猫と庄造と二人のをんな

谷崎潤一郎




中扉の画
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猫・カーテン・窓の画
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福子さんどうぞゆるして下さいの手紙雪ちやんの名借りましたけどほんたうは雪ちやんではありません、さうふたら無論むろん貴女あなたは私が誰だかお分りになつたでせうね、いえ/\貴女はの手紙の封切つて開けたしゆん間「さてはあの女か」ともうちやんと気がおつきになるでせう、そしてきつと腹立てゝ、まあ失礼な、………友達の名前無断で使つて、私に手紙よこすとは何と云ふ厚かましい人と、お思ひになるでせう、でも福子さん察して下さいな、もしも私が封筒の裏へ自分の本名書いたらきつとあの人が見つけて、中途で横取りしてしまふことよう分つてるのですもの、是非共ぜひともあなたに読んでいただかう思ふたらかうするよりほかないのですもの、けれど安心して下さいませ、私決して貴女に恨み云ふたりごと聞かしたりするつもりではないのです。そりや、本気で云ふたら此の手紙の十倍も二十倍もの長い手紙書いたかて足りないくらいに思ひますけど、今更いまさらそんなこと云ふても何にもなりわしませんものねえ。オホヽヽヽヽヽ、私も苦労しましたおかげで大変強くなりましたのよ、さういつも/\泣いてばかりゐませんのよ、泣きたいことや口惜くやしいことたんと/\ありますけど、もう/\考へないことにして、できるだけほがらかに暮らす決心しましたの。ほんたうに、人間の運命云ふものいつ誰がどうなるか神様より外知る者はありませんのに、他人の幸福をうらやんだり憎んだりするなんて馬鹿げてますわねえ。
私がなんぼ無教育な女でも直接貴女に手紙上げたら失礼なことぐらゐ心得てますのよ、それかて此の事は塚本さんからたび/\云ふてもらひましたけど、あの人どうしても聞き入れてくれませんので、今は貴女にお願ひするより手段ないやうになりましたの。でもかう云ふたら何やたいそうむづかしいお願ひするやうに聞えますけど、決して/\そんな面倒なことではありません。私あなたの家庭から唯一ただひとつだけ頂きたいものがあるのです。と云ふたからとて、勿論もちろん貴女のあの人を返せと云ふのではありません。実はもつと/\下らないもの、つまらないもの、………リヽーちやんがほしいのです。塚本さんの話では、あの人はリヽーなんぞくれてやつてもよいのだけれど、福子さんが離すのいやゝ云ふてなさると云ふのです、ねえ福子さん、それ本当でせうか? たつた一つの私の望み、貴女が邪魔してらつしやるのでせうか。福子さんどうぞ考へて下さい私は自分の命よりも大切な人を、………いゝえ、そればかりか、あの人と作つてゐた楽しい家庭のすべてのものを、残らず貴女にお譲りしたのです。茶碗のかけ一つも持ち出した物はなく、輿入こしいれの時に持つて行つた自分の荷物さへ満足に返しては貰ひません。でも、悲しい思ひ出の種になるやうなものない方がよいかも知れませんけれど、せめてリヽーちやん譲つて下すつてもよくはありません? 私は外に何も無理なこと申しません、まれられ叩かれてもじつと辛抱しんぼうして来たのです。その大きな犠牲に対して、たつた一匹の猫を頂きたいと云ふたら厚かましいお願ひでせうか。貴女に取つてはほんにどうでもよいやうな小さいけものですけれど、私にしたらどんなに孤独慰められるか、………私、弱虫と思はれたくありませんが、リヽーちやんでもゐてゝくれなんだら淋しくて仕様がありませんの、………猫より外に私を相手にしてくれる人間世の中に一人もゐないのですもの。貴女は私をこんなにも打ち負かしておいて、此の上苦しめようとなさるのでせうか。今の私の淋しさや心細さに一点の同情も寄せて下さらないほど、無慈悲むじひなおかたなのでせうか。
いえ/\貴女はそんなお方ではありません、私よく分つてゐるのですが、リヽーちやんを離さないのは、あなたでなくて、あの人ですわ、きつと/\さうですわ。あの人はリヽーちやんが大好きなのです。あの人いつも「お前となら別れられても、此の猫とやつたらよう別れん」と云ふてたのです。そして御飯の時でも夜寝る時でも、リヽーちやんの方がずつと私より可愛がられてゐたのです。けど、そんなら何で正直に「自分が離しともないのだ」と云はんと、あなたのせゐにするのでせう? さあそのわけをよう考へて御覧なさりませ、………
あの人は嫌な私を追ひ出して、好きな貴女と一緒になりました。私と暮してた間こそリヽーちやんが必要でしたけど、今になつたらもうそんなもん邪魔になるはずではありませんか。それともあの人、今でもリヽーちやんがゐなかつたら不足を感じるのでせうか。そしたら貴女も私と同じに、猫以下と見られてるのでせうか。まあ御免なさい、つい心にもないこと云ふてしまうて。………よもやそんな阿呆らしいことあらうとは思ひませんけれど、でもあの人、自分の好きなこと隠して貴女のせゐにする云ふのは、やつぱりいくらか気がとがめてゐる証拠では、………オホヽヽヽヽヽ、もうそんなこと、どつちにしたかて私には関係ないのでしたわねえ、けどほんたうに御用心なさいませ、たかゞ猫ぐらゐと気を許していらしつたら、その猫にさへ見かへられてしまふのですわ。私決して悪いことは申しません、私のためより貴女のため思ふて上げるのです、あのリヽーちやんあの人のそばからはよう離してしまひなさい、あの人それを承知しないならいよ/\怪しいではありませんか。………

福子は此の手紙の一字一句を胸に置いて、庄造とリヽーのすることにそれとなく眼をつけてゐるのだが、小鰺こあじの二杯酢をさかなにしてチビリ/\傾けてゐる庄造は、くち飲んでは猪口ちょくを置くと、
「リヽー」
と云つて、鰺の一つをはしで高々とまみ上げる。リヽーは後脚で立ち上つて小判型のチヤブ台のふちに前脚をかけ、皿の上の肴をじつとにらまへてゐる恰好は、バアのお客がカウンターにりかゝつてゐるやうでもあり、ノートルダムの怪獣のやうでもあるのだが、いよ/\えさが摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧りこうさうな眼を、まるで人間がびつくりした時のやうにまんまるく開いて、下から見上げる。だが庄造はさう易々やすやすとは投げてやらない。
「そうれ!」
と、鼻の先まで持つて行つてから、逆に自分の口の中へ入れる。そしてさかなみてゐる酢をスツパスツパ吸ひ取つてやり、堅さうな骨はくだいてやつてから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろ/\にして見せびらかす。それにつられてリヽーは前脚をチヤブ台から離し、幽霊の手のやうに胸の両側へ上げて、よち/\歩き出しながら追ひかける。すると獲物をリヽーの頭の真上へ持つて行つて静止させるので、今度はそれに狙ひを定めて、一生懸命に跳び着かうとし、跳び着く拍子に素早く前脚で目的物をつかまうとするが、アハヤと云ふ所で失敗しては又跳び上る。かうしてやう/\一匹の鰺をせしめる迄に五分や十分はかゝるのである。
此の同じことを庄造は何度も繰り返してゐるのだつた。一匹やつては一杯飲んで、
「リヽー」
と呼びながら次の一匹を摘まみ上げる。皿の上には約二寸にすん程の長さの小鰺が十二三匹は載つてゐた筈だが、恐らく自分が満足に食べたのは三匹か四匹に過ぎまい、あとはスツパスツパ二杯酢の汁をしやぶるだけで、身はみんなくれてやつてしまふ。
リヽーと庄造の挿画
「あ、あ、あいた! 痛いやないか、こら!」
やがて庄造は頓興とんきょうな声を出した。リヽーがいきなり肩の上へ跳び上つて、爪を立てたからなのである。
「こら! 降り! 降りんかいな!」
残暑もそろ/\衰へかけた九月の半ば過ぎだつたけれど、太つた人にはお定まりの、暑がりやであせきの庄造は、此の間の出水で泥だらけになつた裏の縁鼻えんはなへチヤブ台を持ち出して、半袖のシヤツの上に毛糸の腹巻をし、麻の半股引はんももひき穿いた姿のまゝ胡坐あぐらをかいてゐるのだが、その円々と膨らんだ、丘のやうな肩の肉の上へ跳び着いたリヽーは、つる/\滑り落ちさうになるのを防ぐために、勢ひ爪を立てる。と、たつた一枚のちゞみのシヤツを透して、爪が肉にひ込むので、
「あ痛! 痛!」
と、悲鳴を挙げながら、
「えゝい、降りんかいな!」
と、肩を揺す振つたり一方へ傾けたりするけれども、さうするとなお落ちまいとして爪を立てるので、しまひにはシヤツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、
「無茶しよる。」
とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リヽーはそれをすつかり呑み込んでゐるらしく、ほっぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使ひながら、彼がさかなふくんだと見ると、自分の口を大胆に主人の口のはたへ持つて行く。そして庄造が口をもぐ/\させながら、舌で魚を押し出してやると、ヒヨイとそいつへみ着くのだが、一度に喰ひちぎつて来ることもあれば、ちぎつたついでに主人の口の周りを嬉しさうにめ廻すこともあり、主人と猫とが両端をくわへて引つ張り合つてゐることもある。その間庄造は「うツ」とか、「ペツ、ペツ」とか、「ま、待ちいな!」とかあいを入れて、顔をしかめたり唾液つばきを吐いたりするけれども、実はリヽーと同じ程度に嬉しさうに見える。
「おい、どうしたんや?―――」
だが、やつとのことで一と休みした彼は、何気なく女房の方へ杯をさし出すと、途端に心配さうな上眼使うわめづかひをした。どうした訳か今しがたまで機嫌の好かつた女房が、酌をしようともしないで、両手をふところに入れてしまつて、真正面からぐつと此方こちら視詰みつめてゐる。
「そのお酒、もうないのんか?」
出した杯を引つ込めて、オツカナビツクリ眼の中を覗き込んだが、相手はたじろぐ様子もなく、
「ちよつと話があるねん。」
と、さう云つたきり、口惜くやしさうに黙りこくつた。
「なんや? え、どんな話?―――」
「あんた、その猫品子さんに譲つたげなさい。」
「何でやねん?」
やぶから棒に、そんな乱暴な話があるものかと、つゞけざまに眼をパチクリさせたが、女房の方も負けず劣らず険悪な表情をしてゐるので、いよ/\分らなくなつてしまつた。
「何で又急に、………」
「何でゞも譲つたげなさい、明日塚本さん呼んで、よ渡してしまひなさい。」
「いつたい、それ、どう云ふこツちやねん?」
「あんた、いややのん?」
「ま、まあ待ち! 訳も云はんとさう云うたかて無理やないか。何ぞお前、気に触つたことあるのんか。」
リヽーに対する焼餅やきもち?―――と、一応思ひついてみたが、それもに落ちないと云ふのは、もと/\自分も猫が好きだつた筈なのである。まだ庄造が前の女房の品子と暮してゐた時分、品子がとき/″\猫のことで焼餅を焼く話を聞くと、福子は彼女の非常識を笑つて、嘲弄ちょうろうの種にしたものだつた。そのくらゐだから、勿論庄造の猫好きを承知の上で来たのであるし、それから此方、庄造ほど極端ではないにしても、自分も彼と一緒になつてリヽーを可愛がつてゐたのである。現にかうして、三度々々の食事には、夫婦さし向ひのチヤブ台の間へ必ずリヽーが割り込むのを、今迄かく云つたことは一度もなかつた。それどころか、いつでも今日のやうな風に、夕飯の時にはリヽーとゆつくり戯れながら晩酌を楽しむのであるが、亭主と猫とが演出するサーカスの曲藝にも似た珍風景を、福子とても面白さうに眺めてゐるばかりか、時には自分も餌を投げてやつたり跳び着かせたりするくらゐで、リヽーの介在することが、新婚の二人を一層仲好く結び着け、食卓の空気を明朗化する効能はあつても、邪魔になつてはゐない筈だつた。とすると一体、何が原因なのであらう。つい昨日まで、いや、ついさつき、晩酌を五六杯重ねるまでは何のこともなかつたのに、いつの間にか形勢が変つたのは、何かほんの些細ささいなことがしゃくに触つたのでもあらうか。それとも「品子に譲つてやれ」と云ふのを見ると、急に彼女が可哀さうにでもなつたのか知らん。
さう云へば、品子が此処ここを出て行く時に、交換条件の一つとしてリヽーを連れて行きたいと云ふ申し出でがあり、その後も塚本を仲に立てゝ、二三度その希望を伝へて来たことは事実である。だが庄造はそんな云ひ草は取り上げない方がよいと思つて、そのつど断つてゐるのであつた。塚本の口上こうじょうでは、連れ添ふ女房を追ひ出して余所よその女を引きずり込むやうな不実な男に、何の未練もないと云ひたいところだけれども、やつぱり今も庄造のことが忘れられない、恨んでやらう、憎んでやらうと努めながら、どうしてもそんな気になれない、ついては思ひ出の種になるやうな記念の品が欲しいのだが、それにはリヽーちやんを此方へ寄越して貰へまいか、一緒に暮してゐた時分には、あんまり可愛がられてゐるのがま/\しくて、蔭でいぢめたりしたけれども、今になつては、あの家の中にあつた物が皆なつかしく、分けてもリヽーちやんが一番なつかしい、せめて自分は、リヽーちやんを庄造の子供だと思つて精一杯可愛がつてやりたい、さうしたら辛い悲しい気持がいくらか慰められるであらう。―――
「なあ、石井君、猫一匹ぐらゐ何だんね、そない云はれたら可哀さうやおまへんか。」
と、さう云ふのだつたが、
「あの女の云ふこと、に受けたらアキまへんで。」
と、いつも庄造はさう答へるにまつてゐた。あの女は兎角とかく懸引かけひきが強くつて、底に底があるのだから、何を云ふやら眉唾物まゆつばものである。第一剛情ごうじょうで、負けず嫌ひの癖に、別れた男に未練があるの、リヽーが可愛くなつたのと、しをらしいことを云ふのが怪しい。彼奴あいつが何でリヽーを可愛がるものか。きつと自分が連れて行つて、思ふさまいぢめて、腹癒はらいせをする気なのだらう。さうでなかつたら、庄造の好きな物を一つでも取り上げて、意地悪をしようと云ふのだらう。―――いや、そんな子供じみた復讐心より、もつと/\深い企みがあるのかも知れぬが、頭の単純な庄造には相手の腹が見透せないだけに、変に薄気味が悪くもあれば、反感もつのるのだつた。それでなくてもあの女は、随分勝手な条件を沢山持ち出してゐるではないか。しかしもと/\此方に無理があるのだし、一日も早く出て貰ひたいと思つたればこそ、大概なことは聞いてやつたのに、その上リヽーまで連れて行かれてたまるものか。それで庄造は、いくら塚本が執拗しつッこく云つて来ても、彼一流の婉曲えんきょくな口実でやんはり逃げてゐるのであつたが、福子もそれに賛成なのは無論のことで、庄造以上に態度がハツキリしてゐたのである。
「訳を云ひな! 何のこツちや、僕さつぱり見当が付かん。」
さう云ふと庄造は、銚子を自分で引き寄せて、手酌で飲んだ。それから股をぴたツと叩いて、
蚊遣線香かやりせんこうあれへんのんか。」
と、ウロ/\その辺を見廻しながら、半分ひとりごとのやうに云つた。あたりが薄暗くなつたので、つい鼻の先の板塀の裾から、蚊がワン/\云つて縁側の方へ群がつて来る。少し食ひ過ぎたと云ふ恰好でチヤブ台の下にうづくまつてゐたリヽーは、自分のことが問題になり出した頃こそ/\と庭へ下りて、塀の下をくゞつて、何処かへ行つてしまつたのが、まるで遠慮でもしたやうで可笑おかしかつたが、たらふく御馳走になつた後では、いつでも一遍すうつと姿を消すのであつた。
福子は黙つて台所へ立つて行つて、渦巻の線香を捜して来ると、それに火をつけてチヤブ台の下へ入れてやつた。そして、
「あんた、あの鰺、みんな猫に食べさせなはつたやろ? 自分が食べたのん二つか三つよりあれしまへんやろ?」
と、今度は調子をやわらげて云ひ出した。
「そんなこと僕、覚えてエへん。」
「わてちやんと数へてゝん。そのお皿の上に最初十三匹あつてんけど、リヽーが十匹食べてしもて、あんたが食べたのん三匹やないか。」
「それが悪かつたのんかいな。」
「何で悪い云ふこと、分つてなはんのんか。なあ、よう考へて御覧。わて猫みたいなもん相手にして焼餅やきもち焼くのんと違ひまつせ。けど、鰺の二杯酢わては嫌ひや云ふのんに、僕好きやよつてにこしらへてほしい云ひなはつたやろ。そない云うといて、自分ちよつとも食べんとおいといてからに、猫にばつかりつてしもて、………」
彼女の云ふのは、かうなのである。―――
阪神電車の沿線にある町々、西宮にしのみや蘆屋あしや魚崎うおざき住吉すみよしあたりでは、地元じもとの浜でれる鰺やいわしを、「鰺の取れ/\」「鰯の取れ/\」と呼びながら大概毎日売りに来る。「取れ/\」とは「取りたて」と云ふ義で、値段は一杯十銭から十五銭ぐらゐ、それで三四人の家族のおかずになるところから、よく売れると見えて一日に何人も来ることがある。が、鰺も鰯も夏の間は長さ一寸いっすんぐらゐのもので、秋口あきぐちになるほど追ひ/\寸が伸びるのであるが、小さいうちは塩焼にもフライにも都合が悪いので、素焼きにして二杯酢に漬け、※莪しょうが[#「くさかんむり/生」、U+82FC、19-17]を刻んだのをかけて、骨ごと食べるより仕方がない。ところが福子は、その二杯酢が嫌ひだと云つて此の間から反対してゐた。彼女はもつと温かいあぶらツこいものが好きなので、こんな冷めたいモソモソしたものを食べさせられては悲しくなると、彼女らしい贅沢ぜいたくを云ふと、庄造は又、お前はお前で好きなものを拵へたらよい、僕は小鰺が食べたいから自分で料理すると云つて、「取れ/\」が通ると勝手に呼び込んで買ふのである。福子は庄造と従兄弟いとこ同士で、嫁に来た事情が事情だから、しゅうとめには気がねがらなかつたし、来た明くる日からまま一杯に振舞つてゐたけれど、まさか亭主が庖丁ほうちょうを持つのを見てゐる訳に行かないから、結局自分がその二杯酢を拵へて、いや/\ながら一緒にたべることになつてしまふ。おまけにそれが、もう此処のところ五六日も続いてゐるのであるが、二三日前にふと気が付いたことゝ云ふのは、女房の不平を犯してまでも食膳にのぼせる程のものを、庄造は自分で食べることか、リヽーにばかり与へてゐる。それでだん/\考へて見たら、ほどあの鰺は姿が小さくて、骨が柔かで、身をむしつてやる面倒がなくて、値段のわりに数がある、それに冷めたい料理であるから、毎晩あんな風にして猫に食はせるには最も適してゐる訳で、つまり庄造が好きだと云ふのは、猫が好きだと云ふことなのである。此処の家では、亭主が女房の好き嫌ひを無視して、猫を中心に晩のお数をきめてゐたのだ。そして亭主のためと思つて辛抱してゐた女房は、その実猫のために料理を拵へ、猫のお附き合ひをさせられてゐたのだ。
「そんなことあれへん、僕、いつかて自分が食べよう思うて頼むねんけど、リヽーの奴があないに執拗ひつこう欲しがるさかいに、ついウカツとして、後から/\投げてまうねんが。」
※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそ云ひなさい、あんた始めからリヽーに食べささう思うて、好きでもないもん好きや云うてるねんやろ。あんた、わてより猫が大事やねんなあ。」
「ま、ようそんなこと。………」
仰山ぎょうさんに、吐き出すやうにさう云つたけれど、今の一言ですつかりしおれた形だつた。
「そんなら、わての方が大事やのん?」
「きまつてるやないか! 阿呆あほらしなつて来るわ、ほんまに!」
「口でばつかりそない云はんと、証拠見せてエな。そやないと、あんたみたいなもん信用せエへん。」
「もう明日から鰺買ふのん止めにせう。な、そしたら文句ないねんやろ。」
「それより何より、リヽーつてしまひなはれ。あの猫ゐんやうになつたら一番えゝねん。」
まさか本気で云ふのではないだらうけれど、タカをくくぎて依怙地えこじになられては厄介なので、是非なく庄造は膝頭ひざがしらを揃へ、キチンとかしこまつてすわり直すと、前屈まえかがみに、その膝の上へ両手をつきながら、
「さうかてお前、いじめられること分つてゝあんなとこへやれるかいな。そんな無慈悲なこと云ふもんやないで。」
と、哀れツぽく持ちかけて、[#「持ちかけて、」は底本では「持ちかけて。」]嘆願するやうな声を出した。
「なあ、頼むさかいに、そない云はんと、………」
「ほれ御覧、やつぱり猫の方が大事なんやないかいな。リヽーどないぞしてくれへなんだら、わてなして貰ひまつさ。」
「無茶云ひな!」
「わて、畜生と一緒にされるのん嫌ですよつてにな。」
あんまりムキになつたせゐか、急に涙が込み上げて来たのが、自分にも不意討ちだつたらしく、福子は慌てゝ亭主の方へ背中を向けた。

