文壇昔ばなし

谷崎潤一郎




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 昔、徳田秋声とくだしゅうせい老人が私にいったことがあった、「紅葉山人こうようさんじんが生きていたら、君はさぞ紅葉さんに可愛がられたことだろうな」と。紅葉山人の亡くなったのは明治三十六年で、私の数え年十八歳の時であるが、私が物を書き始めたのはそれから約七年後、明治四十三年であるから、山人があんなに早死にをしなかったら、恐らく私は山人の門をたたき、一度は弟子でし入りをしていただろうと思う。しかし私は、果して秋声老人のいうように山人に可愛がられたかどうかは疑問である。山人も私も東京の下町ッ児であるから、話のウマは合うであろうが、またお互に江戸人に共通な弱点や短所を持っているので、随分容赦なく腹の底を見透かされて辛辣しんらつ痛罵つうばなどを浴びせられたに違いあるまい。それに私は山人のように一本な江戸ッ児を以て終始する人間ではない。江戸ッ児でありながら、多分に反江戸的なところもあるから、しまいには山人の御機嫌を損じて破門されるか、自分の方から追ん出て行くかしただろうと思う。秋声老人は、「僕は実は紅葉よりも露伴ろはんを尊敬していたのだが、露伴が恐ろしかったので紅葉の門に這入はいったのだ」といっていたが、同じ紅葉門下でも、その点鏡花きょうかは秋声と全く違う。この人は心の底から紅葉を崇拝していた。紅葉の死後も毎朝顔を洗って飯を食う前に、必ず旧師の写真の前にひざまずいて礼拝することを怠らなかった。つまり「婦系図おんなけいず」の中に出て来る真砂町まさごちょうの先生、あのモデルが紅葉山人なのである。或る時秋声老人が「紅葉なんてそんなに偉い作家ではない」というと、座にあった鏡花が憤然として秋声をなぐりつけたという話を、その場に居合わせた元の改造社長山本実彦やまもとさねひこから聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらいなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食わされていたであろう。鏡花と私では年齢の差異もあるけれども、ああいう昔気質かたぎの作家はもう二度と出て来ることはあるまい。明治時代には「紅露」といわれて、紅葉と露伴とが二大作家として拮抗きっこうしていたが、師匠思いの鏡花は、そんな関係から露伴には妙な敵意を感じていたらしい。いつぞや私が露伴の話を持ち出すと、「あの豪傑ぶった男」とか何とか、言葉は忘れたがそんな意味の語をらしていたので、鏡花の師匠びいきもここに至っていたのか、と思ったことがあった。

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 紅葉の死んだ明治三十六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目団十郎が死んでいる。文壇で「紅露」が併称された如く、梨園りえんでは「団菊」といわれていたが、この方は舞台の人であるから、幸いにして私はこの二巨人の顔や声音こわねを覚えている。が、文壇の方では、わずかな年代の相違のために、会いそこなっている人が随分多い。硯友社けんゆうしゃ花やかなりし頃の作家では、巌谷小波いわやさざなみ山人にたった一回、大正時代に有楽座で自由劇場の第何回目かの試演の時に、小山内薫おさないかおるに紹介してもらって、廊下で立ち話をしたことがあった。山人は初対面の挨拶あいさつの後で、「君はもっと背の高い人かと思った」といったが、並んでみると私よりは山人の方がずっと高かった。『少年世界』の愛読者であった私は、小波山人と共に江見水蔭えみすいいんが好きであったが、この人には遂に会う機会を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、おれは先に行くよ」といったという話を聞いているから、当時水蔭はまだ生きていたはずなので、会って置けばよかったといまだにそう思う。小栗風葉おぐりふうようにもたった一遍、中央公論社がまだ本郷西片町ほんごうにしかたまちの麻田氏の家の二階にあった時分、滝田樗陰たきたちょいんに引き合わされてほんの二、三十分談話を交した。露伴、藤村とうそん、鏡花、秋声等、昭和時代まで生存していた諸作家は別として、僅かに一、二回の面識があった人々は、この外に鴎外おうがいびん魯庵ろあん天外てんがい泡鳴ほうめい青果せいか武郎たけおくらいなものである。漱石そうせきが一高の英語を教えていた時分、英法科に籍を置いていた私は廊下や校庭で行き逢うたびにお時儀じぎをした覚えがあるが、漱石は私の級を受け持ってくれなかったので、残念ながら謦咳けいがいに接する折がなかった。私が帝大生であった時分、電車は本郷三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかったので、漱石はあすこからいつも人力車じんりきしゃに乗っていたが、リュウとしたつい大嶋おおしまの和服で、青木堂の前でくるまを止めて葉巻などを買っていた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大学の先生にしては贅沢ぜいたくなものだと、よくそう思い思いした。

