八月八日朝いでゆにて上京。予、家人、珠子さん、フジの四人なり。七月中は近年稀なる炎暑つゞきのところ本月四日夜おそく久し振に降雨を見、華氏にて九度程低下大いに凌ぎよくなったので、もう大丈夫と思ったのに今朝は又暑さブリ返したり。昨夜既にいでゆの切符を買って置いたので暑熱を冒し出かける。十時廿七分新橋下車直ちに虎の門長谷川に至り一先ず休憩。予は過去二三年来夏の盛りにはなるべく東京へ出ないようにしていたのが、今年になってから高血壓漸次快方に向い先月も一度上京、今度で二度目なり。昔の夏の東京は大阪京都に比べて多少涼しい筈であったが、今日はそうでもなし。新橋より電車通りを虎の門に赴く間何回となく自動車が停止する毎に車内の熱気堪え難し。小憩の後家人と珠子さんとフジとは買い物
旁々銀座ケテルにて晝の食事をしたゝめるとて外出、一時半には戻るとの約束なり。予は丸の内日活に「青い大陸」の後半を見て宿に帰りトーストパンを一片オレンジジュースを一罎飲んで日課の晝寝に入る。しかし茹だるような熱気に加え此の旅館は目下増築中のため工事の音響喧しきこと限りなし。此の旅館と道路を一つ隔てた向う側にも数階のビルディング建築中なり。コンクリートを流し込む音鉄筋を打ち込む音しきりなしに耳を
聾す。共済会館と元満鉄ビルとが近き故にや前を通る自動車オートバイ等の地響きと騒音も相当なものなり。已むを得ず用心のために持参した久しく用いたことのなかった睡眠剤を少量服す。三四十分トロトロとする。
今度の上京の主たる目的は、悦子の結婚用の衣裳や箪笥等を京都の家と熱海の家と東京の親戚とにバラバラに保管して置いたのを、全部取り纒めてKR会社の京橋倉庫に委託することになり、他の家財道具類もそれと一緒に少しは運び込んだので、明朝整理のため
該倉庫に赴くのであって、今日一日はさしたる用事もない。家人と珠子さんはかねてよりストリップショウと云うものを見せてほしいと云っており、本日午後予を促して日劇小劇場ミュウジックホールへ行くことにきめている様子なり。これは去年あたりから、女だけでは這入りにくいから一度連れて行けと頻りに促していたのだが、此の春河原町の京劇で「裸の女神」(原名 Ah! Les Belles Bacchantes!)と云うパリで評判のバレスクの映畫を見てから、急に日本のミュウジックホールの実演が見たくなったものと察せられる。予は女の観客は稀にパンパンが外人同伴で来ている程度で、夫人令嬢はめったに見かけたことがないからまあ止した方が宜しからん、たって行きたいなら誰か他の人と行くがよし、一家の主人が妻や妻の妹を案内することは餘りよい趣味ではないと思うと云って、今日まで自分一人では行くけれども家族との同行は御免蒙っていた次第。然るに先月北白川の美津子(珠子嫁)が今年ばかりは京都の炎熱に閉口して
美袁利同伴伊豆山へ避暑に来、或る日美袁利を珠子さんに預けて東京へ出かけたついでに勇敢にも小劇場を見に這入り、東郷青児、村松梢風、三島由紀夫と云ったところが作者陣に名を連ねている「恋には七つの鍵がある」を見て帰ってから、ストリップとは云うけれども踊り児たちが案外可愛らしい女ぞろいでそんなにイヤらしいものではないこと、女性の観客も数人はいたこと、ジプシーローズと云う娘が殊にきれいであったことなどを語り「あれなら伯母さんやお母さんが見にいらしってもおかしいことはないわ」と焚きつけたので、「それ御覧なさい、あたしたちだって連れてって頂戴よ」と、遂に今日の仕儀となりたり。
