埋もれた日本

――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況――

和辻哲郎




 この問題を考えるには、まず応仁の乱(一四六七―一四七七)あたりから始めるべきだと思うが、この乱の時のヨーロッパを考えると、レオナルド・ダ・ヴィンチは二十歳前後の青年であったし、エラスムス、マキアヴェリ、ミケランジェロなどはようやくこの乱の間に生まれたのであるし、ルターはまだ生まれていなかった。ポルトガルの航海者ヘンリーはすでに乱の始まる七年前に没していたが、しかしアフリカ回航はまだ発展していなかった。だからヨーロッパもまだそんなに先の方に進んで行っていたわけではない。むしろこれから後の一世紀の進歩が目ざましいのである。シャビエルが日本へ来たのも、乱後七、八十年であった。
 応仁の乱以後日本では支配層の入れ替えが行なわれた。それに伴なう社会的変動が、思想の上にも大きく影響したはずである。しかしそういう変動を問題とするためには、その変動の前の室町時代の文化というものが、一体どういうものであったかを、はっきりと念頭に浮かべておかなくてはならぬ。
 原勝郎はらかつろう氏はかつて室町時代は日本のルネッサンスの時代であると論じたことがある。日本の独自の文化であると考えられる平安朝の文化が、鎌倉時代の武家文化に覆われていた後に、ふたたびここで蘇生して来ているからである。この見方はなかなか当たっていると思われる。室町時代の文化を何となくおとしめるのは、江戸幕府の政策に起因した一種の偏見であって、公平な評価ではない。我々はよほどこの点を見なおさなくてはなるまいと思う。
 室町時代の中心は、応永(一三九四―一四二八)永享(一四二九―一四四一)のころであるが、それについて、連歌師心敬は、『ひとり言』の中でおもしろいことを言っている。元来この書は、心敬しんけいが応仁の乱を避けて武蔵野にやって来て、品川あたりに住んでいて、応仁二年(一四六八)に書いたものであるが、その書の末尾にいろいろな名人を数え上げ、それが皆三、四十年前の人であることを省みて、次のように慨嘆しているのである。「程なく今の世に万の道すたれ果て、名をえたる人ひとりも聞え侍らぬにて思ひ合はするに、応永の比永享年中に、諸道の明匠出うせ侍るにや。今より後の世には、その比は延喜えんぎ一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永享時代の讃美を聞いたことはかつてなかった。それどころか、応永、永享というごとき年号を、記憶に留めるほどの刺激を受けたこともなかった。連歌の名匠心敬に右のごとき言葉があることを知ったのも、老年になってからである。しかし心敬のあげた証拠だけを見ても、この時代が延喜時代に劣るとは考えられない。心敬は猿楽の世阿弥(一三六三―一四四三)を無双不思議とほめているが、我々から見ても無双不思議である。能楽が今でも日本文化の一つの代表的な産物として世界に提供し得られるものであるとすれば、その内の少なからぬ部分の創作者である世阿弥ぜあみは、世界的な作家として認められなくてはなるまい。のみならず世阿弥は、能楽に関する理論においても、実に優秀な数々の著作を残しているのである。また心敬は、絵かきの周文を、最第一、二、三百年の間に一人の人とほめている。周文しゅうぶんは応永ごろの人であるが、彼の墨絵はこの時代の絵画の様式を決定したと言ってもよいであろう。そうしてこの墨絵もまた、日本文化の一つの代表的な産物として、世界に提供し得られるものである。もっとも、絵画の点では、雪舟(一四二〇―一五〇六)が応仁のころにもうシナから帰朝していたので、「絵かきの道すたれ果て」とは言えぬのであるが、しかし彼の名はまだ心敬には聞こえていなかったかもしれぬ。禅においては、一休和尚(一三九四―一四八一)がこの時にまだ生きていた。心敬はこの人を、行儀、心地ともに独得の人としてほめている。よほど個性の顕著な人であったのであろう。そうしてこの禅の体得ということも、日本文化の一つの特徴として、今でも世界に向かって披露せられている点である。そうしてみると、これらの三つの点だけでも、応永時代は延喜時代よりも重要だと言わなくてはなるまい。
 もっとも、この三つの点以外であげられている名人は、我々にはちょっと歯の立たない連中である。詩人では南禅寺の惟肖和尚が、二、三百年このかた、比べるもののない最一の作者とされている。平家がたりでは、千都検校が、昔より第一のもの、二、三百年の間に一人の人である。碁うちでは、大山の衆徒大円早歌では、清阿口阿尺八では、増阿。いずれもその後に及ぶもののない無双の上手とされている。我々には理解のできない問題であるが、諸道の明匠が雲のごとく顕われていた応永、永享の時代を飾るに足る花なのであろう。
 ところで、そういう時代の思想界から誰を代表者として選ぶかということになると、やはり一条兼良いちじょうかねら(一四〇二―一四八一)のほかはないであろう。兼良は応永九年の生まれで、応永時代の代表者としては少しく遅いが、しかしそれでも応永の末には右大臣、永享四年には関白となっている。この時にはすぐにやめたが、十五年後四十五歳の時にふたたび関白太政大臣となり、さらに六十五歳の時三度関白となった。しかしそういう地位からばかりでなく、その学識の点において、応永、永享の時代を代表するに足りるであろう。彼の眼界は、日本、シナ、インドの全体にわたり、仏教哲学、程朱ていしゅの学、日本の古典などにすべて通じている。著書も多く、当時の学問の集大成の観がある。したがって思想傾向も、一切を取り入れて統一しようという無傾向の傾向であって、好くいえば総合的、悪く言えば混淆こんこう的である。その主張を一語でいうと、神儒仏の三者は同一の真理を示している、一心すなわち神すなわち道、三にして一、一にして三である、ということになるであろう。