雪子の名を使つた品子のあの手紙が届いた朝、最初に彼女が感じたのは、こんないたづらをして私達の間へ水をさうとするなんて、何と云ふ嫌な人だらう、誰がその手に乗つてやるもんか、と云ふことだつた。品子の腹は、かう云ふ風に書いてやつたら、結局福子はリヽーのゐることが心配になつて、此方へ寄越すかも知れない、さうなつたら、それ見たことか、人を笑つたお前さんも猫に焼餅を焼くぢやないか、やつぱりお前さんだつてさう御亭主に大事にされてもゐないのだねえと、手を叩いてあざけつてやらう、そこまで巧く行かないとしても、此の手紙をキツカケに家庭に風波が起るとしたら、それだけでも面白いと、さう思つてゐるに違ひないので、その鼻を明かしてやるのには、いよ/\夫婦が仲好く暮すやうにして、こんな手紙などてんで問題にならなかつたと云ふ所を見せてやり、二人が同じやうにリヽーを可愛がつて、とても手放す気がないことをもつとハツキリ知らしてやる、―――もうそれに越したことはないのであつた。
だが、生憎あいにくなことに此の手紙の来た時期が悪かつた。と云ふのは、ちやうど此の二三日小鰺の二杯酢の一件が福子の胸につかへてゐて、一遍亭主を取つちめてやらうと考へてゐた矢先だつたのである。一体、彼女は庄造が思つてゐるほど猫好きではないのだが、庄造の気持を迎へるためと、品子への面当つらあてと、両方の必要から自然猫好きになつてしまひ、自分もさう思へば人にも思はせてゐたのであつて、それは彼女がまだ此の家へ乗り込まない時分、蔭で姑のおりんなどとグルになつてもっぱら品子の追ひ出し策にかゝつてゐる間のことだつた。そんな次第で、此処へ来てからもリヽーを可愛がつてやつて、精々せいぜい猫好きで通してゐたのだが、だん/\彼女はその一匹の小さい獣の存在を、呪はしく思ふやうになつた。何でも此の猫は西洋種だと云ふことだつたが、以前、此処へお客で遊びに来て膝の上などへ乗せてやると、手触りの工合が柔かで、毛なみと云ひ、顔だちと云ひ、姿と云ひ、ちよつと此の辺には見当らない綺麗な雌猫であつたから、その時はほんたうに愛らしいと思ひ、こんなものを邪魔にするとは品子さんと云ふ人も変つてゐる、やつぱり亭主に嫌はれると、猫にまでひがみを持つのか知らんと、面当てゞなくさう感じたものだつたけれど、今度自分が後釜あとがまへ直つてみると、自分は品子と同じ扱ひを受ける訳でもなく、大切にされてゐることは分つてゐながら、どうも品子を笑へない気持になつて来るのが不思議であつた。それと云ふのは、庄造の猫好きが普通の猫好きのたぐいではなくて、度を越えてゐるせゐなのである。実際、可愛がるのもいゝけれども、一匹の魚を(しかも女房の見てゐる前で!)口移しにして、引張り合つたりするなどは、あまり遠慮がなさすぎる。それから晩の御飯の時に割り込んで来られることも、正直のところは愉快でなかつた。夜は姑が気を利かして、自分だけ先に食事を済まして二階へ上つてくれるのだから、福子にしてみればゆつくり水入らずを楽しみたいのに、そこへ猫奴が這入はいつて来て亭主を横取りしてしまふ。好いあんばいに今夜は姿が見えないなと思ふと、チヤブ台の脚を開く音、皿小鉢のカチヤンと云ふ音を聞いたら直ぐ何処かゝら帰つて来る。たまに帰らないことがあると、しからないのは庄造で、「リヽー」「リヽー」と大きな声で呼ぶ。帰つて来る迄は何度でも、二階へ上つたり、裏口へ廻つたり、往来へ出たりして呼び立てる。今に帰るだらうから一杯飲んでいらつしやいと、彼女がお銚子を取り上げても、モヂ/\してゐて落ち着いてくれない。さう云ふ場合、彼の頭はリヽーのことで一杯になつてゐて、女房がどう思ふかなどと、ちよつとも考へてみないらしい。それにもう一つ愉快でないのは、寝る時にも割り込んで来ることである。庄造は今迄猫を三匹飼つたが、蚊帳かやをくゞることを知つてゐるのはリヽーだけだ、全くリヽーは悧巧だと云ふ。成る程、見てゐると、ぴつたり頭をたたみり付けて、する/\とすそをくゞり抜けて這入る。そして大概は庄造の布団の側でねむるけれども、寒くなれば布団の上へ乗るやうになり、しまひには枕の方から、蚊帳をくゞるのと同じ要領で夜具の隙間へもぐり込んで来ると云ふ。そんな風だから、此の猫にだけは夫婦の秘密を見られてしまつてゐるのである。
それでも彼女は、今更猫好きの看板を外して嫌ひになり出すキツカケがないのと、「相手はたかが猫だから」と云ふ己惚うぬぼれに引き擦られて、腹の虫を押さへて来たのであつた。あの人はリヽーを玩具おもちゃにしてゐるだけなので、ほんたうは私が好きなのである、あの人に取つて天にも地にも懸け換へのないのは私なのだから、変な工合に気を廻したら、自分で自分を安つぽくする道理である。もつと心を大きく持つて、何の罪もない動物を憎むことなんか止めにしようと、さう云ふ風に気を向けかへて、亭主の趣味に歩調を合はせてゐたのだが、もと/\こらしょうのない彼女にそんな我慢が長つゞきする筈がなく、少しづゝ不愉快さが増して来て顔に出かゝつてゐたところへ、降つて湧いたのが今度の二杯酢の一件だつた。亭主が猫を喜ばすために、女房の嫌ひなものを食膳に上せる、而も自分が好きなふりをして、女房の手前をつくろつてまでも!―――これは明かに、猫と女房とを天秤てんびんにかけると猫の方が重い、と云ふことになる。彼女は見ないやうにしてゐた事実をまざ/\と鼻先へ突き付けられて、最早もはや己惚れの存する余地がなくなつてしまつた。
ありていに云ふと、そこへ品子の手紙が舞ひ込んで来たことは、彼女の焼餅を一層あおつたやうでもあるが、一面には又、それを爆発の一歩手前で抑制すると云ふ働きをした。品子さへおとなしくしてゐたら、リヽーの介在をもう一日も黙視出来なくなつた彼女は、早速亭主に談判して品子の方へ引き渡させるつもりでゐたのに、あんないたづらをされてみると、素直に註文を聴いてやるのがま/\しい。つまり亭主への反感と、品子への反感と、孰方どちらの感情で動いたらよいか板挟みになつてしまつたのである。手紙の来たことを亭主に打ち明けて相談すれば、事実はさうでないにも拘はらず品子にケシカケられたやうな形になるのが心外であるから、それは内証にして置いて、孰方が余計憎らしいかと考へると、品子のり方も腹が立つけれども、亭主の仕打ちも堪忍かんにんがならない。ことに此の方は毎日眼の前で見てゐるのだから、どうにもムシヤクシヤする訳だし、それに、本当のことを云ふと、「用心しないと貴女も猫に見換へられる」と書いてあつたのが、案外ぐんと胸にこたへた。まさかそんな馬鹿げたことがとは思ふけれども、リヽーを家庭から追ひ払つてしまひさへすれば、イヤな心配をしないでも済む。たゞさうすると品子に溜飲りゅういんを下げさせることになるのが、いかにも残念でたまらないので、その方の意地がこうじて来ると、猫のことぐらゐ辛抱しても誰があの女の計略なんぞにと、云ふ風になる。―――で、今日の夕方チヤブ台の前にすわる迄は、彼女はさう云ふグル/\廻りの状態に[#「状態に」は底本では「状態の」]置かれてれてゐたのだが、皿の上の鰺が減つて行くのを数へながらいつものいちやつきを眺めてゐると、ついかあツとして亭主の方へ鬱憤うっぷんを破裂させてしまつたのである。
しかし最初は嫌がらせにさう云つた迄で、本気でリヽーを追ひ出す積りはなかつたらしいのであるが、へんに問題をコジレさせて退きならないやうにしたのは、庄造の態度が大いに原因してゐるのである。庄造としては、福子が腹を立てたのは至極もっともなのであるから、イザコザなしに、あつさり彼女の希望を入れて納得なっとくしてしまへば一番よかつた。さうして意地を通してさへやつたら、かえつて後は機嫌が直つて、それには及ばぬと云ふことになつたかも知れないのに、道理のないところへ道理をつけて、逃げを打つた。これは庄造の悪い癖なので、イヤならイヤときつぱり云つてしまふならいゝのだが、なるたけ相手を怒らせないやうに、追ひ詰められるまでは瓢箪鯰ひょうたんなまずに受け流してゐて、土壇場どたんばへ来るとヒヨイと寝返る。もう少しで承知しさうな口ぶりを見せて、その実決して「うん」と云はない。気が弱さうで、案外ネチネチしたずるい人だと云ふ印象を与へる。福子は亭主が、外のことなら彼女の我が儘を通すくせに、此の問題に関する限り、「たかが猫なんぞ」と何でもなさゝうに云ひながら、中々同意しないのを見ると、リヽーに対する愛着が想像以上に深いものとしか思へないので、いよ/\捨てゝ置けない気がした。
「ちよつと、あんた!………」
その晩彼女は、蚊帳の中に[#「中に」は底本では「中へ」]這入つてから又始めた。
「ちよつと、此方こっち向きなさい。」
「あゝ、僕眠たい、もう寝さして。………」
「あかん、さつきの話きめてしまはなんだら、寝させへん。」
「今夜に限つたことあるかいな、明日にして。」
表は四枚の硝子戸ガラスどにカーテンを引いてあるだけなので、軒燈けんとうのあかりがぼんやり店の奥へ洩れて来て、もや/\と物が見える中で、庄造は掛け布団をすつかりいで仰向きに臥てゐたが、さう云ふと女房の方へ背中を向けた。
「あんた、そつち向いたらあかん!」
「頼むさかいに寝さしてエな、ゆうべ僕、蚊帳ん中に蚊ア這入つてゝちよつとも寝られへなんでん。」
「そしたら、わての云ふ通りしなはるか。早う寝たいなら、それきめなさい。」
殺生せっしょうやなあ、何をきめるねん。」
「そんな、寝惚ねぼけたふりしたかて、胡麻化ごまかされ[#「胡麻化され」は底本では「誤麻化され」]まつかいな。リヽーんなはるのんか孰方どっちだす? 今はつきり云うて[#「云うて」は底本では「云ふて」]頂戴。」
「明日、―――明日まで考へさしてもらを。」
さう云つてゐるうちに、早くも心地よさゝうな寝息を立てたが、
「ちよつと!」
と云ふと、福子はムツクリ起き上つて亭主の側にすわり直すと、いやと云ふ程しりの肉をつねつた。
「痛い! 何をするねん!」
「あんた、いつかてリヽーに引つ掻かれて、生傷なまきず絶やしたことないのんに、わてが抓つたら痛いのんか。」
「痛! えゝい、止めんかいな!」
「此れぐらゐ何だんね、猫に掻かすぐらゐやつたら、わてかて体ぢゆう引つ掻いたるわ!」
「痛、痛、痛、………」
庄造は、自分も急に起き直つて防禦ぼうぎょの姿勢を取りながら、続けざまに叫んだ。二階の年寄に聞かせたくないので、大きな声は立てなかつたが、抓るかと思ふと今度は引つ掻く。顔、肩、胸、腕、腿、所嫌はず攻めて来るので、慌てゝ避ける度毎たびごとにバタン! と云ふ地響きが家ぢゆうへ伝はる。
「どないや?」
「もう堪忍、………堪忍!」
「眼エ覚めなはつたか?」
「覚めいでかいな! あゝ痛、ヒリ/\するわ。………」
「そしたら、今のこと返事しなさい、孰方どっちだす?」
「あゝ痛、………」
それには答へないで、顔をしかめながら方々をさすつてゐると、
「又だつか、胡麻化ごまかしたら此れだつせ!」
と、二三本の指でモロに頬つぺたをがりツと行かれたのが、飛び上るほど痛かつたらしく、思はず、
「いたア―――」
と泣き声を出したが、途端にリヽーまでがびつくりして、蚊帳の外へ逃げ出して行つた。
「僕、何でこんな目に遭はんならん。」
「ふん、リヽーのためや思うたら、本望だつしやろが。」
「そんな阿呆らしいこと、まだ云うてるのんか。」
「あんたがはつきりせんうちは、何ぼでも云ひまつせ。―――さあ、わてをなすかリヽーんなはるか、孰方だす?」
「誰がお前を去なす云うた?」
「そんならリヽー遣んなはるのんか?」
「そない孰方かにきめんならんこと………」
「あかん、きめて欲しいねん。」
さう云ふと福子は、胸倉むなぐらを取つて小突き始めた。
「さあ孰方や、返事しなさい、早う! 早う!」
「何とまあ手荒な、………」
「今夜はどないなことしたかて堪忍かんにんせエしまへんで。さあ、早う! 早う!」
「えゝ、もう、シヨウがない、リヽー遣つてしもたるわ。」
「ほんまだつかいな。」
「ほんまや。」
庄造は眼をつぶつて、観念のほぞを固めたと云ふ顔つきをした。
「―――その代り、あと一週間待つてくれへんか。なあ、こないに云うたら又怒られるか知れへんけど、なんぼ畜生にしたかて、此処の家に十年もいてたもん、今日云うて今日追ひ出す訳に行くかいな。そやさかいに、心残りのないやうにせめてもう一週間置いてやつて、たんと好きなもん食べさして、出来るだけのことしてやりたいねん。なあ、どないや? お前かてその間ぐらゐ機嫌直して可愛がつてやりいな。猫は執念深いよつてにな。」
いかにも懸引かけひきのない真情らしく、さうしんみりと訴へられてみると、それには反対が出来なかつた。
「そしたら一週間だつせ。」
「分つてる。」
「手エ出しなさい。」
「何や?」
と云つてゐる隙に、素早く指切りをさせられてしまつた。

「おかあさん」
それから二三日過ぎた夕方、福子が銭湯せんとうへ出かけた留守に、店番をしてゐた庄造は奥の間へ声をかけながら這入つて来ると、自分だけの小さなお膳で食事してゐる母親の側へ、モヂ/\しながら中腰にかゞんだ。
「お母さん、ちよつと頼みがありまんねん。―――」
毎朝別にいてゐる土鍋の御飯の、おかゆのやうに柔かいのがすつかり冷えてしまつたのを茶碗に盛つて、塩昆布を載せて食べてゐる母親は、お膳の上へ背を円々とおお[#「おおひ」は底本では「おおい」]かぶさるやうにしてゐた。
「あのなあ、福子が急にリヽー嫌ひや云ひ出してなあ、品子んとこへ遣つてしまへ云ひまんね。………」
「此のあひだ、えらい騒ぎしてたやないか。」
「お母さん知つてなはつたんか。」
「夜中にあんな音さすよつて、わてびつくりして、地震か思うたわ。あれ、そのことでかいな?」
「さうだんが。これ見て御覧、―――」
と、庄造は両腕を突き出して、シヤツの袖をまくり上げた。
「これ、そこらぢゆう蚯蚓脹みみずばれあざだらけだ。顔にかて此れ、まだあと残つてるやろ。」
「何でそんなことしられたんや?」
「焼餅だんが。―――阿呆らしい、猫可愛がり過ぎる云うて焼餅やくもん、何処の国にあるか知らん、気違ひ沙汰や。」
「品子かてよう何のんの云うてたやないか。お前みたいに可愛がつたら、誰にしたかて焼餅ぐらゐ起すわいな。」
「ふうん、―――」
幼い時から母親に甘える癖がついてゐるのが、此の歳になつてもまだ抜け切れない庄造は、だゞのやうに鼻のあなふくらがして、さも面白くなさゝうに云つた。
「―――お母さん福子のこと云うたら、味方ばつかりするねんなあ。」
「けどお前、猫であらうと人間であらうと、外のもん可愛がつてゝ、来たばかりの嫁のこと思うてやらなんだら、気イ悪うするのん当り前やで。」
「そら可笑おかしい。僕、いつかて福子のこと思うてまんが。一番大事にしてまんが。」
「さうに違ひないのんやつたら、ちよつとぐらゐの無理聴いてやりいな。わてあのからもその話聞かされてるねんが。」
「それ、いつのことだんね?」
「昨日そない云うてなあ、―――リヽーいてたらよう辛抱せんさかい、五六日うちに品子の方へ渡すことに、もうちやんと約束したある云ふねんけど、ほんまかいな。」
「それや。―――したことはしたけど、そんな約束実行せんかて済むやうに、何とかそこんとこ、あんぢよう云うて貰へんやろか。僕お母さんにそれ頼まう思うてゝん。」
「さうかて、約束通りしてくれなんだら、去なして貰ふ云うてるねんで。」
威嚇おどかしや、そんなこと。」
「威嚇しかも知れんけど、そないまでに云ふもん聴いてやつたらどないや? 又うるさいで、約束たがへたら。―――」
庄造はつぱいやうな顔をして、口をとがらせて俯向うつむいてしまつた。母から云はせて福子をなだめる目算もくさんでゐたのが、すつかり外れてしまつたのである。
「あのあんな気象やよつてに、ほんまに逃げて行くかも知れん。それもえゝけど、嫁を放つといて猫可愛がるやうなとこへ内のむすめつとけん! 云はれたらどないする? お前よりわてが困るわいな。」
「そしたら、お母さんもリヽー追ひ出してしまへ云やはりまんのんか。」
「そやさかいにな、兎に角こゝのとこはあのの気持済むやうに、一遍すうツと品子の方へ遣つてしまひイな。そないしといて、えゝ折を見て、機嫌直つた時分に取り戻すこと出来んもんかいな。―――」
そんな、渡してしまつたものを先方が返す筈もなし、受け取る筋でもないことは分つてゐながら、庄造が母親に甘えるやうに、母親も見え透いた気休めを云つて、子供をすかすやうな風に庄造をあやなす癖があつた。そして彼女は、いつでも結局此のせがれを自分の思ひ通りに動かしてゐるのだつた。
もう若い者はセルを着出した頃だのに、あわせの上に薄綿の這入つたジンベエを着て、メリヤスの足袋たびを穿いてゐる彼女は、小柄で、痩せてゐて、生活力の衰へきつた老婆のやうに見えるけれども、頭の働きは案外確かで、云ふことやすることにソツがないので、「息子よりも婆さんの方がしつかりしてゐる」と、近所ではさう云ふ評判だつた。品子が追ひ出されたのも、実は彼女が糸をあやつつたからなので、庄造にはまだ未練があつたのだと云ふ人もある。それやこれやで、此の附近では母親を憎む者が多く、一般の同情は品子の方に集まつてゐたが、彼女に云はせると、いくら姑の気に入らない嫁でも、忰が好きなものならば、出る筈もないし出せる訳もない、やつぱりあれは庄造に飽かれたからだと云ふ。なるほどそれもさうだけれども、彼女と福子の父親が手を貸さなければ、庄造一人であの女房をいびり出す勇気はなかつたと云ふのが、間違ひのない事実であつた。
いつたい母親と品子とは、どう云ふものか初めからりが合はなかつた。勝気な品子は、落ちどを拾はれないやうに気を附けて、随分姑には勤めてゐたけれども、さう云ふ風に抜け目なく立ち廻つて行かれることが、又母親のしゃくさわつた。うちの嫁は何処と云つて悪いところはないやうなものゝ、何だか親身しんみに世話をして貰ふ気になれない、それと云ふのが、心から年寄をいたはつてやらうと云ふ優しい情愛がないからなのだと、母親はよくさう云つたが、つまり嫁も姑も、孰方どちらもしつかり者だつたのが不和の原因になつたのである。それでも一年半ばかりの間は、表面だけは無事に治まつてゐたのだつたが、その時分から母親のおりんは嫁が面白くないと云つて、始終今津いまづの兄の所、庄造には伯父に当る中島の家へ泊まりに行つて、二日も三日も帰つて来ないやうになつた。あまり逗留とうりゅうが長いので、品子が様子を見に行くと、お前は帰つて庄造を迎ひに寄越せと云ふ。庄造が行くと、伯父や福子までが一緒になつて引き止めて、晩になつても帰してくれない。それには何か魂胆こんたんがあるらしいことは、庄造もうす/\気が付いてゐながら、甲子園の野球だの、海水浴だの、阪神パークだのと、福子に誘はれるまゝに、何処へでもふら/\と喰つ着いて行つて、呑気のんきに遊んでゐるうちに、とう/\彼女と妙な仲になつてしまつた。
此の伯父と云ふのは菓子の製造販売をしてゐて、今津の町に小さな工場を持つてゐたばかりでなく、国道沿線に五六軒の家作かさくを建てたりして裕福に暮らしてゐたのだつたが、福子のことでは大分だいぶ今迄に手を焼いてゐた。母親が早く亡くなつたせゐもあるのだらうが、女学校を二年の途中で止めさせられたか、勝手に止めてしまつたかしてから、さつぱり尻が落ち着かない。家出をしたことも二度ぐらゐあつて、神戸の新聞に素ツ葉抜かれたりしたものだから、縁付けようと思つても中々貰ひ手がなかつたし、自分も窮屈な家庭などへは行きたくない。そんなこんなで、何とか早く身を固めさせなければと、父親があせつてゐる事情に眼を付けたのがおりんであつた。福子は自分の娘のやうなもので、気心はよく分つてゐるから、アラがあることは差支さしつかへない、品行ひんこうの悪いのは困るけれども、もうそろ/\分別が出てもいゝとしだから、亭主を持つたらまさか浮気をすることもあるまい、それにそんなことは大した問題でないと云ふのは、此の娘にはあの国道の家作が二軒附いてゐて、そこから上る家賃が六十三円になる。おりんの計算だと、父親がそれを福子の名義に直したのが二年も前のことであるから、その積立が元金だけでも一千五百十二円ある、それだけのものは持参金として持つて来る上に、月々今の六十三円が這入るとすると、それらを銀行へ預けておいたら、十年もすればと財産出来るので、これが何よりの附けめであつた。
もっとも彼女は老い先の短かい体であるから慾張つたところで仕方がないが、甲斐性かいしょうのない庄造が此の先どうしてしのいで行くつもりか、それを考へると安心して死んで行けないのであつた。何しろ蘆屋の旧国道は、阪急はんきゅうの方が開けたり新国道が出来たりしてから、年々さびれつゝあるので、こんなところでいつ迄荒物屋渡世とせいをしてゐても思はしい訳はないのだけれど、動くには此の店を売り退かなければならないし、さて売り退いても何処で何を始めようと云ふ成算がない。庄造はそんなことについてひどく呑気に生れついた男で、貧乏を苦にしない代りには、一向商売に身を入れない。十三四の頃、夜学へ通ひながら西宮の銀行の給仕に使はれ、青木あおぎのゴルフ練習場のキャディーにも雇はれ、年頃になつてからはコツクの見習を勤めたりしたけれど、何処も長つゞきがしないで怠けてゐるうちに父親が亡くなつて、それから此方こちら荒物屋の亭主で納まつてしまつた。ぜんたい店の商売などは母親に任して置いて、兎に角男一匹が何かしら職を求めたらよいのに、国道筋でカフェエを始めたいからと伯父に出資を申し込んで、意見されたことがあつた外には、猫を可愛がることゝ、たまくことゝ、盆栽ぼんさいをいぢくることゝ、安カフェエの女をからかひに行くことぐらゐより、何の仕事も思ひ付かない。さうして今から足かけ四年前、二十六の歳に畳屋の塚本を仲人に立てゝ、山蘆屋の或る邸に奉公してゐた品子を嫁に貰つたのだが、その時分から商売の方がいよ/\上つたりになつて、毎月の遣り繰りに骨が折れて来た。親の代から蘆屋に住んでゐるお蔭で、長年ながねんの顔があるところから、しばらくは無理がいたけれども、つぼ十五銭の地代が二年近くもとどこおつて、百二三十円にもなつてゐるのは、どうにも返済の見込みが立たない。で、もう庄造をアテにしないことにきめた品子は、仕立物などを頼まれたりして暮らしの補ひをつけてゐたばかりか、折角お給金を溜めて一通り拵へて来た荷物にさへ手をつけて、僅かの間に減らしてしまつた。そんな訳だから、今更その嫁を追ひ出さうと云ふのは無慈悲な話で、近所の同情が彼女の方へ集まつたのも当然であるが、おりんにしてみれば、背に腹は換へられなかつたし、子種こだねのないと云ふことが難癖をつけるのに都合が好かつた。それに福子の父親迄が、さうすれば娘の身が固まるし、おいの一家を救つてもやれるし、双方のためだと考へたのが、おりんの工作に油を注ぐ結果となつた。
それゆえ福子が庄造と出来てしまつたのには、父親やおりんの取り持ちがあつたに違ひないのであるが、一体そんなことがなくとも、庄造は割りに誰にでも好かれるたちであつた。別に美男子なのではないが、幾つになつても子供つぽいところがあつて、気だてが優しいせゐかも知れない。キャディーの時代にはゴルフ場へ来る紳士や夫人たちに可愛がられて、盆暮ぼんくれの附け届を誰よりも余計貰つたし、カフェエなどでも案外持てるので、僅かなお金で長く遊んで来ることを覚えてしまひ、そんなところからのらくらの癖がついたのだつた。が、何にしてもおりんから云へば、自分がいろ/\細工をしてやつと我が家へ迎へ入れる迄に漕ぎ付けた、持参金附きの嫁御寮よめごりょうであるから、尻の軽い彼女に逃げられないやうに、忰と二人で精々機嫌を取らなければならない訳で、猫のことなどは勿論始めから問題でなかつた。いや、実を云ふと、おりんも内々猫には閉口してゐたのであつた。元来リヽーと云ふ猫は、神戸の洋食屋に住み込んでゐた庄造が帰つて来る時に連れて来たのだが、これがゐるために家の中が汚れることおびただしい。庄造に云はせると、此の猫は決して※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうをしない、用をする時は必ずフンシへ這入ると云ふ。いかにもその点は感心だけれど、戸外にゐてもわざ/\フンシへ這入るために戻つて来ると云ふ調子なので、フンシが非常に臭くなつて、その悪臭が家中に充満するのである。おまけにしりはたへ砂を着けたまゝ歩き廻るので、畳がいつもザラ/\になる。雨の日などは臭が一層強くこもつてむツとするところへ持つて来て、おもてのぬかるみを歩いたまゝで上つて来るから、猫の脚あとが此処彼処ここかしこに点々とする。庄造は又、此の猫は戸でもふすまでも障子でも、引き戸でさへあれば人間と同じに開ける、こんな賢いのは珍しいと云ふ。だが畜生の浅ましさには、開けるばかりで締めることを知らないから、寒い時分には通つたあとを一々締めて廻らなければならない。それもいゝけれども、そのために障子は穴だらけ、襖や板戸は爪の痕だらけになる。それから困るのは、生物なまもの、煮物、焼物の類をうつかりその辺へ置くことが出来ない、[#「出来ない、」は底本では「出来ない。」]ぼんやりしてゐると直ぐ食べられてしまふので、お膳立てをするほんの僅かな間でも、水屋か蠅帳はいちょうへ一応入れて置かなければならない。いや/\、もつとひどいことは、此の猫は臀の始末はよいが、口の始末が悪くて、とき/″\嘔吐するのである。それと云ふのは、庄造が例の曲藝に熱中して幾らでも餌を投げてやるので、つい食ひ過ぎるせゐなのであるが、晩飯の後でチヤブ台を除けると、その辺に一杯毛が落ちてゐて、食ひかけの魚の頭だの尻尾だのがたくさん散らばつてゐるのである。
品子が嫁に来る迄は、台所の世話や拭き掃除は一切おりんの役だつたから、リヽーのためには随分泣かされてゐる訳なのだが、今日まで我慢してゐたのは一つの出来事があつたからだつた。と云ふのは、たしか五六年前に、無理に庄造を説き付けて、一度此の猫を尼ヶ崎の八百屋へ遣つたことがあつたが、やがて一と月もした時分に、或る日ヒヨツコリ蘆屋の家へ独りで帰つて来たのである。犬なら不思議はないけれども、猫が前の主人を慕つて五六里の道を戻つて来るとは、あまりイヂラシイ話なので、それ以来庄造の可愛がりやうは旧に倍したのみならず、おりんも流石さすが不憫ふびんを感じたのか、或は多少薄気味悪く思つたのか、もうそれからは何も云はないやうになつた。そして品子が来てからは、福子と同じ理由から、―――と云ふのは嫁をいぢめるために、却つてリヽーの存在が便利を与へることがあるので、やさしい言葉の一つぐらゐは時々かけてやつてゐたのである。だから庄造は、その母親までが突然福子の味方をし出した様子を見ては、心外でたまらないのであつた。
「けど、リヽーやつたらつたかて又戻つて来まつせ。なんせ尼ヶ崎からでも戻つて来る猫やさかいにな。」
「ほんになあ、今度はまるきり知らん人やあれへん[#「あれへん」は底本では「あらへん」]よつて、そこは何とも分らんけど、戻つて来たら又置いてやつたらえゝがな。ま、兎も角も遣つてみてみいな。―――」
「あゝ、どうしよう、困つたなあ。」
庄造は頻りに溜息をついて、まだ何かしらねばつてみようとしてゐたが、その時おもてに足音がして、福子が風呂から帰つて来た。

