仁王門

橘外男




 手紙の形で書かれてあるし、書いた本人は毒をあおって死んでいるのだから、おそらく遺書だろうとは思うのだが、発見した場所が場所だから、どうもその点がハッキリせぬ。
 もし仮に遺書だとしても、果してその中込なかごめ礼子という、婦人に宛て送るつもりで書いたのか、書き終ったら気が変って、そのままうっちゃって置いたのか? それともこれを下書きにして、もう送ってしまったのか? そういう点が、一切不明である。
 ともかく革表紙、仏蘭西フランスじの立派なノートである。そのノートに、ペンでビッシリと書いてある。それが表紙を食い破られ、角々をじられ、鼠のふんほこりまみれになって出て来たのだから、刑事はフウムと小首を傾けた。
 最初の頁には、子供のいたずら書きのように、右から左から横から斜めから、ただ中込礼子さま中込礼子さまと、七つ八つくらいも書いてあったろう。遺書か、自分の悶々の情を、散ずるための気晴らしか? その点はハッキリせぬが、いずれにせよその中込礼子という、女性を思いうかべながら、書いたものであろうということだけは、確実である。
 それともう一つは、筆が渋って苦悶して、その間無意識に中込礼子礼子と書いているうちに、やがてせきを破った洪水のように、どっと気持が溢れ出たものであろうということも、ありありと推量される。中込礼子……中込礼子……どうもどこかで、聞いたことのあるような名だが、と考えているうちに、おおあの女か! と刑事の頭には、新聞や雑誌で見たことのあるその婦人の美しい顔がうかんで来た。ほう、あの中込礼子だったのか?
 婦人というよりも、令嬢と呼んだ方が、適当だったかも知れん。そしてまた中込礼子その人が、どれほど有名だというのでもない。富豪の令嬢で、巴里パリー帰りの新進ピアニストというので、新聞や雑誌に写真は出ていたが、その父親の富豪の方が、有名だったのだ。日台紡績の社長で、東洋綿業の社長で、中込精密機械工業の社長として日本中に鳴り響いている財界屈指の富豪だということは、こんな山の中の刑事の頭にまでも、み込んでいる。
 そこで、中込礼子の美しいおもざしを思い泛べながら、厚い埃を払って刑事は、このノートを読み出したのであるが、もしその中込礼子の四字が、田舎刑事の好奇心をかなかったら、この全文が出る機会は、おそらく永久になかったであろうと考えられる。


 中込礼子様。
 私の身体にも、全身に黴菌ばいきんが、付着しているだろうと思われます。この手紙はお読みになる前に、どうか厳重に消毒して下さい。
 長い前置きを、書くことができません。余計な文字をもてあそんでいる余裕ゆとりが、まったくありませんから、切迫せっぱ詰まった書き方になって、読みにくいでしょうが勘弁して下さい。
 せめて仏蘭西の任期が終って、日本へ帰るまで待って下さいと、お頼みしていた言葉を快くお聞き容れ下さって、妹さんたちがそれぞれ楽しい家庭を営んでいられるにもかかわらず、じっと私の帰りを待っていて下さったことに対して、なんとお礼の申上げようもありません。そして、貴方がお待ちになり私の待ち切っていた、帰国の今日こういう手紙を書かなければならなくなったことを、なんと説明したらいいかわかりません。
 お父様お母様には、到底私から書く言葉がありませんから、どうぞこの手紙を御覧に入れて、貴方からくれぐれもお詫びを、仰言おっしゃって下さい。
 十二月四日付で、本省から帰朝の内命に、接しました。本省欧米局の、第一課長になるようにとの、電報でした。それで十二月九日、巴里オルリー空港を発って、エール・フランス機で、帰国の途に就きました。
 多勢の人々に見送られて、口々に祝詞を浴びせられて、私はまことにうれしかった。久々で日本へ帰れることもうれしかったが、それよりももっと心が躍ったのは、日本に貴方が待っていて下さるということと、その貴方ともいよいよ結婚が、できるということだったのです。
 結婚式にはまず第一に、母に来てもらって喜んでもらおうと、長い間私は夢を見ていましたが、その私の夢は、一年も前から跡方もなく崩れ去っていました。昨年の十月、母が腎臓病で亡なったという知らせを、兄から受け取っていたからです。
 母は山深い故郷で、一生を送って一度も東京へ、出たことがありません。貴方と結婚して、東京の郊外へでも家を持ったら、母を呼んで一緒に暮したら、どんなに母が喜んでくれるだろうと、それがいつも私のいだいていた長い間の、夢だったのです。
 ですから、母が亡なったという知らせを受取った時、私は胸に大きな空洞が、できたような気がしてぼんやりしました。早く結婚してくれという、口癖のような母の頼みをしりぞけて、せめて内地勤務になるまでもう少し独身ひとりみで勉強していたいと私が我を張っていたばっかりに母の生前、なんの喜びも与えずに死なせてしまったかと思うと、それが悔まれてなりませんでした。
 仏蘭西へ来る前に、倫敦ロンドンに三年、ジュネーヴに一年、長い海外生活で、母とろくろく家庭の団欒だんらんさえ味わっていないことを考えると、それが拭い去ることのできぬ、悲しみになっていましたが、それでも貴方のことを考えて、まだ悲しみを慰めることができました。
 飛行機では、本省情報文化局長に就任のため、帰朝される倫敦駐箚ちゅうさつの城田前公使と、一緒でした。
おい、未来の大使ムシュー・フューチュール・アムバサドゥール!」
 と笑いながら公使が、背後うしろから肩を叩かれました。
「三十になるやならずで、欧米一課長には抜かれるし、中込氏の令嬢は射落とすし、地位と美人と財力と……果報者! 日本へ着いたら一体、何を振舞ってくれるんだね?」
 公使に冷やかされるまでもなく、私もそうだと感じました。母の亡なったことだけは、淋しい限りですが、私のような農家の次男に生れてこの幸福は、まったく身に余る仕合せだと思いました。
 貴方と結婚することが私に財力なぞを与えることには少しもなりませんが、この時だけはこの公使の言葉さえも、一層私の幸福感を、増大させました。男と生れたからには、私も一度は政治家として、大臣くらいにはなってみたいと思ったからなのです。
 政治家になって政党を操縦するのには、何千万何億という資金を、必要とするでしょう。外務省の官吏なぞを何十年勤めたからとて、そんな大金なぞのできようはずは、ありません。ですからその時は、貴方のお兄様に頼んでお父様にでも、軍資金を出して戴いて……なぞと、考えたからなのです。
 が、別段政治家になりたいと、真剣に考えていたわけでもありません。ただ、取り留めもない夢のような空想を、描いていたに過ぎないのです。久々で帰る故国への途……その故国には懐かしい貴方の顔が見え……兄の顔、あによめの顔が泛び……友達たちの顔……その懐かしい故国への途々みちみち埃及エジプト阿剌比亜アラビヤあたりの沙漠や、ペルシャ湾印度洋の白波を、雲海遥かの下に俯瞰みおろしながら、そうした取り留めもない空想に耽っていたことは、どんなに楽しい夢だったか知れません。


 風邪を引いたのでしょう。ラングーンを出て、タイ、カンボジアの上空あたりを、機が突っ切っている時分から悪感おかんがして、なんとなく身体がゾクゾクするので、一人で本を読んでいるのを見ると、東京はどこに泊ってるのだ? と、公使が聞かれました。そして、親類の家の離れに泊っていたが、その親類ももう東京にいないから、どこかホテルでも探して泊るつもりだと聞くと、そんな他人のところへいくよりも、いっそうちへまっすぐ、帰ったらどうだ? といってくれました。
「どうせこの飛行機は、英国将校たちを降ろすんで、岩国も降りるそうだから、君の家まできじゃないか!」
 と勧めてくれました。
「君の帰朝命令は、まだ間があるのだから、四、五日ゆっくりと静養して来給え、どうせ逢うんだから、僕が君の方の局長にも次官にも、よくそういって置こう」
 と勧められて、ひとまず私も家へ帰ることに決めました。そういうわけで、東京へ着いたら着任の挨拶を済ませてすぐ、貴方にお眼にかかりに行こうと、羅馬ローマから電報まで打って置きながら、予定を変更して、急に家へ、足を向けることにしたのです。
 予定通り機は、十時四十分岩国空港に、着きました。ここで公使に別れを告げて、機を降りました。そして、飯笹いいざさまで行って、さらに私鉄線に乗り換えて、翌る日の午後の三時には下河内しもごうちの駅へ、着きました。私の家はこの駅から北方、蓮華寺岳れんげじだけという山のふもとに向って、さらに七里ばかり駅の前からガタガタの乗合い自動車で、峠を越えなければなりません。山裾をめぐっていくつかの峠を越えて、まことに辺鄙へんぴ極まりないところです。