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 京橋の大根河岸だいこんがしあたりだったと思う、鏡花のひいきにしている鳥屋があって、鏡花、里見さとみ芥川あくたがわ、それに私と四人で鳥なべを突ッついたことがあった。健啖けんたんで、物を食う速力が非常に速い私は、大勢で鍋を囲んだりする時、まだよく煮え切らないうちにそばから傍から喰べてしまう癖があるのだが、衛生家で用心深い鏡花はそれと反対に、十分によく煮えたものでないとはしをつけない。従って鏡花と私が鍋を囲むと、私が皆喰べてしまい、鏡花は喰べる暇がない。たびたびその手を食わされた経験を持っている鏡花は、だからあらかじめ警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に仕切りを置くことにしているのだが、私は話に身が入ると、ついうっかりと仕切りを越えて平げてしまう。「あッ、君それは」と、鏡花が気がついた時分にはもう遅い。その時の鏡花は何ともいえない困った情ない顔をする。私は相済あいすまなくもあるが、その顔つきがまたおかしくてたまらないので、時にはわざと意地悪をして喰べてしまうこともあった。その鳥屋でもそうであったが、芥川は鏡花が抱き胡坐あぐらをしているのに眼をつけて、「抱き胡坐をする江戸ッ児なんてあるもんじゃないな」といっていた。人も知る通り鏡花は金沢人だけれども、平素江戸ッ児がっていた人である。鏡花の大作家であることについては、芥川も私も無論異存はなかったけれども、江戸ッ児という感じには遠い人であることにも、二人とも異論はなかった。

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 肌合いの相違というものは仕方のないもので、東京生れの作家の中には島崎藤村を毛嫌いする人が少くなかったように思う。私の知っているのでは、荷風かふう、芥川、辰野隆たつのゆたか氏など皆そうである。漱石も露骨な書き方はしていないが、相当に藤村を嫌っていたらしいことは「春」の批評をした言葉のはしはしにうかがうことが出来る。最もアケスケに藤村をののしったのは芥川で、めったにああいう悪口を書かない男が書いたのだから、よほど嫌いだったに違いない。書いたのは一度だけであるが、口では始終藤村をやッつけていて、私など何度聞かされたか知れない。そういう私も、芥川のように正面切っては書かなかったが、遠廻しにチクリチクリ書いた覚えは数回ある。作家同士というものは妙に嗅覚きゅうかくが働くもので、藤村も私が嫌っていることをぎつけており、多少気にしていたように思う。そして藤村が気にしているらしいことも、私の方にちゃんと分っていた。しかし藤村にはまた熱狂的なファンがあって、私の旧友の中でも大貫晶川おおぬきしょうせんなどは藤村を見ること神の如くであった。彼は私と同じく東京一中の出身であるが、生れは多摩川の向う川岸のみぞくちあたりであるから、東京人とはいえないのである。正宗白鳥まさむねはくちょう氏は私の藤村嫌いのことを多分知っていて、故意に私に聞かせたのではないかと思うが、数年前熱海の翠光園で相会した時、今読み返してみると藤村の作品に一番打たれるといっておられた。