「塚本君、分つてまんなあ? これ、なるべくそつと持つて行かんと、乱暴に振つたらあきまへんで。猫かて乗物に酔ふさかいになあ。」
「そない何遍も云はんかて、分つてまんが。」
「それから、此れや、」
と、新聞紙にくるんだ、小さな平べつたい包みを出して、
「実はなあ、いよ/\これがお別れやさかいに、出がけに何ぞおいしいもん食べさしてやりたい思ひまんねんけど、乗物に乗る前に物食べさしたら、えらい苦しみまんねん。それでなあ、此の猫かしわの肉が好きやよつてに、僕、自分でこれうて来て、水煮みずだきにしときましたさかい、彼方あっちへ着いたらき食べさしてやるやうに云うとくなはれしまへんか。」
「よろしおます。あんぢよう持つて行きますよつて安心しなはれ。―――そんなら、もう用事おまへんか。」
「ま、ちよつと待つとくなはれ。」
さう云ふと庄造は、バスケツトの蓋を開けて、もう一度しつかり抱き上げて、
「リヽー」
と云ひながら頬擦りをした。
「お前な、彼方へ行つたらよう云ふこと聴くんやで。彼方のあの人、もうせんみたいにいぢめたりせんと、大事にして可愛がつてくれるさかいに、ちよつとも恐いことないで。えゝか、分つたなあ。―――」
抱かれることが嫌ひなリヽーは、あまり強く締められたので脚をバタ/\やらしたが、バスケツトの中へ戻されると、二三度周囲を突ツついてみたゞけで、とても出られないとあきらめたらしく、急に静まり返つてしまつたのが、ひとしほ哀れをそゝるのであつた。
庄造は、国道のバスの停留所まで送つて行きたかつたのであるが、今日から当分の間、風呂へ行く以外は一歩も外出してはならぬと、女房から堅く止められてゐるので、バスケツトを提げた塚本が出て行つたあと、気抜けがしたやうにぽつねんと店にすわつてゐた。福子が外出を禁じた訳は、リヽーの様子を気遣ふ余りついふら/\と品子の家の近所ぐらゐまで行くかも知れないからであつたが、事実庄造自身にも、さう云ふ懸念けねんがないことはなかつた。そして此の迂濶うかつな夫婦は、猫を渡してしまつてから、始めて品子のほんたうの腹が分りかけて来たのである。
成る程、リヽーをおとりおれを呼び寄せようと云ふ気だつたのか。あの家の近所をうろ/\したら、つかまへて口説き落さうとでも云ふのか。―――庄造はそこへ気がついてみると、いよ/\品子の陰険さ加減が憎くなつたが、そんな道具に使はれるリヽーの身の上に、一層可哀さが増して来た。唯一の望みは、尼ヶ崎から逃げて帰つて来たやうに、阪急の六甲ろっこうにある品子の家から逃げて来はせぬかと云ふことであつた。実は水害の後の仕事で忙しい塚本が、よる受け取りに来ると云つたのを、朝にして貰つたのも、明るい時に連れて行かれたら道を覚えてゐるであらう、さうしたら逃げて来るのも容易であらうと、そんな心積りがあつたからだが、それにつけても思ひ出されるのは、此の前、尼ヶ崎から戻つて来たあの朝のことだつた。何でもあれは秋の半ば時分であつたが、或る日、やう/\夜が明けたばかりの頃、眠つてゐた庄造は「ニヤア」「ニヤア」と云ふ耳馴れた啼き声に眼を覚ました。その時分は独身者の庄造が二階に寝、母親が階下したに寝てゐたが、朝が早いのでまだ雨戸が締まつてゐるのに、つい近いところで「ニヤア」「ニヤア」と猫が啼いてゐるのを、夢うつゝのうちに聞いてゐると、どうもリヽーの声のやうに思へて仕方がない。一と月も前に尼ヶ崎へ遣つてしまつたものが、まさか今頃こんな所にゐる筈はないが、聞けば聞くほどよく似てゐる。バリ/\と裏のトタン屋根をむ音がして、直ぐ窓の外に来てゐるので、兎に角正体を突き止めようと急いで跳ね起きて、窓の雨戸を開けてみると、つい鼻の先の屋根の上を往つたり来たりしてゐるのが、たいそうやつれてはゐるけれどもリヽーに違ひないのであつた。庄造はわが眼を疑ふ如く、
「リヽー」
と呼んだ。するとリヽーは
「ニヤア」
と答へて、あの大きな眼を、さも嬉しげに一杯に開いて見上げながら、彼が立つてゐる肘掛窓の真下まで寄つて来たが、手を伸ばして抱き上げようとすると、たいかわしてすうツと二三じゃく向うへ逃げた。しかし決して遠くへは行かないで、
「リヽー」
と呼ばれると、
「ニヤア」
と云ひながら寄つて来る。そこを掴まへようとすると、又する/\と手の中を脱けて行つてしまふ。庄造は猫のかう云ふ性質がたまらなく好きなのであつた。わざ/\戻つて来るくらゐだから、余程恋ひしかつたのであらうに、そのなつかしい家に着いて、久しぶりで主人の顔を見たのでありながら、抱かうとすれば逃げてしまふ。それは愛情に甘えるしぐさのやうでもあるし、暫く会はなかつたのがキマリが悪くて、羞渋はにかんでゐるやうでもある。リヽーはさう云ふ風にして、呼ばれる度に「ニヤア」と答へつゝ屋根の上をうろ/\した。庄造は、彼女が痩せてゐることは最初から気が付いてゐたけれど、なほよく見ると、一と月前よりは毛の色つやが悪くなつてゐるばかりでなく、頸の周りだの尾の周りだのが泥だらけになつてゐて、ところ/″\にすすきの穂などが喰つ着いてゐた。貰はれて行つた八百屋の家も猫好きだと云ふ話であつたから、虐待されてゐた筈はないので、これは明かに、一匹の猫が尼ヶ崎から此処までひとりで辿つて来る道中どうちゅうの難儀を語るものだつた。こんな時刻に此処へ着いたのは、昨夜ぢゆう歩きつゞけたのに違ひないけれども、多分一と晩ぐらゐではあるまい、もう幾晩も/\、恐らくは数日前に八百屋の家を逃げ出して、方々で道に迷ひながら、やう/\此処まで来たのであらう。彼女が人家つゞきの街道を一直線に来たのでないことは、あのすゝきの穂を見ても分る。それにしても、猫は寒がりなものであるのに、朝夕の風はどんなに身にみたことであらう。おまけに今は村しぐれの多い季節でもあるから、定めし雨に打たれてくさむらへもぐり込んだり、犬に追はれて田圃たんぼの中へ隠れたりして、食ふや食はずの道中をつゞけて来たのだ。さう思ふと、早く抱き上げて撫でゝやりたくて、何度も窓から手を出したが、そのうちにリヽーの方も、羞渋みながらだん/\体を擦り着けて来て、主人のすがままに任せた。
その時のリヽーは、一週間ほど前から尼ヶ崎の方で姿を見なくなつてゐたことが、後に問ひ合はせて知れたのであつたが、今も庄造は、あの朝のきごゑと顔つきとを忘れることが出来ないのである。そればかりでなく、此の猫についてはまだ此の外にも数々の逸話があつて、あの時はあんな顔をした、あんな声を出したと云ふ記憶が、いろ/\の場合に残つてゐるのである。たとへば庄造は、初めて此の猫を神戸から連れて来た日のことをはつきりと思ひ出すのであるが、それは最後に奉公をしてゐた神港軒から暇を貰つて蘆屋へ帰つた時であるから、彼がちやうど二十歳はたちの年、つまり父親が亡くなつた年の、四十九日の頃だつた。その前彼は、三毛猫を一度、それが死んでからは「クロ」と呼んでゐた真つ黒な雄猫を、コツク場で飼つてゐたのであるが、そこへ出入の肉屋から、欧洲種の可愛らしいのがゐるからと云つて、生後三ヶ月ばかりになる雌の仔猫を貰つたのが、リヽーだつたのである。それで暇を貰ふ時にもクロはコツク場へ置いて来てしまつたが、仔猫の方は手放すのが惜しくて、行李こうりと一緒に或る商店のリヤカーの隅へ積んで貰つて、蘆屋の家へ運んだのであつた。
肉屋の主人の話だと、英吉利人イギリスじんはかう云ふ毛並みの猫のことを鼈甲猫べっこうねこと云ふさうであるが、茶色の全身に鮮明な黒の斑点が行きわたつてゐて、つや/\と光つてゐるところは、成る程研いた鼈甲の表面に似てゐる。何にしても庄造は、今日までこんな毛並みの立派な、愛らしい猫を飼つたことがなかつた。ぜんたい欧洲種の猫は、肩の線が日本猫のやうにいかつてゐないので、がたの美人を見るやうな、すつきりとした、イキな感じがするのである。顔も日本種の猫だと一般に寸が長くつて、眼の下あたりにくぼみがあつたり、頬の骨が飛び出てゐたりするけれども、リヽーの顔は丈が短かく詰まつてゐて、ちやうどはまぐりさかさまにした形の、カツキリとした輪郭の中に、すぐれて大きな美しい金眼きんめと、神経質にヒク/\うごめく鼻が附いてゐた。だが庄造が此の仔猫に惹き附けられたのは、さう云ふ毛なみや顔だちや体つきのためではなかつた。もしも外形だけで云ふなら、庄造だつてもつと美しい波斯ぺるしゃ猫だの暹羅しゃむ猫だのを知つてゐるが、でも此のリヽーは性質が実に愛らしかつた。蘆屋へ連れて来た当座は、まだほんたうに小さくて、てのひらの上へ乗る程であつたが、そのお転婆でやんちやなことは、とんと七つか八つの少女、―――いたづら盛りの、小学校一二年生ぐらゐの女のと云ふ感じだつた。そして彼女は今よりもずつと身軽で、食事の時に食物を摘まんで頭の上へかざしてやると、三四尺の高さまで跳び上つたので、すわつてゐては直ぐ跳び着かれてしまふから、しば/\食事の最中に立ち上らねばならなかつた。彼はその時分からあの曲藝を仕込んだのであるが、箸の先に摘まんだ物を、三尺、四尺、五尺、と云ふ風に、跳び着く毎にだん/\高くして行くと、しまひには着物の膝へ跳び着いて、胸から肩へすばしツこく這ひ上つて、鼠がはりを渡るやうに、箸の先まで腕を渡つて行つたりした。或る時などは店のカーテンに跳び着いて、天井の方までクル/\と這ひ上つて、端から端へ渡つて行つて、又カーテンに掴まつて降りて来る、―――そんな動作を水車のやうに繰り返した。それに、さう云ふ幼い時から非常に表情が鮮やかで、眼や、口元や、小鼻の運動や、息づかひなどで心持の変化をあらはすことは、人間と少しも違はなかつた。就中なかんずくそのぱつちりした大きな眼球は、いつも生き/\とよく動いて、甘える時、いたづらをする時、物に狙ひを付ける時、どんな時でも愛くるしさを失はなかつたが、一番可笑おかしいのは怒る時で、小さい体をしてゐる癖に、やはり猫なみに背を円くして毛を逆立て、尻尾をピンと跳ね上げながら、脚を蹈ん張つてぐつと睨まへる恰好と云つたら、子供が大人の真似をしてゐるやうで、誰でもほゝ笑んでしまふのであつた。
庄造は又、リヽーが始めてお産をした時の、あの訴へるやうなやさしい眼差まなざしを、忘れることが出来ないのであつた。それは蘆屋へ連れて来てから半年ほど過ぎた時分であつたが、或る日の朝、産気さんけづいた彼女はしきりにニヤア/\云ひながら彼の後を追つて歩くので、サイダのばこへ古い座布団ざぶとんを敷いたのを押入の奥の方に据ゑて、そこへ抱いて行つてやると、暫くの間は函に這入つてゐるけれども、直きに襖を開けて出て来て、又啼きながら追ひかける。その啼きごゑは今まで彼が聞いたことのない声だつた。「ニヤア」とは云つてゐるのだが、その「ニヤア」の中に、今までの「ニヤア」が含んでゐなかつた異様な意味が籠つてゐた。まあ云つてみれば、「あゝどうしたらいゝでせう、何だか急に体の工合が変なのです、不思議な事が起りさうな予感がします、こんな気持はまだ覚えがありません、ねえ、どうしたと云ふのでせう、心配なことはないのでせうか?」―――と、さう云ふやうに聞えるのであつた。でも庄造が、
「心配せんかてえゝねんで。もう直きお前、お母さんになるねんが。………」
と、さう云つて頭を撫でゝやると、前脚を膝へ乗せて来て、すがり着くやうな様子をして、
「ニヤア」
と云ひながら、彼の言葉を一生懸命理解しようとするかのやうに、眼の球をキヨロ/\させた。それからもう一度押入の所へ抱いて行つて、函の中へ入れてやつて、
「えゝか、此処にじつとしてるねんで。出て来たらあかんで。えゝなあ? 分つてるなあ?」
と、しんみり云つて聴かせてから、襖を締めて立たうとすると、「待つて下さい、何卒どうぞそこにゐて下さい」とでも云ふやうに、又
「ニヤア」
と云つて悲しげに啼いた。だから庄造もついその声にほだされて、細目に開けて覗いてみると、行李こうりだの風呂敷包みだのいろ/\な荷物が積んである押入の、一番奥の突きあたりにある函の中から首を出して、
「ニヤア」
と云つては此方を見てゐる。畜生ながらまあ何と云ふ情愛のある眼つきであらうと、その時庄造はさう思つた。全く、不思議のやうだけれども、押入の奥の薄暗い中でギラ/\光つてゐるその眼は、最早もはやあのいたづらな仔猫の眼ではなくなつて、たつた今の瞬間に、何とも云へないびと、色気いろけと、哀愁とを湛へた、一人前の雌の眼になつてゐたのであつた。彼は人間の女のお産を見たことはないが、もしその女が年の若い美しい人であつたら、きつと此の通りの、恨めしいやうな切ないやうな眼つきをして、夫を呼ぶに違ひないと思つた。彼は幾度も襖を締めて立ち去りかけては、又戻つて来て覗いてみたが、その度毎にリヽーも函から首を出して、子供が「居ない/\ばあ」をするやうに此方を見た。
さうしてそれが、もう十年も前のことなのである。しかも品子が嫁に来たのがやう/\四年前であるから、それまで六年の間と云ふもの、庄造は蘆屋の家の二階で、母親の外にはたゞ此の猫を相手にしつゝ暮らしたのである。それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、不愛想ぶあいそうであるとか、利己主義であるとか云ふのを聞くと、いつも心に思ふのは、自分のやうに長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分るものか、と云ふことだつた。なぜかと云つて、猫と云ふものは皆幾分か羞渋はにかみやのところがあるので、第三者が見てゐる前では、決して主人に甘えないのみか、へんに余所々々よそよそしく振舞ふのである。リヽーも母親が見てゐる時は、呼んでも知らんふりをしたり、逃げて行つたりしたけれども、さし向ひになると、呼びもしないのに自分の方から膝へ乗つて来て、お世辞を使つた。彼女はよく、額を庄造の顔にあてゝ、頭ぐるみぐいぐいと押して来た。さうしながら、あのザラ/\した舌の先で、頬だの、あごだの、鼻の頭だの、口の周りだのを、所嫌はず舐め廻した。夜は必ず庄造の傍に寝て、朝になると起してくれたが、それも顔ぢゆうを舐めて起すのであつた。寒い時分には、掛け布団の襟をくゞつて、枕の方からもぐり込んで来るのであつたが、寝勝手のよい隙間を見付け出す迄は、懐の中へ這入つてみたり、股ぐらの方へ行つてみたり、背中の方へ廻つてみたりして、やう/\或る場所に落ち着いても、工合が悪いと又直ぐ姿勢や位置を変へた。結局彼女は、庄造の腕へ頭を乗せ、胸のあたりへ顔を着けて、向ひ合つて寝るのが一番都合がよいらしかつたが、もし庄造が少しでも身動きをすると、勝手が違つて来ると見えて、そのつど体をもぐ/\させたり、又別の隙間を捜したりした。だから庄造は、彼女に這入つて来られると、一方の腕を枕に貸してやつたまゝ、なるべく体を動かさないやうに行儀よく寝てゐなければならなかつた。そんな場合に、彼はもう一方の手で、猫の一番喜ぶ場所、あのくびの部分を撫でゝやると、直ぐにリヽーはゴロ/\云ひ出した。そして彼の指に噛み着いたり、爪で引つ掻いたり、よだれを垂らしたりしたが、それは彼女が興奮した時のしぐさなのであつた。
さう云へば一度庄造が布団の中で放屁を鳴らすと、その布団の上の裾の方に寝てゐたリヽーが、びつくりして眼を覚まして、何か奇態な啼き声を出す怪しい奴が隠れてゐるとでも思つたのであらう、さも不審さうな眼をしながら、大急ぎで布団の中を捜し始めたことがあつた。又或る時は、嫌がる彼女を無理に抱き上げようとしたら、手から脱け出て、体を伝はつて降りて行く拍子に、非常に臭い瓦斯ガスを洩らしたのが、まともに庄造の顔にかゝつた。たしかその時は食事の後で、今御馳走を食べたばかりの、ハチ切れさうにふくらんだリヽーのお腹を、偶然庄造が両手でギユツと押さへたのである。そして運悪くも、ちやうど彼女の肛門が彼の顔の真下にあつたので、ちょうから出る息が一直線に吹き上げたのだが、その臭かつたことゝ云つたら、いかな猫好きもその時ばかりは、
「うわツ」
と云つて彼女を床へ放り出した。いたちの最後ツ屁と云ふのも恐らくこんな臭さであらうが、全くそれは執拗な臭ひで、[#「臭ひで、」は底本では「臭ひで。」]一旦鼻の先へこびり着いたら、拭いても洗つても、シャボンでゴシ/\擦つても、その日一日ぢゆう抜けないのであつた。
庄造はよく、リヽーのことで品子といさかひをした時分に、「僕リヽーとは屁までうた仲や」などゝ、嫌味いやみめかして云つたものだが、十年の間も一緒に暮らしてゐたとすれば、たとひ一匹の猫であつても、因縁の深いものがあるので、考へやうでは、福子や品子より一層親しいとも云へなくはない。事実品子と連れ添うてゐたのは、足かけ四年と云ふけれども正味は二年半ほどであるし、福子も今のところでは、来てからやつと一と月にしかならないのである。さうしてみれば長の年月を共にしてゐたリヽーの方が、いろ/\な場合の回想と密接につながつてゐる訳で、つまりリヽーと云ふものは、庄造の過去の一部なのである。だから庄造は、今更いまさら手放すのが辛いのは当り前の人情ではないか、それを物好きだの、猫気違ひだのと、何か大変非常識のやうに云はれる理由がないと思ふのであつた。そして福子の迫害と、母親の説教ぐらゐで、もろくも腰がくじけてしまつて、あの大切な友達をむざ/\他人の手へ渡した自分の弱気と腑甲斐ふがいなさとが、恨めしくなつて来るのであつた。何で自分はもつと正直に、男らしく、道理を説いてみなかつたのだらう。何で女房にも母親にも、もつと/\剛情を張り通さなかつたのであらう。さうしたところで最後には矢張やはり負かされて、同じ結果を見たかも知れぬが、でもそれだけの反抗もせずにしまつたのでは、リヽーに対して如何にも義理が済まないのであつた。
もしもリヽーが、あの尼ヶ崎へ遣つた時代にあれきり戻つて来なかつたとしたら?―――あの時だつたら、彼も一旦いったん同意を与へて他家へ譲つたのであるから、きれいにあきらめもしたであらう。だがあの朝、トタン屋根の上で啼いてゐたのをやつと掴まへて、頬ずりをしながら抱き締めた瞬間に、あゝ、不憫なことをした、己は残酷な主人だつた、もうどんなことがあつても誰にもやるものか、死ぬまで此処に置いてやるのだと、心に誓つたばかりでなく、リヽーとも堅い約束をした気持だつた。それを今度、又あんな風にして追ひ出してしまつたかと思ふと、非常に薄情な、むごいことをしたと云ふ感じが胸に迫つて来るのであつた。その上可哀さうなのは、此の二三年めつきり歳を取り出して、体のこなしや、眼の表情や、毛の色つやなどに、老衰のさまがあり/\と見えてゐたのである。全く、それもその筈で、庄造が彼女をリヤカーへ乗せて此処へ連れて来た時は、彼自身がまだ二十歳はたちの青年だつたのに、もう来年は三十に手が届くのである。まして猫の寿命から云へば、十年と云ふ歳月は、多分人間の五六十年に当るであらう。それを思へば、もう一と頃の元気がないのも道理であるとは云ふものの、カーテンの頂辺てっぺんへ登つて行つて綱渡りのやうな軽業かるわざをした仔猫の動作が、つい昨日のことのやうに眼に残つてゐる庄造は、腰のあたりがゲツソリと痩せて、俯向うつむき加減に首をチヨコ/\振りながら歩く今日此の頃のリヽーを見ると、諸行無常しょぎょうむじょうことわり手近てぢかに示された心地がして、云ふに云はれず悲しくなつて来るのであつた。
彼女がいかに衰へたかと云ふことを証明する事実はいくらもあるが、たとへば跳び上り方が下手になつたのもその一つの例なのである。仔猫の時分には、実際庄造の身の丈ぐらゐ迄は鮮やかに跳んで、あやまたずにえさを捉へた。又必ずしも食事の時に限らないで、いつ、どんな物を見せびらかしても、直ぐ跳び上つた。ところが歳を取る毎に跳び上る度数が少くなり、高さが低くなつて行つて、もう近頃では、空腹な時に何か食物を見せられると、それが自分の好物であるか否かをたしかめた上で、始めて跳び上るのであるが、それでも頭上一尺ぐらゐの低さにしなければ駄目なのである。もしもそれより高くすると、もう跳ぶことをあきらめて、庄造の体を登つて行くか、それだけの気力もない時は、たゞ食べたさうに鼻をヒクヒクさせながら、あの特有な哀れつぽい眼で彼の顔を見上げるのである。「もし、どうか私を可哀さうだと思つて下さい。実はお腹がたまらないほど減つてゐるので、あの餌に跳び着きたいのですが、何を云ふにも此の歳になつて、とても昔のやうな真似は出来なくなりました。もし、お願ひです、そんな罪なことをしないで、早くあれを投げて下さい。」―――と、主人の弱気な性質をすつかり呑み込んでゐるかのやうに、眼に物を云はせて訴へるのだが、品子が悲しさうな眼つきをしてもそんなに胸を打たれないのに、どう云ふものかリヽーの眼つきには不思議な傷ましさを覚えるのであつた。
仔猫の時にはあんなに快活に、愛くるしかつた彼女の眼が、いつからさう云ふ悲しげな色を浮かべるやうになつたかと云ふと、それがやつぱりあの初産の時からなのである。あの、押入の奥のサイダの函から首を出してすべなさゝうに見てゐた時、―――あの時から彼女の眼差に哀愁の影が宿り始めて、そのゝち老衰が加はるほどだん/\濃くなつて来たのである。それで庄造は、とき/″\リヽーの眼を視詰めながら、悧巧だと云つても小さい獣に過ぎないものが、どうしてこんな意味ありげな眼をしてゐるのか、何かほんたうに悲しいことを考へてゐるのだらうかと、思ふ折があつた。前に飼つてゐた三毛だのクロだのは、もつと馬鹿だつたせゐかも知れぬが、こんな悲しい眼をしたことは一度もない。さうかと云つて、リヽーは格別陰鬱な性質だと云ふのでもない。幼い頃は至つてお転婆だつたのだし、親猫になつてからだつて、相当に喧嘩も強かつたし、活溌に暴れる方であつた。たゞ庄造に甘えかゝつたり、退屈さうな顔をして日向ぼつこなどをしてゐる時に、その眼が深い憂ひにちて、涙さへ浮かめてゐるかのやうに、うるおひを帯びて来ることがあつた。もっともそれも、その時分にはなまめかしさの感じの方が強かつたのだが、年を取るに従つて、ぱつちりしてゐた瞳も曇り、眼のふちには眼脂めやにが溜つて、見るもトゲ/\しい、あらはな哀傷を示すやうになつたのである。で、これは事に依ると、彼女の本来の眼つきではなくて、その生ひ立ちや環境の空気が感化を与へたのかも知れない、人間だつて苦労をすると顔や性質が変るのだから、猫でもそのくらゐなことがないとは云へぬ、―――と、さう考へると、尚更なおさら庄造はリヽーに済まない気がするのである。それと云ふのは、今迄十年の間と云ふもの、成る程随分可愛がつてはやつたけれども、いつでもたつた二人ぎりの、淋しい心細い生活ばかりあじわはせて来たのであつた。何しろ彼女が連れて来られたのは、母親と庄造と、親一人子一人の時代だつたから、とても神港軒のコツク場のやうに賑やかではなかつた。そこへ持つて来て母親が彼女をうるさがるので、忰と猫とは二階でしんみり暮らさなければならなかつた。さう云ふ風にして六年の歳月を送つた後に、品子が嫁に来たのであるが、それは結局、此の新しい侵入者から邪魔者扱ひされることになつて、一層リヽーを肩身の狭い者にしてしまつた。
いや、もつと/\済まないことをしたと思ふのは、せめて仔猫を置いてやつて、養育させればよかつたのに、仔が生れると成るべく早く貰ひ手を捜して分けてしまひ、一匹も家へ残さない方針を取つたのであつた。そのくせ彼女は実によく生んだ。外の猫が二度お産をする間に、三度お産をした。相手は何処の猫か分らなかつたが、生れた仔猫たちは混血児あいのこで、鼈甲猫のおもかげを幾分か備へてゐるものだから、割合に希望者が多かつたけれども、時にはそうつと海岸へ持つて行つたり、蘆屋川の堤防の松の木蔭などへ捨てゝ来たりした。これは母親への気がねのためであることは云ふ迄もないが、庄造自身も、リヽーが早く老衰するのは、一つは多産のせゐかも知れぬ、だから姙娠を止めることが出来ないなら、乳を飲ませることだけでも控へさせた方がよいと、さう云ふ頭で取り計らひもしたのであつた。実際彼女は、お産の度毎に眼に見えて老けて行つた。庄造は、彼女がカンガルーのやうに腹を膨らして、切なげな眼つきをしてゐるのを見ると、
「阿呆やなあ、そないに何遍も腹ぼてになつたら、お婆さんになるばかりやないか。」
と、いつも不憫さうな口調で云つた。雄なら去勢して上げるが、雌では手術しにくいと云はれて、
「そんなら、エツキス光線かけとくなはれしまへんか。」
と、さう云つて獣医に笑はれたこともあつた。だが庄造にしてみれば、それやこれやも彼女のためを思つてのことで、無慈悲な扱ひをした積りではなかつたのだが、何と云つても、身の周りから血族を奪つてしまつたことは、彼女をへんにうら淋しい、影の薄いものにしたことはいなまれなかつた。
さう云ふ風に数へて行くと、彼は随分リヽーに「苦労」をかけたと云ふ気がするのである。彼の方が彼女のお蔭で慰められてゐるわりに、リヽーの方は一向楽をしてゐないやうに思へるのである。ことに最近の一二年、夫婦の不和と生計の困難とで始終家の中がゴタ/\してゐた間、リヽーもそれに捲き込まれて、どうしたらよいか身の置きどころがないやうに狼狽うろたへてゐたことがあつた。母親が今津の福子の家から迎ひを寄越して、庄造に呼び出しをかけたりすると、品子より先にリヽーが彼の裾へ縋つて、あの悲しい眼で引き止めたりした。それでも振り切つて出て行くと、犬のやうに後を追ひかけて、一丁も二丁も附いて来た。だから庄造も、品子のことよりは彼女のことが心配になつて、なるべく早く帰るやうにしたのであつたが、二日も三日も泊まつて来た時などは、気のせゐ[#「気のせゐ」は底本では「気のせい」]かも知れぬが、その眼の色に又一段と暗い影が添はつてゐた。
もう此の猫も余命幾何いくばくもないのではないか、―――と、此の頃になつて彼はしば/\そんな予感を覚えるにつけ、さう云ふ夢を見たことも一度や二度ではないのであつた。その夢の中の庄造は、親兄弟に死に別れでもしたやうな悲嘆に沈み、涙で顔を濡らしてゐるのだが、もしほんたうにリヽーの死に遭ふことがあつたら、彼の嘆き方は夢の中のそれにも劣らないやうな気がするのである。で、そんな工合にそれからそれへと考へ始めると、彼女をおめ/\譲つてしまつたことが、又もう一度口惜しく、情なく、腹立たしくなつて来るのであつた。そして彼女のあの眼つきが、何処かの隅から恨めしさうに此方を見てゐるやうに思へて仕方がなかつた。今更悔んでも追つ付かないことだけれども、あんなに老衰してゐたものを、なぜむごたらしく追ひ遣つてしまつたのだらう。なぜ此の家で死なしてやらなかつたのだらう。………
「あんた、何で品子さんあの猫欲しがつてたのんか、その訳分つてなはるか。―――」
その日の夕方、例になくひつそりとしたチヤブ台に向つて、しよんぼり杯のふちを舐めてゐる亭主を見ながら、福子が照れ臭さうな調子で云ふと、
「さあ、何でやろ。」
と、庄造はちよつと空惚そらとぼけた。
「リヽー自分のとこへ置いといたら、きつとあんたが会ひに来るやろ云ふところやねん。なあ、さうだつしやろが。」
「まさか、そんな阿呆らしいこと、………」
「きつとさうに違ひないねん。わて今日やつと気イ付いたわ。あんたその手に乗らんやうにしとくなはれや。」
「分つてる、誰が乗るかいな。」
「きつとやなあ?」
「ふふ」
と庄造は鼻の先で笑つて、
「念押すまでもないこツちやないか。」
と、又杯のふちを舐めた。