 この兼良が晩年に将軍義尚よしひさのために書いた『文明一統記』や『樵談治要しょうだんちよう』などは、相当に広く流布して、一般に武士の間で読まれたもののように思われるが、その内容は北畠親房きたばたけちかふさなどと同じような正直慈悲の政治理想を説いたものである。この思想は正義と仁愛との相即を中核とする点において特徴のあるものであるが、しかし日本では古くから成立していたものであって、この時代に限った現象ではない。この時代として特に注目せらるべき点は、武家の権力政治が数世紀にわたって行なわれた後に、なおこのような王朝時代の政治理想が依然として説かれている点である。これは最初に言及したルネッサンスとしての意義にも関係しているであろう。同じ兼良が将軍義尚の母、すなわち義政夫人の日野富子ひのとみこのために書いた『小夜のねざめ』には、このことが一層明白に現われている。この書もこの後の時代に広く読まれたようであるが、その内容は人としての教養の準則を説いたものである。自然美を十分に味わうべきこと、文芸を心の糧とすべきこと、その文芸も『万葉集』、『源氏物語』のごとき古典に親しむべきこと、連歌や歌の判のことなども心得べきこと、などを説いた後に、実践の問題に立ち入って、人を見る明が何よりも大切であることを教えている。全然王朝の理想によって教養を作ろうとしたものである。
 こういう点においても明らかなように、兼良は応永、永享の精神を代表したものであって、応仁以後の時代の精神には全然他人であると言ってよい。彼は応仁乱後数年まで生きていたのであり、『樵談治要』なども乱後に書いたものであるが、しかし彼が新しい時代に対して抱いたのはただ恐怖のみであって、新しい建設への見通しでもなければ、新しい指導的精神の思索でもなかった。『樵談治要』のなかに彼は「足軽あしがる」の徹底的禁止を論じている。足軽は応仁の乱から生じたものであるが、これは暴徒にほかならない。下剋上の現象である。これを抑えなければ社会は崩壊してしまうであろう、というのである。彼は民衆の力の勃興を眼前に見ながら、そこに新しい時代の機運の動いていることを看取し得ないのであった。正長、永享の土一揆は彼の三十歳近いころの出来事であり、嘉吉かきつの土一揆、民衆の強要による一国平均の沙汰さたは、彼の三十九歳の時のことで、民衆の運動は彼の熟知していたところであるが、彼にとってはそれはただ悲しむべき秩序の破壊にすぎなかったであろう。今やその民衆の力が、軍隊の主要部を形成するに至った。それが足軽である。だから彼は社会の崩壊を怖れたのである。

 以上のごとく、応永、永享の精神から見れば、応仁以後の時代は下剋上の時代、秩序なき時代、社会崩壊の時代であった。この新しい時代を代表するものは、(一)政治化した土一揆や宗教一揆に現われているような民衆の運動、(二)足軽の進出に媒介せられた新しい武士団の勃興、ひいては群雄の勃興である。ここではまず第一民衆に視点を置いて、その中にどういう思想が動いていたかを問題としよう。
 応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化して来た。文明十七年(一四八五)の山城の国一揆、長享二年(一四八八)の加賀の一向一揆などはその著明な例である。これらは兼良の没後数年にして起こったことであるが、世界の情勢からいうと、インド航路打通の運動がようやくアフリカ南端に達したころの出来事である。
 このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も直接に反映したものとして取り扱ってよいであろう。民俗学者が問題としているような民間の説話で、ただこの時代の物語にのみ姿を見せているもののあることを考えると、この時代の物語の民衆性は疑うことができない。ただしかし、それらの物語を特に応仁以後の時代の製作として確証し得るかどうかは疑問である。中にはもっと古い時代の写本が見いだされているものもある。しかしそれらの物語がさかんに書写され、したがってさかんに受用されたのが、室町末期であったことは、認めてよいであろう。その限り我々は、これらの物語において応仁以後の時代の民衆の心情に接し得るのである。
 さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神蘇りの神を主題としたものであった。
 その一つは『熊野の本地』である。これは日本の神社のうちでも最も有名なものの一つである熊野権現の縁起物語であるから、その流布の範囲はかなり広汎であったと考えなくてはならない。ところでそこに語られているのは、熊野に今まつられている神々が、もとインドにおいてどういう経歴を経て来たかということなのである。したがってそこには、インドのマガダ国王の宮廷に起こった出来事が物語られている。しかもそこに描かれている世界は、衣裳、風俗から役人の名に至るまで、全然『源氏物語』ふうであって、インドを思わせるものは何もないのである。
 女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人のきさきが国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛ちょうあいを一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛じゅそが女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直前にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子をはぐくんだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。王子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎ぎおんしょうじゃの聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経過を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴なって、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んで来た。これが熊野三所の権現だというのである。
 この物語では、女主人公の苦難や、首なくしてなおその乳房で嬰児を養っている痛ましい姿が、物語の焦点となっているが、しかしこの女主人公自身が熊野の権現となったとせられるのではない。ただ首なき母親に哺育せられた憐れな太子と、その父と伯父とのみが熊野権現になるのである。しかるに同じ『熊野の本地』の異本のなかには、さらに女主人公自身を権現とするものがある。そのためには女主人公が首を切られただけに留めておくわけに行かない。首なき母親に哺育せられた新王は、この慈悲深い母妃への愛慕のあまりに、母妃の蘇りに努力し、ついにそれに成功するのである。そうして日本へ飛来する時には母妃をも伴なってくる。だから首なくしてなおその乳房で嬰児を養っていた妃が熊野の権現となるのである。ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。
