青春物語

谷崎潤一郎




大貫晶川、恒川陽一郎、並びに萬龍夫人のこと


十年たてば一と昔と云ふが、私が初めて文壇へ出てからもう彼れ此れ二十三四年になる。私も此れでまだ懐旧談などをする歳ではないんだが、近頃の「スバル」を読むと、我が中学の同窓である吉井勇君なども、しきりに青年時代のことを懐かしがつて書いてゐるやうだ。辰野隆君も矢張中学から一高、赤門を通じての古い友だちだが、「改造」だか「中央公論」だかへ出た同君の「スポーツ漫談」なるものを読むと、中学時代の私のことが一寸引き合ひに出されてゐる。同君は私のことを「秀才谷崎」と呼んだりしてゐるが、さう云ふ辰野君のあの時分の風貌を想ふと、まことに今昔の感に堪へない。何しろ辰野君と云つたら、当時貴公子の美少年共が校内に徒党を組んでゐた中の一人で、ハイカラで、快活で、スポーツ好きで、才気煥発かんぱつではあつたが、怠け者で、腕白で、成績はあまり芳しい方でなく、一高の入学試験に「石鹸の製法を記せ」と云ふ有機化学の問題が出た時、「石鹸はうどん粉を固めて作る」と云ふ答案を出した豪の者だつた。―――辰野は出鱈目でたらめに書いたのだが、事実安物の石鹸にはうどん粉を交ぜることが後で分つたのは大笑ひだつた。―――されば誰か此の人が他日仏文学の権威となることを予想しようぞ。夫子自身も最初は法科を志したくらゐだから、恐らく当時文学者として世に立たうなどゝは思つてもゐなかつたであらう。
八月号の「改造」に出た「妄人政談もうじんせいだん」に、彼が文学に転じたのは仏法科を卒業した以後のことのやうに書いてあるのは、その通りに違ひあるまい。それに比べると、大貫や、恒川や、私なぞは、中学時代から樗牛ちょぎゅうにかぶれて美的生活を論じたり、近松物や西鶴物をひねくり廻して恋愛を讃美したり、早くも失恋の悲しみだとか厭世哲学などを云々すると云ふ風だつたから、辰野の眼から見たら、定めし生意気にも、滑稽にも、変にひねツこびてませてゐるやうにも思へたであらう。実際辰野はしば/\私共を冷やかしたり交ぜつ返したりしたもので、彼の毒舌にはわれ/\文学党はいずれも恐れをなしてゐた。就中なかんずく大貫などは最も彼に辟易へきえきしてゐた。大貫は号を晶川と云ひ、本名を雪之助と云つたが、玉川在二子ふたご村の生れで、色の真黒な、手に白なまづのある、田舎者丸出しの風采だつたから、「大貫は雪之助ではない、雲之助だよ」と、辰野はそんな悪口を云つた。私なども満面にニキビが出来てゐたので、「谷崎は近頃ニキビ並びがよくなつたね」なんかと云はれた。が、何はともあれ、当時の私共、―――明治の末年に於ける文学青年や新進作家の生活振りは、今とは自ら様子の変つたところもあつて、想ひ出してみると中々面白い。実は一遍機会があつたら、忘れないうちにあの時分のことを書いて置かうと思つてゐたのだが、幸ひ「中央公論」から随筆の依頼を受けたので、炎暑の折柄、成るべく肩の凝らないやうな、そして一般の読者諸君にも興味のあるやうな、花やかな事件や色つぽい場面をピツクアツプして、一とくさり昔噺むかしばなしをさせて貰ふことにする。
一体、東京からは傑出した人物があまり出てゐない。鳩山文部大臣は東京人の政治家で将来を矚目しょくもくされてゐるやうだけれども、今迄のところ、政界にも、軍人にも、実業界にも、生え抜きの江戸ツ児はさう幅を利かしてゐないやうだ。しかし此れが文学藝術の方面になると、大いに事情が違つて来る。先づ團菊を始めとして歌舞伎の名優中の何割かは東京人であらうし、文学の方でも、紅葉、露伴、漱石の三巨星以下、多くの人材が輩出してゐる。そして私の母校府立第一中学は、前記三巨星のうちの二人迄を、即ち紅葉と漱石を出し、小山内薫を出し、その他大小無数の藝術家を出してゐるので、明治大正の文壇とはすこぶる縁が深いのである。武林無想庵も小山内君と同級で、此の二人の卒業したのが、多分私の入学した前年あたりであらうと思ふ。土岐善麿君も私より一級上にゐた。同級には、吉井、辰野、伊庭孝、恒川、一級下に大貫、それから又二三年下に秦豊吉君がゐた。「第一中学」はもと「尋常中学」、略して「尋中」と云ひ、私が入学した年あたりに、それが「一中」と「三中」の二つに分れたので、もし「三中」の方の出身者迄を数へると、久保田万太郎、芥川龍之介などの名前も這入つて来る。ところで私は、その頃同級であつた筈の吉井勇君については全く何の記憶もない。たしか同君は途中で退学処分に遇ひ、他へ転校したやうに聞いてゐるから、在学中相識る時がなかつたのであらう。伊庭君の方は、これも顔は覚えてゐなかつたが、名前だけはよく知つてゐた。と云ふのは伊庭君の厳父想太郎氏が星亨を刺したあの大事件の起つたのが、丁度私の一二年生頃だつたから、剣客伊庭氏の息子だと云ふので、同君の存在は忽ち全校に知れ渡るやうになつたのである。が、まあそんな訳で、当時私が最も親密にしてゐたのは矢張恒川と大貫の二人であつた。此の三人が始終つるんで歩いて文学を談じ合ひ、ために辰野隆の毒舌の的となつたことは前述の如くである。
恒川も大貫も、文壇に出たのは私よりずつと早かつたのだが、不幸にして夭折した此の二人の名を今も記憶してゐる人が果して幾人あるであらうか。正直のところ、恒川はもし生きてゐたにしても、創作の方面で大いに伸びることは出来なかつたかも知れない。彼の才能は余りに繊弱せんじゃくで、巧緻こうちに過ぎ、鏡花先生の悪い所にばかりカブレてゐた。だから明星派みょうじょうはの歌人として、都会人らしい、気の利いた、技巧を凝らした和歌を詠んだけれども、小説を書かせると、通人振つた、小待合式の、イヤ味な薄ツぺらなものが出来た。彼が私と感情的に疎隔そかくするやうになつたのは、「新思潮」へ寄せた彼の短篇を皆で排斥したことが始まりであつた。当時恒川は既に文学を以て立つ意志がなく、政治科に籍を置いてゐたので、「新思潮」とは大貫や私を通して間接に関係してゐるに過ぎなかつたが、彼の原稿が届いた時、「こんな古臭い気障きざな物は葬むつちまへ」と、真つ先に反対したのは木村荘太と後藤末雄だつた。和辻もそれに賛成した。大貫と私とは恒川に対する情誼上、板挟みになつた訳だが、何しろ鼻息の荒い時分だつたので、私なんかは敢然私情を抛つて排斥派の味方に附き、「ナニ、構ふもんか、己が行つて断つて来てやる」と、自ら憎まれ役を買つて出て、その原稿をふところに恒川の家へ乗り込んで行つたものだつた。恒川は苦笑を以て私の説明を聴き、表面さりげなく撤回を承諾したやうなものゝ、此の事件が彼の文学上の信念に多大の打撃を与へたことは争はれない。それかあらぬか、彼はその時以来一層文壇から遠ざかるやうになつてしまつた。
しかし、歌人としての、乃至青年作家としての恒川陽一郎の名を記憶してゐる者は稀であつても、名妓萬龍の愛人としての、彼女の最初の夫としての彼の名を知つてゐる者は、今も尚世間に多いことであらう。苟しくも男子たるもの何を以て声名を世に馳せようとも、平々凡々裡に朽ち果てるよりは結構なことに違ひないから、萬龍に依つて彼が一挙に艶名を轟ろかし、満天下の羨望の的となつたのも、当人に取つて定めし痛快事だつたであらう。思ふにその時分、大貫と私とは既に「新思潮」を登竜門とうりゅうもんとして大いに文壇に活躍しようとする意気込みを示してゐたから、或はそんな事が彼の負けじ魂を刺戟したのではなかつたであらうか。私はそれがあの恋愛事件の動機であると云ふのでもないし、又さう云つたら故人の意志に反するでもあらうが、文学の方で失意の人となつた以上、実行の方面でわれ/\をあつと云はせてやらうと云ふやうな心持が、幾分潜在的にでも働いてゐなかつたとは断言出来ない。それにはあの頃の「名妓」と云ふ言葉が持つ魅力を説明しないことには、到底今の青年諸君には合点が行かないかも知れない。何しろ当時の藝者と云ふものは、上は貴顕※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)きけんしんしんから下はわれ/\のやうな文学青年に至る迄、士農工商あらゆる階級の男性の愛を惹きつける、唯一の浪漫的な存在であつた。今の女給やダンサーや映画女優などの役目をした者も藝者であるが、しかし名妓と云はれる者の人気の素晴らしさと、見識の高さと、社会的地位とは、今の第一流のキネマ・スタアを持つて来ても遥かに及ばないであらう。大政治家や何某伯爵や又は富豪の子弟などが、女優や踊り児に憧れて艶聞を流したとか、巨万の財産を蕩尽とうじんしたとか云ふやうな話は、西洋でこそ珍しくないけれども、日本ではまだそんな噂を聞いたことがない。然るにそれが藝者となると、桂公のお鯉を始めとして、さう云ふ実例はザラにある。当時絵葉書屋の店頭で売つてゐる美人のブロマイドと云へば、殆ど藝者の肖像ばかりであつたから、われ/\は新橋赤坂辺の一流の妓の顔だちは写真でよく知つてゐたけれども、お座敷で彼女たちに会はうとなると全く容易な業でなかつた。よつぽど顔の売れた人に連れて行つて貰つて、漸く呼ぶことは出来たにしても、無名の文学青年などはてんで相手にもしてくれない。私が一時藝者嫌ひになつたのは、一流の妓であればある程商売冥利みょうりと云ふことを忘れ、お客に鼻も引つかけないで威張つてゐるのがしゃくに触つたからなので、京都大阪は如才のない土地柄故それ程でもなかつたけれど、東京はその弊害が甚だしかつた。私の記憶にして誤まりがなければ、当時最も売れつ児だつたのは、東京で赤坂の萬龍、新橋の静枝、大阪で富田屋の八千代だつたであらう。就中萬龍は嬌名一世を圧し、東京藝者の代表的な者として花柳界の人気を一身に集めてゐた。されば真偽の程は分らないが、その頃有名な某野球選手が彼女の客に接する態度の傲慢なのを憤つて、酒を浴びせかけたと云ふやうな新聞記事が出たこともあつた。ところで恒川は、富裕な家庭のお坊つちやんで、私などから見ればずつと贅沢にしてゐたとは云へ、まだ角帽を頂いてゐる白面の一書生たる身を以て、此の一代の驕妓きょうぎの心をとらへたのである。これは社会的にもセンセーシヨナルな事件に相違なかつたが、彼の旧友たる私共に取つても確かに青天の霹靂へきれきであつた。実を云ふと私などは、もうすつかり女房気取りで彼の許に逃げて来てゐる萬龍その人に紹介される迄は、事に依ると彼の己惚れではないかと疑つたくらゐであつた。
私は、若き日の萬龍、―――今の岡田信一郎氏未亡人に対し、筆の勢ひで或は失礼なことを書いたかも知れない。夫人を呼ぶに「名妓萬龍」の名を以てし、あの頃のことを語るだけでも、今の夫人には迷惑千万であるかも知れない。そのうへ、恒川と結婚された当時の夫人は、私に対して決して好い感じを抱いてをられなかつたであらうと察する。なぜなら、前から疎隔しつゝあつた恒川と私との交情は、あの事件から一層疎隔するやうになり、殆ど絶交状態になつたのであるから。恐らく恒川は死ぬ迄私を背信の友として恨んでゐたであらう。私は彼がさう取つたのも尤もであり、さう取られるだけの罪が自分の方にあることを、認めるのに躊躇しない。だが、それ故に尚あの前後のいきさつを明かにしておきたいのである。
ありていに云ふと、私は恒川自身の口から彼女との結婚問題を聞かされる迄、二人がそんな関係になつてゐようとは少しも知らなかつたのであつた。但し、箱根の出水の時に偶※(二の字点、1-2-22)塔之沢とうのさわの旅館に泊り合はせてゐた此の二人が同じ場所に避難をし、彼が一杯の葡萄酒をすゝめて彼女の脳貧血を救つたと云ふ劇的な事件がその前にあつて、新聞紙上を騒がしたことはあるけれども、それとて私は、新聞で知つてゐたゞけで、直接には聞いてゐなかつた。それ程彼と私とは疎遠になつてゐた。だから私は、二人の恋愛の発端とも云ふべき箱根の出来事に就いても、その後の発展に就いても、何も語る資格はないのである。(箱根の事件は、その時萬龍と一緒にゐた何とか云ふ雛妓の話を基にして、小山内氏が短篇小説にした筈である。「梅龍の話」とか云ふ題であつたと記憶するが、あれを読むと、光景が眼に浮かぶやうに書いてある)そして、恒川が彼の結婚問題を私に打ち明けるやうになつたのは、彼女を落籍させるための金策に困つて、その相談を私の所へ持ち込んで来たからであつた。恐らくそんな事情でもなければ、彼がわざ/\その時分の私を訪ねることはなかつたであらうが、いくら疎遠になつたと云つても、そこは矢張旧友の情誼を信頼してゐてくれたのであらう。今は差支へないと思ふから書くが、彼は勿論貧しい私の懐をアテにして来たのではなく、彼も一面の識があり、私とは因縁浅からざる偕楽園かいらくえん主人笹沼に話してみてくれないかと云ふのであつた。私は笹沼がさう云ふ性質の、殊に分不相応の金を、融通する筈がないことを知つてゐたから、一往取り次ぐことは取り次いだけれども、さう熱心には口説かなかつたし、又笹沼も始めから取り合はなかつた。それで私はその不結果の報告をもたらして、青山北町にあつた恒川の家を久振に訪ねた。それが、明治年代のことであつたか、大正の初め頃であつたか、その辺の記憶が明瞭を欠くのだが、今も不思議に覚えてゐるのは、その時私は細かい十の字がすりついの大島のあわせ(これは友人の借り着であつた)に、お召の夏袴を穿いてゐた。だから季節は晩春か初秋、―――多分晩春であつたと思ふ。兎に角、もう恒川の家に納まつてゐると云ふ一代の麗人に初見参をすべく、好奇心に胸を躍らせながら、精々めかし込んで出かけたらうことはお察しを願ひたい。
行つて見ると、二人は恒川の家にゐないで、そこから数丁を隔てた穏田おんでんの方にある、彼の義兄で当時政友会の代議士であつた風間礼助氏の邸に預けられてゐた。私は彼の一家族とは古くから馴染みであつたし、いろ/\世話になつたこともあるので、先づ両親に会つて御不沙汰のお詫びをしたところ、母堂は私の顔を見ると、「いつたい陽一郎は何をあなたにお願ひに上つたんですか」と云ふやうな調子で、涙交りに愚痴を並べながら、此の結婚はどうしても許す訳に行かないと云ふのであつた。厳父も無論同意見だつた。
元来恒川の家庭は非常に派手好きで、両親共至つて子に甘い方であつたのが今度の事件を惹き起すやうな結果にもなつたので、今更狼狽してオロオロしてゐる様子は、ハタの見る目も気の毒な程だつた。それと云ふのが、工学博士で横浜の某船渠会社の顧問をしてをられた厳父の地位として、社会的信用を懸念されたことが第一の理由だつたであらう。だから両親は私の金策が不成功に終つたことを喜んでゐたらしく、寧ろ恒川が意を飜すやうに極力忠告をしてくれろと云ふ始末で、特に母堂は、「谷崎さん、もしこんな事が新聞にでも出たら大変ですから、どうか必ず秘密にしておいて下さいよ」と、くれ/″\も念を押された。
しかし私には、此の人の好い、気の弱い両親が、もうすつかり恒川に足元を見られてゐるので、結局彼の望み通りに引きられてしまふことが、分り切つてゐるやうに思へた。そして女中に案内をされて風間氏邸へ行つてみると、そこには恒川と、萬龍夫人と、彼等の熱心な同情者である令弟呉作君がゐて、頗る花やかな空気であつた。私は彼の両親との会談の模様を、そのまゝ彼等に話したけれども、自分の意見として何等忠告がましいことは述べずにしまつた。そんな忠告をしたところでとても聴き入れる恒川ではないし、又、鴛鴦えんおうの如き二人の様子を眼の前にしては、彼等に逆らふやうなことを切り出せる筈のものでもなかつた。それにはその時分の文学青年に共通であつた一種の気取り、新しがり、―――偽悪趣味とでも云ふべきものを理解して貰ふ必要があるが、吉井君の戯曲「河内屋与兵衛」などを見ると、さう云ふ気風があの構想の中によく現れてゐる。兎に角われ/\は新旧思想の衝突を口にし、親不孝を売り物にすると云ふ不心得な時代にあつた。殊に私なぞはその方の音頭取りであつたから、義理にも両親の味方をする訳に行かなかつた。
思へばそれが恒川と私との最後の会見になつた訳だが、その日われ/\はどんなことをしやべり合つたのか、一向取り止めた記憶がない。しかし恒川は恋愛の勝利者として得意の色を包み切れないものがあつた。
萬龍夫人も、噂に聞いたやうな威張つたところは微塵もなく、初めから打ち解けた態度であつた。そして、お白粉気のない顔に銘仙づくめの衣類を着て、すつかりしろうと作りだつた。さう、さう、それで思ひ出すのは、私が肩がつたと云ふと、「谷崎さんは大島を着てゐながら肩が凝つたなんて贅沢だわ」と、彼女がそんなことを云つたりした。(どうも人間は肝心なことを忘れてしまつて、下らないことを覚えてゐるものだと思ふのは、その大島にはどう云ふ訳か木綿の通し裏が附いてゐたと見え、その晩恒川の家へ泊つた時にお豊どんと云ふ古くからゐる老女中がそれを畳みながら、「これでは大島が可哀さうでございますね」と、借り着とも知らずにさう云つたのを、未だに想ひ出すのである)多分われ/\は、萬龍夫人を中に挟んで里見君の花柳小説にあるやうな機智と皮肉に富む狭斜きょうしゃ趣味の会話を遣り取りしながら、一日中愉快に、たわいもなく暮らしてしまつたのであらう。さう云へば恒川も私も日頃から都会人であることを誇りとして、その点では田舎者の大貫を馬鹿にしてゐたが、その日の恒川は金の苦労も両親の反対も何糞と云ふ度胸を示して、盛んに警句を吐き、諧謔を弄し、当るべからざる概があつた。私も負けずに応酬した。そこへ又夫人が加はつてひとしほ舌戦に花を咲かせた。こゝで一寸、夫人の第一印象を語らせて貰ふと、私はその時、名妓と云はれる人の飾り気のない生地の姿に接したのであるが、彼女の顔立ちは写真から受ける感じと少しも違つてゐなかつた。だが唯一つ、写真で分らなかつたのはその眼の美しさであつた。大きく、冴えて、ぱつちりとして、研き抜かれたやうな光りがあつて、真に明眸とはあんなまなざしを云ふのであらう。藝者には往々お白粉焼けのした、疲れた地肌の人を見受けるが、彼女の皮膚はたるみなく張り切つて、澄んでゐた。欠点を云へば上背うわぜいの足りないことだけれども、小柄で、程よく肥えてゐるのが、娘々して、あどけなくさへ見えるのであつた。彼女は所謂「意気な女」、―――すつきりした、藝者らしい姿の人ではなかつたけれども、黒人くろうと臭い病的な感じがなく、瀟洒と云ふよりは豊艶であつた。(病的と云へば、恒川の方がさうであつた。彼は嘗て肺尖を病んだことがあり、腺病質らしく痩せてゐて、背がヒヨロ長く、女よりも手足が白く、非常に光沢のある真つ黒な髪を持つてゐた)彼女は折々、真面目な相談が始まると、その大きな眸に一杯に憂ひの色を湛へて沈鬱な表情になつたが、次の瞬間には忽ち万事を忘れたやうにはしやぎ出した。しかし私は、半日程話してゐる間に、彼女が実にしつかりした、腹もあり分別もある、聡明な婦人であることを看取した。彼女の頭は恐ろしく鋭敏に働いて、ほんの一寸した片言隻語の間にも冴えた閃めきを見せるのであつた。思ふに彼女があれ程の評判を取つたのは、その美貌の故であらうけれども、或は一層多くその聡明に負ふところがあつたかも知れない。大阪の八千代、―――後の菅楯彦氏夫人なども、非常に聡明であつたことは今も土地の人々が噂をするが、事実名妓と云はれる者に馬鹿な女は少いやうである、あつてもそんなのは、決して声名を長く持続することが出来ないのである。
さて私は、二人の歓待を受けてその晩はとう/\泊り込んでしまひ、明くる日の夜、風間氏の家を辞した。(当時私は本郷にゐたのか、向嶋にゐたのか、これも確かな記憶がない)で、そのまゝ真つ直ぐ帰つてしまへば何も問題はなかつたのに、恒川の家の近所に岡本一平君夫妻が住んでゐたものだから、ついでに一寸立ち寄つたのがつい長つ臀になつて、又もう一と晩そこで厄介になつた。何しろ親父と喧嘩をして自分の家へ寄り付かず、友達の別荘や下宿屋の二階にごろ/\してゐた時代であるから、こんなことは始終だつたのである。ところで私は、止せばいゝのに一杯飲んだ勢ひで、恒川の事件を岡本夫婦にしやべつてしまつたのであつた。と云ふのは、岡本夫人かの子女史は大貫の妹でもあり、気心もよく分つてゐたから、此処で話すのは構はないと云ふ心持があつたのだらう。一平君もかの子夫人も、勿論面白がつて聞いた。
それには私が、大いに彼等の感興を催すやうに弁じ立てたことも事実で、私一流の奇警な観察や、意地の悪い解釈なども加味されてゐたに違ひない。(古い友達は皆よく知つてゐてくれるだらうが、私は元来座談が得意で、感興に乗ると巧妙な話術を駆使して果てしもなくしやべる方であつた。それが今日のやうな話下手になつたのは、江戸つ児の軽佻浮薄けいちょうふはくな癖がしみ/″\いやになつて、中年頃から自分で自分をたしなめるやうに仕向けたせゐである。しかし此の頃は、談論風発した青年時代が頻りになつかしい。かう話下手になつてしまつては、どうも淋しくていけないし、文章などにも影響する所がありさうに思ふ)尤もその時、恒川から他言を禁ぜられたことを話して、確かに夫妻に口止めをした覚えはある。然るに、それが驚いたことには、翌々日の朝日新聞にすつかり出てしまつたのである。それも事実の通りでなく、変に恒川に反感を持つた書き方で、「青年小説家の泰斗」たる「谷崎氏」が旧友のために一と肌いで金を作つてやつたと云ふ風に、私ばかりがひどく器量を上げてゐるのである。これは云ふまでもなく、その時分から朝日新聞社の社員であつた一平君が、なるべく私に花を持たせてくれたのであらう。一平君は漫画家であるから三面記事に責任はないやうなものゝ、ニユウス・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リユウ百パーセントの話を聞いては、新聞記者的良心が黙つてゐられなかつたので、事件を素ツ葉抜く代りに、せい/″\私に儲け役を振つてくれたのであらう。それにしても私の当惑は非常であつた。全く恒川一家の人々に顔向けがならない気がした。単に秘密を洩らしたゞけなら詑まりやうもあるけれども、あの新聞の書き方では、友人を陥れて自己宣伝をしたと取られても仕方がないし、恒川一家の人々がさう取つたであらうことは余りにも明瞭だつた。私もそんな薄ツぺらな人間と思はれては立つ瀬がないが、何分平素の悪党がりが祟つてゐるので、かう云ふ時には弁解の道がないやうに思へた。それでも今の私ならば一往説明に出向いたであらうが、見す/\軽蔑されることが分り切つてゐるのに、なんとしても頭を下げて行く気にはなれなかつた。萬龍夫人の、あの悧口さうな眼を想ふと、とてもそれがイヤであつた。さればと云つて、一平君の所へ捻ぢ込む料簡にもなりかねた。私は岡本夫妻に対して一時はひどく腹が立つたが、考へてみれば、彼等を責めるより前に自分を責めるのが順序であり、それに、矢張心の奥底には恒川に対する妙な反感が潜んでゐて、一平君の素ツ葉抜きを痛快に感ずる気持もないではなかつた。そして私は、「時がたてば分る」といふ風な、持ち前のづう/\しさと横着とから、それきり何の手段も取らずに、一日も早くその不愉快を超越するやうに努めたのであつた。
恒川の方は、その後金の問題も巧く解決がついたと見えて、首尾よく思ひを遂げたことは世間周知の通りである。(或は新聞で一時にぱつとなつたことが、却つて形勢を有利に導いたのかも知れない)が、私は絶えず心中に済まないことをしてゐると云ふ自責の念を抱きながら、彼等の新家庭へ慶びを述べに行くことも出来ず、厳父が逝去された時にも葬式に立ち合つた覚えがない。そして大正五年(?)の秋であつたか、或る日突然恒川の訃報ふほうを受け取つたのである。お通夜の晩に、私は彼の柩の前で久方振に萬龍夫人と言葉を交した。彼女は悲しみに窶れてゐたけれども、昔の色香は少しも衰へてゐなかつた。私は折柄来合はせてゐた生田葵山いくたきざん君に、故人の最近の模様などを尋ねながら、一時間ばかり棺前に侍つて引き取つたやうに記憶してゐる。
大貫晶川の亡くなつたのは、恒川よりも更に五六年早かつたから、多分彼は萬龍事件を知らなかつたであらう。(大貫は面疔、恒川は慢性中耳炎で、孰方どちらも急劇な死に方だつた)しかし大貫のことは、前に何かに書いたこともあり、私よりは岡本かの子女史の方が適任であらうと思ふから、ここには略する。ついでながら断つて置きたいのは、勿論私は岡本君夫妻に対し、あの時の事をさういつ迄も根に持つてゐた訳ではない。あの新聞記事の出所は、果して岡本君であつたか、なかつたか、今更そんなことを詮議立てする必要もない。唯思ひ出の一端を語つた迄である。多少夫妻に迷惑な点があつたかも知れないが、まあそのくらゐはお馴染みがひに許して戴く。