 かねて帰国の手紙は出して置きましたが、いつ訪ねるとも知らせてない私が、鞄を抱えてバスから降りて来たのに、まずその辺に遊んでいた友治という兄の長男が、眼ざとく見つけて駈け寄って来ました。
「叔父さんが、けえって来たよう! 新次郎叔父さんだよう」
 と狂喜の叫びを挙げて、私からたくり取った鞄を、片手にヨチヨチと、くわかついで通りかかった下男が、またその鞄を受取って、甥を取り巻いてはなを垂らしながら、眼を円くしている下男や小作人の子供たち! 広い門内へ入った時には、手をき拭きびっくりしたように、あによめが飛び出して来ますし、下女や下男たちが……近所の人たちが駈け付けて来、知らせに驚いて出先から、兄が飛んで来ますし、ひっそりとした田舎の家が、たちまち人の大群に取りかれて、れるような騒ぎになりました。
 辺鄙な田舎ですから、家も家の周囲まわりも、まことに駄々っ広いのです。裏の山林を背にして、先祖代々の屋敷は、昔となんの変りもありません。棟を掩うて鬱蒼こんもりと繁った、高い杉の防風林も、玄関の前に瘤々の根を張った、百日紅さるすべりの老樹も、また昔の庄屋時代から続いている、三棟四棟の崩れかかった土蔵も、奥庭の石灯籠や泉水も、一木一草に至るまで、昔となんの変りもありません。
 が、気のせいか母の亡なった家は、うつろな淋しさを伝えて来ます。私が中学生の頃に、兄が亡なった父の跡をいで、いわば昔から母は、兄の寄人かかりうど同然な隠居の身の上でしたが、しかもそれでも母のいない家の中というものは、大黒柱の欠けた建物のように、なんともいえぬ寂寥さを、感じさせて来ます。
 発熱前の身体はザワザワと、なんともいえぬだるい気持がします。
「さあさ、大切だいじな身体だ、寝ろ寝ろ! おかの! 早く新次郎の床を、とってやらんけえ!」
 と兄も気を揉みますし、嫂は小女こおんなを指図して、奥の十二畳の座敷に、床をのべてくれました。詰めかけて来る昔の友達や、村人たちとの応対は兄夫婦に任せて、私は床の中へ潜り込みましたが、こういう田舎の人というものは聞き伝えてそれからそれと、引っ切りなしに詰めかけて来るのです。
 兄も嫂も私の前では、出さぬように努めていますが、村人たちとは遠慮もなく、方言まる出しの高声で話しているのが、手に取るように聞えて来ます。
 どんな豪華なホテルの寝台ベッドよりも、数年振りに懐かしい故国で、ゆったりと寛ぐ安易さを、しみじみと感ぜずにはいられませんでした。そしてこうして寝ていると、学生時代の夏冬の休みに、母の許へ帰って来た時のような昔なつかしい気持がして、母のいない淋しさと、やがて貴方と一緒になる楽しさなぞを考えながら、うとうとしていました。


 三日ばかりたって、風邪は完全に直りました。茶の間で、兄と久し振り水入らずで、母の臨終前後の模様や、家の跡始末なぞを、詳しく聞きました。母は一昨々年さきおととしの四月頃から持病の腎臓病が悪化して、昨年の十月到頭、萎縮腎で亡なったということ。亡なるまで口癖のようにお前のことをいっていられたから、こうしてお前が帰って来てくれれば、どんなに喜んでいられるかということなぞ。
 そして、本来ならば墓は、村の慈恩寺の先祖代々の墓所に、埋葬するのが当り前なのだが、ふとした縁で一、二年前から、隣り村のそのまた隣り村、北野村の宗源寺の和尚さんが、母と懇意になって病床でたびたび、和尚さんの法話を聞いて眼を閉じたら、ぜひ宗源寺へ葬って欲しいというたっての望みであったから、そこへ埋めたということ。
 これも本来なればこの機会にお墓詣りをしてもらいたいのだが、忙しいだろうからいったん東京へ帰って、折りを見てまたゆっくり、お墓詣りに戻って来て欲しいということなぞ。
 私も、母の墓詣りをしたいと思いました。おぼながら覚えているのは、少年の頃母の埋まっているその宗源寺へ、私も遊びに行ったことがあって、その寺というのを知っているのです。二つばかり離れた村とはいいながら、ここからたっぷり五里くらいは、あるでしょう。
 おまけに峠を三つも四つも越えて、山坂道の界隈かいわい殆ど人家も人の姿もない、物淋しいところで子供の頃遊びにいった時も、なんだかものにでも襲われたような気持で、逃げ帰って来たことを覚えています。田舎の寺ですから、どうせわら萱葺かやぶき屋根の、大きかったか小さかったかそこまでは記憶もありませんが、ただ苔の生えた高い石段を登ったところに、太い柱の山門がそびえ立って、両側にはあかあおも剥げ落ちた木地まる出しの、大きな仁王様が眼を怒らせて突っ立っていたことを、覚えているのです。
 本堂は昔焼けて、ただこの山門だけが二、三百年も前から、残っているのだとか聞いていましたが、あの遠さでは一日がかりでなければ、お墓詣りにも行くことはできますまい。では、ともかく着任の挨拶をしてから、役所の都合を見てまたゆっくり、出かけて来ることにしよう、その時連れてって欲しいと、兄に頼みました。
「亮三郎も、えろう嘆いての、一人の親だのに、夫婦揃って遠くへ来てるばっけえに、親の死目にも、逢うことがでけんというて来ただが、わしが付いとるから、余計な心配しんぺいは、するに及ばんというてやったんじゃ」
 亮三郎というのは、九大医学部の助教授をしている弟です。結核薬物研究のため、今ハーヴァード大学へ派遣されています。子供のない気楽さから、弟の妻も手芸の研究で、夫婦揃って亜米利加アメリカへ行っているのです。
「だからおめえも、お墓めえりに出て来るんなら、命日とかそんな堅苦しいことを守るには及ばん。まず、そのお嬢さんと、結婚してからでええじゃなえかのう。その方をどのくらい阿母おふくろさまも、お喜びなさるかわかんねえ。……そうせえ、そうせえ」
 と兄はいうのです。そして私も、そうしようと思いました。兄ほど優しい、親に素直な人を、見たことがありません。私がいなくても弟がいなくても、この兄さえいれば母は、なんの思い残すところもなく、この世を去ったに違いないのです。ですから、兄の指図通りにしようと思いました。
 兄は、学問のある人でもなければ、学校を満足に出た人でもありません。中学を卒業した年に、父が死んだものですから、小作人との契約や、昔でいえば年貢の収納、田畑山林の管理、桃畑、葡萄ぶどう園の経営等、家の仕事を見るために、母の頼みで父の跡を、嗣いだのです。学校の成績が、群を抜いていたそうですから、そのまま学校へ行っていたら、すぐれた人になっていたでしょうが、兄は母の言葉を容れて、そのすぐれた素質を別段惜しいとも思わず、それ以来この山の中で、作男たちと家業に、励んでいたのです。
 その代り、自分にできなかった学業を、弟の私たち二人には、思う存分やらせようとしていたのです。別段貧しいためというのではありませんが、いわば家業と弟たちの犠牲になって、行きたい学校もしたい学問も止めて、しかも一言半句の不平をいうでもなければ、不快な顔色を見せるでもなく、黙々として家の棄石すていしに甘んじているこの兄の心を思えば、高等学校にいる時も大学にいる時も、また任官して倫敦ロンドン巴里パリーにいる時も、私はどんなに感謝の念を、懐いていたか知れないのです。
 そして、思いは弟も同じだったのでしょう。私のところへよこす弟の手紙も、常に兄への感謝の念を述べていました。
 母の選んだ、十二、三里離れた小さな町の、造り酒屋の娘を妻として――これが私の嫂なのですが、どんせこれも田舎者ですから、自然その影響を受け、身装みなりでも挙措ものごし恰好でもいよいよ兄は田舎者まる出しになっています。もし今兄を、東京の市中でも歩かせようものなら、浮薄な都人みやこびとからはたちまち田舎ッペイとして、軽蔑されたり顰蹙ひんしゅくされてしまうでしょう。が、この鈍重な田舎ッペイの中に潜む、尊い心が今日までどのくらい、私や弟に取っては感謝の的だったか知れないのです。
 繰り返すようですが、私や弟は臨終にい合せなくても、この兄さえ付いていれば、兄夫婦の手厚い看護を受けて、何思い残すところもなく、母は世を去ることができたでしょう。それを思えば今更ながら、兄の前に手を突いて留守中の感謝を述べたいような気がして来ました。
「お前も亮三郎も、日本におらんけえ、送ってやることもできんかったのだ。こうして実は、阿母おふくろさまの形身分けも、取ってある……」
 と兄は嫂にいい付けて、箪笥たんす抽斗ひきだしを、あけて見せました。小紋とか大島とか母の生前の羽織や着物の何枚かが、そこに畳んであるのです。
「世帯でも持ったら、引き取ってくれや。なア、おかの! 仕立直したら新次郎にも、着れるようになるんじゃなえのかなア? ……それとも、田舎の柄だから、コレには向かんか?」