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『中央公論』の名編輯長とうたわれた滝田樗陰ちょいんとは、彼が大正十四年に四十四歳で病死する二、三年前まで、十年前後の附合いであったから、かなり親しくしていたには違いないが、一緒にお茶屋遊びをしたようなことは殆ど数えるほどしかない。何かの会合のくずれで、近松秋江ちかまつしゅうこう長田幹彦ながたみきひこ、私、それに樗陰が加わって、神楽坂かぐらざか待合まちあいで遊んだことがあったが、誰も懐中は乏しかったので、翌朝連名の手紙を女中に持たせて矢来やらいの新潮社に無心むしんを申込んだことがあった。樗陰が一枚加わっていて、どうして新潮社に申込んだのか、その間の事情は思い出せないが、とにかく樗陰がいたことだけは確かである。幹彦氏や私の売り出しの時分で、「この御両人の名があれば大丈夫貸してくれますな」と秋江がいったが、果して使いは直ぐ金を持って帰って来た。この時の外に樗陰と待合に泊った記憶は一つもない。原稿を頼みに来る時、樗陰は必ず人力車を飛ばして来、俥を待たせたまま私を玄関に呼び出して、立ち話で用を足すとまた直ぐさっと出て行ってしまう。めったに上り込んで座敷へ通ることはなかった。私の方からも西片町の彼の家をしばしばたずねた覚えはあるが、彼は決してお上り下さいとはいわなかった。玄関の板の間に座布団を出して私を坐らせ、自分は畳の方にいて、通せん坊をするようにひざを乗り出して話を聞く。時にはそんな風にして一時間以上もしゃべり続ける。こっちから出かけて行くのは、どうせ原稿料の前借りをする時に決っていたが、或る時、多分借り越しが重なっていたのでもあろう、「ではこうして下さい」と、七子ななこのかなり大型の両ぶたの金時計を持って来て私に渡し、「麻田さん(当時の社長)にもそうたびたびはいいにくいから、これで一時都合して下さい」といったことがあった。私は見え透いた細工をされているようで不愉快であったが、急場の必要に迫られているので、仕方なくそれを受け取って、その頃一高の近所にあった、学生時代から私の行きつけの質屋に持って行き、その時計(鎖附きであったかどうか忘れた)で六十円借りた。私はそれを借りた帰りに西片町にいた長田秀雄を訪ねたが、「今樗陰のところでこれこれであった」と、多少憤慨の気味で話をすると、「樗陰も変なことをするじゃないか、僕が出して上げるからそんなものは返してしまい給え」と、秀雄が即座に工面してくれた。

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 今なら自家用車というところだが、樗陰はいつも人力車であった。それも最初はおかかぐるまではなかったらしく、近所の車宿から雇っていたが、後には専用の車夫と車台を持っていた。あから顔の、でっぷりと太った肥大漢の彼が、颯爽さっそうと風を切って本郷の大通りを走らせて行く風貌ふうぼうは、往来でも一と際目立ったので、「あ、樗陰だな」と、遠くから直ぐ分った。私の眼には、この人力車の上の彼の姿が一番印象に残っている。当時は今より和服の人が多かったのであるが、樗陰は常に和服であった。洋服姿の樗陰というものを私は思い出すことが出来ない。顔の輪郭は、今の豊竹山城少掾とよたけやましろのしょうじょう、当時の古靱こうつぼ太夫によく似ていたので、山城氏を見ると必ずありし日の樗陰を思い出す。尤も山城氏は生粋きっすいの浅草ッ児、樗陰は秋田の産であるから、樗陰の方がどこか荒削りなところがあり、山城氏のような円満柔和な相を具えてはいなかった。言葉も最後までズウズウ弁が抜け切れなかった。殊に耳についたのは、「だった」というのを「であった」といった。「昨日きのうは愉快だった」というのを「昨日は愉快であったナ」という風にいう。私はよく樗陰のこの「であった」の真似まねをして人々を笑わせた。山城氏は今日でも当代の美男子たるにそむかないが、樗陰も秋田系の好男子であった。たしか下谷したや辺に好きな人があると聞いていたが、前述の如く私はそういう附合いをしたことがないので、その人に会ったことはなかった。その辺の消息は、故人では田中貢太郎たなかこうたろう、現存の人では村松梢風むらまつしょうふう氏あたりが委しいはずである。但し上山草人かみやまそうじんの正妻であった山川浦路やまかわうらじの妹で、後に女優になって夭折ようせつした上山珊瑚かみやまさんご、――彼女には大分思召おぼしめしがあったらしい。あるいはただの関係ではなかったかも知れない。雑誌『中外』の社長内藤民治氏が出資して草人夫婦を渡米させた時、出帆間際まで内藤氏の金が届かないので草人が大騒ぎをしたいきさつは、「上山草人のこと」に書いてあるから省略するが、その時浦路に泣き着かれて樗陰が五百金を投げ出したのは、珊瑚のことが意中にあったからかも知れない。というのは、手の早い草人は珊瑚にもチョッカイを出していたので、夫婦をアメリカへ立たせてしまえば、珊瑚を自由になし得るという腹であったかとも思える。

