夏目先生の追憶

和辻哲郎





 夏目先生の大きい死にあってから今日は八日目である。私の心は先生の追懐に充ちている。しかし私の乱れた頭はただ一つの糸をも確かに手繰たぐり出すことができない。私は夜ふくるまでここに茫然と火鉢の火を見まもっていた。
 昨日私は先生について筆を執る事を約した。その時の気持ちでは、先生を思い出すごとに涙ぐんでいるこのごろの自分にとって、先生の人格や芸術を論ずるのがせめてもの心やりであるように思えたのであった。しかし今日になってみると、私は自分の心があまりに落ちついていないのに驚く。何を論ずるのだ。今ここで追懐の涙なしに先生の人格を思うことができるのか。ことに先生の芸術については、今新しく読みかえしている暇がない。数多い製作のあるものはおぼろな記憶のかすみのかなたにほとんど影を失いかかっている。あるものはただ少年時の感激によってのみ記憶され、あるものは幾年かの時日によって印象を鈍らされている。それでなお先生の芸術を云為うんいすることができるのか。――私はあえて筆を執ろうとする自分の無謀にも驚かざるを得ない。しかも今私は二、三の事を書きたい衝動にられ初めた。私は断片的になる危険をおかして一気に書き続けようと思う。(もうすぐに先生の死後九日目が初まる。田舎の事とてあたりは地の底に沈んで行くように静かである。あ、はるかに法鼓ほうくの音が聞こえて来る。あの海べの大きな寺でも信心深い人々がこの夜を徹しようとしているのだ。)
 先生の追懐に胸を充たされながらなお静かに考えをまとめる事のできないのは、ただ先生の死を悲しむためばかりでない。よけいな事ではあるがここにもう一つの理由を付け加える事を許していただきたい。私は心からの涙に浸された先生の死のあとにそれとは相反ないたましい死を迎えるはずであった。しかし先生の死の光景は私を興奮させた。私は過激な言葉をもって反対者を責め家族の苦しみを冒して、とうとう今日の正午に瀕死の病人を包みくるんだ幾重かの嘘を切って落とす事に成功した。肉体の苦しみよりもむしろ虚偽と不誠実との刺激に苦しみもがいていた病人が、その瞬間に宿命を覚悟し、心の平静と清朗とを取り返すのを見た時、私の心はいかに異様な感情にふるえたろう。……私は感謝し喜び、そうして初めてまじり気のない感情でしみじみと病人を悲しみ傷んだ。生と死の厳粛さが今日から病室を支配し初めた。夜が明ければ私は何をおいても死んで行く者を慰めるために出かけなければならない。――私は落ちついて先生を論ずるよりも、かえってこの方が先生に対する感謝を現わすに適している事を感ずる。
 ――私は頭が乱れている。書き出しからしてもう主題にふさわしくない。


 偶然であるか必然であるかは私は知らない、とにかく私は先生の死について奇妙な現象を見た。この秋、私は幾度か先生を訪ねようとして果たさず、ほとんど三月ぶりで十一月二十三日に先生を訪ねた。その日はいい天気だったので、Aとともに戸山が原を散歩して早稲田まで行った。Aは仕事がいそがしいため先生の所へは寄らないはずであった。私はいっしょに行きたいと言っていろいろ押し問答しながら歩いた。突然Aはいっしょに行こうと言い出した。それから十分ほどで先生の所に着いた。するとちょうど十分ほど前に先生が最初に血を吐かれた所であった。
 私たちは何かの手伝いでもできれば結構と思って上がる事にした。座敷に通ってからふと床の間を見ると、床柱にかかった鼻まがりの天狗の面が掛け物の上に横面黒像を映している。珍しい面だと思って床柱を見たが、そこにはそんなに大きな面は掛かっていない。では小さい面が光のぐあいで大きく映ったのかしらと床柱の側まで行って見ると、そこに掛かっているのはただ羽団扇はうちわと円い団扇だけであった。しかし影は格好から、釣合から、どうしてもほんとうの面としか見えなかった。あまりうまくできているのでその面が奇妙に気に掛かり、あとで悪かったと感じたほど執拗しつようにその面を問題にした。――この出来事がひどく気になっていただけに、臨終の日「死面しめん」という言葉を聞いた時、私は異様な感じに胸を打たれた。ほんとうに悪い辻占つじうらないであった。鼻の曲がっていたことも。
 私が先生に初めて紹介された日にも奇妙な事があった。十八の正月に『倫敦塔ろんどんとう』を読んで以来書きたかった手紙を、私は二十五の秋にやっと先生にあてて書いて、それを郵便箱に投げ入れてから芝居に行った。私の胸にはまだその手紙を書いた時の興奮が残っていた。その時に廊下で先生に紹介された。それまでかつて芝居や音楽会で先生を見かけた事のなかった私が、その日特に芝居で先生と落ち合わなければならなかったのは私にひどく不思議に思えた。少なくとも私だけにはその日がただの日ではないように見えた。


