もう何年か前、私が一高の寄宿寮に居た当時の話。
或る晩のことである。その時分はいつも同室生が寝室に額を
その時、どうして話題が其処へ落ち込んだのかは明瞭でないが、何でも我れ/\は其の頃の我れ/\には極く有りがちな恋愛問題に就いて、勝手な熱を吹き散らして居たかのやうに記憶する。それから、自然の径路として人間の犯罪と云ふ事が話題になり、殺人とか、詐欺とか、窃盗などゝ云ふ言葉がめい/\の口に上るやうになつた。
「犯罪のうちで一番われ/\が犯しさうな気がするのは殺人だね。」
と、さう云つたのは某博士の息子の樋口と云ふ男だつた。
「どんな事があつても泥坊だけはやりさうもないよ。―――何しろアレは実に困る。外の人間は友達に持てるが、ぬすツととなるとどうも人種が違ふやうな気がするからナア。」
樋口はその生れつき品の好い顔を曇らせて、不愉快さうに八の字を寄せた。その表情は彼の人相を一層品好く見せたのである。
「さう云へば此の頃、寮で頻りに盗難があるツて云ふのは事実かね。」
と、今度は平田と云ふ男が云つた。平田はさう云つて、もう一人の中村と云ふ男を顧みて、「ねえ、君」と云つた。
「うん、事実らしいよ、何でも泥坊は外の者ぢやなくて、寮生に違ひないと云ふ話だがね。」
「なぜ。」
と私が云つた。
「なぜツて、委しい事は知らないけれども、―――」と、中村は声をひそめて憚るやうな口調で、「余り盗難が頻々と起るので、寮以外の者の仕業ぢやあるまいと云ふのさ。」
「いや、そればかりぢやないんだ。」
と、樋口が云つた。
「たしかに寮生に違ひない事を見届けた者があるんだ。―――つい此の間、真ツ昼間だつたさうだが、北寮七番に居る男が一寸用事があつて寝室へ這入らうとすると、中からいきなりドーアを明けて、その男を不意にピシヤリと殴り付けてバタバタと廊下へ逃げ出した奴があるんださうだ。殴られた男は直ぐ追つかけたが、梯子段を降りると見失つてしまつた。あとで寝室へ這入つて見ると、行李だの本箱だのが散らかしてあつたと云ふから、其奴が泥坊に違ひないんだよ。」
「で、その男は泥坊の顔を見たんだらうか?」
「いや、出し抜けに張り飛ばされたんで顔は見なかつたさうだけれども、服装や何かの様子ではたしかに寮生に違ひないと云ふんだ。何でも廊下を逃げて行く時に、羽織を頭からスツポリ被つて駈け出したさうだが、その羽織が下り藤の紋附だつたと云ふ事だけが分つてゐる。」
「下り藤の紋附? それだけの手掛りぢや仕様がないね。」
さう云つたのは平田だつた。気のせゐか知らぬが、平田はチラリと私の顔色を窺つたやうに思へた。さうして又、私も其の時思はずイヤな顔をしたやうな気がする。なぜかと云ふのに、私の家の紋は下り藤であつて、而も其の紋附の羽織を、その晩は着ては居なかつたけれども、折々出して着て歩くことがあつたからである。
「寮生だとすると容易に掴まりツこはないよ。自分たちの仲間にそんな奴が居ると思ふのは不愉快だし、誰しも油断して居るからなあ。」
私はほんの一瞬間のイヤな気持を自分でも耻かしく感じたので、サツパリと打ち消すやうにしながらさう云つたのであつた。
「だが、二三日うちにきつと掴まるに違ひない事があるんだ。―――」
と、樋口は言葉尻に力を入れて、眼を光らせて、しやがれ声になつて云つた。
「―――これは秘密なんだが、一番盗難の頻発するのは風呂場の脱衣場だと云ふので、二三日前から、委員がそつと張り番をして居るんだよ。何でも天井裏へ忍び込んで、小さな穴から様子を窺つてゐるんださうだ。」
