『偶像再興』序言

和辻哲郎





 偶像破壊が生活の進展に欠くべからざるものであることは今さら繰り返すまでもない。生命の流動はただこの道によってのみ保持せらる。我らが無意識の内に不断に築きつつある偶像は、注意深い努力によって、また不断に破壊せられねばならぬ。
 しかし偶像は何の意味もなく造られるのではない。それは生命の流動に統一ある力強さを与えるべく、また生命の発育を健やかな豊満と美とに導くべく、生活にとって欠くべからざる任務を有する。これなくしては人は意識の混沌と欲求の分裂との間に萎縮しおわらなくてはならぬ。人が何らか積極的の生を営み得るためには「虚無」さえも偶像であり得る。
 偶像が破壊せられなくてはならないのは、それが象徴的の効用を失って硬化するゆえである。硬化すればそれはもう生命のない石に過ぎぬ。あるいは固定観念に過ぎぬ。けれどもこの硬化は、偶像そのものにおいて起こる現象ではなく、偶像を持つ者の心に起こる現象である。彼らにとって偶像は破壊せられなくてはならぬ。しかし偶像そのものは依然としてその象徴的生命を失わない。彼らにとって有害なるものも、その真の効用を解する他のものにとっては有益で有り得る。偶像再興が生活にとって意義あるはそのためである。