「新思潮」創刊前後のこと


前にも云つたやうに、文壇へ出たのは大貫や恒川の方が私より一と足早かつたので、私は此れにはヤキモキした。ぜんたい弱冠にして文名を知られようと云ふには、小説よりも詩の方がずつと近道である。大貫や恒川が二十歳前後で既に多少とも頭角を著はすやうになつたのは、彼等が最初に詩人もしくは歌人として立つたからだつた。取り分け大貫は中学の五年時分から新聞の文藝欄等に寄稿したもので、馬場孤蝶氏が詩の選者をしてをられた頃の萬朝報を調べれば必ず彼の名がしば/\発見されるであらう。それを思へば、彼の妹かの子女史が今日女流歌人として有名であるのも誠に偶然でないのである。中学で私と同級であつた吉井勇君なども、私の一高在学当時には早くも新進の歌人として一家を成してゐたらしく、その時分一高のわれ/\の仲間が恒川の家へ与謝野先生を招待して歌の会を開いた折に、彼と白秋君とが師範代と云ふ形で、与謝野先生に伴はれて出席し、われ/\の作歌を批判してくれたことがあつて、それが私の吉井北原両君を識つた初めであり、私はその日の吉井君のニキビだらけの顔を今も覚えてゐるのである。
誰しも、文学を志す青年は去就に迷ふ時代がある。その第一は自分の天分に疑ひを抱くやうになること、その第二は、仮りに天分には自信が持てゝも、文壇へ進出する手蔓を求めるのが困難であること、その第三は、家に資産があればいゝが、さうでない場合、果して原稿料で食つて行けるかどうかと云ふ心配である。当時と今日とは大分時勢が変化したけれども、今日と雖もこれらの危惧は多くの文学青年の念頭を去らないであらう。私の十八九歳から二十四五歳に至る六七年間は、実に此の暗澹たる危惧の時代であつた。
その頃は法科万能の時だつたから、私は最初、将来の生活の点を顧慮して英法科に這入つた。しかし一高から大学へ移る時に、全く背水の陣を敷くつもりで文科へ転じた。それも最も人気の悪い、兎角時勢おくれのやうに思はれがちな国文科へであつた。それは、いよ/\創作家にならうと云ふ悲壮な覚悟をきめたので、国文科だつたら、学校の方を怠けるのに一番都合がいゝと考へたからであつた。しかし私は下町の相場師の子であり、殊にその頃は貧困のために家庭教師を勤めながら学費を稼いでゐる状態であつたから、学問藝術の方面に何等の縁故を求める訳にも行かず、此の後如何にして、どう云ふ径路で文壇へ出ると云ふ成算も立たないので、それを思ふと、前途が真つ暗であるやうな気がした。のみならず、私は当時流行の自然主義文学に反感を持ち、それに叛旗を飜さうと云ふ野心があつたゝめに、尚更進出が困難であるとしか思へなかつた。私は初め、栄華物語から材料を取つた純国文趣味の戯曲「誕生」を書いて、「帝国文学」へ送つたが、これは見事没書になつた。それで悲観して今度はいくらか自然主義に妥協した「一日」と云ふ短篇を書き、恒川の手を経て平出修氏に読んで貰つた。平出氏は面白いと云つてくれて、「早稲田文学」へ載せるやうに相馬御風氏に掛け合つてくれると云ふ話であつたが、それが中々纏まらないので、或る日私は恒川と一緒に平出氏を訪ねたことがあつた。その時平出氏は、「相馬君からかう云ふ返事が来てゐるからまあもう少し待つて見給へ」と云つて私にその手紙を見せて下すつたけれども―――内容は今忘れてしまつたが―――どうも私には心もとないやうな気がした。と云ふのは、当時はまだ官学と私学との反目が盛んで、殊に赤門と早稲田とは仲が悪かつたのである。赤門系で早稲田系の文人と親しくしてゐたのは小山内君ぐらゐのもので、一般には、お互に余り交際もしないと云ふ有様であつたから、仮りに相馬氏が私の作物を認めて下すつたとしても、それを「早稲田文学」が引き受けてくれるやうなことは万に一つもあるまいと思へたが、果して予想通りその原稿は握り潰されたのであつた。此の前後に於ける私の失望は可なり大きなものだつた。そして自信がグラツキかけたことも屡※(二の字点、1-2-22)であつたが、さりとて自然主義諸家の作品を読んでも、白鳥、独歩、秋声等の二三氏を除く外、殆ど孰れも感心する気にはなれなかつた。
事実、あの頃の自然主義の横暴と云つたら、恰も二三年前のプロレタリア文学勃興時代に髣髴たるものがあつてあれよりも尚鼻息が荒かつた。それについては、たび/\例に引くことだけれども、鏡花先生の小説を引き請けた書肆が自然主義作家の一団からボーイコツトを食ひさうになつて、已むを得ず出版を中止したと云ふ事件なぞがあり、猫も杓子も自然主義的作品をさへ書いてゐれば認められると云ふ風で、「平家にあらざれば人にあらず」と云ふ如く、「自然主義者にあらざれば作家にあらず」の感があつた。唯鴎外と漱石の両大家だけはさすがに時流に超然として、前者はをり/\揶揄の言辞を弄し、後者は全然文壇などを無視する態度に出たけれども、ために鴎外の歴史物は高等講談と云ふ悪罵を受け、漱石も亦、一般には広汎な読者を有するに拘はらず、文壇の中心勢力からは敬遠主義を取られてゐた。人は失意に沈淪してゐると下らないことにも腹が立つもので、私は斯かる状勢に甚だしく憤慨した。而も私の文壇へ出られる望みはいよ/\乏しくなるばかりである。私は自然焦躁になり、自暴自棄に陥らざるを得なかつた。そして一時は、当分田舎の新聞記者にでもなつて徐ろに時節の来るのを待たうかと思ひ、山形、青森等の新聞社へ頼み込んで、殆ど話が纏まりかけたこともあつた。かう云ふ場合に、自分の才能を認めてくれ、自分の前途に希望をつないでくれる友人が、もし一人でもあつたならばどんなに慰められるか知れない。私が今でも感謝してゐるのは、一高時代の同窓に岸巌と云ふ男があつて、彼がしば/\私を激励してくれた一事である。此の男は杉田直樹君や私と一緒に一高の文藝部委員をしたことがあり、帝大の政治科を出てから暫く東京日日の記者を勤め、後に朝鮮銀行に転じて現に平壌の支店長をしてゐるが、彼は元来新聞記者として成功すべき素質を持つた、筆力、弁力、併せ備へた俊才であつた。そして私の試作的に書いたものを一々丁寧に読んでくれて、「兎に角君は小栗風葉ぐらゐにはなれるよ」と云つてくれた。私は彼の批評眼を頼んでゐたゞけに、此の言葉は実に非常な力になつた。今朝鮮にゐる岸は、もうそんなことを覚えてもゐないであらうが、此の一言は私に唯一の光明を与へた。私は此の、「小栗風葉ぐらゐ」と云ふ彼の評価をその後も始終忘れずにゐて、「あゝ、ほんたうにさうなれるかなあ」と思ひながらも、それだけを頼みの綱にしてゐた。
尚もう一つ、私を力づけたのは荷風先生の「あめりか物語」の出現であつた。私は大学の二三年頃、激しい神経衰弱に罹つて常陸の国助川にある偕楽園別荘に転地してゐる時に、始めて此の書を得て読んだ。蓋し、それよりずつと前に漱石先生の「草枕」や「虞美人草」の如き、非自然主義的傾向の作品が出たことはあるけれども、未だ此の書の作者の如く自然主義に反対の態度を鮮明にした者はなかつた。少くとも私はさう云ふ感銘を受けた。それに、漱石先生はその社会的文壇的地位が余りに私とは懸隔があり過ぎ、近づき難い気がしたが、荷風氏は当時仏蘭西滞在中(?)の最も尖鋭な新進作家であり、恐らくはまだ二十代の青年らしく思はれたので、私はひそかに此の人に親しみを感じ、自分の藝術上の血族の一人が早くも此処に現れたやうな気がした。私は将来若し文壇に出られることがあるとすれば、誰よりも先に此の人に認めて貰ひたいと思ひ、或はさう云ふ日が来るであらうかと、夢のやうな空想に耽つたりした。
さて「新思潮」の話であるが、実を云ふと、私はそれの最初の提案者が誰であつたかよく知らない。しかし私より先に、和辻、後藤、木村荘太、小泉鉄、大貫などの間にさう云ふ計画が熟してゐたことは確かである。此のうち、和辻、小泉、大貫は私より一級下、後藤は二級下であつた。木村は帝大生ではなく、千代田小学校時代の後藤の幼な友達で、芝浜館の若旦那であつたが、暇に任せて外国の文学書を漁り、欧洲文壇の趨勢に通じてゐたことは我々の中の随一であつたゞらう。彼は年歯最も若く、芝浜館と云へば相当に名の売れた料理屋の主人であつたから、資金の関係から後藤が仲間へ入れたのであらうと思はれる。当時此の少し前に「白樺」が創刊され、志賀、武者小路、有島、里見の諸氏が新しい機運を作り出しつゝあつたので、彼等がそれに刺戟されたことは云ふまでもあるまい。彼等のうちで、大貫は早くから名を成し、和辻も「新思潮」の出る前に小山内氏に接近してゐて、同氏の斡旋でシヨウの「キヤンデイダ」の飜訳を演藝画報へ載せたことがあつた。そんな事情から、その他の連中も自然小山内氏の門に集まるやうになつたのであらう。されば「新思潮」と云ふ名も、小山内氏が命名したか、われ/\の仲間が氏を担ぐために名付けたか、孰方かであつたに違ひないと云ふのは、その昔深川の木場の若旦那で、小山内氏のパトロンであつたKさんと云ふ人(同氏の小説「大川端」に出て来る人)が出資者となつて、小山内薫秋田雨雀両氏の編輯で、その同じ名の雑誌が出たことがあり、それが久しく廃刊になつてゐた。そこでわれ/\はその看板を譲り受け、第二期「新思潮」を起さうと云ふのであつた。(だから「新思潮」と云ふものが同人雑誌の性質を帯び、青年作家の試験台のやうなものになつたのは、此のわれ/\の第二期「新思潮」が最初であつて、第一期「新思潮」はやゝ高蹈的ではあつたけれども、普通の文学雑誌であつた。その後「新思潮」は第何期まで続いたか知らないが、同人雑誌と云ふ意味では正にわれ/\のが第一期であつた)
私は、その「新思潮」と云ふ名前も極まり、同人の顔触れも略※(二の字点、1-2-22)決定した後に入れられたのである。私を引張り込んだのは誰であつたか覚えてゐないが、多分大貫だつたであらう。大貫に紹介されるまでは、そんな計画のあることも知らず、和辻にも後藤にも面識がなかつたやうに思ふ。これは後で聞いたのだが、「谷崎」と云へば国文科にゐる至つて頭の古い男で、恐ろしい怠け者の道楽者と云ふ評判が高く、同人達はてんで私を馬鹿にしてゐたのだと云ふ。ところが私に偕楽園と云ふ有力なバツクがあり、私を加へれば偕楽園が金を出すだらうと云ふことを大貫あたりから聞き込んだと見え、「まあ仕方がない、彼奴は金の蔓だから、仲間に入れてせい/″\御機嫌を取つてやらう」と云ふやうなことになつたらしい。(雑誌が三号ばかり出た時分に、後藤と木村とが私に打ち明け話をして大笑ひをした)私は一向そんな事とは知らなかつたが、出資者の一人である木村荘太もまだ部屋住みの身でさう/\金の才覚は出来なかつたし、後百円か二百円なければどうしても雑誌が出せないと云ふので、その不足額を出してくれるやうに偕楽園へ泣き付いた。私は、「君にも今まで随分迷惑をかけたけれども、今度の金は今までのやうな無意味な金でない。これさへあれば僕は必ず文壇へ出てみせる。これで僕の運命が開ける。さう云ふ大事な金だと思つて融通してくれ」とせがんだものだつた。実はそれ程の自信があつたのではなく、一かバチかやつてみるつもりだつたのだが、偕楽園の笹沼は此の話を真面目に聞いてくれ、快く金を出してくれた。彼は文学に理解がある訳でもなく、小山内氏とは一面の識があつたゞけで金を出す程の義理合ひはなかつたので、これは全く私の将来を思ひ、身の為めを案ずる友情の結果であつた。で、いよ/\雑誌が出ることになつて、その創刊号へ私が発表したのが、前に帝国文学で没書になつた戯曲「誕生」であつた。だから活字になつた順序から云へば「誕生」が処女作であるけれども、「刺青しせい」もその時もう書けてゐたやうに記憶する。(創刊号が出る前に、私は或る日「刺青」の原稿を懐にして木村を訪ねたことがあつた。木村の居間は芝浦の海に面した芝浜館の階下にあつた。夕方、まだ電燈のつかない時刻に、木村は薄暗くなりかけたその部屋の柱にもたれて、二十枚ばかりのその原稿を手で支へながら一と息に読んだ。読んでゐる間彼は一語も発しなかつたが、読み終るや否や、「こんな面白いものを読んだことがない」と、興奮しきつた口調で云ひ、「君、握手しよう」と、いきなり私の手を握つた)私は何故「刺青」の方を後廻しにして、時勢に合はない「誕生」の方を先にしたのか、今その理由を解するに苦しむが、恐らく私の天の邪鬼がさうさせたものに違ひない。果して「誕生」は月評家の悉くに黙殺され、誰も取上げてくれた者はなかつた。同人達も「誕生」には参つたらしかつた。「だから谷崎は困る」と、みんなさう思つたやうであつた。(しかしさすがに小山内氏は、此の戯曲に一往の価値を認めてくれ、「古臭いけれども、さう一概にケナしたものでない」と云はれたと云ふことを、私は人伝てに聞いた。今日になつてみると、「刺青」には歯の浮くやうなところがあるが、「誕生」にはそれがない。私は寧ろ此の方を気耻かしくない心持で読み返すことが出来る)それから二号に「象」を出し、三号に漸く「刺青」を出し、ついでに、これも既に篋底に貯へてあつた“The Affair of Two Watches”を出した。「刺青」については、今も云ふやうに真つ先に木村が激賞してくれ、同人達の「楽屋褒め」の言葉を聞かされてゐたので、私の文壇に期待するところは大きかつた。私は胸を躍らせて、ひそかに反響の起るのを待つた。が、私の眼に触れた限りでは、萬朝報の月評欄に三四行程の紹介が出たゞけで、容易に何処からも批評の声は聞えて来なかつた。木村は、同人中で私が最も反自然主義的であるところから、「文壇へ出るのは君が一番後れるだらうね」と慰め顔に云つたりした。「きつとさうかもしれないね」と、私はさり気なく答へたが、しかし心中平らかでないものがあつた。「なあに、満更さう云つたものでもない、事に依つたら己が真つ先に出られるかも知れない」と、何となくそんな予感がしないでもなかつた。
今、春陽堂発行「明治大正文学全集」巻末の年譜を繰つてみると、第二期「新思潮」の創刊は明治四十二年九月となつてゐる。だから「刺青」の載つた第三号は十一月に出たのである。(九月に私は、授業料未納の故を以て帝大から諭旨退学の通知を受けた。金を持つて行けば退学を許される例であつたが、私はそれきり学校を放棄した)ちやうどその頃、小山内氏と市川左團次とが自由劇場の運動を起し、その第二回の試演に、同年十二月有楽座に於いてゴルキーの「夜の宿」を上場する筈であつたから、「新思潮」同人はしば/\小山内氏や左團次を楽屋に訪ねて、稽古を見せて貰つてゐた。さうして、たしかその舞台稽古の日であつたが、私は永井荷風氏が見物に来られることを知つてゐたので、何とかして氏に「刺青」を読んでもらひたく、「新思潮」の十一月号を懐にして有楽座の廊下をうろ/\した。尤もその前、私は既に「パンの会」で荷風先生の風貌に接してゐたけれども、まだ改まつて紹介されたこともなく、その上、その会の晩に、酔つ払つて先生に管を巻いたことを思ひ出すと、すつかり恐縮してしまつて、それでなくても畏敬してゐる先生に近づき難くされてゐた。だから私は、「どうか僕の書いたものを読んで下さい」などゝ云ふ勇気はなかつた。私の頼みとするところは、幸ひ「刺青」は十一月号の巻頭に載つてゐたので、手づから雑誌を先生に渡すことが出来たならば、―――さうしてもし、ひよつとして先生が雑誌をパラパラとめくつてくれ、巻頭にある「刺青」の文字に眼を留めて下すつたならば、―――又もし、気紛れに最初の一行をでも読んで下すつたならば、―――或は先生の注意を促すこともあらうかと云ふ一事であつた。
私は先生の姿を見かけると、最も好い機会を掴むために、その跡を追つて歩いた。すると、夕方になつて先生は食堂に這入つて行かれた。(それは、あのなつかしい有楽座の、往来の方に別に入り口の附いてゐた、何とか云ふレストーランの階下の部屋であつた)私はあの食堂から化粧室の前を過ぎて有楽座の廊下へ続く通路の間を、往つたり来たりしながらそれとなく先生の様子を窺つたものだつた。先生は食卓に着いて、誰かもう一人の客(生田葵山氏?)と対談してをられた。私は勇を鼓してツカツカと食堂へ這入つて行き、「先生、十一月号が出来ましたからお届けいたします」と云ひながら、恭しく雑誌を先生の前に捧げた。荷風氏は「あ、さうですか」と一と言云つて、それを受け取られた。私はお辞儀をして逃げるやうに食堂を出て来てから、又その辺をうろ/\して暫く先生の様子を見てゐた。私は、先生が受け取つた雑誌を、そのまゝ手にして開けて下さるであらうかと予期してゐたのだが、雑誌は食卓の上に置かれて、先生は相変らず対談を続けてをられた。私は先生が食堂に居られる間、二度も三度も入口へ引き返して来ては中を覗いたが、依然として雑誌は食卓の上にあつた。私は内心甚だ失望したけれども、せめて先生が忘れずにその雑誌を携へて帰宅され、何かの折に読んで下さるやうな廻り合はせになることを希望するより外はなかつた。
バイロン卿の例を引くのも烏滸おこがましいが、由来私は最も花々しく文壇へ出た一人であるとされてゐる。
しかし、それでも世間に認められるやうになつたのは、翌明治四十三年の三月「新思潮」が廃刊した後、六月の「スバル」に「少年」を書き、七月(?)の同誌に「幇間」を書いた前後からだつた。その時分になつて、鴎外先生や上田敏先生が「麒麟」や「幇間」を褒めて下すつたと云ふ噂が、ポツポツ私の耳に這入つた。