 先生を高等学校の廊下で毎日のように見たころは、ただ峻厳しゅんげんな近寄り難い感じがした。友人たちと夕方の散歩によく先生の千駄木せんだぎの家に行ったが、中へはいって行く勇気はどうしても出なかった。しかし先生に紹介された時の印象はまるで反対であった。先生は優しくて人を吸いつけるようであった。そうしてこの印象は最後まで続いた。私はいかに峻厳な先生の表情に接する時にも、先生の温情を感じないではいられなかった。
 私が先生を近寄り難く感じた心理は今でも無理とは思わない。私は現在同じ心理を、自分の敬愛する××先生に対して経験している。それはおそらく自分の怯懦きょうだから出るのであろう。しかしこの怯懦は相手があたかも良心のごとく、自分に働きかけて来るから起こるのである。その前に出た時自分の弱点と卑しさとを恥じないではいられないゆえに起こるのである。私は夏目先生が気むずかしい癇癪かんしゃく持ちであることを知っていた。もとよりそれは単なる「わがまま」ではない。すべて自己の道義的気質に抵触するものに対する本能的な気短い怒りである。従って、自己の確かでない感傷的な青年であった私は、自分が道義的にフラフラしているゆえをもって無意識に先生を恐れた。そうして先生の方へ積極的に進んで行く代わりに、先生の冷たさを感じていた。こういう感じを抱いた者はおそらく私一人ではなかったろうと思う。
 この事実を先生の方から見ればどうなるか。私はそれを明らかにするために先生の手紙の一節を引く。――
「……私は進んで人になついたりまた人をなつけたりする性の人間ではないようです。若い時はそんな挙動もあえてしたかも知れませんが、今はほとんどありません。好きな人があってもこちらから求めて出るような事は全くありません。……しかし今の私だって冷淡な人間ではありません。……
「私が高等学校にいた時分は世間全体が癪にさわってたまりませんでした。そのためにからだをめちゃくちゃに破壊してしまいました。だれからも好かれてもらいたく思いませんでした。私は高等学校で教えている間ただの一時間も学生から敬愛を受けてしかるべき教師の態度をもっていたという自覚はありませんでした。……けれども冷淡な人間では決してなかったのです。冷淡な人間ならああ癇癪は起こしません。
「私は今道に入ろうと心がけています。たとい漠然たる言葉にせよ、道に入ろうと心がけるものは冷淡ではありません。冷淡で道に入れるものはありません。」
 それは先生の前に怯懦を去った時ただちにわかったことであった。先生はむしろ情熱と感情の過剰に苦しむ人である。相手の心の動きを感じ過ぎるために苦しむ人である。愛において絶対の融合を欲しながら、それを不可能にする種々な心の影に対してあまりに眼の届き過ぎる人である。そのため先生の平生にはなるべく感動を超越しようとする努力があった。先生は相手の心の純不純をかなり鋭く直覚する。そうして相手の心を細かい隅々にわたって感得する。先生の心臓は活発にそれに反応するが、しかし先生はそれだけを露骨に発表することを好まなかった。先生は親切を陰でする、そうして顔を合わせた時にその親切について言及せられることを欲しない。先生にとっては、最も重大なことはただ黙々の内に、瞳と瞳との一瞬の交叉の内に通ぜらるべきであった。従って先生は対話の場合かなり無遠慮に露骨に突っ込んで来るにかかわらず、問題が自分なり相手なりの深みに触れて来ると、すぐに言葉を転じてしまう。そうして手ざわりのいい諧謔かいぎゃくをもって柔らかくその問題を包む(もちろん心の問題でもそれが個人的関係に即してではなく一つの人生観、思想問題としてならば、先生は底までも突っ込んで行くことを辞せなかった)。これらの所に先生の温情と厭世観との結合した現われがあったようである。
 右のような先生の傾向のために、諧謔は先生の感情表現の方法として欠くべからざるものであった。先生の諧謔には常に意味深いものが隠されている。熱情、愛、痛苦、憤怒など先生の露骨に現わすことを好まないものが。そうして人々は談笑の間に黙々としてこの中心の重大な意味を受け取るのである。先生がその愛する者に対する愛の発表はおもにこれであった。(私の考えではこれが「諧謔」の真の意味である。従って真に貴い諧謔は「痛苦」から、「悩み過ぎる人」から、「厭世的な心持ち」から、人生に「快活」をもたらそうとする愛の徴証として産まれるのである。そうでないものは単に浮薄なる心の徴候に過ぎぬ。)


 ――先生は「人間」を愛した。しかし不正なるもの不純なるものに対してはごうも仮借する所がなかった。その意味で先生の愛には「私」がなかった。私はここに先生の人格の重心があるのではないかと思う。
 正義に対する情熱、愛より「私」を去ろうとする努力、――これをほかにして先生の人格は考えられない。愛のうち自然的に最も強く存在する自愛に対しても、先生は「私」を許さなかった。そのために自己に対する不断の注意と警戒とを怠らなかった先生は、人間性の重大な暗黒面――利己主義――の鋭利な心理観察者として我々の前に現われた。
 先生にとっては「正しくあること」は「愛すること」よりも重いのである。私はかつて先生に向かって、愛する者の悪を心から憐れみ愛をもってその悪を救い得るほど愛を強くしたい、愛する者には欺かれてもいいというほどの大きい気持ちになりたいと言った事があった。その時先生は、そういう愛はひいきだ、私はどんな場合でも不正は罰しなくてはいられないと言われた。すなわち先生の考えでは、いかなる愛をもってしても不正を許すことは「私」なのである。たとえ自分の愛子であろうとも、不正を行なった点については、最も憎んでいる人間と何のえらぶ所もない。自分の最も愛するものであるがゆえに不正を許すのは、畢竟ひっきょうイゴイズムである。
 先生は自分の子供に対しても偏愛を非常に恐れた。親の愛は平等であるべきだ。もしそれを二、三にするくらいならむしろ平等に愛しない方がいい。この事は不断に厳密な自己省察を必要とするのであるが、先生はこの点について非常に注意を払っていた。そうしてこの心がけがやがて人生全体に対して公平無私であろうとする先生の努力となって現われた。


 先生が偏屈な奇行家として世間から認められているのは、右のような努力の結果である。ひいき眼なしに正直に言って、先生ほど常識に富んだ人間通はめったにない。また先生ほど人間のなすべき当然の行ないを尋常に行なっていた人もまれである。ただ先生はその正義の情熱のために、信ずる所をまげる事ができなかった。徳義的脊骨があまりにも固かった。それが卑屈と妥協と中途半端とに慣れた世間の眼に珍しく見えたまでである。
 しかし常識的という事が道義的鈍感を意味するならば、先生は常識的ではなかった。先生はいかなる場合にも第一義のものをごまかして通る事ができなかった。たとえ世間が普通の事と認めていようとも、とにかく虚偽や虚礼である以上は、先生はひどくそれをきらった。先生の重んずるのはただ道徳的心情である。形式習慣にむやみと反抗するのではなく、ただ道徳的心情よりいでてのみ動こうとしたのである。これを奇行と呼び偏屈とあざけるのは、世間の道義的水準の低さを思わせるばかりで、世間の名誉にはならない。
 先生の博士問題のごときも、これを「奇をてらう」として非難するのは、あまりに自己の卑しい心事をもって他を忖度そんたくし過ぎると思う。先生は博士制度が世間的にもまた学界のためにも非常に多くの弊害を伴なう事実に対して怒りを感じた。その内にひそむ虚偽、不公平、私情などに対して正義の情熱の燃え上がるのを禁じ得なかった。これは先生として当然な事である。「博士」は多くの場合に対世間的な根の浅い名声の案山子かかしである。博士であると否とにかかわらず学者の価値はその仕事の価値によってのみ定まる。しかも世間は「博士」が大きい仕事の標徴であるかのごとくに考えている。そこに不正と虚偽がある。この点についてはおそらく真に真理のために努力する学者たちは先生の態度を是認しないでいられないだろう。


 徳義的脊骨のあるものには四周からうるさい事、苦しい事が集まって来る。先生はそのために絶えず癇癪を起こさなければならなかった。しかも先生はその敏感と情熱とのために、さらに内からその苦しみを強くしなければならなかった。先生の禅情はこの痛苦の対策として現われた傾向である。
 先生の超脱の要求は(非人情への努力は)、痛苦の過多に苦しむ者のみが解し得る心持ちである。我々は非人情を呼ぶ声の裏にあふれ過ぎる人情のある事を忘れてはならない。娘がめっかちになって自分の前に出て来ても、ウンそうかと言って平気でいられるようになりたい、という言葉の奥には、熱し過ぎた親の愛が渦巻いているのである。
 超脱の要求は現実よりの逃避ではなくて現実の征服を目ざしている。現実の外に夢を築こうとするのではなくて現実の底に徹する力強いたじろがない態度を獲得しようとするのである。先生の人格が昇って行く道はここにあった。公正の情熱によって「私」を去ろうとする努力の傍には、超脱の要求によって「天」にこうとする熱望があるのであった。


 先生の諧謔はこの超脱の要求と結びつけて考えねばならぬ。もともと先生の気質には諧謔的な傾向が(江戸ッ児らしく)存在していたかもしれない。しかし先生は諧謔をもってすべてを片づけようとする人ではなかった。諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた。先生が単に好謔家として世間に通用しているのは、たまたま世間の不理解を現わすに過ぎないのである。我々は先生の人格が諧謔を通じて柔らかく現われるのを見る時、むしろ一種の貴さを感じないではいられなかった。そこには好謔家という観念にあてはまる何ものをも認める事ができない。
 先生の芸術はかくのごとき人格の表現である。
 先生は自己の人格の内からさまざまな人物や世界を造り出した。この造り出し方において私は先生の芸術の一特長を注意したいと思う。
 先生は眼の作家であるよりも心の作家であった。画家であるよりも心理家であった。見る人であるよりも考える人であった。小説家であるよりもむしろ哲人に近かった。そのためか、先生の作物に写実味の乏しいことは、さほど気にならない。(しかしドストイェフスキイが自分を写実主義と呼んだ意味でならば、先生もまた写実主義者である。)
 私は先生の芸術に著しいイデエを認める。一の作物の結構はすべてそのイデエから出ているように思う。この意味で先生の作物はかなり「作られた」という感じの強いものである。しかしその感じはイデエの力強さの下にすぐ消えて行く。そうして我々は赤裸々な先生の心と向き合って立つことになる。
 我々は先生の作物から単なる人生の報告を聞くのではない。一人の求道者の人間知と内的経路との告白を聞くのである。


 利己主義と正義、及びこの両者の争いは先生が最も力を入れて取り扱った問題であった。
『猫』は先生の全創作中最も露骨に情熱を現わしたものである。それだけにまた濃厚な諧謔をもって全体を包まなければならなかった。この作はおそらく先生の全生涯中最も道徳的癇癪の猛烈であった時代に書かれたものであろう。念入りに重ねられた諧謔の衣の下からは、世間の利己主義の不正に対する火のような憤怒と、徳義的脊骨を持った人間に対するあふれるような同情とがのぞいている。しかしこの時にはなお問題が先生自身の内生に食い入ってはいなかった。その後の諸作は漸次問題が内に深まって行く経路を示している。そうして最後の『明暗』に至って憤怒はほとんど憐愍れんびんに近づき、同情はほとんど全人間に平等に行きわたろうとしている。顧みてこの十三年の開展を思うとき、先生もはるかな道を歩いて来たものだと思う。
 その経路を概観してみると、『猫』の次に『野分』において正義の情熱の露骨な表現があった。『虞美人草』に至っては鮮やかな類型的描写によって、卑屈な利己主義や、征服欲の盛んな我欲や、正義の情熱や、厭世的なあきらめなどの心理を剔抉てっけつした。その後の諸作においては絶えずこの問題に触れてはいたが、それを著しく深めて描いたのは『心』である。この作においては利己主義はついに純然たる自己内生の問題として取り扱われている。私は利己主義の悪と醜さとをかくまで力強く鮮明に描いた作を他に知らない。また執拗な利己主義を窒息させなければやまない正義の重圧の気味悪い底力も、前者ほど突っ込んではないが(特に重大な所にギャップはあるが)、力を入れて描いてある。次の『道草』においても利己主義は自己の問題として愛との対決を迫られている。この作で特に目につくのは、主人公の我がいかに頑固に骨に食い入っているかをその生い立ちによって明らかにしたこと、夫や妻やその他の人々の利己主義を平等に憎んでいること、その利己主義を打ち砕くべき場合方法などを繰り返し繰り返し暗示していること、結局それがだんだん実現されそうになって行くという幾分光明のある結末が先生の作としてきわめて珍しいことなどである。この作は明らかに次いで現われた『明暗』の前提をなしている。『明暗』においては利己主義の描写が辛辣しんらつをきわめているにかかわらず、作者は各人物を平等に憐れみいたわっている。そうして天真な心による利己主義の征服を暗示するのみならず、一歩一歩その征服の実現に近寄って行った。(先生はそれを解決しなかった。しかしあるいは――自らの全存在をもって解決したのではないのか。)

一〇


 恋愛と正義の葛藤、利己主義による恋愛の悲劇なども、先生が熱心に押しつめて行った問題であった。ここに先生の人生に対する厭世的な気分が現われている。恋愛は人生の中核をなすものであるが、しかしそれは正しく生きることと抵触しはしないか。また恋愛のある所に必ず幸福な心の融合があるという事は可能であろうか。人と人との間には掛ける橋がないという言葉は真実ではなかろうか。
『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』などが右の題目の開展であることは明らかである。『三四郎』に芽ざして『それから』に極度まで高まった恋愛の不可抗の力は、ついに正義を押し倒した。作者はこの事を可能ならしめるために享楽主義者を主人公とした。しかし不可抗の力の強さをきわ立たしめるためには、あらゆる同情を不義の恋に落ちて行く男女の上に注ぐ事をも辞しなかった。『門』はその解決である。男女の相愛はこれほど深まることができる。しかし押し倒された正義は執拗に愛する者の胸をんでいる。完全に相愛する男女の生活にも惨ましい寂しさがある。そうしてついに正義は蛇のように謀反者ののどに巻きつく。
『彼岸過迄』においては愛を双方で認めながら心も体も近づく事のできない宿命的な悲劇が描かれている。さらに『行人』は夫婦の間でどうしても心を触れ合わせることのできない愛の悲劇を描いている。愛はついに絶望である。
 この問題についても『道草』は一つの活路を暗示する。砕かれた心のみが愛を生かせ得るのである。『明暗』に至ってそれは正面から取り扱われた。「私」を去れ。裸になれ。そこに愛が生きる。そのほかに愛の窒息を救う道はない。