今日は忙しおますさかいに、もう上らんと帰りますわと、玄関先にバスケツトを置いて、塚本が出て行つてしまつてから、品子はそれを提げたまゝ狭い急な段梯子を上つて、自分の部屋に当てられた二階の四畳半に這入つて行つた。そして、出入口の襖だのガラス障子だのをすつかり締め切つてしまつてから、バスケツトを部屋のまん中に据ゑて、蓋を開けた。
バスケツトの中のリヽーの挿画
奇妙な事に、リヽーは窮屈な籠の中から直ぐには外へ出ようとせずに、不思議さうに首だけ伸ばしてしばらく室内を見廻してゐた。それからようやく、ゆる/\とした足どりで出て来て、かう云ふ場合に多くの猫がするやうに、鼻をヒクつかせながら部屋ぢゆうの匂を嗅ぎ始めた。品子は二三度、
「リヽー」
と呼んでみたけれども、彼女の方へはチラリとそつけない流眄ながしめを与へたきりで、づ出入口と押入の閾際しきいぎわへ行つて匂を嗅いで見、次ぎには窓の所へ行つてガラス障子を一枚づゝ嗅いで見、針箱、座布団、物差、縫ひかけの衣類など、その辺にあるものを一々丹念に嗅いで廻つた。品子はさつき、鶏肉の新聞包を預かつたことを思ひ出して、その包のまゝ通り路へ置いてみたけれども、それには興味を感じないらしく、ちよつと嗅いたゞけで、振り向きもしない。そして、バサリ、バサリ、………と、畳の上に無気味な足音をさせながら、一と通り室内捜索をしてしまふと、もう一遍出入口の襖の前へ戻つて来て、前脚をかけて開けようとするので、
「リヽーや、お前けふからわての猫になつたんやで。もう何処へも行つたらあかんねんで。」
と、さう云つてそこに立ち塞がると、又仕方なくバサリ、バサリと歩き廻つて、今度は北側の窓際へ行き、恰好な所に置いてあつた小裂箱こぎればこの上に上つて、背伸びをしながらガラス障子の外を眺めた。
九月も昨日でおしまひになつて、もうほんたうの秋らしく晴れた朝であつたが、少し寒いくらゐの風が立つて、裏の空地に聳えてゐる五六本のポプラーの葉が白くチラ/\ふるへてゐる向うに、摩耶山まやさんと六甲の頂が見える。人家がもつと建て込んでゐる蘆屋の二階の景色とは、大分様子が違ふのだけれども、リヽーはいつたいどんな気持で見てゐるのだらうか。品子は図らずも、よく此の猫と二人きりで置き去りにされたことがあつたのを思ひ出した。庄造も、母親も、今津へ出かけたきり帰らないので、一人ぼつちでお茶漬を掻つ込んでゐると、その音を聞いてリヽーが寄つて来る。あゝ、さうだつた、御飯をやるのを忘れてゐたが、お腹が減つてゐるのだらうと、さすがに可哀さうになつて、残飯の上に出し雑魚じゃこを載せてやると、贅沢な食事に馴れてゐるせゐか嬉しさうな顔もしないで、ほんの申訳ぐらゐしか食べないものだから、つい腹が立つて、折角の愛情も消し飛んでしまふ。夜は夫の寝床を敷いて、帰るかどうか分らない人を待ちびてゐると、その寝床の上へ遠慮会釈えしゃくもなく乗つて来て、のう/\と脚を伸ばす憎らしさに、寝かけたところを叩き起して追ひ立てゝやる。そんな工合に、随分此の猫には当り散らしたものだけれども、再びかうして一緒に暮すやうになつたのは、やつぱり因縁と云ふのであらう。品子は自分が蘆屋の家を追ひ出されて来て、始めて此の二階に落ち着いた時にも、あの北側の窓から山の方を眺めながら、夫恋ひしさの思ひに駈られたことがあるので、今のリヽーがあゝして外を見てゐる心持もぼんやり分るやうな気がして、ふと眼頭が熱くなつて来るのであつた。
「リヽーや、さ、此方へ来て、これ食べなさい。―――」
やがて彼女は、押入の襖を開けて、かねて用意をしておいたものを取り出しながら云ふのであつた。彼女は昨日塚本の端書はがきを受け取つたので、いよ/\此処へ連れて来られる珍客を※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)かんたいするために、今朝はいつもより早起きをして、牧場から牛乳を買つて来るやら、皿やお椀を揃へておくやら、―――此の珍客にはフンシが必要だと気が付いて、昨夜慌てゝ炮烙ほうらくを買ひに行つたのはいゝが、砂がないのには困つてしまつて、五六丁先の普請場ふしんばから、コンクリートに使ふ砂を闇にまぎれて盗んで来るやらして、そんなものまで押入の中にこつそり忍ばせて置いたのである。で、その牛乳と、花鰹節はながつおをふりかけた御飯のお皿と、剥げちよろけの、ふちのかけたおわんを取り出すと、びんの牛乳をお椀へ移して、部屋のまん中へ新聞紙をひろげた。それからお土産の包を開いて、水煮みずだきにしてあるかしわの肉を、たけの皮ぐるみそれらの御馳走と一緒に並べた。そして「リヽーや、リヽーや」とつゞけさまに呼びながら、皿と罎とをカチヤ/\[#「カチヤ/\」は底本では「カチャ/\」]打ちつけてみたりしたけれども、リヽーはてんで聞えないふりをして、まだ窓ガラスにしがみ着いてゐるのであつた。
「リヽーや」
と、彼女は躍起やっきになつて呼んだ。
「お前、何でそない[#「そない」は底本では「しない」]おもてばかり見てんのん? お腹すいてエへんのんか?」
さつきの塚本の話では、乗物に酔ふといけないと云ふ庄造の心づかひから、今朝は朝飯を与へてゐないのださうであるから、余程空腹を訴へなければならない筈で、本来ならば皿小鉢の鳴る音を聞いたら忽ち飛んで来るところだのに、今はその音も耳に這入らず、ひもじいことも感じないくらゐ、此処を逃れたい一念に駆られてゐるのであらうか。彼女は嘗て此の猫が尼ヶ崎から戻つて来た一件を聞かされてゐるので、当分の間は眼が放されないことであらうと、覚悟してゐたものゝ、でも食べものを食べてくれて、フンシへ小便を垂れるやうになつてくれたら大丈夫だと、それを頼みにしてゐたのだが、来る※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそうからこんな調子では、直ぐにも逃げられてしまひさうに思へた。そして動物を手なづけるには、自分のやうに性急せっかちにしてはいけないのだと知りながら、何とかして食べるところを見届けたさに、無理に窓際から引き離して、部屋のまん中へ抱いて来て、食べものゝ上へ順々に鼻を押しつけてやると、リヽーは脚をバタ/\やらして、爪を立てたり引つ掻いたりするので、仕方がなしに放してしまふと、又窓際へ戻つて行つて、小裂箱こぎればこの上へ登る。
「リヽーや、これ、これを見て御覧。こゝにお前のいつち好きなもんあるのんに、これが分らんかいな。」
と、此方も依怙地えこじに追ひかけて行つて、鶏の肉だの牛乳だのを執拗しつッこく持ち廻りながら、鼻の先へこすり着けるやうにしてやつても、今日ばかりはその好物の匂にも釣られなかつた。
これが全く見も知らぬ人に預けられたと云ふのではなし、兎も角も足かけ四年の間同じ屋根の下に住み、同じかまどの御飯をたべて、時にはたつた二人ぎりで三日も四日も留守番をさせられた仲であるのに、あんまり無愛想過ぎるではないか。それとも私にいぢめられたことを今も根に持つてゐるのだとすれば、畜生の癖に生意気なと、つい腹も立つて来るのであつたが、こゝで此の猫に逃げられてしまつたら、折角の計劃けいかくが水の泡になつた上、蘆屋の方でそれ見たことかと手を叩いて笑ふであらう、もう此の上は根較こんくらべをして、気が折れて来るのを待つより外に仕方がない、なあに、あゝして食ひ物とフンシとを眼の前に当てがつておきさへすれば、いくら剛情を張つたつて、しまひにはお腹が減つて来るから食はずにゐられないであらうし、小便だつて垂れるであらう、そんなことより今日は私は忙しいのだ、是非晩までにと請け合つた仕事があつたのに、朝から何一つ手を付けてゐないのだつたと、やう/\彼女は思ひ返して、針箱の傍にすわつた。そして男物の銘仙の綿入を、それからせツせと縫ひにかゝつたが、ものゝ一時間もさうしてゐるうちに、直ぐ又心配になつて来るので、とき/″\様子に気を付けてゐると、やがてリヽーは部屋の隅ツこの方へ行つて、壁にぴつたり寄り添うてうづくまつたまゝ、身動き一つしないやうになつてしまつた。それは全く、畜生ながらも逃れる道のないことを悟つて、観念の眼を閉ぢたとでも云ふのであらうか。人間だつたら、大きな悲しみにとざされた余り、あらゆる希望をなげうつて、死を覚悟したと云ふところでもあらうか。品子は薄気味悪くなつて、生きてゐるかどうかを確かめるために、そうつと傍へ寄つて行つて、抱き起して見、呼吸を調べて見、突き動かして見ると、何をされても抵抗もしない代りに、まるであわびの身のやうに体ぢゆうを引き締めて、固くなつてゐる様が指先に感じられる。まあ、ほんたうに、何と云ふ剛情な猫であらう。こんな工合で、いつになつたらなつく時があるであらう。だが事にると、わざとあゝ云ふ風をして、此方の油断を見すましてゐるのではないか。今はあゝして、あきらめたやうにしてゐるけれども、重い板戸をさへ開ける猫であるから、うつかり部屋を留守にしたら、その間にゐなくなつてしまふのではないか。さう思ふと彼女は、他人のことよりも自分自身が、御飯を食べに行くこともかわやへ立つことも出来ないのであつた。
ひるになつて、妹の初子が
「姉さん、御飯」
と、段梯子の下から声をかけると、
「はい」
と品子は立ち上りながら、暫く部屋の中をうろ/\した。そして結局、メリンスの腰紐を三本つないで、リヽーの肩から腋の下へ、十文字にたすきをかけて、強く緊め過ぎないやうに、さうかと云つてスツポリ抜けられないやうに、何度も念を入れて締め直して、背中でしつかり結び玉を作つた。それからその紐のもう一方の端を持つて、又ひとしきりうろ/\してゐたが、とう/\天井から下つてゐる電燈のコードにくくり着けると、やつと安心して階下したへ降りた。が、食事の間も気にかゝるので、そこ/\にして上つて来てみると、縛られたまゝ矢張隅ツこの方へ行つて、前よりもなほ体をちゞめてゐるではないか。彼女はいつそ、自分がゐない方がいゝのかも知れない、暫くひとりにしておいたら、その間に食べるものは食べ、垂れるものは垂れるかも知れないと、さうも期待してゐたのであつたが、勿論そんな形跡もない。彼女は「チヨツ」と舌打ちをして、今も部屋のまん中に空しく置かれてある御馳走のお皿と、砂が少しも濡れてゐない綺麗なフンシとを恨めしさうに睨みながら、針箱の傍にすわる。かと思ふと、あゝ、さうだつた、[#「さうだつた、」は底本では「さうだつた。」]あんまり長く縛つておいては可哀さうだと、又立ち上つて、ほどきに行つて、ついでに撫でゝみたり、抱いてみたり、駄目と知りながらも食べものをすゝめてみたり、フンシの位置を換へてみたり、それを幾度か繰り返すうちに日が暮れて来て、夕方の六時頃になると、階下したから初子が晩の御飯を知らせるので、又紐を持つて立ち上る。そんな風にして、その日は一日猫のことにかまけて、請け合つた仕事も出来ないまゝに秋の夜長が更けてしまつた。
十一時が鳴ると、品子は部屋を片づけてから、もう一度リヽーを縛つて、座布団を二枚も敷いた上へ臥かして、御飯と便器とを身近な所へ並べてやつた。それから自分の寝床を伸べ、あかりを消して眠りに就いたが、せめて朝になるまでには、牛乳でもかしわでも何でもいゝから、れか一つぐらゐ食べてゐてくれないだらうか、明日の朝眼を開いた時あのお皿が空になつてゐてくれたら、さうしてフンシが濡れてゐてくれたら、どんなに嬉しいであらうなどゝ思ふと、眼が冴えて来て寝られないまゝに、リヽーの寝息が聞えるか知らんと闇の中で耳を澄ますと、しーんと水を打つたやうで、微かな音もしてゐない。あまり静か過ぎるのが気になつて、枕から首をもたげると、窓の方は薄ぼんやりと明るいけれども、リヽーがゐる筈の隅ツこの方は生憎あいにく真つ暗で何も見えない。ふと思ひついて、頭の上を手さぐりして、天井からはすツかひに引つ張られてゐる紐を掴んで、手繰たぐり寄せると、大丈夫手答へがある。でも念のために電燈を付けて見ると、成る程ゐることはゐるけれども、あの、ねたやうにちゞこまつて、円くなつてゐる姿勢が、昼間と少しも変つてゐないし、食べ物もフンシもそつくりそのまゝ並んでゐるので、又がつかりして明りを消す。そのうちにようやくとろ/\としかけて、暫くしてから眼を覚ますと、もういつの間にか夜が明けてゐて、見ればフンシの砂の上に大きな塊が落してあり、牛乳のお皿と御飯のお皿がすつかり平げられてゐるので、しめたと思ふとそれが夢だつたりするのである。
だが、一匹の猫を手なづけるのは、こんなに骨の折れることなのだらうか。それともリヽーと云ふ猫が特別に剛情なのだらうか。もっともこれがまだ頑是がんぜない仔猫であつたら、訳なくなつくのであらうけれども、かう云ふ老猫になつて来ると、人間と同じで、習慣や環境の違つた場所へ連れて来られると云ふことが、非常な打撃なのかも知れない。そして遂には、それが原因で死ぬやうなことになるのかも知れない。品子はもと/\、腹に一つの目算があつて好きでもない猫を引き取つたので、こんなに手数が懸るものとは知らなかつたが、云はゞ以前は敵同士であつた獣のお蔭で、夜もおち/\寝られないほど苦労をさせられる因縁を思ひ合はせると、不思議にも腹が立たないで、猫も可哀さうなら自分も可哀さうだと云ふ気持が湧いて来るのであつた。考へてみれば、自分だつて蘆屋の家を出て来た当座は、此処の二階にひとりでしよんぼりしてゐることが此の上もなく悲しくつて、妹夫婦が見てゐない時は、毎日毎晩泣いてばかりゐたではないか。自分だつて、二日三日は何をする元気もなく、ろく/\物も食べなかつたではないか。さうしてみれば、リヽーにしたつて蘆屋が恋ひしいのは当り前だ。庄造さんにあんなに可愛がられてゐたのだものを、そのくらゐな情がなければ恩知らずだ。ましてこんなに年を取つて、住み馴れた家を追はれ、嫌ひな人の所へなんか連れて来られて、どんなにないであらう。もしほんたうにリヽーを手なづけようと云ふなら、その心持を察してやり、何よりも安心と信頼を持たせるやうに仕向けなければならない。悲しい感情で胸が一杯になつてゐる時に、無理に御馳走をすゝめたら、誰だつて腹が立つではないか。だのに自分は、「食べるのが嫌なら小便をしろ」と、フンシ迄も突き付けた。あまりと云へば手前勝手な、心なしの遣り方だつた。いや、そのくらゐはまだいゝとして、縛つたのが一番よくなかつた。相手に信頼されたかつたら、先づ此方から信頼してかゝらなければならないのに、あれではます/\恐怖心を起させる。いくら猫でも、縛られてゐては食慾も出ないであらうし、小便も詰まつてしまふであらう。
明くる日になると、品子は縛ることを止めにして、逃げられたら逃げられたで仕方がないと、度胸どきょうをきめた。そしてとき/″\、五分か十分ぐらゐの間、試しに独り放つておいて、部屋を留守にしてみると、まだ剛情にちゞこまつてはゐるけれども、いゝ塩梅あんばいに逃げ出しさうな風も見えない。それでにわかに気を許したことが悪かつたのだが、おひるの御飯に、今日はゆつくり食べようと思つて、三十分ほど階下したへ降りてゐる時だつた、二階で何か、ガサツと云ふ音がしたやうなので、急いで上つて来てみると、襖が五寸ほど開いてゐる。多分リヽーは、そこから廊下へ出て、南側の、六畳の間を通り抜けて、折悪く開け放しになつてゐたそこの窓から屋根へ飛び出したのであらう、もうその辺には影も形も見えなかつた。
「リヽーや、………」
彼女はさすがに大きな声でわめかうとして、ついその声が出ずにしまつた。あんなに辛苦したかひもなく、やつぱり逃げられたかと思ふと、もう追ひかける気力もなく、何だかホツとして、荷が下りたやうな工合であつた。どうせ自分は動物を馴らすのが下手なのだから、おそかれ早かれ逃げられるにきまつてゐるものなら、早く片がついた方がいゝかも知れない。これで却つてサバ/\して、今日からは仕事もはかどるであらうし、夜ものんびり寝られるであらう。それでも彼女は、裏の空地へ出て行つて、雑草の中を彼方此方掻き分けながら、
「リヽーや、リヽーや」
と、暫く呼んでみたけれども、今頃こんな所に愚図々々してゐる筈がないことは、分りきつてゐたのであつた。

