戯曲体小説 真夏の夜の恋

谷崎潤一郎




人物
山内滋やまのうちしげる   山内博士の子息
松本文造  薬局の書生
まゆずみ夢子   歌劇女優
黛薫    夢子の妹 歌劇女優
滋の父   医学博士 浅草厩橋 山内病院の院長
滋の母
其の他浅草公園の俳優不良少年少女等数人及び病院の看護婦召使等
時      現代
所      浅草公園を中心とする区域

その一 薬局室


七月下旬の或る日の夕方、書生の松本文造と山内滋とが薬局の窓の所でこそ/\と話し合つて居る。二人とも十八九歳の少年で文造の方が一つぐらゐ年長に見える。滋は色白の髪の毛の濃い可愛らしい顔立ちであるが、服装や態度に不良少年らしい様子があり、話の間にも時々袂から敷島を出して吸つて居る。文造は何処かへ出かけようとする所らしく、袴を穿いて麦藁帽子と風呂敷包みとを傍のデスクの上に置いて居る。色の黒い、肩のいかつた、しかし正直らしい顔つきをした少年。

(文造)坊つちやん、話ツてどんな事ですか。今直ぐでなけりやいけないんでせうか。
(滋)あゝ、今直ぐ話したいことがあるんだよ。少し大事な話なんだ。
(文造)いやだなあ、そんな真面目な顔をなすつて、何だか気になるぢやありませんか。
(滋)だつて全く真面目なんだもの。
(文造)さう云はれると僕の方でも是非聞きたくなりますけれど、でももう五時過ぎですからね、そろ/\夜学へ行かなけりやなりません。
(滋)夜学? 夜学なんぞ少しぐらゐおくれたつていゝだらう。
(文造 むつとしたやうに)いゝえ駄目です。どうしても六時までに行かなけりや駄目です。あなたは学校がお休みだからいゝでせうけれど、僕はさうは行きません。
(滋)おい、おい、そんなに怒らなくつてもいゝよ。お前は怒りツぽいから嫌さ。
(文造)怒りやしませんが、僕は此の頃夜学の時間がある為めに生きて居られるやうなものなんです。それをあなたは知つて居らつしやる癖に、夜学なんぞどうでもいゝツて仰つしやるから、あんまり残酷だと思つたんです。
(滋)どうでもいゝツて云やあしないよ。まだ六時には間があるから、少しぐらゐ後れたつていゝだらうと思つたんだよ。悪かつたら僕があやまるよ。
(文造)あやまつて下さらなくつてもよござんすよ。それにね、今日はいつもと違つて、どうしても後れてはならない訳があるんです。―――ですから一緒に表へ出て、歩きながら話をしませう。その方が却て都合がよくはありませんか。
(滋)あゝ、さうしてもいゝ。
(文造)それぢやちよいと五分ばかり待つて下さい。大急ぎで御飯をたべて来ますから。