「へえ、そんな事を誰から聞いたい?」
此の問を発したのは中村だつた。
「委員の一人から聞いたんだが、まあ余りしやべらないでくれ給へ。」
「しかし君、君が知つてるとすると、泥坊だつて其の位の事はもう気が附いて居るかも知れんぜ。」
さう云つて、平田は苦々しい顔をした。
こゝで一寸断つて置くが、此の平田と云ふ男と私とは以前はそれ程でもなかつたのに、或る時或る事から感情を害して、近頃ではお互に面白くない気持で附き合つて居たのである。尤もお互にとは云つても、私の方からさうしたのではなく、平田の方でヒドク私を嫌ひ出したので、「鈴木は君等の考へて居るやうなソンナ立派な人間ぢやない、僕は或る事に依つて彼奴の腹の底を見透かしたんだ。」と、平田が或る時私をこツぴどく罵つたと云ふ事を、私は嘗て友人の一人から聞いた。「僕は彼奴には愛憎を尽かした。可哀さうだから附き合つてはやるけれど、決して心から打ち解けてはやらない」と、さうも云つたと云ふ事であつた。が、彼は蔭口をきくばかりで、一度も私の面前でそれを云ひ出したことはなかつた。たゞ恐ろしく私を忌み、侮蔑をさへもして居るらしい事は、彼の様子のうちにありありと見えて居た。相手がさう云ふ風な態度で居る時に、私の性質としては進んで説明を求めようとする気にはなれなかつた。「己に悪い所があるなら忠告するのが当り前だ、忠告するだけの親切さへもないものなら、或は又忠告するだけの価値さへもないと思つて居るなら、己の方でも彼奴を友人とは思ふまい。」さう考へた時、私は多少の寂寞を感じはしたものゝ、別段その為めに深く心を悩ましはしなかつた。平田は体格の頑丈な、所謂「向陵健児」の模範とでも云ふべき男性的な男、私は痩せツぽちの色の青白い神経質の男、二人の性格には根本的に融和し難いものがあるのだし、全く違つた二つの世界に住んで居る人間なのだから仕方がないと云ふ風に、私はあきらめても居た。但し平田は柔道三段の
「下り藤の紋附?」
さう云つて、平田がさつき私の方をチラと見た時の、その何とも云へないイヤな眼つきが、その晩はしかし奇妙にも私の神経を刺したのである。一体あの眼つきは何を意味するのだらうか? 平田は私の紋附が下り藤である事を知りつゝ、あんな眼つきをしたのだらうか? それともさう取るのは私の
「すると僕にも嫌疑が懸るぜ、僕の紋も下り藤だから。」
さう云つて私は虚心坦懐に笑つてしまふべきであらうか? けれどもさう云つた場合に、こゝに居る三人が私と一緒に快く笑つてくれゝば差支へないが、そのうちの一人、―――平田一人がニコリともせずに、ます/\苦い顔をするとしたらどうだらう。私はその光景を想像すると、ウツカリ口を切る訳にも行かなかつた。
こんな事に頭を費すのは馬鹿げた話ではあるけれども、私はそこで咄嗟の間にいろ/\な事を考へさせられた。「今私が置かれて居るやうな場合に於いて、真の犯人と然らざる者とは、各の心理作用に果してどれだけの相違があるだらう。」かう考へて来ると、今の私は真の犯人が味ふと同じ煩悶、同じ孤独を味つて居るやうである。つい
「ぬすツととなるとどうも人種が違ふやうな気がするからナア。」