リヽーが逃げて行つてから、当日の晩も、その明くる晩も、又その明くる晩も、品子は安心して寝られるどころか、さつぱり眠れないやうになつてしまつた。いつたい彼女は癇性かんしょうのせゐか、二十六と云ふとしのわりにはざとい方で、下女奉公をしてゐた時代から、どうかすると寝られない癖があつたものだが、今度も此の二階に引き移つてから、多分寝所の変つたのが原因であらう、ほとんど正味三四時間しか寝ない晩が長い間つゞいてゐて、やう/\十日ばかり前から少し寝られるやうになりかけた所だつたのである。それがあの晩から、又眠れなくなつたのはどうしてか知らん? 彼女は詰めて仕事をすると、直きに肩が凝つて来たり興奮したりするのであるが、此の間からリヽーのためにおくれてゐたのを取り返さうとして、余り縫ひ物に熱中し過ぎたせゐか知らん? それに元来が冷え性なので、まだ十月の初めだと云ふのにそろ/\足が冷えて来て、布団へ這入つても容易にぬくもらないのである。彼女は夫にうとんぜられたそのそも/\のキツカケを、ふと想ひ出して来るのであるが、それも今から考へれば、全く自分の冷え性から起つたことなのであつた。ひどく寝つきのいゝ庄造は、布団へ這入つて五分もすれば眠つてしまふのに、そこへ突然氷のやうな足に触られて、起されてしまふのがたまらないから、お前はそつちで寝てくれろと云ふ。そんなことからつい別々に寝るやうになつたが、寒い時分には湯たんぽのことでよく喧嘩をした。なぜかと云つて、庄造は彼女と反対に、人一倍上気のぼせ性なのである。分けても足が熱いと云つて、冬でも少し布団の裾へ爪先を出すくらゐにしないと、寝られない男なのである。だから湯たんぽで暖めてある布団へ這入ることを嫌つて、五分と辛抱してゐなかつた。勿論それが不和をかもした根本の理由ではないけれども、しかしさう云ふ体質の相違がよい口実に使はれて、だん/\独り寝の習慣を付けられてしまつたのであつた。
彼女は右の首筋から肩の方へしこりが出来て恐しく張つてゐるやうなので、とき/″\そこを揉んでみたり、寝返りを打つて枕の当るところを換へてみたりした。毎年夏から秋へかけて、陽気の変り目に右の下頤の虫歯が痛んで困るのであるが、昨夜あたりから少しズキ/\し出したやうである。さう云へば、此の六甲と云ふ所は、これから冬になつて来ると、毎年六甲おろしが吹いて、蘆屋などよりずつと寒さが厳しいのであると聞いてゐたけれども、もう此の頃でも夜は相当に冷え込むので、同じ阪神の間でありながら、何だか遠い山国へでも来たやうな気がする。彼女は体を海老のやうにちゞこめて、無感覚になりかけた両方の足を擦り合はした。蘆屋時代には、もう十月の末になると、夫と喧嘩しながらも湯たんぽを入れて寝たのであつたが、こんな工合だと、ことしはそれまで待てないかも知れない。………
寝付かれないものとあきらめてしまつて、電燈を付けて、妹から借りた先月号の「主婦之友」を、横向きに臥ながら読み出したのが、ちやうど夜中の一時であつたが、それから間もなく、遠くの方からざあツと云ふ音が近寄つて来て、直きにざあツと通り過ぎて行くのが聞えた。おや、時雨しぐれかな、と思つてゐると、又ざあツとやつて来て、屋根の上を通る時分には、パラ/\とまばらな音を落して、忍び足に消えて行く。暫くすると、又ざあツとやつて来る。それにつけても、リヽーは今頃何処にゐるか、蘆屋へ帰つてゐるならいゝが、もしさうでもなく、路に迷つてゐるなら、こんな晩にはさぞ雨に濡れてゐるであらう。実を云ふと、まだ塚本には逃げられたことを知らせてやらないのであるが、あれから此方、ずつとそのことが頭に引つかゝつてゐるのであつた。彼女としては早く知らしてやつた方が行き届いてゐることは分つてゐたのだが、「はばかりながら、とうに戻つて来てをりますから御安心下すつて結構です、いろ/\お手数をかけましたが、もう御入用はありますまいな」と、皮肉交りに云はれさうなのが業腹ごうはらで、つい延び/\にしてゐたのである。しかし戻つてゐるとしたら、此方の通知を待つ迄もなく、向うからも挨拶がありさうなものだのに、何とも云つて来ないのをみると、何処かにまごついてゐるのであらうか。尼ヶ崎の時は、姿が見えなくなつてから一週間目に戻つたと云ふのだが、今度はそんなに遠い所ではないのだし、つい三日前に通つて来たばかりの路なのだから、よもや迷ふことはないであらう。たゞ近頃は耄碌もうろくしてゐて、あの時分よりはカンも悪く、動作も鈍くなつてゐるから、三日かゝるところが四日かゝるやうなことはあるかも知れない。さうだとしても、おそくも明日か明後日のうちには無事に戻つて行くであらう。するとあの二人がどんな喜びやうをするか。そしてどんなに溜飲を下げるか。きつと塚本さんまでが一緒になつて、「それ見ろ、あれは亭主に捨てられるばかりか、猫にまで捨てられるやうな女だ」と云ふであらう。いや/\、階下の妹夫婦もお腹の中ではさう思ふであらうし、世間の人がみんな笑ひ物にするであらう。
その時、しぐれがまた屋根の上をパラ/\と通つて行つた後から、窓のガラス障子に、何かがばたんとつかるやうな音がした。風が出たな、あゝ、イヤなことだ、と、さう思つてゐるうちに、風にしては少し重みのあるやうなものが、つゞいて二度ばかり、ばたん、ばたんと、ガラスを叩いたやうであつたが、かすかに、
「ニヤア」
と云ふ声が、何処かに聞えた。まさか今時分、そんなことが、………と、ぎくツとしながら、気のせゐかも知れぬと耳を澄ますと、矢張、
「ニヤア」
と啼いてゐるのである。そしてそのあとから、あのばたんと云ふ音が聞えて来るのである。彼女は慌てゝ跳ね起きて、窓のカーテンを開けてみた。と、今度はハツキリ、
「ニヤア」
と云ふのがガラス戸の向うで聞えて、ばたん、………と云ふ音と同時に、黒い物の影がさつとかすめた。さうか、やつぱりさうだつたのか、―――彼女はさすがに、その声には覚えがあつた。此の間こゝの二階にゐた時は、とう/\一度も啼かなかつたが、それは確かに、蘆屋時代に聞き馴れた声に違ひなかつた。
窓の挿画
急いで挿し込みのネヂを抜いて、窓から半身を乗り出しながら、室内から射す電燈のあかりをたよりに暗い屋根の上を透かしたけれども、一瞬間、何も見えなかつた。想像するに、その窓の外に手すりの附いた張り出しがあるので、リヽーは多分そこへ上つて、啼きながら窓を叩いてゐたのに違ひなく、あのばたんと云ふ音とたつた今見えた黒い影とは正しくそれだつたと思へるのであるが、内側からガラス戸を開けた途端に、何処かへ逃げて行つたのであらうか。
「リヽーや、………」
と、階下したの夫婦を起さないやうに気がねしながら、彼女は闇に声を投げた。瓦が濡れて光つてゐるので、さつきのあれが時雨だつたことは疑ふ余地がないけれども、それがまるで※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだつたやうに、空には星がきら/\してゐる。眼の前を蔽ふ摩耶山の、幅広な、真つ黒な肩にも、ケーブルカアのあかりは消えてしまつてゐるが、頂上のホテルに灯の燈つてゐるのが見える。彼女は張り出しへ片膝をかけて、屋根の上へノメリ出しながら、もう一度、
「リヽーや」
と、呼んだ。すると、
「ニヤア」
と云ふ返辞をして、瓦の上を此方へ歩いて来るらしく、燐色りんいろに光る二つの眼の玉がだん/\近寄つて来るのである。
「リヽーや」
「ニヤア」
「リヽーや」
「ニヤア」
何度も/\、彼女が頻繁に呼び続けると、その度毎たびごとにリヽーは返辞をするのであつたが、こんなことは、つひぞ今迄にないことだつた。自分を可愛がつてくれる人と、内心嫌つてゐる人とをよく知つてゐて、庄造が呼べば答へるけれども、品子が呼ぶと知らん顔をしてゐたものだのに、今夜は幾度でも億劫おっくうがらずに答へるばかりでなく、次第に媚びを含んだやうな、何とも云へない優しい声を出すのである。そして、あの青く光る瞳を挙げて、体に波を打たせながら手すりの下まで寄つて来ては、又すうつと向うへ行くのである。大方猫にしてみれば、自分が無愛想にしてゐた人に、今日から可愛がつて貰はうと思つて、いくらか今迄の無礼をびる心持も籠めて、あんな声を出してゐるのであらう。すつかり態度を改めて、庇護を仰ぐ気になつたことを、何とかして分つて貰はうと、一生懸命なのであらう。品子は初めて此の獣からそんな優しい返辞をされたのが、子供のやうに嬉しくつて、何度でも呼んでみるのであつたが、抱かうとしてもなか/\掴まへられないので、暫くの間、わざと窓際を離れてみると、やがてリヽーは身を躍らして、ヒラリと部屋へ飛び込んで来た。それから、全く思ひがけないことには、寝床の上にすわつてゐる品子の方へ一直線に歩いて来て、その膝に前脚をかけた。
これはまあ一体どうしたことか、―――彼女が呆れてゐるうちに、リヽーはあの、哀愁に充ちた眼差でじつと彼女を見上げながら、もう胸のあたりへもたれかゝつて来て、綿フランネルの寝間着の襟へ、額をぐいぐいと押し付けるので、此方からも頬ずりをしてやると、頤だの、耳だの、口の周りだの、鼻の頭だのを、やたらに舐め廻すのであつた。さう云へば、猫は二人きりになると接吻をしたり、顔をすり寄せたり、全く人間と同じやうな仕方で愛情を示すものだと聞いてゐたのは、これだつたのか、いつも人の見てゐない所で夫がこつそりリヽーを相手に楽しんでゐたのは、これをされてゐたのだつたか。―――彼女は猫に特有な日向臭ひなたくさい毛皮の匂を嗅がされ、ザラ/\と皮膚に引つかゝるやうな、痛痒いたがゆい舌ざはりを顔ぢゆうに感じた。そして、突然、たまらなく可愛くなつて来て、
「リヽーや」
と云ひながら、夢中でぎゆツと抱きすくめると、何か、毛皮のところ/″\に、冷めたく光るものがあるので、さては今の雨に濡れたんだなと、初めて合点が行つたのであつた。
それにしても、蘆屋の方へ帰らないで、此方へ帰つたのはなぜであらう。恐らく最初は蘆屋をめざして逃げ出したのが、途中で路が分らなくなつて、戻つて来たのではないであらうか。わずか三里か四里のところを、三日もかゝつてうろ/\しながら、とう/\目的地へ行き着けないで引つ返して来るとは、リヽーにしては余り意気地がないやうだけれども、事に依ると此の可哀さうな獣は、もうそれほどに老衰してゐるのであらう。気だけは昔に変らないつもりで、逃げてみたことはみたものゝ、視力だの、記憶力だの、嗅覚だのと云ふものが、もはや昔の半分もの働きもしてくれないので、どつちの路を、どつちの方角から、どう云ふ風に連れて来られたのか見当が付かず、彼方へ行つては踏み迷ひ、此方へ行つては踏み迷ひして、又もとの場所へ戻つて来る。昔だつたら、一旦かうと思ひ込んだらどんなに路のない所でもガムシヤラに突進したものが、今では自信がなくなつて、様子の知れない所へ分け入ると怖気おじけがついて、ひとりでに足がすくんでしまふ。きつとリヽーは、そんな風にして案外遠くの方までは行くことが出来ず、此の界隈かいわいをまご/\してゐたのであらう。さうだとすれば、昨日の晩も、一昨日の晩も、夜な/\此の二階の窓の近くへ忍び寄つて、入れて貰はうかどうしようかと躊躇ためらひながら、中の様子をうかがつてゐたのかも知れない。そして今夜も、あの屋根の上の暗い所にうづくまつて長い間考へてゐたのであらうが、室内にあかりが燈つたのと、俄かに雨が降つて来たのとで、急にあゝ云ふ啼き声を出して障子を叩く気になつたのであらう。でもほんたうに、よく帰つて来てくれたものだ。よつぽど辛い目に遭つたればこそであらうけれども、矢張私をアカの他人とは思つてゐない証拠なのだ。それに私も、今夜に限つてこんな時刻に電燈をつけて、雑誌を読んでゐたと云ふのは、虫が知らしたせゐなのだ。いや、考へれば、此の三日間ちよつとも眠れなかつたのも、実はリヽーの帰つて来るのが何となく待たれたからだつたのだ。さう思ふと彼女は、涙が出て来て仕方がないので、
「なあ、リヽーや、もう何処へも行けへんなあ。」
と、さう云ひながら、もう一遍ぎゆつと抱きしめると、珍しいことにリヽーはじつと大人しくして、いつまでも抱かれてゐるのであつたが、その、物も云はずに唯悲しさうな眼つきをしてゐる年老いた猫の胸の中が、今の彼女には不思議なくらゐはつきり見透せるのであつた。
「お前、きつとおなか減つてるやろけど、今夜はもう遅いよつてにな。―――台所捜したら何なとあるやろ思ふけど、ま、仕方ない、此処わての家と違ふよつてに、明日の朝まで待ちなされや。」
彼女はこと/\に頬ずりをしてから、ようようリヽーを下に置いて、忘れてゐた窓の戸締まりをし、座布団で寝床を拵へてやり、あの時以来まだ押入に突つ込んであつたフンシを出してやりなどすると、リヽーはその間も始終後を追つて歩いて、足もとに絡み着くやうにした。そして少しでも立ち止まると、直ぐその傍へ走り寄つて、首を一方へ傾けながら、何度も耳の附け根のあたりを擦り着けに来るので、
「えゝ、もうえゝがな、分つてるがな。さ、此処へ来て寝なさい/\。」
と、座布団の上へ抱いて来てやつて、大急ぎであかりを消して、やつと彼女は自分の寝床へ這入つたのであつたが、それから一分とたゝないうちに、たちますうツと枕の近くにあの日向臭ひなたくさい匂がして来て、掛け布団をもく/\持ち上げながら、天鵞絨びろうどのやうな柔かい毛の物体が這入つて来た。と、ぐいぐい頭からもぐり込んで、脚の方へ降りて行つて、裾のあたりを暫くの間うろ/\してから、又上の方へ上つて来て、寝間着のふところへ首を入れたなり動かないやうになつてしまつたが、やがてさも気持の好さゝうな、非常に大きな音を立てゝ咽喉をゴロ/\鳴らし始めた。
さう云へば以前、庄造の寝床の中でこんな工合にゴロ/\云ふのを、いつも隣で聞かされながら云ひ知れぬ嫉妬を覚えたものだが、今夜は特別にそのゴロ/\が大きな声に聞えるのは、よつぽど上機嫌なのであらうか、それとも自分の寝床の中だと、かう云ふ風にひゞくのであらうか。彼女はリヽーの冷めたく濡れた鼻のあたまと、へんにぷよ/\したあしのうらの肉とを胸の上に感じると、全く初めての出来事なので、奇妙のやうな、嬉しいやうな心地がして、真つ暗な中で手さぐりしながら頸のあたりを撫でゝやつた。するとリヽーは一層大きくゴロ/\云ひ出して、とき/″\、突然人差指の先へ、きゆツと噛み着いて歯型を附けるのであつたが、まだそんなことをされた経験のない彼女にも、それが異常な興奮と喜びの余りのしぐさであることが分るのであつた。
その明くる日から、リヽーはすつかり品子と仲好しになつてしまつて、心から信頼してゐる様子が見え、もう牛乳でも、花鰹節の御飯でも、何でもおいしさうに食べた。そしてフンシの砂の中へ日に幾度か排泄物を落すので、いつもその匂が四畳半の部屋の中へむうツと籠るやうになつたが、彼女はそれを嗅いでゐると、いろ/\な記憶が思ひがけなくよみがへつて、蘆屋時代のなつかしい日が戻つて来たやうに感ずるのであつた。なぜかと云つて、蘆屋の家では明けても暮れても此の匂がしてゐたではないか。あの家の中の襖にも、柱にも、壁にも、天井にも、皆此の匂がみついてゐて、彼女は夫や姑と一緒に四年の間これを嗅ぎながら、口惜しいことや悲しいことの数々に堪へて来たのではないか。だが、あの時分には、此の鼻持ちのならない匂を呪つてばかりゐたくせに、今はその同じ匂が何と甘い回想をそゝることよ。あの時分には此の匂故にひとしほ憎らしかつた猫が、今はその反対に、此の匂故に如何にいとほしいことよ。彼女はそのゝち毎晩のやうにリヽーを抱いて眠りながら、此の柔順で可愛らしい獣を、どうして昔はあんなにも嫌つたのかと思ふと、あの頃の自分と云ふものが、ひどく意地の悪い、鬼のやうな女にさへ見えて来るのであつた。

