むかし/\、まだ
愛親覚羅氏の王朝が、六月の
牡丹のやうに栄え
耀いて居た時分、
支那の大都の
南京に
孟世
と云ふ、うら若い貴公子が住んで居ました。
此の貴公子の父なる人は、一と頃
北京の朝廷に仕へて、
乾隆の
帝のおん覚えめでたく、人の
羨むやうな手柄を
著はす代りには、人から
擯斥されるやうな巨万の富をも
拵へて、一人息子の世

が幼い折に、此の世を去つてしまひました。すると間もなく、貴公子の母なる人も父の跡を追うたので、取り残された孤児の世

は、自然と山のやうな金銀財宝を、独り占めにする身の上となつたのです。
年が若くて、金があつて、おまけに由緒ある家門の
誉を受け継いだ彼は、もう
其れだけでも充分仕合はせな人間でした。
然るに仕合はせは其れのみならず、世にも珍しい
美貌と才智とが、此の貴公子の顔と心とに恵まれて居たのです。彼の持つて居る
夥しい
貲財や、秀麗な
眉目や、明敏な頭脳や、其れ
等の特長の一つを取つて比べても、南京中の青年のうちで、彼の仕合はせに匹敵する者は居ませんでした。彼を相手に
豪奢な遊びを競ひ合ひ、教坊の
美妓を奪ひ合ひ、詩文の優劣を争ふ男は、誰も彼も
悉く打ち負かされてしまひました。さうして南京に有りと有らゆる、煙花城中の婦女の願ひは、たとへ一と月半月なりと、あの美しい貴公子を自分の情人にする事でした。
世

は、
斯う云ふ境遇に身を委ねて、
漸く
総角の
除れた頃から、いつとはなしに遊里の酒を飲み初め、其の時分の言葉で云ふ、
窃玉偸香の味を覚えて、二十二三の歳までには、
凡そ世の中の
放蕩と云ふ放蕩、
贅沢と云ふ贅沢の限りを仕尽してしまひました。その
せゐか近頃は、頭が何となくぼんやりして、
何処へ行つても面白くないので、終日
邸に
籠居したまゝ、うつらうつらと
無聊な月日を送つて居ます。
「どうだい君、此の頃はめつきり元気が衰へたやうだが、ちと町の方へ遊びに出たらいゝぢやないか。まだ君なんぞは、道楽に飽きる年でもないやうだぜ。」
悪友の
誰彼が、
斯う云つて誘ひに来ると、いつも貴公子は
慵げな瞳を据ゑて、高慢らしくせゝら笑つて答へるのです。
「うん、………
己だつてまだ道楽に飽きては居ない。しかし遊びに出たところで、何が面白い事があるんだい。己にはもう、有りふれた町の女や酒の味が、すつかり鼻に着いて居るんだ。ほんたうに愉快な事がありさへすれば、己はいつでもお供をするが、………」
貴公子の眼から見ると、年が年中同じやうな
色里の女に
溺れて、千篇一律の放蕩を
謳歌して居る悪友どもの生活が、
寧ろ
不憫に思はれる事さへありました。
若しも女に溺れるならば、普通以上の女でありたい。若し放蕩を謳歌するなら、常に新しい放蕩でありたい。貴公子の心の底には、
斯う云ふ慾望が燃えて居るのに、其の慾望を満足させる
恰好な目標が見当らないので、よんどころなく彼は閑散な時を過して居るのでした。
しかし、世

の財産は無尽蔵でも、彼の寿命は元より限りがありますから、さういつ迄も美しい「うら若さ」を保つ訳には行きません。貴公子も折々
其れを考へると、急に歓楽が欲しくなつて、ぐづ/\しては居られないやうな気分に襲はれる事があります。何とかして今のうちに、現在自分の持つて居る「うら若さ」の消えやらぬ
間に、もう一遍たるんだ生活を引き
搾つて、冷えかゝつた胸の奥に熱湯のやうな感情を沸騰させたい。連夜の宴楽、連日の
讌戯に
浸りながら、
猶倦むことを知らなかつた二三年前の
昂奮した心持ちに、どうかして今一度到達したい。などゝ焦つては見るのですが、別段今日になつて、彼を有頂天にさせるやうな、
香辣な
刺戟もなければ
斬新な方法もないのです。もはや歓楽の絶頂を極め、
痴狂の数々を経験し尽した彼に取つて、もう其れ以上の変つた遊びが、此の世に存在する
筈はありませんでした。
そこで貴公子は仕方なしに、自分の家の
酒庫にある、珍しい酒を残らず卓上へ持ち
来らせ、又町中の教坊に、四方の国々から寄り集まつた美女の内で、
殊更才色のめでたい者を七人ばかり
択び出させ、其れを自分の
妾に直して、各々七つの
綉房に住まはせました。酒の方では、
先づ第一が
甜くて強い
山西の
安酒、淡くて柔かい常州の
恵泉酒、其の外
蘇州の
福珍酒だの、湖州の
烏程潯酒だの、北方の
葡萄酒、
馬
酒、
梨酒、
棗酒から、南方の
椰漿酒、
樹汁酒、
蜜酒の類に至るまで、四百余州に名高い
佳醴芳醇は、朝な夕なの食膳に
交る
交る
盃へ
注がれて、貴公子の唇を
湿ほしました。しかし此れ
等の酒の味も、以前に
度び度び飲み
馴れて居る貴公子の舌には、其れ程新奇に感ずる筈がありません。飲めば酔ひ、酔へば愉快になるものゝ、何となく物足りない心地がして、昔のやうに神思
飄
たる感興は、一向胸に
湧いて来ないのです。
「どうして内の
御前さまは、毎日あんなに
鬱ぎ込んで、退屈らしい顔つきばかりなすつていらつしやるのだらう。」
七人の妾たちは、互ひに
斯う云つて
訝りながら、有らん限りの秘術をつくして、貴公子の御機嫌を取り結びます。紅々と云ふ、第一の妾は声が自慢で、
隙さへあれば
愛玩の
胡琴を鳴らしつゝ、
婉転として玉のやうな
喉
を
弄び、
鶯々と云ふ、第二の妾は秀句が上手で、機に臨み折に触れては面白をかしい話題を捕へ、
小禽のやうな
絳舌蜜嘴をぺらぺらと
囀らせる。肌の白いのを得意として居る、第三の妾の
窈娘は、
動ともすると酔に乗じて、
神々しい二の腕の
膩肉を誇り、
愛嬌を売り物にする第四の妾の
錦雲は、いつも
豊頬に
腮窩を刻んで、さもにこやかにほゝ笑みながら、
柘榴の如き
歯列びを示し、第五、第六、七の妾たちも、それ/″\己れの長所を
恃んで、
頻りに主人の
寵幸を争ふのです。けれども貴公子は、此の女たちの