樋口の云つた言葉は、何気なしに云はれたのには相違ないが、それが今の私の胸にはグンと力強く響いた。「ぬすツとは人種が違ふ」―――ぬすツと! あゝ何と云ふ厭な名だらう、―――思ふにぬすツとが普通の人種と違ふ所以は、彼の犯罪行為その物に存するのではなく、犯罪行為を何とかして隠さうとし、或は自分でも成るべくそれを忘れて居ようとする心の努力、決して人には打ち明けられない不断の憂慮、それが彼を知らず識らず暗黒な気持に導くのであらう。ところで今の私は確かに其の暗黒の一部分を持つて居る。私は自分が犯罪の嫌疑を受けて居るのだと云ふ事を、自分でも信じまいとして居る。さうしてその為めに、いかなる親友にも打ち明けられない憂慮を感じて居る。樋口は勿論私を信用して居ればこそ、委員から聞いた湯殿の一件を洩らしたのだらう。「まあ余りしやべらないでくれ給へ。」彼がさう云つた時、私は何となく嬉しかつた。が、同時にその嬉しさが私の心を一層暗くしたことも事実だ。「なぜそんな事を嬉しがるのだ。樋口は始めから己を疑つて居やしないぢやないか。」さう思ふと、私は樋口の心事に対して後ろめたいやうな気がした。
それから又斯う云ふ事も考へられた。どんな善人でも多少の犯罪性があるものとすれば、「若し己が真の犯人だつたら、―――」といふ想像を起すのは私ばかりでないかも知れない。私が感じて居るやうな不快なり喜びなりを、こゝに居る三人も少しは感じて居るかも知れない。さうだとすると、委員から特に秘密を教へて貰つた樋口は、心中最も得意であるべき筈である。彼はわれ/\四人の内で誰よりも委員に信頼されて居る。彼こそは最もぬすツとに遠い人種である。さうして彼が其の信頼を
「下り藤の紋附」は其の晩以来、長い間私の気苦労の種になつた。私はそれを着て歩いたものかどうかに就いて頭を悩ました。仮りに平気で着て歩くとする、みんなも平気で見てくれゝばいゝが、「あ、彼奴があれを着てゐる」と云ふやうな眼つきをするとする、さうして或る者は私を疑ひ、或る者は疑つては済まないと思ひ、或る者は疑はれて気の毒だと思ふ。私は平田や樋口に対してばかりでなく、凡べての同窓生に対して、不快と気怯れを感じ出す、そこで又イヤになつて羽織を引込める、と、今度は引込めたが為めにいよ/\妙になる。私の恐れるのは犯罪の嫌疑その物ではなく、それに連れて多くの人の胸に湧き上るいろ/\の汚い感情である。私は誰よりも先に自分で自分を疑ひ出し、その為めに多くの人にも疑ひを起させ、今まで分け隔てなく附き合つて居た友人間に変なこだはりを生じさせる。私が仮りに真のぬすツとだつたとしても、それの弊害はそれに附き纏ふさま/″\のイヤな気持に比べれば何でもない。誰も私をぬすツとだとは思ひたくないであらうし、ぬすツとである迄も確かにさうと極まる迄は、夢にもそんな事を信ぜずに附き合つて居たいであらう。そのくらゐでなければ我れ/\の友情は成り立ちはしない。そこで、友人の物を盗む罪よりも友情を傷ける罪の方が重いとすれば、私はぬすツとであつてもなくても、みんなに疑はれるやうな種を蒔いては済まない訳である。ぬすツとをするよりも余計に済まない訳である。私が若し賢明にして巧妙なぬすツとであるなら、―――いや、さう云つてはいけない、―――若し少しでも思ひやりのあり良心のあるぬすツとであるなら、出来るだけ友情を傷けないやうにし、心の底から彼等に打ち解け、神様に見られても耻かしくない誠意と温情とを以て彼等に接しつゝ、コツソリと盗みを働くべきである。「ぬすツと猛々しい」とは蓋し此れを云ふのだらうが、ぬすツとの気持になつて見ればそれが一番正直な、偽りのない態度であらう。「盗みをするのも本当ですが友情も本当です」と彼は云ふだらう。「両方とも本当の所がぬすツとの特色、人種の違ふ所以です」とも云ふだらう。―――兎に角そんな風に考へ始めると、私の頭は一歩々々とぬすツとの方へ傾いて行つて、ます/\友人との隔たりを意識せずには居られなかつた。私はいつの間にか立派な泥坊になつて居る気がした。