「パンの会」のこと


創刊号以下雑誌は一向売れなかつたが、同人たちは孰れも意気軒昂たるものがあつた。就中江戸ツ児を以て任じてゐた木村、後藤、私の三人は、気障で生意気で手が着けられなかつた。木村は両国の肉屋「いろは」で生れ、後藤は伝馬町だか馬喰町だかの医師の家に生れ、私は蠣殻町の相場師の子であつたから、三人ながら生粋の日本橋ツ児と云ふ訳で、いつも東京の下町の話が始まると、和辻や大貫は田舎者扱ひで除外されてしまふ。後藤は嘗て一高の校友会雑誌に「べつたら市」と云ふ詩を寄せ、「何のことだか田舎者には分るめえ」と脂下やにさがつてゐたところ、豈図らんや文藝部委員の一人がその詩の批評をし、べつたら市の解説までしたので、「一高にも少しは江戸ツ児がゐるんだな」と思つて、その解説者を調べてみると、それが私だつた。で、その当時から私の名前は知つてゐたと云ふ。彼は三人の中でも最も態度が傲慢で、よく人に憎まれた。その頃「白樺」の同人やわれ/\の仲間の多くはまだ大学に通つてゐたが、長与善郎君なども教室に於ける後藤の態度に憤慨して、一遍彼奴を懲らしめてやらうと云ふことになつたらしく、或る日、後藤が赤門を出ようとするところを後から呼びとめて、「貴様、生意気だ」とばかり躍りかゝつた。
長与君は何しろ柔道何段と云ふ猛者もさであつたからたまらない、忽ち後藤は砂利の上に組み敷かれて拳骨を見舞はれ、カラーや眼鏡をふつ飛ばすと云ふ惨めな目に遭つた。木村や私はその噂を聞いて、「彼奴たまには殴られた方がいゝんだよ」と手を叩いて痛快がつたが、以来長与君の武勇にはわれ/\も私かに恐れを成したものだつた。例の「スバル」に載つた北原白秋君の詩、「夏の日の亀清に、歌沢の云々………」と云ふ文句にケチをつけたのも、たしかわれ/\三人であつた。われ/\は、芝浜館から船を出して、木村が櫓を漕いで、お台場の方へ出かけて行つたその船の中で、「あの『亀清』と云ふのは変だ」と云ひ出した。「亀清と云へば宴会屋だ、あんなところで歌沢の爪弾きを聴くなんて、練兵場の真ん中で植木鉢を眺めるやうなもんだ」と、とう/\後藤が六号記事にその悪口を書いたので、「スバル」の方でそれが問題になつたりした。(北原君、昔の馬鹿話をしてゐるのだ、どうか怒らないでくれ給へ。その後君が「亀清」の文字を削除したことも知つてゐるが、私はそんなことを此処で兎や角云ふのではない)さう云へば「亀清」で思ひ出したが、浅草生れの久保田君が公園から竜泉寺町界隈の地域に憧れを抱いてをられるが如く、当時われ/\は、人形町、浜町、両国、柳橋附近の空気にノスタルジヤを感じてゐた。これらの土地は、木村にも、後藤にも、私にも、皆それ/″\の「たけくらべ」の舞台であつて、幼時の淡いなつかしい追憶と結びついてゐた。分けても柳橋から代地河岸に至る色町は、不思議に甘い魅力を以て青年時代のわれ/\を惹き着けた。一体柳橋と云ふところは、その頃の文人の詩情をそゝるものがあつたと見えて、独身時代の小山内薫氏、洋行前の島崎藤村氏なども、暫くあの辺の閑静な横丁に借家住まひをされたことがあり、帰朝後の永井荷風氏も、茶の湯や清元の稽古に通はれた時代に、矢張あの町の小意気な家に世を佗びながら、藝者屋と軒を並べて住んでをられた。(あの時分の代地河岸の静かさは、まことに今日では想像も及ばない。或る日私は木村か誰かと永井氏のお宅の前を通りかゝつて、格子先から声をかけると、小女が出て来て「只今お留守でございます」と云ふ。見ると、土間の障子が開いてゐて、ほんの一と間か二た間しかない奥の座敷に清元の稽古本と見台とが出し放しになつてゐる。多分先生は、今まで稽古をしてをられて一寸その辺へ散歩に出られたのであらう。それが如何にも市井に隠れた粋人の住居らしく、先生の自由洒脱な生活振りが思ひやられた)それと云ふのが、柳橋は新橋や赤坂と共に一流の土地であつたけれども、後者は多く華族や大官の遊び場所であつたのに反し、前者の客は主に下町の旦那筋であり、旧幕時代からの伝統を引いてゐるだけに、風俗が意気で阿娜あだつぽく、おまけに大川と云ふ水の眺めを控へて、ひとしほ微吟低酌の興趣に適してゐたから、無位無官の文人には新橋赤坂よりも親しみ易かつたのであらう。両国辺に生れた木村や後藤が此の土地に愛着したのは当然であるが、私も五つか六つの時、祖父の三回忌に亀清で盛大な年会が催され、大勢の親戚や出入りの商人たちとその席に連なつた覚えがあり、それが私の最も古い「宴会」の記憶なので、家が微禄してから後、幼い頃の栄耀栄華を偲ぶにつけても、妙に柳橋と云ふところが忘れられないものになつてゐた。私の叔父が叔母を追ひ出して、一家の資産を蕩尽するまでに迷ひ込んだのも柳橋の女だつた。私は十二三歳の頃、本家を勘当された叔父が、私の家でそつとその女と媾曳あいびきするのをしば/\見た。それは私の母の親切で、父が取引所へ行つてゐる留守の間に、一時間か二時間の果敢ない逢瀬を楽しんでは、日の暮れる前にこそ/\と別れて行くのであつた。そしてもう大学時代には、貧乏書生のくせに笹沼に連れられて始終あの土地で遊ぶやうになり、僅かながら原稿料が這入るやうになつてからは、いつか馴染みの家だの女だのが出来てゐた。だからわれ/\三人はよく柳橋の話をした。それで飛んだ失敗をしたのは、根津権現境内の「娯楽園」と云ふ小料理屋で「新思潮」の何号目かの編輯会議をした時であつた。木村がひどく酔つ払つて柳橋を讃美し始め、彼の「たけくらべ」時代の話を持ち出して、「あの時分の幼な友達で、今も忘れられない女があるんだ。今その女は一流の藝者になつてゐる」と云ふので、「何と云ふのだ」と尋ねると、「お染と云ふんだ」と云ふ。すると私は、「え、お染か」と、眼を見張つて飛び上るやうな声を出した、「お染なら僕も知つてゐる。あの女は素敵だ。ありやあ江戸趣味の粋の粋なる者だ。あれなら君がそのくらゐに思ふのは当り前だよ。実際あんなのは柳橋でなけりやゐないね」―――私は幾らか木村に油をかけるつもりで、殊更感情を誇張したには違ひなかつたが、しかしその女が好きなことも事実だつた。そして、自分には手の届かない一流の藝者だつたので、最初からあきらめてゐたゞけに、木村の話は意外でもあり、同情の程度も大きかつた。木村は私にさう云はれると、感極まつて例の「君、握手しよう」を連発しながら、何度も/\私の手を握り締めた。二人はすつかり意気投合して好い気持でメートルを上げた。しまひに木村はヘドをはいた。一座は唖然として編輯会議も糞もあつたもんでなかつた。でもそこまではよかつたんだが、その時新たに同人に加はつた独文科の立沢剛君は、われ/\の様子に一と晩で愛憎を尽かして、こんな不真面目な奴等の仲間入りは出来ないと思つたのだらう、二三日すると決然として脱会の通知を寄越した。「どうもあゝ云ふ話をすると、田舎者は反感を持つと見えるね」などゝわれ/\は負け惜しみを云つたが、さすがに此の時は木村も私もシヨげたものだつた。
第一回の「パンの会」は「新思潮」の廃刊される以前であつたから、大方明治四十二年の十一月頃であつたらう。会場は人形町の西洋料理屋三州屋、主催者は誰であつたか記憶しないが、集まつたのは主として「スバル」と「三田文学」と「新思潮」の同人、及びそれに関係のある美術家その他の藝術家であつた。「白樺」の同人も招かれた筈だが此の方は出席者が少く、たしか萱野君か誰か一人二人見えたゞけだつた。
ところでわれ/\は、「宜しく此の機会に『新思潮』のデモンストレーシヨンをやるべしだ」と、その晩みんなが揃ひの帽子を被つて行くことにした。その帽子と云ふのが、或る晩銀座を散歩すると、何処かの帽子屋のシヨウウインドウに変な恰好の帽子が出てゐたので、それから木村が思ひ付いて、すぐその帽子屋へ注文したのだつたが、山の浅い、鍔の恐ろしく広い、畳むと懐へ這入るやうな、柔かい、へら/\した天鵞絨びろうどで、而も色が紫と来てゐるんだから、西洋の道化役者だつて被りさうもない、なんとも不思議なものであつた。同人中でも大貫などは辟易して拵へなかつたやうに思ふが、和辻、後藤、木村、私などは、確かにそれを被つて行つた覚えがある。われ/\は定刻前に会場へ着いて、控へ室の隅に陣取りながら、次々に到着する先輩諸氏を待ち受けて、「あれは誰」「あれは誰」と云ふ風に囁き合つた。私の記憶するいろ/\な文人の会合の中でも、此の第一回の「パンの会」は実に空前の盛会であつて、恐らく出席者の数は四五十名を下らなかつたであらう。今一寸思ひ出しても、与謝野鉄幹、蒲原有明、小山内薫、永井荷風、石井柏亭、生田葵山、伊上凡骨、鈴木鼓村、木下杢太郎、久保田万太郎、江南文三、吉井、北原、長田兄弟、岡本一平、恒川陽一郎、………と、いくらでもその晩の顔ぶれを浮かべることが出来るが、先輩では小山内氏、同輩では自分たちの仲間を除いて、その他は殆ど初対面の人々ばかりが続々と詰めかけて来るのであつた。そのうちに一人、痩躯長身に黒つぽい背広を着、長い頭髪をうしろの方へ油で綺麗に撫でつけた、二十八九歳の瀟洒たる紳士が会場の戸口へ這入つて来た。彼はその顔の輪廓が俎板の如く長方形で頤の骨が張り、やゝ病的な青く浅黒い血色をし、受け口の口元にだだツ児みたいな俤を残してゐて、黒い服とひよろ高い身の丈とが、すつきりしてゐる反面に、何処かメフィストフェレスの[#「メフィストフェレスの」はママ]やうな感じがしないでもなかつた。「永井さんだ」と、誰かゞ私の耳のはたで云つた。私も一と眼で直ぐさう悟つた。そして一瞬間、息の詰まるやうな気がした。と、永井氏は控へ室の知人と顔を見合はせて、莞爾として、その長い上半身を丁寧に折り曲げつゝお辞儀をした。氏のその動作が甚だ優雅に見えた。「いゝね!」と、大貫が私に云つた。「いゝね!」と、私も同じことを云つた。(これが私の永井先生を「見た」最初であつた。と云ふのは、木村は前から先生を知つてゐたので、或る日彼が電話で先生と話してゐた時、その電話には受話器が二つ附いてゐたのを幸ひ、私はもう一つの受話器を取つて、余所ながら先生の声を「聞いた」ことはあつた)が、それからあと、誰が開会の辞を述べたか、どんなテーブル・スピーチがあつたか、そんなことは何も覚えてゐない。唯私は宴がたけなわに及んだとき既におびただしく酔つ払つて、間もなくその辺を泳ぎ廻つてゐた。私は会場に充満する濛々たる煙草の煙と、騒々しい人声の中をうろつきながら、誰彼の差別なく取つ掴まへては気焔を挙げた。勿論私ばかりではなかつた。酔つ払ひの筆頭は伊上凡骨君であつた。此の人の酔態は鮮やかなもので、彼が奇声を発しつゝ何度も椅子から転げ落ちた恰好は今も私の眼底にある。
その外吉井、北原、長田などゝ云ふ酒豪連も悉くどろんけんになつた。小山内氏も酔つてわれ/\後輩に向つて如才なく油を売つてゐた。長田秀雄は私の「刺青」を頻りに褒め上げて、「あののさと云ふ辰巳言葉が気に入つたね、われ/\も一つのさ言葉を使ひやせう」などゝ云つた。その最中に葭町の藝者と半玉が繰り込んで来た。生田葵山と恒川陽一郎とが、めい/\半玉を捕虜とりこにして膝の上に乗せながら、乙に澄まして椅子にかけてゐた。「なんでえ、あのざまは」と、われ/\は又悪口を云つた。そんな中でも私は荷風先生のことを忘れず、わざと先生の見えない所へ逃げて来て、「永井さんえ! 永井さんえ!」と、やりての婆さんが花魁を呼ぶ口調で怒鳴つた。それから与謝野先生に管を巻き、蒲原有明氏に管を巻いた。
誰かゞ画帖を廻して来たので、私は筆を取つて怪しからぬ物を黒々と画いた。最後に私は思ひ切つて荷風先生の前へ行き、「先生! 僕は実に先生が好きなんです! 僕は先生を崇拝してをります! 先生のお書きになるものはみな読んでをります!」と云ひながら、ピヨコンと一つお辞儀をした。先生は酒を飲まれないので、端然と椅子にかけたまゝ、「有難うございます、有難うございます」と、うるさゝうに云はれた。会が終つてもまだわれ/\は飲み足らず、しやべり足らなかつた。そして小山内氏を団長に、吉井、長田(秀)、木村、私など、夜更けの日本橋通りをつながつて歩いて、魚河岸の屋台へ飛び込んだまでは知つてゐるが、その先はさつぱり思ひ出せない。

紅葉館の新年会のこと


「三田文学」に「谷崎潤一郎氏の作品」(?)と題する永井先生の評論が載つたのは、多分明治四十三年の夏か秋だつた。永井荷風先生はその前の月の「スバル」か「三田文学」にも、私の「少年」を推挙する言葉を感想の中に一寸洩らしてをられたが、今度のは可なりの長文で、私のそれまでに発表した作品について懇切丁寧な批評をされ、而も最大級の讃辞を以て極力私を激賞されたものだつた。私は前に新聞の文藝欄の予告を読み、それが掲載されることを知つてゐたので、雑誌が出るとすぐに近所の本屋へ駈け付けた。そして家へ帰る途々、神保町の電車通りを歩きながら読んだ。私は、雑誌を開けて持つてゐる両手の手頸が可笑しい程ブルブル顫へるのを如何ともすることが出来なかつた。あゝ、つい二三年前、助川の海岸で夢想しつゝあつたことが今や実現されたではないか。果して先生は認めて下すつた。矢張先生は私の知己だつた。私は胸が一杯になつた。足が地に着かなかつた。そして私を褒めちぎつてある文字に行き当ると、俄かに自分が九天の高さに登つた気がした。往来の人間が急に低く小さく見えた。私はその先生の文章が、もつと/\長ければいゝと思つた。直きに読めてしまふのが物足りなかつた。此の電車通りを何度も往つたり来たりして、一日読み続けてゐたかつた。私は先生が、一箇無名の青年の作物に対して大胆に、率直に、その所信を表白された知遇の恩に感謝する情も切であつたが、同時に私は、これで確実に文壇へ出られると思つた。今や此の一文がセンセーシヨンを捲き起して、文壇の彼方でも此方でも私と云ふものが問題になりつゝあるのを感じた。一朝にして自分の前途に坦々たる道が拓けたのを知つた。私は嬉しさに夢中で駈け出し、又歩調を緩めては読み耽つた。
私の喜びは、家へ帰り着くとやがて一家の喜びに変つた。当時私の一家族は窮迫と不幸の絶頂にあつて、私の父は矢張蠣殻町の取引所に通つてゐたものゝ、元来相場師に適しない几帳面な性質だつたから、一度失敗してからは容易に盛り返すことが出来ず、神田南神保町のとある路次の奥の裏長屋に逼塞してゐた。
その上両親の最愛の長女で、私の妹になる十八歳の娘は腸結核に罹り、死の床にあつた。かゝる際にあつて私の放縦不羈な生活はどんなに彼等を苦しめたであらう。今考へると私は悚然しょうぜんとせざるを得ない。が、まあそんな状態で、親父は私が何か此の頃文学雑誌のやうなものをやり出したことは知つてゐたけれども、忰が一体どんなものを書いてゐるのか、そんなことで将来食つて行けるのかどうか、文壇の様子など分る筈がないから、先の見込みは付かないし、おまけに大学は退校されてしまふし、からツきし私と云ふものを信用しなくなつてゐたところへ、俄然として此の評論が出たのである。だから親父の喜び方と云つたらなかつた。親不孝の私は、永井先生のお蔭で飛んだ孝行をすることになつた。尤もツムジ曲りの私のことだから、内心いくら嬉しくつても、「お父つあん、これを読んで下さい」などゝ親父にその雑誌を見せびらかした訳ではない。(これは私の悪いところで、自分にさう云ふ無邪気さのないのは確かに欠点だと思つてゐる。しかし一方から云ふと、私は非常にはにかみ屋なのだ、殊に肉身の者に対すると、尚さうなるのだ。幾つになつても此の癖は直りさうもないが、これも性質で如何ともし難い)ところが、仕合はせなことに、前に話をした道楽者の叔父と云ふのが、若い時から小説好きで、文学趣味があつたものだから、私は親類の誰よりも此の叔父に一番遠慮がなかつたが、それがその晩見舞ひに来てゐていち早く雑誌に眼を付けて、家族一同の集まつてゐる病人の枕元で朗々と読み上げたものだつた。(此の叔父の読み方が実に不思議で、ちやうど番頭が帳合ちょうあいを附けるやうなふしで読むのだ。そしてところ/″\滑稽な読み違ひをした。「刺青しせい」と云ふのを「刺青あおざし」と読み、「麒麟きりん[#「麒麟」は底本では「麒鱗」]」の中に出て来る「亀山きざん」を「亀山かめやま」と読んだりした。それでも叔父は頗る得意で熱心に読んだ)私はそばでそれを聴きながら、又もう一度興奮した。嘗て有楽座の廊下で先生を追ひ廻し、鞠躬如きっきゅうじょとして先生の前に雑誌を捧げたあの晩のことが、再び新たに思ひ出された。そして「パンの会」で先生に管を捲いたことを考へると今更のやうに極まりが悪くなるのであつた。それにしても先生は、あの有楽座の食堂で「新思潮」を受け取られた晩に、始めて私の書いたものを読んで下すつたのであらうか。後に生田葵山君から聞くところに依れば、「谷崎の書いたものを是非読んで見ろ」と云つて先生に推薦した者は、葵山君であつたと云ふ。然らば先生が読まれたのは恐らくあの時よりも後であつて、私は生田葵山君にも大いに感謝しなければならない。
永井氏の前に、近松秋江氏も新聞の月評欄で私の「少年」を褒めて下すつたことがあるけれども、しかしその称讃の程度と云ひ、形式と云ひ、分量と云ひ、既に大家の域にある作家が後輩を推挙するものとして、永井氏の論文の如く花々しいものは前例のないことであるから、予想の如く、そのお蔭で私は一と息に文壇へ押し出てしまつた。私が初めて原稿料と云ふものを貰つたのは、その前年、明治四十二年の十二月、「スバル」へ戯曲「信西」を書いた時であつたが、これはその同じ月の「新思潮」に吉井君の「河内屋与兵衛」を載せ、「新思潮」から交換的に吉井君へ原稿料を支払ふと云ふ条件が附いてゐたので、普通われ/\の原稿には何処でも金を支払はないのが例であり、現にその後の「スバル」へ載せた「少年」や「幇間」等も、私はたゞで書いたのである。が、荷風先生の推挙があつてから間もなく、「三田文学」へ「※(「風にょう+(犬/(犬+犬))」、第4水準2-92-41)ひょうふう」を書いた時は、黙つてゐてもちやんと先方から稿料を届けて寄越した。次いで中央公論主筆瀧田樗陰氏が神保町の裏長屋へやつて来た。私は直ちに「秘密」を書いて中央公論社へ送り、一枚一円の稿料を貰つたが、その次に書いた「悪魔」からは一円二十銭になつた。私は忽ち売れつ児になり、順風に帆を張る勢ひで進んだ。
此の、私が新進作家として今が売り出しの最中と云ふ得意の絶頂にある時、明治四十四年の正月に、紅葉館で新年宴会があつたのは、たしか読売新聞社の主催だつたかと思ふ。招待を受けたのは、都下の美術家、評論家、小説家等で、大家と新進とを概ね網羅し、非常に広い範囲に亙つてゐた。「新思潮」からは、私一人であつたか、外にも誰か行つたか、記憶がない。私は瀧田樗陰君が誘ひに来てくれる約束だつたので、氏の来訪を待つて、一緒に出掛けた。その頃のことだから勿論自動車などへは乗らない。神保町から電車で芝の山内へ行つたのだが、瀧田君は吊り革にぶら下りながら、私の姿を見上げ見下ろして、「谷崎さん、今日はあなた、すつかり見違へましたね」と云ふのであつた。それと云ふのが、私は紋附きの羽織がなかつたものだから、その晩の衣裳として偕楽園から頗る上等の羽織袴縞御召の二枚がさね等一切を借用してゐた。ぜんたい私は、第一回の「パンの会」の頃までは髪の毛をぼう/\と生やして、さながら山賊の如き物凄い形相をして、「君の顔はアウグスト・ストリンドベルグに似てゐるね」などゝ云はれていゝ気になつてゐたものなんだが、さてそんな衣裳を借りてみると、その薄汚いパルチザン式の容貌ではどうにも映りが悪いものだから、当日の朝床屋へ行つて長く伸びた髪を適当に刈つて貰ひ、下町の若旦那と云つた風に綺麗に分けて、それから借り着を一着に及び、二重廻しに山高帽と云ふ、まるで今までとは打つて変つたいでたちをしてゐた。(私の家の紋は世間に多い丸に蔦であつたが、偕楽園のは根切笹ねきりざさと云ふ奴で、それも普通の根切笹と違つた、類と真似のない珍しい紋であつた。だから借りたことは借りたものゝ、私は此の羽織の紋が人目を惹きはしないかと、ひどく気になつた。これを人に覚えられてしまふと今度自分の紋附きを着る時に工合が悪いなと思つたことだつた。尚ついでながら、此の時の山高帽と二重廻しとは借り物でない。二重廻しの方は柳原で十三円で買つたのである。しかしその十三円のしろものも衣裳がいゝので立派に見えたことは確かだ)私は瀧田君にさう云はれて、「へえ、さうですかね」と云ひながらニヤニヤしてゐると、そこへ黒のオバーコートを着た、一見政治家の如き風采の堂々たる体躯の紳士が、同じ電車へ這入つて来て瀧田君と礼を交した。瀧田君は私の耳へ口をつけて、「あれが足立北鴎と云ふ人ですよ」と云つて、私をその足立さんに紹介した。そして私は、足立さんと、瀧田君と、三人で紅葉館の玄関へ着いた。例に依つてくわしいことは忘れてしまつたが、来会者の集まる間、最初に女中の踊りがあり、引き続いて二三の余興があつたやうに思ふ。何にしても「パンの会」の時とはまるで空気が違つてゐた。「パンの会」の方は洋食屋の二階で、大部分が粗暴な青年共であつたから、野蛮を極めたものであつたのに、今日のは一流の旗亭に於ける純日本式の盛宴であり、白襟の婦人連がお膳の前に行儀よく控へてゐるのだから、何となく堅苦しい。私は借り着の紋附き袴で、それでなくても自然鯱硬張しゃちこばつてゐたところへ、その日瀧田君が私を連れ出したと云ふのが、当時問題の人物であつた私と云ふものを文壇に紹介する一方、附き合ひの狭い私を世間へ出してやらうと云ふ好意があつたことゝ思はれるので、それが私の意識に反映して、一層固くならざるを得なかつた。私は大広間にずらりと居流れた人々を見渡したけれども、殆ど一人も知つた顔はなかつた。右隣りも左隣りも未知の先輩であつた。「パンの会」の時は何と云つても傾向を同じうする若い作家ばかりであつたから、会ふのは始めてゞも互に気心が分つてゐたが、今日の出席者はあの時より更に多人数である上に、古いところでは硯友社けんゆうしゃ系の諸豪を筆頭に、三田系、早稲田系、赤門系、それに女流作家も参加し、その外文展系院展系の画伯連、政論家文藝批評家等、紛然雑然としてゐるので、何処に誰がゐるのやら見当もつかない。さうなるとはにかみ屋の私は一種敵国に這入つたやうな心地がして、ひとり窮屈さうに酒を飲んでばかりゐた。(有名な作家の顔ぐらゐは写真で見覚えてゐさうなものだが、紹介されるまでさつぱり知らなかつたところをみると、当時の文学雑誌には今日のやうに写真が出なかつたものと思はれる)尤もこれは私ばかりでなく、誰も多少はそんな気持がしたらしく、暫くの間席上は白けて見えたが、その時異彩を放つてゐたのは、口髯のある、眼鏡をかけた洋服の紳士が、いつの間にか靴下のまゝ庭に下りて飛び石の上にあぐらを掻きつゝ、今しも会場で開会の挨拶だつたか余興の演藝だつたかゞ長たらしく続いてゐるのを、時々蛮声を張り上げて交ぜつ返してゐることだつた。まだ中年の、豪快な顔つきをしたその紳士は、「引つ込め」とか「止めろ」とか云つたり、でかんしよを怒鳴つたり、いろんな半畳を入れてはひどく無邪気な眼つきをして笑ふ。傍に小山内君が附いてゐて、「まあまあ」となだめながら一緒になつて笑つてゐる。顔だけ見てゐるとさうでもないが、よろけて倒れさうになるので、彼が恐ろしく泥酔してゐることが分る。此の紳士こそ当年の論壇の雄工学士中沢臨川りんせん君であつた。私はその前々年明治四十二年の暮れに、小山内、吉井、長田(秀)、喜熨斗きのし、木村、和辻等の諸君と新橋の花月で忘年会を開き、二階の中沢君の座敷へ闖入ちんにゅうしたことがあつたが、その時も中沢君は野球だかテニスだかの選手諸君を引卒して座に数人の美妓を侍らせ、痛飲淋漓りんり、全く正体もなかつたので、向うは私に気が付いた筈はないけれども、私の方では見覚えてゐた。今夜も多分臨川君は新橋辺で飲んでゐて、一杯機嫌で会場を荒らしに来たのであらうが、間もなく小山内君か誰かゞ何処かへ引つ張つて行つたらしく、直きに姿が見えなくなつた。そのうちに追ひ/\一同も打ち解けて来て、此処彼処で会話が取り交はされる。ぽつ/\盃の献酬けんしゅうが始まる。それでも私は誰に話をしかけるでもなく、所在なさゝうにチビリチビリやつては膳のものを摘まんでゐると、さつきから私の右隣りにゐて矢張気まづさうに黙り込んでゐた紳士が、物柔らかに会釈しながら名刺を私の前に置いた。見るとそれは中村吉蔵君であつた。私は名刺を戴いて懐に入れると、自分の名刺を中村君に呈したが、その名刺と云ふのが、きつ放しの日本紙へペン字の自署を石版刷りにした、悪く気取つたものだつた。中村君は手持ち無沙汰で困つてゐる私に、「此の頃は何かお書きですか」などゝあの重い口で二た言三言尋ねてくれたけれども、私は此の古き「無花果」の作者、新帰朝後に「牧師の家」を書いて以来戯曲家として立つてゐる此の人とどんなことを話したか覚えがない。たゞ同君の人柄の如何にも謙譲で温良らしいのに好印象を受けた。しかし私もその時分からそろ/\酒が利いて来たのと、中村君のお蔭で少し勇気が出たせゐであらう、一人に紹介されると直ぐその人から次へ紹介されながら、段々ノサバリ出して行つた。横山大観、鏑木清方、長谷川時雨女史………私はさう云ふ人達を知つた。私は頃合ひを見て、自分の席の真向うにゐる宮本和吉君に盃をさした。宮本君は阿部次郎、安倍能成、小宮豊隆等の諸君と共に当時漱石門下の論客であつて、私の書いたものなどにもしば/\好意ある批評をしてくれたが、それよりも私は、同君を我が一高の先輩として、あの向陵の健児たちが等しく感ずる一種特別ななつかしさを以て敬愛してゐた。私は自分の席に就いて大広間の向うにゐる同君の洋服姿に気がついた時から、孤立無援の青年が見知らぬ土地で兄貴にでも出遇つたやうな、―――さう云つて悪ければ、毎々褒めて貰つてゐる先輩に甘えたいやうな心持で、ちよい/\目礼を送つたのであつたが、どう云ふものか宮本君は近眼の眼鏡をピカピカ光らせてゐるばかりで、此方を向いてくれないし、向いても私に気がついてくれなかつた。が、名乗りを上げて盃を廻すと、始めてニツコリして、「やあ、君だつたのか」と云ひながら、立ち上つて私の前へやつて来た。「さつきからお辞儀をしてたんですが、さつぱりあなたが気がついてくれないものだから」と云ふと、「さうかい、そりやあ失敬した、だけども君はいつもと様子が違つてゐるね、暫く会はなかつた間にひどく変つたやうぢやないか、僕は盃をさゝれるまでは気が付かなかつたんだよ」と云ふ。ところへ森田草平君が現れて、「谷崎君、谷崎君、君の笑ひ方はエロチツクに見えるぜ」と大きな声でみんなに聞えるやうに云つた。しかし私には、さう云ふ森田君の、色の蒼白い卵なりの顔、―――取り分けその頬のあたりと口元とが、甚だエロチツクに感ぜられた。そしてその黒羽二重の紋附きの羽織が一と入彼を色白に見せた。私はさすが「煤烟」の作者だけあるなあと思つた。すると私の前にゐた女中が、「あなた、六代目さんに似ていらつしやるわねえ」と云つたのを、瀧田君が聞き咎めてわい/\囃し立てた。私は内心大いに嬉しいのを我慢して、ニヤニヤしながら脂下やにさがつてゐると、思ひなしかその女中は私の根切笹の紋を珍しさうに見てゐるやうなので、これには私も気が揉めたことであつた。かうと知つたら笹沼の紋附きを借りて来るのではなかつたのに、全く千慮の一失であつた。私は八方から盃を貰ひ、いろ/\の人から讃辞や激励の言葉を浴びせられ、次第に有頂天になつて、瀧田君を促しつゝ徳田秋声氏の前へ挨拶に行つた。と、秋声氏は、其処へ蹣跚まんさんと通りかゝつた痩せぎすの和服の酔客を呼び止めて、「泉君、泉君、いゝ人を紹介してやらう―――これが谷崎君だよ」と云はれると、我が泉氏ははつと云つてピタリと臀餅しりもちくやうにすわつた。私は、自分の書くものを泉氏が読んでゐて下さるかどうかと云ふことが始終気になつてゐたゞけに、此の秋声氏の親切は身に沁みて有難かつた。秋声氏はその上に言葉を添へて、「ねえ、泉君、君は谷崎君が好きだろ?」と云はれる。私は紅葉門下の二巨星の間に挟まつて、真に光栄身に余る気がした。殊に秋声氏の態度には、後進をいたはる老藝術家の温情がにじみ出てゐるやうに覚えた。けれども残念なことには、泉氏はもうたわいがなくなつてゐて、「あゝ谷崎君、―――」と云つたきり、酔眼朦朧たる瞳をちよつと私の方へ向けながら、受け取つた名刺を紙入れへ収めようとされた途端に、すうつとうしろへつてしまはれた。「泉は酔ふと此の調子で、何も分らなくなつちまふんでね」と、秋声氏は気の毒さうに執り成された。私は此の二人の大作家に会つた勢ひで、又瀧田君を促して、今度は内田魯庵翁に盃を貰ひに行つた。翁は恐らく当夜の参会者中、文壇方面に於ける第一の老大家、横綱格の大先輩だつたであらう。「先生、谷崎潤一郎君を連れて来ました」と、瀧田君が云ふと、翁は眼鏡越しにじつと私の顔を見守つて、先づほうつと長大息するやうな素振を示され、「ふうん、あなたが谷崎さんですか、さうですか、そりやあどうも、………お若いのにどうも、………よくあゝ続けて後から後からと傑作ばかりがお書けになれるもんですな。いや、全く、出るものも出るものも素晴らしい傑作ばかりであるとは、実に敬服の至りですな」と、気味の悪い程お世辞を云はれるのであつた。それがなんだか余り空々しく聞えるので、私は「此奴、狸め」と思つた。翁は嘲弄的に冷やかされたのではないであらうが、すつかり子供扱ひにされて、あめをしやぶらされてゐるやうに思へた。それから先はどんなことがあつたか、たゞ彼方此方に酔つ払ひが出来、杯盤狼藉たる光景であつたのが、眼に残つてゐるばかりである。その中にあつて、白髪交りの蓬髪に紋附きを着た横山大観画伯が、あの、何処か石井漠を想起せしめる風貌で、鬱勃たる野心に燃えてゐるやうな眼を輝やかしながら、泰然と据わつてをられた姿を今も忘れない。聞けば泉鏡花氏は、あの酔態で二次会に吉原へ繰り込んだが、紙入れその他一切の持ち物を落してしまひ、それを同行者が拾ひ集めるに苦心したと云ふ。私も多分無事に帰つたのではなかつたらしい。いづれ瀧田君か誰かと何処かへシケ込んだものに違ひない。
右のやうな事情で、私は多くの先輩と顔見知りになつたけれども、何と云つても最初に私が門を叩いたのは小山内薫氏であり、私を文壇注視の的にして下すつたのは永井荷風氏であつた。もし小山内氏を担がなければ、「新思潮」と云ふものがあんなに早く認められはしなかつたであらうし、又荷風氏の推挙がなければ、私が一人前の作家になる時期は尚もう少し後れたであらう。然るに私は、此の両先輩とその後妙にチグハグになつてしまつた。尤も永井氏の方は、前から親しい交際はなかつたのであるから、特に疎遠になつた訳ではないが、もし永井氏から分不相応の讃辞を戴かなかつたならば、或はもつと親しくすることが出来たかも知れない。ありていに云ふと、私はあの「三田文学」の論文が出た時早速永井先生へお礼に上るべきかどうかについて、随分迷つたものであつた。云ふまでもなく永井先生は、私が感謝しようとしまいと、そんなことを眼中に置いてはをられないであらう。先生は一箇の藝術家として、純粋な動機から書かれたに違ひない。しかし私がそのお蔭で世俗的にも利益を蒙つてゐる以上、一言の挨拶も述べないと云ふのは、礼に欠けてゐるやうにも思へる。さうかと云つて、「今後も御贔屓御引立の程を」と、恐る/\出頭するのも藝人染みてゐて可笑しい。ま、さう面倒に考へずとも、褒められて嬉しいのは当り前だし、日頃から敬慕してゐる人を訪問するのに何の不思議はないのだから、簡単に飛んで行つて「先生、有難うございます」と云つてしまへば済む訳だのに、そこが私は、たび/\云ふやうに無邪気に出来てゐないもんだから、なか/\ちよつとそんな工合に行かないのである。それに、何を云ふにも褒められ方が余り仰山で、先生の地位としては思ひ切つた辞句を使つてあるので、それが一層私を臆病にさせてしまつた。
私は先生に買ひ被られてゐるのが恐ろしかつた。今に先生の期待を裏切つて、顔向けが出来なくなるだらうと思ふと、いつそ最初から遠ざかつてゐるに如かずとも考へた。で、私は先生に、至極有り来りの文句で感謝の言葉を申し送るだけに止めた。それに対して先生からも葉書の返事を戴いたゞけであつた。以来私は、或る夏の日にプランタンで偶然先生と落ち合ひ、珍しくも二三時間打ちくつろいで雑談をしたことがあるけれども、それが先生と膝を交へてゆつくり話を伺つた唯一の機会であつたと云つていゝ。その後は「近代情痴集」の序文をお願ひする時に一度築地のお宅を訪ね、帝劇で「お国と五平」上演の前後、舞台稽古や合評会で二三度お目にかゝつたに過ぎない。そして近年、と云ふのは此の二三年来、漸く先生を想ふの情の切なるものがあり、とき/″\自著や手紙などを差し上げて、先生からもその都度こまやかな消息を戴くやうになつたが、生憎今は関西に住んでゐるので、親しく謦咳けいがいに接して往時を追懐する時は容易に恵まれないのである。