約束通り家人等午後一時過帰宿。直ぐ又四人で出かける。日劇前で「君は何処か好きな所へ映畫でも見に行っておいで」とフジを捌き、三人にて小劇場指定席の一番後列のなるべく目につかぬ座席を買う。出し物は美津子の時とは既に変り構成演出並びに脚本丸尾長顕「誘惑の愉しみ」全二十景、Aqua-girl's bottom-up mambo などゝプログラムにあり。入場後十五分程にて開演となる。予等の前方の席は外人ばかりなれども満員とは行かず先ずは六七分の入りなり。日本人は全部普通席にて此の方も七八分の入り。開演後もポツポツ入場する者あり、指定席にもアメリカ人らしき男女の客入り来り予等と同じ列に席を占む。つゞいてGIが二三人パンパンを連れて予等の直ぐ前列に居並ぶ。見渡すところそのアメリカ婦人とパンパン嬢を除いては家人と珠子さん以外指定席にも普通席にも婦人客は一人もおらぬようなり。恐らく和装の中年以後の婦人の姿を二人迄も見ることは珍しき出来事なるべし。一体こゝの小劇場は日劇の
頂辺までエレベーターで上り、そこから又もう一階歩いて昇らねばならない所にあって、天井の低い、屋根裏のような窮屈な小屋なので何となく息苦しい感があり、同じミュウジックホールでも大阪のOSKの方が居心地よし。冷房はしてあるけれども十分には利かぬようにて、場内に這入った瞬間ちょっとヒヤリとしたゞけで席につくと間もなく蒸し暑さを感じ絶えず扇を使う。第一景マンボくらべより第二十景グランフィナーレまで時間にして二時間たっぷり数々のヌードの
艶冶なる姿態の千変萬様が乱雑に記憶に存するのみで、第何景に何と云う娘がどんな役を演じたのか何も頭に残っていない。こう云うものは見たら直ぐに忘れてしまって何も残らない方がよいのであろう。家人は途中から居眠りをし出し「やっぱり『裸の女神』の方がよかったわ、フランスのヌードには敵わないわね」と小声で不平らしく云い「それでも踊り児は綺麗だけれど男優が案外大勢出るのが面白くないわ」と云う。これは予も同感にて今回の出し物は特に男のする役が多過ぎるように思う。美津子が推賞のジプシーローズはこゝのプリマドンナらしいけれどもやゝ老けていて体に脂肪があり過ぎるのと、混血児らしい容貌なのとが予の趣味に合わず、家人も珠子さんも此の点同感の由なり。春川ますみと云う娘に予は最も魅せられたり。(このこと家人には語らず心中ひとり左様に思いしのみ)他の場面は皆忘れ去ったが第十六景に「裏窓」と云う場あり。ホテルの一室に投宿したる老人の客、ふと向う側の窓を覗くと、妙齢の美女入浴中にて体の彼方此方を洗うにつれて胸、腰、背、脚、足の先から足の
蹠まで見えるので悦に入っていると、やがて彼女の旦那と見えて禿げ頭の男が同じ浴室に姿を現わし何か甘ったるい言葉をかける、ホテルの客途端にガッカリして眼を廻すと云う
寸劇で、入浴中の美女は春川ますみなり。昨今日本にもかように胸部と臀部と脚部の発達した肉体は珍しくないが、予は総じて猫のような感じのする顔、往年のシモーン・シモン式の顔の持主にあらざれば
左程愛着を感ぜざるなり。
夕刻再び長谷川に戻って小憩。田村町の某と云う中華料理店に夕食をたべに行く。高血壓以来中華料理は兎角過食する恐れがあるので久しくたべたことがなく先月の陶々亭が病後初めてにて今回が二度目なり。麻
油と醤油に漬けた
海月、椎茸、白鶏、鮑、トマト、胡瓜等々を一皿に盛った前菜、蝦の巻揚げ、
芙蓉魚翅と云う鱶の鰭に卵の白身のスープ、胡桃と鶏のたゝきの煮付、豆腐と鶏肉のどろ/\煮、杏仁湯と
棗の餡の這入った八宝飯、最後に口が曲るように辛い支那の漬物とお茶づけ御飯。予は此の支那の漬物が昔は大好物であったが、血壓症には禁忌なるを以て手をつけず。父が九州の炭坑に勤めているフジは、福岡辺でもこれとよく似た漬物を食う由にて、田舎を思い出して懐しいと云い頻りにこれを貪り食う。食後予は真っ直ぐ長谷川に戻り家人と珠子さんは銀座を一と廻りして来る。フジは赤坂の親戚の家に預ける。