孰れに対しても、格別強い執着を抱く様子がありません。世間普通の眼から見ると、彼等は絶世の美人に違ひありませんが、
驕慢な貴公子を相手にしては、やはり酒の味と同じやうに、折角の嬌態が今更珍しくも美しくも見えないのです。
斯う云ふ風で、次ぎから次ぎへと絶えず芳烈な刺戟を求め、
永劫の歓喜、永劫の
恍惚に、心身を楽しませようと云ふ貴公子の願ひは、なか/\一と通りの酒や女の力を以て、遂げられる訳がないのでした。
「金はいくらでも出してやるから、もつと変つた酒はないか。もつと美しい女は居ないか。」
貴公子の邸へ出入する商人共は、常に
斯う云ふ注文を受けて居ながら、未だ
嘗て彼の賞讃を博する程の、立派な品を
齎した者は居ませんでした。中にはまた、物好きな貴公子の
噂を聞いて、金が欲しさに諸所方々の国々から、
えたいの知れないまやかし物を、はるばると売り附けに来る
奸商があります。
「御前さま、此れは
私が
西安の
老舗の
庫から見つけ出した、千年も前の酒でございます。何でも此れは唐の昔に、張皇后がお
嗜みになつたと云ふ、有名な
※脳酒[#「玄+鳥」、U+4CBB、39-15]だと申します。又
此の方は、同じく唐の順宗皇帝がお好みになつた、
竜膏酒ださうでございます。嘘だと
思し召すならば、よく酒壺の古色を御覧下さいまし。千年前の封印が、此の通り立派に残つて
居ります。」
こんな
工合に持ちかけるのを、人の悪い貴公子は、黙々として聞き終つてから、さて
徐ろに皮肉を云ひました。
「いや、お前の能弁には感心するが、己を
欺さうと云ふ了見なら、もう少し物識りになるがいゝ。其の酒壺は江南の
南定窯と云ふ奴で、南宋以前にはなかつた代物だ。唐の名酒が宋の陶器に封じてあるのは
滑稽過ぎる。」
斯う云はれると商人は一言もなく、冷汗を
掻いて引き
退つてしまひます。実際、陶器に限らず、衣服でも宝石でも絵画でも刀剣でも、あらゆる美術工芸に関する貴公子の
鑒識は、気味の悪いくらゐ
該博で、支那中の考古学者と
骨董家とが集まつても、到底彼の足元にすら及ばない事は確かでした。女を売りに来る
輩も、うるさい程多勢あつて、めい/\勝手な
手前味噌を
列べ立てます。
「
御前さま、今度と云ふ今度こそ、素晴らしい玉が見つかりました。生れは
杭州の商家の娘で、名前を花麗春と云ふ、十六になる
児でございますが、器量は元より芸が達者で詩が上手で、
先づあれ程の
優物は、四百余州に二人とはございますまい。まあ欺されたと思し召して、本人を御覧になつては
如何でございませう。」
こんな話を聞かされると、毎々彼等に乗せられて居ながら、
つい貴公子は心を動かして、一応
其の児を検分しないと気が済みません。
「それでは会つて見たいから、早速呼んで来るがいゝ。」―――多くの場合、彼は
兎も
角も
斯う云ふ返辞を与へるのです。
しかし、人買ひの手につれられて、貴公子の邸へ
目見えに上る美人連は、余程厚顔な生れつきでない限り、大概
赤耻を
掻かされて、泣く泣く逃げて帰るのが普通でした。なぜと云ふのに、其の人買ひと美人とは、最初に先づ、
豪奢を極めた邸内の庁堂へ
請ぜられ、長い間待たされた後、今度は更に鏡のやうな
花斑石の
舗甎[#ルビの「ぶうせん」はママ]を
蹈んで、遠い廊下を幾曲りして、遂に奥殿の内房へ案内されます。見ると
其処では今や盛大な宴楽が催され、或る者は柱に
凭れて
簫笛を吹き、或る者は
囲屏に
倚つて
琵琶を弾じ、多勢の男女が
蹣跚と入り交りつゝ、手に手に
酒※[#「王+戔」、U+7416、41-10]を捧げながら、
雲鑼を打ち
月鼓を鳴らして、放歌乱舞の限りを尽して居るのです。もう其れだけで、好い加減
胆を奪はれてしまひますが、
而も主人の貴公子は、いつも必ず一段高い
睡房の
帳の蔭に、
錦繍の
花毬の上へ身を
横へて、さも大儀さうな
欠伸をしながら、眼前の騒ぎを
余所にうつらうつらと、銀の
煙管で
阿片を吸うて居りました。
「成る程、四百余州に二人とない美人と云ふのは、此の児の事かな。………」
貴公子はやをら身を起して、
睡さうな眼でぢろりぢろりと二人を
視詰めます。さうかと思ふと、直ぐに鼻先でせゝら笑つて、
「………だがしかし、四百余州と云ふ所は、己の内より余程女が居ないと見える。お前も人買ひを商売にするなら、後学の為めに己の
妾を見てやつてくれ。」
斯く云ふ主人の声に応じて、例の七人の
寵姫たちは、さながら
馴らされた
鳩のやうに、
忽ち
綉簾の
隙間から、ぞろぞろと
其処へ姿を現はすのです。思ひ思ひの
羅綾を
纏ひ、思ひ思ひの
掻頭を
翳した各々の寵姫の背後には、いづれも
双鬟の美少年が、左右に二人づゝ
扈従しながら、始終
柄の長い
絳紗の
団扇で、彼等の
紅瞼に微風の
漣を送つて居ます。彼等は七人の女王の如く、光り
耀く
驕笑を浮べて、貴公子の周囲に
彳立したまゝ、互ひに顔を見合はせて、いつ迄でも黙つて居ます。黙つて居れば黙つて居る程、彼等の
美貌は
一と
際鮮やかに照り渡り、いかほど慾に眼の
晦んだ人買ひでも、思はず知らず
恍惚とせずには居られません。
暫く
茫然として、讃嘆の
瞬きを続けた後、
漸く我に
復つた人買ひは、
顧みて自分の売り物の哀れさ醜さに心付くと、
挨拶もそこそこに、
這ふ這ふの
体で邸を逃げ出してしまひます。其の後ろ影を見送りながら、主人の貴公子は張り合ひのない顔つきをして、がつかりしたやうに、再び
臥ころんでしまふのでした。
やがて、其の年の夏が暮れ、秋が老けて、
十月朝の祭も終り、
孔夫子の聖誕も過ぎてしまひましたが、彼の頭に
巣喰つて居る
倦怠と
幽鬱とは、依然として晴れる機会がありません。「うら若さ」を頼みにして居る貴公子も、いよ/\来年は二十五歳になるかと思へば、
房々とした
鬢髪の色つやまでが、だんだん衰へて来るやうに感ぜられます。気分が
