肉林の栄華を極める身の上―――ちょうど大昔の支那やロオマの王様のような境遇を、ぼんやりと脳裡に描いて楽んで居た。だから己の希望して居た実業家と云うのは、全くお
伽噺の
中に出て来る仕合せなプリンスに過ぎなかった。恐らくこんな馬鹿々々しい夢を抱いて、実業に
志た者は己より外に一人もないだろう。
おかしな事には、己はあの
時分、
其れ
等の
荒唐無稽な妄想を、決して妄想だとは思って居なかった。どんなに矛盾した、どんなに不可能な事柄でも、あまり熱心に考え詰めると、
遂には其れが実現し得るような、気持ちになる事は随分ある。あの頃の己の心理状態が、やっぱり其の通りであった。「求めよ、さらば与えられん。」と云う言葉の真理を、己は宗教の方面にでなく、物質慾の方面に於いて信じようとした。
斯く
迄熾烈なる、斯く迄痛切なる物質慾が己の胸中に燃えて居ながら、其れが満足されずに終るという筈はない。真面目なる慾望の発する所には、必ず対象が生れなければならない。己はどうしても、そう考えずに居られなかった。
一
体、己のように
実世間からかけ離れた空想に生きて居る者が、物質に対する旺盛な慾望を感ずるのは、いかにも道理に合わないようである。空想家たる以上は、物質の世界よりも心霊の世界に、より多くの交渉を持つべきであるが、どう云うものか己は生れつき、官能的刺戟に対して鋭敏な感受性を授かって居る。食物の味わいのうまいまずいや、着物の
色合のよしあしや、
甚だしきは女の髪の
結振の恰好不恰好に至るまで、子供の
癖に非常に精密な
賞翫力を持って居る。
而も其れが、趣味とか流行とかの問題に関して、
何等の教養をも受けた筈のない、貧乏人の子供なのだから一層特筆すべきである。それ
故己は、普通一般の子供に比べると、非常に生意気で、或る意味に於いては可なり
世間智が発達して居た。
つまり己の性格の
中には、互に
相背馳した二つの要素が備わって居たのだ。一面に於いて空想家であった己は、他の一面に於いて常識家であった事は争われない。趣味の問題を全く別にして考えても、己の常識家であった
證拠はいくらもある。第一、己は小学校に居た時分に、算術が得意であった。先生ですら頭を悩ました複雑な四則応用問題を、己は一分か二分の間にすら/\と解決する程の能力を持って居た。己は実際、空想に
耽る傾向さえなかったら、それこそほんとうに立派な政治家にでも実業家にでもなれたのだ。反対に又、官能的快楽に対する慾望さえなかったら、宗教家にでも哲学者にでもなれたか知れない。
こゝまで
考を押し詰めて来た時、己は始めて、世の中に「藝術家」―――
若しくは詩人と云う職業(?)のある事に
心付いた。己のようなテンペラメントを持った人間が、撰ぶべき職業は、「藝術」の方面ではあるまいかと云う事に、いつか知ら行きあたった。
前にも述べたように、己は
未だ
嘗て、藝術とは如何なる物か、研究をしては居ないのである。己は今、「藝術家と云う職業」と書いたが、果して其れが職業と称し得るや否やも明瞭でない。「藝術とは一体どんな物でしょう?」誰かにこんな質問を試みて、説明を聴きたいとは思うけれど、
生憎己の住んで居る社会には、信頼すべき解答を与えてくれそうな人間がない。店のお得意のお客様や、主人夫婦と交際を結んで居る紳士淑女連は、大概商人か藝者か奥様で、いくらか学問があるらしいのは、弁護士と代議士ぐらいなものである。外にもう一人、築地の教会から時々ジャムの罐詰を買いに来る英国人の宣教師が居るから、あの人ならば分るかと思って、
此の間いきなり、
“What is Art”
と
尋ねてやったら、宣教師はにやにやと笑って、
何だか早口にぺらぺらしゃべったが、己には一向聴き取れなかった。己はさすがに極まりが悪くなって、顔を真赤にした。
内のお嬢さんは
麹町の高等女学校へ通って居らしって、英語は勿論
佛蘭西語もお出来になるし、外国の文学だの音楽だのを
嗜んで居らっしゃるようだから、己の質問に解答を与え得る唯一のお方だと云ってもよい。ところが
先達、
独りで帝劇の芝居を見物にいらしった時、帰りに己がお迎いに行ったので、一緒に丸の内の
隍端を歩きながら、
「お嬢様、
私には藝術と云う言葉の意味がよく分りませんが、どう云う事なんでしょう。」
と、
恐る恐る聞いて見た。
其の時お嬢さんは「ふゝん」と、軽く鼻先でお笑いになったきりであった。「わたしにはちゃんと分って居るが、お前のような
丁稚風情に説明しても無駄だから。」と云わんばかりの態度を示された。
外の人間に此れ程軽蔑されたらば、己はきっと腹を立てるのだが、お嬢さんの斯う云う傲慢な
素振りを見ると、
却ってます/\頭が下るような気がした。
「ねえお嬢様、藝術と云うものは、どう云う人間がどう云う目的を
以て、作るのでしょう。」
己は押し返して二の
矢を
放った。するとお嬢様は再び鼻先でせゝら笑って、
「庄太郎、お前は藝術家になる積りなの。」
と、冷やかすように
仰しゃった。己は藝術家の
何たるかを知らないのだから
“Yes”とも
“No”とも答える訳に行かなかった。それ程己は、お嬢様の
冷やかし文句を、真面目に受け取って居たのである。
「お前のような人間が藝術家になるのさ。
どら焼を焼くよりか餘っぽどいゝわ。」
と云って、お嬢様はおかしくて
溜らないような
眼つきをなすった。己は又顔を真赤にした。
どら焼なる物は、銀座の大通りに売って居る屋台の
駄菓子の事だが、己の
醜い
容貌が
其の
どら焼に似て居ると云うので、お嬢様がお附けになった
仇名なのである。一体お嬢様は、非常に器量自慢の方で、どちらかと云えば意地の悪い、そうしてお
転婆な女学生であった。内の店員は、己ばかりでなく、
悉くお嬢様から
仇名を頂戴して居る上に、
度び
度び
愚弄されたり
嘲られたりして居るので、誰も彼も蔭ではあんまりお嬢様をよく云わなかった。口にこそ出さないけれど、心から熱烈にお嬢様を崇拝し尊敬して居るのは、
己一人であった。少し話が横道へ外れたようだが、己が
如何にファナティックな性質であるかを
證するために、ちょいと
此の一事を書き加えて置くのである。
宣教師とお嬢様とに失敗して以来、己は藝術の何たるやを、他人に質疑する事を止めた。それで
専ら、自分の智識と、直覚と、理性とに依って、
此の問題を解決せざるを得なかった。
智識と云っても、己は尋常小学を卒業したゞけであるから、
大した学問がある訳ではない。
尤も池田屋へ奉公に来てから、一年ばかり英語の夜学校へ通って、非常に勉強したお
蔭で、語学の方は中学の四五年生に負けないくらいな自信を持って居る。己は或る
晩、銀座の夜店の古本屋を
漁って、シェエクスピアのオセロとハムレットの
原書と文学藝術に関係のある日本文の古雑誌―――
早稲田文学だの
文章世界だのと云うものを五六冊買って来た。
己は其れ等の書物を見たら、藝術に就いての
稍明瞭な概念が得られるだろうと云う希望を以て、
片っ
端から一生懸命に
耽読した。最初に取り付いたのはハムレットであった。マクミラン会社出版の、
精しい註釈を添えた書物であったから、理解するのに其れ程困難ではなかったが、しかし、正直に白状すると、己は
彼の一
篇を読み終った時、少からず失望した。失望したばかりならよいが、己はひどく
落胆した。
「おい、おい、庄どんがシェエクスピアを読んで居るぜ。どうも学者は違ったもんだね。」
などゝ云う
冷罵を、店員どもに浴びせられながら、一種の反抗心を以て
繙いたようなものゝ、己には実際、
此の有名なる
戯曲の
妙味が、
何処にあるのやら分らなかった。たゞ
徒らに
冗漫で
饒舌で、
愚にもつかない事を
仰山にたどたどしく書いて居るとしか思われなかった。オセロに就いても、全く同様の感じがした。己は其の結果として、
沙翁の価値を疑うよりも、藝術家としての自分の素質を疑った。沙翁と云えば、