小山内氏とのいきさつのこと


永井先生の場合は、もと/\先生自身交際嫌ひの風があり、生田葵山氏、井上唖々ああ氏等二三子を除く外は、誰も先生に親炙しんしゃすることが出来なかつたから、そのために尚私は遠慮勝ちになつたのだが、小山内氏の場合は大いに事情が違つてゐた。氏はあの通り誰にでも如才がなく、人を外らさぬ方であつたし、われ/\後進を喜ばすことは上手であつたから、私共は氏を「先生」として尊敬しながらも、時にはまるで同輩の如く冗談を云ひ合ひ、随分一緒に悪所通ひなどもしたものだつた。(氏は此の道ではたび/\後輩にシテヤラレた)想ひ起す、私が始めて後藤末雄に連れられて氏を訪ねた時、小山内氏は二十九歳、私は二十四歳であつた。当時氏はまだ独身で、月島の海水館と云ふ下宿屋に住んでをられた。私は品川の海が見える二階の部屋へ通されて、一時間ばかりお邪魔をしたが、氏の容貌や、態度や、話し振りは、かね/″\想像してゐた氏の人柄にしつくりまつてゐた。その頃、小山内薫水野葉舟の二人は文壇に於ける好男子の双璧と云はれ、又小栗風葉の小説「青春」の主人公「欣哉」と云ふ大学生は、小山内氏をモデルにしたのだと云ふ風説があつたくらゐで、氏は真に秀才型の美青年であつた。氏は一生頭髪を短く刈つてをられたやうだが、それはその時分からさうであつた。その頃流行つた「角刈り」と云ふのに近い刈り方で、うしろの方をより短く、前方を長目に刈つた頭の鉢は、後頭部がやゝ一直線に切つ立つてゐたが、小さく固く引き締まつて、その面長の顔とよき釣り合ひを保つてゐた。私は今、かう書いて来て俄かに思ひ出したのであるが、氏と一室に膝を交へて語つたのはその時が初めであるけれども、実を云ふとその前年、自由劇場が第一回の旗挙げとしてイブセンの「ジヨン・ガブリエル・ボルクマン」を試演した時に有楽座の舞台で挨拶する小山内君を、観客席にゐて眺めたことがあつたのである。氏は、海水館の時が二十九歳であつたとすると、あの有楽座の舞台で自由劇場創設の趣意を演説した時は、実に二十八歳と云ふ若さであつたのだ。人は各※(二の字点、1-2-22)の環境、素質、健康、運不運等に依つてその経歴もさま/″\であるが、しかしどんな人間でも、大概一生に一度はその人間に相応した花々しい時期と云ふものがある。誰にでもあるとは云へないけれども、貧しい者は貧しいながらに花を咲かせる。源平の昔屋島の合戦に扇の的を射た那須与一は、その後どうなつてしまつたか知る人も稀であるけれども、彼が二十歳の時、敵味方環視の中で扇の的を射落したのは即ち彼が生涯に於ける「今が盛り」の時であつた。死に至るまで劇壇のために悪戦苦闘した小山内君の経歴は一生に一度花を咲かせたきりである与一とは比較にならないが、思ふに氏の五十年に亙る生涯に於いて、彼が二十八歳の十二月、有楽座の脚光を浴びつゝ満場の観客に呼び掛けた時のやうな花々しい時期は、さう数多くはなかつたであらう。当時無名の後輩として、単なる一箇の観客として、平場ひらばの椅子席に腰掛けてゐた私は、苦難に充ちた氏の将来を予見した訳ではないが、「今夜の小山内君こそは一世一代の男振りだ、こんな時はそんなに度々あるものではないぞ」と感じた。事実、二十八歳の文学士と云へば、就職難の今日ならば僅かの月給にさへ容易にありつけないのである。然るに早熟の氏は令妹の八千代女史と共に早くから文壇に名を成し、詩に、小説に、飜訳に、行くとして可ならざるなき才能を示し、劇界に身を投じては伊井蓉峰ようほう帷幕いばくに参じたが、今や梨園りえんの名家たる市川左團次と握手して劇壇革新の烽火のろしを挙げた。はじめ松居松葉と結んでゐた左團次に、氏が如何にして接近したか。俳優中での新思想家であり、新帰朝者であるとは云ひながら、因襲の久しい歌舞伎役者の、而も名門の子に生れた左團次を、如何にして口説き落したか。たま/\劇界の陋習ろうしゅうに対する若き左團次の反抗心と氏の野心とが、双方から歩み寄つたのか。それらの事情はつまびらかにしないが、弱冠にして老坪内博士の事業に拮抗する壮挙を実現し、左團次を筆頭に、猿之助、松蔦しょうちょう、寿美蔵、荒次郎等錚々たる青年俳優を糾合して自ら盟主の位置に就いた氏の得意や想ふべしである。けだし、氏の斯くの如き業績を見て、氏を目するに年に似合はぬ手腕家であるとし、仕事師であるとする者があれば、それは大いなる誤まりであつて、氏は決して事業家肌でも政治家肌でもなかつた。氏は何処までも文学青年の意気と純真さを失はない詩人肌の書生であつた。氏が多くの俳優を惹き着けたのは、氏の機略に依るものではなくて、その秀才風の容貌と、それにふさはしい才気と、熱情と、学殖と、弁舌と、愛嬌とに依つてゐることは確かだ。「ジヨン・ガブリエル・ボルクマン」開演の当夜、開幕に先だつて開会の辞を述べるべく舞台に現れた小山内氏は、実にさう云ふ青年であつた。氏はフロツクコートを着、優形やさがたの長身を心持ち前屈みにし、幕の垂れてゐる舞台の前面をやゝ興奮した足取りで往つたり来たりしながら、徐ろに口を切つた。「私共が自由劇場を起しました目的は外でもありません、それは、生きたいからであります。」―――氏の唇から洩れた最初の言葉はかうであつた。氏の血色は脚光のために赤く燃えてゐた。後にも先にも、氏が当夜の如く気高く、若く、美しく、赫耀かくようとしてゐたことはなかつた。「青春」のモデルに擬せられた氏は、今や小説の主人公も成し能はざることを成し、満天下の文学青年の渇仰かつごうを一身に集めて、空前の栄光を背負つて立つたのだ。あの有楽座の階上階下にぎつしり詰まつた観客は、一人として氏の風采と弁舌とに魅せられない者はなかつたであらう。彼等は悉く、今夜の演劇を見、今夜の俳優を見るのと同じ好奇心を以て小山内氏を見、同じ熱心を以て氏の云はんとする所を聴いた。氏の人品、氏の器量、氏の明眸皓歯めいぼうこうし、―――総べては此の一夜のために用意されてゐたかと見えた。白面の一書生にして都下第一の美妓をち得た恒川陽一郎も男子の本懐なら、当夜の小山内氏の如きに至つては正にそれ以上のものではないか。さればわれ/\が此の人の傘下に集まり、此の人を「先生」に戴いて第二期「新思潮」を創めたことは、われ/\として最も賢い方策であつた。と云ふのは、当時文壇の中心勢力は大体に於いて早稲田派若しくは早稲田系の手に移り、赤門出の創作家は漱石一派を除いては極めて微々たるものであつて、ひとり小山内氏のみが文壇にも劇壇にも幅を利かせてゐたから、後進のわれ/\が若し先輩を担ぐとすれば、此の人を頼るより外はなかつたのである。これは氏に取つて多少迷惑だつたかも知れないが、劇壇の一勢力となつた氏が、文壇に於いてもわれ/\後進から慕ひ寄られたと云ふことは、必ずしも不愉快ではなかつたであらう。氏は創刊号に「反古」と云ふ短篇を寄稿されたゞけで、それ以後われ/\の雑誌のために自ら筆を執つてくれたことはなかつたけれども、しかしあの忙しい体で兎も角も一篇の創作を寄せてくれたことを思へば、われ/\に対する関心が尋常でなかつたことは明かである。(われ/\は小山内氏から「反古」を戴いたことを非常に喜んだものであつたが、此の「反古」のために「新思潮」創刊号は発売禁止になつた。その後「夜の宿」上演の前後に、「『夜の宿』を Produce する準備」と云ふ一文を貰つたが、これは芝浜館の一室でわれ/\が代る/″\氏の口述を筆記したのである)のみならず、氏は多方面に交際があつたから、われ/\は氏に依つて肩身の広い思ひをし、間接に恩恵を受けたことは少くなかつたであらう。余人は知らないが私一人について云へば、永井先生その他の先輩が蔭ながら引き立てゝ下すつたことは別として、自分が進んで師弟の礼を以て近付いた人は小山内氏一人あるのみである。自分は物質的には笹沼の援助を得、社会的には小山内氏の援助を得て文壇に出たと云つていゝ。故に私は小山内氏を心から「先生」と呼び、又当然さう呼ばなければならないのであつて、初めのうちは事実その通りに呼んでゐたのだが、それがふとした意地ツ張りから、小山内氏自身の要求に依つて先生呼ばゝりを止めるやうになつてしまつた。
小山内氏が、いつから、何の理由で私に反感を持ち出したのか、私にはよく分らない。私にしてみれば全く身に覚えのないことであつた。だから私はそんなことゝは夢にも知らずにゐたのであつたが、「近頃小山内氏が蔭へ廻つてしきりに君のために悪声を放つてゐる」と云ふことを、或る日木村が注意してくれたのである。木村の話だと、小山内氏の反感の原因は、私が急に大家振るやうになつてイヤに大きく構へ出したと云ふことにあるらしかつた。「小山内氏と云ふ人は変に女々しい所があるんで、君の出方があんまり花々しいもんだから、嫉妬を感じてゐるんだよ」と、木村は云ふのである。成る程、さう云はれてみればさうかも知れないと云ふのは、いつたい私はその頃の文壇の妙にコセコセしたケチ臭い気風が嫌ひであつた。分けても所謂文学青年臭味といふものを好かなかつた。たとへば服装などにしても学生時代こそ薄汚いなりをしてゐたが、紅葉館の宴会以来常に若旦那然たる身嗜みだしなみをして、努めて文筆の士らしい風をすることを避けた。私がさう云ふ好みに傾いて行つたのは、元来が下町育ちであり、且つその上に偕楽園と云ふ軍師が附いてゐて、衣裳の選択から、着附けから、時々は材料の供給までもしてくれたせゐもあらう。(私の小説「幇間」の中に出て来る三平と云ふ幇間は、背中へ雷神を描いて裾へ赤く稲妻を染め出した白縮緬の長襦袢の上に赤大名のお召を着、藍色の牡丹くづしの繻珍しゅちんの帯を締め、裏地に夜桜の模様のある黒縮緬の無双羽織を着てゐる。当時私はさる批評家から此の着附けを褒められたものだが、いずくんぞ知らん、これは偕楽園夫人の入れ智慧であつた)が、それにもう一つ、私はその頃の自然主義の作家連を田舎者の集団と認めてゐたので、彼等の無趣味無感覚に対する反感も手伝つてゐたであらう。自然さう云ふ風であるから、私は「新思潮」の同人以外には進んで文壇の人々に交りを求めようとしなかつた。私の友人は依然として一高時代の法科の同窓生や偕楽園の周囲の人々ばかりであつた。文壇人の中でも、永井先生のやうな人は此方から敬遠して逃げてしまつたのであるが、さればと云つて、同年輩の作家や批評家連は話題と云へば文学、―――それも当面の流行思想程度のものより何もなく、甚だ眼界が狭いやうな気がしたので、私はそんな小児病的雰囲気からは寧ろ遠ざかるやうに努めた。私には、時評月評文壇風聞録等のものが掲載される雑誌や新聞は禁物であつた。さう云ふものを読むと、知らず識らず流行はやすたりを気にするやうになり、料簡がコセついて来るのを恐れた。私は月評家などを眼中に措かず、彼等が何を云はうとも頭から無視してかゝつた。私は一躍文壇の花形となり、諸所方々から原稿の依頼を受けたけれども、片々たる雑文や感想文の注文は皆拒絶して成る可く力を一作に集注し、出来上つたものを最も多額の原稿料を支払ふ所、即ち中央公論のやうな雑誌へ発表する方針を取つた。私のかう云ふ風な態度は、文壇の風潮を白眼に視て超然としてゐる漱石先生などを真似てゐるやうにも思へたのであらう。だからさう云ふ私を目して「大家振つてゐる」と云ふのは一往尤もな訳であつたが、私はそんな悪口を云はれるのは覚悟の前だつた。「大家振るのが何が悪い」と云ふ気だつた。そして誰が何と云はうと自分の善しと信ずる態度を改めるつもりはなかつたが、しかしそれが人もあらうに、自分の唯一の先生である小山内氏の不興を買はうとは思ひも寄らぬことであつた。私は余人に対しては傲慢であつたかも知れないが、小山内氏に礼を欠いた覚えはなかつた。若し氏が度量を大きくして昔のやうに私を弟子扱ひにしてくれたならば、どんなにか私も喜んだであらう。木村荘太も云つたやうに、氏には確かに嫉妬深い女らしい一面があつた。氏に事業家や政治家の太ツ腹がないのは、氏の長所であると共に短所であつた。氏が自分の門下から出た私のやうな者を包容してくれたならば、それが氏の大を成す所以となるのだが、―――そのくらゐの理窟の分らない人ではないのだが、生れつきの性格は如何ともし難かつたのであらう。後に述べるが如く、氏は此の性質のために私との関係以外にもいろ/\な損をしてゐるのである。私は、大家振るのが癪に触るなら面と向つてなぜ云はないのだ、蔭で悪口を云ふなんて卑怯だと思つたが、氏が堂々と私の前でそれを云ひ出す勇気のないことも見抜いてゐた。要するに私は、そんな婦女的感情は蹂みにじつてやれと云ふ腹だつた。もと/\何の根拠もない一時的の反感なのだから、放つて置けば自然に消滅する、なまじ御機嫌を取りに行つたり云ひ訳したりしない方がいゝと云ふ風に、たかくくつてゐた。然るにそれが又氏の癇癪に触れたと見えて、氏の蔭口はます/\悪辣になり、方々から私の耳へ這入つた。当時私は中央公論のために「悪魔」を執筆中であつたが、火のつくやうに金が欲しかつた時代なので、五枚十枚ぐらゐづゝ書けるに随つて瀧田氏の許へ原稿を送り、その都度引き換へに五枚分十枚分の稿料を貰つてゐた。小山内氏はそれを触れて歩いて、まるで西洋の淫売がシユミーズを脱ぎ靴下を脱ぐ度毎に祝儀をねだるのと同じやり方だと云つた。私はそんな悪宣伝を聞いても一向腹は立たなかつたが、そのうちに第何回目かの「パンの会」が又三州屋で催されたので、否でも応でも氏と顔を合はせることになつた。私は意地でも出席してやれと思つて、いつもより尚めかし込んで、その時分は相当衣裳も持つてゐたんだが、特に偕楽園から凝つた着物を借り出して一着に及び、ぞろりとした風態で、わざと遅刻して出かけて行つた。この時の会は出席者が少く、二十人ばかりの人数がもうテーブルに就いてゐたが、小山内氏は私を見るとニヤニヤしながらさしまねいて「此処へ来給へ」と自分の隣りの席を指した。その笑ひ方に見るから敵意が籠つてゐた。私は、「いや、其処へ行くのは一寸恐いな」と云つて氏と差し向ひの席に掛けた。そして小山内氏がチクチク刺すやうなことを云ふのを、ぬうツとして聞き流してゐたが、追ひ/\酒が廻つて来て卓上の談話がはずみ出した頃、何の気なしに私が「先生」と呼びかけると、氏は色をして「君はもう大家ぢやないか、僕のことを先生なんて云ふのは止し給へ」と云つた。此の一言がカチンと来たので、私は素直に「さうですか」と云つて、その場から先生呼ばゝりを止めにした。実を云ふと私は、木村に注意された時はまさかこれ程とは思つてゐなかつたが、会つて見ると氏の反感が意外に根強いことを感じた。私は内心、小山内氏のやうな性質の人には此方が図太く出るに限る、さうすれば先方が直きに折れて来る、その方が和解の手段としても手ツ取り早いと思つてゐたのだが、それが中々さう行かないで、此の会合の結果一層感情が疎隔した。「あの様子ではとても駄目だね」と、私は後で木村に話した。「まあ当分は仕方がないね、分つて貰へる時機が来る迄成り行きに任せて置くんだね」と、木村も同じ意見であつた。
さう云へば一体、吉井長田(秀)の諸君なども氏を先生と呼んで然るべき人達であるが、此の時分から矢張「小山内氏々々々々」と云つてゐたやうだ。そんなことから考へると、氏は後輩から先生扱ひにされるのがイヤだつたのでもあらう。氏はわれ/\を引率してしば/\品川洲崎等へ遊びに行かれたが、そんな時にも全く同輩の態度で、威張つたり勿体ぶつたりする風はなかつた。長田君や吉井君は最も無遠慮で、全然飲み友達扱ひにしたが、氏も亦さうされるのが嬉しいらしかつた。だから遊びに行くと云つても、氏が奢つてくれる訳ではなく、誰でも持つてゐる者が財布をハタくので、われ/\後輩が氏を御馳走する場合も珍しくなかつた。氏のかう云ふやり方を、「小山内先生ともあらう者が」と批難する人もあつたけれども、そこが可愛いところでもあつて、氏は幾つになつても書生ツぽ流が抜けないのであつた。つまり私は、氏のかう云ふ書生ツぽ流とウマが合はなくなつたのだ。私にしてみれば昔から「先生」と呼んでゐた人を今更「氏」扱ひにするのは変であつたが、氏にしてみれば、私がいつの間にか書生臭味を脱却し、二重廻しに山高帽と云ふいでたちで「先生」などゝ呼びかけるのが、気障に聞えたのであらう。それに私は、隠れ遊びは嫌ひでなかつたが、大勢で遊廓へ繰り込むと云ふやうな趣味を好まなかつたので、後にはさう云ふ附き合ひをなるべく避けるやうにしたのが、生意気だと思はれた一つの原因でもあるだらう。何にしても氏の私に対する反感は、相当長い間続いた。それかあらぬか自由劇場は第三回の試演以後新進作家の戯曲を上演するやうになつて、長田君の「歓楽の鬼」、萱野君の「鉄輪」、吉井君の「河内屋与兵衛」、及び西鶴の世之介を扱つた何とか云ふ戯曲、秋田君の「槍の権三の死」、同「第一の暁」(?)等の作品が次々に有楽座の舞台に上つたが、私の作品は不幸にしてその選に洩れた。尤も私は劇壇に野心もなく、又さう多くの戯曲を書いてもゐなかつたから、「選に洩れた」と云ふ意識はなかつたが、「鉄輪」が上演された時に左團次が私の「信西」を推挙し、小山内氏の反対に依つてそれが中止になつたと云ふことを聞いた時は、正直のところ、多少淋しい気がしないでもなかつた。氏が「信西」に反対されたのは相当の理由があつてのことで、単なる反感の結果と取るのは邪推かも知れない。が、劇壇に野心はないにしても、当時の私は自分の戯曲が実演される機会にまだ一遍も恵まれてゐなかつたので、その絶好の機会が妨げられたと聞いては、氏を恨めしく思つたことも事実である。(「信西」はその後大正七年頃に初めて上山草人が有楽座に上演し、同十四年頃に至つて漸く左團次が歌舞伎座の舞台にかけた)それからずつと後、大正九年か十年の頃、猿之助が菊池君の「父帰る」と私の「法成寺物語」を以て春秋座の旗上げをした時、私は特に小山内氏の舞台監督を希望し、猿之助もそれに賛成して氏の所へ頼みに行つたが、何故か氏はその依頼を拒絶された。私はその折も「まだ昔の反感が残つてゐるのかも知れない」と感じた。しかしかう云ふ関係は私ばかりではないのである。氏と師弟の縁を結んだ者は誰しも覚えがあるであらうが、大概一度はこんな思ひをしてゐるのである。和辻なども私より前の弟子であり、原稿の世話などして貰つたのだが、氏の最初の外遊の時以来離れてしまつた。吉井も嘗てプランタンで氏と猛烈な喧嘩をした。此の時は私は居合はせなかつたが、満座の中で氏が吉井の戯曲の悪口を云ひ出して、それも遠廻しにチクリチクリと搦んで来るので、「そんなことを云つたつておめへには書けめえ」と、吉井が憤然としてタンカを切つた。すると小山内氏は顔色一変、眼に一杯涙を溜めてスゴスゴと会場を出て行かれたと云ふ。此の喧嘩なども吉井に対する氏の嫉妬が多分に原因してゐるので、氏は舞台監督としては第一人者であり、他人の作品のリアレンヂメントは得意であつたが、創作脚本の出来栄えは余り芳しくなかつたものだから、新進戯曲家としての吉井の声名が癪に触つたのに違ひない。だから「おめへには書けめえ」と云ふ吉井の一言は、痛い所を刺した訳だつた。それでも吉井のやうにアケスケに喧嘩してしまへば却つて後がサツパリするのだが、私の場合はさうでなかつたゞけに、いつまでも祟つたのである。
私は自分の恩人であり、我が劇壇第一の功労者である故人に対して、不遜の批評を下したかも知れない。
しかしかう云ふことを書くのも、今にして故人を愛慕するの情に堪へないからである。故人は実に欠点だらけの人であつた。アラを捜せばいくらでもあつた。何よりもあれ程の才人でありながら、多数を統御する度胸と、落ち着きと、智謀とに欠けてゐた。氏の生涯を通じて、いつの時代にも多くの乾分こぶんや門弟が附いてゐたけれども、その顔ぶれは各時代毎に違つてゐて、終始一貫師事した者は稀であつた。書生のうちは可愛がつて貰へるが、書生でなくなると疎んぜられるやうになり、入れ代つて新たな書生が門下に集まつた。さう云ふ点で、弟子から云へば頼みにならない師匠であるが、見様に依つては、氏は後から来る弟子を追ひ越し/\て、常に時代の先頭を切る溌溂たる青年を味方にしてゐたのである。氏が時代の進運と歩調を合はせて永久に若々しかつた所以は此処にあるのであらう。若し氏に今少し処世の才があつたならば、松竹や帝劇の重役に納まつて安穏に余生を送つたであらうが、それが出来なかつたのは氏の性格の然らしむる所であると共に、劇壇の進歩のためには却つてそれが仕合はせであつた。氏が死に至るまで理想を掲げて献身的な活動を続けられたのは、実にその書生ツぽ流の生活の賜物なのである。
氏は、私と縁故の深い偕楽園の一室に於いて最後の息を引き取られた。後日笹沼の語るところに依れば、同日水上瀧太郎君はいち早く偕楽園に駈けつけ、「私は小山内の弟子でございます」と家人に挨拶されたと云ふ。私はそれを聞いて強く胸を打たれた。そして、「いや、君も知つてゐる通り僕だつて弟子に違ひないんだよ」と、笹沼に云つた。氏が晩年に及んで、あの冗長な私の旧作「法成寺物語」に仮借なき削除を施され、独特の解釈を以て築地小劇場の舞台に上場され、原作者の想到し得なかつた優秀な演出をされたことを思へば、氏も亦後には私に対して昔のやうな温情を抱かれ、再び師匠の態度を以て私の作品に臨まれたのであらう。私はせめてさう信じたいのである。