塞げば塞ぐほど、心が
淋しくなればなるほど、享楽に
憧れ、
昂奮を求める胸中のもどかしさは
益
募つて、
旨くもない酒を飲んだり、
可愛くもない女を
嬲つたり、十日も二十日も長夜の宴を押し通して、沸き返るやうな
馬鹿騒ぎを催したり、いろいろ試して見ますけれど、さつぱり利き目はありませんでした。それで結局は、あの
獏と云ふ獣のやうに、阿片を吸つて夢を
喰つて、
荒唐無稽な妄想の雲に
囲繞されつゝ、
終日ぼんやりと、手足を伸ばして居るより外はなかつたのです。
貴公子の
眉の曇りは晴れやらぬまゝに、とうとう其の年が明けて、のどかな迎春の季節となりました。此の時分、
大清の王化は
洽く支那の全土に行き渡り、
上に
英明の天子を
戴いた十八省の人民は、
鼓腹撃壌の泰平に酔うて、世間が何となく、陽気に浮き立つて居ましたから、正月の南京の町々は近来にない
賑やかさです。ちやうど一月の十三日―――
所謂上燈の日から十八日の
落燈の日まで、六日の間を
燈夜と唱へて、毎年戸々の家々では夜な夜な門前に
燈籠を点じ、官庁や富豪の邸宅などは、楼上高く
縮緬の
幔幕を張り
綵燈を掲げて、酒宴を設け
糸竹を催します。又、市中
目貫きの大通りには、
恰も日本で大阪の夏の町筋を見るやうに、往来の片側から向う側の軒先へ、木綿の布を
掩ひ渡して
燈棚を造り、其れに紅白取り取りの
燈籠をぶら下げます。さうして街上到る所に寄り
集うた若者は、
法華の信者がお
会式の
万燈を
担ぐやうに、竜燈馬燈
獅子燈などを打ち振り打ち振り、
銅鑼を鳴らし
金鑼を
叩いて練り歩くのです。しかし、此のお祭りの最中にも、例の貴公子の顔つきばかりは相変らず沈み勝ちで、少しも
冴え
冴えとする様子がありません。
上燈の晩から二三日過ぎた、或る日の夕方のことでした。貴公子は眺望のいゝ南面の露台に出て、
榻に
凭れながら、いつもの通り銀の
煙管で阿片をすぱすぱと吸つて居ました。ちやうど
其処からは、市街の
雑沓が手に取るやうに
瞰おろされ、今しも一斉に明りを入れた幾百千の燈籠は、
白銀のやうな
夕靄の中にぎらぎらと流れて、たそがれの舗面を
鱗のやうに光らせて居ます。とある広小路の四つ角には、急
拵への戯台が出来て、旗を掲げ
幟を
飜し、けばけばしい
扮装をした二人の俳優が、奏楽の
音につれながら数番の
傚戯を演じて居ます。長い間戸外の空気に遠ざかつて、宮殿の奥に
蟄居して居た貴公子の眼には、ふと、此れ
等の光景が、一種異様な、云はゞ珍しい外国の都に来たやうな、奇妙な感じを起させたのでありませう、―――それとも又、阿片の煙に酔ひしれて、途方もない幻覚を
掴んだのでもありませう、彼はいつの間にか手に持つて居た煙管を置いて、露台の
欄杆に
頬杖をついたまゝ、見るとはなしに
巷の騒ぎを視詰めて居るのです。
折柄其処へ通りかゝつた参々伍々の群集は、いづれもおどけた仮装行列の隊を組んで、
恰も貴公子の憂愁を慰めるやうに、
一と
際高く足拍子を
蹈み歓呼の声を放ちました。続いて後から、さま/″\な魚鳥の形に
擬へた燈籠を
翳しながら、
所謂行燈の一団がやつて来ます。
其の時、貴公子の視線は、一つの不思議な人影の上に注がれて、長い間熱心に、其れを追ひかけて居るやうでした。其の男は、頭に
天鵞絨の帽子を
冠り、身に
猩々緋の
羅紗の
外套を
纏ひ、足には真黒な皮の靴を
穿いて、一匹の
驢馬に
轎を
曳かせて来るのです。さうして、折角の靴も帽子も外套も、長途の旅に
綻びたものか、ところ/″\穴が明いたり、色が
褪せたりして居ます。彼の前には、数十人の
行燈の人々が、五六
間もあらうと云ふ大きい眼ざましい竜燈を担ぎながら、数十
梃の
蝋燭を燃やして、えいやえいやと進んで行きますが、此の竜燈の一群と、其の男とは何の関係もないらしく、彼は時々立ち止まつて、さもさも疲労したやうな
溜息を
洩らしつゝ、往来の
喧囂を眺めて居ます。初めのうちは、仮装行列の隊伍に後れた一人のやうに見えましたけれど、だんだん貴公子の邸の傍へ近づくに
随ひ、驢馬や
轎車を従へて居る
風体が、どうも其れとは受け取れません。
且其の男は、
啻に服装ばかりでなく、皮膚や毛髪や瞳の色まで、全く普通の人間と類を異にして居るのでした。
「………あれは多分、西洋の人種に違ひあるまい。恐らく南洋の島国から漂泊して来た、
阿蘭陀人か何かであろう。」
貴公子はさう思ひました。
尤も、其の頃は南京の町に、折々欧人の姿を見かける時代でしたが、
斯う云ふ祭の最中に、
而も行列の人波に
揉まれながら、素晴らしく眼に立つ風俗をして、くたびれた足を引き擦つて、
乞食の如くさまようて居る其の男の挙動には、どうしても不審を打たずには居られません。さうして
猶更不思議な事には、ちやうど露台の真下へ来かゝると、彼は突然歩みを止めて、例のびろうどの帽子を脱いで、
恭しく楼上の貴公子に
挨拶をするのです。
見ると、その男は、
驢馬に
曳かせた車の方を指さしながら、貴公子に向つて、何か
頻りにしやべつて居ます。
「此の車の
轎の中には、南洋の
水底に住む、珍しい生物が
這入つて居ます。私はあなたの
噂を聞いて、遠い熱帯の浜辺から、人魚を生け捕つて来た者です。」
表の騒ぎが激しい為めに、はつきりとは聞き取れませんが、彼は
覚束ない支那語を
操つて、
斯う云ふ意味を語つて居るのでした。
何となく耳
馴れない、をかしな
訛りのある西人の唇から、「人魚」と云ふ言葉を聞いた時、貴公子は自分の胸が、我知らずときめくやうに感じました。彼は勿論、生れてから一遍も人魚と云ふ者を見た事はありません。けれども、今
図らずも南洋の旅人の口から、「人魚」と云ふ支那語が、一種特有な Umlaut を以て発音されると、其れに一段の神秘な色が
籠つて居るやうに思はれたのです。