その二 途上


二人は病院を出て、厩橋の電車通りを雷門の方へ、黄昏の凉しい風に吹かれながらぶらぶらと歩いて行く。

(文造)何ですか話と云ふのは? 早く仰しやつてくれませんか。僕は気になつて仕様がありませんから。
(滋)あゝ、………今話すよ。………
(文造)坊つちやん、あなたどうなすつたんです。顔色が真青ぢやありませんか。
(滋)真青かも知れない。僕は昂奮して居るんだ。体中がガタガタ顫へるやうな気がする。………文造、お前の顔も何だか真青になつて来たぜ。
(文造)えゝ、さうでせう、さうかも知れません………構ひませんから早く話を聞かして下さい。
(滋)文造、………僕はね、………僕はお前にあやまらなきやならないことがあるんだよ。僕はとうとう決心したんだ。
(文造)あゝ、きつと、………きつと僕はさうなんだらうと思ひました。
(滋)お前には済まないと思つたけれど、それでも僕はさうしなければならなくなつてしまつたんだ。ねえ、勘忍かにしておくれ。頼むから。………僕は苦しいんだ。
(文造)勘忍かんにんしてくれと仰しやつても、そりやあ困ります。あなたは僕が大恩を受けた内の先生のお子さんですから、勘忍するもしないもありませんけれど、あれ程堅く約束なすつたのに非道いぢやありませんか。あなたは僕を可哀さうだと思つて下さらないんですか。
(滋)だから詫つて居るんぢやないか。お前も可哀さうだらうが、僕は一層苦しいんだ。僕はもう、夢子と結婚しなければ一日も生きて居られないんだ。
(文造)僕だつて夢子の顔を見なければ一日も生きては居られません。あなたの方が一層苦しいなんて何を證拠にそんな事を仰しやるんです。僕の胸の中もあなたと同じやうに苦しうございます。
(滋)文造、お前は今、僕のフアザアはお前の大恩人だと云つたね。
(文造)えゝ、云ひました。十五の歳に苦学をする積りで田舎を飛び出して来て、路頭に迷つて居たところを救ひ上げて下すつたのは内の先生です。先生に助けて戴かなかつたら、僕は今頃乞食になつて居たかも知れません。
(滋)お前は僕のフアザアの恩を、一生忘れないと云つて居たね。
(文造)えゝ、僕はいつでもさう思つて居るんです。
(滋)そんならその恩人の子が頼むのだと思つて、僕の云ふ事を聞いてはくれないかね。僕の親父はお前に恩返しをして貰はうとは思つて居ないだらう。親父に恩返しをする積りで、たつた一遍僕の頼みを聞いておくれ。さうしてくれゝば、お前が僕の親父の恩を思ふよりも、僕はお前を十倍も二十倍も有難く思ふよ。
(文造)坊つちやん、あなたはあなた一人の力で恋を獲ようとなさらないで、お父様とうさんの恩を云ひ出すなんて、そりや卑怯ぢやありませんか。僕はあなたのお父様の御恩を受けては居ますけれど、其れは恋愛とは別問題です。此の問題は何処までもあなたと僕と二人きりの関係です。
(滋)さうか。成る程、………そんなら僕は卑怯な事を云ふのは止さう。さうしてお前を恋敵として男らしく競争しよう。お前と此の間約束した事は、今日限り僕の方から破つてしまつたのだから、其の積りで居ておくれ。
(文造)あなたが競争なさると仰つしやつても、僕はあなたと競争しようとは思ひません。僕はあなたの恋敵になるやうな資格ある人間ぢやありません。あなたは誰が見たつて立派な大家のお坊つちやんです。夢子にしたつてきつとあなたを愛するでせう。僕見たいな薄穢い田舎書生なんぞ、相手にしてはくれないでせう。僕は始めからあなたに負けるに極まつて居ます。………あゝ、(急激にばら/\と涙を落して)だから僕は此の間、あれほどあなたにお願ひしたんぢやありませんか。あの約束を反古にするなんて、あなたは僕を殺すやうなもんですよ。
(滋)僕はお前を殺しても夢子と結婚したいんだよ。
(文造)結婚するツて、お父様とうさんやお母様かあさんは其れをお許しになるでせうか。
(滋)夢子と結婚させてくれさへすれば、僕は必ず心をへて学校の方を一生懸命に勉強するよ。もう決して不良少年の仲間へなんかは這入らない積りだ。だから親父だつて僕の将来の為めを思つたら、きつと許してくれるに違ひない。許してくれなかつたら僕はます/\焼けを起して、此の後どんなに堕落するか知れないからね。
(文造)それぢやあなたは、もうお父様にお話しなすつたんですか。
(滋)親父にはまだ云はないけれど、マアザアにはちよいと話をして見たんだ。………さうしてね、お前に断つて置くが、僕は今夜マアザアを掴まへて是非許してくれるやうにもう一遍頼まうと思つて居るんだ。僕の事なら、マアザアが承知をすれば親父は何とも云はないんだから。