古今第一の大詩人として、世界に許された人物である。
其の人の作った戯曲の面白さが分らないとすれば、
罪は自分の方にある。残念ながら、自分は藝術の
殿堂を
窺う資格がないのである。
己は沙翁にあきらめをつけて、今度は日本の文学雑誌をひっくり返した。すると
奇怪にも、
其処に現れた藝術品や藝術論から受ける印象は沙翁の其れにくらべると、
飛んでもない相違のある事を発見した。中には堂々と、沙翁の作品を批難して居る評論家さえあるらしかった。
而も彼等の創作なり主張なりが、沙翁に依って得られなかった満足と自信とを、己に与えてくれたかと云うに、決してそうは行かなかった。彼等はたま/\、沙翁に価値を認められないと云う点に於いて、己と一致したゞけなのである。彼等の説き
且教えるものが、真の藝術であるとしたら、己はやっぱり失望落胆せざるを得ない。
彼等は、その雑誌の中で、
頻りに自然主義と云う事を
唱えて居る。藝術とは自然の再現であって、創作家が材料を集める所の世界は、科学者が研究の対象とする世界と、同一でなければならない。創作家が、自分の主観で、勝手に空想し
捏造した
虚構の事件は、それを表現しても
真の芸術とは
称し難い。自分がほんとうに観察し、実験し、生活して来た自然界の出来事、若しくは現象を、
何等の
私心なく正直に厳粛に描写するのが、藝術の任務である。―――自然主義とは、
大凡そんな主義であるらしい。だから彼等に従うと、実際此の世の中にない事を書くのは、藝術でも何でもないのである。そう云われて見ると、己は
成る
程尤もだと云うような気にもなった。そうして己が考えて居た「藝術」と云うものは、いよ/\間違って居るのだった。
だが、己がいかに無教育な少年であっても、一
概に彼等の所説に
盲従し、信頼する気にはなれなかった。己は元来、学問こそないが、頭の働きは可なり明敏な方であるから、他人の議論の是非善悪を、直覚的に判断するくらいの能力は持って居る。自然派の文学者が
金科玉条とする所の、主観排斥の議論や、平面描写主義や、無技巧主義などに、絶対的の権威を認める価値のない事は、己にも直ぐに分ってしまった。
己はその時こんな風に考えた。―――己のような素質を持った人間の頭に
宿って居る、美しい幻影や空想の世界の中に、藝術が存在するのではなくして、何等の主観をも想像をも交えずに、たゞ自然界の現象の
上面ばかりを模倣した、
所謂自然派の小説がほんとうの藝術であるとしたら、藝術と云うものは撰ばれたる少数の天才の事業ではなくて、
寧ろ
卑しい、誰にでも出来る凡人の職業であると。
或いは藝術が凡人の職業であっても一向差支えないかも知れないが、
己はどうしても藝術の位置を、そんなに
安っぽく見たくなかった。藝術と云えば、
何だか人間の仕事の内では、一番神様の仕事に近い、高尚な、幽玄な、云わば現象の底を流れて居る宇宙永遠の実在とでも云うようなものを、暗示するに足る
貴い事業だと思いたかった。己の信ずるように解釈してこそ、藝術は天才の主観の奥から生れて来るのだと云う事が出来る。斯くて始めて、
真の天才は想像の
翼を
搏って人間の住む地上から高く高く、白雲の
裡に舞い上り、オリンプスの神々と共に、永遠の美を語り合う資格があるのだと云う事が出来る。
己は、自分の頭の
中に、斯う云う信仰がいつの間にか形作られて居たことを発見した。己の云い草が、小僧としては
如何にも
えら過ぎるから、多分
生かじりの哲学の受け売りをして居るのだろうと、疑がう人があるかも知れないが、そんな訳では決してない。己が哲学の本を読むようになったのは、ズット
後の事で、
此の信仰は全く自分の直覚に依って得たものなのだ。
そこでもう少し、己は自分の直覚した事を説明して見る。―――一体、自然派の文学者は、経験だの真理だのをいやに重大視して居ながら、「
美」と云う事に就いては一言も
費して居ない。要するに、彼等と己との意見の相違は、藝術の目的が、「
真」にあるか「
美」にあるかと云う点だろうと思う。己は彼等に議論を吹きかけて、へこましてやるだけの素養のないのが残念だけれど、少くとも彼等の
所謂「
真」なるものが、科学的の真理にもせよ倫理上の真理にもせよ、極めてアヤフヤな、不安定な性質のものである事はたしかである。人間の智慧で拵えた、若しくは発見した真理なんかに、永遠の生命があろう筈はない。「真理」なんて云うものは、「約束」に
毛の
生えたもので、或る一時代の人間社会や自然現象を、支配し、若しくは支配するように見える、間に合わせの規則に過ぎない。
之に
反して「
美」には永遠の生命がある。いや、ありそうに信ぜられる。「
何故?」と聞かれるとちょいと困るが、
兎に
角己は、そう信じないでは生きて居られない。
人はめいめい固有のテンペラメントを持って居るから、そう一概にも云えないだろうが、兎に角、「
善」とか「
真」とか云うものには、人間の魂を酔わせるだけの力がない。人間の魂を酔わす事の出来るのは、
唯「
美」あるのみである。たとえば、あの妖艶な
内のお嬢さんの容貌を眺める時、
己はいつでも、普通の人間の目鼻や肉体を見て居るような気持ちはしない。
恰も晴れ渡った深夜の大空に、きらめく星を打ち仰ぐと、人は誰でも「永遠」を想い無限を予感する如く、己はお嬢さんの
崇厳な
輪廓や、端正な
額や、清浄な
瞳の奥を視詰めると、己の全人格が何となく
其処へ吸い込まれて行くような、恐怖と恍惚とに襲われる。お嬢さんと云う女は、一つの卑しい人間であっても、お嬢さんに備わって居る気高い顔だちには、「人間」以上の或る物が暗示されて居る事を感じる。勿論、お嬢さんの持って居る肉体の美は、
此れから二三十年も過ぎて、
彼の
女が
老い
惚れて来ると同時に、
何処ともなく消え
失てしまうには違いない。しかし、それだからと云って、お嬢さんの肉体に現れて居る「
美」は、一時的のものだと断ずる訳には行かない。成る程、お嬢さんが示して居る容貌の美は、形態の美は、永遠の生命を持たないかも知れないが、その容貌なり形態なりの裏に隠れて居る美の精神、美の理想はたしかに永遠である。己の信仰に従えば、天はたま/\妙齢のお嬢さんの肉体を借りて、
其処に永久不滅の美のシンボルを見せたのである。お嬢さんの肉体に永遠の美を認めることが出来ない者は、月の光が太陽の反射である事を知らないようなものである。月が缺けても太陽の光は立派に存在して居る如く、お嬢さんの容貌が衰える時はあっても、
嘗て其処に表現された美の理想はちゃんと存在して居るのである。
己が
先、「酔わされる」と云ったのはつまり或る一定の現象を凝視する事に
依って、その底に
潜んで居る永遠の実在を豫覚し、自己の生命が宇宙の生命の中へ流れ込んで行くような、不思議な気持ちへ誘われる心理作用を意味したのである。人間にこう云う気持ちを起させるものは、「善」や「真」ではなくて、「美」だと云うのである。
己の奉公して居る池田屋の店の
筋向うに、「
宝商会」と云う
蓄音器屋がある。主に西洋音楽のレコードを売る家だと見えて、毎日毎日、晩になると往来へ大きなラッパを向けてピアノだのヴァイオリンだの、騒々しい楽隊などの音譜を掛けて鳴らして居る。己は何だか初めのうちはチンプンカンプンでさっぱり面白いと思わなかったが、だんだん聞き馴れて来るうちに、折々うっとりと耳を傾けるようになった。いつであったか、己は帳場の
火鉢にあたりながら英語の本の復習をやって居ると、何とも云えない流麗な、微妙な
声音が、電車の
響だの
下駄の
音だので
濁らされて居る、
雑沓の夜の
巷の噪音を押し
拭うようにして、ふいに己の耳元へ伝わって来た。己はその時、自分の眼は本の上へ落ちて居ながら、自分の魂は風を
孕んだ
帆の如く、奏楽が
齎す快感に
膨れ上って