さて此の場合、品子が此の猫の身柄について福子に嫌味な手紙を出したり、塚本を通してあんなに執拗しつッこく頼んだりした動機と云ふものを、一寸説明しておかなければならないのであるが、正直のところ、そこにはいたづらや意地悪の興味が手伝つてゐたことも確かであり、又庄造が猫に釣られて訪ねて来るかも知れないと云ふ万一の望みもあつたであらうが、そんな眼の前のことよりも、実はもつと遠い/\先のこと、―――ま、早くて半年、おそくて一年か二年もすれば、多分福子と庄造の仲が無事に行く筈はないのだからと、その時を見越してゐるのであつた。それと云ふのが、もと/\塚本の仲人口なこうどぐちに乗せられて嫁に行つたのが不覚だつたので、今更あんな怠け者の、意気地なしの、働きのない男なんぞに、捨てられた方が仕合はせだつたかも知れないのだが、でも彼女としてどう考へても忌ま/\しく、あきらめきれない気がするのは、当人同士が飽きも飽かれもした訳ではないのに、ハタの人間が小細工をして追ひ出したのだと、さう云ふ一念があるからだつた。もっともそんなことを云ふと、いや、さう思ふのはお前さんの己惚うぬぼれだ、それは成る程、姑との折合も悪かつたに違ひないけれども、夫婦仲だつてちつとも良いことはなかつたではないか、お前さんは御亭主をのろまだと云つて低能児扱ひにするし、御亭主はお前さんをが強いと云つて鬱陶うっとうしがるし、いつも喧嘩ばかりしてゐたのを見ると、よく/\しょうが合はないのだ、もし御亭主がほんとにお前さんを好いてゐるなら、いくらハタから押し付けたつて、外に女を拵へる訳がありますまいと、さう露骨には云はない迄も、塚本などのお腹の中は大概たいがいさうにきまつてゐるのだが、それは庄造と云ふ人の性質を知らないからのことなので、彼女に云はせれば、いつたいあの人はハタから強く押し付けられたら、いやおうもないのである。呑気と云ふのか、ぐうたらと云ふのか、其の人よりも此の人がいゝと云はれると、すぐふら/\とその気になつてしまふのだけれども、自分から女を拵へて古い女房を追ひ出したりする程、一途に思ひ詰める性分ではないのである。だから品子は熱烈に惚れられた覚えはないが、嫌はれたと云ふ気もしないので、まわりの者が智慧をつけたりそゝのかしたりしなかつたら、よもや不縁にはならなかつたらう、自分がこんな憂き目を見るのは、全くおりんだの、福子だの、福子の親父おやじだのと云ふものがお膳立てをしたからなのだと、さう思はれて、少し誇張した云ひ方をすれば、生木なまきかれたやうな感じが胸の奥の方にくすぶつてゐるので、未練がましいやうだけれども、どうも此のまゝでは堪忍出来ないのであつた。
しかし、それなら、うす/\おりんなどのしてゐることを感付かないでもなかつた時分に、何とか手段のほどこしやうがあつたゞらうに、―――いよ/\蘆屋を追ひ出される間際にだつて、もつと頑張つてみたらよかつたらうに、―――じたいさう云ふ策略にかけては姑のおりんと好い取組だと云はれた彼女が、案外あつさり旗を巻いて、おとなしく追ん出てしまつたのはなぜであらうか、日頃の負けず嫌ひにも似合はないと云ふことになるが、そこにはやつぱり彼女らしい思はくがないでもなかつた。ありていに云ふと、今度の事は彼女の方に最初幾分の油断があつたからうなつたので、それと云ふのも、あの多情者の、不良少女上りの福子を、何ぼ何でも忰の嫁にしようと迄はおりんも考へてゐないであらうし、又尻の軽い福子が、まさか辛抱する気もあるまいと、たかをくゝつてゐたからなのだが、そこに多少の目算違ひがあつたとしても、どうせ長続きのする二人でないと云ふ見透みとおしに、今も変りはないのであつた。もっとも福子は年も若いし、男好きのする顔だちだし、鼻にかける程の学問はないが女学校へも一二年行つてゐたのだし、それに何より持参金が附いてゐるのだから、庄造としてはぜんはしを取らぬ筈はなく、づ当分は有卦うけに入つた気でゐるだらうけれども、福子の方がやがて庄造では喰ひ足らなくなつて、浮気をせずにはゐないであらう。何しろあの女は男一人を守れないたちで、もうその方では札附ふだつきになつてゐるのだから、どうせ今度も始まることは分りきつてゐるのだが、それが眼に余るやうになれば、いくら人の好い庄造だつて黙つてゐられないであらうし、おりんにしてもさじを投げるにきまつてゐる。ぜんたい庄造は兎に角として、シツカリ者と云はれるおりんにそのくらゐなことが見えない筈はないのだけれども、今度は慾が手伝つたので、つい無理な細工をしたのかも知れない。だから品子は、こゝでなまじな悪あがきをするよりは、一と先づ敵に勝たしておいて、おもむろに後図こうとを策してもおそくはないと云ふ腹なので、中々あきらめてはゐないのだつたが、でもそんなことは、無論塚本に対してもおくびにも出しはしなかつた。うはべは同情が寄るやうに、なるべく哀れつぽいところを見せて、心の中では、どうしてもゝう一遍だけ彼処あそこの家へ戻つてやる、今に見てゐろと思ひもし、又その思ひがいつかは遂げられるだらうと云ふ望みに生きてもゐるのだつた。
それに、品子は、庄造のことをたよりない人とは思ふけれども、どう云ふものか憎むことが出来なかつた。あんな工合に、何の分別もなくふら/\してゐて、周りの人達が右と云へば右を向き、左と云へば左を向くと云ふ風だから、今度にしてもあの連中のいゝやうにされてゐるのであらうが、それを考へると、子供を一人歩きさせてゐるやうな、心許こころもとない、可哀さうな感じがするのである。そしてもと/\、さう云ふ点にへんな[#「へんな」は底本では「へんに」]可愛気のある人なので、一人前の男と思へば腹が立つこともあつたけれども、幾らか自分より下に見下して扱ふと、妙にあたりの柔かい、優しい肌合があるものだから、だん/\それにほだされて抜きさしがならないやうになり、持つて来た物までみんな注ぎ込んで、裸にされて放り出されてしまつたのだが、彼女としてはそんなにまでして尽してやつたと云ふところに、尚更なおさら未練が残るのである。全く、此の一二年間のあの家の暮らしは、半分以上は彼女の痩せ腕で支へてゐたやうなものではないか。好いあんばいにお針が達者だつたから、近所の仕事を貰つて来ては夜の眼も寝ずに縫ひ物をして、どうやらしのぎをつけてゐたので、彼女の働きがなかつたら、母親なぞがいくら威張つてもどうにもなりはしなかつたではないか。おりんは土地での嫌はれ者、庄造はあの通りでさつぱり信用がなかつたから、諸払ひのとどこおりなどもやかましく催促されたものだが、彼女への同情があつたればこそ節季せっきが越せて行つたのではないか。それだのにあの恩知らずの親子が、慾に眼がくれてあゝ云ふ者を引ずり込んで、牛を馬に乗り換へた気でゐるけれども、まあ見てゐるがいゝ、あの女にあの家の切り盛りが出来るかどうか、持参金附きは結構だけれど、なまじそんなものがあつたら、一層嫁の気随気儘きずいきままつのるであらうし、庄造もそれをアテにして怠けるであらうし、結局親子三人の思はくが皆それ/″\に外れて来るところから、争ひの種が尽きないであらう。その時分になつて、前の女房の有難みが始めてほんたうに分るのだ。品子はこんなふしだらではなかつた、かう云ふ時にあゝもしてくれた、かうもしてくれたと、庄造ばかりでなく、母親までがきつと自分の失策を認めて、後悔するのだ。あの女は又あの女で、さん/″\あの家を掻き廻した揚句の果てに、飛び出してしまふのが落ちなのだ。さうなることは今から明々白々で、太鼓判をしてやりたいくらゐであるのに、それが分らないとは憐れな人達もあればあるものよと、内心せゝら笑ひながら時機を待つ積りでゐるのだが、しかし用心深い彼女は、待つにつけてはリヽーを預かつておくと云ふ一策を考へついたのであつた。
彼女はいつも、上の学校を一二年でも覗いたことがあると云ふ福子に対して、教育の点では退け目を感じてゐたのであるが、でもほんたうの智慧くらべなら、福子にだつておりんにだつて負けるものかと云ふ自負心があるので、リヽーを預かると云ふ手段を思ひついた時は、我ながらの妙案にひとりで感心してしまつた。なぜかといつて、リヽーさへ此方へ引き取つて置いたら、恐らく庄造は雨につけ、風につけ、リヽーのことを思ひ出す度に彼女のことを思ひ出し、リヽーを不憫と思ふ心が、知らず識らず彼女を憐れむ心にもならうからである。そして、さうすれば、いつ迄たつても精神的に縁が切れない理窟であるし、そこへ持つて来て福子との仲がシツクリ行かないやうになると、いよ/\リヽーが恋ひしいと共に前の女房が恋ひしくならう。彼女が未だに再縁もせず、猫を相手にびしく暮らしてゐると聞いては、一般の同情が集まるのは無論のこと、庄造だつて悪い気持はする筈がなく、ます/\福子に嫌気がさすやうになるであらうから、手を下さずして彼等の仲を割くことに成功し、復縁の時期を早めることが出来る。―――ま、さうおあつらへ向きに行つてくれたら仕合せであるが、彼女自身はさうなる見込みを立てゝゐた。たゞ問題はリヽーを素直に引き渡すかどうかと云ふことであつたが、それとても、福子の嫉妬心を煽り立てたら大丈夫うまく行くつもりでゐた。だからあの手紙の文句なんぞも、さう云ふ深謀遠慮を以て書かれてゐたので、単純ないたづらや嫌がらせではなかつたのであるが、お気の毒ながら頭の悪い連中には、どうして私が好きでもない猫を欲しがるのか、とてもその真意が掴めツこあるまい、そしていろ/\滑稽こっけい極まる邪推をしたり、子供じみた騒ぎ方をするであらうと云ふところに、抑へきれない優越感を覚えたのであつた。
兎に角、そんな訳であるから、その折角のリヽーに逃げられた時の落胆と、思ひがけなくそれが戻つて来た時の喜びとがどんなに大きかつたとしても、畢竟ひっきょうそれは得意の「深謀遠慮」に基づく打算的な感情であつて、ほんたうの愛着ではない筈なのだが、あの時以来、一緒に二階で暮らすやうになつてみると、全く予想もしなかつた結果が現はれて来たのである。彼女は夜な/\、その一匹の日向臭い獣を抱へて同じ寝床の中に臥ながら、どうして猫と云ふものはこんなにも可愛らしいのであらう、それだのに又、昔はどうして此の可愛さが理解出来なかつたのであらうと、今では悔恨と自責の念に駆られるのであつた。大方おおかた蘆屋時代には、最初に変な反感を抱いてしまつたので、此の猫の美点が眼に這入らなかつたのであらうが、それと云ふのも、焼餅があつたからなのである。焼餅のために、本来可愛らしいしぐさがただもう憎らしく見えたのである。たとへば彼女は、寒い時分に夫の寝床へもぐり込んで行く此の猫を憎み、同時に夫を恨んだものだが、今になつてみれば何の憎むことも恨むこともありはしない。現に彼女も、もう此の頃では独り寝の寒さがしみ/″\こたへてゐるではないか。まして猫と云ふ獣は人間よりも体温が高いので、ひとしほ寒がりなのである。猫に暑い日は土用の三日間だけしかないと云はれるのである。さうだとすれば、今は秋の半ばであるから、老年のリヽーが暖かい寝床へ慕ひ寄るのは当然ではないか。いや、それよりも、彼女自身が、かうして猫と寝てゐると、此の暖かいことはどうだ! 例年ならば、今夜あたりは湯たんぽなしでは寝られないであらうのに、今年はまだそんなものも使はないで、寒い思ひもせずにゐるのは、リヽーが這入つて来てくれるお蔭ではないか。彼女自身が、夜毎々々にリヽーを放せなくなつてゐるではないか。その外昔は、此の猫の我が儘を憎み、相手に依つて態度を変へるのを憎み、蔭日向のあるのを憎んだけれども、それもこれも、みんな此方の愛情が足らなかつたからなのだ。猫には猫の智慧があつて、ちやんと人間の心持が分る。その証拠には、此方が今迄のやうでなく、ほんたうの愛情を持つやうになつたら、直ぐ戻つて来て此の通り馴れ/\しくするではないか。彼女が自分の気持の変化を意識するより、リヽーの方がより早く嗅ぎつけたくらゐではないか。
品子は今迄、猫は愚か人間に対しても、こんなにこまやかな情愛を感じたこともなく、示したこともないやうな気がした。それは一つには、おりんを始めいろ/\な人からじょうこわい女だと云はれてゐたものだから、いつか自分でもさう思はされてゐたせゐであつたが、此の間からリヽーのために捧げ尽した辛労と心づかひとを考へる時、自分の何処にこんな暖かい、優しい情緒が潜んでゐたのかと、今更驚かれるのであつた。さう云へば昔、庄造が此の猫の世話を決して他人の手にゆだねず、毎日食事の心配をし、二三日置きにフンシの砂を海岸まで取り換へに行き、暇があるとのみを取つてやつたりブラシをかけてやつたりし、鼻が乾いてゐはしないか、便が軟か過ぎはしないか、毛が脱けはしないかと始終気をつけて、少しでも異状があれば薬を与へると云ふ風に、まめ/\しく尽してやるのを見て、あの怠け者によくあんな面倒が見られることよと、ます/\反感を募らしたものだが、あの庄造のしたことを今は自分がしてゐるではないか。しかも彼女は、自分の家に住んでゐるのではないのである。自分の食べるだけのものは、自分でもうけて妹夫婦へ払ひ込むと云ふ条件だから、まるきりの居候いそうろうではないが、何かと気が置ける中にゐて、此の猫を飼つてゐるのである。これが自分の家であつたら、台所をあさつて残り物を捜すけれども、他人の家ではさうも出来ないところから、自分が食べるものを食べずに置くか、市場へ行つて何かしら見つけて来てやらねばならない。さうでなくても、つましい上にもつましくしてゐる場合であるのに、たとひ僅かの買ひ物にもせよ、リヽーのために出銭でせんえると云ふことは、随分痛事いたごとなのである。それにもう一つ厄介なのは、フンシであつた。蘆屋の家は浜まで五六丁の距離だつたから、砂を得るには便利であつたが、此の阪急の沿線からは、海は非常に遠いのである。もっとも最初の二三回は、普請場の砂があつたお蔭で助かつたけれども、生憎あいにく近頃は何処にも砂なんかありはしない。さうかと云つて、砂を換へずに放つておくと、とても臭気が激しくなつて、しまひに階下したへまで匂つて来るので、妹夫婦が嫌な顔をする。よんどころなく、夜が更けてから彼女はそうツとスコツプを持つて出かけて行つて、その辺の畑の土を掻いて来たり、小学校の運動場から滑り台の砂を盗んで来たり、そんな晩には又よく犬に吠えられたり、怪しい男にけられたり、―――全く、リヽーのためでなかつたら、誰に頼まれてこんな嫌な仕事をしよう、だが又リヽーのためならばかう云ふ苦労をいとはないとは、何としたことであらうと思ふと、返す/″\も、蘆屋の時分に、なぜ此の半分もの愛情を以て、此の獣をいつくしんでやらなかつたか、自分にさう云ふ心がけがあつたら、よもや夫との仲が不縁になりはしなかつたであらうし、此のやうな憂き目は見なかつたであらうものをと、今更それが悔まれてならない。考へてみれば、誰が悪かつたのでもない、みんな自分が至らなかつたのだ。此の罪のない、やさしい一匹の獣をさへ愛することが出来ないやうな女だからこそ、夫に嫌はれたのではないか。自分にさう云ふ欠点があつたからこそ、ハタの人間が附け込んだのではないか。………
十一月になると、朝夕の寒さがめつきり加はつて、夜はとき/″\六甲の方から吹きおろす風が、戸の隙間から冷え/″\と沁み込むやうになつて来たので、品子とリヽーとは前よりも一層いて、ひしと抱き合つて、ふるへながら寝た。そしてとう/\こらへきれずに、湯たんぽを使ひ始めたのであつたが、その時のリヽーの喜び方と云つたらなかつた。品子は夜な/\、湯たんぽのぬくもりと猫の活気とでぽか/\してゐる寝床の中で、あのゴロ/\云ふ音を聞きながら、自分のふところの中にゐる獣の耳へ口を寄せて、
「お前の方がわてよりよつぽど人情があつてんなあ。」
と云つてみたり、
「わてのお蔭で、お前にまでこんな淋しい思ひさして、堪忍なあ。」
と云つてみたり、
「けどもうきやで。もうちよつと辛抱してゝくれたら、わてと一緒に蘆屋の家へ帰れるやうになるねんで。そしたら今度と云ふ今度は、三人仲よう暮らさうなあ。」
と云つてみたりして、ひとりでに涙がいて来ると、夜更よふけの、真つ暗な部屋の中で、リヽーよりほかには誰に見られる訳でもないのに、慌てゝ掛け布団をすつぽり被つてしまふのであつた。