 ところでこの苦しむ神、蘇る神の物語は、『熊野の本地』には限らないのである。有名な点において熊野に劣らない厳島いつくしま神社の神もまた同じような物語を背負っている。『厳島の縁起』がそれである。ここでも物語の世界はインドであり、そうしてそれが同じように『源氏物語ふうに描かれているのであるが、しかし話の筋はよほど違っている。宮廷には父王とその千人の妃があり、それに対して新王は、恋愛のことにははなはだ理想主義的であって、理想の女のほかには妃嬪きひんを寄せつけない。ついに新王は、さまざまの冒険の後に、理想の王女を遠い異国から連れてくる。この美しい妃が女主人公なのである。そこでこの妃のその後の運命を語る段になると、話は俄然がぜん『熊野の本地』に一致してくる。父王の千人の妃たちの憎悪と迫害がこの新王の美しい妃に集まり、妃を孤立させるために相人そうにんを利用して新王を遠い地方へ送り出してしまう。守り手のない妃のところへは武士をさし向け、妃を山中に拉して首を切らせる。そうして、ここにも首なき母親の哺乳が語られるのである。しかし新王が十二年の旅から帰って来て妃の運命を知った時には、話はまた違ってくる。新王はただ一人で妃の探索に出かけ、妃の夢の告げによって山中で妃の白骨と十二歳になった王子とを見いだすのである。そこで不老上人に乞うて妃を元の姿に行ないかえしてもらうということが、話の本筋にはいってくる。妃の蘇りにとってさまたげとなったのは、妃の首の骨がないことであった。王子はその首の骨を取り返すために宮廷に行き、祖父の王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討ったのち、母妃の首の骨を見つけ出して来た。それによって美しい妃の蘇りが成功する。この蘇った妃と、その首なきむくろに哺まれた王子と、父の王と、それが厳島の神々なのである。苦しむ神、死んで蘇る神は、ここでは一層顕著であるといわなくてはならぬ。
 わたくしはこういう物語がどういう源泉から出て来たかは知らないのである。物語の世界がインドであるところから、仏典のどこかに材料があるかとも思われるが、しかしまださがしあてることができぬ。物語自体の与える印象では、どうも仏典から来たものではなさそうである。死んで蘇る妃は、「十二ひとへにしやうずき、くれないのちしほのはかまの中をふみ、金泥こんでいの法華経の五のまきを、左に持たせ給ふ」などと描かれている。これは全然日本的な想像である。のみならず、苦しむ神の観念は、仏典と全然縁のないらしい、民間説話に基づいた物語のなかにも現われている。そうなるとこの観念は、日本の民衆の中からき出て来たと考えるほかないのである。
 民間説話に題材を取ったらしい物語のなかで、最も目につくのは、伊予の三島明神の縁起物語『みしま』である。この明神はもと三島の郡の長者であった。四万の倉、五万人の侍、三千人の女房を持って、栄華をきわめていたが、不幸にして子がなかった。で、北の方のすすめにしたがって、長谷の観音に参籠さんろうし、子をさずけられるように祈った。三七日みなぬかの夜半に観音は、子種のないことを宣したが、長者は観音に強請して、一切の財産を投げ出す代わりに子種を得るということになった。やがて北の方は美しい玉王を生んだが、その代わり長者の富はすべて消えて行った。長者は北の方とただ二人で赤貧の暮らしを始める。ある朝女房は、玉王を背負うて磯の若布を拾いに出たが、赤児を岩の上にでも落としてはという心配から、砂の上に玉王をおろして、ひとりで若布拾いにかかった。そのすきに鷲が舞いおりて、玉王をさらって飛び去った。母親は「四万の倉の宝に代へてもうけたる子を、何処へ取り行くぞや」と言って追いかけたが、鷲は四か国の境の山岳の方へ姿を消してしまった。長者夫妻は非常な嘆きに沈んで、鷲が飛んで行ったその深山の中へ、子をさがしに分け入った。
 玉王をさらった鷲は、阿波の国のらいとうの衛門の庭のびわの木に嬰児をおろして、虚空に飛び去った。衛門は子がなかったので、美しい子を授かったことを喜び、大切に育てた。すると玉王の五歳の時、国の目代もくだいがこのことを聞いて、自分も子がないために、無理に取り上げて自分の手もとに置いた。七歳の時にはさらに阿波の国司がこのことを聞いて、目代から玉王を取り上げ、傍を離さず愛育したが、十歳の時、みかどがこれを御覧ごろうじて、殿上に召され、ことのほか寵愛された。十七の時にはもう国司の宣旨せんじが下った。ところが筑紫へ赴任する前に、ある日前栽せんざいで花を見ていると、内裏だいりを拝みに来た四国の田舎人たちが築地ついじの外で議論するのが聞こえた。その人たちは玉王を見て、あれはらいとうの衛門の子ではないかと言って騒いでいたのである。玉王はそれを聞いて、自分が鷲にさらわれた子であることを知った。で、みかどに乞うて四国の国司にしてもらい、ほんとうの親の探索にかかった。まず阿波の国に行って衛門に逢い、子を鷲にさらわれた者を探したが、一人もなかった。ついで伊予の国に行って、法会ほうえにこと寄せて二十歳以上の人々を集め、同じく子を鷲にとられた者を調べたが、ここでもわからなかった。そこで玉王はいら立って、老年のために出頭しない者があるならば、引き出物をしても連れて来いと命じた。そのとき、四か国の境の山中に、世を離れて住んでいる老人夫婦があることを言い出したものがあった。それが取り上げられて、ついに探索隊が派遣された。
 探索隊は深い山の中をさがし回って、ようやく老夫婦を見いだしたが、その老夫婦は、この十七年来人に逢ったことわずかに二度であると語り、浮世に出て来ることをがえんじなかった。探索隊の役人たちは、やむなく老夫婦をしばり上げ、むちうち、責めさいなんで、山から引きずりおろして来た。里に出て宿を取るときには、逃亡を怖れて老夫婦にうすを背負わせた。老夫婦の受けた苦難はまことに惨憺たるものであったが、物語は特にその苦難を詳細に描いている。それは玉王の前に連れ出されたときの親子再会の喜びをできるだけ強烈ならしめるためであろう。しかも作者は、この再会の喜びをも、実に注意深く、徐々に展開して行くのである。まず玉王は、連れ込まれて来た老夫婦をながめて、それらを縛り上げている役人たちをしかりつけ、急いでその縄を解かせる。そうしてこの寛仁な国司が十七年前に鷲にさらわれた愛子であることを、一歩ずつ老夫婦に飲み込ませて行く。それに伴なって老夫婦は徐々に歓喜の絶頂に導かれて行くのであるが、それはまた読者にとっても歓喜の絶頂となるのである。
 三島の明神とはこの苦難を味わった長者のことである。長者の妻もまた讃岐さぬきの国の一の宮としてまつられている。我々はここにも苦しむ神の類型を見ることができるであろう。物語の作者は、長者夫婦が愛児を失った時の悲嘆や、山から無理やりに連れ出されてくるときの苦しみを、特に力を入れて描写している。それはこの神々を苦しむ神として示そうとする意図を作者が持っていることの明らかな証拠である。そういう意図が、日本の民間説話である長者伝説を材料として、非常に力強く表現せられているところを見ると、苦しむ神の観念が日本の民衆のなかから湧き出て来たと考えても、あまり行きすぎではないように思われる。
 このように苦しむ神死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。

 民衆のなかに右のような思想が動いていたとして、次に第二に、新興武士階級においてはどうであったであろうか。
 新興武士階級も武力をもって権力を握ろうとする点において旧来の武士階級と異なったものではないが、しかし応仁以前の伝統的な武家とは一つの点においてはっきりと違うのである。それは旧来の武家が伝統の上に立っていたのに対して、新しい武家が実力の上に立っているという点である。鎌倉時代の幕府政治を作り出した武家は、「源氏」というごとき由緒の上に立っていた。武家の棟梁とその家人との関係が、全国的な武士階級の組織の脊梁せきりょうであった。そうして初めは、彼らの武力による治安維持の努力が実際に目に見える功績であった。しかし後にはただ特権階級として、伝統の特権によって民衆の上に立っていたのである。しかし民衆運動が勃興して後には、由緒の代わりに実力が物をいうようになった。単なる家柄の代わりに実際の統率力民衆を治める力が必要となったのである。だから政治的才能の優れた統率者が、いわゆる「群雄」として勃興して来た。彼らを英雄たらしめたのは、民衆の心をつかみ得る彼らの才能にもよるが、また民衆の側の英雄崇拝的気分にもよるのである。
 群雄のうち最も早いものは、北条早雲である。彼は素姓のあまりはっきりしない男であるが、応仁の乱のまだ収まらないころであったか、あるいは乱後であったかに、上方かみがたから一介の浪人として、今川氏のところへ流れて来ていた。ちょうどそのころに今川氏に内訌ないこうが起こり、外からの干渉をも受けそうになっていたのを、この浪人が政治的手腕によってたくみに解決し、その功によって愛鷹山あしたかやま南麓の高国寺城を預かることになった。これがきっかけとなって、北条早雲ほうじょうそううんの関東制覇の仕事が始まったのである。彼が伊豆堀越御所を攻略して、伝統に対する実力の勝利を示したのは、延徳三年(一四九一)すなわち加賀の一向一揆の三年後であった。やがて明応四年(一四九五)には小田原城を、永正十五年(一五一八)には相模さがみ一国を征服した。ちょうどインド航路が打開され、アメリカが発見されて、ポルトガル人やスペイン人の征服の手が急にのび始めたころである。
 北条早雲の成功の原因は、戦争のうまかったことにもあるかもしれぬが、主として政治が良かったことにあるといわれている。特に政道にわたくしなく、租税を軽減したということが、民衆の人気を得たゆえんであろう。その具体的な現われは、小田原の城下町の繁盛であった。それは京都の盛り場よりも繁華であったといわれているが、戦乱つづきの当時の状況を考えると、実際にそうであったかもしれない。
 この北条早雲の名において、『早雲寺殿二十一条』という掟書おきてがきが残っているが、これはその内容の直截ちょくせつ簡明な点において非常に気持ちの好いものである。その中で最も力説せられているのは「正直」であって、その点、伝統的な思想と少しも変わらないのであるが、しかしその正直を説く態度のなかに、前代に見られないような率直さ、おのれを赤裸々に投げ出し得る強さが見られると思う。「上たるをば敬ひ、下たるをばあはれみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのまゝなる心持、仏意冥慮にもかなふと見えたり」とか、「上下万民に対し、一言半句もうそを云はず、かりそめにもありのまゝたるべし」とかという場合の、ありのままという言葉に現わされた気持ちがそれである。虚飾に流れていた前代の因襲的な気風に対して、ここには実力の上に立つあけすけの態度がある。戦国時代のことであるから、陰謀、術策、ためにする宣伝などもさかんに行なわれていたことであろうが、しかし彼は、そういうやり方に弱者の卑劣さを認め、ありのままの態度に強者の高貴性を認めているのである。そうしてまたそれが結局において成功の近道であったであろう。
 なお早雲の掟には、禅宗の影響が強く現われている。彼のありのままを説く思想の根柢はたぶん禅宗であろう。部下の武士たちへの訓戒もそこから来ているのであって、武術の鍛錬よりも学問や芸術の方を熱心にすすめているのは、そのゆえであろう。力をもって事をなすは下の人であり、心を働かして事をなすのが上の人であるとの立場は、ここにもうはっきりと現われていると思う。
 早雲と同じころに擡頭たいとうした越前の朝倉敏景も注目すべき英雄である。朝倉氏はもと斯波しば氏の部将にすぎなかったが、応仁の乱の際に自立して越前の守護になった。そうして後に織田信長おだのぶながにとっての最大の脅威となるだけの勢力を築き上げたのである。『朝倉敏景十七箇条』は、「入道一箇半身にて不思議に国をとりしより以来、昼夜目をつながず工夫致し、ある時は諸方の名人をあつめ、そのかたるを耳にはさみ、今かくの如くに候」といっているごとく、彼の体験より出たものであるが、その中で最も目につくのは、伝統や因襲からの解放である。人事については家柄に頼らず、一々の人の器用忠節を見きわめて任用すべきことを力説している。戦争については、吉日を選び、方角を考えて時日を移すというような、迷信からの脱却を重大な心掛けとして説いている。その他正直者の重用を説き、理非を絶対に曲げてはならないこと、断乎たる処分も結局は慈悲の殺生であることなどを力説しているのも、目につく点である。我々はそこに、精神の自由さと道義的背景の硬さとを感じ得るように思う。
 やや時代の下るもののうち注目すべきは、『多胡辰敬家訓たごときたかかくん』である。これはたぶんシャビエルが日本へ渡来したころの前後に書かれたものであろう。多胡辰敬は尼子あまこ氏の部将で、石見いわみ刺賀さっか岩山城を守っていた人であるが、その祖先の多胡重俊しげとしは、将軍義満よしみつに仕え、日本一のばくち打ちという評判を取った人であった。後三代、ばくちの名人が続いたが、辰敬の祖父はばくちをやめ、応仁の乱の際に京都で武名をあげたという。辰敬の父も「近代の名人」と評判されたが、実際はばくちをきらっていた。『辰敬家訓』として述べるものも、実はこの父の教訓にほかならない。辰敬自身は、青年時代以来諸国を放浪して歩いたが、その間に、「力を以て事をなすは下の人、心を働かして心にて事をなすは上の人」と悟ったのである。悟ってみると父の教訓がしみじみと思い出されて来る。で、心を正直に持ち、ついに身を立てることができたのであった。
 辰敬はこの体験にもとづいて、学問の必要を何よりも強く力説している。したがってこの家訓は、学問と道理とに対する関心のもとに、主として学問の心得を説いたものだといってよいのである。
 まず初めに手習い学問の勧めを説き、「年の若き時、夜を日になしても手習学文をすべし。学文なき人は理非をもわきまへ難し」と言っているが、ここで勧められているのは、文芸を初め諸種の技芸である。しかもその勧めは、前にあげた兼良の『小夜のねざめ』と同じく、平安朝の文芸を模範とした教養の理想のもとに立っているのである。それを説いているのが戦国末期の勇猛な武士であるというところに、我々は非常な興味を覚える。
 が、『辰敬家訓』の一層顕著な特徴は、「算用」という概念を用いて合理的な思惟を勧めている点である。彼はいう、「算用を知れば道理を知る。道理を知れば迷ひなし」。その道理というのは、自然現象の中にあるきまりを意味するとともに、また人間の行為を支配する当為の法則をも意味している。しかもその後者を考えるに際して、かなり綿密である。たとえば人間の道理の一例として、彼は、「身持が身の程を超えれば天罰を蒙る」という命題をかかげる。これはギリシア人などが極力驕慢を警戒したのと同じ考えで、ギリシアにおいても神々の罰が覿面てきめんに下ったのである。しかし彼はそのあとへ、「位よりも卑下すれば我身の罰が当る」と付け加えている。自敬の念を失うことは、驕慢と同じく罰に価するのである。ここに我々は、実力格闘の体験のなかから自覚されて来た人格尊重の念を看取することができるであろう。彼はこういう道義的反省をも算用と呼んだのであった。家の中で非常に親しくしている仲であっても、公共の場所では慇懃いんぎんな態度をとれとか、召使は客人の前では厳密に規律を守らせ、人目のない時にいたわってやれとか、というような公私の区別も、彼にとって算用であった。人を躾けるやり方についても、小さい不正の度重なる方が、まれに大きい不正を犯すよりは重大である、ということを見抜くのは、やはり算用である。大なるとがはまれであるが、小なるとがは日々に犯されるゆえに、ほっておけば習性になる。だから大きいとがは人によって許してよいが、小さいとがは決して許してはならないのである。こういう算用を戦国武士が丹念にやっていたということは、注目に価すると言ってよいであろう。
 以上の三つの家訓書は、目ぼしい戦国武士がみずから書いたものである。それだけで新興武士階級の思想を全面的に知ることはむずかしいかもしれぬが、しかしここに指導的な思想があったことを認めてもよいであろう。そういう視点を持ちながら、キリシタンの宣教師たちが戦国時代末期の日本の武士たちについて書いているところを読むと、なるほどそうであったろうとうなずける点が非常に多いのである。戦国の武士の道義的性格は決して弱いものではなかった。また真実を愛し、迷信を斥け、合理的に物を考えようとする傾向においても、すでに近代を受け入れるだけの準備はできていた。

 以上のごとく見れば、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかにあっても、ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況は、十分に成立していたということができるのであろう。だから半世紀の間にキリシタンの宣教師たちのやった仕事は、実際おどろくべき成果をおさめたのである。
 しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅いんめつさせられてしまった。したがってあれほど大きい、深い根をおろした文化運動も、日本の歴史では、ちょっとした挿話くらいにしか取り扱われないことになった。
 そういうことの行なわれていた間の日本人の思想的情況を知る材料として、私は『甲陽軍鑑こうようぐんかん』に非常に興味を持つのである。
 この書は、それ自身の標榜するところによると、武田信玄たけだしんげんの老臣高坂弾正信昌こうさかだんじょうのぶまさが、勝頼かつより長篠ながしの敗戦のあとで、若い主人のために書き綴ったということになっている。内容は、武田信玄の家法、信玄一代記、家臣の言行録、山本勘助伝など雑多であるが、書名から連想せられやすい軍法のことは付録として取り扱われている程度で、大体は道徳訓である。この書がもしその標榜する通りに成立したものであるならば、『多胡辰敬家訓』などと同じ古さのものとして取り扱われなくてはならないが、しかしそれに対する批判はすでに十八世紀の初め、宝永のころから行なわれているのであって、それによると著者は、江戸時代初期の軍学者小幡勘兵衛景憲おばたかんべえかげのり(一五七二―一六六三)であろうと推定されている。景憲の祖父小幡山城は、信玄の重臣で、『軍鑑』の著者に擬せられている高坂弾正とともに川中島海津城を守っていた。弾正の没した時には景憲はようやく七歳であったが、事によると弾正の面影をおぼろに記憶していたかもしれない。景憲が弾正に仮託してこの書を書いたことには何かそういう根拠があるであろう。武田氏は景憲十一歳の時にほろんだのであるが、景憲の父の世代に属する武田の遺臣のうちには家康いえやすの旗下についたものが多く、景憲はそれらの人たちからいろいろなことを聞いたであろう。書いた時期は慶長の末ごろ、十七世紀の初めと推定せられている。
 この書を通読すれば、おそらく誰の目にも性質の異なる部分が識別せられるであろうと思う。(一)は高坂弾正の立場で物を言っている部分である。(二)は信玄一代記と山本勘助伝とのからみ合わせで、勘助の子の禅僧が書き残した記録を材料としたであろうと思われる。(三)は石清水いわしみず物語と呼ばれている部分で、信玄や老臣たちの語録である。これは古老の言い伝えによったものらしいが、非常におもしろい。(四)は軍法の巻で、何か古い記録を用いているであろう。(五)は公事くじの巻で、裁判の話を集録しているが、文章は(一)に似ている。(六)は将来軍記で、これも(一)に似ている。(五)と(六)を(一)に合併すれば、大体は四つの部分になる。
『甲陽軍鑑』がこれらの部分において語っていることは、非常に多種多様であるが、しかしそれを貫いて一つの道徳的理想が動いているように思われる。軍法の巻においてさえも、その主要な関心は、戦術や戦略の末ではなくしてその「もと」を探ることにあった。よき軍法の「もと」はよき采配である。よき采配のもとはよき法度である。よき法度のもとは正直・慈悲・智慧である。これが軍法の原理なのである。そういう着眼であるから、信玄の一代記にしても、戦国武士の言行録にしても、道徳的訓戒としての色彩が非常に濃い。
 ここにはその一例として、「命期の巻」(巻三―巻六)にある「我国をほろぼし我家をやぶる大将」の四類型をあげてみよう。
 第一は、ばかなる大将、鈍過ぎたる大将である。ここでばかというのは智能が足りないということではない。才能すぐれ、意志強く、武芸も人にまさっている、というような人でも、ばかなのがある。それはうぬぼれのある人である。「我することをばいずれをも能きこととばかり思ふ」人である。こういう人は下の者に智慧を盗まれる。というのは、おだてにのって、自分で善悪の判断をすることができなくなるのである。したがってますますばかになる。
 もっとも、家来というものは、そういう悪意はなくとも、主君のすることをほめるものである。それに対してはしかるべき心得がなくてはならない。賢明な大将は、事のよしあしは自分で判断する。したがって「善きことをほめるは道理と思ひ、悪しきことをほめるは、我への馳走時の挨拶と心得る」。しかるに、人によると、悪しきことをもほめる者を軽薄者として怒るのがある。これはばかである。一家中に、主君に直言するごとき家来は、五人か三人くらいしかないであろう。大部分は軽薄をいうのが通例である。それを心得ていないで怒るというのは、ばかというほかはない。
 大将がばかであるゆえに起こってくる結果は、同じようなばか者を重用するということである。そのばか者がまた同じようなばか者に諸役を言いつける。したがって家中で「はしり廻るほどの人」は、皆たわけがそろってしまう。そのたわけを家中の人が分別者利発人とほめる。ついに家中の十人の内九人までが軽薄なへつらい者になり、互いに利害相結んで、仲間ぼめと正直者の排除に努める。しかも大将は、うぬぼれのゆえに、この事態に気づかない。百人の中に四、五人の賢人があっても目にはつかない。いざという時には、この四、五人だけが役に立ち、平生忠義顔をしていた九十五人は影をかくしてしまう。家は滅亡のほかはないのである。
 第二は、利根すぎたる大将である。利害打算にはきわめて鋭敏であるが、賢でも剛でもない。「大略がさつなるをもつて、をごりやすうしてめりやすし」。好運の時には踏んぞりかえるが、不幸に逢うとしおれてしまう。口先では体裁のよいことをいうが、勘定高いゆえに無慈悲である。また見栄坊であって、何をしても他から非難されまいということが先に立つ。自分の独創を見せたがり、人まねと思われまいという用心にひきずられる。他をまねる場合でも、「人見せ善根」になってしまう。
 こういう大将は、地下じげの分限者、町人などにうまく付けこまれる。やがて、家風が町人化し、口前くちまえのうまい、利をもって人々を味方につける人が、はばを利かしてくる。百人の内九十五人は町人形儀ぎょうぎになり、残り五人は、人々に悪く言われ、気違い扱いにされて、何事にも口が出せなくなる。五人のうち三人は、ついに町人形儀と妥協し、あと二人はその家を去る。こうしてこの家中は、家老より小者に至るまで、意地ぎたない、人を抜こうとするような気風になってしまう。
 第三は、臆病なる大将である。「心愚痴にして女に似たる故、人をそねみ、富める者を好み、へつらへるを愛し、物ごと無穿鑿むせんさくに、分別なく、無慈悲にして心至らねば、人を見しり給はず」というような、心のつよさを欠いた、道義的性格の弱い人物である。したがって彼は、義理にしたがって動くのではなく、外聞を本にして動く。たとえば、けちだと言われまいと思って知行ちぎょうを多く与える類である。強い大将ならば、必要あって物を蓄える時には、貪欲と言われようと、意地ぎたないと言われようと、頓着しない。知行は人物や忠功を見て与えるのであって、外聞とかかわりはない。
 外聞によって動くような臆病な大将の下では、軽佻な、腹のすわらぬ人物が跋扈ばっこする。彼らは口先で人を言い負かそうとするような、性格の弱い、道義的背骨のない人物であって、おのれより優れたものを猜み、劣ったものを卑しめる。このそねみ卑しめとは、他に対する批判と厳密に区別されなくてはならない。法螺ほらふきをそしるとか、自慢話を言いけすとかというのは、正当な批判であって、そねみや卑しめではない。そねむのは優れた価値を引きおろすことであり、卑しめるのは人格に侮蔑を加えることであって、いずれも道義的には最も排斥さるべきことである。
 第四は、強すぎたる大将である。心たけく、機はしり、大略は弁舌も明らかに物をいい、智慧人にすぐれ、短気なることなく、静かに奥深く見えるのであるが、しかし何事についてもよわ見なることをきらう。この一つの欠点のゆえに、いろいろな破綻が生じてくるのである。家老は大将のこの性格をはばかって、その主張しようとする穏健な意見を、十分に筋を通して述べることができぬ。したがって不徹底、因循に見える。大将はそれを不満足に感ずる。そのすきにつけ込んで、野心のある侍が、大将の機に合うような強硬意見を持ち出すと、大将はただちに乗ってくる。野心家はますますそれをあおり立てて行く。その結果、大将は、智謀を軽んじ、武勇の士をことごとく失ってしまうことになる。なぜかと言えば、侍のうち、「剛強にして分別才覚ある男」は、上の部であるが二%にすぎず、「剛にして機のきいたる男」は、中の部であるが六%にすぎず、「武辺の手柄を望み、一道にすく男」は、下の部であっても一二%にすぎず、あと八〇%は「人並みの男」に過ぎないのであるが、強すぎた大将の下では、上中下の二〇%の武士を戦死させ、人並みの猿侍のみが残ることになるからである。こういう場合には、八〇%が残っていても、全滅と変わりはない。