飄々と虚空に舞い上りつゝあるのを発見した。己は
明かに酔わされて居る事を意識した。
やゝ暫くして、奏楽が止んだ時、
漸く我に
復ったように、本を閉じて顔を
擡げた己は、意外にもお嬢さんが己の鼻先に据わって、じっと柱に
凭れたまゝ、己と同じく一心に聞き惚れて居らしったのに心付いた。
「あゝよかった。もう一遍聞きたいものだ。」
さも惜しそうに
斯う仰しゃったお嬢さんは、まだ幾分か夢心地から
醒め切れない様子であった。
「あれは一
体、
何と云う音楽です。」
己が斯う
尋ねると、
「あれかい、あれはタンホイゼルのシンフォニーだよ。」
と、お嬢さんが仰しゃった。
己にはタンホイゼルが何だか、シンフォニーが何だか、そんな事は分らなかったが、兎に角、己の敬愛するお嬢さんが己と一緒にあの音楽に聞き惚れたと云う事実が、
此の上もなく嬉しかった。少くとも己に音楽の耳を開けてくれたのは、その時のタンホイゼルとお嬢さんの言葉とであった。
その後毎晩のように、宝商会のラッパが鳴り出すのを楽しみにして、己はしんみりとレコードの音色を味わった。声の美しさとか、節の
巧さとか云うような、細かい点を
賞翫する事は出来ないまでも、己は何か知ら、一種不可解な感銘に魅せられて、恍惚とせずには居られなかった。恍惚? どうも
度び
度び「恍惚」と云う字を使うようだが、実際音楽から受ける快感は、「恍惚」の二字を用うるより外に、適当な形容詞がない。その快感をもう少し詳しく解剖して説明するとしたら、まあ何と云えばいゝのだろう。たとえて見ると、
其れは恰も、人間が子供の時分から胸に抱いて居て、どうしても口に云い表す事の出来なかった情景を、極めて流暢に、極めて精緻に、語り聴かされて居るような気持ちである。だから誰でも美しい音楽を耳にすれば、その中に現れて居るものは、自分の胸に昔から
潜んで居たような心地がする。自分が云おう云おうとして云えなかった物が、其処に
滾々として
泉の如く流れて居るのを会得する。
或は又、自分が
前の世で
出遇った覚えはありながら、
此の世へ生れて来た瞬間にすっかり忘れてしまったものを、今改めて囁かれるような感じを起す。もっと簡潔に云い換えれば、
魂が自分の故郷へ帰ったような歓びに打たれる。
そこで己は、こう云う事が云えると思う。もし藝術が自然の模倣、現象の再現であるとしたら、経験の世界から最もかけ離れて居る音楽は、
畢竟藝術でなくなる訳である。音楽の世界には、われ/\が日常目撃する所の、樹木だの人間だの、空だの雲だの、橋だの家だのと云う物が一つもない。音楽は全く、自然主義者の所謂
拵え物、空想の産物である。それにも拘らず、昔から音楽は立派な藝術の一つとされて居る。そうして見ると自然主義者の云った事は、
出鱈目に違いない。事に依ると
彼奴等は、「一概に藝術と云っても、文学と音楽とは条件が違う。」などゝごまかすかも知れないが、己はなかなか其の手は
喰わない。条件が違っても藝術の目的は一つな訳だ。文学だけがそんな窮屈な、そんな卑しい
職分に甘んじる必要はない。―――己はとうとう、斯う云う意見に到達した。己が今迄、自分の独断で極めて居た藝術観は、音楽を知るようになってから、始めてほんとうに誤りのない事を発見した。己が宝商会の蓄音器に負うところも、
甚だ多いと云わなければならない。
調子に乗って
大分勝手な
熱を吹いた。小僧にしては少し云い草がえら過ぎるから、多分何かの受け売りだろうと、疑う読者があるかも知れないが、以上は全く正真正銘の己の直覚から出た議論である。我が輩がいかに早熟な、いかに鋭利な頭脳を所有して居るかは此れで大概合点が行くだろう。
己がいろいろの文学や哲学の書物を読むようになったのは、己の藝術観が確定してから後の事で、つい近頃の話なのだが、今になって考えて見ると、あの時分の自然主義者の文学論は、いよ/\ますます馬鹿々々しいような気がしてならない。
此の間、夜店の古本屋を冷やかしたら、英訳のモオパッサンの小説が二三冊目についたから、早速買って来て、目下己は熱心に
耽読して居る。モオパッサンと云えば、日本の自然主義者が自分たちの本家のように云い
囃して居る文豪だから、いくらか彼等の作品に似て居るのかと思ったら、読んで見ると大変な相違である。どうして/\、モオパッサンは彼等のような
融通のきかない、平面描写や
無技巧主義の小説なんぞを書いては居ない。「女の一生」とか、「ベラアミ」とか、云う、
彼の傑作と
称せられて居る作品を、誰が見たって、正直なる「自然の再現」だと感ずる者はありゃしないだろう。其処には山沢山の、素晴らしい大仕掛けの芝居が演ぜられて居て、日本の自然主義者の所謂「拵え物」である事は、一目瞭然として居るじゃないか。第一、モオパッサンの文章は彼等の書くようなボキボキした、味も
塩気もない、カンナ屑見たいな悪文とは、まるきり質が違って居る。何処となくアクが抜けてスッキリとして居ながら、飽く迄も流麗で光沢に富み、美しい、独特のリズムを持って居て、さすがに瀟洒なフランス人の書く物だと頷かせる。己の解釈を以てすると、モオパッサンのえらい所は、自然主義者の云うような、忠実な、馬鹿正直な、むやみにだら/\した自然の描写にあるのではなく、やっぱり彼の構想の偉大と、
行文の
暢達と、其れ等に依って生き生きと表現されて居る人間の肉欲生活の葛藤とにあるのだろうと思う。全体、あれ程立派な藝術的作品の、影響を受けて居る
筈の自然派の作家に、どうしてあんな
土ッ
臭い、
野暮ッたらしいまずい小説が書けるのか、己には実際不思議でならない。
日本の自然主義者は、学問は己よりあるか知れぬが、頭は己より遥かに劣って居るらしい。彼等には文章のうまみを味わう感受性もなく、技巧の使い道を会得する理解力もなく、何処までが「自然」で、何処までが「想像」であるかを、区別する能力が全然缺如して居るのだ。つまり彼等には、藝術家に必要なる素質が、一つも備わって居ないのだ。
あんまり気炎を上げ過ぎて、議論が長びいたようだから、好い加減に打ち止めとしよう。………結局、上述のような次第で、己は自分こそ、藝術家たり得る資格のある人間だと、堅く堅く信ずるようになった。今となっては、誰が何と云ったって、己の信念は挫けはしない。
しかし、己に藝術家の素質があると云う事と、己が将来藝術家の経歴を作るかどうかと云う事は、
自ら別問題である。素質があっても、修養の
如何に依っては、必ずしも満足な経歴を生む訳には行かない。そうして悲しい
哉、己にはどうも其の修養が缺けて居るように思う。いくら修養したくっても、小僧の身分では、到底充分な機会が与えられて居ないのである。
「修養」と云う言葉にも、さま/″\な意味がある。身体の修養をするとか、学問の修養をするとか、技術の修養をするとかならば、小僧の分限でも、必ずしも不可能な事ではない。しかし藝術家となると、勿論学問も技術も大事であるが、それよりもっと大事な修養の方面がありそうである。
己の想像力をもっと豊富にし、己の人生観をもっと深く鋭くする為めに、己は何よりも先ず、世間と云うものを廣く知り、廣く観察したい。藝術は自然の摸倣でない迄も、自然を見ずには、藝術を作る事は出来ない。然るに奉公人の周囲を取り巻く自然なり世間なりは、極めて色彩の乏しい一小局部に限られて居る。
此れが己は一番残念で
溜らない。
それから第二に、己はもう少し金と時間との餘裕が欲しい。単に学者になるだけの事なら、苦学をしても成し遂げられるが、藝術の方はそうは行かない。貧乏な家に生れて、立派な詩人や畫家になった人間も随分あるけれど、己のような素質と傾向とを持つ、一種の藝術家には、或る程度以上の貧乏は絶対に禁物である。或る程度以上の貧乏とは、つまり労働者として稼がなければ、生活して行かれない程の貧乏をさすのである。何処の商店でも同じように、われ/\ぐらいの年配の小僧は、