九日朝九時頃フジが長谷川に来るのを待ち受け家人等三人は倉庫へ荷物の整理に行く。予は午前中在宿、東洋公論社その他一二の
出版書肆の来訪を乞うて用談を済ませ正午少し前日比谷映畫劇場に問題の映畫「悪魔のような女」を見に行く。熱海にも映畫館は四軒あるのだが外国物の餘り一般向きでないのはめったに来らず、それに冷房や煖房の装置がないので真夏と真冬は到底老人は入場するに堪えられない。たまに上京する機会を待って、―――と云うよりも、予に関する限りむしろ演劇や映畫見物を主たる目的として上京することしば/\なり。「悪魔のような女」(原名 Les Diaboliques)は嘗ての「恐怖の報酬」の製作者でスリラー物を得意とするアンリ・ジョルジュ・クルウゾオの脚色監督したもの。最後の瞬間まで犯人が誰であるか分らないように出来ており、此の映畫を御覧になった方々はこれから御覧になる方々の興味を
殺がないために筋を人に語らないで戴きたい、と云う断り書が冒頭に現われる。大体の事柄は、巴里郊外でドラサール学園と云う私立小学校を経営している校長ミシェルと、その妻でその学校の所有者であり女教師でもあるクリスチナと、同じ学校のもう一人の女教師で且校長の情婦であるニコルと、三人を中心とする物語で、校長ミシェルにはポール・ムーリッス、妻のクリスチナには監督クルウゾオの夫人ヴェラ・クルウゾオ、情婦の女教師ニコルにはシモーン・シニョレが扮している。妻のクリスチナは南米生れの物持ちで学園に資金を投じているが、心臓病を患っていて気が弱く、残酷な暴君である夫ミシェルの云うなり次第になっている。彼女は
剰え同僚ニコルに夫を寝取られており、もうそのことは彼女は勿論学校中教師も生徒も誰知らぬ者もない。ミシェルは妻よりも情婦の女教師の方に傾いているらしいけれども、さればと云ってそんなに彼女を可愛がる風でもなく、乱暴に取り扱うことは妻に対する時と大した変りはない。妻クリスチナは夫の悪虐に堪えかねていた折柄、いっそ二人であの男を殺してしまおうではないかと云う相談を情婦ニコルから持ちかけられ、最初は身ぶるいしていたが結局ずる/\に引き込まれる。
三日つゞきの休暇の日にニコルはクリスチナを誘い、学校の荷物運搬用の自動車に人間が這入れるくらいな大型のバスケットを積んで、ニオールと云う田舎町にある彼女の家へ泊りに行く。そしてそこからミシェルを電話に呼び出して離婚を請求するようにクリスチナに云いつける。ミシェルは金主のクリスチナと離婚する意志はないので、思いとゞまらせるためにニオールへ飛んで来る。ニコルは此の機会を逸してはならぬと云い、ウイスキーに強烈な睡眠剤の点滴を混入したものをクリスチナに与え、躊躇する彼女を怒り励まして夫に飲ませる。二人の女は昏睡したミシェルを抱きかゝえて浴室に運び、水を張った浴槽の中に沈めて、ニコルが男の首を水中に抑えつけて窒息させる。そして屍体をバスケットに詰めて自動車に入れ、夜を徹して学園に帰り、校庭のプールに投げ込んでしまう。誰も気づいた者はなく計畫通りに事が運んだので、ミシェルは酔っ拂って水に落ちたものとして、やがてプールに屍骸が浮かび上るべきであったが、夜が明けても浮かんで来ない。奇怪なことがそれから次々に起って来る。