或る日、私は思ひ切つて下り藤の紋附を着、グラウンドを歩きながら中村とこんな話をした。
「さう云へば君、泥坊はまだ掴まらないさうだね。」
「あゝ」
と云つて、中村は急に下を向いた。
「どうしたんだらう、風呂場で待つて居ても駄目なのか知らん。」
「風呂場の方はあれツ切りだけれど、今でも盛んに方々で盗まれるさうだよ。風呂場の計略を洩らしたと云ふんで、此の間樋口が委員に呼びつけられて怒られたさうだがね。」
私はさつと顔色を変へた。
「ナニ、樋口が?」
「あゝ、樋口がね、樋口がね、―――鈴木君、堪忍してくれ給へ。」
中村は苦しさうな溜息と一緒にバラバラと涙を落した。
「―――僕は今まで君に隠して居たけれど、今になつて黙つて居るのは却つて済まないやうな気がする。君は定めし不愉快に思ふだらうが、実は委員たちが君を疑つて居るんだよ。しかし君、―――こんな事は口にするのもイヤだけれども、僕は決して疑つちや居ない。今の今でも君を信じて居る。信じて居ればこそ黙つて居るのが辛くつて苦しくつて仕様がなかつたんだ。どうか悪く思はないでくれ給へ。」
「有難う、よく云つてくれた、僕は君に感謝する。」
さう云つて、私もつい涙ぐんだ、が、同時に又「とう/\来たな」と云ふやうな気もしないではなかつた。恐ろしい事実ではあるが、私は内々今日の日が来ることを予覚して居たのである。
「もう此の話は止さうぢやないか、僕も打ち明けてしまへば気が済むのだから。」
と、中村は慰めるやうに云つた。
「だけど此の話は、口にするのもイヤだからと云つて捨てゝ置く訳には行かないと思ふ。君の好意は分つて居るが、僕は明かに耻を掻かされたばかりでなく、友人たる君に迄も耻を掻かした。僕はもう、疑はれたと云ふ事実だけでも、君等の友人たる資格をなくしてしまつたんだ。
「僕は誓つて君を捨てない、僕は君に耻を掻かされたなんて思つても居ないんだ。」
中村は例になく激昂した私の様子を見てオドオドしながら、
「樋口だつてさうだよ、樋口は委員の前で極力君の為めに弁護したと云つて居る。『僕は親友の人格を疑ふくらゐなら自分自身を疑ひます』とまで云つたさうだ。」
「それでもまだ委員たちは僕を疑つて居るんだね?―――何も遠慮することはない、君の知つてる事は残らず話してくれ給へな、其の方がいつそ気持が好いんだから。」
私がさう云ふと、中村はさも云ひにくさうにして語つた。
「何でも方々から委員の所へ投書が来たり、告げ口をしに来たりする奴があるんださうだよ。それに、あの晩樋口が余計なおしやべりをしてから風呂場に盗難がなくなつたと云ふのが、嫌疑の
「しかし風呂場の話を聞いたのは僕ばかりぢやない。」―――此の言葉は、それを口に出しはしなかつたけれども、直ぐと私の胸に浮かんだ。さうして私を一層淋しく情なくさせた。
「だが、樋口がおしやべりをした事を、どうして委員たちは知つたゞらう? あの晩彼処に居たのは僕等四人だけだ、四人以外に知つて居る者はない訳だとすると、―――さうして樋口と君とは僕を信じてくれるんだとすると、―――」
「まあ、それ以上は君の推測に任せるより仕方がない。」さう云つて中村は哀訴するやうな眼つきをした。「僕はその人を知つて居る。その人は君を誤解して居るんだ。しかし僕の口からその人の事は云ひたくない。」