体のいゝ労働者であって、日がな一日、体を激しく使う事は、
車夫や
馬丁と殆んど択ぶ所はない。車夫や馬丁が、車を
挽いたり馬を追ったりしなければ、
飯が喰えないと同様に、われ/\も重いビールの箱を
担いだり、自転車を走らせたりしなければ、直に主人から
暇を出される。暇を出されても、親の家へ帰って、安楽に暮せるくらいなら、初めから奉公なぞを勤めはしない。貧乏も適当な程度だと、却って神経を鋭敏にする利益があるが、労働となると、
寧ろ神経を頑丈にし、遅鈍にさせるばかりである。その證拠には、華族や富豪の若旦那の神経と、人足や立ん坊の神経とを比べて見れば直ぐに分る。労働の為めに体の疲れるのは忍ぶ事が出来るけれど、神経の鈍るのは全く恐ろしい。そうなったら藝術家はもうおしまいである。
だから己は、どんなに学問がしたくっても、牛乳や新聞の配達をして、労役を犯してまでも、苦学する気には毛頭ならない。そんなセカセカした心持ちで居たら、大切な瞑想の時間がなくなる。折角起りかけた美しい想像だの幻影だのが、頭の外へ飛んで行ってしまう。
こう考えて来ると、己はつく/″\運の悪い人間だ。己は藝術家になると云う希望を、全然
抛った訳でもないが、しかし
此の
儘進んで行けば、商人にもなれず詩人にもなれず、
虻蜂取らずで終る事は分り切って居る。分り切って居ながら、どうする事も出来ないのだから、しみ/″\
厭になってしまう。
「あゝ、己が世間並の家に生れて、大学へ行く事が出来たらなあ。」
と、いつでもくよくよ嘆息して居る。どうせ藝術家となれないくらいなら、死んだ方が増しなくらいだ。
己の頭の
中に
湧き上る想像なり幻影なりは、藝術的には非常に美しいが、どう云うものか道徳的には
甚だ
不善なものが多い。此れは近頃気が付いた事なのだが、事に依ったら、己は反道徳的の傾向を持つ藝術家若しくはそう云う藝術家になれる筈の人間かも知れない。己が考えるのに、人間の心の奥底には、道徳的の要素が潜むと同じ深さに、非道徳的の要素も潜んで居るに違いない。若しも宇宙に永遠の「善」の精神が存在するなら、一方に於いて、永遠の「悪」の精神も、必ず存在して居るだろう。そうして、人間の
中の「善」の魂が輪廻する如く「悪」の魂も輪廻するだろう。
然るに、
今日の文明国の人間は「善」を実行に移す事を許されて居ながら、「悪」を実行する事を許されて居ない。「悪」が許されるのは、たゞ想像の世界に於いてのみである。換言すれば「悪」はたゞ藝術に於いてのみ許される。従って、生れつき「悪」の魂の強く燃えて居る人間が、悪人のまゝで、地獄へ
墜ちずに天へ昇ろうとするには、どうしても藝術の路を行くより外はない。なぜ藝術は悪人を天へ昇らせる事が出来るか。―――と云うに、藝術的境地へ這入れば善も悪もなくなって、たゞ美があるからである。そうして、美は人間に解脱の方法を教えるからである。
ところが、己のような悪人が、
若し藝術家になる事を禁ぜられるとすれば、その生涯は極めて危険である。己は己の頭の
中にある想像を、藝術的作品に発表する事が出来ない結果、勢い実生活の方面に吐き出さざるを得なくなる。
己はいろ/\の犯罪をやる。社会的に堕落する………しまいには何をやり出すか分りゃしない。
生活
其の物を藝術にする。などゝ云う考えは、云うべくして容易に行われ難いものだ。人間は長い間の習慣に依って、良心と云うものを持って居る。藝術の世界で許されて居る「悪」を、一旦実行の方面に移すと、われわれはすぐに良心の
苛責を受ける。良心と云う奴は、今では
殆んど先天的の不可抗力を以て、人間の胸に喰い込んで居るから、その桎梏を破壊する事は、到底出来ない。強いて破壊しようとすれば、ます/\苦悶が加わって来て、懊悩の
極は発狂するような始末になる。技巧を以て、実生活を藝術に一致させようとしても、既に実生活である以上は、やっぱり道徳律の制裁がある。われ/\の心は、生れ変って来ない限り、
否でも応でも「浮世の義理」に拘束されるように運命付けられて居る。浮世が斯くの如く不自由な、窮屈なものであればこそ、われ/\は別に藝術の天地を作る必要があったのではないか。
しかし境遇に依って藝術の天地を封ぜられて居る者や、境遇はよくても天性想像力の
乏しい者は、見す見す堕落をすると知りながら、悪を実行に
齎さずには居られない。己なんぞも、近頃は大分焼け糞になって来た。どうせ藝術家になれないくらいなら、せめて空想の世界の一
部をなりとも、実現したいと云うような了見が起る。堕落をしようが、罪人になろうが思い切り放縦な生活を送って太く短く世を渡りたいと考える事が往々ある。実はもう、此の間から
内證で、酒や煙草をポツポツと飲み始めて居る。
もし人間が、
暫なりとも良心の苛責から逃れ得る事があるとすれば、其れは酔って居る時だけだ。酔ってさえ居れば、浮世が直ちに藝術の世界のように感ぜられる。そうして、刹那の昂奮のうちに、永劫の歓楽を掴む事が出来る。実際酒と云うものは、人間の発明した物の
中で一番の
傑作だ。藝術家が空想の世界を作って
此の世の
苦患を超越するように、凡人は酒の力に依って
辛うじて救われるのだ。酒は凡人の藝術だ。
己はこんな口実を設けて、近頃頻々と酒を飲む。どうして己に、其れ程の小遣いがあるかと云うと、大きな声では云えないが、帳場の金を少しずつ
誤魔化して居るのだ。買い物にやられる度毎に、己はこっそりと頭をはねる。店の商品を内證で売って代価を自分の
懐へねじ込む。此の間も番頭が、棚にあったシャンパンの
壜が一つ足りないと云って、大騒ぎをして居たが、正直を云うとアレは己がちょろまかしたのだ。だが幸いにも、己は非常に智恵を働かせて、店員の眼を
晦ます事が
上手なので、未だ一遍も
馬脚を
露わした
例がない。みんな己を正直な、学問好きな小僧だと思い込んで居る。
此の調子だと、己はいよ/\図に乗って
堕落する一方だ。
酒を飲むにも、銀座のカフェエは人に見られる
憂いがあるから、絶対に足を踏み入れない。いつも自転車で用足しに出るついでに、下町ならば人形とか浅草の公園とか、山の手ならば
神楽坂とか、わざ/\遠廻りをして、一品料理の洋食屋やおでん屋の
暖簾をくぐる事にきめて居る。尤も、日本酒を飲むと
臭いで感づかれるから、大概ウイスキーにきめて居る。アルコオル分の強い奴を二三杯ぐっと引っかけて、暇があると芝居の立見や活動の小屋をのぞいて、店へ帰って来る迄には好い加減酔いが覚めてしまう。
けれども、二つのWのうち、
己は Wine の味を知ったゞけで、まだ Woman の味を知らない。
此の点になると、己よりも外の店員の方が内々で遠征を試みて居るらしい。時々、番頭だの手代だのが、
眠そうな顔つきをして、
昨夜は持てたの振られたのと、こそ/\話をやって居るのを聞く事がある。彼等は毎週に一度ぐらい、主人が寝てしまってから何処かへ出掛けて、朝早く帰って来るのである。己も満更好奇心が起らぬ事はないのだが、何だか恐ろしいような気がするし、格別其の方面には激しい慾望も起らないので、とうとう
今日まで
童貞を守って居る。異性に対するイリュウジョンが
破れると困るから、まあもう少し辛抱して見よう。
今のところでは、やっぱり浅草の公園へ行って、あの辺をうろつき歩くのが一番面白い。活動写真だの、
連鎖劇だの、
玉乗りだの、手品つかいの見せ物などを覗いて廻ると、己は一日居ても飽きない。時々歌舞伎座や
市村座あたりの、高級な芝居を立見するけれど、浅草の見せ物に比べると役者がいやに上品ぶって、味も
そっけもないマンネリズムを繰り返して、不愉快なこと
夥しい。此れに反して、公園の見せ物は、やゝともすると殺伐に流れ、
野蛮を発揮するが、其処に何とも云われない空想の世界が暗示されて居る。哀愁と歓喜との織り交った、エキゾティックな情調が潜んで居る。云わば、デカダンの音楽を聞くような心地がする………