クリスチナは故意に己れの部屋の鍵をプールに落し、学童に命じて水中を探らせる。水に潜った学童は鍵を手にして出て来るが、その鍵はクリスチナの鍵ではなく、ミシェルの部屋の鍵である。クリスチナは門番の男にプールの水を一滴も残らず乾させて見るが、屍骸はいつの間に何処へ行ったのか影も形もない。二三日すると洗濯屋から見覚えのある背廣服が届けられる。それはあの夜ミシェルが着ていた背廣である。教師と生徒が校舎の前に集って記念撮影をし、それを現像させて見ると、うしろの窓ガラスに校長の顔がぼんやり写っている。生徒の一人が、窓ガラスを
破したのを校長さんに見付けられて叱られたと云って来る。深夜ミシェルらしい人の足音が聞えたり校長室でタイプライターを叩く音がしたりする。心臓の悪いクリスチナは日夜恐怖に
苛まれて半病人になって行く。最後に、一夜彼女は浴室の浴槽にあの夜の通りの状態で水に漬かっているミシェルの幻影?―――を発見する。ミシェルが満身にびっしょり水をしたゝらしつゝ浴槽から立ち上る瞬間、キャーッと云う叫び声を放って急激に体を「く」の字に折り曲げ、横倒しに扉に
靠れ眼を吊り上げてクリスチナが悶絶する。と、彼女と仲違いをしていたニコルが忽ち何処からか現われてミシェルに抱き着き接吻する。「心臓病だと云いながらしぶとい奴だった。案外骨を折らせやがった」とミシェルが云う。そこへかねてから不審に感じていた私立探偵の男が這入って来て二人を逮捕し、「十五年か二十年の刑を受ければ出られるだろう」と云って引き立てゝ行く。
クリスチナが悶絶し、ミシェルとニコルが抱擁するところでドンデン返しになるのであるが、観客はその数分前ぐらい迄はどう云う結末になるのかとワクワクさせられる。が、見終ってから考えると、此の映畫はあまりに観客のスリル本位に作られていて、多くの不自然があることに気がつく。何より校長と情婦とがそんなヤヤこしい手数のかゝる方法で細君を謀殺し、それが発覚しないで済むと思っていたのが
可笑しい。それならいっそ最後まで発覚しなかったことにした方が、まだ芝居になりそうである。直ぐに露顕して捕えられてしまうのでは餘り馬鹿々々しい。探偵が校長と情婦の奸計を嗅ぎ付けるに至る径路もはっきりしない。妻は心臓病患者であったとしても、彼女をショック死させるために水槽に漬かって殺された真似をしたり、死んだ振りをして何時間もバスケットで揺られて行ったり、プールに投げ込まれたりして、それが首尾よく(此の場合のように)成功すればよいが、註文通り行かない場合も有り得ることなり。妻をショック死させる前に謀略がバレることもあろうし、ショックを起しても死ぬ迄には至らぬこともあろう。さような危険率を計算に入れずにそんな手数のかゝる仕事に耽るであろうか。プールに投げ込まれてから再び妻の前に幻影となって現われるまで何処に隠れていたのかも明瞭でない。要するにこれは見物人を一時脅やかすだけの映畫にて、おどかしの種が分ってしまえば浅はかな拵え物であるに過ぎない。
しかし此の絵が評判になり多くの映畫ファンの好評を博したのは、しまいには一杯食わされることになるけれども、観客をそこまで引き擦って行く手順の巧妙さと俳優の演技に依る。或る雑誌には「恐怖満点のスリラー映畫」、「本当にぞっとする映畫」、「気の弱い女性は男性の連れでもなければ帰りの夜道が恐いような映畫」などゝ書いてある。予は先月「女優ナナ」の時に此の豫告篇を見、ニコルに扮するシモーン・シニョレの異常に残忍な感じのする風貌に惹かれたが、「悪魔のような女」と云う日本訳の題名も、あの風貌にはよく当て篏まる。大柄で薄汚れのしたような顔、濁った疲れたような皮膚、冷酷で、豪胆で、いかにも腹黒そうな女、―――あゝ云うタイプを主役に持って来なければあの絵が狙う凄味は出せない。あの女なら情夫の頭を両手で掴んで水槽に押し込むことくらい出来そうに思える。クリスチナのヴェラ・クルウゾオも人柄が適してい、夫や情婦に壓迫されている病弱な妻女と云う様子が見えるが、此の女のしどころは心臓麻痺でショック死を遂げる刹那の動作と表情にあり。予は西洋の女のかような死にざまを、実際は勿論映畫の上でも見るのは始めてなり。悶絶した彼女はポキンと二つに折れ