 文字通りの「偶像」について考えてみる。
 使徒パウロは偶像を排するに火のごとき熱心をもってした。彼の見た偶像は真実の生の障礙しょうがいたる迷信の対象に過ぎなかった。彼が名もなき一人のさすらい人としてアテネの町を歩く。彼の目にふれるのは偶像の光栄に浴し偶像の力に充たされたと迷信する愚昧な民衆の歓酔である。彼らは※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)にょうばちや手銅鼓や女夫笛の騒々しい響きに合わせて、淫らな乱暴な踊りを踊っている。そうしてその肉感的な陶酔を神への奉仕であると信じている。さらにはなはだしいのは神前にささげる閹人えんじんの踊りである。閹人たちは踊りが高潮に達した時に小刀をもって腕や腿を傷つける。そうして血みどろになって猛烈に踊り続ける。それを見まもる者はその血の歓びを神の恩寵として感じている。その彼らはまた処女の神聖を神にささげると称して神殿を婚姻の床に代用する。性欲の神秘を神に帰するがゆえに、また神殿は娼婦の家ともなる。パウロはそれを自分の眼で見た。そうして「いたく心を痛め」た。桂の愛らしい緑や微風にそよぐプラタアネの若葉に取り巻かれた肌の美しい女神の像も彼には敵意のほかの何の情緒をも起こさせなかった。台石の回りに咲き乱れている菫や薔薇、その上にキラキラと飛び回っている蜜蜂、――これらの小さい自然の内にも、人間の手で造った偶像よりははるかに貴い生が充ちわたっている。彼は興奮してアゴラへ行って人々に論じかけた。エピクリアンの哲学者が彼の相手になる。偶像の迷信を彼が攻撃すると、哲学者も迷信の弊を認めて同意する。彼はそれに力を得てイエスの復活を説き立てる。哲学者は急に熱心になって霊魂不滅の信仰が迷妄に過ぎないこと、この迷妄を打破しなければ人間の幸福は得られないことを説いて彼を反駁する。彼は全能の造物主を恐れないのかときく。哲学者はこの世界が元子の離合集散に過ぎないこと、現世の享楽の前には何の恐るべきものもないことなどを答える。パウロはますます熱して永生の存在を立証する彼自身の体験について語り始める。物見高いアテネ人は――「ただ新しきことを告げあるいは聞くことにのみその日を送れる」アテネ人は、また一つの新しい神が輸入せられそうになったことに非常な興味を起こして、アレオ山の裁判場へ彼を引っ張って行く。そこにはある事件の傍聴のために多数の市民が集まっている。事件の判決が済むと、余興をでもやらせるような調子で彼が呼び出される。君は珍しい話を知っているそうだが、一つその新しい宗教というのを説明してもらいたい。
 パウロは山頂の石壇に上り、アクロポリスの諸殿堂と相対して立った。――アテネの市民諸君。諸君のまちは神々の像と殿堂とに覆われている。諸君はその神々を祭るために眠りをも忘れて熱中する。けれども諸君はこの神々に真に満足しているか。予は散歩の途上、諸君の礼拝する所を見て歩いた時に、「知らざる神に」と刻りつけた一つの祭壇を見いだして非常に驚いたことがあった。諸君の中には確かにある未知の神への憧憬が動いているのである。予の神はこの、諸君が知らずして礼拝するところの神である。諸君はあの祭壇に、人間の手で作った神を据えなかった。それはまことに正しい。万物の造り主である活ける神は、人のわざかんがえとをもって石から造られる神とは違う。それは手で造った殿堂に住まない。また人の手で犠牲をささげられることを要せない。それは生命の根拠である。人間の造り主である。何で人間の手を借りる必要があるだろう。諸君はこの活ける神を信じないか。そのひとり子をこの世に送り、彼を死よりよみがえらせて明らかなあかしを我々に示したこの大いなる神を信じないか。云々。
 ――このパウロの熱心は、とにかく千数百年の後まで権威を持ち続けた。たとえ偶像礼拝の傾向が聖母崇拝や使徒崇拝などの形で生き残って行ったとしても、美しいギリシア諸神の像はついに中世の闇の内に隠れてしまった。八世紀の偶像破壊運動は、キリスト教の聖者像をさえも寛容しようとしないものであった。
 やがて新しい時代が来た。地を掘る反キリストの徒は穴の底から歓喜にふるえる声で「偶像、偶像」と呼んだ。古代の赤煉瓦の壁の間に女神の白い裸身は死骸のごとく横たわっている。そうして千年の闇ののちに初めて光を、炬火の光を、ほのあかく全身に受ける。ヴイナスだ、プラキシテレスのヴイナスだ、と人々は有頂天になって叫ぶ。やがてヴイナスは徐々に、地の底から美しい体を現わして来る。
 ある者は恐怖のために逃げ去ろうとする衝動を感じた。しかし奇妙な歓びが彼の全身を捕えて動かさせなかった。それが地獄の劫火に焚かるべき罪であろうとも、彼はその艶美な肌の魅力を斥けることができない。そこに新しい深い世界が展開せられている。魂を悪魔に売るともこの世界に住むことは望ましい。
 それが新時代の大勢であった。地下の偶像は皆よみがえって、再び太陽の下に打ち立てられた。狂熱的な僧侶の反動もただ大勢に一つの色彩を加えたに過ぎなかった。しかし再興せられた偶像はもはや礼拝せらるべき神ではない。何人もその前に畜獣を屠って供えようとはしなかった。何人もその手に自己の運命をゆだねようとはしなかった。人々に身震いをさせたのはそれが異端の神であったゆえではなくして、それが美しかったからである。偶像は礼拝せらるべき神であった限りにおいて、当然パウロの排斥を受くべきであった。しかし美のゆえに礼拝せらるべき芸術品としては、確かにパウロから不当な取り扱いを受けた。今やその不当な取り扱いは償われ、ただ芸術品としての威厳をもって人々の上に臨んだのである。
 かくのごとき偶像の再興はまた千年にわたる教権の圧迫への反抗をも意味した。偶像再興者の眼より見れば、教権こそは破壊せらるべき偶像に過ぎないのであった。ついに古い偶像の再興は新しい偶像の破壊の陰に隠れた。古い偶像とともに力強く再興した唯物論も、新時代の自然科学的運動の動機となりながら、その花々しい新眼界展開の陰に隠されてしまった。
 文芸復興の運動はいろいろの意味で偶像破壊の運動だったに相違ない。しかし根本においてはそれは字義通りに古代の復興である。古代の内の不滅なるものを復興する事によって、新しい運動はその熱と力とを得たのである。
 偶像は再興せられた。パウロの神はある意味で死なねばならなかった。


 キリスト教の「神」もまた一種の偶像である。パウロは「人間の手」によって造られた偶像を排斥した。近代の偶像破壊者は「人間の頭」によって造られた神を排斥する。しかしパウロが偶像を滅尽し得なかったように、近代の偶像破壊者もまた神を滅尽することはできない。「神は死んだ」という喧しい宣言のあとで、神を求むる心は忍びやかに人々の胸に育って行く。
 キリストの復活を認容することのできなかった物質論は今や人類の常識である。神が七日にして世界を創造したという物語のごときは「物語」以上に何の権威をも持たない。処女懐胎は狂信者の幻想に過ぎぬ。神の子の信仰は象徴的の意味においてさえも形而上学的空想以上の何ものでもない。世界は確かに古昔の元子論者が見たごとくある基本要素の離合散集によって生じたのである。霊魂は肉体の作用であり肉体とともに滅びる。死とは活動の休止であり組織の解体であるがゆえに死後の生があるわけはない。この事実から眼をそむけて神と死後の生とを仮構するのは、現実をありのままに受容するに堪えない卑怯者の所作に過ぎぬ。――かくのごとき常識にとっては「神が死んだ」という宣告のごときはもはや何の刺激にもならない。神はもともと存在しなかったのである。そこで人間は現世の欲望の満足を唯一の目標として生活する。彼を束縛するものはただこの満足のための功利的節度のほかに何ものもない。
 しかし人はこの物質的な世界に何の不足もなく安住することができるか。愛の歓喜にある時彼はその幸福の永遠性を望まないか。官能の悦楽のあとで彼はそのはかなさに苦しまないでいられるか。痛苦を堪え忍ぶ時彼はこの生が生理的偶然に過ぎないという考えを悦ぶことができるか。――この問いに「否」と答える人の多いことはわかっている。しかし「しかり」と答える人もまた多数であることは否み難い。そこで問いを新しくする。人はこの常識以上に深い神秘を自然に求めないでいられるか。愛の神秘、官能の秘密、生活の底知れぬ深み、それをつかもうとしないでいられるか。恐らく何人もかつて一度はこれらの要求をその胸に抱いたであろう。ある人々はついにこの要求に全心を占領させるのである。科学の道に入れば彼は自然と人生とに現われた微妙な法則に驚異してある知られざる力に衝き当たらずにはいられない。哲学者としては彼は生命の創造力の無限に驚いて人智のかなたに広い世界を認めることになる。――偶像は再び求められるのである。
 神は再びよみがえらなくてはならぬ。それがキリスト再臨によって証せられるか否かは我らの知るところでない。我らは神を知らない。しかし我らの生が神と交通し得るものであることは疑うわけに行かぬ。神は教会の神として、教理の神として死んで行った。しかし我らの無限の要求は、この神の死によって煩わされはしない。我らは神の名を失った、しかし我らは彼に付すべき新しい名を求めずにはいられない。彼は「意志」と呼ばれるべきであるか。「絶対者」と言われるべきであるか。あるいはまた「電子」と呼ばれるべきであるか。恐らくそれらの名は新しいパウロによって鬼神として斥けらるべきものだろう。我らは「知らざる神に」祭壇を築いて、その神を説きあかすべきパウロの出現を待つ。そうして近代精神の造り出したあらゆる偶像の破壊を期待する。
 右のごとき偶像の破壊と再興とは、十九世紀末の大いなる個人の生活によって例示せられた。トルストイは前半生において自然の勝利を、自然的欲望の勝利を歌った人である。しかし後半生においては忠実な神のしもべであった。ストリンドベルヒは自然主義の精神を最も明らかに体現した人である。しかし晩年には神と神の正義との熱心な信者であった。デカダンの詩人が最後に神に帰らなければならなかったことも人の知るところである。彼らは偶像再興の先駆者であったのか。もしすでに彼らが先駆者であったとすれば、二十世紀初頭の兵乱と災厄との前で、人々はこの新しい道を凝視しなければならぬ。