 と嫂を顧みて、笑い出しました。母の話も一通り終ると、話は自然、貴方との結婚のことに移りました。一日も早く身を固めよ! と、兄はいうのです。
 そして、
「ともかく、阿母さまもそう仰言おっしゃってだけえ、結婚式は、どねえにでも派手にしろ! その分だけは、阿母さまも用意していられたけえ、おめえの肩身の狭くなえように心置きなくやれ、せえからついでだでいうておくがな、阿母さまもお亡なりになったけえ、このせい家の財産も、みんなで分けて置くがええと思うから、兄弟三人で三つに分けることにしたで、この書類に判を押しとけや。そうすりゃ、こっちで登記して置くけえ、田地で持っとるもええし金に換えるとも、好きにするがええ」
 兄のいい分によれば、私にも弟にも、山林が何十町歩の田畑がいくらいくら、葡萄園がいくらと田舎のことですから、評価はいくらのものでもないでしょうが、相当なものが、分け与えられることになっているのです。
「それは兄さん、不公平だ! そんなバカな話が、あるものか! 俺も亮三郎も、兄さんのお蔭でこうして学校も出て、好きなこともしていられる。兄さんこそ、したいことも我慢して、家の仕事に骨を折って、それをみんなに分けてやるなんて……兄さんのお蔭で、こうやって二人ともいくらかのものでも、国から貰えるようになったのだし」
「わしが出すんじゃなえ、わしはただ阿母さまから預かってるものを、けえすだけなんじゃ」
 と兄は微笑しました。
らんよ、そんなに。どうしてもくれたいのなら兄さんが、取るだけ取って後を、俺と亮三郎に分けたらいい」
「人がやるという時にゃ、黙って貰うとけや、いくら持っとっても、邪魔にゃならんけえ」
 いったん口から出したことは、後へは引かぬ人ですから、それ以上私も、とやかくいうことは止めました。
 風邪も直ってみれば、この上うちにじっとしてはいられないのです。兄と話しながら、明日でも帰京しようかと、考えていました。それには子供の時から中学の寄宿舎時代にも、兄弟のように親しくしていた友達が、一人います。私と違って今では、自分の家に引っ込んで、もう二人の子供の父親になって、隣り村の助役なぞを勤めていますが、私が帰ったと聞いて二度も三度も、訪ねて来てくれています。その都度兄が逢ってくれて、私はまだ逢っておりません。これからその友達を訪ねて、明日にも東京へ帰ろうか? と、身仕度しているのを見ると、
「だれか、案内させようかの?」
 と兄は書類をしまいながら、声をかけました。
らんよ、子供の時から、歩きつけてる道だもの」
「倫敦や、巴里でばかり暮らしとって、ようこねな山ん中を、忘れずにいたもんだな」
 と兄は、笑いました。
やなから嘉助が、大分でえぶひらべを上げて来たちう話だ。いろんなものを、貰うとるけん、おかのにいうて、土産に持ってかんけえ?」
 そして私は、昔の中学生時代に返って、笹の葉に通したひらべを持って、――兄のいうひらべのやまめを持って、友達を訪ねることにしました。これが今から思えば、私が貴方にこんな手紙を書かなければならなくなったそもそもではなかったかと思われます。


 友達は、役場に出勤していましたが、私が訪ねたと聞いて、飛んで帰って来ました。そして、昔の友達の話、村の誰彼の噂、私に取っては珍しくもない、巴里や倫敦の話などを子供のように貪り聞きながら、それからそれと話の種は尽きませんでした。なんにもないが、久し振りで夕飯を一緒にして行け、と離してくれません。障子のすぐ向うに、椎名岳しいなたけという山を仰ぎながら、私の下げて来たやまめをさかなに、差しつ差されつしているうちにふと思い出したように、兄さんはこの頃どうしていられる? と友達が聞くのです。
 だって、君はこないだ訪ねて来て、兄に逢ったばかりじゃないか、兄の話では三度も来てくれたって……いいやそれは知っとる、俺のいうのは兄さんの仕事の方は、どうだと聞いとるんだと、慌てて友達はいい直しました。ああそう、なんだか材木や蜜柑みかんの出荷値段なんぞ、調べてたようだよ。そう……そうかね……そうけえ……といった工合で、またほかの話をしているうちに、
「時に兄さんは、この頃なんにも変った様子は、ないのけえ……」
 友達は、何心なく、口に出したのかも知れません。が、私には不思議な気がしました。
「兄が、どうかしたのかい?」
「いいや、別段に……どうして?」
「だって君は、さっきから兄のことばかり、気にしてるじゃないか」
「ああ、そうだったけえ……いやいやそいつは失敬したなア。なアに、別段、どうってことはなえんだが! さ、その盃を、干してくれんけえ!」とまた慌てて、話を転じてしまいました。そうして二、三時間も、無駄話を、していたでしょうか? さ、随分長話をしてしまった、ソロソロおいとましようかねと、坐り直した途端、
「そう……そうすると、新さんの見たところじゃ、別段おねえさんと兄さんの間が、どうというふうにも、見えなえんだな?」
 と、口を滑らせた時には、到頭私は、我慢がならなくなりました。
「そ、そうムキになったら困る、何も悪気じゃなえんだよ……困ったのう」
 と友達は、当惑しているのです。
「それはわかっている、君の悪気でないことは、よくわかっているが、僕のいうのは悪意とか悪意でないとか、そんなことじゃないんだ。何か兄のことで、君の気になることがあるに違いないと、いってるんだよ。だから、それを聞かせて欲しいといってるんだ」
「そねえなこというたって、無理じゃなえかなア! なんの考えもなえに、口から出たことを責めたって……」
 と真実当惑の色を、現しているのです。
「そんなら、ま、聞くまいさ! 君がそれほどいいたくないことなら、無理にとは、いわないさ。せっかく久し振りで逢って、君との仲を不愉快にしたって、仕様がないからな」
 と私はあきらめました。が、帰り仕度をしている私の顔のどこかに、やはり不満が見えているのでしょうか?
「おい、お前、ちょっと向うへ行ってろ」
 と細君を遠ざけて、
「ようし、新さん、貴方あんたはそねえに聞きてえけゃ?」
 と真顔で私を、みつめているのです。
「そりゃ聞きたいさ、兄のことだもの、気になるよ」
「困ったなア……ところが、そねえな生易しい話じゃなえんだよ」
 と、っと吐息を洩らしました。
「ええよ、新さんと俺との間だもん、いうよ、いうけどが、こいつあ決して俺が、そう思うとるわけじゃなえんだぜ。ただ、村でそういうことを、いうとるもんがあるちう話だけなんだ。俺がそいつを、取り次ぐだけの話なんだ。ええね?」
「…………」
 私は黙ってうなずきました。
「なら、いうけんど……どねえなことをいうても、新さん、気にしちゃいけんぜ。そねえなことのあろうはずは、絶対ねえことじゃけん……」
「…………」
「実は、村で噂しとるのは……兄さんには女が、でけとるちう話なんじゃ。寄居よりいの町かどこかにでも、囲うてあるような按排あんべえで……時々通うて行く姿を、見たもんがあるちう噂なんだ……」
「…………」
「それと、もう一つは……困ったことにゃ……」
 と友達は、急に声を潜めました。
「新さんのお母さんは、病気で亡なったということになっとるが……そいつは表向きのこんで、……実際は兄さんが、どうかしたんじゃなえかと……毒でも飲ませて、殺したんじゃなえか……と」
「なに? 毒殺?」
 途端に私は、顔色が変るのを覚えました。血の気が引きながら、しかも自分の耳が信ぜられないのです。耳を疑いながら、しかも身体がワナワナと、震えてくるのです。
「そ、そいだから困ると、いうとるじゃなえか。何も顔色変えることは、ないじゃないか。ただ、そういう蔭口をきいとる人間が、あるちうだけの話じゃなえか! ……だから俺はいうのが厭だというとるに貴方あんたがいえいえと無理にいわせといて……」
「だから、だから、僕はうれしい……と」
 と、私は、息を呑みました。
「君なればこそ、いってくれると感謝してるんだ! だが、仮にその噂がほんとうとしても……僕にはせん……兄に、母を殺すなんの理由が、あるんだろう? 兄はあんな、親孝行だし……」
「そ、そがあな声を出して! そうなんだ、そうなんだ! この春あたりから、噂が立ち出した時から、俺にもどうしても、思い当るところがなえんだ。お母さんはあの通り、しっかりもんには違いなえが、兄さんでもおねえさんでも、みんなと仲がええし……無理なことなんぞ、一言だっていわれる方ではなえ」
 と友達は私の剣幕に驚いて、シドロモドロの弁解を始めました。
「どこを探したって、思い当るところがなえんだ。たとえば、お母さんが実権を握って、兄さんに金が自由にならんちうなら、考えるところもあるけんど、兄さんは若え時から跡を取って、金でもなんでも自由になるんだし……かえって相談かけられると、お母さんの方が迷惑がって逃げとられたんだ。兄さんとお母さんの間に、物事の食い違ったような話も、聞いとらんし……」