京阪流連時代のこと


明治四十五年の四月、私は大毎東日両方の紙上へ京阪見物記を連載すると云ふ約束で、東日から金を貰つて、京都へ出かけた。所謂「朱雀日記」と題するものがこの時の見物記である。
これより先、確か四十四年の秋か冬頃に私は小野賢一郎君の依嘱を受けて「あくび」と云ふ中篇物を東京日日新聞紙上へ書いたことがあつて、これが私の新聞へ続き物を寄せた最初であつた。東日が私にその紙面を提供してくれたのは、当時社会部長か何かをしてをられた冷洋松内則信氏の御声がゝりもあつたらしいが、小野君の推挽もひそかにあずかつてゐたことゝ思ふ。その頃小野君は松内氏の下に働いてをられ、名妓照葉と音峰某の情事を連載して人気を博してゐる最中であつたが、同君の話に依ると、「松内さんは大いに不良少年の文学を歓迎しようと云つてゐるんですよ」と云ふやうなことであつた。つまり私はその不良少年文学のお先棒を承つた訳なので、「あくび」と云ふ小説は別にそんなつもりで書いたのではなかつたが、いかにもその標本のやうに出来上つてゐる。で、京都へ行きたいと云ふことも、多分私にその意向があることを松内さんが聞き込んで、「それなら旅費は出してやるから何か私の方へ書いたらよからう」と、半ば好意的に提案されたのだと記憶してゐる。
明治四十五年と云へばその七月に明治大帝が崩御された年で、もう今日こんにちから二十年前だ。私はあの大震災以来関西へ逃げて来て現在では上方の住人になつてしまつてゐるが、今にして「朱雀日記」の往時を想ふとそゞろに人生の推移の意外なることを嘆ぜざるを得ない。誰かあの当時、二十年の後に自分が関西に居着くやうになることを予想しようぞ。思へば不思議な因縁であるが、しかし元来好古癖のある私は少青年時代から京阪の地に一種の憧れを抱いてゐたことは事実である。私は一方に江戸ツ児の矜恃を抱きながら、一方では絶えず上方の風物山川を慕つてゐた。そしてその前年、木村荘太が自らの家庭を破壊して京都岡崎の和辻の宿へ走つた時にも、金さへあれば一緒に行きたかつたくらゐであつたが、それが今度松内氏の好意でその憧れの土地を蹈むことになつたのだから、私の喜びは大したものだつた。それやこれやを考へると、矢張あの当時から将来関西に定住する下地したじがあつたのに違ひない。たゞあの時分は「己は江戸ツ児だ」と云ふ向う意気が邪魔をして、ほんたうに此の土地の人情風俗を理解するまでに至らなかつた、そこが今日の心境とは大分違つてゐるのである。
今、「朱雀日記」を見ると斯うある。―――
午後二時ごろ、七条停車場に着いて、生れて始めて西京の地を蹈む。宿を取るにも、見物するにも、一向勝手が分らないところから、東京の松内さんに戴いた紹介状を持つて、早速大阪毎日支局の春秋はるあきさんを訪ねる。
名古屋の俥の東京よりも新式で敏捷なのには、大いに江戸ツ児の度胆を抜かれたが、京都の方は流石さすがに悠長で、ゴム輪とは云へ、ピカピカ光つた車台などは中々見当らない。而も相箱あいばこが今以て盛んに流行すると見える。幅が狭くて、両股の間へ鞄を挟むと足を入れる空地がない。お蔭で私は買ひたての足駄の歯を欠いて、洋傘こうもりを何処へか落して了つた。
雨はいよ/\土砂降りになつて、陰鬱な京の小路の家列やなみに瀟々と濺ぐ。渋のやうに燻んだ色の格子造りが軒を並べ、家の中はいずれも真暗で、何百年の昔の匂が瓦や柱に沁み込んで居る。到る所に仏師の住居の見えるのも、私には珍しくなつかしかつた。
市区改正で、電車路を取拡げてゐる四条の大通を横切ると、程なく三条の御幸町角の新聞社へ着く。新聞社と云つても、日本造りの古びた建物で、森閑とした二階の応接間へ通される。………
私は此の記事を読むとその日のことをはつきり想ひ浮かべることが出来るのである。私は前の晩に名古屋に一泊し、明くる朝京都へ向つたのであつたが、汽車の中から雨がしと/\降り続いて、いかにもものうい、鬱陶しい日であつた。此処にも書いてあるやうに、当時の京都は四条通りの一部分が漸く拡張工事をしてゐる最中であつて、烏丸の通りはまだ昔のまゝの狭い道だつた。七条停車場も勿論今の場所ではなく、もつと小さい古めかしい建物だつた。私は俥の幌の間からその狭い烏丸通りの両側に並ぶ家々を、東京では見ることの出来ない紅殻べにがら塗りの格子造りの構へを、「これが京都かなあ」と思つてなつかしくも物珍しくも眺めたことだつた。三条御幸町の大毎の支局と云ふのは今もその時と同じ所にあるやうに思ふが、支局長の春秋さんと云ふ人はその後大阪の本社に移り、昨年であつたか不幸電車の奇禍に遭つて物故されたと聞いてゐる。私は、その日の夕刻この春秋さんに案内されて麩屋ふや町の萬養軒と云ふ洋食屋へ連れて行かれ、其処で始めて祇園の藝者と云ふものを見せられたのである。「若い方のは、今夜都踊に出るとかで、其の支度の儘の艶な頭である。先づ祇園では十人の指の中へ数へられる一流所の女ださうだが、肌理きめの細かいのは勿論の事、鼻筋が通つて眼元がぱつちりと冴えて―――唇の薄い、肉附のいゝ美人である。外の一人は、黒の縞のお召を着た年増で、此れはなか/\好く喋る」と、「日記」に書いてあるその若い方の藝者の顔は今も尚眼底に残つてゐて、とき/″\想ひ出すことがあるけれども、何と云ふ名の女であつたか「日記」にそれが洩れてゐるのが残念である。尚又「日記」に依ると、此の時春秋さんは二人の妓の外に万亭の女将を呼んで紹介してくれたとあるが、これは全く記憶がない。いくら大毎支局長の勢力でも万亭の女将が洋食屋の二階へ呼ばれて来るのは変なやうだから、或は仲居であつたかも知れない。
私は京都には全く一人も友達がなかつたので、着いた明くる日、私より一と足先に此の地へ来て三本木の「信楽しがらき」と云ふ宿に滞在してゐた長田幹彦君の所へ飛んで行つた。此の「信楽」と云ふ旅館は今はなくなつてゐるだらうが、女将が与謝野晶子さんの旧友であるとかで、そんな縁故から文人の投宿する者が多かつたやうに聞いてゐる。私が訪ねて行つた時にも、つい二三日前まで有島生馬君其の他白樺の連中が二階に陣取つてゐたと云ふ話であつたが、幹彦君の部屋は、階下の離れのやうになつた川べりの座敷であつた。
何しろ三本木と云へば昔山陽の山紫水明処があつた所で、当時は殆ど京都の郊外に近かつたので、下木屋町の私の宿から俥で行くのに随分乗りでがあつたものだつた。幹彦君のゐた座敷からは、加茂川を隔てゝ東山の三十六峰を窓外に眺めることが出来、朝な/\川原に千鳥の啼く声が聞けると云ふ場所柄で、恐らくあの辺の都雅な情趣は山陽の住んでゐた頃とさう違つてはゐなかつたであらう。だが幹彦君も私も飲みたい遊びたい盛りの時代で、そんな景色に感心してゐる風流気などは持ち合はせなかつた。東京にゐても夕方になるとそは/\して無上むしょうに茶屋酒が恋ひしくなると云ふ年頃の二人が、パンの会以来久し振りに旅先で落ち合つたのだから溜らない。互に相棒が見付かつたので、「待つてゐました」とばかり早速その晩からつるんで出かけた。尤も幹彦君の方が一日の長がある訳で、此方へ来てから知り合ひになつた三条萬屋の若主人の金子さん、その他二三の人々を案内役に誘ひ出して、最初に花見小路の「菊水」へ行つて晩飯を食つた。今ではあの菊水の近所に茶屋や置屋おきやが一杯に建て込んでしまつたけれども、当時は閑静な原つぱのやうな所にあの鳥屋が一軒だけ、ぽつんと建つてゐたやうに覚えてゐる。聞く所に依ればもとあの辺は建仁寺の地内であつたのを、祇園の女紅場にょこうばが寺から借りるか買ふかして、ぽつ/\色里を彼処へ移すやうにしたので、初めは狐や狸などが出たものだと云ふ。して見ればちやうどあの時分が花見小路の開けかけた時であつたかも知れない。まだ重なお茶屋は大概四条通りの北、新橋方面にあつて、たゞ万亭が今と同じ所、花見小路の曲り角にあつたのを記憶するけれども、その外には女紅場(即ち祇園演舞場、都踊りをやる所)があつたぐらゐで、あの花見小路から今の東山線の電車の走つてゐるあたりは実に淋しいものであつた。さう云へば真葛ヶ原などゝ云ふものも残つてゐて、高台寺からあの電車通りへかけてひろい野つ原で、ところ/″\に大木が繁つてゐて、その中に一軒風流な構への小料理屋があつた。或る時私はその料理屋で幹彦君と酒を飲んだら、お酌に出て来たその家の娘らしい女が非常なる文学少女で、頭は島田に結つてゐながら突拍子もない尖端的なことを云ふのでびつくりさせられたことがあつたが、その料理屋もどの辺にあつたのやらもう今日では見当も付かない。ま、そんなやうな訳で、鳥屋の菊水なども植ゑ込みの奥の池の汀に離れ座敷が建つてゐたりして、ちよつと向島の入金いりきんのやうな感じだつた。「日記」を見ると、それから私たちは富永町の「長谷仲」と云ふ家へ行つたとある。「やがて金子さんが『長谷仲』と記した家の格子を開けて、一同を中へ連れ込んだ。細長い土間を一二間行くと、左手が上り框で、『長町女腹切』の舞台で見たやうな、抽出しの付いた梯子段がある。天井でも、柱でも、板の間でも、悉く古びて黒光りに光つて居る。通されたのは二階の奥の、八畳か十畳程の座敷である。先づ座布団と脇息きょうそくが出て、次に燭台が四つ運ばれると、スイツチを拈つて電燈を消して了ふ。寺の本堂の来迎柱の前に控へたやうで、蝋燭のはためく儘に、部屋の四壁へ明暗定まりなき影が浮ぶ。何となく西鶴の物語や近松の浄瑠璃本の男女の魂が綿々たる恨みを現代人に囁くやうな、因襲的な哀愁がじめ/\と歓楽の底を流れて来る。松本おこうと云ふ老妓が、錆を含んだ皺嗄れた喉で、京の地謡を唄つて聞かせる。………厚化粧の両頬へ臙脂べにを染めて、こつてりと口紅をさした富千代と云ふのが、都踊の帰るさに、絵の中から抜け出したやうな顔をして開け放した障子の板敷の闇へ梯子段の下から音もなく現れる。………いた/\しい程に細く痩せて、すつきりとした撫で肩の姿、梅幸の舞台顔に似て少し小柄な艶麗の面ざし。何の表情もなくおつとりと済まして据わつて居るだけで、座敷中が輝くばかり、まことに触らば消えなんとする風情である。富次と云ふ舞子が『屋島』を舞つた後で、此の女が舞ひを見せる」とあるが、「屋島」の後でこの女の舞つたのが、「わしが在所は京の田舎の片ほとり、八瀬や大原の………」と云ふあの唄であつた。今でもお上りさんが京の舞を見たいと云ふと、大概これと「京の四季」をやる。しかし此の頃は島原を除いては燭台を使ふやうなこともだん/\廃れて行く。三味線なども、特に注文しない限りはあの京風のぼん/\と云ふ鈍い音のする地唄の三味線を持つて来ることは殆どない。年々東京風に化して長唄清元等の江戸唄が跋扈ばっこする現代では、特別の温習会でゞもなければ、お座敷であの長い地唄の「屋島」を舞つて見せるやうなこともなくなつてしまつた。それにしても「京の舞ひは如何にも大まかな、悠長なもので、技巧の小細工よりも、只管に余韻を貴ぶ風が見える」とか、「黒地に金糸の刺繍を施した総模様の着附けへ、蝋燭の光の尾の端が纔かにとゞき、長い裳裾の隙から白足袋がちら/\とこぼれて、………さながら『左小刀の人形』が動き出したやうに神韻漂渺として、荒れすさんだ遊子の心を、甘い想像の国に誘うて行く」とか書いてゐるけれども、その時の私は事実そんなに感心したかどうか怪しいと思ふ。たゞ今日になつてみると、あの時分の陰気で古風な祇園の情調がなつかしく思ひ出されるのである。まことに「柳暗花明」とか「狭斜の巷」とか云ふ言葉は、あの頃の祇園や先斗町ぽんとちょうの遊里の雰囲気にそつくりあてはまつてゐるのである。あの、鬢のところに特長のある京風の髪の結ひ方なども近頃はめつたに見られなくなつたが、あの時分にはみなあの髪だつた。そして口紅もあの玉虫色に光る、光線の加減では青く真つ黒にさへ見える、東京で云ふ「くれなゐの紅」と云ふ奴だつた。私は今にして思ふのであるが、厚化粧をしてその唇を青貝色に光らしてゐたあの時分の京の女は、何と冷めたく美しかつたことであらうぞ。今日でもそれらの美女の面ざしは一種幽鬼のやうな凄さと夢の中の幻のやうな仄かさを以て朦朧と私の眼前に浮かぶ。私は実際には見た覚えがないが、昔のうら若い女房が鉄漿かねを染めた口元にあの玉虫色の紅をつけてゐたとしたら、その青白い、血の気や赤味の微塵もない顔のなまめかしさは、どんなであつたらうかと思ふ。兎に角まだあの時分までは、長い伝統を持つ封建時代の京女郎の美が、あの女たちの表情のない顔に霜のやうに寒く白々と凝結してゐた。蓋しあの時分の女はさう云ふおもかげを伝へてゐる最後のものではなかつたであらうか。
私たちはそれからたび/\三条萬屋の金子さんの所を訪ねた。(私は、三条小橋の下を高瀬舟が通つてゐた光景をはつきり想ひ出す)金子さんの兄さんは有名な岡本橘仙きっせんさんであつて、この人も金子さんと一緒によく私たちを方々へ引き廻して下すつた。島原の角屋で遊んだ時も岡本さん兄弟と幹彦君と私と四人連れで、七条から丹波口まで汽車で行つたのを覚えてゐるが、その頃の京都の西の郊外は東の方よりも一層人家がまばらであつて、千本通りも四条辺から南は全く片側町であり、西はげんげと菜の花の咲き乱れた野がずつと太秦うずまさから嵯峨の方までつゞいてゐた。私は嵐山電車の窓の中から菜畑を隔てゝ壬生みぶ狂言の舞台を見た記憶があるから、あの寺なども多分野原の中に建つてゐたのであらう。今日活動写真のスタデイオや新建ちの借家や安カフエエなどが並んでゐる三条口の街道は、遠く比叡愛宕の山々が暮靄に霞んで、牛車がゆるやかに野道を練つて行くと云ふ名所図会の絵に見るやうな景色であつた。次に私は、岡本さん兄弟に紹介された「大友だいとも」のお多佳さんのことが想ひ出される。その「大友」と云ふのは祇園の新橋にあるお茶屋のことで、お多佳さんはあの時分から彼処の女将であつたのか、それとも当時はまだ妓籍にあつたのかはつきりしないが、この人の噂は京都へ来てから間もなく誰かに聞かされてゐた。彼女は非常なる才女で文学の嗜みが深く、俳句を巧みにする、先年この人の姉が病死した時の句に、「紫陽花あじさいや見る見る変る爪の色」と云ふのがある、以てその才の一端を知るべしと云ふやうな話。嘗て漱石が虚子と京都に遊んだ時にも大友へ行つてお多佳さんに会つたと云ふ話。吉井勇なども友達だと云ふ話。そんなことを断片的に聞いてゐたので、会ふ前から好奇心を感じて、新聞に連載してゐた「日記」の中にも此の人のことを書いたのであつたが、そのお多佳さんの家へ始めて連れて行つてくれたのは、岡本さん兄弟であつた。大友は、今は立派な普請が出来て旧態を改めてしまつたが、当時は時代のついた恐しく古い建物で、天井の低い薄暗い家の中へ這入ると、てら/\黒光りに光つてゐる柱が危なつかしく一方へ傾いてゐた。それにしてもあの家中にほんのりと籠つてゐたなまめかしい伽羅きゃらの薫りを私は今も忘れない。私は伽羅の香と云ふものをまだ嗅いだことはなかつたが、あの家の玄関を上ると、暗い廊下からたゞよつて来るその不思議な匂を直ぐに感じた。そして、彼女が始終伽羅を焚いてゐると云ふ話を前に聞いたことがあつたので、成る程、これがその匂かと気が付いた次第であつた。(これは余談であるが、伽羅の匂と云ふものは、あの伽羅蕗を煮る時の匂に何処か似てゐるやうな気がする。それであの時も、最初は台所の方で伽羅蕗を煮てゐるのかなと、ふとさう思つたくらゐであつた。さう云つてしまつては折角の伽羅も値打ちがないが、案ずるに伽羅蕗と云ふ名も匂の類似から起つたのではないであらうか)しかしお多佳さんの家で何よりも変つてゐるのは、あの白川の水が床下をちよろ/\流れてゐた風情である。吉井勇の歌に、「かにかくに祇園はうれし酔ひざめの枕の下を水の流るゝ」と云ふ吟咏があるのは、恐らく此処の座敷に於ける感慨であらう。
お多佳さんの部屋はその水の上へ張り出された一と間であつて、床の間に紅葉山人の筆蹟がかゝつてゐた。
彼女は私の顔を見ると、「谷崎さん、老妓はひどいぢやありませんか」といきなり云つた。それは私が新聞へ載せた記事の中に人の話をそのまゝ書いて、「四十近い老妓」と記したからであつたが、会つてみると、いかさま老妓と云ふ歳ではない。小柄な、肉附きのいゝ、利口さうな眼をした色の黒い人で、お白粉気のない地味な作りをしてゐたから、実際より老けて見えたかも知れないが、三十を少し越えたくらゐの年増と思へた。私たちはその日どんな話をしたか覚えてゐないが、二三日してから又出かけて行つて、その時始めて彼女の一中節を聞いた。天の網嶋の心中のくだりを語つたのを、通人の岡本さんのやうな人が謹んで聞いてゐたところを見ると、その方でも一家をなしてゐたことが想像される。私は又、彼女や岡本さんたちや幹彦君と俥を連ねて、巨椋堤おぐらづつみや槙島のあたりを通つて宇治へ出かけた、あの日のことを想ひ出す。何でもあれは八重山吹の咲いてゐる頃だつたから、五月に這入つてからであらう。東京と違つて、上方の五月と云ふとなか/\暑い。巨椋の池の水がどんよりと生温なまぬるく光つて、日がチカチカと照り返す土手の路を、私は揉み上げから襟の周りへじつとり油汗を掻きながら揺られて行つたが、それにしてもあの俥は何処から何処まで乗つたのであらうか。兎に角われ/\はその晩は一泊するつもりで宇治の浮舟園へ着いた。(浮舟園は故山本宣治君の生家花屋敷のことである。此処の女将も文学を愛好する人で、私たちのために特に鳳凰堂の内部を開けさせて見せてくれたりした。幹彦君は前からあの家と懇意だつたらしく、「小山内さんが新婚旅行に来た時にも此処に泊つたんですよ」などゝ云つてゐた。さう云へば女将の姪に当るといふ年頃の娘さんがゐたつけが、今ではもういゝ奥さんになつてゐるであらう)「何んでも前の日から降り続けて居た天気が上りかゝつて、をり/\雲の隙から洩れる薄日が、糠のやうな雨の脚を光らせて居る午過ぎであつた。年の若い、独逸語ぐらゐ心得て居さうな平等院の坊さんが、大きな鉄の鍵を持つて、鳳凰堂の裏口の木柵の錠を、がしん、がしん、と揺す振りながら開けてくれた。露に濡れた雑草のだら/\路を下りて、尾楼の附け根の階を上ると、方五間の縁側の石甃が、瓦葺の傾斜の優しい庇の蔭を平かに走つて居る。………縁側に雪駄を脱いで、堂内の床を歩むと、冷や/\とした敷き甃が、夏足袋の底を徹して足の裏に触れ、丁度山奥の滝壺のほとりへ近づいたやうな肌寒さが、襟元へぞく/\と沁み込んで来る」と、私は「日記」に書いてゐるが、平等院を見物したのは着いた日であつたか翌日であつたかも忘れてしまつたし、糠雨に降られたと云ふ記憶もない。たゞ京都の初夏の頃にしば/\ある、陰気な雨雲が蔽ひかぶさつてゐる間から日が油照りに照りつけて、じつとしてゐても顔や体がぬら/\粘つて来るやうな、そよとの風もない、蒸し暑い、重苦しい日であつたに違ひない。平等院を出た帰りに宇治川の土手の上に彳みながら水の流れを見渡した時、あの堤防の桜の若葉が鬱陶しいくらゐ生ひ茂つて、頭の上にこんもり深い蔭を作つて、ために堤の上が暗く、その垂れ下つた葉に遮られて川の景色が見えない程だつた。
私はその時お多佳さんと並んで立つてゐたが、彼女の着物に焚きしめてある伽羅のかをりが若葉闇の下で強く匂つた。事実、伽羅の香といふものにあの時ほど魅力を感じたことはなかつた。あの興聖寺の山吹を見たのも矢張その帰り途であつたかと思ふが、寺は対岸の朝日山の半腹にあつて、山吹は寺の楼門の際から宇治川の岸に下る琴坂と云ふ坂の両側に咲いてゐた。真つ直ぐな、一丁ばかりの坂で、下り切つたところに石門があつて、門の外は川に沿うた往来になつてゐるのだが、坂の上から見下ろすと、往来の土は見えないで石門にしきられたわくの中を宇治川の早瀬が流れて行く。その水を遠くに見つゝ山吹の咲き乱れてゐるのが無類の眺めなのである。やがて私たちが宿へ帰つて二階座敷へ通つた頃に月が雲を破つて出た。そして興聖寺の鐘が鳴つた。岡本さんも金子さんも折柄の月と鐘の音に興を催して頻りに此のあたりの風光を讃へ、「嵐山は俗でいけない、景色は宇治に限る」と云ふのであつた。たゞ惜しむらくは宇治電が水力電気の工事を施して対岸の山にコンクリートの壁を突き通してゐた。(今日此のコンクリートの壁は、巧い工合に木を繁らして一寸分らないやうにしてあるが、あの工事が出来たての頃にはそれが丸見えだつた)さてその明くる日の夕刻、われ/\は酒とさかなを積んで宇治川を中書島まで舟で下つた。船中諧謔百出、私はお多佳さんと最も激しく駄洒落を闘はし、舌戦を交はした。
大阪の岸本吉左衛門さんが私たちの後を追つて宇治へ訪ねて来られたのも、此の時であつたと思ふ。氏はまだ二十を一つ二つ越したぐらゐの、色の白い優形の「ぼんち」であつた。私の「秘密」と云ふ小説を愛読してをられると云ふ話をお多佳さんから聞いてゐたが、此の日大友へ行つて私たちの宇治行きを聞き、その足でやつて来られたのである。そしてほんの初対面の挨拶だけで帰つて行かれたが、そのゝち私は日を改めて岸本さんから招待された。場所は清水寺の近くの、二年坂の「自楽居」と云ふ家で、私の「刺青」を愛読する舞子や藝者を呼び集めると云ふことであつたが、その女たちの顔は忘れてしまつた。客は幹彦君と私、主人側には岸本氏の外に加賀正太郎氏が加はつてゐた。当時私は二十七歳、幹彦君は二十六歳、そして加賀氏は私たちより若く、岸本氏はまた一層若いのに、此の主人側の両君が席上で巴里の街筋の話をしてゐたのをみると、その頃既に両君とも欧羅巴を知つてをられたのであらう。その日岸本さんは、私がまだ大阪を見たことがないと云ふと、ではいゝ宿を見付けて置くから是非やつて来給へと云ふやうな話があつて、それから数日の後、私は始めて大阪へ出かけた。岸本さんの指定された宿と云ふのは、名前は忘れてしまつたが南区笠屋町の路次の奥にあつて、今から考へてみるのに、どうも松竹の白井さんの住宅のあるあたり、あの辺に違ひないのだが、太左衛門橋や戎橋えびすばしに近い島の内の最も粋な所にあつて、旅館で待合を兼ねたやうな木屋町式の家であつた。なんでも幹彦君は都合があつて一日後から来ることになり、私ひとり梅田からその教へられた宿へ行つてみると、すぐ文楽座の方へ来てくれと云ふので、其処から又あの御霊さんの中にあつた元の文楽座へ俥を飛ばした。桟敷には、一と足先に来てゐたお多佳さん、それから初対面の大阪の紳士が二三人ゐて、人形芝居の説明をしてくれた。云ふ迄もなく摂津や越路や團平などの生きてゐた時代であるから、私はさう云ふ名人の藝を聴いたに違ひないのだけれども、何を云ふにも此の上方の郷土藝術に反感を持つてゐた頃でもあり、浄瑠璃などには何の興味も同情も感じなかつた生意気盛りの時であるから、仕方がなしに退屈をこらへてゐたゞけで、出し物が何であつたかも覚えてゐないし、断片的な舞台の印象さへも残つてゐない。それよりも私は、その晩はからずも笠屋町の宿でお多佳さんと唯二人枕を並べて泊ることになり、これには甚だ窮屈な思ひをしたことだつた。尤もそれが二た間つゞきの部屋ではあつたが、その境の襖が開けてあつて、お多佳さんはと云ふと、寝ながら古今集をひろげて悠々と読んでゐるのである。正直のところ、若い私は駄洒落一つ云ふ勇気も出ず、まことに意気地なく手足を固くして眠つた。