 以上の四類型は国を滅ぼす大将の類型であるが、それによって理想の大将の類型が逆に押し出されてくる。それは賢明な、道義的性格のしっかりとした、仁慈に富んだ人物である。そこには古来の正直・慈悲・智慧の理想が有力に働いているが、特に「人を見る明」についての力説が目立っているように思われる。うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、道義的性格の尊重が彼の武士団を支配するということなのである。この書のねらっている武士の理想は、道徳的にすぐれた人物となるということのほかにはないと思う。
 一般に武士の理想を説く場合にも、正直・慈悲・智慧の理想が根柢となっていることは明らかであるが、しかしこの書全体にわたってなお一つの特徴が明白に現われているのを我々は指摘することができる。それは強烈な自敬の念である。前に多胡辰敬の家訓のなかから、おのれを卑下すればわが身の罰が当たるという言葉を引いたが、この心持ちはこの書では非常に強く説かれている。特に武道、男の道、武士道などを問題とする場合に顕著である。これらの言葉は本来は争闘の技術を言い現わしていたのであるが、そこに「心構え」が問題とされるようになると、明白に道徳的な意味に転化して来る。そうしてそこで中心的な地位を占めるのは、自敬の念なのである。おのれが臆病であることは、おのれ自身において許すことができぬ。だからおのれ自身のなかから、死を怖れぬ心構えが押し出されてくる。そういう人にとっておのれの面目が命よりも貴いのは、外聞に支配されるからではなく、自敬の念が要求するからなのである。同様に、おのれの意地ぎたなさや卑しさは、おのれ自身において許すことができぬ。だからここでもおのれ自身のなかから、男らしさの心構えが押し出されてくる。廉潔とうとぶのは、外聞のゆえではなくして、自敬の念のゆえである。こうして自敬の念に基づく心構えが、やがて武道とか男の道とかの主要な内容になってくると、争闘の技術としての武道の意味はむしろ「兵法」という言葉によって現わされるようになっている。そこで、武道、男の道、武士の道などと言われるものは、自敬の立場において、卑しさそのものを忌み貴さそのものを尚ぶ道徳である、と言い得られるようになる。これは尊卑を主とする道徳であり、したがって貴族主義的である。君子道徳と結びつき得る素地は、ここに十分に成立しているのである。
 この道徳の立場は、「敵を愛せよ」という代わりに「敵を敬せよ」という標語に現わし得られるかもしれない。「信玄家法」のなかに、敵の悪口いうべからずという一項がある。敵をののしることによって敵を憤激させれば、それだけ敵が強まることになって損である、という利害打算もあるいは含まれているのかもしれぬが、しかし根本にある考えは、尊敬し得ないようなものは敵とするに価しない、敵に取ったということは尊敬に価する証拠であるというにあるであろう。そういう心持ちを詳細に説明した個所もある。信玄自身は謙信に対する尊敬によってこのことを実証していたのであった。信玄の遺言といわれるものは、勝頼に対して、おれの死後謙信と和睦せよ、和睦ができたらば、謙信に対して頼むと一言言え、謙信はそう言ってよい人物であると教えている。真偽はとにかく、信玄はそういう人物と考えられていたのである。

 慶長の末ごろに小幡景憲が『甲陽軍鑑』を書いたのであったとすれば、そのころにもう徳川家康とくがわいえやすの新しい文教政策は始まっていたのである。この政策の核心は、日本人に対する精神的指導権を、仏教から儒教に移した、という点にあるであろう。かかる政策を激成したものは、キリシタンの運動の刺戟であったと思われる。
 秀吉ひでよしがキリシタン追放令を発布してから六年後の文禄二年(一五九三)に、当時五十二歳であった家康は、藤原惺窩ふじわらせいかを呼んで『貞観政要じょうがんせいよう』の講義をきいた。五十八歳の秀吉が征明の計画で手を焼いているのを静かにながめながら、家康は、馬上をもって天下を治め得ざるゆえんを考えていたのである。だから五年後に家康が政権を握ったときには、彼は、秀吉が征明の役を起こした時と同じ年齢であったが、秀吉とは全然逆に、学問の奨励をもっておのれの時代を始めたのである。慶長四年(一五九九)の『孔子家語こうしけご』、『六韜三略りくとうさんりゃく』の印行を初めとして、その後連年、『貞観政要』の刊行、古書の蒐集、駿府すんぷの文庫創設、江戸城内の文庫創設、金沢文庫の書籍の保存などに努めた。そうして慶長十二年(一六〇七)には、ついに林羅山はやしらざんを召し抱えるに至った。家康がキリシタン弾圧を始めたのは、それより五、六年後のことである。
 家康に『貞観政要』を講義した藤原惺窩は、いかなる特殊の内にも普遍の理が存することを力説した学者であった。海外との交通の手助けなどもしている。そう眼界の狭い学者であったとは思えない。彼の著として伝わっている『仮名性理かなせいり』あるいは『千代ちよもとぐさ』は、平易に儒教道徳を説いたものであるが、しかし実は、彼の著書であるかどうか不明のものである。同じ書は『心学五倫書』という題名のもとに無署名で刊行されていた。初めは熊沢蕃山くまざわばんざんが書いたと噂されていたが、蕃山自身はそれを否定し、古くからあったと言っている。惺窩の著と言われ始めたのは、その後である。しかるに他方には『本佐録』あるいは『天下国家の要録』と名づけられた書物があって、内容は右の『五倫書』と一致するところが多い。これは本多佐渡守ほんださどのかみの著と言われながら、早くより疑問視せられているものである。新井白石あらいはくせきは本多家から頼まれてその考証を書いているが、結論はどうも言葉を濁しているように思われる。しかしそれがいずれであっても、同一書を媒介として惺窩、蕃山、本多佐渡守の三人の名が結びついているという事実は、非常に興味深いものである。