己の前途は全く真暗だ。己は此の先どんなキッカケで、どんな恐ろしい人間になるか分らない。
五月十三日。己は今日から、当分の間、時々日記を附けて見る事にした。此れから先の己の生活に、非常な変化、―――どうせロクな変化ではないが、―――があるとして、今のうちから斯う云う記録を留めて置くと、
後になって、堕落の経路を判然と指摘する事が出来る。それは単に己一
人に興味があるばかりでなく、大方読者諸君にも、有益な参考となるであろう。天才を持った一つの魂が、環境の宜しきを得ない結果、いかに傷つき破れて行くかを證明する、恰好な資料を提供するだろう。
それに己は、五月と云う月が一年中で一番好きだ。草木の葉が、素晴らしい
勢で、一度に新芽を吹くと同時に、己の体にも何だか生き生きとした気力が
漲り溢れて来るようだ。
殊に
今日のような、カラリと晴れ渡った上天気に、往来を歩くうら若い女が、みんな柔かい、フワフワしたふらんねるの
単衣を着て
[#「着て」は底本では「来て」]、白い
素足を
露わして、ケバケバしいパラソルを
翳して行くのを眺めると、己はほんとうに
溜らなく
[#「溜らなく」は底本では「溜らく」]なって来る。今しがた、店の前を
俥で通った新橋の藝者の、
白粉の濃い長い襟足をくっきりと日に光らせながら、女王のように気取って行った後ろ姿が、いまだに己の眼の前にちらついて居る。
今時分の陽気になると、此の世はやっぱり美しいと云うような気がする。その頭の中に浮ぶ妄想のようなものが、此の世の中にも
有り
得るかも知れない。
明日はどうしても浅草へ行きたい。今日の新聞の広告に出て居た、「
露国美人メリー嬢の
魔術」と云うのを見に行きたい。幸い明日は十四日で、上野の廣小路までカケ取りに行く用があるから、なんとか時間を工夫してやろう。
今日はお嬢さんが上野の音楽会へ出かけて、一日お留守だった。お嬢さんが居ないと、己は非常に
淋しい。まるで家の
中が
落寞とする。池田屋にお嬢さんさえ居なかったら、己はもっと悪い事をして、追い出されても
構わないのだが、………
五月十四日。晴。
今日は何と云う不思議な日だったろう。何と云う愉快な、そうして怪しい日だったろう。こうやって日記を附けながらも、己は
猶名状し難い胸騒ぎを感じて居る。今日の出来事は、たしかに己が生れてから未だ嘗て経験した事のない、奇しく恐ろしい快感を己に味わせてくれた。今日の午後四時から五時までの間、己は全く此の世の物としも思われない夢の国に居た。其れは今考えても、体中が戦慄する程に
芳しい、甘い想像の世界であった。
大方己以外に、あんな世界を見た人間は沢山居ないだろう。
その出来事と云うのは、己が浅草の「世界館」の、ミッス、メリーの魔術を見に行った時に起こったのだ。己は
此の一大事実を、成るべく詳しく記述して置く必要がある。
ちょうど今日の午後の二時頃であった。己が内々浅草行きの機会を窺って居ると、番頭が、「庄どんや、御苦労だが此の書き付けを持って、廣小路の森田屋まで勘定を取りに行って来ておくれ。」
と云った。己は腹の底で「しめた」と思いながら、
直に自転車へ乗って、店を飛び出した。
出ると間もなく、己は
和泉橋から自働電話をかけて、店の番頭を呼び出した。
「まことに申し訳がありませんが、今途中で女の子に突きあたって、交番へ引っ張られて行くところですから、事に依ると一二時間手間が取れるかも知れません。」
こう断って置いて己は廣小路へ行かずに
雷門へ駆けつけた。
メリーの魔術のかゝって居る世界館と云う小屋は、公園の六区の池の傍にある。己は
毎々、外出中の時間を有効に使用する事に
馴て居るので、自転車を小屋の
木戸番に預けると、直に切符の売り場へ行って、「魔術は何時から始まるのですか。」と、其処の少女に聞いて見た。
「今ちょうど、一回の終りで魔術が済んだところです。
此れから写真になりますから、まだ魔術には二時間ぐらい暇がありましょう。」
少女は例の早口で、己の気も知らずにこんな事をぺらぺらとしゃべった。もう三十分も早かったら間に合ったろうに、惜しい事をしたと
己は思った。しかし決して、己は其の
儘あきらめる気にはなれなかった。魔術の興行は半月も続いて居るのだから、今日でなければ見られないと云う心配はないのだが、一旦こうと思い詰めると、どうしても中途で止せない性分であった。
「そうかい、そんなら
後で見に来よう。」
己は斯う云って、いろいろな魔法の演技が、面白そうに畫いてあるペンキ塗りの絵看板を恨めしそうに見上げながら、再び木戸から自転車を曳き出して其れに
跨った。こう云う事もあろうかと考えて、
若しも時間に余裕があったら、その間に先へ廣小路の方へ行って来ようと、
豫め
手筈を
極めて置いたのである。
今日も昨日と同じように爽やかな、身も心も
軽々とする天気であった。公園の出口の、
千束町の
溝[#ルビの「とぶ」はママ]の前から自転車に乗って、
紺碧の空の下に
霞んでいる上野の森を目標に、
坦々たる一本路を一直線に走って行く己は、
何だか体に羽根が生えて、地面から二三尺も高い所を飛んで居るような心地がした。己は無性に両足へ力を入れて、目まぐるしい通行人の間を分けながら、真っしぐらに突き除け駆け除けて行った。こんな天気とこんな気分とがいつ迄も続いたら、己は恐らく地球の果てまで駆けて行っても疲れないだろう。
しかし、森田屋へ着いた時には息を
せいせい弾ませて、汗をびっしょり掻いて居た。
「どうしたい池田屋さん、
大分せかせかして居るが、ひどく忙しそうじゃないか。」
と、帳場に控えて居た其処の旦那がお世辞を云った。
「えゝ、今日は
方々を廻らなけりゃならないんで………」
と云いながら、
己は二十六圓五十銭の書き付けを出した事迄覚えて居るが、それから
後はすべて
上の
空であった。己の魂は
とっくに浅草の公園へ、遊びに行って居るのであった。
貰った金をロクロク改めもせずに、
直ぐ公園へ取って返したのは、大方一時半ごろであったろう。
ちん屋のバアへ立ち寄って、ブランデエの強烈なのを二三杯ぐいと引きかけて、己は早速世界館へ舞い戻った。
断って置くが、己は大抵浅草の見せ物を見る時には、前以って少量のアルコオル分を飲む事にして居る。そうすると写真や魔術の奇怪なる舞台面と、自分の頭の
中に
漂う妄想とが、互いに
錯落し、
縺れ合って、事実とも幻像とも付かない、不可思議極まる線状が、瞳の前に暴れ廻るように感ずるのである。
たった十分か十五分で、廣小路まで往復したのだから、魔術が始まる迄には、まだ餘程の時間があった。己は二階の一等席の前列へ陣取って
敷島を吹かしながら、「
岩見重太郎武勇伝」と云う俗悪極まる活動写真を、長い間見物せねばならなかった。
館内は、
土間も二階も三階も、ぎっしりと客が詰まって居るらしく、
蒸し暑い人
いきれで
濛々と煙って居た。それでなくても、己の体にはブランデエの酔いが
循って来て、襟元から汗がびっしょりと
泌み出て居るので、己は
暫く
眩暈のするような、息の詰まるような気持ちに襲われたが、その気持ちが又、何とも云えず愉快であった。ぬるぬると
脂の湧いた
掌を、髪の毛へなすり着けたり、
胸板で押し
拭ったりしながら、己は
とろんとした眼つきで、
彼方此方を見廻して居た。
「岩見重太郎」は随分長く続くらしかった。全部で七十八
場と云う
長尺だが、まだまだやっと三十場しか済んで居ない。酔って居るのでどうやら辛抱が出来るものゝ、
しらふであんなものを一時間も見せられたら、実際やり切れたものじゃない。不断はあんまり気が附かないが、斯うやって写真にして見ると、己はつく/″\、日本人の容貌の醜悪なのに愛憎が盡きる。彼等の歪んだ低い
鼻、
妙にトゲトゲした頬骨、
蟹の足のように曲って居る
脛、お盆のように扁平で