一一


 先生の厭世的な気分は恋愛を取り扱う態度に十分現われている。しかしそれがさらに明らかに現われているのは生死の問題についてである。ここに先生自身の超脱への道があったように思う。
 元来先生は軽々しく解決や徹底や統一を説く者に対して反感を持っていた。人生の事はそう容易に片づくものでない。頭では片づくだろうが、事実は片づかない。――しかしこれは片づける事自身に対する反感ではなくて、人生の矛盾や撞着どうちゃくをあまりに手軽に考える事に対する反感である。先生は望ましくない種々の事実のどうにもできない根強さを見た。そうしてそのために苦しみもがいた後、厭世的な「あきらめ」に達した。顧みて口先ばかり景気のいい徹底家の言葉に注意を向けると、思わずその内容の空虚を感じないではいられないのである。
 けれども「あきらめ」に達したゆえをもって先生は人生の矛盾不調和から眼をそむけたわけではなかった。先生はますます執拗にその矛盾不調和を凝視しなければならなかった。寂しく悲しく苦しかったに相違ない。(たとえ種々の点でいわゆる徹底家よりも「あきらめ」に沈んだ先生の方がはるかに徹底していたとはいえ。)
 それゆえ先生は「生」を謳歌おうかしなかった。生きている事はいたし方のない事実である。望ましいことでも望むべき事でもない。ただしかし生きている以上は本能的な生への執着がある、しなければならない事、のっとらなければならない法則もある。それは苦しいかもしれない、苦しくてもやむを得ない。――そもそも生きる事が苦しむ事なのである。生きている以上は種々の日常の不快事を(他人の不正や自分自身の不完全や好ましくない運命やを)避ける事ができぬ。むしろそれらの不快事が生きている事の証拠である。人生とはもともとかくのごときものにほかならなかった。
 しかし先生は「死」を「生」より尊しとしながらも、「死」を謳歌しなかった。死もまたいたし方のない「事実」として存在する。それは瞑想めいそうする自分には望ましい事実であるが、本能的には恐ろしい。強いて死を求めるのは不自然である。けれども死が人間の運命だという事は人間の不幸ではない。従って死んでもいいし死ななくてもいい、生きていてもいいし、生きていなくてもいい。
 このような生死に対する無頓着が先生のはいって行こうとした世界であった。先生はそこに到着するまでの種々の心持ちを製作の内に現わしている。『門』『彼岸過迄』『行人』『心』などはその著しいものである。ここにも開展のあとは認められる。『心』において極度まで押しつめられた生死の問題は、右の無頓着が著しくなるにつれて、一種透徹な趣を帯びながら、静かに心の底に沈んだ。『硝子戸の中』がその消息を語っている。

一二


 しかし人生観のいかんにかかわらず、先生の内の「創作家」は先生を駆使して常人以上に「生かせ」働かせた。ことに生死に対する無頓着はかえってこの創作家を強健ならしめたように見える。『明暗』を書いていた先生はある時「毎日すべったのころんだのとクダラない事を書いているのは、実際やり切れないね」と言った。実際こう感じる事もあったに相違ないだろう。しかも先生は渾身こんしんの力を注いで製作しないではいられなかった。そうして芸術的労力そのものが先生の心を満足させた。炎熱の烈しかったこの暑中も、毎日『明暗』を書きつづけながら、製作の活動それ自身を非常に愉快に感じていた。そのため生理的にも今までになく快適を感じていたらしかった。(その実は製作の興奮のため徐々に身体を疲労させたのであったろうけれど。)
 先生が製作によって生の煩わしさを超脱する心持ちは、私の記憶では、『草枕』や『道草』などに描かれていたと思う。

一三


 私はきわめて概括的な、そのくせバラバラになった観察を書いた。もともと先生の芸術について適切な評論をなし得ようとは思っていなかったから、これくらいで筆をきたい。
 先生の芸術についてはなお論ずべき事が多い。私は先生が「何を描こうとしたか」について粗雑な手をちょっと触れたのみで、「いかに描いたか」の問題には全然触れなかった。そこへはいればとても容易に出られないと思ったからである。それに、私の今の心持ちはただひたすら先生の人格に引きつけられている。先生の技能が提供するさまざまの興味ある問題は、たとえその興味が非常に深かろうとも、今直ちに私の心の中心へ来る事ができない。しかしそのために読者諸君の注意をこの方向へ向けて悪いというわけは少しもない。私は先生の死に際して諸君が先生の全著書を一まとめにしてあらためて鑑賞されんことを希望する。そうしてここに説いたような先生の人格と生活との表現がいかなる姿とリズムによって行なわれているかを子細に検せられんことを勧告する。先生の芸術はその結構から言えば建築である。すべての細部は全体を統一する力に服属せしめられている。さらにまた先生の全著書は先生の歩いた道の標柱である。すべての作は中心を流れるいのちに従って並べられている。これらの物に親しむのはいかなる意味においても我々を益し我々を幸福にするだろう。





底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新小説」
   1917(大正6)年1月臨時号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
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