敏先生と初対面のこと


或る日、此方へ来てから間もなく、当時京都の帝大に教鞭を取つてをられた上田敏先生が私たちに会つてみたいと云つてをられると云ふ話を、大毎支局の東野さんから聞いた。東野さんは始終先生の宅へ出入りをしてゐたものらしく、何かの機会にそんな意向を伺つたのであらう、「是非近いうちに先生の所へ御案内しませう」と云ふのであつた。幹彦君も「一遍東野さんに連れて行つて貰ひませう」と、非常に楽しみにしてゐるらしいので、私にしても否やはなかつたが、しかし、あまり気が進んではゐなかつた。と云ふのは、会ふのがいやなのではないが、例のはにかみ屋で、先生のやうな偉い人の前へ出るのが窮屈でもあり恐くもあつたからだつた。況んや先生は荷風先生と前後して私の作物を真つ先に認めて下すつた大先輩の一人であつた。私は先生と鴎外先生とが或る日観潮楼かんちょうろうに於ける会合の席上、私の「麒麟」だか「少年」だかを褒めてをられたと云ふ話を聞いてゐた。その後白秋君の「思ひ出」の会があつた時に先生が一場のテーブルスピーチをされ、私の「幇間」に言及してあれを激賞された記事を新聞で読んだことがあつた。
さう云ふ風に先生から特別の好意を持たれてゐることが分ると、永井先生の場合と同じく、私は先生に対して臆病になり、引つ込み思案にならざるを得なかつた。私はあまりにも先生から期待され過ぎてゐるやうに感じ、他日必ず先生に失望される時の来ることを恐れて、なまじ知遇を求めない方が無事だと思つた。
まあそんな訳で、内心尻込みをしてゐたのだが、一面に於いて大いに憧憬してゐた先生のことでもあるから、半分は恐い物見たさの気持も手伝つて、ずる/\に連れて行かれたのである。
お訪ねしたのはうらゝかな春の日長の午後であつた。幹彦君と私とは東野さんに案内されて岡崎のお宅までぶら/\歩いて行つたことを覚えてゐる。が、それが岡崎のどの辺であつたか今では思ひ出すよすがもない。当時既に平安神宮の建つてゐたことは記憶してゐるが、動物園や公会堂や公園などもあつたのであらうか。兎に角先生のお宅は新建ちの品のいゝ住宅の並んでゐる、閑静な一区域にあつて、狭い路の奥の方へ這入つて行つた記憶がある。私は門の呼び鈴の下に「此れをお押し下さい」と云ふ意味らしい仏蘭西語が記してあるのを見て、さう云ふ所にも先生一流の好みを感じた。そして東野さんのしりへに随つて奥へ通ると、先生は温顔を湛へて客間の次の間の所に立つてをられた。それはわれ/\を迎へに出られたのであつたか、それともその折その次の間の天井へ工夫が電燈を取付けてゐたから、或はその指図をしてをられたのかも知れない。そんなことから考へると、多分先生は其処へ転宅して来られたところだつたのであらう。そして恐らくその家は借家だつたのであらうが、書生の私にはまだ新らしい座敷の木口などが安普請やすぶしんの借家のやうには見えなかつたので、これは事に依ると京都を永住の地と定めて家を建てられたのかも知れないと、さう思つたくらゐであつた。それにしても当時の先生は四十の坂を越してをられたに違ひないが、その、渋い柄の和服を着て部屋の真ん中に立つてをられた姿は、まだ三十代の人のやうに若々しかつた。私は既に敏先生の声名を聞くこと久しく、学生時代に愛読した「詩聖ダンテ」などに依つてその博学を想望してゐたので、もつとハイカラな、同時にもつと年を取つた、写真に見る西洋のプロフエツサーのやうな風采を描いてゐたのであつたが、その濃い口辺の髯を除けば、先生の様子にはあまり学者臭いところや文人臭いところはなかつた。寧ろ下町の大店おおだなの主人、商人風の好紳士、と云つたやうに見受けた。
嘗て先生は巴里の劇場に於て始めて永井荷風氏と相識つた時の印象を語り、「これこそ真の近代人であると思つた」と云つてをられたのを読んだことがあるが、成る程先生には荷風氏のやうな病的な弱々しさ、不健康な感じがない。樗牛や漱石なども一見して気むづかしさうに思はれるが、先生は何処までも健康で、明朗で、円満な人柄に見えた。何よりも顔の血色が生き/\としてゐて、働き盛りの実業家に見るやうな、栄養の豊かな色つやをしてをられ、その体つきも中肉中背で、どちらかと云へば肥満してをられた。それに、思ふに東京育ちの先生は都会人の嗜みを重んじて、学者風や文人風に見えることを嫌はれたのであらう。蓋しさう云ふ点は私と一脈相通ずる所があるのだが、私の下町趣味なるものは実は甚だ喰はせ物なので、私は表面若旦那然たるなりをしてゐても一と皮げば衒気げんき満腹、蛮骨稜々りょうりょう、鼻持のならない野心や情慾が悪臭紛々と漲つてゐる不良青年であつたから、先生のやうな温雅な尊者の前へ出ると、何だか尻の辺がムヅムヅして来るのであつた。で、座談の上手な先生は三人を客間へ請じ入れて頗る上機嫌に四方山の話をして下すつたが、お相手をしたのは主に東野君であつて、幹彦君と私とは成るべくボロを出さないやうに固くなつて拝聴してゐた。先生は爽快なる東京弁を以て上方の人情風俗を語られ、奇警な観察と上品な諧謔とを連発されたが、それでもわれ/\はたゞニヤニヤと愛想笑ひを洩らすばかりであつたから、先生の方では定めし張合ひがなかつたであらう。私は、折角先生がわれ/\に会ひたがつてをられたとすると、かうしてお目にかゝつた以上何か自分達の心得になるやうな御意見を伺つてみるべきであると、さうは思つてみたものゝ、「かね/″\先生をお慕ひ申してをりました」と云ふ心持さへ云ひ表はす術を知らなかつた。今考へてもヒヤリとするのは、当時「スバル」の編輯をしてゐた江南文三君が或る号の編輯記事に「今月は蓮の実を食ひ過ぎて物忘れをした」と書いてゐたのを指摘されて、「私はあれを読んで、江南君は英文学者だ、エライことを云ふと思つたよ」と、さう云ひながらジロリと私たちを横眼で見られた。
私は後年テニソンを愛読するやうになつて始めて「ロータスイータース」の由来を知つたが、敏先生に云はれた時は何で江南君が英文学者なのか皆目分らなかつたので、矢張ニヤニヤ笑つて胡麻化してしまつた。しかし此の外には、先生の話題は主として世間話であつて文学談らしいものは殆どなかつた。そして先生の談話が弾めば弾むほど、われ/\はます/\ギゴチない思ひをした。当日の先生の話の中で今覚えてゐるのは、関西に於ける新聞記者と僧侶の勢力のあなどり難いこと、都踊りの人気の素晴らしいこと、京都の人は都踊りを見ないのを耻のやうに心得て、十度も二十度も見物に行く熱心家があること、而もさう云ふ熱心家に限つて、日頃花柳界に近寄らない堅気な武骨者が多いと云ふこと、幸田露伴先生が京大を止された時のこと、是非思ひ止まるやうにと敏先生が引き留めに行かれたけれども、どうしても承知されなかつたこと、関東と関西との人情の比較等である。此の最後の話のとき、「先生の御家庭ではお子さん達が京都弁を使ふやうにおなりになりはしませんか」と、私は始めて当り障りのない質問の機会を掴んだ。すると先生は、「いや、それだけは厳重に警戒してゐます」と、潔癖らしくキツパリと云はれた。それともう一つ、都会と田舎の風俗の比較が出たときに、「田舎の方が純樸だと云ひますけれども、若い男女の堕落するのは田舎者に多いやうに思ひますが」と云ふと、先生は私を顧みて、「それを私も云ひたかつたんだ」とさも我が意を得たやうに頷かれ、「都会の教養を受けた者の方が社会の裏面を知つてゐるだけに却つて誘惑にかゝらないと云ふのが私の持論なんだ」と云はれた。そんなことでどうやら私もお茶を濁して一二時間お邪魔をして引き退つたが、その後幹彦君と私とは日を改めて先生の招待を受け、南禅寺の瓢亭で夕飯を戴くことになつた。これは最初の訪問の日にさう云ふお話があつたのか、あとから御通知を受け取つたのか覚えてゐないが、幹彦君も私もまだやう/\売り出したばかりの、云はゞ文壇のルンペンにも等しい若輩に過ぎなかつたのに、大学教授たる先生がそのわれ/\を一流の旗亭に招き、特に一夕の時間を割いて下すつたと云ふことは、余程破格の御好意であつたと思はれる。察するところ先生も亦当時の文壇の風潮にあきたらず、自然主義に反抗して起つたわれ/\を大いに激励して下さるつもりだつたのであらう。それに、最初の訪問の日にわれ/\が徒らに尻込みをしてゐて一向胸襟を開かないのを歯痒はがゆく感ぜられ、くつろいで酒でも飲みながらゆつくり話し合つてみたらと、さう思はれたのでもあらう。尚、一層皮肉な観察をすれば、先生は東京生れの二青年作家に、その同じ都会育ちの文人の大先輩として、単に藝術上の見識のみならず、衣裳持ち物言語動作の嗜みから礼儀作法の末に至るまで、自ら範を示してやらう、「都雅な文人と云ふ者はかうすべきものだ」と云ふところを見せてやらう、と云ふやうな衒気を持つてをられたかも知れない。(実際、当時の先生はさう云ふ衒気がありさうな程若々しく見えた)
春雨のしよぼしよぼと降りしきる日の夕方、上田先生から招待されて、私は長田君と一緒に、南禅寺境内の瓢亭へ俥を走らせた。やがて俥の止まつたのは、見すぼらしい焼芋屋のやうな家の軒先である。大方車夫が蝋燭か草鞋でも買ふのだらうと思つて居ると、おいでやす、お上りやす、と云ふ声が聞えて、幌が取り除けられる。其処が瓢亭の門口であつた。
地味な木綿の衣類を着た、若い女中に導かれて、雨垂のぽた/\落ちる母屋の庇に身を倚せかけつゝ、裏庭に廻れば、京都の料理屋に有りがちな「入金」式の家の造り。成る程此処が瓢亭だなと、漸う合点が行く。雫に濡れた植込みの葉蔭をくゞつて、奥まつた一棟へ案内されると、もう上田先生が待つて居られる。
一としきり雨は又強くなつて、数奇を凝らした茶座敷の周囲を十重二十重に包んで、池水を叩き、青苔を洗ひ、さゝやかな庭が濛々と打ち煙る。筧をめぐる涓滴の音の、腸へ沁み込むやうな心地好さを味はひながら、さまで熱からぬ程の燗酒をちびり/\と舌に受ける。
私の腹加減は減つても居ず、くちくもなく、かう云ふところへ呼ばれるには、恰好な気分であつた。先づ最初に、笹の雪のあんかけぐらゐの大きさに切つた一と片の豆腐が、小型の皿に盛られて出る。豆腐の上には青い白いどろ/\の汁がかゝつて居る。………油でいためた加茂川の甘子を始め、西京の特産らしい名の知れぬ川魚や野菜の料理が此処の自慢の器物に入れられて、後から/\と数知れず運ばれる。
女中は、空らになつた皿や蓋物を傍から片付け、一々箸を取り換へて、お酌もせずに引込んでしまふ。
酒が好いので頭へも上らず、いくらでも物が喰べられる。
話上手の上田先生は、三分の酔を顔に発して、料理の事からいろ/\の世間話に興を催される。長田君も私も、心置きなく頂戴して、八時ごろにお暇を告げた。
と、「日記」にはかうあるが、「心置きなく頂戴」したかどうかは怪しい。幹彦君も私も当時は斗酒なほ辞せずの時代で、いくら飲んでも従容として膝を崩さないのを誇りとしてゐた頃であるから、酒は存分に戴いたけれども、引き締めるところはきつと引き締めて、その日も矢張謹んで拝聴してゐるばかりであつた。
前の時は東野さんがゐてくれたからまだよかつたが、此の日は全く三人きりで、而も場馴れない座敷の客になつたのだから、尚更ギゴチなかつたのである。先生のやうに常識の発達した、儀礼を重んずる先輩の前へ出ては、後輩の方から羽目を外して打つかつて行かなければ中々応酬に活気が生ずるものではない。
先生も何とかして遠慮の垣を取り除けようと努めて下さる様子であつたが、われ/\は張合ひのない受け答へをしながら、座が白けると黙つてムシヤムシヤ御馳走を摘まみ、手持ち無沙汰に酒ばかり飲んでゐた。
たゞ、未だに耳朶に残つてゐるのは、宴が八分通り済んでこの折角の会合も平凡な終りを告げようとするとき、「さういつも/\クラフトエビングのやうなものばかり書いてゐないでね」と、突如として洩らされた一言であつた。私はそのとき先生の眼に異常な熱情のかゞやきを見た。蓋し先生は端然と坐してはをられたけれども、既に十分酔つてをられたことゝ思はれる。そして私に対する激励と好意とを此の僅かな一句のうちに籠められたのであつたらう。
ついでながら、当日先生は東京風のイヤ味のない和服の着流しで、その好みには五分の隙もなかつたけれども、下に白いメリヤスのシヤツを着てをられるのが聊か気になつた。私は先生が袂から懐中時計を出して時間を見られたのを覚えてゐるが、それ程用意周到でありながら着物の下にシヤツが覗いてゐるのは変だと思つた。元来私は寒中と雖も一切毛の物を身に纏はず、素肌に長襦袢を着てぶる/\顫へながら見えを切ると云ふ方であつたから、これだけは先生を一本参らせてやりたかつた。
私が先生にお目にかゝつたのは後にも先にも此の二回だけであつた。先生の方ではそれをキツカケに長くわれ/\を庇護して下さるつもりだつたのであらうが、その後私は谷中の斎場さいじょうで挙げられた先生の告別式に参列した以外、つひぞ一遍も生前にお訪ねしたことがなかつた。瓢亭の会合の後二箇月近くも京阪をうろついてゐたのだから、せめてその間に二度や三度はお伺ひするのが礼儀であつたが、毎日々々お茶屋通ひの方が忙しく、とんとそんなことを顧みる暇もなかつた。これは幹彦君も同様であつて、若い二人は先生の前で窮屈な思ひをするよりも祇園先斗町の藝者を相手に駄々羅遊びをし、分不相応な負債の山を作るのに熱心であつた。なんでもあれから一ヶ月ばかり過ぎて、たしか五月の末頃に、一度先生は私の留守中に宿を訪ねて下すつたことがあつて、これにはずべらな私共もひどく恐縮してしまつたが、われ/\の来訪を心待ちにせられた先生が、待つても待つても顔を見せないのにシビレを切らせて、自分の方から立ち寄つて下すつた心持が、今になると実によく分る。きつと先生は、此方からわざ/\訪ねてやれば二人が慌てゝ飛んで来るに違ひないと思はれたのであらうが、そんなにして戴いてもとう/\われ/\は御挨拶にも上らなかつた。それは先生が煙つたいとかギゴチないとか云ふよりも、たゞもう無意味な怠け癖の結果であつた。もうその時分われ/\は骨の髄まで茶屋酒に入り浸つて、体も心もだらけ切つてゐたので、とても御神輿おみこしを上げる気力がなかつた。そしてしまひには至る所に借金が出来、這ふ/\の体で東京へ逃げ帰つたものだが、その際にも御礼状一つ差し上げなかつたのは、差し上げるのを忘れたのではなく、今更手紙の書きやうもなかつたからだつた。此のわれ/\の不作法極まる仕打ちには、いかに温厚の長者たる先生も呆れ返られ、不快を感ぜられたであらう、われ/\を当て付けられたのかどうか知れないが、「此の頃の若い連中は遊ぶのにも背水の陣を敷くから偉いよ」と、さる人にさう云つてをられたと云ふ。
今にして思ふに、此の時の先生はわれ/\の無礼を単なるずべらの所為と解されず、既に後進が先生を問題にしなくなつたと云ふ風に取られ、多少時代に取り残されたやうな淋しさを抱かれはしなかつたであらうか。さう考へるのが私の己惚れであるならいゝが、もし少しでも先生にそんな気持を持たせたとすれば、われ/\の罪は甚だ浅くないやうに感ずる。が、また飜つて思ふに、先生には重々相済まなかつたけれども、若い時代にはあのくらゐな無鉄砲さがあつて然るべきだ。幹彦君にしろ私にしろ、あの年頃から先輩の鼻息を窺つたり機嫌気褄きづまを取つたりするやうな意気地なしでは仕方がない。世故や礼儀は年を取るうちに自然に覚える。若い間は精一杯我武者羅に飛び廻ることだ。先生のお宅へ伺つて藝術上の意見を聴かせて戴いたらば必ずや為めになつたであらうが、あの三月間の放蕩無頼な生活もなか/\われ/\には薬になつた。あゝ云ふ場合、どんなに先生が有力な先輩であり、どんなにわれ/\に好意を寄せてゐて下さらうとも、遠くから啓発する程度に止めて、突つ放して下さる方がいゝのだ。傾向を同じうし主義を同じうする作家同士でも、年齢が違ひ境遇が違ふとどうしてもお互に遠慮がある。況んや先生のやうな地位の人に於いてをや。何と云つても切磋琢磨せっさたくまは若い同士の間のことだ。
上田先生との交際は上述の如く不首尾に終つたが、その頃大阪で新聞記者をしてゐた岩野泡鳴君は、根が先生とは全く反対の野人であり、先生に対するやうな畏敬の念は起らなかつたが、一見無邪気で稚気ちき愛すべきところがあつたので、私は此の人とは比較的障壁を設けずに話すことが出来た。尤も一と晩か二た晩一緒に遊んだゞけであつて、深く附き合ひはしなかつたが、書いた物から聴かぬ気の論客らしく想像してゐたのに、会つてみると天真爛漫な人物で、議論をしながら時々小児の如く顔を赧くするのが意外であつた。当時氏は阪急の池田に住んでをられたので、或る日私は、滞阪中の山本鼎、正宗得三郎、森田恆友の諸画伯連、それに幹彦君を加へた同勢で氏の寓居を訪ね、そこから氏の案内で宝塚に遊んだことがあつた。
それが、その時分の宝塚であるから、新温泉も少女歌劇もなく、今の旧温泉へ行く橋を渡つた両側に宿屋が五六軒並んでゐる、至つて淋しい町であつたが、泡鳴君は一行を往来に待たせて置いて、それ等の宿屋へ一軒々々這入つて行つて、客が何人で藝者を何人揚げて一と晩幾らで泊めるかと交渉して歩いてから、さて一番安い宿屋へわれ/\を引つ張つて行つたものである。外のことは大概忘れてしまつたが、此の泡鳴君の奇抜で野暮な掛け合ひ振りには一驚を喫したことであつた。

