例の
A雑誌記者は、いつぞや先生と
で、去年の三月中の或る晩の八九時頃、以前のA雑誌記者ことB新聞記者が浅草公園へ行ったついでに、ちょうどその時分昭和劇場にかゝっていた
だがどうもおかしい、いくら
「やあ先生でいらっしゃいますか、いつぞやは大変失礼を。―――」
そう云ったのは、実はまだ確かに見当がついたのではない。たとえ先生であったにしても素直に化けの皮を現わすかどうか分らないから、出し抜けに斯うカマをかけてみたのである。
「う、………」
と云ってその男は、ぎょっとしたらしく身をすくめて、後ろ向きに肩の角から睨めつけるように見返したが、その「う、………」と云う声をきくと、もうどうしても先生に違いないことが分った。記者が嘗て悩まされたのは、此の曖昧な、
「あのう、御記憶でいらっしゃいますかどうですか、―――もう餘程前、三四年以前に、一度お宅へお伺いいたしましたA雑誌の記者でございますが、………」
「はあ、」
「
と云って、記者は丁寧にお辞儀をして、『B新聞演藝記者』と云う肩書のある名刺を出した。先生は片手をふところに、片手で煙草を吸いながら、記者が捧げている名刺の上へチラリと一瞥を与えたきり、その
「今晩は―――あのう、………どなたかお連れでも?………」
「う、………いや、………」
「はあ、おひとりで?」
「う、………うん、………」
「はあ、………では此の辺まで御運動に?………」
「う、………うん、………」
此処で又しても蒟蒻問答が始まりかけた。しかし記者は馴れているから驚きもしないで、
「けれども先生のお宅からは随分遠方でございますなあ。―――なんでございますか、お宅は矢張以前の所に?」
「うん、彼処におる。」
「はあ、左様で。―――とき/″\公園などへいらっしゃるのでございますか。」
「う、………いや、………」
「へーえ、すると今夜はわざ/\此れを御見物にいらっしゃいましたので?」
此の質問が眼目なのだが、なか/\オイソレと要領を得させる先生ではない。
「なあに、わざ/\と云う訳でも、………」
「妙なことを伺いますが、先生のような方は芝居や活動などよりも、或は斯う云う奇術のようなものがお好きなのではございますまいか。」
「………まあ、………好きと云うのでもないがね。」
此の「ないがね」の「ね」と云う音には微かながらも親しみがあって、先生としては餘程御機嫌の場合である。記者は意外に感じたのでひょいと先生の顔を見上げると、尚意外なことには、物を云う時決して相手を正視しない人だったのに、それが今日はどうした加減か、あの臆病な、処女のような眼つきでゞはあるが、遠慮がちにじーッと此方を見つめながら、口もとには愛嬌笑いさえ浮かべているのである。飛んだ所を見附かったので照れ隠しの積りなのかも知れないけれど、何しろ此れはただごとではない。薄気味が悪いくらいである。
此の時次の番組が始まったので、二人はそれなり黙り込んで舞台の方へ向き直った。記者はいつの間にか先生と肩を並べて隣りの椅子に腰かけていた。舞台ではマジック応用の喜歌劇「若返り法」と云うのが一座総出の出演で、此れが打ち出しであるらしい。記者はそんなものにまるきり興味はないのだが、それに気を取られているように見せて内々お隣りの様子を窺うと、先生は例に依って格別面白そうな顔つきをしてもいないけれども、しかし案外熱心に、脇目もふらずに見物している。何楽しみに生きているのか分らないような、年中浮かぬ色つやをした先生が、これだけ一つものを辛抱強く見ているとすれば、たとえ顔には表われないでも何かしら享楽してはいるのであろう。とすると一体、何が気に入ったのであろうか。学者と云うものは却って単純な子供じみたことを興がるものだから、奇術そのものが好きなのであろうか。それとも一座の女優の中に思し召しでもあるのであろうか。
記者はとう/\好奇心に釣られて最後まで先生のお附き合いをしてしまったが、先生も亦、退屈な出し物を実に根気よく、打ち出しになる迄見物していた。二人は自然一緒に小屋を出て、廣小路の方へ歩くことになった。
「えゝと、電車でお帰りでございますか。」
「う、………うん、………」
「それでは停留場までお見送りを、………」
見送られては迷惑なのかも知れないが、相変らず先生は返辞をしないので、記者はずう/\しく喰っ附いて行った。そして何がな話のつぎ穂を見出そうと考えていると、途端に先生の口の中で「う、………」と云う音がして、喉がごろ/\と鳴ったように思えた。
「は?」
と云って記者は、何か云い出そうとしているらしい先生の気勢を迎えた。
「う、………あのう、………」
「はあ?」
「………君は演藝の方の記者をしている?………」
「はあ、………」
「君は、あゝ云う所へは始終出入りをしているの?」
「始終と云うこともございませんが、あの一座には顔馴染の者が大分這入っておりますので、ついでにちょっと寄ってみたのでございます。………」
「はーあ。」
と云ってから、暫く考えた後、
「あの中に生野真弓と云うのがいるね、さっきしまいの幕で踊った、―――」
「へえ、どんな男でございましたかな。」
「いや、女だよ、断髪のせいの高い、亜米利加の国旗で出来た衣裳を着ていた、―――」
「へえ、へえ、あれ、―――あれは私は存じませんが、生野真弓と申しますかな。」
「うん、プログラムにそうある。」
ふうん、先生なか/\油断がならない。―――記者がそう感じたと云うのは、その女優は誰の眼にも一と際すぐれた美貌の持ち主で、記者自身も今夜始めてその女を舞台で見た時、こんな美人が此の一座に居たっけかなと、驚いたくらいだったのである。
