青春物語

緒言

谷崎潤一郎




○「青春物語」は昨秋以来約半歳に亙り、最初の一回を「青春物語」第二回以後を「若き日のことども」と題して中央公論へ連載した作者の青春回想記である。作者は事実の正確を期すると共に、往々先輩知友のアラや失策等に言及したが、それも罪のない素ツ葉抜きの程度に止め、なるべく自他に迷惑をかけないやうに注意したことは勿論である。しかし何分二十年前の出来事を全く自己の記憶と判断に依つて書いたので、多少の誤まりなきを保し難い。例へば恒川と萬龍夫人の結婚のいきさつを朝日新聞に漏洩したのは、岡本一平君の所為であるかの如く記したが、其後かの子夫人よりの来翰に接し、あれは当時恒川自身が朝日の記者に語つたのであることを知り、長い間一平君に疑ひをかけてゐたのを済まなく思つてゐるやうな次第である。カフェエ・プランタンに於ける小山内君と吉井君との争論も、吉井君の話を聞くと、其頃そんなことはたびたびであつたけれども、プランタンでさう云ふ事件を惹き起した覚えはないと云ふ。その外誤謬を指摘して下さる方があれば、作者はいつでも取り消し或は訂正するのに吝でない。
○此の本の中にはところ/″\に先輩知友の肖像が十数葉載つてゐる。それらは皆、その人々が登場する場所へ、その時代に撮影されたものを選んで挿入するやうにしたので、一々断つてはないけれども、悉く明治末葉頃の珍写真であることを御承知願ひたい。それらの写真のお蔭で此の物語は非常な光彩を添へることが出来たが、これは偏へに貴重な原画を貸与して下すつた方々の御好意に依るのである。
○その外木下杢太郎君が装幀を考へて下すつたこと、吉井勇君が序文の和歌を寄せて下すつたこと等、此の物語の出版は旧友の温情と援助に負ふ所が尠少でない。作者は此の機会に以上の方々へ厚く御礼を申し述べる。
○巻末の「藝談」は「藝について」と云ふ題で改造へ連載した最近の感想文である。言ひ足りないことや言ひ過ぎたことがいろ/\あるやうな気がするが、補綴し出したら際限がないから今は一と先づ其儘にしておく。
昭和八年六月
著者しるす





底本:「谷崎潤一郎全集 第十六巻」中央公論新社
   2016(平成28)年8月10日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第二十三卷」中央公論社
   1983(昭和58)年7月25日初版発行
初出:「青春物語」中央公論社
   1933(昭和8)年8月3日発行
※表題は底本では、「緒言〔『青春物語』〕」となっています。
入力:岡村和彦
校正:川山隆
2021年10月04日作成
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