平田だな、―――さう思ふと私はぞつとした。平田の眼が執拗に私を睨んで居る心地がした。
「君はその人と、何か僕の事に就いて話し合つたかね?」
「そりや話し合つたけれども、………しかし、君、察してくれ給へ、僕は君の友人であると同時にその人の友人でもあるんだから、その為めに非常に辛いんだよ。実を云ふと、僕と樋口とは昨夜その人と意見の衝突をやつたんだ。さうしてその人は今日のうちに寮を出ると云つて居るんだ。僕は一人の友達の為めにもう一人の友達をなくすのかと思ふと、さう云ふ悲しいハメになつたのが残念でならない。」
「あゝ、君と樋口とはそんなに僕を思つて居てくれたのか、済まない済まない、―――」
私は中村の手を執つて力強く握り締めた。私の眼からは涙が止めどなく流れた。中村も勿論泣いた。生れて始めて、私はほんたうに人情の温かみを味つた気がした。此の間から遣る瀬ない孤独に
「君、僕は正直な事を云ふが、―――」
と、暫く立つてから私が云つた。
「僕は君等にそんな心配をかけさせる程の人間ぢやないんだよ。僕は君等が僕のやうな人間の為めに立派な友達をなくすのを、黙つて見て居る訳には行かない。あの男は僕を疑つて居るかも知れないが、僕は未だにあの男を尊敬して居る。僕よりもあの男の方が余つぽど偉いんだ。僕は誰よりもあの男の価値を認めて居るんだ。だからあの男が寮を出るくらゐなら、僕が出ることにしようぢやないか。ねえ、後生だからさうさせてくれ給へ、さうして君等はあの男と仲好く暮らしてくれ給へ。僕は独りになつてもまだ其の方が気持がいゝんだから。」
「そんな事はない、君が出ると云ふ法はないよ。」
と、人の好い中村はひどく感激した口調で云つた。
「僕だつてあの男の人格は認めて居る。だが今の場合、君は不当に虐げられて居る人なんだ。僕はあの男の肩を持つて不正に
「でもあの男は強情だからね、自分の方から詫りに来ることはないだらうよ。いつ迄も僕を嫌ひ通して居るだらうよ。」
私の斯う云つた意味を、私が平田を恨んで居て其の一端を洩らしたのだと云ふ風に、中村は取つたらしかつた。
「なあに、まさかそんな事はないさ、斯うと云ひ出したら飽く迄自分の説を主張するのが、あの男の長所でもあり欠点でもあるんだけれど、悪かつたと思へば綺麗さつぱりと詫りに来るさ。そこがあの男の愛すべき点なんだ。」
「さうなつてくれゝば結構だけれど、―――」
と、私は深く考へ込みながら云つた。
「あの男は君の所へは戻つて来ても、僕とは永久に和解する時がないやうな気がする。―――あゝ、あの男は本当に愛すべき人間だ。僕もあの男に愛せられたい。」
中村は私の肩に手をかけて、此の一人の哀れな友を庇ふやうにしながら、草の上に足を投げて居た。夕ぐれのことで、グラウンドの四方には淡い
「もうあの人たちも知つて居るのだ、みんなが己を
さう思ふと、云ひやうのない淋しさがひしひしと私の胸を襲つた。
その晩、寮を出る筈であつた平田は、何か別に考へた事でもあるのか、出るやうな様子もなかつた。さうして私とは勿論、樋口や中村とも一言も口を利かないで、黙りこくつて居た。事態が斯うなつて来ては、私が寮を出るのが当然だとは思つたけれども、二人の友人の好意に背くのも心苦しいし、それに私としては、今の場合に出て行くことは
「そんなに気にしない方がいゝよ、そのうちに犯人が掴まりさへすりや、自然と解決がつくんだもの。」