「意見が違うどころか! 兄は昔から、母のいうことに逆らったことなぞ、一度もない」
「そしてお母さんは、なんでも兄さんを立てとってじゃけえ、衝突の起る理由がなえじゃないか」
「いつから、そういう噂が立ってるんだ?」
「俺の耳へへえったのは、この春頃からだが、村の奴は寄ると触ると、ヒソヒソそういう噂ばかりしとる……」
「そういう噂を、兄は知ってるだろうか?」
「兄さんの耳へはえるわけは、なえじゃないか。近郷切ってのお大尽だいじん様で、立っとるんだもん。兄さんの耳へ入れる奴がどこにある?」
「兄は、村では評判が、悪いんだろうか? そんな噂まで立てられて……」
わりいどころか! 誰だって、賞めとるよ。ようでけた心のひれえお方じゃと……あの人柄だもん、悪くいわれるところなんぞ、なえじゃなえか……」
「評判が悪くなくて、それでそういう噂を立てられて……」
 と、私はまた、考え込みました。飲んだ酒がスッカリ冷め切って、ただ手足がブルブルと震えてくるばかりです。しかもなんと考えても、私には思い当るところがありません。
「ま、新さん、そねえに思い詰めなくとも、ええじゃなえか! ハッキリなにも、そうと決ったわけじゃなえ。そねえなバカな蔭口を立てとる奴があるから、困るというとるだけなんだ。ほら、新さん! そねえな真っ青な顔をして! すりゃ、ほかのこととは違うけん、かんげえ込むのは無理もなえが、あの兄さんに限って、そねえなバカんことのあろうはずがなえ……困ったのう、俺、つまんねえこといわにゃよかったなア」
 友達が困り切ってるのはわかりますけれど、その顔を眺めていても、義理にももう私には、口をきく気力はありませんでした。ともかく、まんざら火の気のないところに、煙は立たぬということもあるから、あるいは万に一つということが、ないとも限らぬ。それだからここはしばらく兄さんの様子を、じっと見守っている必要がある。新さんは東京へ帰る身だから、貴方に代って精々俺が、見守っていることにしよう。
 そして、万一これはと思うことがあったら、電報を打つからその時は、スグ帰って来て欲しい。帰っても、兄さんのところへ行かずに、ここへ来て欲しい。親殺しの罪が発覚したら、大変だから、その時はなんとでもして揉み消しをする。余計な心配をせずに、ひとまず東京へ帰ったらいいと、友達は口をくして、慰めてくれました。
 その友達の言葉も上の空に、やがて私は別れを告げて帰途に就きましたが、いよいよ親を手にかけたという、動かぬ証拠が挙がった場合、いかに田舎なればとて、たかが助役くらいの手で、揉み消し得られるものでしょうか? 友達のところから私の家まで、二里余りはありましょう。山の畑の段々道、山裾を切り拓いた赤土の道、柿や蒟蒻芋こんにゃくいもを軒に吊した淋しい百姓がちらほらと、冬枯れの山家やまがは、荒涼としています。
 その荒涼たる人影もない山のに、磨ぎ澄ましたような物凄い下弦の月が、冴えています。その物凄い月の光よりも、もっと凄まじい兄の心に、どんなに重い気持で悩んでいたことでしたろうか。勿論、いくら思いあぐね考え倦ねてみても、どうしても思い当るところはないのです。ただこんな思い設けぬ、重大事が突発した以上、もう帰京する気には、どうしてもなれません。ともかく貴方と本省へ、風邪がこじれて三、四日遅れる旨の発報を、打ちました。


 家へ帰って来ても、兄やあによめと顔を合せぬよう、どんなに私が苦労していたかも、貴方には察して戴けるであろうと思います。本来なら、そういうやましいことがある以上、苦労するのは私ではありません。兄の方で苦労するのが、当り前だとは思うのですが、どうしても私には、兄や嫂に素知らぬ顔で、おもてを合せることができなかったのです。
 私を呼ぶつもりで、茶の間で茶でもれているらしい嫂の気配を感じると、私は大急ぎで床をとって、寝てしまいました。そして甥が呼びに来ても、嫂が迎えに来ても、疲れて眠ったような振りを、装っていました。
「慣れぬ山道なんぞ歩くけえ、また風邪でもブリ返したんじゃなえのかな?」
 と兄がはいって来て、心配そうに枕許に坐り込みましたが、夜着を被ってなんにも私がいいませんから、やがて所在なさそうに行ってしまいました。しかも眼を閉じていても、頭がかっかとほてって、とても眠れるものではありません。
 うとうとすると、経帷子きょうかたびら数珠じゅずを手にした死装束の母が、朦朧もうろうと枕許に現れて……全身にビッショリと、汗をかいてしまいました。茶の間も下男下女部屋も、家内の人声が途絶えて、朝の早い山里は、もうみんな、寝静まってしまったのでしょうか。仄暗ほのぐらい天井の節穴をみつめながら、その夜一晩、どんなに床上に転々して、まんじりともせず長い夜を、苦しみ抜いたか知れません。
 ちょっとまどろめばたちまち刑事の一隊に踏み込まれて、兄や嫂が数珠つなぎにうなだれて行くまぼろしに脅やかされました。初めの予定では、ともかく兄の様子を見守って、落ち着いてとっくりと考えてみるつもりでしたが、まんじりともせず懊悩し切った頭には、もうそういう冷静な思考力や判断力なぞは、ことごとくせてしまいました。
 翌る朝れぼったい眼をして、私が茶の間へ出て行った時には、兄夫婦はもう朝の食事も終えて、食後の茶を飲んでいました。
「おう、どうしてえ、よう眠れたけえ?」
 と私の顔を見るなり、兄は声をかけました。
「……うん……まあ……」
「風邪はどうけゃ?」
「……それも直ったが……」
「せえだらええが……わしはまた、ブリ返しじゃなえかと、心配しとったんだ。……なんだか、元気がなえのう。無理せずに、も少し寝とったらええんじゃなえかな?」
「……兄さん、少し話があるんだが……どこかへ出掛けるのかね?」
「組合へ、顔出しゅしょうかと思うとったが。ナニ、すりゃ、後だってええんだ。何けえ? 話ってのは?」
「せえじゃ、話が済んだら、おまんまにしようじゃなえの」
 と、兄と弟の密談と思ったのでしょう、嫂は席を外しました。
「何けえ? 用てのは?」
「うん……ちょっと、話したいことがあるんだ!……外へ出られんかね?」
「外へ?」
 と兄は、怪訝けげんそうな顔をしました。
「構わねえが、ま、おめえ飯でも食うたらどうけゃ?」
「……食べたくないんだ。……出よう」
「朝っぱらから、仰山ぎょうさんな用だのう」
 裏口から二、三町行くと、子供の頃私や弟が泳ぎに行った、狩野川が流れています。広いかわらは土手よりも一段低く、昔のように栃の大木の根元から、小径こみちを伝わって降りるようになっています。
「どこまで行くんけえ、何の用があるんけゃ?」
 と不審そうに、兄は懐手をしたままいて来ましたが、私がその辺に立ちどまると、兄も足を止めました。
「この辺も、昔とちっとも変るまあが?」
「兄さん、少し俺には、腑に落ちんことがあるのだが……」
 と私は、切り出しました。
「こないだ兄さんは、俺に……俺と亮三郎に財産を分けてやるといったね? あれは、どういう意味だろう? どうも俺には、腑に落ちんのだが」
「何が、腑に落ちんのけえ? 世の中が変って、もう長男が、一人で親の財産を、受け継ぐ時世でもなえし、阿母おふくろさまも、お亡なりなさったで……ちょうどお前は帰って来たし、ええ機会おりじゃから、そういうたんだが。民法も、変っとるでなア」
「兄さんから、民法の講釈なんぞ、聞きたくない……俺が帰って来たら、急にそんなことをいい出すなんて、何か俺の機嫌を取るようで、変じゃないか?」
「別段、おめえの機嫌なんぞ、取るわけじゃなえ。変なことなんぞ、ちっともなえじゃないけゃ! わしは先から、そうかんげえとったんじゃ。……だが、なんじゃえ、急にそねえなことをいい出して、こねえなところまで呼び出して! 一体新次郎、どうしたんけゃ?」
 と、兄のおもてには、不審の色がうかんで来ました。
「何かわしのすることに、不満でもあるんけゃ? 分け方が足りんとでも、いうんけゃ?」
「そんなことを、いっとりはせん! 第一、財産なんぞ……亮三郎だって、そうだろうと思うのだ。別段俺の方から欲しいともいわんのに人の顔を見るといきなり、そんなことをいい出すのは、変じゃないか! ……何か兄さんは、俺に隠してることでもあって……」
「せえだから、なんのためにわしが、お前の機嫌を取る必要がある? と聞いとるじゃなえか! 第一、わしが分けてやろうというんじゃなえ。阿母さまの、おかんげえなんだ。兄弟きょうでえ三人で、仲ようして……」
「そんなことはどうでもいい、俺の聞いてるのは……聞いてるのは……」