屈まって横さまになるが、背後に扉が締まっているので、それにズルズルと体を擦りつけながら倒れる。そのために観客の方へ最もよくその死に顔が見えるような姿勢で死ぬ。それは
咄嗟に息の根を止められた大きな昆虫の屍骸のように印象的。彼女の眼は、情婦ニコルの毒を含んだギラギラ光る眼と対照的に、常に
虐げられている女の物に怯えた細い弱々しい眼であるが、突然それが一杯に白眼を
剥き出し、黒眼を右の角に吊り上げたまゝ動かなくなる。ミシェルが「してやったり」とばかりに悠々と水槽から歩み出て、屍骸の傍に寄って死相を眺め、腕を掴んで見て放し、「やれ/\」と云った顔つきをする。此の映畫中で一番悪魔的な凄さを感じさせる場面は、ニコルがミシェルを浴槽の中へ押し込むところと、此のクリスチナのショック死のところと、此の時浴槽から立ち上ったミシェルが、妻を脅やかすために篏めていた
偽眼を取り外すところである。偽眼は実物の眼球の上にぴったり張り付くように作られた、薄い凸面レンズのようなものなり。ミシェルは死に顔を一層恐く見せるためにこれを篏めて死んだ振りをしていた訳なり。彼が両手を眼の中にさし込んでその偽眼を取り出した時は予も覚えずギョッとさせられたが、予の隣席にありし婦人は微かに「あッ」と云いて顔を蔽いたり。
午後二時頃退場。街上の熱気は昨日に劣らず。予は先刻暑さに堪えかね場内にてソフトアイスクリームを
喫せしが、再び
渇を催すこと甚し。
且長谷川にて朝食を取ったゞけなので漸く空腹を覚えつゝあり。依って向う側の三信ビル地階に入りもう一度ソフトアイスクリームを喫し、ケーキ二個を食べ、タキシーを拾いて長谷川に帰る。聞けば家人等三人も倉庫の用事を早く片附けて日比谷映畫劇場に至り、ついさっきまであの絵を見ていたのだが、今朝予と約束した時間に遅れることを
懸念し、中途で退場して四五十分前に戻って来たところなりと云う。それでは予と同時刻に場内にありし訳なり。いったい家人は彼女自身が心臓が弱いと医者に云われてい、平素ショックを受けることを恐れていたので、此の映畫は見たくもあるし恐くもあるし、どうしたものかと先日来躊躇していたのだが、そのうち追い/\見て来た人の話などを聞いて筋をすっかり知ってしまい、「もう恐くなくなったから私も見に行く」と云っていたのであった。が、中途で退場したところを見ると、矢張幾分ショックを恐れる気持があったのかと察せられる。予が、前半よりも後半の方が凄かったこと、クリスチナの死ぬところとミシェルが偽眼を外すところがちょっと薄気味悪かったことを語りしに、「それなら見ないでよかったわ」とのことなりき。
それより一二時間休憩、五時長谷川を辞し、銀座の小松ストーア等々に立ち寄り八重洲口に至り、大丸地階
辻留にて夕食を取る。此の辻留の京料理も予等を東京に惹き着ける魅力の一つなり。殊に本年は東京方面に用事ありていつ頃京都へ帰り得るか今のところ豫定立たず、そのためひとしお関西料理に憧れつゝあり。分けても目下食べたいのは鮎と
鱧なり。熱海の夏は鰹と鮪には不自由しないが、鮎は早川と狩野川のものにて、到底保津峡の鮎のような訳には行かず、鱧も近頃は伊豆山方面にて手に入ることがあり、たまに買っては見るけれども、味も骨切りも悪く、あとで一層関西の鱧が恋しくなるばかりなり。家人は鰹は