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 昔の雑誌編輯者というものは一見識を具えていて、なかなか圭角けいかくがあった証拠として、樗陰の例を二つ三つ引いて置こう。私が知っているのでは、樗陰が最も嫌っていたのは鈴木三重吉すずきみえきちであった。三重吉の悪口を私はたびたび樗陰から聞かされた。三重吉も彼のことをかなりしざまに語っていた。しかしこの二人が不和になった原因は何であったか忘れたが、三重吉の次に樗陰と激しい衝突をしたのは小山内薫で、この場合は小山内の作品が樗陰の意に満たず、その理由を詳細に書き送って、原稿を突ッ返したのが事の起りであった。この時のことを「滝田君を憶う」という題で小山内自ら書いているから、ちょっとその一部を引用すると、
「とうとう仲直りをせずにしまった。」
滝田君が亡くなったと聞いて、私が直ぐ思ったことはこれだった。
(中略)
喧嘩というほどの喧嘩をしたのでもなかった。今になって考えて見ると、私の方にも随分落度はあった。
高師直こうのもろなお」という小説を二回続きで『中央公論』へ出してもらった時だった。第二回目の原稿――それも実は第一回分と一緒に出すはずだったが遅れたのだ――が、ひどく遅れて、締切間際になっても、日に五枚七枚とぼつりぼつりしか出せなかった。滝田君はとうとう肝癪玉かんしゃくだまを破裂させてしまった。もう少しで原稿を渡し切るという間際に、今度の作はだめだというような猛烈な悪評を書いた手紙に、渡しただけの原稿を添えて送り返して来た。
始めてそんな目に会ったので、こっちもすっかり肝癪を起してしまった。原稿が遅れたのは如何にも悪いが、何もおれの作を罵倒する必要はない。おれが『中央公論』へ寄稿するのは、おれの作を滝田樗陰に見てもらって、その批判を仰ごうとするがためではない。原稿が遅れたので腹が立つなら、あくまでもその罪を責めるが好い。おれの作の悪口を言う必要はない。とばかりで、すっかり真赤になってしまった。
(下略)
と、こうである。しかし私が樗陰から直接聞いたのでは、小山内の「原稿が遅れたので腹が立っ」たのではなく、書き方がいかにも拙劣で、やッつけ仕事で、読むに堪えないから突ッ返したのだといっていた。小山内が心から打ち込んでいた仕事は演劇にあって、小説の方は、幾分か生活の足しに書いていたようなものであるから、たしかに「高師直」などは余り出来のいい作品ではなかった。芥川もこの喧嘩では樗陰の味方をして、「小山内の書くものには Intensity(緊密さ)というものが全く欠けている」といっていたが、私もそれには賛成であった。多分その時であったと思うが、「Intensity の濃度という点では、志賀直哉しがなおやが一等だな」と私がいうと、芥川も「その通りだ」と大いに同感の意を表していた。それはまあ余談であるが、いくら駄作だとはいっても、小山内薫ともあろう人の創作を、しかも前半を掲載して置きながら、後半を不出来であるという理由で突ッねるというのは、相当の勇気を要することである。それにしても、小山内の「高師直」の時代から見ると、今日の時代物文学の発達はまことに眼ざましいといわねばならない。もはや現代では「高師直」程度の作品は通用しなくなっている。

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 ところで、かくいう私も、樗陰の晩年になって、すっかり彼に嫌われてしまったらしい。尤も私は原稿を突ッ返された覚えはない。が、大正十二年正月号に中篇物を掲載したのを最後として、十四年に彼が病死するまで、遂に彼から原稿の依頼を受けたことはなかった。それどころか、彼は長文の手紙を二、三度も寄越して、「近頃の君の書くものは感心出来ない」と、かなり露骨にいって来た。たしかその時分、里見君が『時事新報』に「多情仏心」を連載し、私が『朝日新聞』に「肉塊」というものを連載中であったが、樗陰は「里見君のものに比較して君の作ははなはだしく見劣りがする、しっかりし給え」というのであった。私を激励するつもりも多少あったかも知れないが、「どうも歯痒はがゆくて見ていられない、もう君なんぞに用はない」といった悪意も含まれているように聞えた。こんな工合に、原稿の注文をしないだけでなく、積極的に、進んで喧嘩を売りに来るなんて編輯者は、樗陰の外には見たことがない。私はしかし、当時スランプに陥っていて、我ながら自分の書くものが気に入らなかったので、樗陰の手紙にもそう腹は立てなかった。で、「事実このところ巧く書けないで困っている、君の言にも一理はあると思う」というような返事を出した覚えがある。