 破壊せらるべき偶像がまた再興せらるべき権利を持つという事実は、偶像破壊の瞬間においてはほとんど顧みられない。破壊者はただ対象の堅い殻にのみ目をつけて、その殼に包まれた漿液のうまさを忘れている。しかし生活を全的に展開せしめようとするものは、この種の偏狭に安んじてはならない。これ偶像破壊者の危機に対する最第一の警告である。
 予は自ら知れる限りにおいて生まれながらの反逆者であった。小学の児童としては楠正成を非難する心を持ち、中学の少年としては教育者の僭越と無精神とを呪った。教育者の権威に煩わされなくなった時代には儕輩さいはいの愛校心を嘲り学問研究の熱心を軽蔑した。そうして道徳と名のつくものを蔑視することに異常な興味を覚えた。宗教は予を制圧する権威でなかったがゆえに好んで近づいたが、しかし何らかの権威を感じなければならない境地までは決してはいって行かなかった。むしろそれを他の権威に対する反逆の道具に使ったに過ぎなかった。ついには生活そのものの権威に対してまでも反逆の態度をとった。深い愛をかつて体験したこともないくせに愛を冷笑することを喜び、教権の圧力をかつて感じたこともないくせに神の死を喝采した。それは当時の予にとって人間生活の最高の階段であった。そうしてかくのごとき気分と思想とが漸次近代偶像破壊者の模倣に堕して行ったことには、ついに思い及ぶところがなかった。
 予は当時を追想して烈しい羞恥を覚える。しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあっても、とにかく予としては必然の道であった。そうしてこの歯の浮くような偶像破壊が、結局、その誤謬をもって予を導いたのであった。――予は病理的に昂進した欲望をもって破壊に従事した。行き過ぎた破壊は予を虚無の淵にまで連れて行った。偶像破壊者の持つ昂揚した気分は、漸次予の心から消え去った。予はある不正のあることを予感した。反省が予の心に忍び込んだ。そこで打ち砕いた殻のなかに美味な漿液のあることを悟る機会が予の前に現われた。予はそれをつかむとともに豊富な人性の内によみがえった。――
 そこに危機があった。そうして突破があった。この体験から予の警告は生まれたのである。


 予は道義を説く。愛を説く。ある人はそれを陳腐と呼ぶだろう。しかし予は陳腐なるものの内に新しい生命を見いだした喜びを語るのである。陳腐なる殻のうちに秘められたる漿液のうまさを伝えようとするのである。陳腐なるものは生命を持たないとする固定観念に捉われたものは、まずその鈍麻した感覚をゆり起こして自らの殻を悟るがいい。そうしてその殻を破るために鉄槌を振るうがいい。その時に初めて偶像再興に対する新しい感覚が目ざめて来るだろう。
 しかし予はただ「古きものの復活」を目ざしているのではない。古きものもよみがえらされた時には古い殻をぬいで新しい生命に輝いている。そこにはもはや時間の制約はない。それは永遠に若く永遠に新しい。予の目ざすのはかくのごとき永遠に現在なる生命の顕揚である。予はあらゆる偶像の胸を通ずる一つの大いなる道を予感する。そうして過去未来にわたる全人類の努力が畢竟この道に向かって集まっていることを感ずる。永遠に現在なる生命はこの道の上にあって勇躍するのである。予はその光景を描き得んことを願う。





底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「偶像再興」岩波書店
   1918(大正7)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
2012年3月22日修正
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