いびつな顔面、何処を捜したって、一つとして人に快感を与えるような特徴なんかはありはしない。そうかと云って南洋や
亜弗利加の
蛮人のような、精悍な活気と体力とがあるのでもない。
此の
卑しい汚い
矮小な人種が、己の同胞であるかと思うと、そうして自分もあんな姿をして居るのかと考えると、己は全く
情なくなる。事に依ったら、内のお嬢さんのような美人は、日本人として例外の部に属するのだろう。
やっとの事で、「岩見重太郎」が
大団圓を告げると、今度は西洋物の映畫が始まった。(
“The Circus of Death”)―――死の
曲馬とか何とか云う、
伊太利の冒険写真であるが、しかし此の方は可なり面白く見て居られた。
「己はどうして西洋に生れなかったのだろう。
欧羅巴に生れさえすれば、たとえ商店の小僧であっても、今よりはもっと幸福だったに違いない。」
などゝ云う気が、しみ/″\と起った。それから己の連想は、廣大無辺に擴がって行って、自分の過去や将来の運命を、次ぎから次ぎへ果てしもなく胸に描いた。
かりに己が此のフィルムの製造せられる北部
伊太利のミラノの近傍、―――
或はアルプスの山の
麓、或いはコモの湖水の
滸りに生れたとする。そうして、幼い時からドニゼッチやロシニの音楽を耳に聴き、ボッカチオやダンヌンチオの美しい言葉を口にして成長したなら、定めし己の少年時代は、あの「即興詩人」の主人公のような、懐しい追憶を以て充たされて居た事であろう。己は何も、貴族や富豪の家に生れたいのではない。たとえジプシィの群に育って、旅から旅へ漂泊して歩こうとも、
亜細亜の
隅っこの日本に生れるより、どんなに仕合わせだか分らない………
何も
伊太利とばかりは限らない。
佛蘭西でも、英国でも
乃至は
印度だの
波斯だの
埃及だの
亜剌比亜だのと云う国でも、まだ日本よりは遥かに増しのように感ぜられる。いっそ己は今からでも遅くはないから、乞食か労働者の群に
這入って、日本を後に、そう云う国々を流れ歩いたらどうであろう。先ず順序として、最初に池田屋の店で
不都合を働いて
暇を出される。それから、実家へ帰って親父やおふくろと衝突する。次ぎには東京を出奔して、神戸か長崎辺へ行って、婦女子の誘拐を目的とする悪辣な移民業者の手先となる。支那へ密航し、南洋へ押し渡り、南米北米の大陸へ流れ込む。社会の最下層へ身を堕しさえすれば、何処へ行っても、飯を喰うには
差支がなく、面白い目が見られるだろう。日本人の
奴隷になって
虐待されるのは
真平だが、白人や黒人に使われるなら一向構わない。
桑港あたりのチャブ屋のボーイになるのもいゝ。アフリカの熱帯地へ行って、酋長の娘に仕えるのもいゝ。
欧羅巴の場末の軽業師の仲間に投じて、女優の小使いや男衆になってもいゝ。サルタンの国の、
回々教徒の乞食に化けて、メッカ、メジナの霊場へ巡礼するのもいゝ。そうして結局、
巴里の大道で野たれ
死をしようとも、ナイル河の
鰐に喰われて死のうとも、己は少しも恨めしいとは思うまい。………
こんな工合に、際限なく展開して行く己の連想は、映畫が消えてパッと明るくなった瞬間に、頭の中で働きを止めた。己の意識は現実に
復って自分の身が世界館の一等席にある事を心付いた。見ると舞台の右の端に、「メリー嬢出演魔術」と云う張り札が掲げられて居る。
「いよ/\来たな。」と思って、己は胸をときめかせつゝ居ずまいを直した。何処かでチリチリンとベルが鳴ると、
下手の
海老色の幕の蔭から、金縁の眼鏡をかけてフロックコオトを着た、年の若い、赤ッ
面の
気障な
弁士が舞台へ歩いて来て、見物一同へ馬鹿丁寧なお辞儀をした後、長い間メリー嬢の演技の紹介をやった。
「えゝ、今回は餘興といたしまして、
露国美人メリー嬢の出演にかゝる、巧妙にして奇怪なるマジックを御覧に入れます。しかし、こゝにちょいと
御断り申して置きますのは、魔術と申しましたところで、世間普通の手品などゝは違って居りまして云わば、最新の学理に基き、廿世紀の心理学を応用いたしましたるところの、高尚なる、複雑なる催眠術の一種でござります。そも/\此の催眠術と申しますのは、いかなるものでございましょうや、此れは無学なる手前共が今更
喋々致しまする迄もなく、皆様方が
とっくに御承知の筈でございまして、普通の手品などゝは異なり、種も仕掛けもない、全く霊妙不可思議なる精神の作用に依るものだそうでございます。………」
弁士がこんな事を云って居る間に、見物席へはいやが上にも客が詰め込んで来るらしかった。
やがて、弁士が引込むと、入れ違いに現れたのはメリー嬢であった。其の一
刹那、己が彼女から真先に受けた印象は、
彼の
女の体中に星の如く附着してピカピカと光って居る、無数の
宝石類であった。新ダイヤだかガラス玉だか何だかよくは分らないが、
兎にも
角にも、すらりとした、背の高い彼の女の総身は、
栗色の髪の
頂辺から純白の絹の靴の先まで、
鱗のようにきらきらと閃めく物が
鏤めてある。腕と肩とを露わにして、
纔に乳房から下の胴体と両脚とを包んで居る真黒な服の地にさえも、其れ等が一面に縫い込んであると見えて、体を
捻らせる
度毎に、光りの玉が
彼方に
消たり
此方に
殖えたりする。
彼の
女は活発な足どりで、つかつかと舞台の前面に歩み出で、しなやかな
襟頸から肩の筋肉を、
蛇に
化けようとする人間のように、妙にくるくると波打たせながら、怪しい
嬌態を作って、にこやかに見物席を見渡した。その時己は彼の女の顔に、更に二つの
素的に大きい黒い宝石が輝くのを一
瞥した。二つの大きい黒い宝石と云うのは、それは彼の女の
眼球のことである。己は生れてからまだ一遍も、あんな不思議な、底の知れない愛嬌と魔力と
鬼気とを
湛えて居る
眼球と云う物を見た事がない。なる程人に催眠術を
施そうと云う女の、
瞳の光は違ったものだ、と己は
直に感心した。事に依ったら、己は最初ちらりと彼の女に見られた時に、もう
術を施されて居たのかも知れない。
「これから
私は、皆さんに催眠術を御覧に入れます。………」
と、彼の女は突然、アクセントの外れた、突拍子もない鋭い声で、明瞭な日本語を
囀った。
「
私の
弟子に三人の
黒人が居ります。
私は今その弟子を呼び出して、魔術にかけて
御覧に入れますが、若しもあなたがたの
内で、弟子を信用なさらない方がありましたら、
誰方でも御遠慮なく、舞台へ上ってお試し下さる事を望みます。」
彼の女がこんな事をしゃべる間、
己は
時々恐くなって下を向いた。なぜと云うのに、彼の女の瞳は、いやに己の方ばかりを
頻繁に見るような気がしたからである。
「
彼処に
一人、十六七の小僧が居る。あの小僧なら訳なく魔術にかゝりそうだ。」―――
彼の女が斯う考えながら、己の方をちらちらと
睨めて居るように見えたからである。
ピリ、ピリ、と、彼の女が
呼子を吹くと、三人のニグロが
其処へやって来て、見物席へお
辞儀[#ルビの「じぎ」は底本では「じき」]をした。
唇が
毒草の花のように
紅い、
煙草の葉のような皮膚の色を持った、恐ろしく背の高い
蛮人である。
真鍮のボタンのべたべたと附いた、サフラン色の軍服のような服を着て、真黒な濃い髪の毛を頭のまん中から分けて居る。
メリー嬢は最初に二人の黒ん坊の手を握らせた。そうして、片手を自分の腰の上にあてがい、片手を長く二人の方へさし出して
“One, two, three!”と気合いをかけると、握り合った二つの手は、黒ん坊がいくら放そうともがいても放れない。
次ぎに第三の黒ん坊の両手を、
後手に組ませて、又同じような気合いをかけると、その手はさながら鎖で縛られた如く、どんなに振っても暴れても
解く事が出来ない。
三人の黒ん坊は、うんうんと苦しそうに
呻きながら、一生懸命に魔術に反抗しようとして居る。
「そんな事なんか誰にでも出来らい!
詐欺!