「これ、これ、誰か表へ行つて、
彼処に立つて居る紅毛の異人を、急いで邸へ呼び入れてくれ。」
貴公子は例になくあわたゞしい
口吻で、近侍の
童に云ひつけました。
程なく、驢馬は貴公子の邸内深く引き込まれ、第一の大門を入り、第二の
儀門を
潜り、後庭の樹林泉石の門を
繞つて、昼を欺く紅燈の光を
湛へた、
内庁の石階のほとりに据ゑられました。貴公子はいつものやうに、七人の
寵姫を身辺に
侍らせながら、廊下の端近く
倚子を進めると、其れを見た異人は再び
恭しく地に
跪き、支那流の作法に
依つて
稽首の礼を行うた後、又もあやしい発音で、たどたどしく語り始めるのです。
「
私が此の人魚を獲たのは、
広東の港から幾百海里を隔てゝ居る、蘭領の
珊瑚島の附近でした。或る日私は、
其処へ真珠を採りに行つて、思ひがけなく真珠よりももつと貴い、美しい人魚を得たのです。人は真珠を恋することは出来ませんが、いかなる人でも人魚を見たら、
彼の女を恋せずには居られません。真珠には冷やかな光沢があるばかりです。しかし人魚は
妖麗な姿の内に、熱い涙と暖かい心臓と神秘な
智慧とを蔵して居ます。人魚の涙は真珠の色より幾十倍も
浄らかです。人魚の心臓は珊瑚の玉より幾百倍も
赤うございます。人魚の智慧は、
印度の魔法使ひよりも不思議な術を心得て居ます。人間の測り知られぬ通力を持ちながら、彼女はたま/\背徳の悪性を
具へて居る為めに、人間よりも卑しい魚類に
堕されました。さうして青い青い海の底を
游ぎながら、常に陸上の
楽土に
憧れ、人間の世界を
慕うて、休む暇なく嘆き
悶えて居るのです。其の証拠には、人は誰でも
彼の美しい人魚の顔に、
幽鬱な
憂の影を認める事が出来ませう。………」
斯う云つた時、異人は不自由な人魚の身の上を
憐むが如く、自分も
亦うら悲しげな表情を浮べました。
貴公子は人魚を見せられる前に、
先づ其の異人の
容貌に心を動かされたやうでした。彼は今迄、西洋人と云ふものを未開の種族と信じて居たのに、此の、
乞食のやうな
蛮夷の顔を、つく/″\と眺めれば眺める程、
其処に気高い威力が
潜んで居て、何となく自分を
圧さへつけるやうに覚えたのです。其の異人の持つて居る緑の瞳は、さながら熱帯の
紺碧の海のやうに、彼の魂を底知れぬ深みへ誘ひ入れます。又、その異人の秀いでた
眉と、広い
額と、純白な皮膚の色とは、
美貌を以て任じて居る貴公子の物よりも、遥かに優雅で、端正で、
而も複雑な暗い明るい情緒の表現に富んで居るのです。
「一体お前は、誰から私の
噂を聞いて、はるばる南京へやつて来たのだ。」
異人が物語る人魚の話を、
暫く
恍惚として聴き入つた後、貴公子は
斯う尋ねました。
「私はつい此の間、
媽港の街をさまようて居る際に、或る知り合ひの貿易商から、始めて其れを聞いたのです。
若し其の以前に知れて居たなら、恐らくあなたはもつと早く、私の人魚を御覧になる事が出来たでせう。私は此の珍しい売り物を携へて、
凡そ半年ばかりの間、
亜細亜の国々の港と云ふ港を遍歴しましたが、
何処の商人も、何処の貴族も、決して此れを
購はうとはしませんでした。或る者は値段が余り高過ぎると云つて、
臀込みをします。なぜと云ふのに、人魚の代価は
亜拉比亜の金剛石七十箇、
交趾支那の紅宝石八十箇、其れに安南の
孔雀九十羽と
暹羅の象牙百本でなければ、取り
易へる訳に行かないのです。又或る者は、人魚の恋が恐ろしさに、
竦毛を
慄つて逃げてしまひます。なぜと云ふのに、昔から人間が人魚に恋をしかけられれば、
一人として命を
全うする者はなく、いつとはなしに怪しい魅力の
罠に陥り、身も魂も吸ひ取られて、
何処へ行つたか人の知らぬ間に、幽霊の如く此の世から姿を消してしまふのです。ですから、金と命とを惜しがる人は、容易に私の売り物へ手を着ける事が出来ません。私は折角、
稀世の珍品を手に入れながら、誰にも相手にされないで、長い間徒労な時と徒労な旅とを続けました。
若しも媽港の商人から、あなたの噂を聞かなかつたら、もう少うしで私は大事な商品を、持ち腐れにする所でした。其の商人の話に
依ると、私の人魚を買ひ得る人は、南京の貴公子より外にはない。其の人は今、歓楽の為めに巨万の富と若い命とを
抛たうとして、抛つに足る歓楽のないのを
恨んで居る。其の人はもう、地上の美味と美色とに飽きて、現実を離れた、
奇しく怪しい幻の美を求めて居る。其の人こそは必ず人魚を買ふであらうと、彼は私に教へたのです。」
異人は相手が、自分の品物を買ふか買はぬかと云ふ事に就いて、少しも
危惧を感じて居ないやうでした。彼は貴公子の心を見抜いて居るやうな、確信のある言葉を以て語つたのです。
而もさう云ふ彼の態度は、相手に何等の反感を与へなかつたのみならず、
寧ろ
止み難い
焦憬の念をさへ起させました。貴公子は、彼の説明を聴かされて居るうちに、此の男から必ず人魚を
購ふべく、命令されて居るやうな気になりました。自分が此の男から人魚を買ふのは、予定の運命であるかのやうに覚えました。
「其の商人の云つた事は真実だ。私はお前が、
媽港の人から聞いた通りの人間だ。お前が私を捜したやうに、私もお前を捜して居た。お前が私を信ずるやうに、私もお前を信じて居る。私はお前の売り物を一応検分する迄もなく、お前が
先云うた代価で、今直ぐ人魚を買ひ取つて上げる。」
貴公子の此の言葉は、彼自身ですらハツキリと意識しない内に、胸の底から込み上げて来て、思はず彼の唇に
上つたのです。さうして見る間に、約束通りの金剛石と紅宝石と
孔雀と
象牙とが、或は五庫の
匱の中から、或は
苑囿の
檻の中から、庭前へ持ち運ばれて、石階の
下に
堆く積まれました。異人は今更、貴公子の富の力に驚いたやうな素振もなく、静かに其れ
等の宝物の数を調べた後、車上の
轎の
布簾を掲げて、
其処に
淋しく
鎖されて居た、
囚はれの身の人魚の姿を示しました。
彼の女は、うつくしい
玻璃製の
水甕の
裡に幽閉せられて、
鱗を生やした下半部を、
蛇体のやうにうねうねとガラスの
壁へ吸ひ着かせながら、今しも突然、人間の住む明るみへ
曝されたのを恥づるが如く、
項を乳房の上に伏せて、
腕を背後の腰の
辺に組んだまゝ、さも切なげに
据わつて居るのでした。ちやうど人間と同じくらゐな身の丈を持つ彼の女の体を、一杯に浸した甕の高さは、四五
尺程もあるでせう。中には
玲瓏とした海の潮が満々と充たされて、人魚の
喘ぐ度毎に、無数の泡が水晶の珠玉の如く、彼の女の口から
縷々として
沸々として水面へ立ち昇ります。その水甕が四五人の
奴婢に
舁がれて、車の上から階上の
内庁の床に据ゑられると、室内を照らす幾十燈の燭台の光は、
忽ち彼の女の
露はな肉体に焦点を
凝らせて、いやが上にも清く滑かな人魚の肌は、さながら火炎の燃ゆるやうに、一層
眩く鮮やかに輝きました。
「私は此れ迄、心
私かに自分の
博い学識と見聞とを誇つて居た。昔から
嘗て地上に在つたものなら、
如何に貴い生き物でも、如何に珍らしい宝物でも、私が知らないと云ふ事はなかつた。しかし私はまだ此れ程美しい物が、水の底に生きて居ようとは、夢にも想像した事がない。私が
阿片に酔つて居る時、いつも眼の前へ織り出される幻覚の世界にさへも、此の
幽婉な人魚に
優る怪物は住んで居ない。恐らく私は、人魚の値段が今支払つた代価の倍額であらうとも、きつとお前から其の売り物を買ひ取つたゞらう。………」
斯う云つたゞけでは、まだ貴公子は自分の胸に
溢れて居る無限の讃嘆と
驚愕とを、充分に云ひ表はす事が出来ませんでした。なぜと云ふのに、彼は今、自分の前に運び出された
冷艶にして
悽愴な、水中の妖魔を見るや否や、一瞬間に体中の神経が凍り付くやうな、強い、激しい、名状し難い魂の
竦震を覚えたからです。さうして、いつ迄もいつ迄も、死んだやうに
総身を
硬張らせて
彳立したまゝ、
燦爛たる
水甕の光を凝視して居るうちに、
訝しくも彼の瞳には、感激の涙が忍びやかに
滲み出て来ました。彼は久し振りで、長らく望んで居た
昂奮に襲はれたのです。有頂天の歓喜に
蘇生ることが出来たのです。彼はもう昨日までの、張り合ひのない、退屈な月日を
喞つ人間ではなくなりました。彼は再び、豊かな刺戟に
鞭撻たれつゝ生の歩みを進めて行ける、心境に置かれたのでした。
「………私は地上の人間に生れる事が、此の世の中での一番仕合はせな運命だと思つて居た。けれども大洋の水の底に、
斯く迄微妙な生き物の住む不思議な世界があるならば、私は
寧ろ人間よりも人魚の種属に堕落したい。あの
瑰麗な
鱗の
衣を腰に
纏うて、此のやうな海の
美女と、
永劫の恋を
楽みたい。―――此の
美女の涼しい
眸や、濃い黒髪や、
雪白の肌に比べると、私の座右に仕へて居る七人の妾たちは、まあ何と云ふ醜い、卑しい姿を持つて居るのだらう。何と云ふ平凡な、古臭い容子をして居るのだらう。」
さう云つた時、人魚は何と思つたか、ゆらりと
尾鰭を振り動かして、
俯向けて居た顔を
擡げながら、貴公子の姿をしげ/\と見守りました。
博学な貴公子の鑑識は、書画
骨董や工芸品ばかりでなく、支那に古くから伝はつて居る観相術にも精通して居ましたが、彼は今
漸く人魚の
容貌を眺めて、其の骨相を案ずるのに、到底自分の習ひ覚えた学問の範囲では、判断する事が出来ないやうな
稀有な特長を発見しました。
彼の女は成る程、絵に
画いた人魚のやうに、
魚の下半身と人間の上半身とを持つて居るには違ひありません。けれども其の上半身の人間の部分、―――骨組みだの、肉附きだの、顔だちだの、其れ
等の局所を一々詳細に注意すると、日常自分たちが
見馴れて居る地上の人間の体とは、全く調子を異にして居るのです。彼が修得した観相術の智識は、
其処に応用の余地がない程、彼の女の
輪廓は普通の女と
趣を変へて居るのです。たとへば彼の女の、極度に
妖婉な瞳の色と形とは、彼が知つて居る人相学の
如何なる種類にも適合しません。その瞳は、ガラス張りの器に盛られた
清洌な水を
透して、
恰も
燐のやうに青く大きく輝いて居ます。どうかすると、眼球全体が、水中に水の凝固した結晶体かと疑はれるほど、
淡藍色に澄み切つて居ながら、底の方には甘い涼しい
潤ほひを含んで、深い深い魂の奥から、絶えず「永遠」を視詰めて居るやうな、崇厳な光を
潜ませて居ます。其処には人間の如何なる瞳よりも、
幽玄にして
杳遠な
暈影が漂ひ、朗麗にして哀切な
曜映がきらめいて居ます。それから又、彼の女の
眉と鼻の形状は、一層気高い、一層異常な、「美」を構成して居るやうに感ぜられました。それ
等の眉や鼻は、支那の人相学で
貴ばれる
新月眉とか、
柳葉眉とか、
伏犀鼻とか、
胡羊鼻とか云ふ物とは、
何処かしら様子が違つて居ます。けれども
其処には習慣的な「美」を超絶した、人間よりも神に近い美しさがあるのです。因襲的な「円満」を通り越した、
生滅者に対する不滅の円満があるのです。さうして
彼の女が長い
項をものうげに動かす時、暗緑色の髪の毛は
海藻のやうに
顫へ
悶えて、柔かい波の底を
揺ぎさまよひ、或ひは
渾沌とした雲霧の如く彼の女の
額に降りかゝり、或ひは
絢爛な
孔雀の尾の如く上方へ延び拡がります。彼の女の持つて居る「円満」は、
啻に彼の女の
容貌の上にあるばかりでなく、人間の形を成して居る肉体の
総べての部分に認める事が出来ました。
頸から肩、肩から胸へ続いて行く曲線の優雅な起伏、模範的な均整を持つ両腕のしなやかさ、豊潤なやうで程よく引き緊まつた筋肉の、伸縮し
彎屈する度毎に、魚類の
敏捷と、獣類の健康と、女神の
嬌態とが、奇怪極まる調和を作つて、五彩の
虹の交錯したやうな幻惑を起させます。
就中、最も貴公子の眼を驚かし、最も貴公子の心を
蕩かしたものは、実に彼の女の純白な、一点の濁りもない、
皓潔無垢な皮膚の色でした。白いと云ふ形容詞では、とても説明し難いほど真白な、肌の光沢でした。其れは余りに白過ぎる為めに、白いと云ふより「照り輝く」と云つた方が適当なくらゐで、全体の皮膚の表面が、瞳のやうに光つて居るのです。何か、彼の女の骨の中に発光体が隠されて居て、
皎々たる月の光に似たものを、肉の裏から放射するのではあるまいかと、
訝しまれる程の白さなのです。
而も近づいて熟視すれば、此の霊妙な皮膚の上には、
微かな無数の
白毫の
むく毛が、
々と生えて
旋螺を描き、其の末端にさながら魚の卵のやうな、眼に見えぬ程の小さな泡が、一つ一つに銀色の玉を結んで、宝石を
鏤めた
軽羅の如く、彼の女の
総身を
掩うて居ます。
「貴公子よ、あなたは私の予期以上に、人魚の価値を認めて下さいました。あなたのお蔭で、私は充分な報酬を得、一朝にして巨万の富を手に入れる事が出来ました。私は人魚を売つた代りに、此れ
等の東洋の宝物を車に積んで、再び広東の港へ帰る積りです。さうして其処から汽船に乗つて、遠い西洋の故郷へ戻ります。私の国では、ちやうどあなたが人魚を珍重なさるやうに、此れ等の宝物を珍重する人が沢山あるのです。―――私が最後の願ひとして、どうぞ人魚に別れの
接吻を与へさせて下さい。」
斯う云ひながら、異人が
水甕の縁に寄り添ふと、水中に水銀の
躍るが如く、人魚はする/\と上半身を表面へ露出して、両手に異人の
項を抱へたまゝ、
頬を擦り寄せて
暫く
潸然と涙を流す様子です。其の涙は、
睫毛の端から
頤へ伝はり、滴々とこぼれ落ちる間に、
麝香のやうな
馥郁たる薫りを、部屋の四方へ放ちました。
「お前は人魚が惜しくはないか。あれだけの値で私に売つたのを、今更後悔しては居ないか。お前の国の人たちは、なぜ人魚より宝石の方を珍重するのだらう。お前はどうして、此の人魚を自分の国へ持つて帰らうとしないのだらう。」
貴公子は、利慾の為めに美しい物を犠牲に供して
顧みない、卑しい商人根性を
嘲るやうな句調で云ひました。
「成る程あなたがさう
仰つしやるのは
御尤もです。しかし西洋の国々では、人魚はそんなに珍しい物ではありません。私の国は
欧羅巴の北の方の、
阿蘭陀と云ふ所ですが、私の生れた町の傍を流れて居るライン河の川上には、昔から人魚が住むと云ふ話を、子供の時分に聞いた事がありました。
彼の女は時とすると、人間のやうな下半身を持ち、或ひは鳥のやうな両足を
具へて、地中海の波の底にも大陸の山林
水沢の間にも、折々形を現して人間を惑はす事があるのです。私の国の詩人や絵師は、絶えず彼の女の神秘を歌ひ、姿態を描いて、人魚の
媚笑のいかになまめかしく、人魚の魅力のいかに恐ろしいかを、我れ我れに教へて居ます。それ故欧羅巴では、人魚ならぬ人間までも、ひたすら彼の女の
艶容を学んで、多くの女が
孰れも人魚と同じやうな、白い肌と、青い瞳と、均整な肢体の幾分づゝを具備して居ます。
若し貴公子が其れをお疑ひなさるなら、試みに私の顔と皮膚の色とを御覧なさい。取るに足らない私のやうな男でも、西洋に生れた者は、必ず
何処かに、此の人魚と共通な優雅と品威とを持つて居るでせう。」
貴公子は異人の言葉を、否定する事が出来ませんでした。いかにも彼の云ふ通り、人魚と彼とは、
容貌のうちに相似た特質のあることを、
疾うから貴公子は心付いて居たのでした。讃嘆の程度こそ違へ、彼は人魚に魅せられたやうに、此の異人の人相にも少からず感興を
唆られて居たのです。其の男には人魚のやうな、円満と
繊妍とがない迄も、やがて
其処へ到達し得る可能性が含まれて居るのです。其の男は、支那の国土に住んで居る、黄色い肌と、浅い顔とを持つた人間に比較して、
寧ろ人魚の種属に近い生き物らしく思はれました。
小さな汽船で、世界中の大洋を乗り廻す西洋人は
兎も
角も、其の頃まで地の表面を「時間」と等しく無限な物と信じて居た東洋の人間には、千里二千里の土地を行くのが、
殆んど百年二百年の時を生きるのと同じやうに、難事であると考へられて居たのでした。まして
亜細亜の大国に育つた貴公子は、
流石に好奇心の強い性癖を持ちながら、遥かな西の空にある欧羅巴と云ふ所を、鬼か
蛇の
棲む蛮界のやうに想像して、つひぞ此れ迄海外へ出て見ようなどゝ思つた事はなかつたのです。
然るに今、生れて始めて、しみ/″\と西洋人の
風貌に接し、其の郷国の模様を聴いて、どうして其の
儘黙つて居る事が出来ませう。
「私は西洋と云ふところを、そんなに貴い
麗はしい土地だとは知らなかつた。お前の国の男たちが、
悉くお前のやうな高尚な輪廓を持ち、お前の国の女たちが、悉く人魚のやうな
白皙の皮膚を持つて居るなら、欧羅巴は何と云ふ
浄い、慕はしい天国であらう。どうぞ私を人魚と一緒に、お前の国へ連れて行つてくれ。さうして其処に住んで居る、優越な種属の仲間入りをさせてくれ。私はもう支那の国に用はないのだ。南京の貴公子として世を終るより、お前の国の
賤民となつて死にたいのだ。どうぞ私の頼みを聴いて、お前の乗る船へ伴つてくれ。」
貴公子は熱心のあまり、異人の足下に
跪いて
外套の
裾を捕へながら、気が狂つたやうに説き立てました。すると異人は、薄気味の悪い微笑を
洩らして、貴公子の言葉を
遮つて云ふのに、
「いや/\私は、
寧ろあなたが南京に留まつて、出来るだけ長く、出来るだけ深く、哀れな人魚を愛してやる事を、あなたの為めに望みます。たとへ
欧羅巴の人間が、いか程美しい肌と顔とを持つて居ても、彼等は恐らく、此の
水甕の人魚以上にあなたを満足させる事は出来ますまい。此の人魚には、欧羅巴人の理想とする
凡べての崇高と、凡べての端麗とが具体化されて居るのです。あなたは
此処に、此の生き物の
姚冶な姿に、欧羅巴人の詩と絵画との精髄を御覧になる事が出来るのです。此の人魚こそは欧羅巴人の肉体が、あなたの官能を楽しませ、あなたの霊魂を酔はせ得る、『美』の絶頂を示して居ります。あなたは
彼の女の本国へ行つても、此れ以上の美を求めることは出来ないでせう。………」
其の時、異人は何と思つたか、
眉宇の間に悲しげな表情を浮べて、
嗟嘆するやうな調子になつて、急に話頭を転じました。
「さうして私はくれ/″\も、あなたの幸福と長寿とを祈ります。私はあなたが、既に彼の女を恋して居る事を知つて居るのです。人魚の恋を楽しむ者には早く
禍が来ると云ふ、私の国の伝説を、あなたが実際に打ち破つて下さる事を祈るのです。私は人魚の代償として、あなたの大切な命までも
戴かうとは思ひません。
若しも私が、再び
亜細亜の大陸を訪問する日のあつた時、幸ひあなたにお目に懸れたら、其の折にこそ私はあなたをお連れ申して上げませう。………けれども其れは、………けれども其れは、………私はあなたがお気の毒でならないやうな気がします。」
云ふかと思ふと、異人は又も
慇懃な
稽首の礼を施して、人魚の代りに山の如く積み上げた宝物の車を、以前の
驢馬に
曳かせながら、庭前の闇へ姿を消してしまひました。
貴公子の邸は、人魚が買はれてから
俄かにひつそりと静かになりました。七人の
妾は自分たちの
綉房に入れられたきり、主人の前へ召し出される機会を失ひ、夜な夜な楼上楼下を騒がせた歌舞宴楽の響きも
止んで、宮殿に召し使はれる人々は皆
溜息をつくばかりです。
「あの異人は何といふ忌ま忌ましい、
胡乱な男だらう。さうして何と云ふ奇体な魔物を売り付けて行つたのだらう。今に何かしら間違ひがなければいゝが。」
彼等は互ひに
相顧みて
囁き合ひました。誰一人も、水甕の据ゑてある内房の
帳を明けて、人魚の傍へ近寄る者は居ませんでした。
近寄る者は主人の貴公子ばかりなのです。ガラスの境界一枚を隔てゝ、水の中に
喘ぐ人魚と、水の外に
悶える人間とは、終日、黙々と差し向ひながら、一人は水の外に出られぬ運命を嘆き、一人は水の中に
這入られぬ不自由を
怨んで、さびしくあぢきなく時を送つて行くのでした。折々、貴公子は
遣る
瀬なげにガラスの壁の周囲を廻つて、せめては
彼の女に半身なりとも、
甕の外へ肌を
曝してくれるやうに頼みます。しかし人魚は、貴公子が近寄れば近寄るほど、ますます固く肩を
屈めて、さながら物に
怖ぢたやうに
水底へひれ伏してしまひます。夜になると、彼の女の眼から落つる涙は、成る程異人の云つたやうに真珠色の
光明を放つて、暗黒な室内に
蛍の如く
瑩々と輝きます。その青白いあかるい
雫が、点々とこぼれて水中を浮動する時、さらでも
夭
な彼の女の肢体は、大空の星に包まれた
嫦娥のやうに
浄く気高く、夜陰の鬼火に照らされた幽霊のやうに
悽く
咒はしく、
惻々として貴公子の心に迫りました。
或る晩の事でした。貴公子はあまりの切なさ悲しさに、
熱燗の
紹興酒を
玉※[#「王+戔」、U+7416、60-11]に注いで、
腸を焼く強い液体の、満身に行き渡るのを楽しんで居ると、其の時まで水中に
海鼠の如く縮まつて居た人魚は、暖かい酒の薫りを恋ひ慕ふのか、
俄かにふわりと表面へ浮かび上つて、両腕を長く甕の外へ差し出すのです。貴公子が試みに、手に持つた酒を彼の女の口元へ寄せるや否や、彼の女は思はず我を忘れて
真紅の舌を吐きながら、海綿のやうな唇を杯の縁に吸ひ着かせたまゝ、
唯一と息に飲み
干してしまひました。さうして、たとえばあの、ビアヅレエの描いた、
“The Dancer's Reward”と云ふ画題の中にあるサロメのやうな、
悽惨な苦笑ひを見せて、
頻りに
喉を鳴らしつゝ次ぎの一杯を促すのです。
「それ程お前が酒を好むなら、私はいくらでも飲ませてやる。
冷かな海の潮に
漬つて居るお前の血管に、激しい酔が燃え上つたら、定めしお前は一層美しくなるであらう。一層人間らしい親しみと愛らしさとを示してくれるだらう。お前を私に売つて行つた
和蘭人の話に
依ると、お前は人間の測り知られぬ神通力を
具へて居ると云ふではないか。お前には背徳の悪性があると云ふではないか。私はお前の神通力を見せて
貰ひたいのだ。お前の悪性に触れたいのだ。お前がほんたうに不思議な魔法を知つて居るなら、せめては今宵一と夜なりとも人間の姿に変つてくれ。お前が実際
放肆な情慾を持つて居るなら、どうぞ其のやうに泣いて居ないで、私の恋を聴き入れてくれ。」
貴公子が
斯う云ひながら、杯の代りに自分の唇を持つて行くと、
窈渺たる人魚の
眉目は鏡に息のかゝつたやうに
忽ち曇つて、
「貴公子よ、どうぞ私を
赦して下さい。私を
憐んで赦して下さい。」
と、突然
明瞭な人間の言語を発しました。
「………私は今、あなたが恵んで下すつた一杯の酒の力を借りて、
漸う人間の言葉を語る通力を
恢復しました。―――私の故郷は、
和蘭人の話したやうに、
欧羅巴の地中海にあるのです。あなたが此の後、西洋へ入らつしやることがあるとしたら、必ず南欧の
伊太利と云ふ、美しいうちにも殊に美しい、絵のやうな景色の国をお訪ねなさるでせう。その折
若し、船に乗つてメツシナの海峡を過ぎ、ナポリの港の沖合をお通りになる事があつたら、其の辺こそ我れ我れ人魚の一族が、古くから
棲息して居る処なのです。昔は
船人が其の近海を航すると、世にも
妙なる人魚の歌が
何処からともなく響いて来て、いつの間にやら彼等を底知れぬ水の深みへ誘ひ入れたと申します。―――私は
斯くもなつかしい自分の住み
家を持ちながら、ちやうど去年の四月の末、暖かい春の潮に乗せられて、ついうかうかと南洋の島国まで迷うて来たのです。さうして、とある浜辺の
椰子の葉蔭に
鰭を休めて居る際に、
口惜しくも人間の獲物となつて、
亜細亜の国々の市場と云ふ市場に、恥かしい肌を
曝しました。貴公子よ、どうぞ私を
憐んで、一刻も早く私の体を、広々とした自由な海へ放して下さい。たとへ私が
如何程の神通力を
具へて居ても、窮屈な
水甕の中に捕はれて居ては、どうする事も出来ないのです。私の命と、私の
美貌とは、次第々々に衰へて行くばかりなのです。あなたが是非共人魚の魔法を御覧になりたいと思ふなら、どうぞ私を恋ひしい故郷へ帰して下さい。」
「お前がそのやうに南欧の海を慕ふのは、きつとお前に恋人があるからだらう。地中海の波の底に、同じ人魚の形を持つた美しい男が、
夜昼お前を待ち
憧れて居るのだらう。さうでなければ、お前はそんなに私を
厭ふ筈がない。
情なくも私の恋を振り捨てゝ、故郷へ帰る道理がない。」
貴公子が
恨みの言葉を述べる間、人魚は殊勝げに
瞑目して
首をうなだれ、耳を傾けて居ましたが、やがてしなやかな両手を伸ばしつゝ、シツカリと貴公子の肩を捕へました。
「あゝ、あなたのやうな世に珍らしい
貴やかな
若人を、私がどうして忌み嫌ふ事が出来ませう。どうして私が、あなたを恋せずに居られるやうな、無情な心を持つて居るでせう。私があなたに焦れて居る証拠には、どうぞ私の胸の
動悸を聞いて下さい。」
人魚はひらりと尾を
飜して、水甕の縁へ背を
托したかと思ふ間もなく、上半身を弓の如く
仰向きに
反らせながら、滴々と
雫の落ちる長髪を床に引き擦り、樹に垂れ下る猿のやうに下から貴公子の
項を抱へました。すると不思議や、人魚の肌に触れて居る貴公子の
襟頸は、さながら氷をあてられたやうな寒さを覚えて、見る見るうちに
其処が
凍えて
痺れて行くのです。人魚の彼を抱き緊める力が、強くなれば強くなる程、
雪白の皮膚に含まれた
冷冰の気は、貴公子の骨に
沁み入り髄を
徹して、紹興酒の酔に熱した
総身を、
忽ち無感覚にさせてしまひます。其のつめたさに堪へかねて、あはや貴公子が凍死しようとする
一刹那、人魚は彼の
手頸を抑へて、其れを
徐ろに彼の女の心臓の上に置きました。
「私の体は魚のやうに
冷かでも、私の心臓は人間のやうに暖かなのです。此れが私の、あなたを恋ひして居る証拠です。」
彼の女が
斯う云つた時、ふと貴公子の
掌は、一塊の雪の中に、炎々と燃えて居る火のやうな熱を感じました。ちやうど人魚の左の胸を
撫でゝ居た彼の指先は、その
肋骨の下に
轟く心臓の活気を受けて、
危く働きを止めようとした体中の血管に、再び生き生きとした循環を起させました。
「私の心臓は
斯く迄熱く、私の情熱は斯く迄激しく
湧いて居ながら、私の皮膚は絶ゆる
隙間なく、忌まはしい寒気に
戦いて居ます。さうしてたま/\、
麗しい人間の姿を眺めても、人魚に生れた浅ましさには、
宿業の報いに
依つて、其の人を愛する事を
永劫に禁ぜられて居るのです。私がいか程あなたを慕ひ
憧れても、神に
咒はれて海中の魚族に
堕ちた身の上では、ただ
煩悩の炎に狂ひ、妄想の
奴隷となつて、
悶え苦しむばかりなのです。貴公子よ、どうぞ私を大洋の住み
家へ帰して、此の切なさと恥かしさから逃がして下さい。青いつめたい波の底に隠れてしまへば、私は自分の運命の、
哀さ
辛さを忘れる事が出来るでせう。此の願さへ聴き届けて下さるなら、私は最後の御恩報じに、あなたの前で神通力を現はして見せませう。」
「おゝ、どうぞお前の神通力を示してくれ。其の代りには、私はどんな願ひでも聴いて上げよう。」
と、うつかり貴公子が口をすべらせると、人魚はさもさも嬉しげに、両手を合はせて幾度か伏し拝みながら、
「貴公子よ、それでは私はもうお別れをいたします。私が今、魔法を使つて姿を変へてしまつたら、あなたは
嘸かし其れをお悔みなさるでせう。
若しもあなたが、もう一遍人魚を見たいと思ふなら、欧洲行きの汽船に乗つて、船が南洋の赤道直下を過ぎる時、月のよい晩に
甲板の上から、人知れず私を海へ放して下さい。私はきつと、波の間に再び人魚の姿を示して、あなたに御礼を申しませう。」
云ふかと思ふと、人魚の体は
海月のやうに淡くなつて、やがて氷の溶けるが如く消え失せた跡に、二三尺の、小さな
海蛇が、
水甕の中を浮きつ沈みつ、
緑青色の背を光らせ
游いで居ました。
人魚の教へに従つて、貴公子が
香港からイギリス行きの汽船に
搭じたのは、その年の春の初めでした。或る夜、船がシンガポールの港を発して、赤道直下を走つて居る時、甲板に
冴える月明を浴びながら、
人気のない
舷に歩み寄つた貴公子は、そつと
懐から小型なガラスの
壜を出して、中に封じてある海蛇を
摘み上げました。蛇は別れを惜しむが如く、二三度貴公子の
手頸に
絡み着きましたが、程なく彼の指先を離れると、油のやうな静かな海上を、
暫らくするすると滑つて行きます。さうして、月の光を砕いて居る
黄金の
瀲波を分けて、
細鱗を
閃めかせつゝうねつて居るうちに、いつしか水中へ影を没してしまひました。
それから物の五六分過ぎた時分でした。
渺茫とした遥かな沖合の、最も
眩く、最も鋭く反射して居る水の表面へ、銀の
飛沫をざんぶと立てゝ、飛びの魚の跳ねるやうに、身を
飜した
精悍な生き物がありました。天井の
玉兎の海に
堕ちたかと疑はれるまで、
皎々と輝く
妖
な姿態に驚かされて、貴公子が其の方を振り向いた瞬間に、人魚はもはや全身の半ば以上を
煙波に埋め、
双手を高く
翳しながら、「あゝ」と
※
[#「口+艾」、U+54CE、66-5]一声して、くるくると水中に渦を巻きつゝ沈んで行きました。
船は、貴公子の胸の奥に
一縷の
望を載せたまゝ、恋ひしいなつかしい
欧羅巴の方へ、人魚の故郷の地中海の方へ、次第次第に航路を進めて居るのでした。