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 喧嘩を売るといえば、大正五年に、生田長江いくたちょうこうが『新小説』の誌上に「自然主義前派の跳梁ちょうりょう」という題で、白樺派しらかばは――というよりは、主として武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ氏を目がけてすさまじい攻撃の矢を放ったのは、すこぶる威勢のいいものだったので、忽ち文壇にセンセーションをき起した。「ここに武者小路実篤という人がある。私はこの人の書いた物を、ほんの少しばかりしか読んでいないが、その事のために私の非難されねばならない理由は、一もないということを確信して置いてから私の議論を進めよう。」と、いったような調子で、
いわゆる白樺派のもっている悪いところとは何であるか。精一杯手短かな言葉に代表さしていえば、「お目出度めでたき人」という小説か脚本かを書いた武者小路氏のごとく、皮肉でも反語でもなく、勿論何らの漫罵でもなく、思切って「オメデタイ」ことである。
再びことわって置く。私は右の「お目出度き人」という小説だか脚本だかをまだ読んでいない。そしてまだ読んでいないのをちっとも悪い事だと思っていない。加之しかのみならず、あの小説だか脚本だかを読んでいないでも、武者小路氏及び氏によって代表されているいわゆる白樺派の文芸及び思潮が、本当にオメデタイものであることを言明し得られると思っている。
と、徹頭徹尾こんな書きぶりで、約二十枚ぐらいの長さにわたって書き続けているのだが、せんじ詰めれば上に引用したような言葉に尽きる。つまり相手に腹を立てさせるのを目的にして漫罵を連ねているのである。「あんなスキマだらけな乱暴な書き方をしないでも、もう少し書きようがあったではありませんか」と、或る時私が長江にいうと、「いや、議論を吹ッかける場合には、わざとスキマをこしらえて置く方がいいんです、そうしないと敵が乗って来ないんです」といっていたが、なるほど評論家にはそういう心得が必要なのかなと、感心したことがあった。若き日の武者君も黙っていない方だったからなかなか辛辣しんらつに応酬し、長江が「僕をからかうのは、五、六年おくれて僕の落し穴におっこったようなものだ」とか、長江を「ゼロ頭」だといい、「氏はこれから氏の頭のいい処を見せてくれるそうだから、黙って見ていようと思う。どっちのいうことが本当か。「時」が知らせてくれる」などと応じている。私は最初から武者小路びいきだったので、長江の説には賛成出来ず、評論家があんなことを書いて一時の快をむさぼるのは自らを軽んずる所以ゆえんである、もう二、三年も立てばどっちのいうことがほんとうか自然に分る、それこそ「時」が知らせてくれる、その場合のことを考えたらうっかりあんなことが書ける訳のものではない、と思っていたが、果して私の予想していた通りになった。が、今から思い返してみると、長江があんな喧嘩を吹ッかける気になったのは、彼の病気が重な原因だったのではあるまいか。つまり、これは私の臆測であるが、ハンセン氏病を病んでいた彼は、こんな病気に負けてなるものか、敢然として世に闘いをいどんでくれよう、という料簡りょうけんから、恰好かっこうな挑戦の相手として白樺派に白羽の矢を立てたのではあるまいか。余りにも穿うがち過ぎのようだけれども、私にはどうもそんな気がする。そうだとすれば、矢を立てられた武者君こそ飛んだ迷惑だったといわねばならない。長江の病気のことは、世間一般はどうか知らず、われわれ仲間は皆よく知っていた。あの病気の黴菌ばいきんは、伝染力は極めて弱いものだけれども、鼻汁から感染しやすいものであるから、長江の行く床屋とこやへ行かないようにする方がいい、長江の鼻毛をった剃刀かみそりで鼻毛を剃られたら危険である、ということで、われわれは長江の行きつけの床屋を調べたりしたことがあった。長江はまた、わざとわれわれに馴れ近づいて、われわれが彼の病気をどの程度恐れているか、その度合いを試験して自ら快とするような傾向があった。彼にしてみれば、これも「病気に負けてなるものか」という心理が働いていたのかも知れないが、彼がわれわれから嫌われたのは、そういう行為が重な原因であったと思う。