カフカがプルースト、ジョイス、フォークナーなどと並んで二十世紀のもっとも重要な作家の一人として考えられるようになったのは、彼の死後二十年余を経た第二次大戦後のことであるといってよい。今、たとえば一九三〇年ころに出版されて十万部を
今日、カフカに関する文献はおびただしい数に達している。そして、それだけのカフカ解釈がある。それを要領よくまとめることはとうてい不可能である。しかし、カフカ解釈の一つの大きな柱は、いうまでもなくブロートのものである。ブロートは熱狂的なユダヤ主義者であり、その立場からのカフカ解釈は一面的であるとして多くの人びとから激しい攻撃を浴びた。彼は『カフカの信仰と思想』という著者の序文において、カフカの正しい解釈のためには、アフォリズムにおけるカフカと、物語作品(長・短編)におけるカフカと、この二つの流れを区別しなければならない、という。彼によれば、アフォリズムのカフカは人間のなかの「破壊されないもの」を認識し、世界の形而上的な核心に対して積極的で信仰的な関係をもっている。この面ではカフカは、人類に対していうべき積極的な言葉、一つの信仰、各人の個人的生活を変えるようにというきびしい要求、を述べているのであり、トルストイの思想と密接な関係をもっている。一方、小説および物語のカフカは、恐れと孤独感とのうちでさまよっている人間、つまり、アフォリズムや日記のなかで語っているあの「破壊されないもの」を失った人間、信仰において確信をもてなくなり、
ブロートは右のような主張にもとづいて、フランスの実存主義者流のニヒリズム的解釈に反対し、さらにカトリック的解釈を不十分であるとする。つまり、ニヒリズム的解釈はカフカから超越者に根ざしているという核心を取り除いてしまうものであり、カトリックないし過激なキリスト教的解釈はカフカを超越者だけに還元し、カフカがきわめて崇高な意味において尊重していた積極的な現世の力を没却するものである。ここでブロートが批判しているニヒリズム的解釈、またキリスト教的解釈というものは、カフカ解釈の重要な二つの柱である。前者は文学的に生産的であり、後者は思想的に意味が大きい。いわゆる「不条理の文学」の先駆者としてのカフカは、きわめて大きな影響力をもっており、すでに多くの模倣者さえ現われるにいたっている。カフカの文学は宗教的な寓意性を見出すのに好適なものがあり、ニヒリズム的解釈なるものもいわば裏返しの形でその問題とかかわりをもってくる。ブロートの多年にわたる主張は、自己の解釈以外のいっさいを許そうとしない挑発的なものであって、その点がすでに反感をそそるものがある。しかし、彼の主張は公正に見て問題性に富み、これからももっとも重要な手がかりとして扱われていくことであろう。
ところで、最近のカフカ研究の動向を見ると、まず実証的研究の分野での仕事が目立つ。これは一つにはカフカの作品を文学としてながめようとする志向と表裏するものである。あとでもふれるが、ブロート編集のカフカ作品のテクストについての批判がいろいろな形で提供されている。この問題については以前から疑問が投じられていたのであるが、チュービンゲン大学のバイスナー教授がその口火を切った。彼は講演『物語作家カフカ』(一九五二)という小冊子において、「一つ一つの言葉とセンテンスとから、全体の意味づけを帯びた構成にまで昇っていく文献学的解釈は、カフカにおいては今のところ不可能です。なぜなら、信頼できるように編集されたテキストというものがないからです」と、述べた。この冊子の注において、バイスナーはその理由も説明している。ブロートは『審判』の第二版のあとがきにおいて、テキストを読みやすくするため、文章記号や言葉の綴りや文章構造を、最小限にだが、一般のドイツ語の慣用に従って改めるようにした、と述べた。バイスナーはこうしたブロートの態度を批判し、例として短編『判決』の原文批判を行い、カフカが生前に出版した版と、ブロートによる全集版とのあいだの六〇個所ほどの相違点を列挙している。またシュトゥットガルト工業大学のマルティーニ教授は、断片遺稿の短編『村の学校教師』の原文批判において、約二八〇個所ほどの原稿と刊本とのちがいを指摘している。これらはわれわれ外国人にとってはニュアンスのちがいがちょっとわかりにくい句読点などが大部分であり、こまかすぎるといえばそうもいえるものである。