二人の友人は始終私にさう云つてくれて居た。が、それから一週間程過ぎても、犯人は掴まらないのみか、依然として盗難が頻発するのだつた。遂には私の部屋でも樋口と中村とが財布の金と二三冊の洋書を盗まれた。
「とう/\二人共やられたかな、あとの二人は大丈夫盗まれツこあるまいと思ふが、………」
その時、平田が妙な顔つきでニヤニヤしながら、こんな厭味を云つたのを私は覚えて居る。
樋口と中村とは、夜になると図書館へ勉強に行くのが例であつたから、平田と私とは自然二人きりで顔を突き合はす事が屡あつた。私はそれが辛かつたので、自分も図書館へ行くか散歩に出かけるかして、夜は成るべく部屋に居ないやうにして居た。すると或る晩のことだつたが、九時半頃に散歩から戻つて来て、自習室の戸を明けると、いつも其処に独りで頑張つて居る筈の平田も見えないし、外の二人もまだ帰つて来ないらしかつた。「寝室か知ら?」―――と思つて、二階へ行つて見たが矢張誰も居ない。私は再び自習室へ引き返して平田の机の傍に行つた。さうして、静かにその抽出しを明けて、二三日前に彼の国もとから届いた書留郵便の封筒を捜し出した。封筒の中には拾円の小為替が三枚這入つて居たのである。私は悠々とその内の一枚を抜き取つて
「ぬすツと!」
と叫んで、いきなり後から飛び着いて、イヤと云ふほど私の横ツ面を張り倒した者があつた。それが平田だつた。
「さあ出せ、貴様が今懐に入れた物を出して見せろ!」
「おい、おい、そんな大きな声を出すなよ。」
と、私は落ち着いて、笑ひながら云つた。
「己は貴様の為替を盗んだに違ひないよ。返せと云ふなら返してやるし、来いと云ふなら何処へでも行くさ。それで話が分つてゐるからいゝぢやないか。」
平田はちよつとひるんだやうだつたが、直ぐ思ひ返して猛然として、続けざまに私の頬桁を殴つた。私は痛いと同時に好い心持でもあつた。此の間中の重荷をホツと一度に取り落したやうな気がした。
「さう殴つたつて仕様がないさ、僕は見す/\君の罠に懸つてやつたんだ。あんまり君が威張るもんだから、『何糞! 彼奴の物だつて盗めない事があるもんか』と思つたのがしくじりの
さう云つて、私は仲好く平田の手を取らうとしたけれど、彼は遮二無二胸倉を掴んで私を部屋へ引き摺つて行つた。私の眼に、平田と云ふ人間が下らなく見えたのは此の時だけだつた。
「おい君達、僕はぬすツとを掴まへて来たぜ、僕は不明の罪を謝する必要はないんだ。」
平田は傲然と部屋へ這入つて、そこに戻つて来て居た二人の友人の前に、私を激しく突き倒して云つた。部屋の戸口には騒ぎを聞き付けた寮生たちが、刻々に寄つて来てかたまつて居た。
「平田君の云ふ通りだよ、ぬすツとは僕だつたんだよ。」
私は床から起き上つて二人に云つた。極く普通に、いつもの通り馴れ/\しく云つた積りではあつたが、矢張顔が真青になつて居るらしかつた。
「君たちは僕を憎いと思ふかね。それとも僕に対して耻かしいと思ふかね。」
と、私は二人に向つて言葉をつゞけた。
「―――君たちは善良な人たちだが、しかし不明の罪はどうしても君たちにあるんだよ。僕は此の間から幾度も幾度も正直な事を云つたぢやないか。『僕は君等の考へて居るやうな値打ちのある人間ぢやない。平田君こそ確かな人物だ。あの人が不明の罪を謝するやうな事は決してない』ツて、あれほど云つたのが分らなかつたかね。『君等が平田君と和解する時はあつても、僕が和解する時は永久にない』とも云つたんだ。僕は『平田君の偉いことは誰よりも僕が知つて居る』とまで云つたんだ。ねえ君、さうだらう、僕は決して一言半句もウソをつきはしなかつたゞらう。ウソはつかないがなぜハツキリと本当の事を云はなかつたんだと、君たちは云ふかも知れない。やつぱり君等を欺して居たんだと思ふかも知れない。しかし君、そこはぬすツとたる僕の身になつて考へてもくれ給へ。僕は悲しい事ではあるがどうしてもぬすツとだけは止められないんだ。けれども君等を欺すのは厭だつたから、本当の事を出来るだけ廻りくどく云つたんだ。僕がぬすツとを止めない以上あれより正直にはなれないんだから、それを悟つてくれなかつたのは君等が悪いんだよ。こんな事を云ふと、いかにもヒネクレた厭味を云つてるやうだけれども、そんな積りは少しもないんだから、何卒真面目に聞いてくれ給へ。それほど正直を欲するならなぜぬすツとを止めないのかと、君等は云ふだらう。だが其の質問は僕が答へる責任はないんだよ。僕がぬすツととして生れて来たのは事実なんだよ。だから僕は其の事実が許す範囲で、出来るだけの誠意を以て君等と附き合はうと努めたんだ。それより外に僕の執るべき方法はないんだから仕方がないさ。それでも僕は君等に済まないと思つたからこそ、『平田君を追ひ出すくらゐなら、僕を追ひ出してくれ給へ』ツて云つたぢやないか。あれはごまかしでも何でもない、本当に君等の為めを思つたからなんだ。君等の物を盗んだ事も本当だけれど、君等に友情を持つて居る事も本当なんだよ。ぬすツとにもそのくらゐな心づかひはあると云ふ事を、僕は君等の友情に訴へて聴いて貰ひたいんだがね。」
中村と樋口とは、黙つて、呆れ返つたやうに眼をぱちくりやらせて居るばかりだつた。
「あゝ、君等は僕を図々しい奴だと思つてるんだね。やつぱり君等には僕の気持が分らないんだね。それも人種の違ひだから仕様がないかな。」
さう云つて、私は悲痛な感情を笑ひに紛らしながら、尚一言附け加へた。
「僕はしかし、未だに君等に友情を持つて居るから忠告するんだが、此れからもないことぢやないし、よく気を付け給へ。ぬすツとを友達にしたのは何と云つても君たちの不明なんだ。そんな事では社会へ出てからが案じられるよ。学校の成績は君たちの方が上かも知れないが、人間は平田君の方が出来て居るんだ。平田君はごまかされない、此の人は確かにえらい!」
平田は私に指さゝれると変な顔をして横を向いた。その時ばかりは此の剛愎な男も妙に極まりが悪さうであつた。
それからもう何年か立つた。私は其の後何遍となく暗い所へ入れられもしたし、今では本職のぬすツと仲間へ落ちてしまつたが、あの時分のことは忘れられない。殊に忘れられないのは平田である。私は未だに悪事を働く度にあの男の顔を想ひ出す。「どうだ、己の睨んだことに間違ひはなからう。」さう云つて、あの男が今でも威張つて居るやうな気がする。兎に角あの男はシツカリした、見所のある奴だつた。しかし世の中と云ふものは不思議なもので、「社会へ出てからが案じられる」と云つた私の予言は綺麗に外れて、お坊つちやんの樋口は親父の威光もあらうけれどトントン拍子に出世をして、洋行もするし学位も授かるし、今日では鉄道院○○課長とか局長とかの椅子に収まつて居るのに、平田の方はどうなつたのか
読者諸君よ、以上は私のうそ偽りのない記録である。私は
だが、諸君もやつぱり私を信じてくれないかも知れない、けれども若し―――甚だ失礼な言ひ草ではあるが、―――諸君のうちに一人でも私と同じ人種が居たら、その人だけはきつと信じてくれるであらう。
(大正十年二月作)