生臭いと云って口にしたがらず、せめて近々東京へ出て辻留の
牡丹鱧をたべたいと此の間より云い暮らしていたのであった。牡丹鱧とは鱧の肉を葛にて煮、それに椎茸と青い物を浮かした辻留得意の吸物碗にて、日本料理の澄まし汁としては相当濃厚で芳潤な感じのものなり。今夜の辻留の献立は、ふくこ(鱸の子)の洗い、さゝ掻き
牛蒡と
泥鰌の赤だし、
茄子と
豆の胡麻あえと鰯の
生薑煮と梅干の小皿、小芋を揚げたのと鶏のじく煮と粟麩の小皿、素麺の小皿、飯を圓く型で打ち出したものに奈良漬と生薑を添えた小皿、鱧のつけ焼と待望の牡丹鱧、なおその外に京より取り寄せた鮎の大きいのがありますからとてその塩焼に
蓼酢を出したが、これは全く豫期しなかった珍味であった。食後に大阪鶴屋八幡の葛餅があったが、さすがに腹が一杯で手が出ず。いつも日本料理だとつい安心して食い過ぎるのであるが、これだけ食べると洋食や支那料理以上にカロリーを取ったように思われ、血壓が上りはしなかったかと心配になる。食後直ちに乗車口に駆けつけ午後八時過ぎの電車に乗る。何か事故があった様子にて廿一分発のところが数分遅れて発車。今時分の二等車は空いている筈なのに今夜は大船辺に至るまで満員にて人いきれのため一倍蒸し暑し。十一時近く熱海に着。帰宅するや否や一浴して浴衣に着かえ、庭の芝生を蹈んでデッキチェーアに凭りつゝ伊豆半島の夜景を望む。下弦の月空にかゝりて伊豆山、熱海、
網代、川奈の燈火点々たり。昨日と今日の東京の暑かったことを思えば何と云っても此の丘の上の草廬は別天地なり。
就寝後、午前二三時頃かと覚ゆ、家人の呻き声に眼を覚まし慌てゝ彼女を揺り起す。二三回強く揺り動かして辛うじて眼を覚まさせる。近頃家人が悪夢に
魘され夜中に息が詰まると云い出して俄然恐ろしき呻き声を発することしば/\なり。或はその原因は寝台のスプリングの
凹み工合が悪く、胸の辺が妙に落ち込むようになるため心臓を壓迫される故にやあらん。同じ構造の寝台を用いながら予には左様なことなきは矢張家人の心臓に缺陥があるせいであろうか。兎も角も近々に家具屋を招いてスプリングの加減を見て貰うつもりであるが、夫婦の寝台の間には小さきナイトテーブルがあるため、大急ぎで彼女を揺り起そうとしても咄嗟には手が届かず、此方の寝台から向うの寝台まで起きて歩いて行くこともあり、そんな騒ぎのために此方もすっかり眼を覚まされて眠れなくなってしまうこともある。家人の話では魘される時の気持は何とも云えず、二三分間は全く呼吸困難に陥り、いくら息をしようとしても息が出来ず、そのまゝになってしまいそうな気がするとのことにて、それきり再び寝ようとせず、上半身を起したまゝ枕元の書物をひろげて
拂暁に及ぶことが珍しくない。まして今夜は二日つゞけて中華料理や辻留の御馳走をたべたあとなので、それでなくても心臓の負担が過重になっていたせいであろう。予も先刻の呻り声に安眠を破られてからは巧い工合に眠り得ず、寝苦しさを覚えて輾転反側す。予は元来寝つきのよい方にて、夜中に用事のため眼を覚ましても用を済ませば直ぐ又眠ることが出来るのであるが、今夜は矢張御馳走の食い過ぎにて腹が非常に張っている様子なり。ふと心づけば久しく起らなかった脈搏の結滞が起りつゝあり。結滞は三度目に一度ずつ規則的に生じ、その度毎に何処かの動脈がピクリピクリとする。別に苦痛は伴わないが、何か心臓に異状のあることが察せられ餘り気持のよいものではない。そのピクリピクリとする感覚はきまって動脈の何処か知らに、或る時は胸部上方の肩に近いところ、或る時はもっと腋の下の方に寄ったところ、或る時は左の乳の右側もしくは右の乳の左側に感じるのであるが、今夜は胃の真上の