福子が午後の四時過ぎに、今津いまづの実家へ行つて来ると云つて出かけてしまふと、それまで奥の縁側で蘭の鉢をいぢくつてゐた庄造は、待ち構へてゐたやうに立ち上つて、
「お母さん」
と、勝手口へ声をかけたが、洗濯をしてゐる母親には、水の音が邪魔になつて聞えないらしいので、
「お母さん」
と、もう一度声を張り上げて云つた。
「店を頼むで。―――ちよつと其処そこまで行つて来るよつてになあ。」
と、ヂヤブ/\云ふ音がふいと[#「ふいと」は底本では「ふいに」]止まつて、
「何やて?」
と、母親のしつかりした声が障子越しに聞えた。
「僕、ちよつと其処まで行つて来るよつてに―――」
何処どこへ?」
「つい其処や。」
「何しに?」
「そないに執拗ひつこう聞かんかて―――」
さう云つて、一瞬間むつとした顔つきで、鼻の孔をふくらましたが、直ぐ又思ひ返したらしく、あの持ち前の甘えるやうな口調になつて、
「あのなあ、ちよつと三十分ほど、球撞たまつきに行かしてくれへんか。」
「さうかてお前、球は撞かんちふ約束したのんやないか。」
「一遍だけ行かしてエな。何せもう半月も撞いてエへんよつてに。頼みまつさ、ほんまに。」
「えゝか、悪いか、わてには分らん。福子のゐる時に、答へて行つとくなはれ。」
「何でエな。」
その妙に力張りきばつたやうな声を聞くと、裏口の方でたらいの上につくばつてゐる母親にも、忰が怒つた時にするだゞツ児じみた表情が、はつきり想像出来るのであつた。
「何で一々、女房に答へんなりまへんねん。えゝも悪いも福子に聞いてみなんだら、お母さんには云はれしまへんのんか。」
「さうやないけど、気をつけてゝ下さいて頼まれてるねんが。」
「そしたらお母さん、福子の廻し者だつかいな。」[#「そしたらお母さん、福子の廻し者だつかいな。」は底本には無い、『谷崎潤一郎全集 第十八巻』中央公論新社(2016年5月10日初版発行)及び底本の親本『猫と庄造と二人のをんな』創元社(昭和21年9月20日再版発行)による。]
「阿呆らしいもない。」
さう云つたきり取り合はないで、又水の音を盛んにヂヤブ/\と立て始めた。
「いつたいお母さん[#「お母さん」は底本では「お母さんは」]僕のお母さんか、福子のお母さんか、孰方どっちだす? なあ、孰方だすいな。」
「もう止めんかいな、そんな大きな声出して、近所へ[#「近所へ」は底本では「近所に」]聞えたら見つともないがな。」
「そしたら、洗濯あとにして、一寸ちょっとこゝへ来とくなはれ。」
「もう分つてる、もう何も云はへんさかいに、何処なと好きなとこへ行きなはれ。」
「ま、そない云はんと、一寸来なはれ。」
何と[#「何と」は底本では「何を」]思つたか庄造は、いきなり勝手口へ行つて、流し元にしやがんでゐる母親の、シヤボンの泡だらけな手頸てくびを掴むと、無理に奥の間へ引き立てゝ来た。
「なあ、お母さん、えゝ折やよつてに、一寸これ見て貰ひまつさ。」
「何や、からしう、………」
「これ、見て御覧、―――」
夫婦の居間になつてゐる奥の六畳の押入を開けると、下の段の隅ツこの、柳行李やなぎごうり用箪笥ようだんすの隙間の暗い穴ぼこになつた所に、紅くもく/\かたまつてゐるものが見える。
「あすこにあるのん、何や思ひなはる。」
「あれかいな。………」
「あれみんな福子の汚れ物だつせ。あんな工合に後から/\突つ込んどいて、ちよつとも洗濯せエへんので、きたないもんが彼処あそこに一杯溜つてゝ、箪笥たんす抽出ひきだしかて[#「抽出かて」は底本では「抽斗かて」]開けられへんねんが。」
「をかしいなあ、あののもんは先繰せんぐり洗濯屋へ出してるのんに、………」
「さうかて、まさかおこしだけは出されへんやろが。」
「ふうむ、あれはお腰かいな。」
「さうだんが。なんぼなんでも女の癖にあんまりだらしないさかいに、僕もう呆れてまんねんけど、お母さんかて様子見てたら分つてるのんに、何で叱言こごと云うてくれしまへん? 僕にばつかりやかましいこと云うといて、福子にやつたら、こないな道楽されてゝも見ん振りしてなはんのんか。」
「こんな所にこんなもんが突つ込んであること、わてが何で知るかいな。………」
「お母さん」
不意に庄造はびつくりしたやうな声を挙げた。母が押入の段の下へもぐり込んで行つて、その汚れ物をごそ/\引き出し始めたからである。
「それ、どないするねん?」
「此のなか綺麗にしてやろ思うて、………」
「止めなはれ、穢い!………止めなはれ!」
「えゝがな、わてに任しといたら、………」
「何ぢやいな、姑が嫁のそんなもんいろうたりして! 僕お母さんにそんなことしてくれ云へしまへんで。福子にさしなはれ云うてんで。」
おりんは聞えない振りをして、その薄暗い奥の方から、円くつくねてある紅い英ネルのたばおよそ五つ六つ取り出すと、それを両手に抱へながら勝手口へ運んで行つて、洗濯バケツの中へ入れた。
「それ、洗うてやんなはんのんか?」
「そんなこと気にせんと、男は黙つてるもんや。」
「自分のお腰の洗濯ぐらゐ、何で福子にさゝれまへん、なあお母さん。」
「うるさいなあ、わてはこれをバケツに入れて、水張つとくだけや。こないしといたら、自分で気イ付いて洗濯するやろが。」
「阿呆らしい、気イ付くやうな女だつかいな。」
母はあんなことを云つてゐるけれど、きつと自分が洗つてやる気に違ひないので、尚更なおさら庄造は腹の虫が納まらなかつた。そして着物も着換へずに、厚司あつし姿のまゝ土間の板草履を突つかけると、ぷいと自転車へ飛び乗つて、出かけてしまつた。
さつき球撞きに行きたいと云つたのは、ほんたうにそのつもりだつたのであるが、今の一件で急に胸がムシヤクシヤして来て、球なんかどうでもよくなつたので、何と云ふアテもなしに、ベルをやけに鳴らしながら蘆屋川沿ひの遊歩道を真つすぐ新国道へ上ると、つい業平橋なりひらばしを渡つて、ハンドルを神戸の方へ向けた。まだ五時少し前頃であつたが、一直線につゞいてゐる国道の向うに、早くも晩秋の太陽が沈みかけてゐて、太い帯になつた横流れの西日が、殆ど路面と平行に射してゐる中を、人だの車だのがみんな半面に紅い色を浴びて、恐ろしく長い影を曳きながら通る。ちやうど真正面まともにその光線の方へ向つて走つてゐる庄造は、鋼鉄のやうにぴか/\光る舗装道路の眩しさを避けて、俯向き加減に、首を真横にしながら、森の公設市場前を過ぎ、小路しょうじの停留所へさしかゝつたが、ふと、電車線路の向う側の、とある病院の塀外に、畳屋の塚本が台を据ゑてせつせと畳を刺してゐるのが眼に留まると、急に元気づいたやうに乗り着けて行つて、
「忙しおまつか。」
と、声をかけた。
「やあ」
と塚本は、手は休めずに眼でうなずいたが、日が暮れぬ間に仕事を片附けてしまはうと、畳へきゆツと針を刺し込んでは抜き取りながら、
「今時分、何処へ行きはりまんね?」
「別に何処へも行かしまへん。ちよつと此の辺まで来てみましてん。」
「僕に用事でもおましたんか。」
「いゝえ、違ひま。―――」
さう云つてしまつてはつとしたが、仕方がなしに眼と鼻の間へクシヤ/\とした皺をきざんで、曖昧な作り笑ひをした。
「今此処通りかゝつたのんで、声かけてみましたんや。」
「さうだつか。[#「さうだつか。」は底本では「そうだつか。」]
そして塚本は、自分の眼の前に自転車をめて突つ立つてゐる人間になんか、構つてゐられないと云はんばかりに、直ぐ下を向いて作業を続けたが、庄造の身になつてみれば、いくら忙しいにしたところで、「近頃どうしてゐるか」とか、「リヽーのことはあきらめたか」とか、そのくらゐな挨拶はしてくれてもよさゝうなものだのに、心外な気がしてならなかつた。それと云ふのが、福子の前ではリヽー恋ひしさを一生懸命に押し隠して、リヽーの「リ」の字も口に出さないでゐるものだから、それだけ千万無量の思ひが胸に鬱積してゐる訳で、今はからずも塚本に出遭つてみると、やれ/\此の男に少しは切ない心の中を聞いて貰はう、さうしたら幾らか気が晴れるだらうと、すつかり当て込んでゐたのであつたが、塚本としてもせめて慰めの言葉ぐらゐ、でなければ無沙汰の詑びぐらゐ、云はなければならない筈なのである。なぜかと云つて、そもそもリヽーを品子の方へ渡す時に、その後どう云ふ待遇を受けつゝあるか、とき/″\塚本が庄造の代りに見舞ひに行つて、様子を見届けて、報告をすると云ふ堅い約束があつたのである。勿論それは二人の間だけの申し合はせで、おりんや福子には絶対秘密になつてゐたのだが、しかしさう云ふ条件があつたからこそ大事な猫を渡してやつたのに、あれきり一度もその約束を実行してくれたことがなく、うま/\人をペテンにかけて、知らん顔をしてゐるのであつた。
だが、塚本は、空惚そらとぼけてゐる訳ではなくて、日頃の商売の忙しさに取り紛れてしまつたのであらうか。こゝでつたのを幸ひに、一と言ぐらゐ恨みを云つてやりたいけれども、こんなに夢中で働いてゐる者に、今更呑気らしく猫のことなんぞ云ひ出せもしないし、云ひ出したところで、あべこべに怒鳴り付けられはしないであらうか。庄造は、夕日がだん/\鈍くなつて行く中で、塚本の手にある畳針ばかりがいつ迄もきら/\光つてゐるのを、見惚みとれるともなく見惚れながらぼんやりたたずんでゐるのであつたが、ちやうど此のあたりは国道筋でも人家じんかまばらになつてゐて、南側の方には食用蛙を飼ふ池があり、北側の方には、衝突事故で死んだ人々の供養のために、まだ真新しい、大きな石の国道地蔵が立つてゐるばかり。此の病院のうしろの方は田圃つゞきで、ずうと向うに阪急沿線の山々が、ついさつきまでは澄み切つた空気の底にくつきりとひだを重ねてゐたのが、もう黄昏たそがれの蒼い薄靄うすもやに包まれかけてゐるのである。
「そんなら、僕、失敬しまつさ。―――」
「ちとやつて来なはれ。」
「そのうちゆつくり寄せて貰ひま。」
片足をペダルへかけて、二三歩とツとツと行きかけたけれども、やつぱりあきらめきれないらしく、
「あのなあ、―――」
と云ひながら、又戻つて来た。
「塚本君、えらいお邪魔しまつけど、実はちよつと聞きたいことがおまんねん。」
「何だす?」
「僕これから、六甲まで行つてみたろか思ひまんねんけど、………」
やつと一畳縫ひ終へたところで、立ち上りかけてゐた塚本は、
「何しにいな?」
と呆れた顔をして、かゝへた畳をもう一遍トンと台へ戻した。
「さうかて、あれきりどないしてるやら、さつぱり様子分れしまへんさかいにな。………」
「君、そんなこと、真面目で云うてなはんのんか。置きなはれ、男らしいもない!」
「違ひまんが、塚本君!………さうやあれへんが。」
「そやさかいに僕あの時にも念押したら、あの女に何の未練もない、顔見るだけでもケツタクソが悪い云ひなはつたやおまへんか。」
「ま、塚本君、待つとくなはれ! 品子のことやあれへんが。猫のことだんが。」
「何と、猫?―――」
塚本の眼元と口元に、突然ニツコリとほゝ笑みが浮かんだ。
「あゝ、猫のことだつか。」
「さうだんが。―――君あの時に、品子があれを可愛がるかどうか、とき/″\様子見に行つてくれる云ひなはつたのん、覚えたはりまつしやろ?」
「そんなこと云ひましたかいな、何せ今年は、水害から此方えらい忙しおましたさかいに、―――」
「そら分つてま。そやよつてに、君に行つて貰はう思うてエしまへん。」
せい/″\皮肉にさう云つた積りだつたのであるが、相手は一向感じてくれないで、
「君、まだあの猫のこと忘れられしまへんのんか。」
「何で忘れまつかいな。あれから此方、品子の奴がいぢめてエへんやろか、あんぢようなついてるやろか思うたら、もうその事が心配でなあ、毎晩夢に見るぐらゐだすねんけど、福子の前やつたら、そんなことちよつとも云はれしまへんよつてに、尚のことこゝがつろうて/\、………」
と、庄造は胸を叩いてみせながらべそを掻いた。
「………ほんまのとこ、もう今迄にも一遍見に行こ思うてましてんけど、何せ此のところ一と月ほど、ひとりやつたらめつたに出して貰はれしまへん。それに僕、品子に会はんならんのんかなひまへんよつてに、彼奴あいつに見られんやうにして、リヽーにだけそうツと会うて来るやうなこと、出来しまへんやろか?」
「そら、むづかしいおまんなあ。―――」
好い加減に堪忍してくれと云ふ催促のつもりで、塚本はおろした畳へ手をかけながら、
「どないしたかて見られまんなあ。それに第一、猫に会ひに来た思はんと、品子さんに未練あるのんや思はれたら、厄介なことになりまんがな。」
「僕かてそない思はれたら叶ひまへんねん。」
「もうあきらめてしまひなはれ。人にやつてしまうたもん、どない思うたかてシヨウがないやおまへんか、なあ石井君。―――」
「あのなあ、」
と、それには答へないで、別なことを聞いた。
「あの、品子はいつも二階だつか、階下しただつか?」
「二階らしおまつけど、階下へかて降りて来まつしやろ。」
うちけることおまへんやろか?」
「分りまへんなあ。―――裁縫したはりますさかいに、大概たいがい家らしおまつけど。」
「風呂へ行く時間、何時頃だつしやろ?」
「分りまへんなあ。」
「さうだつか。そしたら、えらいお邪魔しましたわ。」
「石井君」
塚本は、畳を抱へて立ち上つた間に、早くも一二間離れかけた自転車の後姿に云つた。
「君、ほんまに行きはりまんのか。」
「どうするかまだ分れしまへん。兎に角近所まで行つてみまつさ。」
「行きなはるのんは勝手だすけど、後でゴタゴタ起つたかて、係り合ふのんイヤだつせ。」
「君もこんなこと、福子やお袋に云はんと置いとくなはれ[#「置いとくなはれ」は底本では「置いてくなはれ」]。頼みまつさ。」
そして庄造は、首を右左みぎひだりへ揺さ振り/\、電車線路を向う側へ渡つた。

これから出かけて行つたところで、あの一家の者達に顔を合はせないやうにして、こつそりリヽーに遇ふなんと云ふうまい寸法に行くであらうか。いゝあんばいに裏が空地になつてゐるから、ポプラーの蔭か雑草の中にでも身を潜めて、リヽーが外へ出て来るのを気長に待つてゐるより外に手はないのだが、生憎なことに、かう暗くなつてしまつては、出て来てくれても中々発見が困難であらう。それにもうそろ/\初子の亭主が勤務先から帰つて来るであらうし、晩飯の支度で勝手口の方が忙しくなるであらうから、さういつ迄も空巣狙あきすねらひみたいにうろ/\してゐる訳にも行かない。とすると、もつと時間の早い時に出直す方がいゝのだけれども、しかしリヽーに会へる会へないは二の次として、久し振に女房の眼をぬすんで、彼方此方を乗り廻せると云ふことだけでも、愉快でたまらないのであつた。実際、今日を外してしまふと、かう云ふ時はもう半月待たないと来ないのである。福子はをり/\親父の所へお小遣ひをセビリに行くのだが、それが大体一と月に二度、お朔日ついたち前後と十五日前後とにきまつてゐて、行けば必ず夕飯を呼ばれ、早くて八九時頃に帰るのが例であるから、今日も今から三四時間は自由が楽しまれるのであつて、もし自分さへ飢ゑと寒さに堪へる覚悟なら、あの裏の空地に、少くとも二時間は立つてゐる余裕があるのである。だからリヽーが晩飯の後でぶらつきに出かける習慣を、今も改めないでゐるものとすれば、ひよつとしたら彼処で会へるかも知れない。さう云へばリヽーは、食後に草の生えてゐる所へ行つて、青い葉を食べる癖があるので、尚更あの空地は有望な訳だ。―――そんなことを考へながら、甲南学校前あたり迄やつて来ると、国粋堂と云ふラヂオ屋の前で自転車を停めて、外から店を覗いてみて、主人がゐるのを確かめてから、
「今日は」
と、表のガラス戸を半分ばかり開けた。
「えらい済んまへんけど、二十銭貸しとくなはれしまへんか。」
「二十銭でよろしおまんのか。」
知らない顔ではないけれども、いきなり飛び込んで来て心やすさうに云はれる程の仲やあれへん、と、さう云ひたげに見えた主人は、二十銭では断りもならないので、手提金庫から十銭玉を二つ取り出して、黙つててのひらへ載せてやると、直ぐ向う側の甲南市場へ駈け込んで、アンパンの袋とたけの皮包を懐ろに入れて戻つて来て、
「ちよつと台所使はしとくなはれ。」
人が好いやうでへんにづう/\しいところのある彼は、さう云ふことには馴れたものなので、「何しなはんね」と云はれても「訳がありまんねん[#「ありまんねん」は底本では「ありますねん」]」とばかり、ニヤ/\しながら勝手口へ廻つて行つて、たけの皮包の[#「皮包の」は底本では「包皮の」]かしわの肉をアルミニユームの鍋へ移すと、瓦斯ガスの火を借りて水煮みずだきにした。そして「済んまへんなあ」を二十遍ばかりも繰り返しながら、
「いろ/\無心云ひまつけど、今一つ聴いとくなはれしまへんか。」
と、自転車に附けるラムプの借用を申し込んだが、「此れ持つて行きなはれ」と主人が奥から出して来てくれたのは、「魚崎町三好屋」と云ふ文字のある、何処どこかの仕出屋しだしや古提灯ふるぢょうちんであつた。
「ほう、えらい骨董物だんなあ。」
「それやつたら大事おまへん。ついでの時に返しとくなはれ。」
庄造は、まだおもてが薄明るいので、その提灯を腰に挿して出かけたが、阪急の六甲の停留所前、「六甲登山口」と記した大きな標柱の立つてゐる所まで来て、自転車を角の休み茶屋に預けて、そこから二三丁上にある目的の家の方へ、少し急なだら/\路を登つて行つた。そして家の北側の、裏口の方へ廻つて、空地の中へ這入り込むと、二三尺の高さに草がぼう/\と生えてゐる一とかたまりのくさむらのかげにしやがんで、息を殺した。
叢の庄造の挿画
こゝでさつきのアンパンをかじりながら、二時間の間辛抱してみよう、そのうちにリヽーが出て来てくれたら、お土産のかしわの肉を与へて、久しぶりに肩へ飛び着かせたり、口の端を舐めさせたり、楽しいいちやつき合ひをしようと、さう云ふ積りなのであつた。
いつたい今日は面白くないことがあつたのでアテもなく外へ飛び出したら、足が自然に西の方へ向いたばかりでなく、塚本なんぞに出遭つたものだから、とう/\途中で決心をして、此処までしてしまつたのだが、かうなることゝ分つてゐたら外套を着て来ればよかつたのに、厚司あつしの下に毛糸のシヤツを着込んだだけでは、流石さすがに寒さが身に沁みる。庄造は肩をぞくツとさせて、星がいちめんに輝き始めた夜空を仰いだ。板草履を穿いた足に冷めたい草の葉が触れるので、ふと気が付いて、帽子だの肩だのを撫でゝみると、おびただしい露が降りてゐる。ほど、これでは冷える訳だ、かうして二時間もうづくまつてゐたら、風邪を引いてしまふかも知れない。だが庄造は、台所の方から魚を焼く匂が匂つて来るので、リヽーがあれを嗅ぎ付けて何処かゝら帰つて来さうな気がして、異様な緊張を覚えるのであつた。彼は小さな声を出して、「リヽーや、リヽーや」と呼んでみた。何か、あの家の人達には分らないで、猫にだけ分る合図の方法はないものかとも思つたりした。彼がつくばつてゐる叢の前の方に、葛の葉が一杯に繁つてゐて、その葉の中でとき/″\ピカリと光るものがあるのは、多分夜露の玉か何かが遠くの方の電燈に反射してゐるせゐなのだけれども、さうと知りつゝ、その度毎に猫の眼か知らんとはつと胸を躍らせた。………あ、リヽーかな、やれ嬉しや! さう思つた途端に動悸がち出して、鳩尾みぞおちの辺がヒヤリとして、次の瞬間に直ぐ又がつかりさせられる。かう云ふと可笑おかしな話だけれども、まだ庄造はこんなヤキモキした心持を人間に対してさへ感じたことはないのであつた。せい/″\カフェエの女を相手に遊んだぐらゐが関の山で、恋愛らしい経験と云へば、前の女房の眼をかすめて福子と逢引してゐた時代の、楽しいやうな、れつたいやうな、変にわく/\した、落ち着かない気分、―――まああれぐらゐなものなのだが、それでもあれは両方の親が内々で手引をしてくれ、品子の手前を巧く胡麻化してくれたので、無理な首尾をする必要もなく、夜露に打たれてアンパンを咬るやうな苦労をしないでもよかつたのだから、それだけ真剣味に乏しく、逢ひたさ見たさもこんなに一途いちずではなかつたのであつた。
庄造は、母親からも女房からも自分が子供扱ひにされ、一本立ちの出来ない低能児のやうに見做みなされるのが、非常に不服なのであるが、さればと云つてその不服を聴いてくれる友達もなく、悶々の情を胸の中に納めてゐると、何となく独りぽつちな、頼りない感じが湧いて来るので、そのために尚リヽーを愛してゐたのである。実際、品子にも、福子にも、母親にも分つて貰へない淋しい気持を、あの哀愁に充ちたリヽーの眼だけがほんたうに見抜いて、慰めてくれるやうに思ひ、又あの猫が心の奥に持つてゐながら、人間に向つて云ひ現はすすべを知らない畜生の悲しみと云ふやうなものを、自分だけは読み取ることが出来る気がしてゐたのであつたが、それがお互ひに別れ/\にされてしまつて四十余日になるのである。そして一時は、もうそのことを考へないやうに、なるべく早くあきらめるやうに努めたことも事実だけれども、母や女房への不平が溜つて、その鬱憤の遣り場がなくなつて来るに従ひ、いつか再び強い憧れが頭をもたげて、抑へきれなくなつたのであつた。全く、庄造の身になつてみると、あゝ云ふ厳しい足止めをされて、出るにも入るにも干渉を受けたのでは、かえつて恋ひしさをき付けられるやうなもので、忘れようにも忘れる暇がなかつたのであるが、それにもう一つ気になつたのは、あれきり塚本から何の報告もないことであつた。あんなに約束しておきながら、どうして何とも云つて来てくれないのか。仕事が忙しいのならむを得ないが、ひよつとするとさうでなく、彼に心配させまいとして、何か隠してゐるのではないか。たとへば品子にいぢめられて、食ふや食はずでゐるためにひどく衰弱してしまつたとか、逃げて出たきり行衛ゆくえ不明になつたとか、病死したとか、云ふやうなことがあるのではないか。あれから此方、庄造はよくそんな夢を見て、夜中にはつと眼を覚ますと、何処かで「ニヤア」と啼いてゐるやうに思へるので、便所へ行くやうな風をしながら、そうつと起きて雨戸を開けてみたことも、一度や二度ではないのであるが、あまりたび/\さう云ふ幻にあざむかれると、今聞いた声や夢に見た姿は、リヽーの幽霊なのではないか、逃げて来るみちで野たれ死にをして、魂だけが戻つたのではないのかと、そんな気がして、ぞうつと身ぶるひが出たこともある。だが又、いくら品子が意地の悪い女でも、塚本が無責任でも、まさかリヽーに変つたことが起つたら黙つてゐる筈もあるまいから、便りのないのは無事に暮らしてゐる証拠なのだと、不吉な想像が浮かぶたびに打ち消し/\して来たのであるが、それでも感心に女房の云ひつけを忠実に守つて、一度も六甲の方角へ足を向けたことがなかつたと云ふのは、監視が厳しかつたばかりでなく、品子の網に引つかゝるのが不愉快だからであつた。彼にはリヽーを引き取つた品子の真意と云ふものが、今でもハツキリしないのだけれども、事に依つたら、塚本が報告を怠つてゐるのも品子のさしがねではないのか、彼奴あいつはさう云ふ風にしてわざと己に気を揉ませて、おびき寄せようと云ふ腹ではないのかと、そんな邪推もされるので、リヽーの安否を確かめたいと願ふ一方、見す/\彼奴の罠にまつて溜るものかと云ふ反感が、それと同じくらゐ強かつたのであつた。彼は何とかしてリヽーには会ひたいが、品子に掴まることはイヤで溜らなかつた。「とう/\やつて来ましたね」と、彼奴がへんに利口ぶつて、得意の鼻をうごめかすかと思ふと、もうその顔つきを浮かべたゞけでムシヅが走つた。元来庄造には彼一流のずるさがあつて、いかにも気の弱い、他人の云ふなり次第になる人間のやうに見られてゐるのを、巧みに利用するのであるが、品子を追ひ出したのが矢張その手で、表面はおりんや福子に操られた形であるけれども、その実誰よりも彼が一番彼女を嫌つてゐたかも知れない。そして庄造は、今考へても、いゝことをした、いゝ気味だつたと思ふばかりで、不憫ふびんと云ふ感じは少しも起らないのであつた。
家の画
現に品子は、電燈のともつてゐる二階のガラス窓の中にゐるのに違ひないのだが、雑草のかげにつくばひながらじつとその灯を見上げてゐると、又してもあの、人を小馬鹿にしたやうな、賢女振つた顔が眼先にちらついて、胸糞が悪くなつて来る。折角こゝまで来たのであるから、せめて「ニヤア」と云ふなつかしい声を余所よそながらでも聞いて帰りたい、無事に飼はれてゐることが分りさへしたら、それだけでも安心であるし、こゝへ来た念が届くのであるから、いつそのことそうつと裏口を覗いてみたら、………アハよく行つたら、初子をこつそり呼び出して、おみやげのかしわの肉を渡して、近状を聞かして貰つたら、………と、さう思ふのであるが、あの窓の灯を見て、あの顔を心に描くと、足がすくんでしまふのである。うつかりそんな真似をしたら、初子がどう云ふ感違ひをして、二階の姉を呼びに行かないものでもないし、少くとも後でしやべることは確かであるから、「そろ/\計略が図にあたつて来た」などと、己惚れるだけでもしゃくに触る。とすると、矢張此の空地に根気よくうづくまつてゐて、リヽーがこゝを通りかゝる偶然の機会を捉へるより外はないのであるが、しかし今迄待つて駄目なら、とても今夜はおぼつかない。庄造はもう、袋の中のアンパンをみんな食べてしまつた。そしてさつきから一時間半ぐらゐは経つたやうな気がするので、だん/\家の方の首尾が心配になつて来た。母親だけなら面倒はないが、福子が先に帰つて来てゐたら、今夜一と晩ぢゆう寝かして貰へないで、あざだらけにされる。それもいゝけれども、又明日から監視が厳重になる。だが、一時間半も待つあひだにかすかな啼きごゑも洩れて来ないのは、何だか変だ、ひよつとしたら、此の間からたび/\見た夢が正夢で、もう此の家にゐないのではないか。さつき魚を焼く匂がした時が一家の夕飯だつたとすると、リヽーもあの時何かしら与へられるであらうし、さうすればきつと草を食べに出て来るのだが、来ないのを見るとどうも怪しい。………
庄造は、とう/\こらへきれなくなつて、雑草の中から身を起すと、裏木戸のきわまで忍んで行つて、隙間へ顔をあてゝみた。と、階下したはすつかり雨戸が締まつてゐて、子供を寝かしつけてゐるらしい初子の声がとぎれ/\に聞えて来る外には、何の物音もしない。二階のガラス障子にでも、ほんの一瞬間でいゝからさつと影が写つてくれたらどんなに嬉しいか知れないのに、ガラスの向うに白いカーテンが静かに垂れてゐるばかりで、その上の方が薄暗く、下の方が明るくなつてゐるのは、品子が電燈を低く下して、夜作よなべをしてゐるのであらう。ふと庄造は、あかりの下で一心に針を運びつゝある彼女のそばに、リヽーがおとなしく背中を円めて、「の」の字なりにころびながら、安らかな眠をむさぼつてゐる平和な光景を眼前に浮かべた。秋の夜長の、またゝきもせぬ電燈の光が、リヽーと彼女とたゞ二人だけを一つの中に包んでゐる外は、天井の方までぼうつと暗くなつてゐる室内。………夜が次第に更けて行く中で、猫はかすかにいびきを掻き、人は黙々と縫ひ物をしてゐる、佗びしいながらもしんみりとした場面。………あのガラス窓の中に、さう云ふ世界が繰りひろげられてゐるとしたら、―――何か奇蹟的なことが起つて、リヽーと彼女とがすつかり仲好しになつてゐたとしたら、―――もしほんたうにそんな光景を見せられたら、焼餅を焼かずにゐられるだらうか。正直のところ、リヽーが昔を忘れてしまつて現状に満足してゐられても、矢張腹が立つであらうし、さうかと云つて、虐待されてゐたり死んでゐたりしたのでは尚悲しいし、孰方にしても気が晴れることはないのだから、いつそ何も聞かない方がいゝかも知れない。庄造は、途端とたんに階下の柱時計が「ぼん、………」と、半を打つのを聞いた。七時半だ、―――と思ふと、彼は誰かに突き飛ばされたやうに腰を浮かしたが、二た足三足行つてから引つ返して来て、まだ大事さうに懐に入れてゐた筍の皮包を取り出すと、それを木戸口や、五味箱の上や、彼方此方へ持つて行つてウロ/\した。何処か、リヽーだけが気が付いてくれるやうな所へ置いて行きたいが、叢の中では犬に嗅ぎ付けられさうだし、此の辺へ置いたら家の者が見つけるであらうし、巧い方法はないか知らん。いや、もうそんなことに構つてはゐられぬ。遅くも今から三十分以内に帰らなかつたら、又一と騒ぎ起るかも知れぬ。「あんた、今頃まで[#「今頃まで」は底本では「今まで」]何してゝん!」―――と、さう云ふ声がにわかに耳のハタで聞えて、福子のイキリ立つた剣幕があり/\と見える。彼は慌てゝ葛の葉の繁つてゐる間へ、筍の皮を開いて置いて、両端へ小石を載せて、又その上から適当に葉をかぶせた。そして空地を横ツ飛びに、自転車を預けた茶屋のところまで夢中で走つた。