神経衰弱症のこと、並びに都落ちのこと


「朱雀日記」は記して曰く、「中学時代の私は歴史地理が大好きで、暇さへあれば、関八州の古跡を調べに旅行して歩いて居た。其の頃は体が今程肥満して居ず、見すぼらしい程痩せ乾涸ひからびて目方も十一二貫しかなかつた代りに、脚だけは非常に達者なものであつた。何でも十六のとしに、薩摩下駄を穿いて、一日に横浜を往復した事があつた。鎌倉などは二た月もかゝつて、毎日々々長谷の親類の別荘から弁当を腰にぶら下げ、真夏の炎天を物ともせず調査に出かけて残る隈なく跋渉し尽した。然るに、いつの間にか不精の虫が体内に巣を喰つて『くたびれる』と云ふ事を、屡※(二の字点、1-2-22)感じるやうになつた。奈良を一日見物してさへ、股擦れが出来る位無上に太つて了つて、智恩院の石段を上るのがやう/\の仕事である。働く前から体も心もくたびれて居て、くたびれるのが商売のやうになつた。顔を洗ひ飯を食ひ、風呂に這入るだけでもなか/\億劫のやうに感じられる。此れは皆酒と女の仕業であると信じて居る。太るのも疲れるのも淫楽の結果に違ひない。………今度京都へ出て来たら、比叡山へも登つて見よう。八瀬大原へも行つて見よう。
奈良、長岡、平安の旧都の跡も調べて見よう。などゝいろ/\の慾望を抱いて居たが、其れ等は単に慾望として止めて置くより仕方がなかつた。さうして毎晩のやうに、加茂川の水に映る灯の町を慕つて歩いた。………」と。私の神経衰弱は、“The Affair of Two Watches”にも書いてあるやうに、一高から大学へ移つた時代が最も激しく、一時は発狂しやしないかと自分でも危ぶんだくらゐであつたが、その後文壇へ出るやうになつてから、次第に前途に光明を見出し、生活も楽になつたので、何となく心身にゆとりが出来たせゐであらう、第一回のパンの会の頃まではまだコチコチに痩せてゐたのが、紅葉館の新年会の前後あたりからだん/\太り出して来て、尖つた顔が円顔になり、ニキビの痕がキレイに消えて血色が桜色を帯び、同時に神経衰弱の方も大変軽くなつてゐたのに、それが再び京阪時代に勃発したのである。
余談ながら、当時の文学青年の間では一時神経衰弱症が大流行であつたことを、此処で一言しておきたい。
尤も、若い者が不眠症に罹つたり煩悶病に憑かれたりするのは有りがちのことで、われ/\の一と時代前にも、藤村操流の厭世観が一世を風靡して自殺や心中が讃美されたことがある。が、あの時分のは、あの「巌頭の感」の文章が示してゐるやうに、何処か甘つたるい、センチメンタルなものであつて、恐らくシヨオペンハウエルや仏教哲学などの影響を受けてゐたのであらうが、われ/\の時代の神経衰弱は、もつと世紀末的な、廃頽的なものであつた。かのマツクス・ノルドオがその著「デゼネレエシヨン」の中で論じてゐるやうな病的な近代思潮が、われ/\の頭を支配してゐたので、われ/\の煩悶や懊悩の中には、センチメンタリズムの分子は微塵もなかつた。われ/\はそんなものを自然主義前期の遺物として軽蔑した。今にして思ふに、小説では紅葉の「金色夜叉」、蘆花の「不如帰」、草村北星の「浜子」などゝ云ふものが流行つた時代、評論感想では高山樗牛の「わが袖の記」、「平家雑感」、「美的生活論」などゝ云ふ中学生の美文のやうなものが大きな顔をしてノサバツてゐた時代、(ついでながら云ふ、正宗白鳥君などは樗牛を相当に重く扱つてゐるやうだが、私はあの男の何処が偉いのだか不思議でならない。「瀧口入道」は平家物語の一節を焼き直して文章までも剽窃ひょうせつしたもの、「釈迦」も同じくお経の文句をそのまゝ仮名交り文に引き伸ばしたやうなもの、「美的生活」はニイチエを読みかじつてニイチエの深みもなく、浅薄な議論をしたもの、その他、何一つとして独創性の認められるものはないではないか。彼の書く物が幼稚だつたのは時代のせゐで仕方がないとしても、真にすぐれた評論家であるなら、幼稚な中にも何か後人を首肯せしめるものがなければならないが、何処にもそんなものは見出だされない。たゞ、肺病で涙脆い青年の書いた一種の美文と云ふに止まる。「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」などゝ云ふ勿体らしい文句も、空疎で何の意味もなく、気障さ加減が鼻持がならない。あれなんぞは、下らない人間がエラさうな墓碑銘を遺すと、後世迄も耻を曝すことになる、その適例であると云ひたい。樗牛が得意で物を書いてゐた時代に、漱石先生は田舎廻りの英語教師か何かをしながら、「高山の林公が何を云つてやがるんだい」と空嘯うそぶいてゐたと云ふが、漱石先生などの眼からは、樗牛の空威張りがさぞや馬鹿げて見えたであらう。そのくせ、あれで案外俗才があり、世渡りが巧かつたやうな所もあるので、尚イヤになる)―――兎に角、あの時代は安価なる感傷主義の跋扈した時代であつて、あれを一掃してくれたのは、何と云つても自然主義の功績であつた。されば、中学時代には近松の心中物などを耽読したわれ/\も、いつか欧米のデケーデンスの文学に親しむやうになり、感傷主義を受け入れるやうな甘さは持つてゐなかつた。「恋か、死か、然らざれば狂か」などゝ樗牛は絶叫したものだが、われ/\の時代になると、死や狂を謳歌するよりも、寧ろ恐れた。ポーやボードレエルのものは云ふ迄もないが、ストリンドベルグの「債鬼」や「インフエルノ」、ゴルキーの「ふさぎの虫」、アンドレエフの「霧」や「血笑記」、―――あゝ云ふものを読んだ時の不安と恐怖とはわれ/\の神経に深く作用して、情操を打ち砕き、官能を押し歪め、時には、若い身空で恋愛の刺戟にさへも堪へられないやうにした。大貫の夭折ようせつしたのなぞも、病死には違ひないけれども、時代の影響で早くから神経を疲らせてゐたことが、余程原因してゐると思ふ。彼はもうずうつと以前から「死の恐怖」を口にしてゐた。小山内君の「病友」や「色の褪めた女」を読んで、気味悪がつたのも彼であつた。
或る年の冬、私と二人で乙女峠を越えようとして雪の積つた峠の頂きへ辿り着いた時、理由のない恐怖が漠然と襲つて来て、異口同音に「恐い」と云ひ出して、二人共真つ青になりながら夢中で坂を馳せ下つたことなぞもあつた。「ふさぎの虫」の物語は、狂人の番をしてゐる男が狂人の言説を尤もだと感じるやうになり、とう/\自分も狂人になつてしまふと云ふ筋であるが、大貫と私とは互に恐怖病を助長させた傾きがあつた。彼も私も、一人でゐる時より二人でゐる時の方が余計恐怖の発作を感じた。私の“The Affair of Two Watches”を読んだ方は御承知であらうが、あの中に、杉と云ふ男が金策に窮して一計を案出する所がある。その方法は、当時丸善が「ヒストリアンス・ヒストリー」の予約出版をしてゐて、最初に五円払ひ込めば、時価百円以上の書籍を全部送り届けてくれる、あとは月賦で一年間か二年間かに成し崩しに払へばいゝのである、それで、先づ五円の申し込み金を出して全巻を受け取り、それをそつと質に入れるか、情を明かして誰かに買つて貰ふかする、さうすれば差し当り百円ぐらゐの金は出来る、丸善の方へは月賦さへキチンと払つて行けば分る筈はない、―――小説の中で、杉がこんなことをしやべるのであるが、私の友人で、それを読んでこつそり実行した男があつた。彼は丸善から受け取つた書物を、縁故を求めて或る田舎の中学校へ売り付けた。それも原価と違はない相当な値で売つたので、マンマと計画は成就した訳だが、間もなく此の男は気が変になつて、をかしなことを口走り始めた。友人達がみんな丸善の廻し者か探偵のやうに思へ出して来たのである。身近い所に起つたかう云ふ実例は、一層私の恐怖心を募らせたもので、今に自分も心臓麻痺でやられるか気が違ふかと云ふやうな予感が始終神経をビクつかせ、突然、往来の真ん中で動悸が早鐘を打ち始め、アハヤ卒倒しさうになることがしば/\あつた。われ/\に比べると「白樺」の人たちは遥かに健全であつたけれども、それでも志賀君の若い時の作品には「剃刀かみそり」だとか「濁つた頭」だとか云ふやうなものがある。以てあの時代の青年の病的さ加減を知ることが出来よう。
さて、私の神経衰弱と云ふのは強迫観念が頭に巣を喰つて、時々発作を起すのであつたが、恐怖の対象はいろ/\に変つた。或る時は発狂するかと思ひ、或る時は脳溢血、心臓麻痺を起すかと思ひ、そして、さう思ひ出すと、必ず一定の時間内にさうなるに違ひない気がして来る。すると、もうその予感で顔色が真つ青に変り、或はかあツと上気のぼせて来て、体中がふるへ出し、脚がすくみ、心臓がドキンドキン音を立てゝ鳴り出して、今にも破裂しさうになる。その恐ろしさを紛らすために、片手でしつかり心臓を押さへ、髪の毛を掻き毟つたり、そこらぢゆうを駈けずり廻つたり、水道の水を浴びたりする。それが、癲癇の発作と同じやうに、時と所を選ばずに突発するのだから始末が悪い。偕楽園の笹沼などは夜中しば/\私に起されて、慌てゝ台所へ飛んで行つて、コツプに一杯冷酒を持つて来たものである。(どう云ふ訳か、酒を飲むと発作が静まるのである。それでその当座は身辺に酒を絶やしたことがなかつた)で、発作が起らない時でも、いつ起るかも知れないと云ふ心配のためにビクビクしてゐる。一人の時はまだいゝが、はにかみ屋の私のことだから、人前へ出た時が一番イヤだつた。笹沼のやうに様子を知つてゐてくれゝば心強いが、何もそんなことを知らない人の前で起つたらどんな醜態を演じるかと思ふと、めつたな家へ客に呼ばれて行くことも出来なかつた。従つて友人、―――殊に目上の人を訪問すること、宴会に出席すること、汽車や電車に乗ること、芝居や活動小屋へ這入ること等、すべて禁物であつた。私は、電車の中なぞで引つくりかえつたら体裁が悪いので、大概な道は歩くやうにした。しかし電車は「変だ」と思ふと直ぐに降りられるからいゝが、汽車は停車場と停車場の間が長いので、尚更乗る勇気がなかつた。活動写真などは、それでも恐々見に行つたものだが、三等席の出口に近い所にゐて発作を感じると急いで飛び出した。(飛び出してしまふともう何ともなくなるのだが、這入ると又恐くなるのであつた)その外、床屋へ行くことがイケなかつた。じつと腰掛けて、首の周りを締められて、髪を刈られてゐると、きまつて不安になつて来る。それを職人に悟られまいとして一生懸命にこらへる。そのために尚恐くなる。鏡に映る自分の顔が土気色をして、死相をたたへてゐる。見る/\うちに赤くなつたり青くなつたりする。とてもじつとしてゐられないので、エヘンと咳をしてみたり、体をごそ/\動かしてみたり、しまひには首を彼方へ向け此方へ向けする。そして「気分が悪いから」とか何とか云つて、刈りかけの頭で外へ出てしまふ。いつたいに、一つ姿勢を持続することがむづかしかつた。人に強ひられると尚むづかしく、一二分の辛抱も出来かねた。
写真を写されると、露出時間の長い時は必ず動いた。室内で人と対談する時、絶えず居ずまひを直し、ハツとびつくりしたやうに急激な運動で位置を換へ、又一方の手を畳へ衝くか立て膝をしてその脚を抱いた。
さうしないと、眼の前がグラグラとして倒れさうになるのであつた。強い光線、強い色彩に射られても眩暈めまいを感じた。何事に依らず、強烈な官能的刺戟には恐怖が伴つた。小説「悪魔」の主人公の佐伯と云ふ男は真夏の路面から反射する日の光りに堪へかねて、覚えず両手で顔を蔽ふのであるが、あれは私自身の体験で、佐伯の神経衰弱は即ち私のものであつた。
けれども、私のインフエルノ時代、―――今云ふやうな神経病に悩まされた時代は、まだ文壇に進出する以前、大学の二三年頃のことで、(その頃神経衰弱を直すために、常陸の国助川にある偕楽園別荘に転地したことは前に記した通りである)それから四五年の後京都へ旅立つ時分には殆ど快癒してゐたのであつた。その證拠には、長の道中を汽車に乗つて来たけれども、私は何の不安にも襲はれずに、無事に京都へ着いたのである。尤もさう云へば、汽車に乗るについては往年の恐怖の記憶があつたので、いくらか用心する気になつて、当時は既に急行車が出来てゐたにも拘はらず、恐くなつたら何処でゞも降りられるやうに普通車を選び、名古屋で一と晩泊つたりして、警戒しながら来たのであつたが、案ずる程のこともなく、完全に愉快な旅を続けた。私は汽車の窓から沿道の春景色を眺めながら、いかにあの頃の病癖が滑稽至極なものであつたかを想ひ浮かべ、強健な神経を取り戻した今の我が身を祝福した。私は、二日間の汽車旅行の結果を見てすつかり安心した訳であつた。まあ云つてみれば、もう此の上はいかなる歓楽もいかなる刺戟も辞する所にあらずと云ふ気になつてゐた。それで京都へ着くと間もなく連日連夜の遊蕩三昧が始まつたのであるが、神経病と云ふものは一度癖がつくと、直つたやうでも中々直り切らないものなので、不摂生な飲酒生活が悪影響を及ぼしたらしく、又あのいやな病気が知らず識らず萌して来たのである。それは、いつからと云ふはつきりした記憶はないが、「日記」にも書いてあるやうに、体が非常にくたびれることが始まりであつた。前の発病時代にも疲労したことはしたけれども、あの時はコチコチに痩せてゐたから、肉体的にはそれ程でもなかつたのだが、今度はもうあの時と違つて、見るから大儀さうにぶく/\に太つてゐたのである。おまけに京都へ来てからと云ふものは一層急激に太り出して、日に/\脂肪の堆積して行くのが自分にも分る程だつたので、私は第一に此の太り方が不安であつた。何かしら自分の体に異状があると云ふ気がした。なぜかと云つて、つい二三年前までは十一二貫の鉄火箸のやうな体だつたのが、ちよつとの間に十七八貫にふくれ上り、まだ/\膨れて行きさうなのである。身長五尺二寸と云ふ小兵の上に骨細の私がそんな目方めかたになつたのだから、腕にも、脚にも、鼻の頭にも、頬ツぺたにも贅肉ぜいにくが垂れ下り、指の附け根や臀の上には赤ん坊のやうなゑくぼが出来、腹がだん/\セリ出して風船玉のやうにふくらんで来る。そこへ持つて来て、五月から六月と云ふ蒸し暑い季節のことであるから、腋の下や頸すぢや股の間が脂汗でジクジクして、赤く爛れるので、天華粉を塗らなければ股擦れがして歩かれない。私は、午後の日盛りに、幹彦君と連れ立つて知恩院の石段を喘ぎ/\上つた苦しさを今も想ひ出す。あんな僅かな、勾配のなだらかな段々だけれども、あの時の私には実に苦しかつたのである。と云ふのは、あの石段は非常に幅が広いのである。そこへ初夏の日が一面に照りつけてゐるので、何処にも蔭と云ふものがない。
私の疲れた視神経には、あの石段の全体がまるで浩蕩こうとうたる光りの海のやうに見えた。私は海に溺れかゝつた人のやうに段の中途に立ち止まつては動悸を休めたが、すると忽ち段々の四方八方から強烈な光線が射返して来るので、急に立ちくらみがして、膝頭がガクガクふるへた。「此の石段を上り切る迄に己は倒れる」と云ふ予感がして、早く上つてしまひたいと思つても、息切れと股擦れで重い足を引きずつてゐるところへ、光線の威嚇に脅やかされた眼が錯覚を起して、水平な段々の一方の端が低く見えたり、ゆるやかな石のだら/\路が壁のやうに切つ立つて迫つて来たりした。奈良を一日歩いた時にも、あの春日野の芝生の緑があまりキラキラ反射するので軽い眩暈を覚えながら、どうも変だぞ眼に快い筈の芝生の色を正視することが出来ないなんて、これは病気が再発するんぢやないのかなと、ぼんやりそんな風に感じた。それに、関西は東京に比べると土の色が白いものだから、光線の照り返しが非常にチカチカするのである。四月の末に上方へ来た私は、最初はさうも思はなかつたが、若葉の時候に奈良なんぞを歩いてみると、上野公園などゝは違つて、木の色でも地面の色でも、とても色彩が毒々しく、まるで塗りたてのペンキのやうにギラギラしてゐる。私は幹彦君と二人で、三条通りを真つ直ぐに春日神社へお詣りをし、博物館を見物して三笠山の下を通つて、手向山八幡、三月堂、二月堂、大仏殿と、だゞつ広い公園の彼方此方を見て廻つたが、眼に入るものは白い土か、白い壁か、それでなければ芝生や樹木の青い色である。何処へ行つてもクツキリとした、パツと燃え立つやうに明るい「白」と「緑」の連続、………「新緑滴るばかり」と云ふと涼しさうだが、その新緑がぬら/\と汗で光つてゐるやうに見え、白い地面はカサカサに乾いてゐて、歩く度毎に灰のやうな細かい埃を上げる。そのくせそよとの風もないので、足元にだけ立つた埃が、着物の裾二三寸から以下足袋の先までを、はつきり段をつけて染め分けてゐる。私は三笠山を下から見上げた時に、あのつる/\した、木の一本もない山が、くるめくやうな日光の中に聳えてゐるのがへんに薄気味悪かつた。もう見たゞけでウンザリして、登つたら嘸疲れるだらうなあと思つたきりだつた。そして宿屋へ着いた時は十里も十五里も歩いたやうにくたびれてゐた。そんな風だから、五月の末頃からは昼間は殆ど外出したことがなく、大きな太鼓腹を持て扱ひながらごろ/\寝ころんでばかり暮らして、夕方になると、先斗町の川附きのお茶屋へ出かけて行く。夜も大概お茶屋で泊つて、藝者や仲居と雑魚寝ざこねをする。その雑魚寝と云ふのが殺生せっしょうなもので、好きな女でも交つてゐると、終夜安眠が出来ないで明くる日まで頭がぴん/\する。(雑魚寝で一番悩まされたのは、大阪の宿にゐた時分、中井浩水君が新町の茨木屋に十日も二十日も流連してゐて、夜になると呼び出しの電話がかゝつて来る、出かけて行くと浩水君は座に相方の美妓を侍らせ、いつも必ず御贔屓の幇間を一人従へてゐる、さて夜が更けるまで酒が弾んで、帰らうとすると、是非泊つて行けと云ふ、で、泊るのはいゝんだが、浩水君は相方と一緒に別の座敷へシケ込んでしまつて、私は外の女どもとあぢきなく雑魚寝をさせられる。ところが、浩水君の相方の美妓の顔がいつ迄もいつ迄も眼先にチラついて、容易に眠られないのである。あれは故越路太夫の養女の小しづと云ふ妓であつたさうだが、美人と云ふよりは実に阿娜あだな女であつた。顔の地肌が妙になまめかしく、眼の下に小さな腫物が出来てゐて、それへ真つ白い紙の膏薬を貼つてゐるのが、いかにも初夏の女らしく蠱惑的に見えた)たまに宿屋へ帰つて来ると、座敷の真ん中にぐつたり打つ倒れて大の字になつたきり、横の物を縦にもしない。かう怠けてゐては金に困る、仕事をしなければと思ひながら、机の前に五分と据わり続ける根気がない。幹彦君は感心なことに中央公論へ創作を一篇(「母の手」?)送つたもんだが、私は長の滞在中、「日記」を新聞へ十四五回書いたゞけで、それも前後三月の間に休み/\載せたのである。だからしまひには小遣ひ銭にも困つて来て、金を持たずに遊びに行けるお茶屋より外には、行く所がないやうになつた。
そのうちに京都の夏は追ひ/\たけなわになつて来る。加茂川には床が張り出される。カラツと晴れて空も街路も屋根瓦も壁もキラキラギラギラ輝く炎天と、鬱陶しい、鉛のやうに頭の重い、蒸し暑い曇り日とが交互に続く。それでなくても汗掻きの私はいよ/\太る一方なので、顔や手足や鼻の頭がネバネバニチヤニチヤする。戸外へ出れば日光が恐いし、室内にゐれば息が詰まる。その上困つたことには、夏の着物がないのである。私は此方へ来る時に、馴染みの藝者に見立てゝ貰つて白木屋で絹セルの袷を新調し、それに好貴織の羽織、牡丹くづしの繻珍の帯、偕楽園から貰つた長襦袢、と云ふいでたちで乗り込んだものだが、一つ着物を着殺す迄着てゐた時代で、着換へと云つては大島の羽織か何かゞ一枚あつたくらゐなもの、それで四月以来打つ通したんだから、酒のシミや油のシミで羽織も着物もベトベトになり、長襦袢なんぞは素肌へ着るので、裏が真つ黒になつて裾がぼろ/\に切れてしまつた。ところへ持つて来て、床屋へ行くのが恐いもんだから、髪がぼう/\と伸びて、いつも揉み上げがびつしより汗で濡れてゐる。その恰好でづう/\しく茶屋へ出かけて行くので、我ながら大した度胸であつたが、江戸つ児の兄哥で通して来た私も此れには内心参つてしまつた。かてゝ加へて、京都や大阪は東京よりも衣更への時期が早い。四月の末にはもう単衣羽織、単衣帯、麦藁帽子さへ被る者がある。実際に又、それだけ気候が暑いのである。私は土地の人が絽の羽織を着る時分になつてから、たまりかねて東京へ手紙を出し、綴れの単衣帯と夏羽織とを偕楽園から送つて貰つたが、着物と襦袢とは最後まで着た切り雀であつた。(あの時分、東京では上方の所謂「単衣羽織」と云ふものがなかつた。袷羽織から直ぐ絽の羽織になつたので、単衣羽織と云へば絽のことであつた。東京で上方流の単衣羽織を着るやうになつたのは震災以後のやうに思はれる)此の点では幹彦君も私とあまり変りがなく、垢光りに光つた袷を着てゐたので、私は同君のみすぼらしさを見るにつけても、自分も此れと同じだと思つて、ひとしほ憂鬱になるのであつた。が、そんなになりながら京都にぐづ/\してゐたと云ふのは、旅費がなかつたからばかりではない、汽車に乗るのが又恐くなつてゐたのである。私は或る時岡本さん兄弟や幹彦君と汽車で嵯峨へ行く途中、始めてあの病気の再発を自覚した。