鳩尾の辺に感じられる。結滞は過食する時に起り易いからと、かねてより医師の忠告を受けていたのだが、鳩尾の辺にそれが感じられるのは此の二日間の鮎や牡丹鱧や八宝飯や芙蓉魚翅の
祟りであること云う迄もなし。こう云う時は睡眠剤を服して意識をぼんやりさせ不安を紛れさせるに如かずと、今夜もラボナ一錠とアダリン二錠を飲み漸次半醒半睡の境に入る。
予はこんな工合に眠っているのか覚めているのか自分でもよく分らない朦朧とした状態にあることを楽しむ癖がある。最初は半ば意識しながらさま/″\な幻想が泡のように結ぼれては消えるのを楽しんでいるうちに、いつしかそれが本当の夢につながって行く。あゝ、これから夢になるんだなと云う半意識状態のまゝで夢を見ている。フロイドの「夢判断」などにはどんな風に説明してあるか、又一般の人はどうであるか知らないが、予は或る程度までは自分で自分の夢を豫覚し、時には支配することさえも出来るような気がする。そう云う気がする時は実はその全体が夢なので、覚めて見れば夢の中で又夢を見ていたのである、と云う人もあろうけれども、予は一概にそうは思わない。………予は胃袋が充満して腹部がひどく壓迫されつゝあるのを感じ、彼方へ寝返り此方へ寝返りして睡眠剤が早く利いて来るようにと願いながら、昨夜の牡丹鱧のことを考えていた。鱧の真っ白な肉とその肉を包んでいた透明なぬる/\した半流動体。それがまだその姿のまゝで胃袋の中で暴れているように思う。鱧の真っ白な肉から、浴槽の中で体じゅうの彼方此方を洗っていた春川ますみの連想が浮かぶ。葛の餡かけ、………ぬる/\した半流動体に包まれていたのは鱧ではなくて春川ますみ、………いや、いつの間にかドラサール学園の校長ミシェルが浴槽にいる。シモーン・シニョレの情婦がミシェルを水中に押し込んでいる。ミシェルはもう死んでいる。濡れた髪の毛がぺったりと額から眼の上に蔽いかぶさり、その毛の間から吊り上った大きな死人の眼球が見える。
その時もう一つ奇怪な幻想が這入って来た。予の書斎には予の専用の水洗式の洋式便所があり、予は毎朝そこで用を足しながら不思議なことを考えるのだが、それが浮かんで来たのである。いったい予がこう云う洋式便所を設けるに至ったのは、大阪国立病院の布施博士の意見に依るもので、高血壓症の人は成るべく日本式の
蹲踞る便所を避ける方がよい、老人はしゃがんで
力む時に脳溢血を起し易い、と云う警告に基づいて腰掛け式便所を作ったのであるが、自分の排泄物を自分の眼で検査するには此の式のものが最も便利である。日本式水洗ではあまり露骨で見るに堪えないが、洋式のものは水中に沈んでいるのでアルコール漬の摘出物を見るように冷静に観察し得る。胃潰瘍の血便や子宮癌の出血などは早期に発見することが出来る。予も此の間、便通の度毎に水が真紅に染まるのに心づき、さては胃潰瘍ではないのかと不安の数日を送ったことがあったが、それは朝食にレッドビーツ(サラダ用火焔菜)を好んで食べるのが原因であることが分り、安心した。蓋し胃潰瘍の血便は黒色を呈している筈だが、レッドビーツの場合は実に美しい紅色の線が排泄物からにじみ出て、周辺の水を淡い過酸化マンガン水のように染める。予はその色が異様に綺麗なので暫時見惚れていることがある。その紅い溶液の中に浮遊している糞便も決して醜悪な感じがしない。時としてその糞便のかたまりが他の物体の形状を思い起させ、人間の顔に見えたりもする。今夜はそれが、あのシモーン・シニョレの悪魔的な風貌に、………あれが紅い溶液の中から予を睨んでいる。予は水を流し去ることを躊躇してじっとその顔を視つめる。………と、その顔が粘土が崩れ出したように歪み、曲りくねって又一つに固まり、ギリシャ彫刻のトルソーのようになる。史記呂后本紀に云う、「太后遂ニ戚夫人ノ手足ヲ断チ、眼ヲ去リ耳ヲ