その晩、庄造よりも二時間程おくれて帰つて来た福子は、弟を連れて拳闘を見に行つた話などをして、ひどく機嫌が好かつた。そして明くる日、少し早めに夕飯を済ますと、
「神戸へ行かして貰ひまつせ。」
と、夫婦で新開地の聚楽館じゅらくかんへ出かけた。
おりんの経験だと、福子はいつも今津の家へ行つて来た当座、つまりふところにお小遣のある五六日か一週間のあひだと云ふものは、きまつて機嫌がいゝのである。此のあひだに彼女は盛んに無駄使ひをして、活動や歌劇見物などにも、二度ぐらゐは庄造を誘つて行く。従つて夫婦仲も睦じく、至極円満に治まつてゐるのだが、一週間目あたりからそろ/\懐が淋しくなつて、一日家でごろ/\しながら、間食あいだぐひをしたり雑誌を読んだりするやうになり出すと、とき/″\亭主に口叱言くちこごとを云ふ。もっとも庄造も、女房の景気のいゝ時だけ忠実振りを発揮して、だん/\出るものが出なくなると、現金に態度を変へ、浮かぬ顔をして生返事なまへんじをする癖があるのだが、結局双方からばつちりを食ふ母親が、一番割が悪いことになる。だからおりんは、福子が今津へ駈け付ける度に、やれ/\これで当分は安心だと思つて、内々ほつとするのであつた。
で、今度もちやうどさう云ふ平和な一週間が始まつてゐたが、神戸へ行つてから三四日たつた或る日の夕方、亭主と二人晩飯のチヤブ台に向つてゐた福子は、
「こなひだの活動、ちよつとも面白いことあれへなんだなあ。」
と、自分も行ける口なので、ほんのり眼のふちへ酔ひを出しながら、
「―――なあ、あんたどない思うた?」
と、さう云つて銚子を取り上げると、庄造がそれを引つたくるやうにして此方からさした。
「一つ行こ。」
「もう、あかん。………酔うたわ、わて。」
「まあ、行こ、もう一つ。………」
「家で飲んだかて、おいしいことあれへん。それより明日何処ぞへ行けへん?」
「えゝなあ、行きたいなあ。」
「まだお小遣ちよつとも使うてエへんねんで。………こなひだの晩、家で御飯たべて出て、活動見たゞけやつたやろ、そやさかいに、まだたあんと持つてるねん。」
「何処にせう、そしたら?………」
「宝塚、今月は何やつてるやろ?」
「歌劇かいな。―――」
あとに旧温泉と云ふ楽しみはあるにしてからが、何だかもう一つ気が乗らない顔つきをした。
「―――そないにたんとお小遣あるのんやつたら、もつと面白いことないやろか。」
「何ぞ考へてエな。」
「紅葉見に行けへん?」
箕面みのおかいな。」
「箕面はあかんねん、こなひだの水ですつくりやられてしもてん。それより僕、久し振りで有馬ありまへ行つてみたいねんけど、どうや、賛成せエへんか。」
「ほんに、………あれ、いつやつたやろ?」
「もうちやうど一年ぐらゐ………いや、さうやないわ、あの時河鹿かじかが啼いてたわ。」
「さうや、もう一年半になるで。」
それは二人が人目を忍ぶ仲になり出して間もない時分、或る日瀧道たきみちの終点で落ち合ひ、神有しんゆう電車で有馬へ行つて、御所ごしょぼうの二階座敷で半日ばかり遊んで暮らしたことがあつたが、涼しい渓川たにがわの音を聞きながら、ビールを飲んでは寝たり起きたりして過した、楽しかつた夏の日のことを、二人ともはつきり思ひ出した。
「そしたら、又御所の坊の二階にせうか。」
「夏より今の方がえゝで。紅葉見て、温泉に這入つて、ゆつくり晩の御飯食べて、―――」
「さうせう、さうせう、もうそれにきめたわ。」
その明くる日は早お昼の予定であつたが、福子は朝の九時頃からぽつ/\身支度に取りかゝりながら、
「あんた、汚い頭やなあ。」
と、鏡の中から庄造に云つた。
「さうかも知れん、もう半月ほど床屋へ行けへんさかいにな。」
「そしたら大急ぎで行つて来なはれ、今から三十分以内に。―――」
「そらえらいこツちや。」
「そんな頭してたら、わてよう一緒に歩かんわ。―――早うしなはれ!」
庄造は、女房が渡してくれた一円札を、左の手に持つてヒラ/\させながら、自分の店から半丁程東にある床屋の前まで駈けて行つたが、いゝあんばいに客が一人も来てゐないので、
「早いとこ頼みまつさ。」
と、奥から出て来た親方に云つた。
「何処ぞ行きはりまんのんか。」
「有馬へ紅葉見に行きまんね。」
「そらよろしおまんなあ、奥さんも一緒だつか?」
「さうだんね。―――早お昼たべて出かけるさかい、三十分で頭刈つて来なはれ云はれてまんね。」
が、それから三十分過ぎた時分、
「お楽しみだんなあ、ゆつくり行つて来なはれ。」
と、背中から親方が浴びせる言葉を聞き流して、家の前まで戻つて来て、何心なく店へ一と足踏み込むと、そのまゝ土間に立ちすくんでしまつた。
「なあ、お母さん、何で今日までそれ隠してはりましてん。………」
と、突然さう云ふたゞならぬ声が奥から聞えて来たからである。
「………何でそんなことがあつたら、わてに云うとくなはれしまへん。………そしたらお母さん、わての味方してるみたいに見せかけといて、いつもそんなことさせてはつたんと違ひまつか。………」
福子が大分おかんむりを曲げてゐるらしいことは甲高かんだかい物の云ひ方で分る。母親の方は明かに遣り込められてゐる様子で、たまに一と言二た言ぐらゐ口返答をするけれども、胡麻化すやうにコソ/\と云ふので、よく聞えない。福子の怒鳴る声ばかりが筒抜けに響いて来るのである。
「………何? 行つたとは限らん?………阿呆らしい! 人の家の台所借つて、かしわの肉いたりして、リヽーのとこやなかつたら、何所どこへ持つて行きまんね。………それにしたかて、あの提灯ちょうちん持つて帰つて、あんな所に直してあつたこと、お母さん知つたはりましたんやろ?………」
彼女が母親を掴まへて、あんなキン/\した声を張り上げることはめつたにないのだが、しかしたつた今、彼が床屋へ行つてゐた僅かな間に、どうやら先日の国粋堂が、あの時の立て換へと古提灯とを取り返しに来たのだと見える。ありていに云ふと、あの晩庄造はあの提灯を自転車の先にぶら下げて帰つて、福子に見咎みとがめられないやうに、物置小屋の棚の上に押し上げて置いたのであるが、お袋には見当がついてゐた筈だから、出して渡してやつたのかも知れない。だが国粋堂は、いつでもいゝやうにと云つてゐながら、何で取り返しに来たのだらう。まさかあんな古提灯が惜しいこともあるまいに、此の辺についでゞもあつたのだらうか、[#「だらうか、」は底本では「だらうか。」]それとも二十銭を借りつ放しにされたのが、腹が立つたのだらうか。それに又、親父が来たのか、小僧が来たのか知らないが、かしわの話までして行かないでもいゝではないか。
「………わてはなあ、相手がリヽーだけやつたら、何もうるさいこと云へしまへんで。リヽーに会ひに行く云うても、リヽーだけやあれへんさかいに、云ひまんねんで。いつたいお母さん、あの人とグルになつて、わてをだますやうなことして、済むと思うたはりまんのんか。」
さう云はれると、流石さすがのおりんもグウの音も出ないで、小さくなつてゐるのであるが、忰の代りに怒られてゐるのは可哀さうのやうでもあり、一寸いゝ気味のやうでもある。何にしても庄造は、自分がゐたら中々福子の怒り方が此のくらゐでは済むまいと思ふと、あやう虎口ここうを逃れた気がして、スハといへば戸外おもてへ飛び出せるやうに、身構へをしながら立つてゐると、
「………いゝえ、分つてま! あの人六甲へ遣つたりして、今度はわてを追ひ出す相談してなはるねん。」
と、云ふのにつゞいてどたんと云ふ物音がして、
「待ちいな!」
「放しとくなはれ!」
「さうかて、何処へ行くねんな。」
「お父さんとこへ行つて来ます、わての云ふことが無理か、お母さんの云ふことが無理か、―――」
「ま、今庄造が戻るさかいに―――」
どたんどたん、と、二人が盛んに争ひながら店の方へ出て来さうなので、慌てゝ庄造は往来へ逃げ延びて、五六丁の距離を夢中で走つた。それきり後がどうなつたことやら分らなかつたが、気が付いてみると、いつか自分は新国道のバスの停留所の前に来て、さつき床屋で受け取つた釣銭の銀貨を、まだしつかりと手の中に握つてゐた。

ちやうどその日の午後一時頃、品子が朝のうちに仕上げた縫物を、近所まで届けて来ると云つて、不断着の上に毛糸のシヨールを引つかけて、小走りに裏口から出て行つたあと、初子がひとり台所で働いてゐると、そこの障子をごそツと一尺ばかり開けて、せい/\息を切らしながら庄造が中を覗き込んだので、
「あらツ」
と、飛び上りさうにすると、ピヨコンと一つお時儀じぎをしながら笑つてみせて、
「初ちやん、………」
と云つてから、後ろの方に気を配りつゝ急にひそ/\声になつて、
「………あの、今此処から品子出て行きましたやろ?」
と、セカ/\した早口で云つた。
「………僕今そこで会うてんけど、品子は気イ付けしまへなんだ。僕あのポプラーの蔭に隠れてましたよつてにな。」
「何ぞ姉さんに用だつか?」
滅相めっそうな! リヽーに会ひに来ましてんが。―――」
そして、そこから庄造の言葉は、さも思ひ余つた、哀れつぽい切ない声に変つた。
「なあ、初ちやん、あの猫何処にいてます?………済んまへんけど、ほんのちよつとでえゝさかい、会はしとくなはれ!」
「何処ぞ、その辺にいてしまへんか。」
「そない思うて、僕此の近所うろ/\して、もう二時間も彼処に立つてましてんけど、ちよつとも出て来よれしまへんねん。」
「そしたら、二階にいてるかしらん?」
「品子もう直ぐ戻りまつしやろか? 今頃何処へ行きましたんや?」
「ほんそこまで仕立物届けに。―――二三丁の所だすよつて、直ぐ帰りまつせ。」
「あゝ、どうしよう、あゝ困つた。」
さう云つて仰山に体をゆすぶつて、地団駄じだんだを踏みながら、
「なあ、初ちやん、頼みます、此の通りや。―――」
と、手を擦り合はせて拝む真似をした。
「―――後生一生のお願ひだす、今の間に連れて来とくなはれ。」
「会うて、どないしやはりまんね。」
「どうもかうもせえしまへん。無事な顔一と眼見せてもろたら、気が済みまんねん。」
「連れて帰りはれしまへんやろなあ?」
「そんなことしまつかいな。今日見せてもろたら、もうこれつきりえしまへん。」
初子は呆れた顔をして、穴の明くほど庄造を視詰めてゐたが、何と思つたか黙つて二階へ上つて行つて、直ぐ段梯子の中段まで戻つて来ると、
「いてまつせ。―――」
と、台所の方へ首だけ突ん出した。
「いてまつか?」
「わて、よう抱きまへんよつて、見に来とくなはれ。」
「行つても大事おまへんやろか。」
ぐ降りとくなはれや。」
よろしおま。―――そしたら、上らして貰ひまつさ。」
「早いことしなはれ!」
庄造は、狭い、急な段梯子を上るも胸がドキ/\した。やう/\日頃の思ひが叶つて、会ふことが出来るのは嬉しいけれども、どんな風に変つてゐるだらうか。野たれ死にもせず、行くへ不明にもならないで、無事に此のにゐてくれたのは有難いが、虐待されて、痩せ衰へてゐなければいゝが、………まさか一と月半の間に忘れる筈はないだらうけれど、なつかしさうに傍へ寄つて来てくれるか知らん? それとも例の、羞渋はにかんで逃げて行くか知らん?………蘆屋の時代に、二三日家を空けたあとで帰つて来ると、もう何処へも行かせまいとして、すがり着いたり舐め廻したりしたものであつたが、もしもあんな風にされたら、それを振り切るのに又もう一度辛い思ひをしなければならない。………
「此処だつせ。―――」
座布団の上のリヽーの挿画
晴れ/\とした午後の外光を遮つて、窓のカーテンが締まつてゐるのは、大方用心深い品子が出て行く時にさうしたのであらうか。―――そのために室内がもや/\とかげつて、薄暗くなつてゐる中に、信楽焼しがらきやきのナマコの火鉢が置いてあつて、なつかしいリヽーはその傍に、座布団を重ねて敷いて、前脚を腹の下へ折り込んで、背を円くしながらうつら/\眼をつぶつてゐた。案じた程に痩せてもゐないし、毛なみもつや/\としてゐるのは、相当に優遇されてゐるからであらう。思つたよりも大事にされてゐる証拠には、彼女のために専用の座布団が二枚も設けてあるばかりではない、たつた今、お昼の御馳走に生卵を貰つたと見えて、きれいに食べ尽した御飯のお皿と、卵の殻とが、新聞紙に載せて部屋の片隅に寄せてあり、又その横には、蘆屋時代と同じやうなフンシさへ置いてあるのである。と、突然庄造は、久しい間忘れてゐたあの特有の匂を嗅いだ。かつて我が家の柱にも壁にも床にも天井にも沁み込んでゐたあの匂が、今は此の部屋に籠つてゐるのであつた。彼は悲しみがこみ上げて来て、
「リヽー、………」
と覚えず濁声だみごえを挙げた。するとリヽーはやう/\それが聞えたのか、どんよりとしたものうげな瞳を開けて、庄造の方へひどく無愛想な一瞥いちべつを投げたが、たゞそれだけで、何の感動も示さなかつた。彼女は再び、前脚を一層深く折り曲げ、背筋の皮と耳朶じだとをブルン! と寒さうに痙攣させて、ねむくてたまらぬと云ふやうに眼を閉ぢてしまつた。
今日はお天気がいゝ代りに、空気が冷え/\と身に沁むやうな日であるから、リヽーにしたら火鉢の傍を離れるのがイヤなのであらう。それに胃の腑がふくらんでゐるので、尚更なおさら大儀なのでもあらう。此の動物の無精な性質を呑み込んでゐる庄造は、かう云ふそつけない態度には馴れてゐるので、格別あやしみはしなかつたが、でも気のせゐか[#「気のせゐか」は底本では「気のせいか」]、そのおびただしく眼やにの溜つた眼のふちだの、妙にしよんぼりとうづくまつてゐる姿勢だのを見ると、僅かばかり会はなかつた間に、又いちじるしく老いぼれて、影が薄くなつたやうに思へた。分けても彼の心を打つたのは、今の瞳の表情であつた。在来とてもこんな場合に睡さうな眼をしたとは云へ、今日のはまるで行路病者こうろびょうしゃのそれのやうな、せいこんれ果てた、疲労しきつた色を浮かべてゐるではないか。
「もう覚えてエしまへんで。―――畜生だんなあ。」
「阿呆らしい、人が見てたらあないに空惚そらとぼけまんねんが。」
「さうだつしやろか。………」
「さうだんが。………そやさかいに、………済んまへんけど、ほんちよつとの、初ちやん此処に待つてゝくれて、此のふすま締めさしとくなはれしまへんか。………」
「そないして[#「そないして」は底本では「そないにして」]、何しやはりまんね。」
「何もせえしまへん。………たゞ、あの、ちよつと、………膝の上に抱いてやりまんねん。………」
「さうかて、姉さん帰つて来まつせ。」
「そしたら、初ちやん、そつちの部屋からかど見張つてゝ、見えたら直ぐに知らしとくなはれ。頼みまつさ。………」
襖に手をかけてさう云つてゐるうちに、もう庄造はずる/\と部屋へ這入つて、初子を外へ締め出してしまつた。そして、
「リヽー」
と云ひながら、その前へ行つて、さし向ひにすわつた。
リヽーは最初、折角せっかく昼寝してゐるのにうるさい! と云ふやうな横着さうな眼をしばだたいたが、彼が眼やにを拭いてやつたり、膝の上に乗せてやつたり、頸すぢを撫でゝやつたりすると、格別嫌な顔もしないで、される通りになつてゐて、暫くするうちに咽喉のどをゴロ/\鳴らし始めた。
「リヽーや、どうした? 体の工合悪いことないか? 毎日々々、可愛がつてもろてるか?―――」
庄造は、今にリヽーが昔のいちやつきを思ひ出して、頭を押し着けに来てくれるか、顔を舐め廻しに来てくれるかと、一生懸命いろ/\の言葉を浴びせかけたが、リヽーは何を云はれても、相変らず眼をつぶつたまゝゴロ/\云つてゐるだけであつた。それでも彼は背中の皮を根気よく撫でゝやりながら、少し心を落ち着けて此の部屋の中を眺めてみると、あの几帳面きちょうめん癇性かんしょうな品子の遣り方が、ほんの些細な端々はしばしにもよく現はれてゐるやうに感じた。たとへば彼女は、僅か二三分の間留守にするにも、ちやんとかうしてカーテンを締めて行くのである。のみならず此の四畳半の室内に、鏡台だの、箪笥だの、裁縫の道具だの、猫の食器だの、便器だの、さま/″\なものを並べて置きながら、それらが一糸乱れずに、それ/″\整然と片寄せられて、こての突き刺してある火鉢の中を覗いてみても、炭火を深くいけ込んだ上に、灰が綺麗に筋目を立てゝならしてあり、三徳の上に載せてある瀬戸引の薬鑵やかんまでが、研ぎ立てたやうにピカ/\光つてゐるのである。が、それはまあ不思議はないとしても、奇妙なのはあの皿に残つてゐる卵の殻だつた。彼女は自分で扶持ぶちを稼いでゐるので、決して楽ではないであらうに、貧しい中でもリヽーに滋養分を与へると見える。いや、さう云へば、彼女が自分で敷いてゐる座布団に比べて、リヽーの座布団の綿の厚いことはどうだ。いつたい彼女は何と思つて、あんなに憎んでゐた猫を大事にする気になつたのであらう。
考へてみると庄造は、云はゞ自分の心がらから前の女房を追ひ出してしまひ、此の猫にまでも数々の苦労をかけるばかりか、今朝は自分が我が家のしきいまたぐことが出来ないで、ついふら/\と此処へやつて来たのであるが、此のゴロ/\云ふ音を聞きながら、せるやうなフンシの匂を嗅いでゐると、何となく胸が一杯になつて、品子も、リヽーも、可哀さうには違ひないけれども、誰にもまして可哀さうなのは自分ではないか、自分こそほんたうの宿なしではないかと、さう思はれて来るのであつた。
と、その時ばた/\と足音がして、
「姉さんもうついそこの角まで来てまつせ。」
と、初子が慌しく襖を開けた。
「えツ、そら大変や!」
「裏から出たらあきまへん!………表へ、………表へ廻んなはれ!………穿ものわてが持つてたげる! 早よ、早よ![#「早よ、早よ!」は底本では「早よ! 早よ!」]
彼は転げるやうに段梯子を駈け下りて、表玄関へ飛んで行つて、初子が土間へ投げてくれた板草履を突つかけた。そして往来へ忍び[#「忍び」は底本では「飛び」]出た途端に、チラと品子の後影が、一と足違ひで裏口の方へ曲つて行つたのが眼に留まると、恐い物にでも追はれるやうに反対の方角へ一散に走つた。
(昭和十一年一月号、七月号「改造」)





底本:「猫と庄造と二人のをんな」中公文庫、中央公論新社
   2013(平成25)年7月25日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十四巻」中央公論社
   1982(昭和57)年6月25日
初出:「改造 新年号 第十八巻第一号」
   1936(昭和11)年1月1日発行
   「改造 七月特大号 第十八巻第七号」
   1936(昭和11)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。なお、底本の親本と初刊本「猫と庄造と二人のをんな」創元社(1946(昭和21)年9月20日再版発行)と「谷崎潤一郎全集 第十八巻」中央公論新社(2016(平成28)年5月10日初版発行)との表記は同じでした。
※安井曾太郎(1888年5月17日〜1955年12月14日)の挿絵を同梱しました。
※猫・カーテン・窓の画は「猫と庄造と二人のをんな」創元社、昭和14年9月10日普及版第13版発行からとりました。底本は白黒画像です。
入力:砂場清隆
校正:悠悠自炊
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「くさかんむり/生」、U+82FC    19-17


●図書カード