大騙り!」
突然観客席の隅の方から、大きな声で罵しった者があった。
しかし、メリー嬢はたゞにやりと笑ったゞけで、構わずに演技を続けて行く。
今度は三人を椅子に腰かけさせて、片っ端から順々に催眠術をかける。一歩を前へ踏み出して左の手を自分の
胴脇にあて、右手の親指をぐっと黒ん坊の鼻先へ突きつけたまゝ、
“Sleepy, sleepy, sleepy, ………”
と、三度くり返す間に、もう黒ん坊は首をぐたりと椅子の背中に乗せて、口をあーんと開いて
了う。
「馬鹿!」とか、「詐欺!」とか云う
悪罵の声は、だんだん観客席の隅々から頻発されるようであった。黒ん坊が嬢の暗示にかゝって、げらげらと止め度もなく笑い出したり、めそめそと悲しそうに泣き出したりした時分には、もう見物は一面に騒ぎ立ち、舞台の音などは聞えないくらいになった。
最後に、彼の女は一人の黒ん坊に面と向って、
爛々たる瞳で睨みつけながら、右手の人差指と親指とをビシッと鳴らすと、彼の五体は
忽ち
鉄棒のように硬直してしまった。
其れを
縁台のように
横えて、彼の女は上に腰を掛けたり踏み歩いたりしたが、黒ん坊の体は折れもしなければ曲りもしない。………
その時、見物人の
喧囂は絶頂に達して、
罵詈、嘲笑、憤怒の言葉が場内に
漲り溢れた。
「引っ込め! 毛唐! 馬鹿野郎!」
「黒ん坊と馴れ合って居やぁがる! ちゃんと知ってるぞ!」
「
八百長だぞ! 分ってるぞ!」
口々に
喚き立てる
野卑な叫びが、雨の如く降って来るのを、舞台の正面に
屹然と立って聞いて居る嬢の顔には、
微かに
紅が
潮して来るようであった。
「皆さん………」
やがて、場内が少し静まるのを待って、彼の女は
徐に
唇を動かした。
「皆さんは今、わたくしの催眠術を信用しないと仰しゃるようです。………」
「あたり
前よ!」
と又
何処やらで交ぜっ返した者があった。
「
私と
此の
黒人との間に、何か約束があるように考える。それは当り前です。皆さんがそう考えるのは普通です。しかしほんとうに約束があるか、どうか、其れは皆さんが自分で舞台へ出て、私の魔術を
試して御覧になれば分ります。私に対して、唯今いろ/\の悪口を仰しゃったお方は、どうぞ一遍私の術を試して下さい。試してから悪口を云って下さい。………いかゞですか。どなたかありませんか。」
「さあ、どなたかありませんか。どうぞ遠慮なく上って下さい。」
と、三人の黒ん坊は彼の女の言葉の尾に附いて、こう云いながら観客席の方へ勧誘にやって来た。
中にも一人の黒ん坊は、
忽ち二階の一等席へ現れて、見物人の間へ割って
入りながら、
「誰か此の辺に、
先悪口を云った者はありませんか。云った人はどうぞ試して見て下さい。」
などゝ、薄気味の悪い目を輝かして、
頓狂な声で云ったが、一人も応ずる者はなかった。
己は自分の隣に座を占めて、頻りに
怒罵を浴びせて居た一人の酔漢が、黒ん坊の姿を見ると、首をちゞめて小さくなってしまったのに心付いた。
黒ん坊と云う者を、
傍へ寄ってつく/″\と観察したのは其の時が始めてゞあるが、全く気味のわるい面つきである。舞台に立って、メリー嬢の催眠術にかけられて居る時は、いかにも哀れな、弱小にして滑稽な人間のように思われたけれど、
今しも、自分の目と鼻の先へ迫って来た彼の容貌を見ると、哀れとか滑稽とか云う感じなどは少しもない。ケバケバしい洋服の外へ出て居る、
松脂のような手や首の
皮膚の色、磁器のような白い
眼球、上端が鼻の先へ
喰着きそうに
反って居る厚い唇、
其処から洩れて来る不思議な日本語、―――凡てが底知れぬ恐ろしさを以て己の魂を脅かすようであった。おまけに彼は、舞台ではいろ/\の道化役を勤めて居たのに、見物席へ現れると別人の如く真面目になって、
不愛嬌を極めて居る。
「どうです、あなた舞台へ出ませんか。」
こんな事を云われて、腕を取られた見物人は、にやにやと怯えたような薄笑いをして、
臀込みをしてしまう。
大人の方は駄目だと
悟った黒ん坊は、やがて十五六から十七八ぐらいの子供に眼をつけて、小僧や学生を勧誘し始めた。
「あなた方、何も恐いことはありません。出て御覧、出て御覧。」
こう云って、少年の肩を
撫でながら、じっと凝視すると、大抵の子供は身動きが出来なくなって、
べそ掻き
掻き承知をする。
手分けをして廻った三人の
黒奴は、二十分程の間に六七人の少年を狩り出した模様である。彼等のうちの四人は、小学校の制帽を
冠った十三四の生徒である。あとの二人は、いずれも己と同年配の
丁稚のような服装をして居る。隣の酔漢の
蔭に身を屈めて、一生懸命に姿を隠して居た己はもう大丈夫だろうと思って、ほっと安堵の胸をさすった。そうして、こわごわながら
そっと顔を揚げると、意外にも黒ん坊はまだ
其処につッ立って居る。彼は子供を引きつれて、舞台の方へ
赴こうとする瞬間であったが、
咄嗟に己の憶病らしい瞳が、彼の視線に
かち合ったのである。己は直ぐに、「もうだめだ、もう助からない。」と、思った。
案の定、彼はじーッと己を睨みつけたまゝ寄って来た。
「あなたも来る。さああなたも。」
と云って、彼は軽く
顎をしゃくって、ぽんと己の肩を叩いた。
己はいつの間にか、すっかり覚悟がついて居た。「そんなに恐ろしい筈はない。どんな真似をされるか試してやれ。」と云うような気にもなって居た。己の胸には、
慟悸が激しく鳴って居たが、それは恐怖の為めよりも
寧ろ好奇心の為めであった。
七人の少年は、己を最後にして、舞台の下手へ一列に並ばせられた。己は
此の時の、生れて始めて舞台と云う物へ登った感想を、記録に留めて置きたいと思うのだが、実を云うと何も
彼も夢中で、どんな事を考えたり見たりしたか、更にハッキリとした記憶がない。己はたゞ目の
眩くようなフット、ライトが、自分の前に
炎々と燃えて居て、其の向うに、満場の見物人の無数の顔が、非常に微かに、
霞のかゝった空の如くちらちらしたのを覚えて居る。それから、自分の踏んで居る舞台の床が、
軽気球のようにフラフラして、何となく自分の足元がうわついて居たのを覚えて居る。
それから先の事は、己には猶更よく分らない。己の頭には、まだブランデエの
酔が残って居て、
煌々たる舞台の光明を浴びると同時に、それが再び、強く激しく体内に燃えくるめくようであった。その刹那から、己の目の前には、現実の世界が消えてしまって、
燦爛たる色彩と、
妖艶なる
女神と、
甘美なる空気との世界ばかりが見えて居た。
何でも己は、メリー嬢の所へ引き出される前に、背景の黒幕の
蔭へ呼び込まれて、例の黒ん坊から談判された事を、ぼんやりと記憶して居る。
「私あなたに
此の
金を上げる。」
と、黒ん坊はズボンのポッケットから二十銭銀貨を出しながら、己の耳元へ口をつけて
唆かすように云った。
「あなた、もし催眠術にかゝらなくっても、どうか寝たふりをして下さい。その代りに此の
金をあなたに上げる。いゝですか、分りましたか。」
「いらない、そんなものはいらない。」
こう口へ出して云ったかどうだか、
兎に
角己は首を振って、金を断る意志を示した。
「なぜいらない?」
こう云った時の黒ん坊の眼には、正視するに堪えぬ程猛悪な、残忍な表情が漲って居た。己は
白刃を胸に
擬せられたと同様の
脅喝に襲われた事を感じた。
「あなた馬鹿です。あの子供たちは毎日舞台へ上って、私から
金を貰います。あなたは今日が始めてゞす。しかし
此れから毎日来れば、いつでも二十銭
儲かります。あなたはなぜいやですか。ちっともいやな事はありません。」
「いやではない。」
と、己は
譫語のように云った。そうして彼が無理に握らせた二十銭銀貨を
大人しく
懐の
蟇口の中へ入れた。
「外の子供達がよく知って居ます、あなたは何でも、あの子供達のする通りにして居ればいゝのです。」
彼の口吻は、二十銭の報酬に対して、さながら己の命までも要求するが如くであった。
己はあの時、たとえ命を要求されても、きっと
否だとは云えなかったろう。どんな厳しい、どんな苦しい命令を受けても、己には到底あの黒ん坊に反抗するだけの勇気はなかった。一
言一
句唯々諾々として、黒ん坊の御機嫌を伺って居るばかりであった。
己は二人の子供と一緒に、舞台の中央の椅子にならんだ。そうして、二人が
順々に
眠らされて、自分の番が廻って来るのを待って居た。―――待って居たと云うと、己の意識はいかにもハッキリして居たようだが、その実一