そして、その汽車には便所の設備がなかつたのを幸ひに、腹が痛み出したとか下痢を催したとか云つて発車の間際に下りようとすると、岡本さんが新聞紙か何かをひろげてくれたので、下りることもならずマゴマゴするうちに発車してしまつたが、でもその時は恐怖感が激しくなかつたので辛うじて胡麻化すことが出来た。それから或る時、阪神電車で大阪から御影へ行く途中に発作を感じて、同行の友人に「気分が悪い」と云つて別れてしまひ、直ぐ次の駅で一二時間休んでから、少しづゝ乗り継いで大阪へ帰つた。そして大阪から京都へ戻るにも、汽車でなく電車にした。幹彦君はお医者さんの子だけに分りが早く、「それはアイゼンバーンクランクハイト(鉄道病)と云ふ奴だらう」と云つてくれたが、蓋し私のは汽車に酔ふとか、汽車そのものが恐いのではなく、汽車に乗つてゐる間に衆人環視の室内で死の恐怖感が襲ふのであるから、普通の所謂鉄道病とは多少違つてゐるかも知れない。兎に角、京阪阪神の短距離の間でさへそんな風になるのであるから、東京へ帰ることなんぞは当分思ひも寄らなかつた。私は今後、半年かゝるか一年かゝるか、或は二三年も先になるか、再発した神経衰弱が完全に治癒してしまふ迄は、故郷の土を蹈むことは到底望めないやうな気がした。さうなつて来ると、此のキラキラした夏の京都と云ふ所が雲煙万里を隔てた他郷のやうに思へて、尚更帰心矢の如くになる。のみならず、運悪くも亦私の徴兵猶予の期限がその年の七月で切れることになつてゐた。私は是非とも検査の日までに東京へ帰つて、日本橋の区役所へ出頭するか、それが駄目なら此方で検査を受けるやうに手続きをしなければならないので、そのことも可なり気にかゝつた。私はしきりに焦ら立ち、ヤキモキしたり、腹を立てたりした。京都なんてもう一日もイヤだと思ひ、さう思ふのに帰れないのが忌ま/\しくて仕様がなかつた。京都ぢゆうの人の顔が皆癪に触つた。態度がだん/\意地悪く、皮肉になり、無闇に毒舌を弄したりして、いろんな事に当り散らした。
幹彦君なんぞも飛ばツちりを受けたに違ひないから、定めし当時は不愉快に感ぜられたであらう。お詑び旁々かたがた此処で白状してしまふが、幹彦君は私と違つて努めて土地の人情風俗に同化しようとする様子が見え、いつの間にか祇園先斗町の廓言葉などを覚え込んで、会話の端にも京風の物云ひやアクセントを洩らすと云ふ風であつたから、京都がイヤになり出した私には、此れが甚だ癇に触つた。何だ、ダラシのねえ! 二た月や三月で直ぐもう上方に染まるなんて、江戸ツ児の名折れだ、関東者は関東者らしくテキパキ物を云へ! 私は、幹彦君が習ひ立ての京都弁で藝者としやべつてゐるのを聞くと、ムカムカとしてこんなことを云ひたくなつた。そして幹彦君への面あてに、此方はわざと鉄火な言葉使ひをした。未だに覚えてゐることだが、酒の後で飯になる時、幹彦君はきつと「ぶぶ漬けをおくれやす」と云ふ。此の「ぶぶ漬け」が腹が立つた。ヘツ、舌足らずぢやあるめえし、大きななりをした野郎がぶぶとは何だ。「お茶」と云つたらいゝぢやあねえか。さう思つて私は、幹彦君が「ぶぶ漬け」と云ふと、負けない気になつて「お茶漬け」と云つた。「ぶぶ」と云へば「お茶」だつた。(こんな風だから、結局私は上方言葉を覚えずにしまつたが、幹彦君の方は手に入つたもので、早くから祇園情調の小説を書き、自由自在に京風の会話を駆使してゐたことは読者諸君も御承知の通りである。私なぞは助手を使つて「卍」を書いたのが大分稽古になつたけれども、未だに込み入つたことは云へない)今から思ふと実に滑稽千万であるが、何分もう神経が余程変になつてゐたので、さう云ふ愚にもつかないことが一々気分に影響して、ぞうツと顔色が変つて来ると云ふ始末であつた。だから最初は仲よくしてゐた幹彦君とも、しまひには疎隔するやうになつた。幹彦君の方では、何の理由で私があゝもヒネクレ出したのか分らないので、手に負へなかつたことであらうが、分らないのも尤もである、理由のないことに向ツ腹を立てゝゐたのだから。
そんな工合で帰るにも帰られず、毎日のらくらしてゐると、東京では親父が心配して徴兵の方はどうするつもりだと手紙で云つて来る。一年志願をするならするで願書を出さなければならないが、放つておいたら期限に後れる、いゝ加減に帰つて来たらどうだと、苦労性な親父は私のずべらを知つてゐるのでセツセツ催促する。さあ、それが、帰りたいのは山々なんだが、汽車に乗れない訳があるんで、………と、さう云つたつて親父に分る筈がないから、何とか彼とか出鱈目な返事をやつては、一日延ばしに延ばしてゐる。
さうしてゐるうちには、フイと汽車に乗れるやうになるかも知れないと、それを頼みにしてゐるのだが、その実さう云ふ望みはだん/\薄くなるばかりであつた。これが自分の自由意志で汽車に乗る場合、乗つても乗らないでもどうでもいゝと云ふ場合だと、まだ幾分か気が楽なんだが、強ひられて乗る、国民の義務を果すために否でも応でも汽車に乗つて帰らねばならぬ、と云ふのであるから、避け得られない運命が待ち構へてゐるやうな気がして、ます/\臆病になるのである。あゝ、今年は何と云ふ厄年か、東京で病気が再発したのならどうにかしのいで行けるだらうに、選りに選つて旅先でこんなことになり、而も徴兵検査のために発作の危険を冒さなければならないとは。―――私は真面目でさう考へたものだつた。そして考へれば考へる程、事件の廻り合はせが自分をそこへ陥れるやうに、宿命的に仕組まれてゐる感じがした。
かうしてぐづ/\してゐるうちに愈※(二の字点、1-2-22)期限が迫つて来る、泣いても笑つても帰らなければならなくなる、その汽車の中で自分はヤラレる、東京へ着く迄に死ぬ、さう云ふ風に運命の罠が作られてゐるので、それを逃れることは不可能だ、自分はみす/\設けられた罠に落ちなければならぬ。―――こゝで一寸説明しておくが、私の発作と云ふのは「死の恐怖感」であつて、「死」と死の恐怖感とは別物であるけれども、しかし恐怖感が極端に募れば生理的に「死」が来ないとは限らない、それが非常に恐いのであつた。なぜなら私は、脂肪過多の結果心臓が弱くなつてゐて、神経性の心悸亢進こうしん症を起してゐたらしく、やゝともすると動悸が激しく打ち出して、ドドドドドツ………と体ぢゆうに響いた。それに脈搏が馬鹿に早いので、日に何回となく気にして脈を測つたものだが、最も多い時は百二十、少い時でも九十八九から百はあつた。
だから恐怖感が絶頂に達したら心臓でヤラレる、確実に助からない、と云ふ気がした。これが神経病でなく、誰にでも分る肉体の病気なら立派に云ひ訳が立つんだが、しかし命には換へられない、徴兵忌避で罰せられても帰京を延期しようか知らん、後でよく分るやうに理由を述べたら、或は諒解して貰へるであらう、―――と、私はさうも思つたことだつた。私は又窮余の一策として何処か京阪の附近で検査を受けようと云ふ案を思ひ付き、大阪の或る会社に勤めてゐる友人を煩はして方々へ問ひ合はせて貰つて、兵庫県の今津へ寄留することに話を決めて貰つたりしたが、これも最後の受け附けの日に僅かな時間の遅刻で手続きが取れなかつた。たしか、書類はうに東京から着いてゐたので、毎日今津へ行かうとしては京阪電車の停車場までは出かけるけれども、電車を見ると勇気が沮喪してスゴスゴ戻つて来る。そんなことを繰り返して今日行かなければもう間に合はぬと云ふ最後の日に、改札口の前を往つたり来たりしながら何台も/\出て行く電車を恨めしさうに眺めてゐると、そこへ萬屋の金子さんがやつて来て「どちらへお出かけです」と云ふので、「大阪まで」と云つてしまふと、「では御一緒に」と云はれて、断り切れずに乗つたのであつた。(私は嘗て東日へ載せた「恐怖」と云ふ短篇に、此の苦悩を詳細に書いてゐる。酔ふといくらか神経が麻痺するので、私は片手にポツケツト入りのウイスキーの壜を提げ、真つ青な顔をして吊り革にぶら下りながら、金子さんが呆れてゐる前でそれをグイグイ喇叭飲みにした。晴れた、暑い日で、京阪沿道の北河内の平野が炎天の下に白く埃ツぽく濛々と煙つて、壁や、水溜りや、いろ/\の物が遠くの方で銀砂のやうにピカピカ光つた)しかし金子さんのお蔭でどうやら自信を得た私は、大阪へ着くと直ぐ阪神で今津の役場へ駈けつけたが、もう時間外で間に合はなかつたのであつた。
大阪で、今橋辺や中之島辺にたつた一人で宿を取つて、十日ばかりもぶら/\してゐた記憶があるのは、多分此の時のことであつたらうと思ふ。これもやつぱり京都へ帰る道中が恐かつたからである。私は此の滞在中のことをいろ/\と断片的に思ひ出すのであるが、あの時分の大阪は堺筋の一部分が取り拡げられてゐたゞけで、船場島の内の商店街は皆道幅が狭く、夏になると往来の向う側から此方側へ白い布の日覆ひを渡す、つまり往来にテント張りの天井が出来る、あれは全然東京の町にはない光景で、大阪の如き暑い土地ではあゝして路面へ蔭を作る必要があるのだらうが、見た眼にはその日覆ひがキラキラ眩しく反射するので一層暑い感じがした。橋の上から見下ろすと、東京と違つて規則正しい直線を成してゐる町通りが、北から南へ果てしもなく続く限り日覆ひも亦遥かに/\つながつて、遠くの方までビイドロのやうに光つてゐる。私は外を歩く時、これには何より閉口した。とてもあの暑さうなテント張りの下へ這入る勇気がないので、日覆ひのない町ばかりを選びながら歩いたが、四つ辻へ来て見渡すと、どの町通りもどの町通りも並行線の悉くが日覆ひで埋まつてゐる時など、足の入れ場もない気がした。それに、運悪くも私は、ほんのちよつとした災難に出遭つて、神経衰弱を募らせるやうなハメになつた。と云ふのは、或る日どう云ふつもりであつたか住吉神社へお詣りに出かけたのであるが、その時分南海電車は出来てゐたけれども、往き復りとも俥に乗つて行つたその帰り路、たしか萩の茶屋辺まで来た時に、俥の上で何の気もなく少しうしろへると、そのまゝ車台が梶棒を天に冲して仰向けに打つ倒れ、私は往来へ叩きつけられてイヤと云ふほど後頭部を打つた。いつたい関西の人力車は関東のよりも幅が狭く、きやしやに造つてあるので、横に引つくり覆る率は多いやうだが、反つたぐらゐで忽ちうしろへ倒れるなんて、あまりにも車夫が迂濶である。それにしても当時の私がいかに相撲取りの如く肥満してゐたか、此の一事でも明かで、車夫は梶棒を握つたまゝ宙へ吊し上げられて両足をぶらん/\させてゐた。何にしても、打つた所が後頭部なので、痛みはそんなでもなかつたが、これは病気によくない結果を及ぼすなと、私は直ぐに神経に病んだ。そしてあの近所に住んでをられた織田一麿君の家へ駈け付けて、一と晩ゆつくり休ませて貰つて、氷で頭を冷やしたりした。こんな事から私の恐怖病はいよ/\極端になり出して、もう俥にも乗れないやうになつたのである。私は大江橋の北詰めを一二丁東へ行つた河岸縁の、今はなくなつた何とか云ふ旅館の二階座敷に寝床を敷いて、さも大層な病人らしく一日ぢゆう安静にしながら、毎日恨めしさうに大川の水を眺めては暮らした。まだ市庁舎も公会堂もホテルも建つてゐなかつた対岸の中之島に、ひよろ/\と貧弱なポプラが植わつてゐて、埃で汚れたその葉の間から豊太閤の銅像が見えたりした。空しくかうして日を送るよりもいつそ医者に見て貰つた方がと、さう思つたりするのだけれども、実は医者が禁物なのであつた。私は医者の前へ出ると、一層心臓がドキドキして興奮することは明かである。すると、百二十もある脈搏が三十にも四十にも殖えるであらう。そんなになつたら、よし死なゝいでも医者はびつくりするであらう。「あ、大変だ、あなたはとても心臓が悪い、余程用心なさらないともう長いことはありませんな」―――「これでよく生きてゐられますな」―――万一医者がそんな宣告を下したらどうなるであらう。
一刻も恐怖が私を支へてはゐまい。私はそれが恐いのである。見も知らぬ土地で、馴染みのない医者だつたら何を云ひ出すかと思ふと、ます/\足がすくむのである。又幸ひに医者の前でも心臓が平静を保ち、発作が起らなかつたとしたら、医者は何と云ふであらう。―――「何処がお悪いんです、あなたは? 少し脈が早いけれども、別に異状はないぢやありませんか」―――さう云はれた時私はいかにして此の恐怖病の苦悩を説明し、彼をしてその滑稽さに失笑せしめることなく、理解と同情とを喚起せしめることが出来るであらう。私は病気を発見されるのを恐れる半面に、病気が発見されなかつた時のキマリ悪さと味気なさを想つた。しかし今度は俥から落ちて頭を打つたと云ふ口実がある以上、見て貰つても笑はれる筈はあるまいと考へて、とう/\或る日脳病専門のドクトルの所へ出かけて行つた。誰が教へてくれたのだつたか、高麗橋を東へ渡つた、横堀川の縁にあつた日本家屋の医院で、二階へ上ると患者が二十人近くも待つてゐて、エラク流行つてゐる医者であつた。珍しく午前中に起きて、睡眠不足で頭がクラクラするところへ、川から晴れた夏の光りがさして来て、磨き込んだ医療器械や真つ白な看護婦の仕事服や床のリノリウムがピカピカと眼を射る。直ぐに見て貰へば一と思ひに済むのだけれども、待たされてゐるとさま/″\な恐怖の幻を描いて、だん/\ぢ気づいて来る。外の患者達は皆顔馴染みで、代診や看護婦達と雑談をしてゐる。私の順番は中々廻つて来ないのである。私は先づ代診の前へ呼ばれて、病気の性質と経過とを尋ねられた。「あ、それから、どうも時々理由のないことに恐怖を覚えたりしましてね」―――私は軽く、附け加へるやうな口調で云つたものだが、「はあ、はあ」と代診も職業的に受け流しながら、機械的にペンを走らせて、「時々恐怖感アリ」などゝ、備考の欄に書き入れた。が、いよ/\順番が近づいたと思ふと、動悸が激しく打ち始めた。私の前にまだ二三人残つてゐた患者が、一人減り二人減りして最後の一人になつた時、私はます/\強く打ち出した心臓の鼓動を抑へて、蒼惶そうこうとして階段を駈け下り、夢中で戸外へ逃げてしまつた。私は又、暑い日盛りに南北線の電車通りを南へ向つて歩いて行つた或る日のことを想ひ出す。何の用事でそんな時刻にあんな所を歩いたのか分らないが、その時分新町橋の附近に店を出してゐた山内吾八君の許へでも出かけたのであらうか。たゞ覚えてゐることは、もはや嚢中のうちゅうには二三円の金しかなかつた、そして徴兵検査の期日は旬日の後に迫つてゐた。生命の危険、金の工面、徴兵忌避の刑罰の心配、私はそれやこれやのために暗澹たる胸を抱いて遥かに東京の空を慕ひながら、前途に何の希望もなく、明日はどうなると云ふ見込みもなしに、重い足を引き擦り/\炎天の路をテクテク歩いた。私は絶えず眩暈を感じたり不意に後頭部が痺れて来たりした。体の中心が取れないので、二三丁毎に立ち止まつては一と息入れた。今にも行き倒れになりさうな気がした。氷の塊をハンケチに包んで持つてゐて、頭にあてたり心臓の上にあてたりした。かと思ふと懐からウイスキーの罎を出して飲んだ。脈を測ると、矢張百二十あつた。市街電車が、時々ゴウゴウと地響きを立てゝ威嚇するやうに傍を走つた。土佐堀川だか江戸堀川だか、もう一つ南の堀割だつたか、とある橋の上へ来ると、河岸縁の家の二階座敷が見えて、妙なことには、島村抱月さんらしい人の顔が欄干の向うから川を眺めてゐた。オヤ、あの家は宿屋だな、抱月さんが彼処に泊つてゐるんだとすると、須磨子なんぞも一緒だらうなと、私はそんなことを思つた。さう云へば文藝協会が北浜の帝国座へ「マグダ」を持つて来てゐたので、或る晩中井浩水君に連れられて見物に行き、始めて坪内先生にお目に懸つたのがその前後のことだつたから、あれは本当の抱月さんだつたのであらう。まさか私の疲労した視神経が白日の幻影を見たのではあるまい。
だが、かう云ふ風に書いて行くと際限がないから、結局私がいかにして東京へ帰ることが出来たかを記しておかう。兎に角私は、六月の末に無事に帝都の土を蹈んでギリギリに検査に間に合つたのであるが、それは小野法順君の介添へのお蔭であつた。此の人はもと知恩院塔頭たっちゅうの住職であつたのが、その頃或る事件から寺を捨てゝ還俗することになり、自分の用件を兼ねて名古屋まで私を送つてくれたのである。小野君は大阪の私の宿へ来て病状を見舞つてくれ、天神橋の近所にある知人の医者の許へ連れて行つてくれたりした。全く、何が幸ひになるか分らないもので、此の医者がたいへん親切な暖かみのある老人であつた。
何でも小野君の高等学校時代の友人のお父さんであつたが、なあに、案じる程のことはないよ、動悸が強く打ち出したら此の薬をお飲みなさい、さうすれば直ぐに静まる、大丈夫、きつと大丈夫だから、安心して何処へでもいらつしやい、と、物馴れた調子で巧い工合になだめてくれた。で、私は此のお医者さんから貰つた散薬の鎮静剤と、脳鼻液と云ふ鼻の薬と、健脳丸と、ウイスキーの罎と、ハンケチに包んだ氷嚢と、これだけを携帯して小野君に附き添はれながら汽車に乗り込んだものである。(私は当時いろ/\の薬を入れた信玄袋を肌身離さず持つてゐた。天神橋のお医者さんも、「通じだけは気を付けるやうにね」と云つてくれたが、云はれる迄もなく私は日々下剤を用ひ、もし一回でも通じが止まると不安になつた。
脳鼻液を思ひついたのはいつ頃からか覚えないが、多分大阪滞在中のことであらう。細い針線はりがねの棒に脱脂綿を巻き着け、ヨヂウムのやうな薬液を浸して、そろ/\と鼻の奥へ突つ込む。すると、一瞬間鼻腔がすうツとして、その爽やかな感覚が恐怖を紛れさせるのである)勿論その時もガタンガタンの普通車へ乗つた。名古屋で小野君に別れた時は真つ青になつたが、薬とウイスキーとを代る/″\用ひて辛くも一人旅を続けながら、どうやらかうやら新橋ステーシヨンに着いた。
私の「青春物語」は此れを以て終る。それにつけても、繰り返して云ふが、二十年後の今日に及び顧みて往時を偲ぶと、真に無量の感慨が湧く。漱石先生の詩に曰く、「馬上青年老鏡中白髪新タナリ」と。真に、真に、豊頬紅顔の春は止まらず、池塘芳草の夢は短い。私は郷関を捨てゝより十年、今や摂陽の山河を第二の故郷と頼み、やがては浪華を墳墓の地と定めたい念願が切であるが、わが回想に浮かぶ若き日の大阪がいかになつかしいことぞ。鴨西、鴨東の蘭燈の影、嵯峨嵐山の晩春の行楽、宇治川堤の桜若葉等、京洛附近にも思ひ出の種は数々あるが、分けても大阪は現在の私に縁故が深くなつたせゐか道頓堀川の水を見てもうたた懐旧の情に堪へない。あの時の旅行は京都を根拠地にして、大阪に滞在したのは前後廿日程に過ぎなかつたのに、年々花たちばなの薫る季節になれば、不思議にも京都のことよりは多く大阪のことの方が記憶によみがへつて来る。蓋し私の最も若く楽しかつた時代と、最も苦しく悩ましかつた時代とに関連してゐる故であらうか。それとも、もうその時に今日の縁が結ばれてゐたからであらうか。況んや東京の下町が全く形態を改めてしまつてからは、私の過去の夢の名残りは京阪の都会に見出だされるばかりである。未だに私は宝塚に遊ぶと、泡鳴氏の面影が眼前にちらつき、南北線の橋の上を通ると、抱月氏の姿を幻に描く。そしてあの時の暑さも、苦しさも、遣る瀬なさも、動悸の音も、灼けつくやうな日光も、今から思へば皆なつかしい。あの時の白い土の色、眩ゆい木々の緑、水ツぽい料理の味、生気を欠いた女の物腰、立居ふるまひ、言葉づかひ等も、今では何物にも優る魅力を以て私を惹きつける。嗚呼、流水変ずること幾度ぞ。私の仕事、私の生活も、やう/\此処まで辿り着いたと云ふ感じがする。





底本:「谷崎潤一郎全集 第十六巻」中央公論新社
   2016(平成28)年8月10日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十三卷」中央公論社
   1982(昭和57)年5月25日初版発行
初出:「中央公論 新秋特大号 第四十七年第十号」〜「中央公論 三月号 第四十八年第三号」
   1932(昭和7)年9月1日〜1933(昭和8)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「光り」と「光」の混在は、底本通りです。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。
入力:きりんの手紙
校正:岡村和彦
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード