二月堂の夕

谷崎潤一郎




奈良の二月堂のお堂の下で、大勢の見物人が垣を作つて一人の婆さんの踊りを踊るのを眺めてゐる。婆さんは五十四五ぐらゐで、メリンス友禪の色のさめた長襦袢一つに、紺のコール天の足袋はだしになり、手には花やかな舞扇を持つて舞つてゐる。婆さんのうしろには、かう云ふ古い上方のお寺でなければ見られない、優雅な物さびた土塀がある。その塀の壁に阿彌陀樣だか如來樣だか、何か知れない小さな御佛の繪像を懸け、チーン、チーンと、巡禮のやうに鈴を鳴らしつつ唄ふのにつれて、婆さんはしきりに踊るのである。「ちゝはゝの惠みも深き粉河こかは寺、………」文句は違ふが、唄の節廻しはあの御詠歌によく似てゐる。此の唄を、今も云ふやうに鈴を振りながら唄つてゐるのは、又別な二人の婆さんと、三十恰好の年増である。その中の一人の婆さんは、黒縮緬の紋附を羽織はおつた、でつぷり太つた元氣の好さゝうな人柄であるが、とき/″\見物の方へ扇をさし出して、「どうか皆さん、お志を投げてやつて下さいましよ」と云ふやうな意味を、私には眞似は出來ないけれど、此の地方特有の、柔和であつて何處かずるさうな心持のする言葉で云ふ。
私は最初、此のお婆さんたちを乞食ではないかと思つたのだが、さうでないことは彼女たちの服裝を見てすぐと分つた。「何々講」と講中の名を筆太に記した提灯を、竹竿の上へ高く吊るしてゐるところから察すると、此の近在の農家の隱居や上さんどもの集りでゞもあらうか。今夜はお堂のお水取りの日で、宵の七時に大松明おほたいまつがともされると云ふので、まだ日の暮れの五時であるのに參詣の人々が詰めかけて來る。此のお婆さんの連中も多分さう云ふ信心家の一團なのであらうが、そして御佛への供養のために、乞食のやうに大道へ出て御詠歌を唄ひ、舞ひを舞つてゐるのでもあらうが、その歌の方は兎も角も、講中の人がこんな風に舞ひを舞ふのを、私は嘗て關東などでは見たことがない。空也くうや念佛と云ふものがあるのは唯聞いてゐるばかりだけれど、此の講中の御詠歌の踊りはそれに似たものではないだらうか。無論しろうとの田舍の婆さんが踊るのだから、むづかしい手はないにしてからが、此れだけ巧者になるのには餘程此の道に凝り固まつてゐるに違ひない。チーン、チーンと、ゆるやかなを置いて、あのうら悲しい鈴が鳴る。その度毎に婆さんはお時儀をするやうに頷いて、兩手で舞扇を扱ひながら、疊二疊ほどの毛氈の上を靜かに往つたり來たりする。踊りの足どりは簡單で、踵と爪先とを平に上げて、芝居の馬のやうな歩き方を繰り返す。變化があるのは扇のさばき方だけで、或る時はそれを正面に翳し、或る時はそれをさら/\と袂に添うて波打たせるのが、非常に手に入つたものなのである。
婆さんは踊りながら、「何だい、そんな唄ひ方では踊れやしないよ」と、唄ひ手の方へ折々ぶつぶつ口小言を云ふ。面長な、痩せた、しやくれた婆さんの顏は、酒飮みらしく赤くたゞれて、そのどんよりと濁つた眼つきには踊りが餘り手に入り過ぎたせゐでもあらうが、太々ふて/″\しく落ち着いた、人を馬鹿にしたやうなところがある。顏が長いから鼻も從つて長いのだけれど、その鼻筋のまん中のあたりは、頬ツぺたの方へめり込んでゐるほど低く凹んで、たゞ鼻の孔のある部分が、そこだけ際立つて一層赤く、ぴたんこに潰れて飛びだしてゐる。厚い、大きな唇の、寧ろ鼻よりも前へ突き出て、酸漿ほゝづきんでゐるやうに結ばれてゐるのは、今しがた酒を飮んだばかりで、おくびの出るのを我慢してゞもゐるのであらう。一體、講中などに加はつてゐる婆さんに限つて、體の達者な、威勢のいゝ老人が多いものだが、此の婆さんもその例に洩れず、とん、とん、と踏む足拍子は、憎らしいほどシヤンとしてゐる。三月半ばの、奈良のやうな氣候の土地ではまだ梅さへも蕾が固く、現に私など眞冬の外套を着てゐると云ふ黄昏時に、いくら踊つてゐるにしてもあの長襦袢一枚で寒いことはないだらうか。
「こんなにわたしが丈夫なのも信心のお蔭でございますよ。」
と、婆さんに聞いたら云ふかも知れぬが、此の人たちの後生を願ふ心持は、花に浮かれて戯れるのと大した違ひはないやうに見える。花の下では陽氣な三下りの三味線で踊り、佛の前では陰氣な御詠歌の鈴の音で踊る。さればこそ花見の時と同じやうに、いゝ歳をしてきちがひじみたメリンス友禪の袖を飜してゐるのであらう。そして陰氣な鈴の音も此の婆さんの踊りに結びつけられると、悲しいよりは道化てゐて、派手な舞扇を持つてゐる節くれ立つた眞つ黒な指や、けば/\しい襦袢の襟からはみ出してゐる皺だらけの喉頸などが、幇間ほうかんの藝を思はせるやうなづうづうしい感じを與へる。が、上方の人ははたの思はくに頓着しないで、浮かれる時は老若男女が體裁を構はず浮かれ拔くのが常であるから、此のあたりではこんな姿もさほど珍しくはないのであらう。のみならず、かうして花にも佛にも浮かれて、齡を忘れ、憂ひを忘れつつ、來る歳々を氣樂に送つて行く婆さんは、定めし自分を幸福に感じてゐるでもあらう。
私は何でも三十分ほどその婆さんの踊りを眺めてから、お堂の石段を上りかけたが、ちやうど良辨杉らうべんすぎの下の、若狹井わかさゐの前に又一團の婆さんが踊つてゐるのを見つけ出した。今度の婆さんは一人ではなく、五六人が一列に並んで、揃ひの扇を翳しながら、地方ぢかたはなしに自分たちで歌を唄つては踊つてゐる。歌の調子も舞ひの手振りも前のと似通つてはゐるけれど、何處か違つたところのあるのは、講中に由つてそれ/″\の流儀があるのであらう。此の五六人の婆さんたちは、友禪の長襦袢姿でもなく、黒縮緬の紋附でもなく、夕方なので尚更縞目のよく分らない、地味な木綿の綿でふくれた布子を着て、皆同じやうに白足袋を穿いてゐる樣子が、見た目に哀れで、つゝましやかである。そしてこんなに似た婆さんが揃つたと云ふのも不思議であるが、どの婆さんもどの婆さんも、實に可愛らしい、せいの低い、背中の圓い人々で、小柄な顏は黄色味を帶びて青白く冴え、落ち窪んだ眼はすゞしく輝やいてゐるのである。それは誰にでも、遠い昔に亡くなつた自分の母や伯母の俤を思ひ出させる、品のいゝ懷しい婆さんたちである。さう云へば此の人々はさつきの婆さん連のやうに「お志」の催促をしない。見物人も至つて疎らで、飽く迄も眞面目に、取り殘されたやうに淋しく踊つてゐる。たつた一つ、さつきの婆さんの持ち物よりも派手なのは、赤地に金の模樣のあるその舞扇だけであつたが、身なりがみすぼらしいせゐか、それが一層きらびやかに、風流に感ぜられるのであつた。
間もなく私は、お堂の石段を上つて行つて、舞臺の手すりにもたれながら、下で踊つてゐるその可愛らしいお婆さんたちを長い間瞰おろしてゐた。だん/\夕闇の迫つて來る中に、お婆さんたちの子供のやうな小さな姿は次第にうすくぼやけて行つて、しまひにはたゞ舞扇の金の色だけがきらきらと光つた。私はふいと、中學生の時分に、「迦具土かぐつち」と云ふ服部躬治みはるの歌集の中で讀んだことのある一首の歌を想ひ起して、それを口のうちで繰り返した。―――
亡き父に似たる翁と語りけり
   長谷はせの御堂の春の夜の月





底本:「谷崎潤一郎全集 第十卷」中央公論社
   1982(昭和57)年2月25日初版発行
初出:「新小説 臨時増刊 天才泉鏡花」
   1925(大正14)年5月
入力:杉浦鳥見
校正:芝裕久
2021年1月27日作成
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