今日のもっともすぐれた深いカフカ研究家の一人であるケルン大学のエメリヒ教授などは、「原稿の写真版を調べたが、文章記号の疑問や読みにくい原稿の読みちがえによって起ったきわめて少数のあやまりのほかには、意識的に変更を加えた原文侵害というものはどこにも見あたらなかった」といい、「ブロートは多くの点で批判的でないやりかたをしたかもしれないが、もともと刊本ということに明るい文献学者ではないのだから、やむをえない。ちゃんとしたテキストを刊行しようとする彼の誠実な努力は何びとも否定することができない」と、いっている。いろいろ問題はあるが、まずこのエメリヒのいうところあたりが穏当といえるだろう。このカフカ集の『変身』(三五一ページ、のはじめの個所)においても、たとえば「電気の街燈の光が蒼白く……」という妙な訳のところがある。ここは、カフカ生前の刊本では、「市内電車のライトが」となっている。こうしたちがいがどこからきているのかは、原稿も調べなくては結論が下しにくい。いずれにせよ、われわれ外国人にはなかなか近づきがたい領域である。
フランスのサルトル、カミュ、ブランショ、バタイユなどのカフカ観はたしかに興味深い。しかし、これらはすでにいずれも邦訳もあるので、ここではふれない。カフカ文学の解釈でとくに根本的な問題をついていると思われるのは、前に述べたエメリヒである。彼はある比較的短いエッセイのなかで、次のように述べている。カフカの短編や長編を読むとき、われわれは異様な世界のなかへ入りこんだような感じに打たれる。この世界で起こるできごとは、空間・時間によって規定された外的な現象界ではありえないことであるし、われわれにはまるで夢のなかで出会うことのように思われる。しかも、それはけっしてはっきりと夢だといって受け取ることはできない。外的な現象界と直接つながっていて、実際の夢のように意識下の連想によって進行するものではない。こうして、時間と空間、原因と結果、というような経験的な秩序は、ここには見られない。むろん、過去の多くの文学においても、文学は現実を超えた理念的な虚構の世界として理解されてきたのであり、その世界ではあらゆる経験的な自然の現象はより高い精神的な意味づけの下に置かれているか、あるいはそれ自体が象徴となって、一つの精神的秩序の意味を担っている。そこで、カフカの描くできごとの背後にその精神的意味を求め、いったいそれは何を意味しているのであろうか、と考えてみる。けれども、その場合にもやはりうまく解釈はできない。カフカの文学のなかでは、できごとの意味は絶えず反省され、説明されて、はっきりと分析されている。しかし、そうやって獲得された意味が、たちまち作品のなかで疑われ、
それでは、カフカの文学をどういうものとして理解すべきであろうか。カフカの形象の世界は、いわば人間存在そのものを表わす詩的な象形文字なのである。一定の世界観的、神学的、倫理的、社会的、政治的なさまざまな理念を感覚的な事象とか行為とかのうちに具体化し、それらの理念に詩的な形態を与えようとするものではない。また、それとは反対に、われわれがすでによく知っている空間・時間的な現実、あるいは精神的な現実を、できるだけいきいきとほんものらしく描写し、そうした現実の意味を啓示したり、解釈したりしようというのではない。むしろ、希望と絶望、真実と虚偽、罪と無罪、自由と束縛、存在と非在、信仰と懐疑、生と死、知と無知、現世の生活と来世の生活、といったようなさまざまな対立の不断の緊張のうちに置かれている人間存在そのものが、イメージと精神的な表現とのうちに形態化されているのであり、もしそうしたものが矛盾にみちた緊張、人間的なさまざまな対立の同時的な並存を忠実かつ真実に反映されるべきものであるならば、どうしても逆説的に形態化されなければならないのである。こうして、カフカの文学は、一定の理念とか一定の問題とかを一定の現象のうちに形態化したり、表現したり、解決したりしたものではなく、表現形式そのものが意味を担うものとなっているのであり、表徴となっている。このことから、カフカの小説が無限につづき、完結も完成もほんとうの終末も知らないという事実も理解できるだろう。というのは、ここで問題となっているのは、個々の人間の一定の問題を一定のやりかたで形態化し、結論へもっていくことではなく、人間存在の模型をつくり出すということだからである。