年の頃は二十二三か、短いスカートの脚の恰好もすっきりしているし、全体の四肢の均整も申し分がない。たゞ難を云えば目鼻立ちが餘り典型的な希臘式に出来過ぎていて、愛嬌に乏しく、品はいゝけれども人形のような堅い感じがあることである。
「へえ、あの女優は、あれは夢遊斎の弟子ではございませんかしら。―――あの一座には歌劇の残党が加わっておりまして、その方の連中ならば大概知っておる筈なのでございますが。」
「う、………」
先生の喉の中が又ごろ/\と云う音を立てた。
「………どうかしら、君、あれを調べて貰えんかしら?」
「へえ?」
「あれは、あのう、………おかしいんだよ。………」
「おかしいと申しますと?………」
「気が付かんかね?」
「さあ、どんな事ですか、気がつきませんでしたけれど、………」
「あの女優だけは舞台で一と言もセリフを云わなかったろう?」
「はーあ、そうでございましたかなあ。よくそんなことに気がお付きになりましたなあ。」
「いつもそうなんだよ、あの女は。」
「へーえ、たび/\あれを御覧になっていらっしゃるんで?」
「う、………うん、………」
大分
「するとあの女は唖ですかな。」
「まだおかしい事がある。素足を出したことがないんだよ、今迄に一度も。」
「素足を?」
「うん、………」
やがて停留場へ来てしまったのに、先生は電車へ乗りそうにもしないで、上野の方へ歩きながら記者を相手に話すのである。その話し方が、ぽつり/\と、うんざりする程テンポが緩いので、一と通り
然るにもう一つ分らないのは此の女が素足を出さないことで、元来足の崇拝狂者たる先生は、実は此の方が先に心づいてもいたし、餘計気になってもいたのである。魔法のトランクやキャビネットから現われる場合に、外の女は脛から足を裸にしていることが多いのに、此の女に限って必ず薄い靴下を着けている。五六人が一緒に踊ったりする時にも、外の踊り子は凡べて素足で、一人だけがきまって浅い絹の
「へゝえ、面白いですなあ。そう云う訳なら一つ私が探索してみてもよろしゅうございます。」
「う、………うん、………そうして貰いたいんだが、………」
「なあに、訳はありません、幕内の者に聞いてみれば直ぐ分ります。」
「新聞に書きはしないかい?」
「大丈夫書きはいたしませんよ。鼻がふがふがだなんて、そんなことを書いたら可哀そうですからなあ、あれだけの美人を。」
その晩先生は新聞に出さないことゝ、探索の結果を忘れずに報告してくれることゝを、まどろっかしく、くどくどと、頻りに記者に念を押した。上野で記者に別れを告げて省線電車に乗る時にも、
「ではいゝかね、頼んだぜ。」
と又繰り返した。
蘿洞先生と鼻ふがの美人の女優、―――此れは誰でも好奇心を起さずにはいられない事件である。三面記事として破天荒の
「ほんとうだかどうか分りませんがね、みんな何となく気味悪がって誰も相手にしないんですよ。」
と或る俳優は記者に云った。
「でも、皮膚の色が透かしてみると紫色に光っているとか、いやにテラテラしているとか云うようなことがあるのかね。」
「そんなことはありません。色は真っ白で、
「ほんとうだとすれば気の毒なもんだね。」
「それより惜しいもんですよ。あれだけの
それから二三日過ぎた日の午後である。久し振りに蘿洞先生の郊外の舊宅を訪れた記者は、あのいつぞやの応接間の卓を隔てゝ先生と向い合っていた。
「誰か、あの女の懸りつけの医者はおらんかい?」
逐一報告を聴き終った先生は、いつもの無表情な、どんよりした顔はしていたが、別にガッカリした風でもなかった。
「懸りつけの医者?」
「う、………うん、………それに尋ねたら分るんだが、………」
「そいつはむずかしい御注文ですなあ。そう云う者はおりませんでしょう。」
「足の趾がどう云う工合に取れておるか、天刑病は傷口に特徴があるんだが、………」
「そいつもどうも、………誰にも見せないと云うのですから、………」
「ふむ、」
そして先生は、庭の花壇の方を見ながら云った。
「わしが自分で調べてもいゝ。………う、いや、此処におっても材料さえあれば調べられる。………」
「材料と申しますと?」
「あの病気は
「へゝえ、成る程、………それなら誰かに頼んで置けば手に入るかも知れませんな、あの女が風邪を引いた時か何かに。………」
「う、………そうして貰えんかな、五十圓で買うことにするが。………」
記者はその半月程後に、某俳優の助けを借りてやっとのことで真弓のハンケチを盗むことが出来、五十圓を山分けにしたそうである。が、検鏡の結果はどうであったか、先生からは何の音沙汰もなく、真弓の方は、夢遊斎の一座が六月に旅先で解散したので、行くえが分らなくなってしまった。しかし何処までも物好きな記者は、よもやとは思いながらも八月の末に或る日先生を訪ねてみると、「ちょっと差支えがあるから」という取次の言葉で玄関拂いを喰わされた。その後二度も行ったけれども、いつも同じような挨拶なので、一策を案出した彼は、此の前隙見をした時の
「ふゝん、人を散々利用して置いて、今時分玄関拂いを喰わせるなんか馬鹿にしてやがる。」―――記者は癪に触ったので、又裏口の
「ね、これならお前のほんとうの趾も同じことだよ。どう? うまく
それを夫人の足に取り附けながら、とても甘ったるい調子でそう云っているのは先生である。
「ひゝえ、ひっともひとうはなひわ。」
と、記者は始めて夫人の彫刻的な唇から洩れる声を聞いた。