 と、思うことが口に出ぬもどかしさに、私はき込みました。
「兄さん、貴方あんたはお母さんに、飛んでもないことをしてくれたね?」
 と、いう一言が、なんとしても喉から出て来ないのです。
「何か兄さん、そこにあるんじゃないのかい? 口に出せないようなことが……それだから、財産を分けてやるなんて、俺や亮三郎に謝って……」
「じゃけえ、お前や亮三郎に、謝ることが何があると、さっきから聞いとるじゃなえけゃ、お前は妙なことをいい出したなア、新次郎! なんのことやらサッパリわからんが、わしはお前や亮三郎に謝るようなことを、なんにもしとりゃせん」
「しとるかしとらんか、だから聞いてるんだ。俺は……俺は、そんな妙な財産なんぞ、欲しくはない!」
「痛くもねえ腹を探られて、わしもお前に、貰ってもらいたくはなえ!」
 と兄も、大声を出しました。
「なんじゃい、下らん! そがあな話をするために、朝っぱらから人をこねえなところへ、呼び出して! すんな話なら、もう聞かんかってええじゃろ、話は済んだ! わしみてえな人間と違うて、お前はてえした頭の人間になったかと思うたら、案外じゃったなア、新次郎」
 と、憐れむように兄は、私に眼を注ぎました。
「わしは、組合へ顔出しゅせんならんけえ、こいで帰る、帰るがしかし……おめえはなんとかんげえるか知らんが、ついでだからもう一言いうとこう」
 と、二足三足戻りかけた足を止めて、打って変った沈痛な語調で、独語ひとりごとのようにいい出しました。
「これはおかのとも相談したんじゃが……」
 おかのは勿論、あによめです。
「阿母さまがお亡なりなすった時分から、……別に深いわけもなえんじゃが、わしもつくづくこねえな村住いが、厭になっとるんじゃ。ええ売り物でもあったら、町へ出て……深井の町へでも出て、なんぞ手に合うた商売しょうべえでもして、もっと呑気に世の中を送りてえと思うとるんじゃが、慣れぬ商売に手を出したら、どねえなことですってしまうかもわからんけえ。……わしはええ、わしは自業自得じゃけえ、すっても構わんが、そでは御先祖様や兄弟に、済まんけえ、せめてお前や亮三郎には、今のうちに分けるものを分けて置こうと、思うとったんじゃ。……これはわしの考えだ、わしだけの考えじゃが、しかしバカな奴じゃのう、お前は! 人の心も知らずに、下らんことをいい出しよって!」
 深井は、ここから二十六、七里離れた町、この町へ行く途中嫂の実家があります。
「フウン……兄さんが、商売をする? なんの商売をするんだい?」
「手離すというたところで、右から左に買い手が付くもんじゃなえし、……まだそこまで考えてもおらんが、どうせわしのような学問もなえ人間のすることだ。なんず手に合うた……たとえば、金物屋とか荒物屋のような……」
「…………」
 勿論、兄のいう通りでしょう。たとえ農地法で、田地田畑を小作人に譲り渡したといっても、それでもまだ山林、果樹園は何百町歩とあり、兄は村一番の素封家です。村一番というよりも、県下で何番目といった方が、いいかも知れません。その兄が、村に住むのがイヤになって、深井の町へ出て金物屋か荒物屋でもする。
 兄のような温厚な人柄なればこそ勤まる。因習に包まれた田舎の、地主家業の煩わしさをよく知っている私には、ふだんならば兄の言葉を、さして不思議とも、聞かなかったかも知れません。が、私の頭には、友達のいった言葉がこびり付いているのです。貴方あんたの兄さんには、女ができている……そしてお母さんを、あやめている……。
 ハハア、その女にそそのかされて、質実な村の生活を棄てて、町へ出ようとしているのだな。そして……そしてそこには、何か村にいたたまれぬような、事情わけがある……やっぱりそうだったのか! と、私の疑惑は一層、深まりました。
「人が心配して、やきもきしているのに、そうしらばくれるんなら俺も、ハッキリ聞こう! 俺のいうことに、答えてもらおうじゃないか。兄さんは、お母さんが、長い間御病気だったとそういったね? その長い間、医者は一体だれが診てたんだい? 大沢さんかい、甲午こうご堂かい? 蒲原かんばらさんには、かかってたのかい?」
 大沢も甲午堂も蒲原も、みんな私が子供の時分から知っている、村や近くの町の医者でした。
「甲午堂は夜逃げをしたから、もう村にはおらん。お母さまは、腎臓病のうちでも性質たちの悪い、萎縮腎というてな。大沢だとか蒲原だとか、そがあな藪医者どもに、何が手におえるけえ! せえだから浜田から、土屋さんてえ専門の医者に、来てもろうたんだ。その先生の紹介で、松江から亀井さんてえ博士の方にも、二、三度応診してもろうたろ。お亡なりなさる一日前にも、確か二人で来て下さったはずだ」
「死亡診断書は、だれが書いてくれたんだ?」
「その土屋さんてえ医者が、書いてくれた。たった一人の親じゃけえ、わしもできるだけの手は、尽したつもりだ。お前からかれこれいわれるような真似は、しとらんつもりだ」
「そんなら、村には先祖代々の寺があるのに、なぜあんな遠方の、宗源寺なぞへ、葬ったんだ?」
「前にそのわけは、話したつもりだがな」
 と兄もあらわに、不快の色を現しました。
「阿母さまの、お望みなんだ。そこの方丈さまの法話を、お聞きなされて、死んだらあすこへ葬ってもらいてえと、しょっちゅう仰言おっしゃってだったから、あすこへ葬ったんだ」
「お母さんの病中の心覚えを……たとえば、医者の払いだとか、葬式の費用だとか、……そういうものは、残してあるのかね……?」
「細けえこともけとったが、取っといても仕様なえから、もうなんにもなえじゃろう? みんな、燃やしてしもうただろ」
 燃やさずにいられないから、燃やしたのと違うかね? 兄さん、それをさっきから俺は聞いてるんだ! と喉まで込み上げるのを、私は我慢していました。
「探してもらえるのかね?」
「見たけりゃ、探してみよう、が、多分もう取ってもなかろ」
「弟二人に、後で見せるためにも、そういうものは取って置くべきものだと思うんだが、兄さん違うかね?」
「そねえな必要もなえじゃろう、後で兄弟に金の負担でもかける気なら、取って置くかも知んなえが、そうでなけりゃ、死んだ後で、帳面ばかし眺めてたって、なんになる? 亡なった仏さまア、生きてけえるわけでもあるめえしさ……」
 と兄は冷笑しました。
「それならお母さんの葬式には、どういう人たちが来たのか、聞かせてくれ」
「そねえなことが、おめえに何の必要があるんけえ?……みんな来たさ。新屋の茂吉つぁんも、長原のおかんさんも、豊田の叔父つぁんも、寛右衛門さんも、新兵衛伯父も、……一々並べられはせん、村中みんな、集まって来たろ、立派なお葬式だった」
「そんなことを、聞いてるんじゃない。人が亡なった時には、お湯を使わせて経帷子きょうかたびらに着換えさせて……湯灌ゆかんということを、するだろう? その湯灌には、どういう人が立会ったのか、それを聞いてるんだ」
「死んでから、身体に触られるのは厭だから、あれだけはしないどくれと仰言ってだったから、しなかったはずだ……もっともあれは、女たちの役目だが……」
 いいかけてさすがに穏やかな兄も、憤然として言葉を切りました。
「新次郎! 今日は随分おめえの言葉はげ尖げしいのう。わしはまるでお前から、詰問されとるような気がするな。あまり愉快では、なえのう。もうそねえな話は、これくらいで、止めといてくれ、血を分けた弟から、こねえなことばかり聞かれるのは、わしも我慢がならねえけえ」
 と兄は、不快げにスタスタと、戻りかけました。
「組合へ顔出しするというに、さも用ありげにこねえなところまで、呼び出して……、なんだ、下らん話ばかり! バカのバカの、大たわけの奴ちゃ、肉身の兄を疑ぐりよって!」
「逃げるのか、兄さん!……ハッキリ答えられんから、逃げるのか? あれも遺言、これも遺言と……」
「おめえから逃げる必要がどこにある」
 と、兄も怒気憤々として、振り向きました。
「聞きてえことがあったら、おめえの気持の穏やかな時に、もう一遍出直してう! お前から詰問される理由が、わしにはなえということなんだ」
 おそらくそれは、私が生涯初めて見た怒気満面の兄の表情だったでしょう。土手の道を、すすきの枯葉の蔭を、黄櫨はぜの枯枝の向うを、やがて畑の向うを曲って行く兄の後姿をぼんやりと眺めながら私は、突っ立っていました。小肥りの身体に、田舎の紳士らしく猟虎襟らっこえりの二重廻しを着けて……その後姿を眺めていると、たとえ女に騙されようと、あの朴訥な人のいい優しい兄が、どんな事情があろうと親を手にかけようとは、なんとしても私には考えられないのです。いわんや母に孝行なあの孝行な兄が!
