岡村君は
其の頃の私の家は大きな酒問屋を営んで居て、家業は日に日に栄えて行くばかり、繁昌に繁昌を重ねて、いつも活気に充ち充ちて居る店先の様子は、子供心にもおぼろげながら一種の歓びと安心とを感じさせる程でした。学校へ行く時も家に居る時も私は木綿の着物を着せられた事が有ませんでした。その上私は学問が非常によく出来て、算術でも読書でも凡ての学課が私の頭には実に
全級の生徒のうちで、誰一人として私の持って居るいろ/\の長所に企及する者はありませんでした。唯纔に岡村君が、或る方面に於いて多少私に類似し、若しくは
岡村君の服装は、役者の子供のようにぞろ/\した私の着物と反対に、いつも活溌な洋服姿でした。半ずぼんに長い靴下を着けて、さも柔かそうな半靴を穿き、頭にはキッと海軍帽を被って居ます。その頃の洋服は今よりも遥に珍らしがられたものですから、彼の服装は私のよりも人目を惹き、余計羨望の的となりました。
その後十年ばかりの間、岡村君は全然私と同じ歩調で同じ学歴を履んで進みました。丁度中学の五年になった年の春、私は彼に「卒業してから何処の学校へ這入るのだ」と訊ねて見ました。「勿論君と
岡村君の数学に対する低能の程度はその時分からいよ/\顕著になり始めて、級中の席順なども首席の私よりは遥に下の方になりました。数学と云う数学は無論の事、物理とか、化学とか、凡べて数学の知識を要する種類の学課は、みんな岡村君の忌み嫌う所でした。もう一つ彼の嫌いなのは歴史でした。「歴史と云う者は一つの長い
「君、ふらんす語のモオパッサンはこんなに綺麗なものだよ。」
と云って、彼は或る時
語学は兎に角として、不思議なのは彼の機械体操が好きな事でした。ベースボール、テニス、ボート、柔道、………一と通りの運動には大概手を出しましたが、彼の最も得意とするのは機械体操だったのです。学校の
私は初め彼の体操狂いを内心大いに軽蔑して居ました。芸術より外に楽しみのある可き筈はないと、
「君はもう芸術家になれそうもないぜ。」
こう云って忠告してやりたいような反感も起りました。
或る秋の日の夕ぐれの事、学校が済んでから間もなく、私は例の通り文学談でも戦わす可く彼の邸を訪問すると、今しも彼は練習の最中と見えて其のまま私を体操場の方へ案内させました。
「やあ失敬、君もちっと運動したらどうだい。」
彼は
「いやなら其処で見て居給え。汗の出るまでやらないと僕は気持ちが悪いんだから。」
こう云って岡村君はそれから更に二十分ばかり、息も継がずにいろ/\の芸当を演じて見せるのです。
黙って眺めて居るうちに、私はだんだん惹き入れられて、しまいには彼の巧妙な技術と敏捷な動作とを羨むようになりました。「飛鳥の如し」と云う言葉は全く岡村君の早業を形容する為めに作られたものでしょう。………彼が地面からひらりと鉄棒へ跳び着きながら、忽ち
「どうもお待ち遠様! 此れでようよう好い気持になった。」
こう云って私の傍に彳んだ岡村君の、
其の晩彼は私を捕まえて、芸術と体育との関係を滔々と論じて聞かせました。苟くも欧洲芸術の淵源たる希臘的精神の真髄を会得したものは、体育の如何に大切であるかを感ぜずには居られない。凡ての文学と凡ての芸術とは、悉く人間の肉体美から始まるのだと彼は云いました。肉体を軽んずる国民は、遂に偉大なる芸術を生む事が出来ない。―――斯くの如き見地から、彼は自分の機械体操を名づけて、希臘的訓練と称しました。此の訓練を経ない間は、如何なる天才も到底真の芸術家たり得る資格がないとさえ極言しました。私は彼の説を一応尤もだと思い、自分の体育を軽蔑したのは僻見であると悟りましたが、さりとて全然彼の肉体万能説に左袒する訳には行きませんでした。寧ろ彼の言葉は聊か奇矯に過ぎるだろうと考えました。
「肉体よりも思想が第一だ。偉大なる思想がなければ、偉大なる芸術は生れないのだ。」
私はこんな事を云って、岡村君に反対した事を覚えて居ます。
そう云う塩梅でだん/\年を経るに随い、岡村君と私とは同じ芸術に志しながら、同じ途を歩む事が出来ないように傾いて来ました。けれども二人が同一の人間でない限り、そうなるのは勿論自然の成り行きかも知れませんが、悲しい事に変化は二人の思想ばかりでなく、やがて二人の境遇に迄も及んで来たのです。
私の家は既に二三年も前から兎角営業不振に陥り、多くもあらぬ動産不動産は追い/\人手に渡って、到底此の儘店を維持する事は困難になって居ました。然るに私が中学を卒業する半歳ばかり前に、突然父は死んで了ったのです。島田家の総領息子たる私は、一人の母と三人の弟妹とを抱えて、此先如何にして一家を支えて行こうかと案じ煩いました。父が遺して行った諸種の負債を整理して見ると、私等母子の手に剰された遺産と云うものは、僅二千円足らずの株券があるばかりでした。結局私は将来の希望を取換えて、工科をやるか、医科をやるか、せめて法科にでも入学するように親類から奨められましたが、私は頑として承知しませんでした。「どうしても文学をやり通したい。昔のような贅沢は出来ないまでも、一家の者に決して不自由はさせないから是非芸術家として身を立てたい。」こう云って、私はます/\その志を強固にしたのです。
私の一家が此のような窮境に陥った間に、岡村君の財産は貧乏揺ぎもしませんでした。彼の資産は普通一遍の打撃ぐらいで破壊されるにはあまりに大き過ぎたのです。法律が許して居る年齢に達したならば、彼は一日も早く伯父の監督を離れて、自分の全財産を自由に支配して見たいと云う事を、度び度び私に話しました。「自分は富豪の一人息子だ。尨大な資産と、強壮な肉体と、優美な容貌と、若い年齢との完全な所有者だ。」―――こう云う自覚が、既に十分彼の胸中に往来して居ました。いつの間にか彼は恐ろしく傲慢になり、お洒落になり、我が儘になりました。中学生の癖に髪を分けたり、金時計を持ったり、葉巻を吸ったり、甚だしきは金剛石の指輪を篏めたりして見せました。五年生の岡村と云えば、校内誰一人として知らぬ者のない憎まれっ子になって了い、生徒も憎めば先生も憎み、友達は愚か近づく人もないくらいで、唯私だけが親密にして居ました。けれども其の私ですら、時々腹の立つような言動を見せられる事があるのです。
「僕はたしかに仕合せな人間だ。いろいろの点で僕ほど幸福な境遇に居る者はあんまりないだろう。………たゞ不満足なのは、僕の家には金があるけれど爵位がない。此れで僕が華族の息子だったら、それこそほんとうに仕合せなんだがなあ。」
彼は或る時こんな不平を云って、嘆声を洩らした事がありました。私はそれまで、少くとも彼のお洒落や贅沢に対して、悪意の解釈を施しては居ませんでした。岡村君の贅沢は決して卑しい慾望に起因するのではなく、矢張り「美」と云う事を尚ぶ彼の芸術家気質から来るのだろうと判断して居ました。「富は必ずしも美を伴わない。しかし美は常に富の力を借りなければならない。」―――斯云う事を信じて居た私は岡村君の富に対して羨みこそすれ、何等の反感をも抱いては居ませんでした。彼が自分の富を誇るのは、即ち自分の美を誇る所以だと考えて居ました。けれども彼が世間的の爵位などを欲すると云うに至っては、全く予想外に感じたのです。此の言葉を聞いた時、私は岡村君と云う人物を見損なって居たような気がしました。「己は今日迄岡村を買い被って居た。己は欺かれて居たのだ。」と、私は心ひそかに呟きました。そうしてそれとなく彼を反省させるつもりで、
「金の有るのは勿論仕合せだが、どうかすると却って不仕合せな結果になるよ。富と云うものは知らず識らず人間の魂を堕落させて了うからね。」
と云いました。
「そんな心配はないよ。金持ちが堕落するのは、その財産を更に殖やそうとして実業に従事する時だけさ。金の有る奴は、働かないで遊んでさえ居れば常に仕合せなんだ。」
こう答えて、彼は格別気にも留めない様子でした。
中学を卒業した年の夏、私は首尾よく東京の第一高等学校へ入学する事が出来ました。然るに岡村君はあまり数学が出来ないので、入学試験にとうとう失敗して了いました。尤も、地方の高等学校なら這入れたのかも知れませんが、彼は東京の地を
「何も急ぐ事はないのだから、来年亦試験を受ける。今年一年は死んだ気になって少うし数学を勉強しよう。」
彼はこう云ってさ程落胆した気色もなく、その後当分毎日二三時間ずつ、幾何や代数を練習して居る様子でした。
「君なんぞは一層西洋へ留学に行ったらいゝじゃないか。」私がこんな忠告をすると、「そりゃ行きたい事は非常に行きたいんだが、どうしても伯父が許してくれない。伯父の生きて居る間はまあ駄目だろう。」
と云って居ました。
厳重な中学の校則に縛られて居てさえ、人並外れた贅沢をする岡村君の事ですから、学校生活から関係を絶った一年間の彼の風采や態度と云うものは、殆ど華美の極点に達して、素晴らしい変化を来しました。今迄和服と云うものをあまり好まなかった彼は、俄に派手な縞柄の羽織や着物を沢山に拵えて、それを代る代る着て歩くようになりました。
「一体現代の日本の男子の
「僕はいつ
こう彼は傲語して居ました。あのような服装をして其れが少しも突飛に思われないのは、全く岡村君の気品の然らしむる所で、到底他人の企及し難い事であると、私も密に感服しました。況んや岡村君の遊びに行く新橋や柳橋や赤坂辺の芸者達が、盛んに彼を崇拝したのも無理のない話です。
「君のような生活を送って居たら、もう再び学校なんぞへ這入るのは嫌になるだろう。」
私がこう云って尋ねると、彼は頻りに
「いやそんな事はない。僕は決して学問の値打ちを軽蔑する事は出来ない。君にはまだ僕の性質がほんとうに分って居ないのだろう。」
と答えました。それでも私は内々疑って居ましたが、いつの間に彼は数学を習って居たものか、明くる年の夏には見事優等の成績で一高へ入学して了いました。私はます/\感服しました。
少くとも学問の点に於て、私は岡村君に負けてはならないと云う気が始終あったのです。其上自分は貧窮な学生であると云う事が刺戟になって、私は激しい神経衰弱に陥る程無我夢中の勉強を続けました。私の頬は痩せ、血色は青褪め、見るから哀れな、うら淋しい姿になりました。私は、偉大なる芸術家になるには、先ずどうしても十分に哲学を研究しなければ駄目だと思い、覚束ない独逸語の力でニイチェやショオペンハウエルを一生懸命に読み耽りました。其結果、安本のレクラムの細かい活字にあてられて、私は忽ち度の強い近眼になって了いました。
「本を読む事は大切だ。しかしそれよりも完全な眼を持つ方が一層大切だ。」と云って、岡村君は決して活字の細かい書物を読もうとはしませんでした。彼は学校で独逸語の教師から教わって居るラオコオンの十四章のページを開いて、私の前に突きつけながらこんな事を云いました。
「眼の事で思い出したが、レッシングと云う男は何だか虫の好かない人間だね。君、こゝに斯う云う文章があるだろう。――― Aber msste, solange ich das leibliche Auge htte, die Sphre desselben auch die Sphre meines innern Auges sein, so wrde ich, um von dieser Einschrnkung frei zu werden, einen grossen Wert auf den Verlust des ersten legen. ―――此れはレッシングがミルトンの失明を讃美した言葉らしいが、若しも人間がなまじ肉眼を持って居て、却て其の為めに心眼の活動の範囲を制限されるくらいなら、寧ろ肉眼なんぞない方がいゝと云うんだ。何とおかしな理屈じゃないか。僕に云わせれば、肉眼のない心眼なんか、芸術の上から何の役にも立ちはしない。完全な官能を持って居る事が、芸術家たる第一の要素だと思うね。だからレッシングと云う男は根本に於いて芸術の解釈を誤って居る。」
「それじゃ君はミルトンをえらいとは思わないんだね。」
「思わないさ。尤もホーマーは特別だが、果して彼が盲目であったかどうかは疑問の余地があるようだ。」
岡村君のレッシングを攻撃する事は非常なもので、ラオコオンの彼方此方のページを開いては、完膚なき迄に罵倒するのです。
「………夫から此処にこんな事が書いてあるだろう。――― Achilles ergrimmt, und ohne ein Wort zu versetzen, schlgt er ihn so unsanft zwischen Back' und Ohr, dass ihm Zhne, und Blut und Seele mit eins aus dem Halse strzen. Zu grausam! Der jachzornige mrderische Achilles wird mir verhasster, als der tckische knurrende Thersites ; …………………………………………………………… denn ich empfinde es, dass Thersites auch mein Anverwandter ist, ein Mensch. ―――此はテルシテスがアキレスの為に殺される光景を評したのだが、耳と頬の間を粉微塵に打ち砕かれ、傷口から歯が飛び出したり血が流れたりする有様があまり残酷で、今迄テルシテスに対して抱いて居た滑稽の感じが消滅して了う。寧ろ斯かる残虐の殺人を敢てしたアキレスの方が憎らしくなる。いかに容貌醜悪なテルシテスと雖も、我々と同じ人間である以上、憐愍の情を起さずには居られないと云う議論なんだ。けれども僕の考えでは、滑稽な人物は何処迄も滑稽で、奇怪な死に様をすればする程猶更面白い気がするじゃないか。生きて居てさえ可笑しなテルシテスの顔が滅茶々々に叩き潰されて血だらけになって蠢いて居る所を想像すると、実際滑稽に思われるじゃないか。文学を批評しながら道徳的の感情に支配されて、アキレスが憎らしいなどゝ云うのは馬鹿な話だ。」
「君の説く所はどうも少し病的のようだ。仮りにそのような残酷な描写が詩でなくって絵に画かれたと想像して見給え。君はそんな絵を見てもやっぱり滑稽を感じるのかね。」
私が斯う反問すると、彼はいよ/\得意になって、議論の歩を進めます。
「滑稽を感じないまでも、或る一種の快感に打たれる事はたしかだね。寧ろ絵にした方が面白いくらいだね。一体芸術的の快感を悲哀だの滑稽だの歓喜だのと云うように区分するのが間違って居る。世の中に純粋の悲哀だの、滑稽だの、乃至歓喜だのと云うものが存在する筈はないのだから。」
「僕も其の点には賛成するが、君は詩の領分と絵の領分との間に、レッシングの説明したような境界のある事を認めて居ないのかね。」
「全然認めて居ない。ラオコオンの趣旨には徹頭徹尾反対だ。」
「そいつは少し乱暴過ぎる。」
「まあ聞き給え。―――僕は眼で以て、一目に見渡す事の出来る美しさでなければ、即ち空間的に存在する色彩若くは形態の美でなければ、絵に画いたり文章に作ったりする値打ちはないと信じて居るんだ。そのうちでも最も美しいのは人間の肉体だ。思想と云うものはいかに立派でも見て感ずるものではない。だから思想に美と云うものが存在する筈はないのだ。」
「そうすると芸術家になるには、哲学を研究する必要はない訳だね。」
「無論の話さ。―――美は考えるものではない。一見して直に感ずる事の出来る、極めて簡単な手続きのものだ。而も其手続が簡単であればある程、美の
「そのくらいなら、君は音楽家になったらいゝじゃないか。」
「ところが不幸にして、僕の耳は僕の眼のように発達して居ないから、音響に依る美感と云うものをそれ程強く感受する事が出来ない。音楽は美感を人に起させる形式に於いて優れて居るけれど、美感そのものゝ内容に至っては何だか稀薄なように思われる。だから僕の最も理想的な芸術と云えば、眼で見た美しさを成る可く音楽的な方法で描写する事にあるんだ。」
「そんなむずかしい事が出来るつもりなのかい。」
「出来ないまでも努力して見ようと思うのさ。―――そこで又レッシングの攻撃に戻るが、ラオコオンの眼目とも云うべきものは、要するに詩の範囲と絵の範囲とを制限した以下の二つの文章に帰着して居る。曰く『絵画は事物の
「………非常におかしな理屈だと思うね。絵画や彫刻の美は何処迄も其処に表現された色彩若しくは形態のみの効果に依って、観る人の頭へ短的に直覚さるべきものだと思うね。だからロダンの『サッフォの死』が美しいとすれば、其の彫刻に現れた二個の人間の肉体が美しいのだ。サッフォの歴史とはまるきり縁故のない事なのだ。」
「けれども歴史を知って居れば、余計興味を感ずる訳じゃないか。」
「しかし其れは歴史的の興味で芸術的の興味とは云われないだろう。そんな興味は芸術の要求す可きものではないのだから、感じても感じないでも差支はない。故に若し、画家に取て撰択すべき瞬間があるとすれば、其れは唯或る肉体が最上最強の美の極点に到達した刹那の姿態を捉える事なのだ。然るにレッシングは又画家の捉うべき『含蓄ある瞬間』と云うものを、非常に窮屈に制限して居る。――― Wenn Laokoon also seufzet, so kann ihn die Einbildungskraft schreien hren ; wenn er aber schreiet, so kann sie von dieser Vorstellung weder eine Stufe hher, noch eine Stufe tiefer steigen, ohne ihn in einem leidlichern, folglich uninteressantern Zustande zu erblicken. Sie hrt ihn zuerst chzen, oder sie sieht ihn schon tot. ―――希臘のラオコオンの彫刻を見ると彼は蛇に絡み着かれて唯纔に嘆息して居るばかりである。其の表情は悲しげであるが静かである。決して顔を歪めたり苦悶の叫びを発したりしては居ない。けれども其の彫刻に接すれば、十分に彼の絶望的な苦痛を想像する事が出来る。之に反して若しラオコオンが激しい叫喚の声を放って、極端な苦悶の表情を示して居たなら、彼の彫刻は全然余韻を失って了う。見る人の想像力は彫刻の外へ一歩も踏み出す事が出来ない。唯ラオコオンの呻吟するのを聞き、既に死なんとするのを見せられるばかりである。斯くの如く、凡て強烈な刺戟を避けて、想像の余地のあるような刹那を現したものが、レッシングの所謂『含蓄ある瞬間』なのだ。此の理屈で行くと、人間の死んで了ったところなどは絵にも彫刻にもめったに作れない事になるね。
「すると芸術を翫賞するのには、想像力なんか不必要になるじゃないか。」
「そうだとも、―――一体僕は想像と云うような歯痒い事は大嫌いだ。何でもハッキリと自分の前に実現されて、眼で見たり、手で触ったり、耳で聞いたりする事の出来る美しさでなければ承知が出来ない。想像の余地のない、アーク燈の光で射られるような激しい美感を味わなければ気が済まない。」
「そう云う議論は、造形美術にはあて嵌まるかも知れないけれど、詩だの小説だのには応用出来ない話じゃないか。」
「応用するのは非常にむずかしいかも知れないが、しかしまるきり出来ない事はないだろうと思う。元来僕がもう少し手先の器用な人間であったら、文学なんかやらないで絵かきか彫刻家になるところだった。けれども僕には文章を作る
岡村君の議論は最後に至って少しく苦しまぎれの気味がありました。「そんな理屈を云ったって何が実地に通用するものか。書けるものならば書いて見ろ。」こう思って、私は腹の中で嘲笑しました。
二年間ばかり、私は一生懸命読書に耽りましたが、丁度高等学校の三年生になった年からそろ/\詩だの小説だのに筆を染め出して、諸種の文学雑誌へ寄稿するようになりました。私の名前は
「己はとう/\岡村に勝ってやった。」
と、私は感ぜざるを得ませんでした。
岡村君が芸術に対して自己の執る可き態度を決定する事が出来ず非常に迷って居る有様は余処目にもよく判りました。話をすれば口先ばかりえらい事を云いながら、彼は何一つ其れを実行して見せた例がありません。そうかと云って………彼の嫌な哲学は勿論の事、文学に関する真面目な書物などを研究して居る様子もないのです。たゞ折々読んで居るのは仏蘭西物の詩だの小説だの、それでなければ美術に関する書籍ぐらいで就中絵画と彫刻の事だけは西洋は勿論印度支那日本の方面迄も一と通り
「君は古来の画家のうちで誰が一番好きなんだ。」
嘗て私がこう云った時、
「日本では豊国、西洋ではロオトレク。」と答えました。
ロオトレクが好きだけあって、彼はチャリネが大好きでした。
「日本人の曲芸は体格が貧弱だから面白くないが、西洋人のチャリネは芝居よりももっと芸術的だ。僕はチャリネのような感じのする芸術を作りたい。」と、始終彼は云って居ました。
日を経るに随って、岡村君の言動はます/\奇矯になり、どうかすると真面目なのか冗談なのか分らないような事を云いました。
「最も卑しき芸術品は小説なり。次ぎは詩歌なり。絵画は詩よりも貴く、彫刻は絵画よりも貴く、演劇は彫刻よりも貴し。然して最も貴き芸術品は実に人間の肉体自身也。芸術は先ず自己の肉体を美にする事より始まる。」
こんな文句をノートブックの端に書き記して見せたこともあります。岡村君が自分の意見を言葉通りに実行して居るのは、唯此の「自己の肉体を美にする」事ばかりで、いまだに機械体操と薄化粧の癖は止めませんでした。
「チャリネは生ける人間の肉体を以て合奏する音楽なり。故に至上最高の芸術也。」
こんな文句も書いてありました。
「建築も衣裳も美術の一種なるに、
こんなのもありました。私は、「君が斯かる疑問を起すのは
「人間の肉体に於て、男性美は女性美に劣る。所謂男性美なるものゝ多くは女性美を模倣したるもの也。希臘の彫刻に現れたる中性の美と云うもの、実は女性美を有する男性なるのみ。」
「芸術は性慾の発現也。芸術的快感とは生理的若しくは官能的快感の一種也。故に芸術は
「希臘人は肉体美の一要素として、体格の大なることを数えたり。優れたる芸術は皆多大なる質量を有す。」
其の外まだ彼の病的な芸術観を窺うに足る可き、いろ/\の警句が認めてありました。
朝日の登るが如く文壇に飛翔し始めた私の盛名に対し、岡村君はそれ程妬みも羨みもしないようでした。けれども彼は自分の芸術観の上から、私の試みて居る努力が全く無意味であると信じて、少しも喜んで居ないことは確でした。私は一面に彼を軽蔑しながら、一面に彼の存在を恐れて居ました。彼の顔を見ると、何だか自分の現在の仕事が甚だ不安定で、盲目的であるような気がするのです。「彼は生涯何事も為出来さずに終るかも知れない。しかしやっぱり彼は天才である。」私はそう云う風に考えさせられました。
私が間断なく働いて居る間に、岡村君は間断なく遊び続けました。「学問を尊重する。」と云った最初の宣言はいつの間にか棄却されて、彼の豪奢と放蕩とは日に日に募るばかり、学校なんかへめったに出席しませんでした。彼の容貌と体格と服装とは益々立派に艶麗になって、何だか傍へも寄り付けないような光彩を放って見えました。話をしようとしながら、私は思わず其の美に打たれて黙って了う事が度び度びでした。多くの女が彼の為めに涙を流し、命を捨てようとしました。そのうちには殆んど有らゆる階級の婦人を網羅して居るようでした。料理屋、待合は無論の事、彼は自分の家柄を利用して、諸方面の夜会園遊会などに迄出入しました。
「あゝ西洋へ行きたい。西洋へ行きたい。立派な体格を持った西洋人に生れなかったのは僕の第一の不幸だ。」
其の時分、彼の西洋崇拝熱は非常に旺盛になって、一としきり「日本の物は何でも嫌いだ。」などと云いました。何か込み入った事情があると見えて、彼の伯父さんはどうしても岡村君の洋行を許さなかったのです。
連日連夜の歓楽に浸りながら、彼の強壮な体格は少しも衰えませんでした。尤も彼は飲酒と喫煙とを好みませんでした。「酒や煙草を飲むと官能が痺れて了って、十分な快楽を味う事が出来ない。完全な健康を維持して居なければ、強い刺戟を感受する資格がない。酒は人間を酔わせる代りに、酔の醒めた後で非常に憂鬱な気分を起させる。僕は憂鬱が大嫌いだ。いつも晴れ晴れとした心持ちで居たい。」―――そのせいか彼は常に血色のいゝ顔を輝かして、いかにも爽快な、歓ばしそうな眼つきをして居ました。
そんな事をして居るうちに、岡村君は前後二度ばかり学年試験に落第しました。私が大学二年生になっても、彼はまだ高等学校にうろ/\しなければなりませんでした。彼の落第は試験に失敗した結果ではなく、全く平生から欠席ばかりして居る為めでした。時々彼は半月も一と月も姿を隠して、学校は愚か自分の邸にさえ居ない事があるくらいで、同級の生徒なども殆んど彼の存在を認めて居ませんでした。そうして、私が大学の三年になった年の秋から、彼はパッタリ顔を見せなくなりました。何んでも「退校したのだろう。」とか、「退校されたのだろう。」とか云う噂を聞きました。
断って置きますが、文壇に於ける私の評判は、早くも其の頃から段々下火になって、書く度毎に冷酷な批評家から有りと有らゆる罵詈讒謗を加えられて居たのです。おまけに私の学費だの一家の生活費だのに遣い減らした父の遺産は、既に空乏を訴えて居たので、私は嫌でも応でも原稿料を稼がねばならないハメに陥って居たのです。容易に涸渇する筈がないと信じて居た私の思想は、此処に至って忽ち行き詰まって了いました。自分は生涯斯くの如き苦痛を犯して、生活の為めに愚にも付かない「お話」を書き続けなければならないのか。そう考えると芸術家ぐらい非芸術的な、無意味な月日を送るものはないと云うような心細さに襲われました。
心細いにつけても想い出すのは岡村君の事でした。あまり久しく会わないので、或る日私はふと思い立って彼の邸を訪問して見ました。折よく在宅して居た彼は、応接間の椅子に腰を掛けた私の姿を眺めながら、
「暫く会わない間に君は大そう痩せたなあ。」
と云いました。私は其の部屋の鏡に映って居る二人の顔を見較べて孤影悄然たる自分の風采に耻入りました。すると彼は突然例の歓しげな眼を光らせて、
「君、僕は今度から伯父の監督を離れて、財産を自分の自由にする事が出来るようになったんだよ。此れからいよ/\僕独得の芸術を作り出すから見て居てくれ給え。」
「それではいつか話しをしたような詩を作るのかね。」
「詩でも絵画でも彫刻でもない。そんなまどろッこしいものよりももっと短的な、そうしてもっと大規模なものだ。僕は僕の周囲に絢爛なる芸術の天国を築き上げるのだ。全く新しい形式の芸術を創作するのだ。まあ黙って見て居給え。」
こう云って彼は笑って居ました。
岡村君は二十七歳の年の春から、かね/″\工案して居た彼独得の芸術の創作に取りかゝりました。彼は先ず自分の所有権に属する莫大なる全財産の額を調べ、其の悉くを一擲して創作の費用に充てようと云うのです。
東京を西に距ること数十里の、相州箱根山の頂上に近い、仙石原から乙女峠へ通う山路を少し左へ外れた
普請の出来上ったのはそれから二年の後でしたが、彼の所謂「創作」と云うのは唯此れだけではなかったのです。
「今迄の仕事は要するに僕の芸術を創作する準備に過ぎない。云わば芝居の道具立のようなものだ。此れからがいよ/\本当の仕事だ。」
と彼は云いました。
「成る程それはそうかも知れない。いくら多額な金を懸けて立派な普請をしたところで、他人の芸術を模倣したばかりでは君の創作にならないからね。」
私がこう云うと彼はいつもの傲慢な薄笑いを浮べながら、
「いずれすっかり出来上ったら早速君に通知をするから、批評は其の時にしてくれ給え。僕は此れから半年ばかり、当分誰にも会わないで創作をするから其れ迄待って居て貰いたい。」―――
そうして岡村君は再び姿を隠しました。彼は今日東京に居るかと思えば、明日箱根に帰り、或は関西に行き、北国に走り、遠くは朝鮮、支那、印度あたり迄出張して、恰も忙しい商人のように諸所方々を旅行して居るようでした。其の間に彼は果してどんな創作を試みつゝあるのか、私には一向分りませんでした。
「畢生の力を揮った僕の創作はとうとう出来上った。僕は自分で自分の作った芸術の美に打たれて恍惚として居る。此れこそ僕が多年頭に描いて居た理想の芸術だと信じて居る。正直を云えば、僕は僕の作った芸術をあんまり人に見せたくない。唯独で楽みたい。けれども君はよく僕の考えを理解してくれるし、嘗て約束した事もあるのだから、秘密を守ると云う条件で是非共見に来て貰いたい。君の都合さえ好かったら一週間でも十日でも箱根に滞在してくれ給え。」
普請の出来た明くる年の春、漸く此の通知を受け取った私は、半信半疑で兎も角も彼を尋ねて見ようと思い立ちました。
其れは四月の中旬の、霞の濃い空が紺青に晴れ渡った麗かな或る日の事でした。私は朝早く東京を出て、其の日の午後二時ごろには湯本から四里の山路を登り詰め、彼の邸の楼門を遥に望む事の出来る高原の一端に着きました。私は以前にも度々箱根へ遊びに来たので、此辺の地勢にも比較的明かるい積りでしたが、宏壮な彼の邸が蟠踞してから山容水態が悉く一変して了った事を感じました。私は何となく浦島太郎やリップ、バン、ウィンクルの昔を想い出さずには居られませんでした。
門を這入ると、岡村君はもう其処に来て待って居ました。彼は羅馬時代のゆるやかな白い
「僕は君の来るのを遠くから眺めて居た。彼処の柱に倚りかゝって―――。」
彼はこう云って、隔たった山の一角の、白堊の洋館の
幽玄な構内の地域は昼も猶森閑として、岡村君と私と奇怪なる彫刻の外には何の人影も見えませんでした。暫くして彼が手に持って居た呼子を鳴らすと、何処ともなく微妙な鈴の響が聞えて一匹の駝鳥が花束を飾った妍麗な小車を曳いて走って来ました。岡村君は私を其れに乗り移らせて、自分も車の上から鞭を執りながら更に坦道の奥深く進んで行くのです。
甘い、鋭い、芳しい、いろ/\の花の薫りが頻りに私の嗅覚を襲いました。車輪の廻転するまゝに揺られ揺られる
断崖の角をぐるりと廻ると、其処はひろびろとした江湾の中心で、沿岸に起伏する山野楼閣が一望のうちに眺められました。入江に続く蘆の湖は漫々として遠く暮靄の羅衣に隠れ、四顧すれば、駒ヶ岳、冠ヶ岳、明神ヶ岳の山々は此の荘厳な天国の外廓を屏風の如く取り包んで居ます。忽ち私は舟の舳から一間程離れた岸辺の芝生に高さ一丈もあろうと云う馬身人面のケンタウルが、背中に女神を乗せながら空を睨んで立って居る青銅の像を認めました。舟は丁度その怪獣の足元で纜を結んだのです。
芝生の広さは凡そ三百坪もありましょうか、一方は水に限られ、一方は若草山の形に類する円々とした丘に劃られ、他の両方はこんもりとした
「彫刻もこんなに沢山集めて見ると、一種物凄い感じがするね。」
私は岡村君を顧みて云いました。すると彼は、いかにも我が意を得たと云うように打ち頷いて、
「君にもそう云う気がするだろう。………此彫刻はみんな古来の有名な作品を摸造したのだが、こんな具合に集めて見ると全然別趣の効果を現すだろう。排列の方法には随分苦心をした積りだが、斯う云う風に雨曝しの場所へ一緒に並べて置かなければ、彫刻が齎す肉体美の荘厳な力は感じられないのさ。ねえ君、こうやって見て居ると何だか人形のようには思われないだろう。いきなり飛び付いて肩を揺す振ってやりたくなるだろう。此の人々が裸で夕日に照されて、悉く沈黙を守って居るのが寧ろ不思議なくらいだろう。………全体のグループを見渡した時の印象さえ深ければ、別段一つ一つを詳しく吟味する必要はないのだけれど、それでもまあ模倣の手際を見てくれ給え。」
二人の彳んで居る二三尺前には、殆ど私と鼻を突き合わしてミケランジェロの「縛られた奴隷」の姿がさながら憐みを乞うが如くに悶えて居ました。
「此れはルウヴルにある希臘時代の『ピオムビノウのアポロ』だ。此れはナポリにある『ポムペイのアポロ』だ。ポリクレトの『ドリフォロス』だ。」
岡村君は歩きながら一々熱心に説明します。最も薄気味悪く感ぜられたのは、六角堂の屋根や廊下や石段に暴れ狂って居る一団の人影で、而もその排列が甚だ不規則に死体を投げ捨てた如く置かれて居るのです。それ等の多くはロダンの作品の中でも、一番刺戟的な姿勢や表情を持って居るもので、先ず甍の上には「鼻の欠けた人」や、「女の頭」や、「泣き顔」や、「苦痛」や、五つ六つの青銅の人の顔が、生首のようにごろごろと転がって居ました。「ウゴリノ伯」が餓に迫って我が子を喰い殺そうとして居る悽惨な形は、檻に入れられた虎の如く階段の上り口に這って居ます。「ヴィクトル、ユウゴオ」が欄干に肘を衝いて片手を伸ばして居るかと思えばその後に「サティイルとニムフ」が戯れ、「絶望」の男が足を抱えて倒れて居る傍には、「春」の男女が抱擁して接吻を交わして居ます。
けれども前に断って置いた通り、此れ等が決して岡村君の真の創作ではないのです。私はダンテがウェルギリュウスに案内されるように第一の関門たる芝生を過ぎてから、真に讃嘆すべきさま/″\の建築や壁画の模造を見せられました。或は又若冲の花鳥図にあるような爛漫たる百花の林を潜って孔雀や鸚鵡の逍遥して居る楽園のあたりにも導かれました。然し、此れ等の結構がいかに嵬麗の極みであったかは、概ね読者の想像に委せて詳細な記述を試みる事を避けようかと思います。
私達は夕日が山に傾きかけた頃、深い深い森の中を辿ってとある古潭の滸に出ました。鬱蒼たる老樹の幹には
「あの音のするところへ行って見給え。」
岡村君にこう云われて、私は水音を便りに
「あれはアングルの『泉』の画面を模したものだ。」
岡村君のそう云う声の終らぬうち、美女は忽ち愛嬌のある大きな瞳をしばたゝいて、唇の際に微かな笑みを浮べました。私の体は俄かに氷の如く冷めたくなりました。美女は
森が開けて遠くに殿堂の廻廊を望む丘陵に出た時、私はまた其処の草の上に、衣を拡げて眠って居る二つの生ける画面を見ました。一つはギオルギオーネのヴィナス、一つはルカス、クラナハのニムフでした。
「あれは以前の彫刻と違って単純な模倣とは云えないだろう。画家が小説の中から材料を借りて来るように、僕は唯画家の考えた構図を借りただけなんだ。あれが僕の創作の一つだ。」
と、岡村君は始めて云いました。
私達が、「沐浴」に関する古来の有名な彫像に囲繞された浴室の入口へ着いたのは、もう日が暮れてから余程過ぎた時分でした。広大な堂宇の内部には既に電燈が煌々と灯されて居るらしく、其光線が円い硝子張の天井を徹して夜の空にあか/\と反射して居ました。門の扉に耳を付けると、中では幾十人の人々が海豚の如く泳いで居ると見え、盛んに湯水のぴしゃぴしゃと跳ね上る音が聞えるのです。
扉を開けて這入って行った私は、暫く燦爛たる光と色と湯気との為めに瞳を射られて茫然として立ちすくみました。湯槽は大理石の床を地下へ三四尺切り下げたもので、槽と云うよりも池と云った方が適当な程の広さでした。池を取り巻く四方の壁は羅馬時代の壁画や
その外にまだ、牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛えた小さな湯槽が三つ四つあって、其処にも人魚が遊んで居ます。最後に私達は、人間の肉体を以て一杯に埋まって居る「地獄の池」の前に出ました。
「さあ、此上を渡って行くんだ。構わないから僕の後へ附いて来たまえ。」
こう云って、岡村君は私の手を引いて一団の肉塊の上を蹈んで行きました。
私はもう、此れ以上の事を書き続ける勇気がありません。兎に角あの浴室の光景などは、其夜東方の丘の上の春の宮殿で催された宴楽の余興に較べたなら、殆ど記憶にも残らない程小規模のものであった事を
岡村君の所謂「芸術」が如何なるものであったかは、此れで大概了解されるだろうと思います。終りに臨んで、私は岡村君の最期の光景―――それから十日ばかり後、歓楽の絶頂に達した瞬間に彼が突然死んで了った事柄を、極めて簡単に記して置きましょう。
尤も彼は異常な健康を有するに拘わらず、自分の死期が近づいて居る事を既に予想して居たようにも思われました。「僕はもうあるだけの財産を遣い切って了った。今のような贅沢は、此れから半年も続ける事が出来ない。」こう云って、彼は多少自棄気味で酒も飲めば煙草も燻らすようになって居ました。
私が滞留して居た十日の間、彼は毎夜々々服装を取り換え、いろ/\の不思議な風俗で私に接しました。彼は此の頃の露西亜の舞踊劇に用いられるレオン、バクストの衣裳を好んで、或は薔薇の精に扮し、或は
徹夜の宴に疲れ抜いて、殿堂の廊下や柱や長椅子にしどけなく酔い倒れたまゝ、明くる日の明け方まで何も知らずに睡り通した一同の者は、やがて眼を醒ますと部屋の中央の卓子の上に、金色の儘氷の如く冷めたくなって居る岡村君の死骸を発見したのです。彼の邸に雇ってあった医師の説明に依ると金箔の為めに体中の毛孔を塞がれて死んだのであろうと云う事でした。
菩薩も羅漢も悪鬼も羅刹も、皆金色の死体の下に跪いて涙を流しました。其の光景は其のまゝ一幅の大涅槃像を形作って、彼は死んでも猶肉体を捧げて自己の芸術の為めに努力するかと訝しまれました。私は此のくらい美しい人間の死体を見た事がありませんでした。此のくらい明るい、此のくらい荘厳な、「悲哀」の陰影の少しも交らない人間の死を見た事がありませんでした。
岡村君はたしかに幸福な人間でした。
紀文や奈良茂のように無意味な豪遊を試みてさえ、後世に大尽の名を歌われるのですから、彼の名前は尚更不朽に伝わらねばなりません。しかし世間の人々は、彼のような生涯を送った人を、果して芸術家として評価してくれるでしょうか?
(大正三年十月作)