生きること作ること

和辻哲郎





 私は近ごろ、「やっとわかった」という心持ちにしばしば襲われる。対象はたいていこれまで知り抜いたつもりでいた古なじみのことに過ぎない。しかしそれが突然新しい姿になって、活き活きと私に迫って来る。私は時にいくらかの誇張をもって、絶望的な眼を過去に投げ、一体これまでに自分は何を知っていたのだとさえ思う。
 たとえば私は affectation のいやなことを昔から感じている。その点では自他の作物に対してかなり神経質であった。特に自分の行為や感情についてはその警戒を怠らないつもりであった。しかるにある日突然私は眼が開いた気持ちになる。そして自分の人間と作物との内に多分の醜い affectation を認める。私はこれまで何ゆえにそれに気がつかなかったかを自分ながら不思議に、また腹立たしく思う。affectation が何であるか、それがどういう悪い根から生いでて来るか、それはまるきりわかっていなかったのである。何というばかだ、と私は思わないではいられない。
 そういう時には自分の悪いことばかりが眼につく。自分の理解を疑う心が激しく沸き立つ。「人生を見る眼が鈍く浅い。安価な自覚でよい心持ちになっている。自分で自分を甘やかすのだ。」こう自分で自分を罵る。そして自分の人格の惨めさに息の詰まるような痛みを感ずる。
 しかしやがて理解の一歩深くなった喜びが痛みのなかから生まれて来る。私は希望に充ちた心持ちで、人生の前に――特に偉人の内生の前に――もっともっと謙遜でなくてはならないと思う。そして底力のある勇気の徐々によみがえって来ることを意識する。


 ただ「知る」だけでは何にもならない、真に知ることが、体得することが、重大なのだ。――これは古い言葉である。しかし私は時々今さららしくその心持ちを経験する。
 ――誰でも自分自身のことは最もよく知っている。そして最も知らないのはやはり自己である。「汝自身を知れ」という古い語も、私には依然として新しい刺激を絶たない。
 思索によってのみ自分を捕えようとする時には、自分は霧のようにつかみ所がない。しかし私は愛と創造と格闘と痛苦との内に――行為の内に自己を捕え得る。そして時には、思わず顔をそむけようとするほどひどく参らされる。私はそれを自己と認めたくない衝動にさえ駆られる。しかし私は絶望する心を鞭うって自己を正視する。悲しみのなかから勇ましい心持ちが湧いて出るまで。私の愛は恋人が醜いゆえにますます募るのである。
 私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断然押えつけてしまうつもりで、近ごろある製作に従事した。静かな歓喜がかなり永い間続いた。そのゆえに私は幸福であった。ある日私はかわいい私の作物を抱いてトルストイとストリンドベルヒの前に立った。見よ。その鏡には何が映ったか。それが果たして自分なのか。私はたちまち暗い谷へ突き落とされた。
 私は自分の製作活動において自分の貧弱をまざまざと見たのである。製作そのものも、そこに現われた生活も、かの偉人たちの前に存在し得るだけの権威さえ持っていなかった。私は眩暈を感じた。しかし私は踏みとどまった。再び眼が見え出した時には、私は生きることと作ることとの意義が「やっとわかった」と思った。私は自分を愧じた。とともに新しい勇気が底力強く湧き上がって来た。
 親しい友人から受けた忌憚なき非難は、かえって私の心を落ちつかせた。烈しい苦しみと心細さとのなかではあったが、自分にとっての恐ろしい真実をたじろがずに見得た経験は私を一歩高い所へ連れて行った。私は黒い鉄の扉に突き当たったが、自分の力で動かし難い事を悟るとともに、鍵穴を探し出す余裕を取り返したのである。


 トルストイやストリンドベルヒの作物を読んでみる。語の端々までも峻厳な芸術的良心が行きわたっている。はち切れるような力が語の下からのぞいている。短い描写が驚くべき豊富な人生を示唆する。
 ところで自分はどうであろう。強調すべき点は気が済むまでも詳しく書こうとする。そのために空虚な語のはいって来ることには気づかない。従って多くを示唆する少ない語の代わりに、少なくを説明しようとする多くの語がある。しかも熱に浮かされた自分にはその空虚が充溢に見えるのである。
 大業おおぎょうにし過ぎるということは若い者にあり勝ちの欠点かも知れない。重大事を重大事として扱うのに不思議はないと思うから。しかし引きしめて控え目に、ただ核実のみを絞り出す事は、嘘を書かないための必須な条件であった。製作者自身は真実を書いているつもりでも、興奮に足をさらわれて手綱の取り方をゆるがせにすれば、書かれた物の内からは必ず虚偽が響き出る。大業にすることはすなわち致命傷であった。
 私はこの点に自己を警戒すべき重大事を認めた。いかに苦しんでも苦しみ足りるという事のないこの人生を、私はともすれば調子づいて軽々しく通って行く、そしてその凝視の不足は直ちに表現の力弱さとして私に報いて来るのである。私はもっとしっかりと大地を踏みしめて、あくまで浮かされることを恐れなくてはいけない。生活態度の質実はやがて製作態度をも質実にするだろう。製作態度の質実はやがて表現の簡素と充実とをもたらすだろう。
 私は芸術的良心が生活態度の誠実でない人の心に栄えるとは思わない。


 フランスやイタリアの作家には饒舌が眼につく。私はダヌンチオやブウルジェエの冗漫に堪え切れない。トルストイに至ってはさすがに偉大である。たとえばあの大部なアンナ・カレニナのどのページを取ってみても、私は極度に緊縮と充実とを感じるのである。
 ドストイェフスキイを冗漫だとする批評はかなり古くからあるが、私は冗漫を感じない。内容がはち切っているから。――もっとも技巧から言えばかなりに隙がある。夏目先生はカラマゾフ兄弟のある点をディクンスに比して非難された。その時私は承服し兼ねたが、しかし考えてみると私はディクンスの本体を知らない。それにドストイェフスキイには浪漫派らしい弱点がある。恐らく夏目先生の非難は当たっているのだろう。
 けれどもドストイェフスキイの偉大な内生活は表現の上の欠点を消してしまう。カラマゾフ兄弟は我々の新しい聖書である。そこには「人間」の心がすみからすみまで書き現わされている。そして生の渦巻の内から一道の光明を我々に投げ掛ける。
 ストリンドベルヒに至っては、その深さと鋭さにおいて――簡素と充実とにおいて近代に比肩し得るものがない。また心理と自然と社会との観察者としても、ロシアの巨人の塁を摩する。彼もまた「人間」の運命を描いた。そして我々に新しいファウストを与えた。
 私は近ごろ彼の『赤い室』をゾラの『パリ』と比較してみた。彼がゾラの影響の下にその処女作を書いたことは疑いがない。しかし驚くべき事は三十歳の青年が自然主義の初期にすでにゾラを追い越しモウパッサンの先を歩いていたことである。題目とねらい所は両者ほとんど同じで、構図さえも似かよっているが、ゾラの百ページを費やす所は彼の筆によればわずかに二三十ページで済む。しかも描写が具体的で事実に迫っている点では、ゾラははるかにかなわない。ゾラには強く作為の匂いがする。そして心理が浅くかつ足りない。その上かなり冗漫である。ストリンドベルヒはこれに反して社会の断層を描くのに自伝的の匂いをもって貫ぬいている。心理は鋭く、描写はカリカチュアに近いほど鮮やかである。しかも彼の心理観察の周密は常に描写のカリカチュアに堕するのを救う。従って彼の描写は簡素の限度だと言う事もできる。
 ストリンドベルヒの頭は恐ろしくよい。ゾラの頭はきわめて平凡である。


 告白の欲望はともすれば直ちに製作衝動と間違えられる。もとより体験の告白を地盤としない製作は無意義であるが、しかし告白は直ちに製作ではない。告白として露骨であることが製作の高い価値を定めると思ってはいけない。けれどもまた告白が不純である所には芸術の真実は栄えない。私の苦しむのは真に嘘をまじえない告白の困難である。この困難に打ち克った時には人はかなり鋭い心理家になっているだろう。今の私はなお自欺と自己弁護との痕跡を、十分消し去ることができない。自己弁護はともすれば浮誇ふこにさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。


 私は自分に聞く。――お前にどんな天分があるか。お前の自信が虫のよいうぬぼれでない証拠はどこにあるのだ。
 そこで私は考える。――私には物に食い入るかなりに鋭い眼がある。一つの人格、一つの世相、一つの戦い、その秘められた核を私は一本の針で突き刺して見せる。その証拠は私の製作が示すだろう。
 そして私は製作する。できたものをたとえばストリンドベルヒの作に比べてみる。何という鈍さと貧弱さだろう。私は差恥と絶望とで首を垂れる。
 微妙な線、こまやかな濃淡、魔力ある抑揚、秘めやかな諧調、そういう技巧においてもまた、私の生まれつきのうぬぼれは製作によって裏切られる。要するに私は要求と現実とを混同する夢想家に過ぎなかった。
 こうして私は自分の才能に失望してかなりに苦しむ。しかし私は思う。私の問題は与えられた物が何であるかに――私の Was にあるのではなかった。私はただ与えられた物を愛し育てるために生きているのであった。私はただ自分の愛の力の弱らないように、また与えられた物の発育の止まらないように心配していればよい。私の苦しみと愛とで恐らく私の生活の価値は徐々に築かれて行くだろう。
 運命を愛せよ。与えられた物を呪うな。生は開展の努力である。生の重点はこの努力にあって、与えられた物にあるのではない。呪詛は生をそこない、愛は生を高める。ただ愛せよ、そしてすべてを最もよく生かせよ。――こうして私は喜悦と勇気とに充たされる。天分の疑懼はしばらくの間私の心を苦しめなくなる。
 天才はその悲痛な運命の愛によってのみ非凡であった。彼らは多くを与えられた事よりも、むしろ多くを最もよく生かした事において偉大であった。私はその驚嘆すべき誠実のゆえにのみ彼らの前にひざまずく。
 そして私は自分に聞く。――お前は誠実か。お前の努力は最大限まで行っているか。それが自欺でない証拠はどこにあるのだ。


 人生は戦いである。そして戦いの大小深浅がまた人間の価値を左右する。
 戦いの態度の純一は、複雑な内生よりも、単純な迷いのない生活にはるかに起こりやすい。それゆえただ純一のゆえに意を安めてはいけない。純一の態度に固執する者はともすれば内容を空疎にする。
 私はある冬の日、紺青鮮やかな海のほとりに立った。帆を張った二三十艘の小舟が群れをなして沖から帰って来る。そして鳩が地へ舞いおりるように、徐々に、一艘ずつ帆をおろして半町ほどの沖合いにたむろした。岸との間には大きい白い磯波が巻き返している。いつのまにか薄穢ない老人と子供とが岸べに群がり立った。やがて、体のよい若者のそろった舟が最初に突き進んで来る。磯波は烈しく押し戻す。綱が投げられる。若者が波の間へ飛び込んで行く。舟は木の葉のようにもまれている。若者は舟の傍木へ肩を掛ける。陸からは綱を引くものが諸声もろごえに力のリズムを響かせる。かくて波を蹴散らし、足をそろえ、声を合わせて舟を砂の上に引きずり上げて行く。
 一艘上がるとともに、舟にいた若者たちは直ちに綱を取って海に向かった。次の一艘が磯波に乗り掛かると、ちょうど綱を荒れ回る鹿の角に投げ掛けるように、若者は舟へ綱を投げる。そして他の若者たちは躍り掛かって、肩をあてて一気に舟を引き上げる。こうして次から次へと数十艘の舟が陸へ上げられるのである。陸上の人数はますます殖える。舟はますますおもしろそうに上がって来る。老人と子供と女房たちは綱に捕まって快活に跳ねている。誰が命令するというでもないのに、一団の人々は有機体のように完全に協力と分業とで仕事を実現して行く。
 私は息を詰めてこの光景を見まもった。海の力と戦う人間の姿。……集中と純一とが最も具体的な形に現われている。……力の充実……隙間のない活動。――一人の少年が両手を高くあげて波のなかに躍り込んで行く。首だけ出して、波にさらわれた板切れに追いすがる。やがて板切れを抱いて水を跳ね飛ばしながら駛け上がって来る。――生が踊り跳ねている。生が自然と戦いそれを征服している。
 私はそこに現われた集中と純一と全存在的な活動とのゆえにしばし恍惚とした。
 この気持ちのよさは我々がすべての活動に追い求めている所の一種の法悦であった。我々の内にもまた、生の焔はかく燃え上がらなくてはいけない。まことにそれは生本来の姿であり、また生本来の歓喜である。
 こうして漁師の群れの活動をながめている内に私はふと傍観者の手持ち無沙汰を感じ出した。私は漁師の群れに投じてともに働くか、でなければ傍観者としての自己の立場を是認するか、いずれかに道を極めなければならなくなった。そして私の頭には百姓とともに枯れ草を刈るトルストイの面影と、地獄の扉を見おろして坐すべきあの「考える人」の姿とが、相並んで浮かび出た。私は石の上に腰をおろして、左の肱を右の膝に突いて、顎を手の甲にのせて、――そして考えに沈んだ。残った舟はもう二三艘になっていた。
 私は思った。漁師の群れに貴い集中と純一とを認めたのは私の心に過ぎなかったではないか。彼らが浜から家へ帰る。そこにはもう貴さはない。彼らは波と戦って勇ましく打ち克つ。しかし敵手が人間になり、さらに自分の心になると、彼らはもう立派な戦士ではない。彼らの活動は真生の面影を暗示する。しかしそれは彼ら自身の生活ではなかった。彼らは低い力と戦っている時にのみ強いのであった。
 私は複雑な、深さの知れぬ人生のいろいろな力を思った。そして集中と純一との欠けている惨めな醜さを心に浮かべた。そこにある苦しい戦いは、裸になって冬の海に飛び込むことによっては、解決されそうにもなかった。私はただ自分のやり方で、自分の内生に、あの集中と純一とを獲得するほかはない。そのためには私のすべての戦いを終局まで戦わなくてはならぬ。勝利を得るまでの分裂した生活の惨めさは、目下の自分の力ではいかんともし難い。
 私は一つのことを悟り得た。迷いと屈托とに遅滞しているゆえをもって、直ちにその人の人格を卑しめてはいけない。態度の純一のゆえに、直ちにその人の人格を過大視してはいけない。態度の美しさのほかに、なお一つ、戦いの深さによって人を見る視点があるからである。


 私は誤解を恐れる。そしてその恐れをじる。私はその恐れに打ち克たなくてはならない。
 もとより誤解は不愉快である。できるならばそれを解きたいと思う。ただ言葉の間違いや事件の行き違いのほかに根のない誤解ならば、解くこともまたやすい。
 しかし私は、人格の相違が誤解を必然ならしめる場合を少なからず経験する。それを解き得るものはただ大きい力と愛とである。私はそのためにはいまだあまりに弱い。私のなすべきことは、誤解を気にしないでただ力と愛とを強め育てる所にのみあるのだった。
 相手の人格が頑固野卑である場合には、誤解を解くことはますますむずかしい。耶蘇でさえそれを解き得なかった。
 私は群集の誤解を恐れてはならない。そして誤解を解くための焦燥などは絶対にしてはいけない。たやすく群集に理解されることは危険である。群集の喝采は必ずしも作者の勝利を示しはしない。虚偽と阿諛に充ちた作品をさえ喜ぶ人々の喝采は、恐らく不愉快なものだろうと思う。
 万人の胸を潤す物を作ることは我々の理想である。我々は端的に「人間」の心に迫って行かなくてはならぬ。しかしいまだ力に乏しい私の眼には、それがほとんど不可能に見える。深いものを見得るのはただ少数の人々に過ぎない。大多数の人々を共通に動かし得る物は、今の所、センチメンタリズムのほかにないだろう。
 誤解を恐れるな。ただ真実の道を歩め。


 怒りをもって怒りを鎮める事はできない。主我心をもって主我心を砕く事もできない。それをなし得るのはただ愛のみである。
 怒りは怒りをあおり、主我心は主我心を高める。もし他人の怒りと主我心を呪うならば、まず自己の内の怒りと主我心とを征服せよ。まことの愛はその時初めて湧き出るだろう。

一〇


 私は彼を愛し、尊敬し、恐れ、憐れみ、そして侮蔑する。
 私は愛する者、尊敬する者、恐れる者、憐れむ者、侮蔑する者を持っている。また愛し尊敬する者、愛し憐れむ者、憐れみ侮蔑する者を持っている。尊敬し恐れる者、恐れ侮蔑するものもないではない。私はこれら対人感情をただ一つの大きい愛に高めようと努力する。そのために絶えず自責の苦しみがある。複雑に結びついた感情ほど不安を起こす程度がはなはだしい。
 しかしこれらの感情のすべてが一個人に集まるのは、ただ彼に対してのみである。それゆえに彼は何人よりも激しく私を不安ならしめる。私は一人でいて彼の名を思い浮かべただけでも、もういらいらし初める。そしてそのいらいらする事が自分ながら癪にさわる。
 彼に対する私の態度は純一の正反である。それがあたかも、彼に打ち砕かれたような感じをさえ私の内に起こさせる。私は彼の前にひざまずくことはできない。そのくせひざまずこうとしている者のようにうろうろしている。
 私は彼よりももっと愛し、もっと尊敬する人を持っている。私の生活に食い入っている点から言えば、彼と私との間にはさほど深い関係はない。しかし彼は最も辛辣に私の注意を刺激する。従って私の意識を占領する度数が非常に多い。彼の特質がこの刺激性にないとは言い切れまい。
 彼の現在は未知数である。彼が私の注意を引くのは価値が高いゆえでなくて価値がいまだ現われないからである。彼は確実性の代わりに不安定をもって、力の代わりに予感をもって、形の代わりに影をもって、思想の代わりに情調をもって、何者かをほのめかす。彼は実をもって人に迫らずに虚をもって人を釣るのである。彼が偉いか偉くないか、私は知らない。
 私は彼に悩まされることを愧じる。しかしその刺激のゆえに彼に感謝する。

一一


 私はこういう事を夢みている。――私は自分の体験から、私のファウストを書かねばならぬ、と。この夢想の情熱は、わからないなりにファウストを読んだ少年の時から年とともに、経験とともに、高まって行く。
 もとよりそこには、ファウストを書き得た偉大な人格のように、高く全く自己を築き上げようとする欲動がひそんでいる。そしてその欲動のゆえに自己を悲観し自己を鞭うつ。
 私の考えでは、私の夢想するファウストは私の愛がゾシマのように深くならなくてはとても書けそうにない。今の私の愛は愛と呼ぶにはあまりに弱い。私はまだ愛するものの罪を完全には許し得ないのである。愛するものの運命をことごとく担ってやることもできないのである。それどころではない。迷う者を憐れみ、怒るものをいたわることすらもなし得ない。力の不足は愛の不足であった。我を張るのは自己を殺すことであった。自己を愛において完全に生かせるためには、私はまだまだ愛の悩み主我心の苦しみを――愛し得ざる悲しみを――感じていなくてはならない。
 しかし私はこの愛の理想のゆえに一つの「人間」の姿を描きたいと思う。主我心の蛇に喉を噛まれながら、はるかなる蒼空を見上げている「人間」の姿を。
 それは実に人類の運命であった。人は誠実に生きる限り――生を避けて、生きながら死んだものにならない限り――才なき者は才なきままに、弱き者は弱きままに、人類の運命を象徴するのである。
 それゆえ私は、現在の自分もまた小さい一つのファウストを描く権利を持ちたい。私は体験の渦巻のなかにいる。そこに一つの Leitmotiv が現われる。そして磁石のように砂のなかからただ鉄のみを吸い上げる。それはほとんど本能的である。かくして作られたる体験の体系は、一つの新しい生として創造の名に価する。
 ただしかし、その体験が浅薄なゆえに偽りを含んでいるとしたら――





底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
   1916(大正5)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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