そうした人間存在の模型というものは、その本質からいって完結されえないものとならないわけにはいかない。カフカ文学のこうした断片的・非完結的な性格から、同時にまた、どんな形象もどんな筋の展開もどんな思想も、それ自体のために描かれるのではなく、ただ機能的な意味をもつものにすぎない、という結果が出てくる。それは、象徴として描くという理論に従った過去の文学の表現における場合よりももっと絶対的な意味でそうなのである。こうした絶対的な機能性というものをもつカフカの文学は、一定の歴史的、イデオロギー的、あるいは心理的な内容をもつものとして読むべきではなく、人間存在の模型として、形式そのものの面から理解されなければならない。以上がエメリヒの説くところである。こうした態度で実際に個々の作品に向かうときどういうことになるか、というのはむずかしい問題だが、カフカの諸作品をなんらかの意味づけによって理解しようとするときには、そうした試みは挫折しないではいない。エメリヒの見解は深い
次にウィリー・ハースがその自伝的回想『文学的世界』において、かなり断定的なカフカ観を表明しているのも見逃がすことはできない。ハースは一八九一年にプラークに生まれ、年上の友人ブロートを通じてカフカを個人的に知っていた。本カフカ集の作家論の筆者であり、この短いカフカ論は彼の『時代のさまざまな形姿』(一九三〇)という評論集に収められたものであるが、今日でもカフカの作品の最良の解説の一つに数えられている。そして、カフカと恋愛関係があったミレナ・イェセンスカから彼女に宛てたカフカの手紙を譲られ、第二次大戦後にカフカ全集の一巻として収めるために編集したのは彼である。ハースはいう。カフカだけが、二、三の断片的ではあるが壮大不滅の画像のなかで、とくに『審判』と『城』とのなかで、自分たちの青春の世界を集約し、組み立てた。これらの作品を読んだときに、自分の青春のまったく慣れ親んでいたパノラマを読むような気持に襲われた。そのなかでは、どんな町の隠れた片隅、町角、どんな埃っぽい廊下、どんなみだらさ、どんな隠微な暗示でも、すぐ自分にはそれとわかるほどだ。だから自分には、カフカの作品について書かれた実存主義的なのやら非実存主義的なのやら無数のエッセイの一つとして理解できないほどである。カフカの世界的名声というものも、自分にとっては不本意ながら一種の滑稽感を呼びさまさないではいない。プラークに生まれなかったような、そして一八九〇年か一八八〇年ごろに生まれなかったような人が、カフカを理解できるとはとうてい思えない。カフカの奇妙に無口で寓意的=現実的な洞察力のうちには、ひどく暗示的な地方的前景の世界、つまり彼の二大長編『審判』と『城』との環境というものを現実に知らない人には、ただこの地方的な小さな世界のうちに、そしてそのような小さな世界によって存在しているまったく濃密な形而上的な類推というものもほんとうにはわからない、というところがある。そのためにきわめてばかばかしい誤解がこれまでに生まれたし、今でも生まれているのである。カフカは閉鎖的なオーストリア的=ユダヤ的なプラークの秘密であるように思われる。それを解く
以上のようなハースの所説および予言は、すこぶる独断的なものであり、またこうしたカフカ観をもつにいたったについては、親友であった作家フランツ・ウェルフェルに対するハースの傾倒が少なからぬ影を投じているように思われるのであるが、また一面に聞くべきものをもっている。カフカの文学は素材的に当時のプラークの空気を反映しているものであり、また個人的な体験をさまざまな形で取り入れている場合がすこぶる多い。そのために、カフカの諸作品に自伝的な要素をあとづけようとする強引な説さえもあるほどである。ところで、若い評論家・作家であるワルター・イェンスは、ある短い文章のなかでハースの右のような見解に賛成し、カフカの文学を、カミュがアルジェリアの郷土文学であるような意味で郷土文学であるといっている。いずれにせよ、カフカの文学から壮大な思想体系を導き出そうとした従来のカフカ観から、もう一度彼の作品をこまかに味わおうとする一つの気運がかなり強く動き出していることの証左と考えられるのである。カフカはプラークの出身であるが、多少の旅行を除いて、ついにプラークの世界から出ることはなかった。その点、同じプラークの出身であるリルケやウェルフェルとはまったくちがっている。われわれには理解できないと突き放されては身もふたもないが、カフカの文学を性急に解釈するより前に、われわれもまた彼の作品にまず虚心にふれていくことが大切であろう。
むろん、現代小説の発展の上でカフカが果たした役割の意味は失われないだろう。第二次大戦後、ドイツ現代文学におけるもっとも重要な作家の一人として評価されるようになったヘルマン・ブロッホは、ジェームス・ジョイスの方法を生涯の理想として作品を書いたが、彼は次のようにいっている。ジョイスの『ユリシーズ』の仕事は、現代小説の特質である神話を形成しようとする意図の実現である。しかし、ジョイスの描いた人物たちは神話的人間像とはなることができなかった。なぜなら、神話というものは現代にはありえないからである。神話は、人間を脅やかし破滅させる根源力を描くものであり、そうした力を象徴するさまざまの形姿に対して、それに劣らぬ大きなプロメテウス的な英雄の象徴像を対置する。ところが、現代においてはそうした人間を脅やかす力はもはや根源的な自然ではなく、ただ文明によって飼いならされた自然があるだけである。そこで現代に可能なものは、「反神話」と呼ぶべきものであろう。現代のこうした極度の絶望状態を表現しえたのは、ジョイスではなくて、カフカである。彼こそは、そうした絶望状態そのものの象徴化を行うことのできる例外的な力をもつ作家であった。ゾラの「ルゴン=マッカール叢書」の仕事以来、現代小説は神話になろうと努めてきた。しかし、どんな芸術的な難解な方法も手法もそれには役立たなかった。むしろそのためにはある真率さというものが必要なのであろう。そうした真率さをつくり出すことができたのはただカフカだけである。人は自分がジョイスのあとを追っていると思っている。たしかに自分は理論的にはジョイスとつながりがあったからである。しかし、もし自分にカフカほど大きな詩的な力があったならば、自分はおそらくこのきわめて非ジョイス的なカフカの方向へ駆り立てられていったことだろう。だが、自分はそのような
しかし、カフカの抽象という作業は、けっして現実的なものを離れることはなかった。カフカは「ありふれたものそのものが、すでに一つの奇蹟なのだ! ぼくはそれをただ書きとめるだけだ。ただ、ぼくがちょうど薄暗がりの舞台の上の照明のように、事物を少しばかり照らし出しているということはありうることだ」といっている。その独自な照射力こそカフカの手法であった、といってよいだろう。ドストエフスキーは『作家の日記』のなかでいっている。「最大の奇蹟はしばしば、現実のうちで起こることである。われわれは現実をいつでもただ、われわれが見たいと思うようにだけ、われわれが自分で先入見をもって考えていたようにだけ見ようとする。ところが、次に突然、現実をもっと正確に調べ、眼に見えるもののなかに、われわれが見たいと思っているものではなく、ほんとうにあるがままのものを見出すとき、われわれはそれをすぐさま奇蹟だと考える……」といっている。こうした現実の透視力こそ偉大な作家たちの仕事にほかなるまい。カフカが書くことを「祈りの形式」と呼んでいたことは、有名である。彼はこうして謙虚な仕事をつづけ、わずかな作品だけを残し、巨大なトルゾーを葬ろうという決意で死んでいったのである。彼の仕事が人間の絶望を歌ったのであれ、その救済を求めたのであれ、われわれは彼によって現実の見かたを、現代の人間的状況に対応するような現実の見かたを教えられるであろう。多くのカフカ解釈者たちが好んで引くカフカの言葉がある。「何びとも、いちばん深い地獄のなかにある人びとほどに純粋に歌う者はいない。われわれが天使たちの歌と考えているものは、そうした人びとの歌なのだ」
個々の作品については、ハースの作家論が短いながら洞察に富む解釈を下しているのを参考としていただきたい。いずれも三十年も前に書かれたものとは考えられないような一つの適切な解説となっているように思われる。本集はいわばハースの意図そのままで編集されたようなものである。ハースの作家論でふれられている作品はすべてここに収められている。筆者としては『支那の長城が築かれたとき』のような断片を収められなかったのがやや残念であるが、この「短編集」はいずれもカフカが生前に発表したものだけに限られており、その意味ではカフカ自身の遺志の範囲に含まれる作品である。カフカの短編は凝集力をもち、たしかに完結性をもつものと考えてよいであろう。