ベ、
薬ヲ飲マシメテ
厠中ニ居ラシメ、
命ケテ
人
ト曰ウ」と。予はシモーン・シニョレの顔が変じて人

になっているのを見る。………
予の脳裡に人

のことが如何にして浮かんだのであろうか。潤一郎新訳源氏物語
賢木の巻一五〇頁の本文に「戚夫人のような憂き目には遭わないまでも」の句があり、その頭注に「漢高祖の夫人。高祖の崩後呂后に妬まれて手足を断たれ、眼を抜かれて厠の中に置かれた」とあるが、予は何かの機会にこれを種材にして見たいと思っていたのが、たま/\水洗便所の幻想と一緒になったのであろうか。「呂太后ハ高祖ノ微ナリシ時ノ妃ナリ。孝恵帝、女魯元太后ヲ生ム。高祖漢王トナルニ及ビテ定陶ノ
戚姫ヲ得、愛幸シ、趙ノ隠王如意ヲ生ム。孝恵、人トナリ仁弱ナリ。高祖
以為エラク、我ニ類セズト。………戚姫幸セラレ、常ニ上ニ従イテ関東ニ
之キ、日夜啼泣シ、其ノ子ヲ立テテ太子ニ代ラシメント欲ス。呂后年長ジ、常ニ留守シ、上ニ
見ユルコト
希ニ、益々
疏ンゼラル。………高祖、十二年四月甲辰長楽宮ニ崩ズ。………呂后、最モ戚夫人及ビ其ノ子趙王ヲ怨ム。
廼チ永巷ヲシテ戚夫人ヲ囚エシメ、而シテ趙王ヲ召ス。………孝恵帝慈仁ニシテ太后ノ怒レルヲ知リ、自ラ趙王ヲ覇上ニ迎エ、
与ニ宮ニ入リ、自ラ
挟ケテ趙王ト与ニ起居飲食ス。太后
之ヲ殺サント欲スレドモ間ヲ得ズ。孝恵元年十二月、帝
晨ニ出デテ(雉ヲ)射ル。趙王
少クシテ
蚤ク起キルコト能ワズ。太后、其ノ独リ居ルヲ聞キ、人ヲシテ
酖ヲ持チテ之ヲ飲マシム。孝恵帝
還ル
犂オイ趙王已ニ死セリ。………太后、遂ニ戚夫人ノ手足ヲ断チ、………命ケテ人

ト曰ウ。居ルコト数日、廼チ孝恵帝ヲ召シテ人

ヲ観シム。孝恵見テ問イ、廼チ其ノ戚夫人ナルヲ知ル。廼チ大イニ哭シ、
因ッテ病ミ、歳餘
起ツコト能ワズ。人ヲシテ太后ニ請ワシメテ曰ク、此レ人ノ為ス所ニ非ズ、臣、太后ノ子トナリ、終ニ天下ヲ治ムルコト能ワズト。孝恵此レヲ以テ日ニ飲ミ淫楽ヲナシ、政ヲ聴カズ」―――史記にはこう書いてあるのだが、「国訳漢文大成」の注に「

は豚なり、戚夫人の有様、豚の如きによりて、ヒトブタと曰う」とある。又「

は
牝豕、母

のことで、人

とは『めすのおいぼれぶた』のようになった人間」と云う解もある。「眼ヲ去リ耳ヲ

ベ」は「眼球をくじり去り、薬を以て耳を熏べて聾ならしむる也」とあり、「

薬」は「物言うこと能わざらしむる薬」とあり、「厠中」は、「便所の中なり。漢書外戚伝には『鞠域中』に作る、鞠域は窟室なり」とある。
予が過酸化マンガン水の美しい紅い溶液の中に四肢を失った人間の胴体、牝豕の肉のかたまりに似たものが浮かんでいるのを見ていると、「御覧、その水の中にいるのは人

だよ」と云う者がある。振り返ると予の傍に漢の皇太后の服装をした夫人が立っている。「あッ、この人

は戚夫人ですね」と云って予は思わず眼を蔽う。予は予の傍にいる貴夫人が呂太后であり、予自身は孝恵帝であることを知る。………ふと眼が覚めると午前四時半で障子の外が薄明るくなっている。山上の興亜観音の太鼓の音が聞えつゝある。予の腹はまだ張っていて苦しい。家人はいつの間にか安らかに眠っている。予がほんとうの夢に這入ったのはどの辺からであったろうか。シモーン・シニョレの風貌が歪んで崩れ出したあたりからであろうか。………予はそんなことを考えながら再び睡り始めた。
(昭和卅年十月稿)