 しかも私は、兄を罵ったり詰問したりするために、こんなところまで呼び出したのでは、毛頭もないのです。亮三郎には黙って置いて、せめて兄さん私だけには、腹蔵なく仰言って下さい。どんな事情があったのかは知らないが、お母さんのことは、もう仕方がない。が、兄さん貴方の身だけは、どんなことをしても私の力の限り、守らなければならないのです! と、心の中一杯に、叫んでいるのです。それにもかかわらず、私の口から出て来るものは妙に気持が硬張こわばって、まるで喧嘩口調の詰問です。これでは兄の怒るのも、無理はありません。
 思うことは、少しも口に出ず、思わぬことばかり口から出て、しかも詰問口調でありながら、私の知りたい事件の核心には少しも触れず、ただ廻りをぐるぐるとめぐっているに過ぎないのです。が、私にはこれ以上、もう兄に問いただすだけの気力はありませんでした。


 その翌る日から、どんなに兄と私との問が[#「問が」はママ]恰好の付かぬ気拙きまずいものになったかは、これももう特別に、申し上げるほどのこともありますまい。
 私は、不用意に兄に顔を合せることを避けていますが、思いしか兄の方でもまた私を避けているように思われます。翌日からは、兄と親しく顔を合せる機会も、ありませんでしたが、たまにどうかした拍子には、顔を合せないとも限りません。そうした時の、兄のドキマギした様子といったら、ないのです。まぶしそうに、人の顔を盗み見るようにして、かえってこっちの方が、気の毒になるくらいです。
「わしの思うには、……ソノなんだな……」
 と人の気を兼ねて、ず怯ずいい出して来るのです。
「身体の工合が直ったら、早く東京へ戻って……ソノなんだ、お前のいるのが邪魔で、帰れというんじゃなえが、お前には大切な勤めがあるんだから、またゆっくり出直して来た方がええと思うんだがな。向うのお嬢さんも、さぞ待っとられるだろうと、思うんだがな」
 勿論兄は、帰京を一日延ばしにしている私の身を、心配しているには違いありますまい。
 が、私にはその兄の言葉も、そうジロジロと俺の上ばかり探索の眼を向けないで、もういい加減に解放してくれてもいいではないか! と、私に哀訴しているように、聞えてならないのです。
 そして、おおよそそうした兄の言語なり動作なりが、深い疑惑と苦悩と憂愁に私の心を閉ざして、もう日延べの電報は東京へ、三度も打っています。明日こそはなんとしても兄の前に土下座して涙を流してでも、ことの真相を明かしてもらおうと決心した日に、ふと幼い甥の口から、明日は父ちゃんが商売で、寄居の町まで出かけて行くんだあ! と聞かされました。
 ハハア、商売だと見せかけて、女のところへ行くんだな? と、私は直観しました。私が来てから既に、十日ばかりの日がたっています。この間兄が半日一日家を留守にしていたということは、一度もありません。いよいよ我慢がならなくなって、女のところへ行くのだな? と、踏みました。
 ようし、それならば明日は私も、兄の後をけて行こうと決心しました。別段兄の女なぞを、見たいと思ったわけではありません。が、兄が女と逢っている、のっ引きならぬ現場を抑えたならば、兄が母をあやめたということも、明白になりましょう。いいや、そんなことよりも、兄の秘密を私が知っているということが、いいにくいことを私の口から並べ立てずとも、兄をして観念させて事の真相を、打ち明けさせてくれるだろうと思ったからなのです。そして朝起きるとスグ、家の前の山へ登って、木の蔭に隠れていました。
 人の姿もない朝の七時頃、兄は門から出て来ました。盲縞の着物に鳥打帽をかぶって、外套も着けずに尻を端折って、リュックを背負って……脚絆きゃはん草鞋わらじで、身拵えをしています。まさか、こんな姿で女のところへ行くわけでもありますまい。寄居の町へ出て服装みなりを改めるのかなと思いました。いずれにせよ、金を持ち出すのははばかるから、リュックの中には家に伝わる、金目な書画や骨董類でも、詰めているんだなと察しました。
 転ぶように山を駈け降りて、見え隠れに後をけ始めました。
 私は今まで、人の後を尾行したという経験なぞは、ただの一度もありません。いわんや年の暮の、こんな片山里の朝の七時八時頃には殆んど往き来の人もありません。その人っ子一人通らぬ道を、ポクポクと兄の後をけて行くのですから、兄に気取られぬよう、どんなに苦心したか知れません。
 変装といったところで、なんの持ち合せもありませんから洋服の上に押入れから引っ張り出した、父の若い頃のボロボロの二重廻しをはおって、頭巾を真深に、鼻口許をマスクで掩うて、あまり近づかぬよう、さりとて姿を見失わぬよう、随分苦労して歩きました。
 何か考え考え、兄は足を運んでいます。が田舎者の常として、足の早いこと! 姿を見失わぬよう頭巾の中で、息苦しいほど私は汗ばみました。
 竹藪を通り抜けて、畑の横の石礫いしころ道を過ぎて胸を衝くような急坂を登り、さっきから三、四里余りの道も歩いて、もう時刻は十二時頃を、過ぎていたでしょう。登ったり下ったり、もう峠も、三つばかりを越えていたような気がします。
 子供の時分の記憶ですから、ハッキリとは覚えませんが、道はこのさきで二股に分れていたような気がします。そして後一里か二里で隣り村の隣り村、母の葬られている北野の宗源寺へ辿たどり着くでしょう。左側の、そこの溪川に架けられた丸木橋を渡って、爪先上りの竹藪を抜ければ、遥か稗田山の麓には、寄居の町が小さく、豆粒のように霞んでいます。これももう、一里か二里くらいの道のりだったでしょう。
 そこにたたずんで、兄が考えているふうでしたが、と、やがて兄はリュックを降ろして、路傍の石に腰を降ろしました。竹の皮包みを取り出して、どうやら弁当でも使うらしい気配です。私の佇んでいるところから五、六間ばかり畑の奥に石の地蔵尊と四、五本ばかりの木立ちが、取り残されたように繁って、ここにいれば兄の眼につく恐れがありますから、大急ぎで這い上ってそこへ、身体を隠しました。
 これで、振り返っても兄には気が付かれず、私の方からは小さく石垣の上に、兄の頭が見えるのです。
 が、繁みに身を隠して、っとした途端、ギョッとして思わず総身そうみが、鳥毛立ちました。けてることを絶対兄には、感づかれてないと思いのほか、私が今身を忍ばせた道の下まで戻って来て、
「おい、新次郎! 新次郎!」
 と、呼んでいるのです。
「新次郎! そねえなところに隠れとらんで、出て来て飯う食わんけえ?」
 枝から覗いて見ると、兄は竹の皮包みを開いたまま、こちらを見上げています。
「…………」
「いつまで妙な真似を、しとるんけえ? 早う出てえ!」
「…………」
「隠れとるつもりかも知れんが、おい! そこから廻しの袖が、見えとるぞう!」
「…………」
「これだけいうても、まだ、意地を、張っとるんけえ? そこまで思い詰めとるもんなら、もうわしも隠しゃせん! 早う出てえ!」
 これではもはや、隠れてる必要はありません。私は姿を現して、兄の前に突っ立ちました。もう兄も、決心したのでしょう。あの眩しそうな瞳なぞはしていません。穏やかな、いつもの顔に、戻っているのです。
「腹がったろう、弁当でも食わんけゃ?」
 突き出した竹の皮の中には、ボロボロの麦飯の握飯と、傍に大きなひね沢庵が添えられてあります。
らん!」
「じゃ、わしも後にしよう」
 と兄は、竹の皮を引っ込めました。
「やっぱり、いて来るけえ?」
 私は黙って頷きました。
「仕方がなえ、思った通りに、するがええ。もうわしも隠しゃせん。お前だけは、仕合せに暮さしてやりてえと思うとったが、もうわしの力じゃ手におえん。来たらええだろう」
「兄さんは……兄さんは」
 と私は、初めて口を開きました。「俺だということを、知っていたのか?」
「阿父さまの廻しなんぞ着て、わしにわからんと、思うとったんけえ?」
 と兄は淋しそうに、笑い出しました。
「どうぞして、お前が諦めて帰ってくれりゃええ、と思うとったんだがな。来たかったら、来るがええ……来るけゃ?」
 そして私は、息苦しい頭巾を跳ねて、兄の後について歩き出しました。それっきり兄は一言も口を利きませんでした。私もまた口を利かず、人っ子一人行き逢わぬ、石礫いしころだらけの山道を登り始めたのです。
 兄は、丸木橋を渡りませんでした。寄居へ行くのではありません。うねうねと、石垣に沿うた山道を、北野村へ登り始めたのです。
 黙りこくって岩角を踏み、石礫を踏んで、山道をそれからまた一里か一里半も、もう午後の二時頃にもなっていたかも知れません。その間に兄のいった言葉は、たった一言……
「腹が減ったけゃ? 食わんけえ?」
 後はただ、考え考え、道を歩いているのです。山道も漸く尽きて、部落へはいって来ましたが、この辺は北野村の裏外れと見えて、人の家らしいものも、殆んどありません。
 相変らず兄は、黙ってゆるやかな坂道を、登っています。どこへ、兄が行こうとしているかが、やっと私にも、飲み込めてきたのです。兄は母の葬られている、宗源寺へ行こうとしているのです。寄居へ行くのを見合せて、寺へ行って母の帰依していたその住持に逢って、一部始終を聞かせて、くれようとしてるのだな。帰りには母の墓へ行ってお詣りでもするつもりかな? と私は考えました。
 いよいよ見覚えのある、寺の門前へ出て来ました。何百年をへたとも知れぬ磨滅した、いしだたみや、青苔の生えた石段の向うに、例の仁王門がすっくと、そびえ立っています。そしてその遥かの奥に、楼門とは似ても似つかぬ萱葺かやぶきの小さな本堂が、真っ闇な老杉に囲まれて、昔に変らぬ陰森さを漂わせていました。
 が、その石段を上ると、兄は本堂の方へは足を向けず、そのまま仁王門の横について、グルッと廻りました。裏手には、この楼門へ上るための、頑丈な格子戸がついているのです。初めて、落ちつきなくど怯どと、兄はあたりを見廻しました。
「おい、だれか見とるといけんから、早く、早く! だれも見とらんか、見とらんか? さ、急いでへえれ!急いで!」
 自分も後から飛び込むと、初めてっとしたように、扉に掛金をかけました。埃だらけのその板の間に、粗末な段梯子だんばしごが付いているのです。古い朽ち木の梯子に、新しく手を加えたらしく、それを上り詰めた板の間には、さらにもう一つ、同じような梯子があります。これを上ると、またもう一つ。
 埃だらけの板の間へ出ては上り、出ては上り、都合三つの梯子を上り詰めたところが、一番のてっぺんと見えて、ミシミシと踏んでいる板の間の割れ目から、仁王様の頭のてっぺんが、見えています。もはやこの辺は陽の目も射さず、かびくさい臭いとともに歩くたんびに、何百年来の埃が濛々と舞い上ります。天井は低く、頭に掩い被さらんばかり、柱や垂木たるきが乱雑に、もはやここは楼門の、天井裏と思われます。
 兄がうようにして行きますから、私も後にいていますが、もしここから覗いたならば、今まで越えて来た峠や道も、一目に俯瞰みおろされるだろうと思われるくらい、随分高いところのような気がします。と、向うの端に小さな急拵えの、明り取り窓らしいものが見えて、そのかすかな光を受けて、パッと私の眼に映ったものは!