この分野における彼の仕事は、人間の生の断面をとらえ、人間存在の個々の問題を扱っていると見ることもできる。長編小説はいうまでもなく生の全体をとらえようとするものである。その長編が非完結的な性格に終ったことについては、最近ある評者(シュトレルカ)が、注目すべき見解を述べている。カフカの小説の非完結性は、エメリヒのいうような意味によってばかりでなく、一つの現象を反対のものによっても述べるということを極限まで実行している彼の方法からきている。どんな叙述の可能性についても、無数のちがった、しばしば矛盾するような可能性を対置させるのが彼の方法である。真実の全体をとらえるためにこうした方法を取っていくわけであるが、全体的な人間存在の現象はあまりにも多様な姿をおび、錯雑しているので、さまざまに受け取れるような比喩的な形象を極度に抽象化していってさえも、あらゆる可能性を包括するような完全な全体像を、カフカが脳裡に思い浮かべているとおりに表現するまでには到達することができなかったのだ、というのである。なお、これと関連して、カフカが長編のなかで長々と書いている議論の奇妙な展開というものも理解すべきであろう。それらはいかに退屈に見えようとも、カフカの弁証法ともいうべき重要な特質を示す部分と見なければならない。『審判』のなかの弁護士や画家の叙述、『城』のなかのバルナバスの家でのオルガの叙述あるいは秘書ビュルゲルの叙述といった個所は、そのもっともいちじるしい例と考えられる。
以下、参考までに若干のノートをつけておく。
『審判』は、一九一四年秋に着手され、その翌年にもつづけられた。そのうちの「掟の前で」は一四年十二月十三日に書かれた。なおこの部分は、短編集『田舎医師』に収められて生前に発表された。二、三の言葉のちがいがあるだけである。ブロートはこの作品の原稿を二〇年六月に入手し、すぐ整理したという。少し前に、ベルギーのガン大学のユイテルスプロート教授は、この作品の章の配列を改めるべきことを提案してカフカ研究に大きな話題を投じた。この「新配列」なるものはくわしく紹介するいとまはないが、その結論だけを現行の章の順序番号で置き変えると、1・4・2・3・5・6・9・7・8・10という順序となり、そのあいだに残されている小断片をはさむというのである。ブロートはむろんはげしく反論して、原稿の写真版を示して論駁している。このユイテルスプロートの論拠は、大ざっぱにいえば作中の文句をたよりに時間的進行に従ってつじつまを合わせようとするもので、それによると彼自身の配列でも矛盾が起こる。さらに作品解釈の上でも重大な欠陥が別な研究者によって指摘された。したがって大部分はくつがえされてしまった。ただ、この作品の時間的順序はこまかな点でおかしなところがあり、それはこの作品の未完であったために起ったものであると解すべきである。『審判』という標題が邦訳の定訳となっているが、原題は「訴訟」という意味である。しかし、この作品の標題として内容的にきわめて適切と思われる。この標題をつけたのは、戦前の本野享一の翻訳である。ただし、短編『判決』とこの『審判』という標題とは、今日でもまだ混同されている場合があるので注意していただきたい。作中のビュルストナー嬢というのは、一九一四年カフカが出会い、二度婚約し、二度とも解消したF・B嬢の面影をとどめるものといわれている。
『城』は、一九二一年、ことに二二年に書かれた。つまりミレナという女性との危機的な関係のうちに書かれた作品で、ミレナは作中のフリーダ、クラムはその夫に反映しているといわれている。ハースがいっているように舞台はツューラウという村を素材としたらしいが、そこでカフカは一九一八年の滞在中にキエルケゴール研究を始めた。作中のアマーリアとソルティーニとの関係にキエルケゴールの影響を見ようとする説もある。『日記』の一九一四年六月十一日の項に「村での誘惑」という断片が書かれているが、これは『城』とある類似をもっている。『審判』にしろ『城』にしろ、カフカは突発的な創作を行なったのではなく、テーマを長くあたためていたのだ、という想像も成り立ちうるように思われる。
「短編集」に移ると、『変身』は一九一二年に書かれた。その作品についてのバイスナー教授の指摘は興味深い。一九一六年に出たこの作品のカバーには、オトマル・シュタルケの絵が描かれている。これはおそらく作者の同意なしで描かれたものではないだろう。きわめてありそうに思えることは、カフカ自身の協力あるいは希望によって行われたということである。その絵は、寝巻を着てスリッパをはいた一人の男が、絶望して両手で顔をおおっている姿を示している。その姿恰好からいって、これはグレゴールの父親ではなくて、グレゴール自身である。つまり、作品のなかではグレゴールは最初から大きな毒虫に変身しているのであるが、この暗示的な絵のなかでは人間として描かれているわけである。その事実をどう受け取るにせよ、この作品を考える上の重要な手がかりであろう。虫への変身という変った思いつきというのではなく、そこには作者の人間的境涯を見つめる凝視が感じられるはずである。
『流刑地で』は一九一四年十月に書かれ、一九年に単行本として出版された。エメリヒはおそらく大戦勃発によって受けた印象の下で書かれたものと推定している。カフカ自身が出版者への手紙のなかで、この作品に関して時代転換の問題を意識していたことをもらしているからである。エメリヒはこの短編を、古い掟と新しい掟との対立として解釈している。すなわち、古い秩序は救済(受刑者の苦しみによる認識ということが描かれている)のために人間を犠牲にし、新しい「人間的な」秩序は人間のために救済を犠牲にする、と考えられているというのである。なお、この作品は期せずしてナチスの強制収容所を予言したものであると受け取るような考えかたがあるが、そういう解釈はいきすぎといわなければならないだろう。
『火夫』は長編『アメリカ』の序章である。『アメリカ』は一九一二年から執筆された。この『アメリカ』という作品は、カフカの日記中の記述によって、今日では研究者たちのあいだで『失踪者』と呼ばれるのが通例となっている。たしかにこの作品は未完成の度合いが大きく、前述のユイテルスプロートのごときは、この作品が『審判』や『城』の終末と同じように主人公の死で終るべきものであったと断定している。普通、他の二長編に比して明るい諧謔味にあふれた作品と考えられているのとはちがった見解である。カフカは、この作品がディケンズの作風にならったものであることを日記のなかにしるしている。つまり『判決』以後の作風とはあるちがいがあることが感じられるであろう。そういう意味からも、あえて収録した。
この『火夫』は一三年に単独で出版され、一五年にフォンターネ賞というかなり権威ある文学賞を受けた。一四年に、今日では現代ドイツ文学の大作家といわれているローベルト・ムージルが短い書評でこの作品を取り上げて、その意図された素朴さというものを論じ、少年の根源的な善意への衝動というものを描きえている、といっている。そして、このなかの女中の誘惑という短いエピソードに注目して「きわめて意識的な芸術家」を感じ取っている。なお、作中のカルル少年の伯父の姿は、カフカ自身の母方の伯父でスペインで成功した人物の面影を写しているといわれている。
『判決』は一九一二年九月二十二日から二十三日の夜にかけて書かれ、一六年に出版された。この作品は、カフカの方法上の新しい転機を画した境界石と考えられている。カフカは、これを書いた年の八月にF・B嬢と出会った。父との関係も年譜の冒頭にふれてあるように微妙なものであった。したがって、かなりな程度まで身辺の事情を反映しているものと見てよいであろう。この短編には『死刑宣告』という邦訳名も行われている。カフカはヤーヌフとの対話のなかで、この作品を「一夜の亡霊」と呼んだ。だが、あなたはそれを書いたではないか、という反論に対して、「それはただ確認の行為であり、それによって亡霊を防ぐわけです」と答えた。彼が文学作品に一種の浄化力を信じていたと受け取ってよいかもしれない言葉である。
『皇帝の使者』および『家長の心配』は、短編集『田舎医師』(一九一九)に収められたものである。この短編集には十四編の比較的短い作品が収められているが、その大部分は一六年から一七年にかけて書かれた。『皇帝の使者』は断片『支那の長城が築かれたとき』の一節として含まれているものである。けっしてとどかない皇帝の伝言、それを空しく待ちもうけている臣下、この両者の関係はカフカの宗教観を考える上の絶好な手がかりとして好んで引用されるものである。