 本多佐渡守は三河の徳川家の譜代の臣であるが、家康若年のころの野呂一揆に味方し、一揆が鎮圧したとき、徳川家を逐電ちくでんして、一向一揆の本場の加賀へ行ってしまった。そうしてそこで十八年働いた後に、四十五歳の時、本能寺の変に際して家康のもとに帰参したのである。その閲歴から見て狂熱的な一向宗信者であったと推測せられるが、しかしキリシタンの宣教師の報告によると、家康の重臣中では彼が最もキリシタンに同情を持っていたという。慶長六年(一六〇一)には彼はオルガンチノに対してキリシタンをほめ、その解禁のために尽力した。同十二年にも、パエスのために斡旋あっせんしている。宣教師に対して、禁教緩和の望みがあるような印象を与えたのは、彼とその子息の上野守こうずけのかみなのである。一向宗の狂信が依然として続いていたとすれば、おそらくこういう態度を取ることはできなかったであろう。したがって帰参のころには一向宗の熱はめていたと推測するほかはない。しかし一向宗の信仰に没入して行くような性格は、依然として変わらなかったであろうし、そのゆえにキリシタンに対する理解や同情があったであろうことも、察するに難くない。それがおのずから宣教師によき印象を与えたのであろう。が、周囲の情況は彼をキリシタンに近づけるよりは、むしろ儒教の方へ押しやったのである。そこで同じ性格の佐渡守が、『本佐録』において、熱烈な儒教の尊崇者として現われることになる。対象は変わって行くが、態度は同じなのである。天道の理、尭舜の道、五倫の教えは、ほとんど宗教的な情熱をもって説かれている。天道というのも、ここでは「天地の間のあるじ」なのであって、抽象的な道理なのではない。その「あるじ」が万物に充満していると説くところは、やや汎神論的に見えるが、しかしそれをあくまでも天地の主宰者として取り扱うところに、佐渡守の狂信の対象であった阿弥陀仏や、キリシタンの説いていたデウスとの相似を思わせる。そういう点を考えると、この書が佐渡守に帰せられていることは、非常に興味深いことになるのである。惺窩や蕃山は冷静な学者であって、佐渡守のような狂信的なところはない。江戸幕府の文教政策を定め、儒教をもって当時の思想の動揺を押えようとした当時の政治家は、冷静な理論よりもむしろ狂信的な情熱を必要としたのであろう。
 林羅山は慶長十二年(一六〇七)以後、幕府の文教政策に参画した。その時二十五歳であった。羅山はそれ以前から熱心な仏教排撃者であって、そういう論文をいくつか書いているが、それによると、解脱げだつは一私事であって、人倫の道の実現ではない、というのである。同時にまた彼は熱心なキリシタン排撃者であって、仕官の前年に『排耶蘇はいやそ』を書いている。松永貞徳まつながていとくとともに、『妙貞問答みょうていもんどう』の著者不干ふかんハビアンを訪ねた時の記事である。その時、まず第一に問題となったのは、「大地は円いかどうか」ということであった。羅山はハビアンの説明を全然受けつけず、この問題を考えてみようとさえしていない。次に問題となったのは、プリズムやレンズなどであるが、羅山はキリシタンに対する憎悪をこういう道具の上にまであびせかけ、光線の現象などに注意を向けようとはしていない。最後に取り上げられたのは、『妙貞問答』やマテオ・リッチの著書などである。羅山は、『妙貞問答』における神儒仏の批判が、単なる罵倒であって、批判になっていない、という点を指摘する。しかし羅山自身の天主に関する批判も同様である。「聖人を侮るの罪のみは忍ぶべからず」という態度であるから、ほとんど議論にはならないのである。したがってこの書は、青年羅山の眼界が非常に狭く、考え方が自由でないことを思わせる。
 羅山は非常に博学であって、多方面の著書を残している。その言説は権威あるものとして尚ばれていたであろう。しかし『排耶蘇』に現われているような偏頗へんぱな考え方は、決して克服されてはいないのである。またその点が、狂信的な情熱を必要とした幕府の政治家に、重んぜられたゆえんであろう。彼が幕府に仕えて後半世紀、承応三年(一六五四)に石川丈山いしかわじょうざんに与えて異学を論じた書簡がある。耶蘇は表面姿を消しているが、しかし異学に姿を変じて活躍している、あたかも妖狐の化けた妲己だっきのようである、というのである。その文章は実に陰惨なヒステリックな感じを与える。少しでも朱子学のらちの外に出て、自由に物を考える人は、耶蘇の姿を変じたものとして排撃を受けなくてはならないのである。彼の『草賊前後記そうぞくぜんごき』には、熊沢蕃山をかかる異学の徒としてあげている。蕃山は羅山よりもはるかに優れた学者であるが、羅山を重用する幕府の下においては、弾圧を受けざるを得なかったのである。
 家康が儒教によって文教政策を立てようとしたことには、一つの見識が認められるでもあろう。しかしヨーロッパでシェークスピアやベーコンがその「近代的」な仕事を仕上げているちょうどその時期に、わざわざシナの古代の理想へ帰って行くという試みは、何と言っても時代錯誤のそしりをまぬかれないであろう。家康自身はかならずしも時代に逆行するつもりはなかったかもしれないが、彼の用いた羅山は明らかに保守的反動的な偏向によって日本人の自由な思索活動を妨げたのである。それが鎖国政策と時を同じくして起こったのであるから、日本人の思索活動にとっては、不幸は倍になったと言ってよかろう。当時の日本人の思索能力は、決して弱かったとはいえない。中江藤樹なかえとうじゅ、熊沢蕃山、山鹿素行やまがそこう伊藤仁斎いとうじんさい、やや遅れて新井白石、荻生徂徠おぎゅうそらいなどの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである。
 鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な偏狭な精神を跋扈せしめたということである。慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕ごうとうな精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる。思想的情況もまたそうである。
(昭和二十六年二月)





底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央公論」
   1951(昭和26)年3月号
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月5日作成
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