 その埃だらけの板の間に、四枚ばかりの古畳を並べて、その上に厚い夜具にもたれて今じっと、こちらへ顔を向けているものは!
 白髪の髪をおどろに振り乱して、片方の眼がれ塞がり片方の眼があらぬ方を向いて、眉毛もなければ鼻もなく、のっぺらぼうの顔にポツンと真っ黒な穴があいて、満面ただれて見る蔭もないその老婆は! 重症も重症二目と見られぬ癩病やみの、その老婆は!
「早う来たえ来たえと思うとりましたが、何やかやと手が離せなえで……」
 とたちまち兄が、板の間にぬかずきました。
阿母おふくろさま、新次郎でござりますぞい……」
「な……何? お母さん?」
「口癖にいうていなされた新次郎が、仏蘭西からけえってめえりましたぞい。逢うてやって、つかあされ! 阿母さまはもう頭に来てなさるで、お前がおわかりにならぬだろ!」
「こ……こ……これが、お母さんか! お……お……お母さん……だったのか?」
 と私はそこに崩おれました。
「し……し……し、知らなかった……こ、これが、お母さんとは……し、らなかった。兄さん! か、勘弁してくれ!」
 涙が後から後からと湧いて来て、もう私には、母の姿が見えなくなりました。母にも、私の姿がわからないのです。兄のいってることも、私が帰って来たことも! ただ白眼勝ちな片一方の眼が、キョトンとしてうつろにあらぬ方を眺めているばかり。兄のいうことも、聞えるのやら聞えぬのやら!
「今日は、友治の、誕生日でござりますでな……ほら、阿母さまのお好きな、小豆飯をどっさり持ってめえりましたぞい。おなますも持って参りましたぞい。ほれ、これが金平きんぴら……煮染にしめもありますで……ひらべの煮付け……」
 リュックを開いて、兄の取り出しているものは、掛軸でもなければ什器じゅうき、茶道具の類でもありません。五里の山道を背負って来るために、あによめが詰めたのでしょう。ことごとく、竹の皮包みの喰べ物ばかり! お煮染せち……酢の物……赤飯こわめし……醤油瓶……酒の一合瓶……沢庵包み……
 何故兄が、あんな忌わしい蔭口なぞを、叩かれていたのか? そんな蔭口を叩かれながら、黙々として隠従していたのか? そして兄弟の幸福しあわせばかり図って、自分では村の生活にも財産にも、なんの未練も感じなくなっていたのか? ということなぞも、スッカリ飲み込めました。
 いいや、それらが飲み込めたばかりではありません。何が故に村の医者に見せず、遠くの医者を呼んでいたのか? 村の菩提寺でなく、こんな遠くの寺へ、葬ったといっていたかというわけも、この瞬間ことごとくうなりを発して、私の心中で溶けて流れて消え去りました。みんな、私や弟に幸福な生活を送らせたい、兄の一心だったのです。
 そして自分は、一言の愚痴をいうでもなければ、泣き言を並べるでもなく、黙々として母に、孝養の限りを尽している……これが私の兄の、真の姿だったのです。それが今、一瞬の間に音たてて、私の心で溶け去りました。あの子供の教育に熱心な人一倍家庭の教えの厳格な母が、今はまるで子供のように頑是なくなって、その膿み爛れて腐臭を発する身体に寄り添うて、子供にでも喰べさせるように、箸で口へ入れている兄の姿!
 そのまた兄の入れてくれるのが待ち切れなくて、ガツガツと喉を鳴らしながら手探りで、子供のように竹の皮へ手を突っ込んでいる、母の他愛なさ! あの尊い尊い私の母だったのでしょうか! あまりの浅ましさに、私は顔を掩うて号泣しました。しかも、竹の皮包みを引っ掻き廻している、その指の何本かも、脱け落ちているのです。
 涙なくては、一切眺められませんでしたがもっともっと私の涙をそそったのは、食事の済んだ後人目を忍んで汲み上げて来た、バケツの中へ汚れた皿や茶碗を突っ込んで、たすきをかけて洗っている兄の姿だったのです。そして洗い終ると埃だらけの板の間へ、雑巾をかけて、尿屎ししばばの始末をしている、兄の姿だったのです。家にいれば、十何人かの下女下男にかしずかれて、村一番の地主様で通るその兄が、まめまめしくしかも不器用に、働いているその姿が、母の哀れな姿にも増して、私の涙をそそってみませんでした。
 そして私は、この瞬間ほど尊い兄の前に手を突いて、兄を苦しめ切っていたこの四、五日の自分の罪を詑び、母の病気故の辛労を、血の涙を流して、兄に礼をいいたい、と思ったことはありませんでした。


 中込礼子様
 私は書いてここまで来ました。もうこれ以上いわなくても、貴方はすべてを、察して下さるであろうと思います。
 医学の教えるところでは癩病は、遺伝ではないかも知れません。伝染しやすい環境と、体質に基く伝染病かも知れません。母が癩病なればとて、あるいは私の一生に、癩病は発しないかも知れません。しかし私が、癩病を患っている母の子であるという事実は、如何いかんともこれを打ち消すことはできません。それ故に私はこの詳しい手紙を書きました。
 貴方が私の請いを容れて、妹さんお二人が結婚して、それぞれの家庭を営まれたにもかかわらず、貴方だけが二年も三年もお待ち下さったことを、なんとお詑びを申上げていいかわかりません。しかし、もはや、こういう事情になりました。どうか私との縁は、これまでのことと諦めて、お忘れになって下さい。そして適当な方がありましたら、一日も早く御結婚になって、貴方だけは仕合せな日を、お送りになって下さい。それをお願いするために、この手紙を書きました。
 いつぞや、巴里で受取った貴方のお手紙には、貴方のお父様は貴方が結婚なさる時は、フレガートの新車をお祝いに、下さる御意嚮ごいこうだと書いてありました。勿論、新家庭をお持ちになる時は、貴方は数多いお宅の女中の一人をも、お連れになるでしょう。つい五、六日前までは、私もそれを普通のことだと、考えておりました。
 聞えた中込さんの愛嬢でいられる以上、貴方がそれくらいのことをなさるのは、当然至極だと思っていました。そして私も、タキシードや燕尾服で、各国大公使の夜会へ出席することを、いささかも不思議とは思っておりませんでした。が、そうした私の今までの生活は、もはや手も届かぬくらい遠くへ、飛び去ってしまいました。私が貴方と新居を持って、女中に侍かれタキシードで自動車に納まって、都大路を走らせている時には、私にそういう生活をさせたいばっかりに、私の兄は淋しい五里の山道に草鞋を穿いて、路傍でたった一人、握飯を喰べているのです。
 母は埃だらけの仁王門の天井裏で、髪を乱して尿屎ししばばを垂れ流して、兄の喰べさせてくれる竹の皮包みの中へ、手を突っ込んでいるのです。その哀れな肉親と兄弟を見棄てて、今日まで自分の幸福な生活の設計ばかり、建てていたのかと思ったら、私は大口あいて自分の心の浅ましさを笑い出したくなりました。そして竦然ぞっとして、心が寒くなりました。私には自分が国家の外交官であるという身の上すら、もはや考えることができなくなりました。たすきをかけて、板の間を拭いている兄の弟には、髪を乱して鼻の欠け落ちた母の子には、もはやそんなことを考えることもできぬ、過ぎ去った昔の残骸に過ぎません。今の私には、夢想さえできぬ陽炎かげろうのような、この世の生活です。
 そして、こんなことを申上げるのは、決して私の、感傷ではありません。こんな惨めな残酷むごたらしい、切迫せっぱ詰まった運命に直面した人間に、なんの感傷なぞがあるものでしょうか。
 先月の二十六日、延び延びになっていた着任の挨拶と同時に、辞表を出すために思い切って、東京へ行って来ました。夜行で昼過ぎ新橋へ着いて、その足で田村町の本省へ行って、局長に辞表を出して来ました。理由をいわず、ただ外交官がイヤになったと、それだけを申し立てましたから、局長から辞表の撤回を慫慂しょうようせられ、先輩から説諭され、しまいには次官のところまで連れて行かれて、慰留されました。
 しかし、結局辞表を出して、午後の六時頃本省を出ました。また電車通りを新橋口まで、あのガード下の煉瓦れんが道を、暮れの売り出しで賑わっている東京デパートの前から、駅構内へ出て来ました。降誕節クリスマスの済んだ東京の市街はやがて迎える新年の装いで、ネオンが夜空に美しく、輝いていました。