私なども、彼と食事を共にするようなハメになることを努めて避けていたが、『中外』の内藤民治氏に誘われて、やむをえず赤坂や新橋のお茶屋へ彼と同行したことが二、三度はある。長江の顔はまだその時分はそれと分るように相好そうごうが崩れてはいなかったが、両方の眉根の上に赤くテラテラしたつのが出来、手の指が二、三本硬直して動かなくなっていた。「どうなさいましたの」と芸者が尋ねると、「どうもリュウマチでね」とか何とか胡麻化ごまかしていたが、その手で飲んだ杯を平気で誰にでも差した。私はその頃禁酒中だったので、幸いに難を免かれたが、芸者は勿論、勇敢な内藤氏はいつもそれを受けて返していた。私も或る日、草人と彼と三人で自動車で何処かへ出かけた時、「ちょっとその時計を見せて下さい」といわれて、仕方なくめていた腕時計をはずして渡したことがあった。すると長江はそれを受け取って、散々いじくり廻した揚句、自分の手に篏めてみてから私に返した。これなどは、全く人を困らせるのが目的であるとしか思えなかったので、私はひどく腹を立てて、返された時計をわざと気味悪きびわるそうに指の先で摘まみ上げて見せた。そして車を降りてから、それをアルコールに漬けてから篏めた。それなどはまだいい方で、佐藤春夫は有楽座の廊下で彼から吸いかけの葉巻を与えられて、処置に窮していたのを現に私は傍で見ていた。佐藤は彼と師弟の関係にあり、彼の家の書生をしていた因縁もあるのだが、それにしても余りに非常識千万であった。尤も世間には内藤氏以上に勇敢な人もいるもので、武林無想庵たけばやしむそうあんは酔っ払った勢いで長江に抱き着き、「君は癩病だそうだねえ」とわめきながらッぺたにキッスしたそうである。芥川は芭蕉ばしょうの門人で長江と同じ病気をわずらっていた森川許六もりかわきょりくの例を引き、「昔許六は自分の姿の醜いのを恥じ、屏風を隔てて人と語るのを常としたが、客が是非お顔を見せて下さいというと、始めて屏風の蔭から出て来て臆する色もなく対面し、従容しょうようとして俳論を闘わしたというが、この話を長江にも聞かせてやりたいな。長江もそういう風にしたら天下の同情が翕然きゅうぜんとして集ることは明かだのに、彼は最も下手へたな遣り方をしている」といっていた。そういえば、長江には可愛いお嬢さんがいたので、われわれは蔭ながら心配をし、病気が移らないうちに何とかあの児を別居させてしまう方がよくはないか、その方があの児のためにも長江のためにも結局は幸福なのではないか、誰かが思い切って長江に忠告したらどうか、と、よくそういっていたものだが、長江と最も親しくしていた中村古峡なかむらこきょうが遂にその話を切り出したことがあった。すると長江は、「僕は僕の病気のことを世間が知っていることもよく知っている。しかしそういう世間と闘うことを唯一の生き甲斐がいにして生きて来た。娘のことも考えないではないが、今あの娘を取られたら僕はこの世に何の楽しみもなくなってしまう。僕はあの児を傍に置いておく代りに、あの児が欲しいというものはピアノでも何でも買ってやっている。あの児を僕から奪おうというのは残酷だ」といって声涙共にくだったので、古峡も気の毒でたまらなくなり、返す言葉もなく引きさがったという。長江の亡くなったのは昭和十一年、今から二十三年前であるが、あの時のあのお嬢さんはどうしておられるであろうかと、この頃でもときどき思い出すことがある。(昭和三十四年九月稿)
(『コウロン』昭和三十四年十一月)





底本:「谷崎潤一郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日第1刷発行
   1985(昭和60)年10月21日第2刷発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第二十一卷」中央公論社
   1968(昭和43)年7月25日発行
初出:「コウロン」
   1959(昭和34)年11月
入力:きりんの手紙
校正:hitsuji
2022年6月26日作成
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