(文造)だつてあなた、外の事とは違ひますよ。あなたの結婚と云ふ大問題を、奥様のお考へ一つで極める訳には行かないでせう。それも相手が立派な身分の女なら兎に角、浅草の女優なんぞをあなたのお嫁に貰ふなんて、お父様がお許しになる筈はないと思ひます。
(滋)ふん、お前はさうなる事を祈つて居るんだね。
(文造)えゝ、そりやあさうです。僕はあなたの結婚が不成功に終る事を祈らずには居られません。お父様ばかりかお母様にしても、何ぼあなたに甘いからと云つて、お許しになる筈はありませんもの。
(滋)ところがマアザアはさうでもないらしいんだ。口ではむづかしい事を云つて居ながら、結局僕に我を折つて許してくれさうな様子なんだ。今夜最後の談判をすればきつと承知するに極まつて居る。なあに、承知しなければ僕は金を持つて内を飛び出してやるよ。さうすりやあしまひには親父だつておふくろだつて許さずには居られなくなるさ。僕は意地でも結婚して見せるんだ。
(文造 再び真青な顔になる)けれどね、坊つちやん、まあよく考へて下さい。夢子はあなたと結婚した方が、女優で居るよりも幸福でせうか?
(滋)僕はきつとあの女を幸福にしてやる。………
(文造)そりやあなたはさう思つて居らつしやるでせう。しかしよく考へて下さい。夢子があなたの物になれば、もう東洋館の舞台へは出なくなつてしまふんでせう。それでもあなたは恋の楽しみを味はふ事が出来るでせうけれど、同時に夢子の藝術は滅びてしまふんですぜ。あなたは其れを惜しいとはお思ひにならないでせうか。夢子の美しい器量さへ御自分の物になさる事が出来れば、夢子の藝術はどうなつてもいゝと思つて居らつしやるんでせうか。ほんたうに夢子の為めをお思ひになるなら、どうかおんなの藝術を育てるやうにしてやつて下さい。あの少女の持つて居る素晴らしい天才を傷つけないやうにしてやつて下さい。それが夢子のほんたうの幸福なのですよ。恋愛よりも藝術の為めに命を捧げるのが、夢子のほんたうの生きる道なんですよ。
(滋)それも僕にはよく分つて居る。分つて居るから僕は夢子と結婚しようと思ふんだよ。夢子を立派な藝術家にする為めにも、結婚しなければならないと思つて居るんだよ。………ねえ文造、お前こそよく考へて御覧。お前は夢子をいつまでも東洋館の舞台に立たせて置きたいと云ふけれど、夢子は浅草の女優なんぞにさせて置くのは勿体ないと思はないかい? あんな所へ出して置けば、どんな天才だつてえらくなれる筈はないんだぜ。夢子ぐらゐな器量があれば、しまひにはきつと堕落をしてしまふんだぜ。それだから僕は夢子の夫になつておんなの藝術を保護してやる。………僕は結婚したら、夢子を連れて亜米利加アメリカへ行かうと思つて居るんだ。
(文造 失望と悲痛との打ち交つた調子で)亜米利加へいらつしやるんですつて?
(滋)あゝ、親父に頼んで亜米利加へ行かして貰ふんだ。さうして僕は結婚と同時に新しい生活に這入るんだ。僕は彼方あっちの大学で文学を勉強する。夢子は音楽学校へ入れて本式に歌の稽古をさせる。さうして世界的のオペラ俳優に仕立てゝやるんだ。僕は十八だし夢子は十七だと云ふから、修養を積めば二人ともまだいくらだつてえらくなれるんだ。………ねえ、若しさうなつたら夢子にしてもどんなに幸福だか知れないだらう。お前には今日まで隠して居たけれど、僕は此の間さう云つて手紙を書いてやつたんだよ。―――「僕の妻にさへなつてくれゝば、いつでも亜米利加へ連れて行つて上げます。若しもあなたが自分の藝術を愛するなら、どうか僕の頼みを聞き届けて下さい。」ツて。
(文造)そりやあなたほんたうですか? ほんたうに手紙をおやりになつたんですか?
(滋)あゝ。
(文造)そんな手紙をお出しになるなら、僕に断つて下さる筈ぢやなかつたでせうか。
(滋)僕はお前が承知しなければ夢子と結婚しないと云ふ約束はしたけれど、結婚出来るか出来ないか分らなかつたもんだから今日まで黙つて居たんだよ。若しも夢子から断りの返辞でも来れば、僕はお前にこんな話を聞かせないでも済むだらうと思つて居たんだ。
(文造)さうするともう、聞かせないでは済まなくなつて来たんでせうか。
(滋)あゝさうなんだ。とうとう今日は済まなくなつてしまつたんだ。お前には気の毒だけれど………
(文造)夢子から返辞が来たんですね、あなたと結婚すると云つて来たんですね。
(滋)あゝ、まあさう云つて来たんだよ。僕はたつた今其の手紙を受け取つたばかりなんだ。此の通り此処に持つて居るんだ。僕の両親から公然と相談があれば、夢子は結婚しても好ささうな事を書いて来て居る。だからもう内の方さへうまく行けば、此の話は纏まるにきまつて居る。僕は今夜此の手紙を見せて是非ともマアザアを説き伏せてしまはうと思つて居る。
(文造)坊つちやん、あなたは卑怯です。あなたは情熱の力で夢子の心を動かさうとなさらないで、金で女を釣らうとなさるんです。
(滋)金で女を釣るんだつて?
(文造)さうですとも。さうに違ひないぢやありませんか。洋行させてやるから結婚しろなんて、そんな条件を持ち出して正直な女の児を誘惑するのは卑怯ぢやありませんか。
(滋)おい、お前は僕を誤解して居るよ。断つて置くが、僕は夢子の事だけは飽く迄真剣なんだからな。成る程僕は不良少年だかも知れない。今までに悪い事もしたらうし女を欺した事もあつたか知れない。だけど今度の事だけは真面目なんだ。真面目でなければお前とこんな話をする必要はないんだからな。
(文造)僕は何も、あなたが不真面目だとは云やしません。
(滋)だつてお前は今、僕が夢子を欺して居ると云つたぢやないか。
(文造)欺して居ると云つたんぢやないんです。誘惑すると云つたんです。洋行させてやるなんて云へば、あなたは誘惑する積りでなくつても、女の方では誘惑されるにきまつて居るぢやありませんか。それでなくてもあなたは山内先生の坊つちやんです。浅草中であなたのお父様の名前を知らない者はありやしません。あなたは財産家の一人息子だと云ふ事を鼻にかけて、………鼻にかけないまでも地位を利用して、それで女の心を動かさうとなさるんです。
(滋)それが卑怯だと云ふのかい?
(文造)えゝ。卑怯ぢやないと仰つしやるんですか。
(滋)僕は卑怯だとは思はないよ。僕はどうしても夢子と結婚しないぢや居られないんだから、その目的を達する為めには、自分の持つて居る有りつたけの物を利用して、夢子の心を動かしてやる。僕の内に金があるなら其の金を利用する。僕が美少年だとすれば自分の顔を利用する。それでもちつとも差支へはないぢやないか。お前はさっきから僕の事を卑怯だ卑怯だと云ふけれど、僕は此の通り何も彼も隠さずにお前に打ち明けて居るんだぜ。………僕はね、文造、若し卑怯な事をしてもいゝ積りなら、お前にこんな話をしないで黙つて約束を破つてしまふよ。若しも僕がいつもの不良少年で居るなら、こんな頓間とんまな事はしやあしないよ。僕は今度の事に就いて少しでも卑劣な真似をするのは、夢子に対して済まないと思つて居るくらゐなんだ。だからお前に対しても出来るだけ正直にして来たんだ。それともお前は、何か僕に欺された事があるとでも思つて居るのかい?
(文造)あなたは僕が承知しなければ、夢子と結婚しないと云ふ約束をなさいました。
(滋)あゝ、ほんたうだ。僕はあんな約束をしなければよかつた。僕はあの時は今程夢子を恋ひしては居なかつたんだ。さうしてお前が可哀さうだと思つたもんだから、ついあんな約束をしてしまつたんだ。だけど今になつちや、もうどうしてもお前に承知して貰はなけりやならない。
(文造)坊ちやん、僕は承知するのは嫌でございます。
(滋)僕はあの時約束はしたけれど、若し其れを破らなければならなくなつた場合には、お前に一応断ると云つて置いたからね。
(文造)それはあなたが勝手に仰つしやつたんです。僕はそんな事は認めませんよ。

二人は夢中で語り合ひながらいつしか仲店の雑沓の間に交つて行く。………





底本:「谷崎潤一郎全集 第七巻」中央公論新社
   2016(平成28)年11月10日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集第六巻」中央公論社
   1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「新小説 第二十四年第八号」春陽堂書店
   1919(大正8)年8月1日発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※「勘忍」に対するルビの「かんにん」と「かに」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「(戯曲体小説) 真夏の夜の恋」となっています。
入力:黒潮
校正:noriko saito
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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