四十年前のエキスカージョン

和辻哲郎




 このごろは大和の国も電車やバスの交通が大変便利になって来たので、昔に比べると、古寺めぐりはよほど楽になったようである。欲張って回れば一日の内にかなり方々の古い寺々を見ることができるであろう。しかし人間が古い芸術品などに接してその美しさを十分に感受し得る能力は、そう無限にあるものではない。明るいうちに体をその場所へ持って行きさえすれば、どこでも同様に、同じ新鮮な気持ちで味わえるというわけではない。その点は食物の場合も同じであろう。いくらうまいもの屋が並んでいるからといって、それを片端から味わって歩くことはできない。一軒の料理を味わえば、あとはまた空腹になる時まで待たなくては、次の料理を同じように味よく味わうわけには行かない。もちろんそういう能力は人によって差異のあるものではあるが、しかしどれほど人並みはずれた食欲を持つ人でも、その食欲に限度がないわけではない。そうして限度まで味わえば、あとは食ってもうまくはないのである。それと同じで、感受能力の限度を超えてしまえば、たとい体が無比の傑作の前に立ち、眼がその傑作を眺めているにしても、その美しさはいっこうに受用されず、いわゆる「見て見ず」という状態になる。そういう見物は全然むだである。
 その点を考えると、一日のうちにあまり方々へ回ることは考えものである。なるべく徒歩を混じえて、ゆっくり時間をかけて、それで見て回れる程度に限る方が、自分の感受能力を活発に働かせるゆえんとなるであろう。
 そういうことを考えていると、わたくしは四十何年か前のエキスカージョンをなつかしく思い出してくる。それは東京大学の文学部の美術史学科の学生や卒業生たちの修学旅行なのであるが、その当時から修学旅行とは呼ばず、エキスカージョンと呼んでいた。三月の末から四月の初めへかけて、四五日の間に京都と奈良とを見学するのである。これは大正になってから始まったので、わたくしの在学中にはなかった。わたくしが学生として聞いた美術史の講義は、関野貞先生の日本建築史、岡倉覚三先生の泰東巧芸史、滝精一先生の日本絵画史などであったが、その時は滝先生は講師であって教授ではなかった。わたくしが大学を卒業した後、大正元年か二年かに教授になられたのである。エキスカージョンが始まったのはその後であろう。それがいかにも楽しそうであったし、またわたくしにはまだ見ないものが多かったので、たぶん大正の五年か六年のころに、滝先生に頼んで参加させてもらったのであった。
 そのうち一日は奈良の寺々を回った。東大寺と春日神社と新薬師寺と興福寺とで一日が暮れたように思う。が、どういうわけか、興福寺の南円堂を見た時のことだけをはっきりと覚えていて、あとはぼんやりとしている。戒壇院や三月堂の内部を見物したのはこの時が初めてであるのに、その時の印象がはっきりと残っていない。南円堂はその後見ないが、戒壇院や三月堂はたびたび見たからであるかも知れない。がそれならば、次の日に見物した法隆寺、薬師寺、唐招提寺などは、その後たびたび見ているのであるから、最初の印象も薄れて行きそうなものであるが、実はそれとは逆で、非常に鮮かに覚えているのである。それがどうもわたくしには、一日の見物の分量と関係のある問題のように思われるのである。
 この日は朝、奈良の停車場に集合して、汽車で法隆寺駅まで行った。法隆寺駅から法隆寺村のはずれまでは十町ぐらいであるが、法隆寺の門まではさらに五六町あるであろう。その道は麦畑の中をまっすぐに走っていて、初めから向こうの方に法隆寺の塔が見える。その道をぶらぶらと歩いて行くと、塔がだんだん近づいてくるに従い、なんとなく胸のときめきを覚える。そういう気持ちでゆっくりと法隆寺へ近づいて行ったのであるから、南大門をはいって遙かに中門を望み見たとき、また中門に立って五重の塔と金堂と、それを取り巻く回廊とを眺めたとき、実際に魂がふるえるような感銘を受けたのであった。これは一つには美術史を専門とする仲間と一緒であったということにもよるであろうが、主として徒歩によるゆっくりとした近づき方によると考えられる。
 そのころ健在であったあの壮麗な金堂の壁画や、金堂の壇上北側に据えてあった橘夫人の厨子、東側北寄りの隅に据えてあった玉虫の厨子なども、わたくしの心に強い驚嘆の念を呼び起こした。それらの前でどれほどの時間を費やしたかは覚えないが、いろいろ説明も聞き、解らないところを探索し、堪能するまでそれらを眺めた。しかし昼食をとるまでにはなお五重の塔の塑像や、講堂の仏像や、聖霊院の太子像や、綱封蔵のいろいろな作品を見て回った。夢違の観音や、木彫の九面観音などは、そのころ綱封蔵に置いてあった。なおそのほかに、講堂の西側背後の小高いところをのぼって、西円堂を見た覚えがあるが、その時にはだいぶ疲れを覚えて、ほとんど印象が残っていない。たぶん昼食前であったのであろう。
 昼食は夢殿の近くの宿屋でとった。高浜虚子の小説に出てくる家であったかと思う。
 午後は夢殿から見物を始めた。御堂がいい形であるのみならず、幽かに横から拝んだ秘仏の顔が、ひどく神秘的に感じられて、午前に劣らず深い感銘をうけた。ところがそのあとで中宮寺の如意輪観音が、一層深い感銘を与えたので、この日のわたくしの感受能力は、ほとんどもう飽和点に達したかに思われた。
 幸いにそのあとわたくしたちは、法隆寺の裏山の麓を北へ歩き出したのである。いかにも古そうな池や、古墳らしい丘などの間を北へ七八町行くと、法輪寺がある。法輪寺の観音は奈良の博物館に古くから出ているが、それとよく似た本尊のある寺である。その法輪寺から東へ七八町、細い道をたどって行くと、法起寺がある。古い三重の塔がある。そういうものを見てから、たぶん郡山へ通ずる街道へ出たのではないかと思うが、わたくしたちはさっさと歩き出して、一里半以上、二里近い道を薬師寺まで歩いた。郡山の町を出て、遠くに薬師寺の塔の望まれる所まで来たときには、もう幾分夕暮れの感じが出ていたかと思う。
 そういう状態で薬師寺へついた時には、わたくしはまた新しい活気のある気持ちになっていた。東塔のあの変化の多い姿、東院堂の聖観音のあの堂々とした姿、特に金堂の薬師如来のあの渾然とした、なんとも形容のしようのない姿に対しては、わたくしは実際に驚嘆の念を抱くことができたのである。それには、折柄の西日が、あの薬師如来の黒い銅の肌に、きわめて適当な照明を与えていたということも、あずかって力があったであろう。それは法隆寺から歩いて来たという偶然が作り出した効果なのであった。
 もう夕暮れになったので急いで唐招提寺に回り、急いで金堂や講堂の中を見せてもらったが、なんといってもここの見ものは建築であるから、夕方の光でも不自由なく、心行くばかりあの堂々とした姿を味わうことができた。
 がそれだけでわたくしたちは引き上げたわけではない。唐招提寺を西の方へぬけると、今電車線路のあるあたりを通って、すぐ垂仁陵のそばに出る。その垂仁陵が実に美しい姿をしていることに、わたくしは虚を突かれたような驚きを感じた。それは予定の内にはいっていなかったのである。それに反して、そこから北へまた十町ほど歩いて、西大寺の中へはいって見た時には、案外に何もないのに失望した。
(昭和三十年頃)





底本:「和辻哲郎全集 補遺」岩波書店
   1978(昭和53)年6月16日第1刷発行
入力:岩澤秀紀
校正:火蛾
2015年11月21日作成
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