この二小品はいかにもカフカらしい寓話であるが、前に述べたようにエメリヒは、カフカのいわゆる寓話は比喩とか象徴とかいうものとして受け取ることはできない、と主張している。エメリヒの考えかたが実際の作品解釈をどういうふうに行うのかというもっともわかりやすい例は、この『家長の心配』の解釈法に見られるので、一例として大体を見よう。エメリヒによると、冒頭に出てくるオドラデク(Odradek)という言葉からして、人間の言葉らしく見えるけれども、言葉としての意味をもたないものである。けれどもカフカは皮肉な、あるいはユーモラスな手を巧妙に使っている。西スラヴ語には odraditi という動詞があり、それは「人に忠告して何かをやめさせる」という意味である。これは語源的にいうとドイツ語の Rat(忠告)からきている。語尾の ek というのは縮小名詞の接尾語で、つまり「小さな……もの」を意味する。おそらくカフカの頭のなかではほかの言葉の響き、たとえばチェコ語の radost(よろこび)ないしは rad(「人好きのする」というような意味の形容詞)、さらにドイツ語の Rad(「車」という意味で、この奇妙な品物の形に近いはずである)が同時に考えられていたのかもしれない。しかし、「忠告してやめさせる小さなもの」という初めの意味が中心となっているはずである。すなわち、この品物の名前そのものが、どんな限定された意味も
こうしてこのオドラデクのうちにはカフカの世界像が極限にまで表現されている。ものであってものではなく、人間であって人間ではない。そして、ただ精神の領域と物質の領域とを離れることによってのみ、現実にあるまとまったものとなることができるのである。この存在のものとしての性格はもはやはっきりした意味をもつ精神的性格を表わす象徴ではない。この存在が語る言葉はもはやものを解釈するのでもない。なるほど地上的な存在としてとどまっていて、言葉の諸要素、物質と精神との諸要素を維持してはいる。しかし、それはいっさいの定義を止揚しているのである。そして、絶対的な自由のなかに住んでいる。むろんそれは、生命を犠牲にし、いっさいのはっきりした志向というものを犠牲にして到達できることである。そこで、いかにも古びた無用の投げ捨てられたものというような外見を与えられている。生の
そして、このような自由からまたオドラデクの「笑い」が響いてくる。それは別世界から響いてくるような笑いであり、若いカフカがある手紙のなかで書いたように、いわば「月」からの笑いなのである。カフカのこのような笑いというものを表わすものとしては、よくいわれているフモール(ヒューモア)という言葉は適切とはいえない。フモールというのは、あきらめの微笑のうちに与えられたものを是認し、その超えられない限界と対照とを是認することである。ところがオドラデクの笑いは「肺なしで出せるように」響き、いっさいを拒否するものであり、カフカがいっているように「生きることは不可能だということの証明」を面白がっているのである。こうして生と死、喜劇と悲劇との境界はもはやなくなっている。カフカのいわゆるフモールにおいては、人は笑うべきか、まじめでいるべきか、わからない。というのは、このいわゆるフモールなるものは、厳粛さと朗らかさとがまじったという意味での喜悲劇などという呼びかたはできないものなのである。エメリヒの解釈はまだまだつづくが、以上でオドラデクなる謎めいた存在をどうとらえようとしているかはわかるであろう。
『最初の苦悩』および『断食芸人』は、カフカの死の直後に出版された短編集『断食芸人』(一九二四)に収められている。これは四編の物語を集め、一九二一年から死の直前までのあいだに書かれた作品集である。『断食芸人』については芸術家の運命を描いたものと解する解釈もある。カフカ晩年のにがく暗い笑いの響く両作である。
解説の不十分なところは、ハースの作家論、また年譜によって補っていただきたい、年譜は、ワーゲンバッハの最近の研究(一九一二年までの伝記)、ブロートの各著、カフカ自身の日記・書簡などを材料とした。大体のところはわかっても、はっきり時期をさだめがたい事実は残念ながら省いた。たとえばカフカはトルストイ、ドストエフスキーを読んで深い感銘を受けている。大学卒業前後に読み、ドストエフスキーはF・B嬢との恋愛時代にも読んでいるが、編者には今のところ何年とはっきり断定できない。年譜の記述に混乱しているところもあろうが、これを一つの手がかりとしていただければ幸いである。