切渾沌として、霧の
中に包まれて居るのだった。昔、
磔刑になる人間は、十
字架の上へ乗せられると、
既に半分
正気を失って居たと云うが、己は椅子に
腰をかけた
とたんにもう、催眠術にかゝッて居た。黒ん坊から二十銭貰った義理などを考える
暇はなかったらしい。
二人を眠らせたメリー嬢は、やがて己の椅子の前へ来て、ちょうど子供が
睨めっくらをするように、じっと己の
瞳の奥を
凝視した。そうして、
“Sleepy, Sleepy, Sleepy”
と云いながら、変なめくばせをした。その時、己とメリー嬢との顔は、
僅かに五寸ぐらいの間隔を置いて、向い合って居た。己は彼の女の美しい容貌が殆んど虫眼鏡で見る如く擴大されて、
眼球の
中を一杯に
塞いでしまったのを感じた。彼の女の青い
瞳は海よりも廣く深く、
眼瞼の
縁に
生え揃った
睫毛は
鯨鬚よりも長く、その周囲には鉛筆の
粉に似た黒い物で、月の
暈のような
隈取りが施されて居る。遠くから望むと、いかにも水々しく若やいで居た血色のいゝ両頬には、胸をむかむかさせる濃い
白粉と
頬紅とがペンキのように
塗ってあった。ところ/″\に
細かい
縮緬皺が寄って居る。
鼻の下だの、
眉毛の辺だのには、
逞しい
むく毛が
茫々と生えて、人間の顔のような感じはしない。
殊に驚いたのは、彼の女の肉体や頭髪や
軽羅の
凡てに
鏤めて居る
金銀宝玉が、近くで見ると
大概真鍮か、ブリキだか、ガラス玉で出来て居る。………
その一
刹那、己は彼の女に対して著しいディスイリュウジョンを感じた。………しかし、そのディスイリュウジョンは、決して彼の女を
軽蔑する
所以にはならなかった。今迄は
女神の如く
貴く、人形の如く美しく見えた彼の女が、
忽ち一変して、あの黒ん坊よりも一層恐ろしい、気味の悪い
魔女に見え出したゞけであった。
「魔女だ、魔女だ、
此の女は
全能の力を備えて居る
悪魔だ。己は
此奴の命令に対して、絶対的に服従しなければならない。」
そう思った時、彼の女は
恰も
呪文を
唱え終って、素晴らしい
見幕でぴしッと右手の親指を鳴らした。
有体に云うと、己はまだ充分に催眠術にかゝっては居なかった。強いて彼の女に反抗したければ、必ずしも反抗出来ない事はなかった。にも拘らず、彼の女の態度には相手を無理やりに服従させなければ
已まない
意気が
籠って居た。己は、たとえ催眠術にかゝって居なくても、かゝった真似をせずには居られなかった。己は彼の女の欲する通りに、
外の二人の子供と同じく
あんぐりと口を開いて、仰向きに
椅子へ
ぶっ倒れてしまった。
「いかゞでございます。見物の中から選び出した三人の子供は、この通り訳なく
睡ってしまいました。この子供たちは、今、私の自由になったのです。鼻を
摘まゝれても耳を引ッ張られても、何も知らずにスヤ/\と睡って居ります。」
見物に向って、こんな説明をするメリー嬢の声が、己の耳にもボンヤリ聞えた。
すると、黒ん坊が又こんな事を云った。
「皆さん、どうぞよく御覧下さい。メリー嬢は
詐欺でも
騙りでもありません。此の通り、
此処に居る子供たちは、すっかり魔術にかゝって居ります。
睾丸を取られても知らずに居るのです。
可哀そうなものです。」
見物人はどっと笑った。そうして、以前の怒罵の声に引き換えて、始めて彼の女の魔力を承認したような拍手の響きが盛んに起った。
己はその時、自分は決して本当に眠っては居ない、眠った真似をして居るのだと感じつゝあった。己の耳には、メリー嬢の
得々として語る説明の言葉も、黒ん坊の無礼極まる冗談も、見物人の
哄笑も、残らず聞えて居る。少くとも己は、自分が今
何処に居て、何をしているかと云う意識だけは失わずに居る。自分が浅ましい真似をして、満座の中で
辱かしめを受けて居る事も知って居る。見物人が声を揃えて、どっと笑いどよめいた時、
「馬鹿にして居やがる。己は眠って居やしないのだぞ。睾丸を取られても知らずに居るような
頓馬では無いのだぞ。」
こう云って、己は椅子から
跳ね起きて、
怒鳴ってやろうかとさえ思った。跳ね起きようとすれば、いつでも
跳起きられる、怒鳴ろうとすればいつでも怒鳴り得ると思った。にも
拘らず、己はどうしてもそうする事が出来なかった。どうしてもそうする事の出来ないような、不思議な力が、一方に於いて己の心を抑えて居た。
己はメリー嬢に反抗し得る事を知りながら、大人しく彼の女の犠牲になって、椅子に倒れて居る事が、たまらなく愉快であった。ちょうど己の全精神は、あのワグネルのタンホイゼルを聞いた時のような、恍惚とした、得も云われぬ歓喜と昂奮とに充たされて居た。己は始めて自分が今迄夢みて居た甘い美しい想像の国へ、つれて来られたような気がした。そこには
浮世の時間もなく空間もなく、たゞたゞ
永劫無窮の
愉悦と光明とが溢れて居る
許りであった。なろう事なら、己はいつ迄もいつ迄も、メリー嬢の魔術に
縛られたまゝ、
明煌々たる舞台のまん中に、口をあんぐり開いて、観客の嘲笑を浴びて、
昏々と眠って居たかった。………
…五月十五日晴、
昨日の事があってから、己は銀座の店に居ても仕事がまるきり手につかない。それで午後から用事にかこつけて又世界館へふらふらと出かけた。そうしてふらふらと舞台へ登って、メリー嬢の魔術にかゝった。………
五月十七日 晴
今日も己は出かけて行った。昨日一日、どうしても外へ出られないので、己は帳場に控えて居ながら、メリー嬢のあの魅力のある瞳ばかりを考えて居た。今になって見ると、
内のお嬢さんなんか、
彼の
女の美しさにくらべたらまるで比較にも
何にもならない。内のお嬢さんのは、あれは人間の美しさだ。メリー嬢のは神か悪魔の美しさだ。己は何だか、メリー嬢の
傍に居ないでは、生きて居られないような気がする。事に依ったら、
彼の
女にかけ合って、黒ん坊と同じ弟子の仲間へ入れて貰おうか知らん。
五月廿日 雨
メリー嬢の魔術もとうとう
今日でおしまいである。新聞で見ると、今日かぎり世界館の興行を終って、これから神戸を巡業して、
上海の方へ出かけるのだそうである。己は何だか居ても立っても
溜らないような心地がする。せめて別れを惜しむ為めに、今日は何とか都合して浅草へ行きたいのだが、生憎表へ出る用事がない。おまけに朝から雨がビショビショ降って居る。何と云う悲しい、
恨めしい日であろう。
今夜か明日のうちには、メリー嬢はもう東京に居なくなるのだ。そうして、あと一週間か二週間の
後には、
此の日本から遠く上海へ去ってしまうのだ。上海から
何処へ行くか、恐らく彼の
女と黒ん坊とは、世界の果てまでも怪しい魔術を
提げて
流浪して行く事であろう。己はもう、生きて再び恋いしい
彼の
女と黒ん坊の姿を見る事は出来ないだろう。
世界館の舞台の上で、彼の女の犠牲となって暮らした過去の四五日は、恐らく己の一生のうちでの、最も貴い、最も楽しい時間であったろう。己は
先、「恋いしい
彼の
女」と書いたが、正直を云うと己の彼の
女に対する感情は普通の意味の恋愛でないかも知れない。それは恋愛と云うよりも、もっと
激しい、もっと
神秘な、
憧憬の
情である。己は今迄、ぼんやりと自分の
脳裡に描いて居た、「
詩」だとか、「
美」だとか、「
藝術」だとか云うものが、彼の
女に具体化されて居たのを認めたのである。
年が
年中己の頭に浮かんでいる不思議な
幻がメリー嬢となって現れたように感じたのである。メリー嬢の持って居る「
美」は、己が明け暮れ
憧れて居るものゝ
凡てゞあったのである。
彼の女の魔術にかけられて椅子に眠って居る時、己の
魂はたしかに微妙な幸福な天国へつれて行かれた。其れは酒よりも音楽よりも、ずっと強烈に己の心を
陶酔させた。己の精神に歓楽極まる
絶対境を味わせた。………
五月三十日 雨
あゝ、つまらない、つまらない。己は何とかして、もう一度メリー嬢に会いたい。メリー嬢に会えない迄も、メリー嬢の魔術にかけられた時のような光景と快感とにめぐり会いたい。詩を作ったり、絵を畫いたりする事の出来ない己は、せめてもそう云う方面で、己の藝術慾を満足させたい。………今日の三面記事を見たら、
三枝光子と云う
二十ばかりの不良少女が、十五六歳の不良少年の親分になって、盛んに悪事を働いて居る記事が出て居る。己も一番、店を逃げ出して、その少女の子分に入れて貰おうか知らん。………
(完)