 乗車時間の迫って来るまで、柱にもたれてネオンを眺めていましたが、一晩、ホテルにでも泊って、しみじみ東京に別れを告げたいなと思いました。が、兄と母との顔が眼先に散らついて、どうしても東京に泊る気には、なれませんでした。九時四十五分の下の関急行に乗って、発車するまでぼんやり窓から眺めていますと、議事堂の裏手から麹町赤坂辺と覚しい高台にも、燈光が夜空にきらめいていました。
 貴方はどうしていらっしゃるだろうと思うと、せめて一度でも逢いたいなと、無性に貴方にお眼にかかりたくなりました。が、眼を閉じているうちに、汽車は発車しました。それでもまだ、眼をあけることができませんでした。大森、蒲田、川崎と過ぎて、東京の灯光がやや遠のいた時分に、やっと心が落ちついて、眼を開くことができました。
 慟哭どうこくしたいような、気がします。子供のように、だれかの胸に顔を当てて、思う存分に泣いてみたら、さぞ胸が清々するだろうと思います。がいくら泣いてみたからとて、この事実をどうすることができましょう。ともかく私の住むところは、もうここのほかにはありません。この手紙は仁王門の天井裏で、カンテラの光で書いています。
 淋しいと思います。なさけないと思います。意気地なく、涙が出て来ます。しかし、不思議に心が落ちつきます。新橋でネオンや、赤坂麹町の夜空を眺めて、狂いそうな気がした時に較べると、自分ながら驚くほど、澄んだしみじみとした安住の安らかさを、覚えます。やはり、自分のいるべきところへ、帰って来たからでしょう。
 裏山の墓地へ行くと、兄のいう通り母の新しい石塔や、卒塔婆そとばが立っています。おそらくこの様子では、兄はさまざまな法律上の罪を犯しているに違いありません。そんな話は今更、兄としたこともありませんが、金を散じて医師を買収して、偽の死亡診断書くらいは、作らせているでしょう。村役場の吏員か警察署員をいざのうて、偽の埋葬認可証を出してもらって、村人たちを欺いて、母の偽の葬式を営んだのでしょう。そしてその棺を埋めて、宗源寺の住職に頼んで、母の墓を立てているのでしょう。
 そのためには戸籍面も改竄かいざんして、生きながら母は、死亡しているのかも知れません。その方の専門家でないから、私はこれらがどういう罪に当るかを知りませんが、勿論発覚すれば国法の制裁は、免れ得ないでしょう。が、兄は、私と弟を仕合せにするために、こういうことをしているのです。兄には、なんの罪もありません。苦しみを一人で背負しょって、弟たちの生活を守りたいために、已むなく国法を破っているのです。
 ただ一つ、兄に罪ありとすれば、それは欺瞞ぎまんと虚構の上に、人間の幸福は築かれないということを、忘れていたことくらいのものであろうと思われます。この尊い兄を、どうして罪に陥れることができるでしょう。あらゆる方法を研究して、死力を尽して、兄の負うべき罪はことごとく、私が受けるつもりです。兄には妻があり、子供がある。幸いに私は、独身です。そして私は今日まで、兄のお蔭で苦しみを知らず、兄は罰せらるべくもはや、余りにも多くの苦しみを受け過ぎています。
 私には宗教もなければ、信仰もなく、判然たる未来感なぞはありません。が、もし世間でいう如く、人が死んで来世というものがあるならば、その時こそ喜んで喜んで、私は貴方に結婚して戴く。そして夫とも呼ばれ妻とも呼びたい。では仕合せに、暮して下さい。
さようなら

 全文ここで終っているが、もう一度ノート発見当時の模様を、振り返って見ることにしよう。この本文が終ったあたりに、仏蘭西語で Se ma※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)triserメトリゼ avecアヴェク amertumeアメルチューム と、二つばかり書いてある。Se ma※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)triser avec amertume とは、「泣きながらおのれに打ちつ」とでも、訳したらいいであろうか? 無意識のいたずら書きのように見えるが、仔細に眺めると、ここにも心の苦しみが、ありありと偲ばれる。
 歯を食い縛ってでも、諦めねばならぬ人は諦めようという意味か? 苦しい人生は、泣きながらでも、堪えて行かなければならぬという意味か? いわん方なく人の心を打つ。
 ともかくノートは、板の間の埃塗ほこりまみれの円柱の蔭から、積んであったルナンやパピニの基督キリスト伝の下から、むしくいだらけになって現れた。表紙も角々も食いちぎられて、鼠の糞だらけで発見されたのだから、書いてはみたものの考え直して、出すのを見合せたのではないだろうか? と、推察されるに無理はない。
 が、新聞の報ずるところによれば、その中込氏の令嬢も、最近突如謎の自殺を遂げたといわれるところをもってすれば、あるいはこのノートを元とした何らかの手紙を、受取っていたのではなかろうか? と、想像される節がある。いずれにせよ、運命の主人公自身は、いささかの犯罪容疑者でもないのだから、それらは警察の探索を許さぬ、個人の自由の世界と、いうところであったろう。
 人の住んでいないはずの、宗源寺の山門から時々怪火が洩れるとか、人のうめき声が聞えるという、頻々ひんぴんたる投書に基いて、地元柏野かしわの警察署が刑事の一群を踏み込ませたのは、本年の一月二十一日、朝から大雪が降った大寒の入りの当夜であった。所轄署としては、勿論近在の博徒ばくちうちたちの開帳で、刃傷の結果怪我人を出していると踏んだのであるが、踏み込んだ時には既に主人公も病母も、枕を並べて死んでいた。
 主人公がまず、病母に毒を嚥下えんげさせ、次いで自ら服毒したものと見られたが、死後二昼夜を経過していると推定された。主人公は、病母に対してTの字型に、さながら幼児が母の懐でもい探る如く、左手を病母の――革のヴェストンを着けた左手を、病母の脇の下へ差入れ加減に、病母は蒲団から半身を乗り出して、崩れ落ちた手を心持青年の背へ、かけるような恰好であったといわれている。
 死んで病から解き放たれて、狂った心にも初めて我が子が、遠く海外から帰って来たことが、わかったのかも知れぬ。瀬戸内海の長島には、癩病者隔離のための愛生園があり、草津、霧島その他にも、隔離のためにいくつかの国立療養所の、設けがある。駐仏大使館二等書記官までも勤めた俊才が、何も早まって親子心中まで遂げなくとも! と、世の識者といわれる人々の批判はかまびすしいかも知れぬが、伝統と因襲に捉われた平和な山村において、この重病の病人を動かすことは、我と我が手で一挙に、兄の犯罪を暴露してしまうようなものではないか。
 さりとて、余命幾許いくばくもないこの病母が、もし落命したらばいったん葬式までも済ませた身の、いかに処置したらいいであろうか? 人の死をみだりに第三者が、論議することは差し控えたい。ああも考えこうも考え、あれもできずこれもできず、追い詰められて追い詰められて、生きることももの憂くなった結果ではなかろうか? と、筆者は考えている。
 ともあれ、正月も過ぎてその時、村の祭りでも近づいていたのか? 遥かの麓からあまり上手でもない馬鹿囃子ばやしの笛が聞えてきた。これだけの悪条件が備わっていれば、あんな笛の一つ聞いても、死に誘われるのではないかと、心ない山の刑事さえも、涙を催したということをいい添えて、この話を結んで置くことにしよう。





底本:「橘外男ワンダーランド 怪談・怪奇篇」中央書院
   1994(平成6)年7月29日第1刷
初出:「小説新潮」
   1955(昭和30)年5月
※「入」に対するルビの「はえ」と「へえ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:江村秀之
2020年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード