陰獣トリステサ

橘外男




殺人者の手記


「被告! 被告は自己のために、何か最後の陳述をしたいという意志はないか?」と裁判長は紙とペンをくれて、私に最後の陳述の機会を与えてくれた。その機会を利用して、今私は獄窓にペンを走らせているわけであるが、これが法廷に対する私の告白であるか、犯した罪に対する懺悔ざんげであるか、あるいは私の死後にこれを読んでくれるであろう一般社会に対する私の挑戦であるかは、見る人々の判断に任せるとしよう。
 が、しかし、いくら声をらして絶叫しても、到底まともには信じてもらえぬであろう、この奇怪極まる私の運命を手記せんがためには、まず私の事件の載っている当時の一連の新聞記事を採用して、何が故に現在私が獄裡につながれているかということを、明らかにしておく必要があると思われる。いずれも私の頼みを容れて看守長のドン・カルロスがそうっと差し入れてくれたものであるが、まず初めに四月二十三日のエキセルシオール紙。
「富豪邸の猟奇殺人事件! 全裸の若き美夫人、鮮血を浴びて寝台上に虐殺さる」と煽情的センセーショナル冒頭みだしを掲げて、まだその上に御丁寧にも、「犯人は夫、銀行家ロドリゲス・アレサンドロ氏! 嗜虐性色情狂サディストの本性を暴露か?」と小傍題こみだしまで打っている。もちろん言うまでもない。このロドリゲス・アレサンドロというのが、私の本名であった。

「昨二十二日払暁、プラザ・アベニイダ・フロリダ街の銀行頭取ロドリゲス・アレサンドロ氏邸内から、突如けたたましい女の叫び声が聞こえ、続けざまに三発の銃声がとどろいた。折りから巡回中の管区受持警官ペードロ・デユゴ氏は直ちに呼子を吹いて、同僚のガラルド・ニエト氏の来援を求むると同時に、厳重に鎖※さやく[#「鑰−口」、111-5]せられた同邸表門をじ登って、銃声現場と覚しき邸内本館二階東側の室へ闖入ちんにゅうしてみたところ、北側化粧台の前に置かれた寝台の上に、かねて美貌の評判高き頭取夫人ドローレスは左側窓口の方へ身体をのけ反らせたまま、心臓部に二発と下腹部に一発とを撃たれて即死を遂げていた。
 そして傍には当の夫人の夫アレサンドロ氏が、まだ煙を吐いている拳銃を手にしながら、茫然として夫人の屍体に見入ったまま、警官の躍り込んで来たのも気付かずに佇立ちょりつしていたという、近頃珍しい事件が発生した。兇行は現場の模様よりして、夫人の夫アレサンドロ氏によって行われたものであることは寸分の疑いもなく、当のアレサンドロ氏自身またいささかの悪びれたところもなく、デユゴ警官の姿に気が付くと同時に拳銃を投げ棄てて、『御覧のごとくです。さあどうぞ私をお連れ下さい』と苦笑しながら落ち付き払ってばくに付いたというのであるから、事件は今のところこれ以上に発展しそうもないが、なにしろアレサンドロ氏といえばバルセローナ銀行の頭取として財界屈指の富豪であり、バルセローナ快走艇ヨット倶楽部の会長として社交界の名士でもあり、同時に惨殺された夫人もまた、艶姿当代無双とうたわれた名花であるだけに、事件は早くも一般の猟奇心を呼んで、今暁以来同家正門前には物見高い見物の群集引きも切らず、すくなからず社会各層を驚かせている。
 検察庁よりは直ちにラヤス次席検事指揮の下に、カルバハール検事、エルナンデス副検事ら出張、一方オリベイラ予審判事一行の出動を請うとともに、管轄警察側と協力、事件の傍証を固めているからやがて加害者の自供を待って、事件の全貌が白日の下にさらけ出されるのも近いことと思われる。本社側の逸早く探知したところでは、若き美貌の夫人をめぐっての痴情と覚しく、この種富豪階級にありふれた醜聞スキャンダルの、たまたま刑事事件にまで発展した以外の何物でもないと思われることは、同家雇人たちの異口同音、近来の主人アレサンドロ氏の異常なる嫉妬しっとぶりを立証しているところをもってしても明白である。
 しかも兇行は何ら発作的のものでなく、余程以前より計画せられたものらしく、同夜は耳の遠い門番夫婦のほかは、小間使も給仕頭も女中、料理人たちの末に至るまで、主人アレサンドロ氏によってそれぞれ一晩ずつの休暇を与えられて、同夜宏壮なる邸内に居合わせたものとては、被害者夫人と加害者アレサンドロ氏だけであり、しかもさらに驚くべきことにはこの無人の邸内において夫人は射殺せらるるまで、終夜夫アレサンドロ氏によって残酷むごたらしき責め折檻に遭わされたらしく、額部より顔面へかけて三カ所のきずがあった。これは頭髪を鷲掴わしづかみにして、床上を引き摺られた時に生じたものと覚しく、両頸にも緊縛のあとがあり、右手頸及び左脇腹にも、同じく一カ所ずつの擦過傷、同時に左手小指及び無名指くすりゆびが骨折し、唇を噛んだと覚しく下唇に多少の出血があるのは、これも両手を背後に廻して床上にじ伏せられた時、被害者が抵抗して生じたものであろうと、臨検の検屍官マヒミリアノ・エラスリス氏は推定している。
 しかもこれら上半身の擦過傷のみでなく、大腿部両側にも幾部の皮下出血があり、殊に最も不思議に感ぜられるのは、かくのごとき猛烈な責め折檻が加えられたにもかかわらず、被害者は死の寸前に犯人によって暴力的に肉体の営みを強要せられたらしい形跡があり、もちろん痴情の結果たるには相違ないが加害者たる夫アレサンドロ氏は容易ならざる変質者――検屍官の推測では、多分に嗜虐性色情狂的サディズムな傾向を帯びた、精神分裂者であろうと見られている。そしてこの検屍官の推定を裏付けるかのごとく、夫人の屍体は以上のような無数の疵をその豊艶なる肢体に印しつつ、三発の弾痕から鮮血を雪白せっぱく敷布シーツほとばしらせて、まったく一糸まとわぬ裸体のままで仰臥ぎょうがしていたのには、思わず面を背けずにはいられなかったと立会いの警官たちも述べていた。
 上流社会に絡まる醜聞スキャンダルからか、世にも恐るべき変質的色情性を暴露せるものか、それらの詳細は取調べの進むにつれて読者の眼前に展開してくるであろうが、いずれにせよ、非業ひごうたおれし美しき夫人の上に早くも一般の同情は集中して、野獣のごとき銀行家は事情の如何を問わず、厳刑に処せよとの憎悪の叫びが巷に挙っている」

 次は八月二十九日付のラ・ナシオン紙。八月二十九日といえば、私が逮捕されてからすでに四カ月目に当る。その間に私の余審は終結して、公判は八回も開かれていた。そして私は精神鑑定を三回も受けているのであったが、この新聞で見ると私の事件に対する社会の注目なり憤激なりは、まだかなり熾烈しれつを極めているように思われる。

「既報、一世を驚駭せしめたる怪奇極まる幻覚的の殺戮さつりく者。元バルセローナ銀行頭取ロドリゲス・アレサンドロ氏の法廷における陳述は回を重ぬるに従いいよいよ奇怪を極め、前代未聞の殺人事件として司法当局を困惑させている。検察当局は一応その陳述に基いて、犬商フリオ・ベナビデスの帳簿を押収、動物の販売先を調べてみたが、売りさばかれたものはわずかに五匹にすぎず、しかもその販売先が、いずれも若き美しき夫人ばかりであるという点においては、アレサンドロ氏の陳述がこれらの帳簿と符合していることが確かめられた。しかし名聞をおもんぱかってか、これらの富裕家庭は厳重に口をかんしてその事実を否定し、逸早く処分したものか問題の動物は、ついに一匹たりとも発見せられなかったので、検察当局は物的証拠を固めるのに当惑し切っている。
 殊に犬商ベナビデス自身はすでに殺害せられ、わずかにそれと推定し得られる動物類も、ことごとく犯人アレサンドロ氏自身の手によって射殺せられているので、もし犯人の陳述が真なりとしても、いわば犯人は自己の陳述を裏書きすべき材料をことごとく自ら喪失せしめたに等しく、この点アレサンドロ氏は多大の不利をかもしたことになる。いわんや法廷の喚問に応じて起った、グラナダ大学教授ホセ・フェリン・アラムブル博士や、セヴィリア大学教授レオポルド・メーロ博士、博士ドクトルマリオ・リバロツラ等のその道の権威碩学せきがくはことごとく口を揃えて、犯人の幻奇奇怪なる申し立てを否認し、進化学説上あり得べからざることではないが、もしそれが事実としたならば、学界の大問題として世界が驚倒することは、けだしこんな区々たる殺人事件くらいの比ではないであろうと、異口同音に犯人の陳述を一笑に付しているので、これがますますアレサンドロ氏にとっては不利益となっている。
 しかし、一方犯人自身はあくまでその陳述を曲げず最初より終始一貫、理路整然としてこの奇怪不思議なる殺人の動機を固執して、そこに必ずしも犯人の幻覚とのみ一概に言い切り得ざるものがあり、このところ法廷もこの前代未聞の殺人事件にかかって、大分頭を悩ませているように思われる。そして法廷が悩んでいるにつれ、この猟奇事件は今や社会各層の好奇心をそそり立て、市井には事実とするものしからずとするもの両論が囂々ごうごうと沸き立って、このところ巷の話題は、アレサンドロ事件をもって持ち切りの観がある。
 が、問題が問題だけに、ことは上流の閨房けいぼうに関連してともすれば風紀紊乱びんらんの恐れがあり、これが取り扱いには当局も手を焼けば、妙齢の子女を持つ親たちも当惑し切っている。近く当局は、弁護人側の申請によって、有名なる精神病医学者マリアーノ・フォンテシリア・ヴァラス博士をビルバオ大学より喚問、第四回目の被告の精神鑑定を命ずる手筈になっている」と。

 ハッキリと言おう。私があらゆる責め折檻を加えた挙句、三発の弾を打ち込んで妻を殺してしまったことは、まさにこれらの新聞の報ずるとおりに間違いはない。
 新聞は報道価値を高めて、売行きを増さんがためには、平気で嘘八百を書き立てるものだといわれているが、ラ・ナシオン紙といい、前掲エキセルシオール紙といい、さすがは一流紙だけあって多少の見当違いはあるにせよ、まず嘘偽りもなければ、作為の痕も見受けられぬ。こと私に関する限り、一を加えるところもなければ一を差し引くところもないまでに、正確を極めているように思われる。したがって、世間では私を目して稀代の殺戮さつりく者、嗜虐性色情狂者サディストとさえののしって、社会不安を除くためこんな野獣のごとき夫は極刑にしてしまえ! とまで激昂しているということも、また充分信のおける事実であろうと思われる。
 社会のこういう輿論よろんと民衆の激昂とを反映している裁判が、私にゆるやかな刑罰なぞを加えようということは到底考えられぬことであった。やがて私は社会の懲戒みせしめに、最極刑を与えられて、私の最も憎んでいるしかしまた最も愛している妻のドローレスの眠っている、ウベニア丘の墓地に葬られる身の上になるであろうことも、少しの疑いもないところだ。そして私自身は、その運命に微塵の恐れも感じなければ、また露ほどの後悔もしてはいないのだ。夜が明ければ朝がくるように、冬が去ればやがて春のくるのを待つように、極めて自然な気持で、自分の犯した行為に対する当然な酬いのくるのを待っているのだ。
 だから今の私の心には、いささかも自分の犯した罪跡を、飾ったり隠したりしようという気持なぞ微塵もない。私こそは充分死刑に値いする、現行刑法の殺人該当者であり、私のような人間にもしいささかでも法の適用が手加減せられたならば、それこそその方がどのくらい滑稽であり、不自然であるかとさえ考えている人間なのだ。したがってその意味でいうならば、犯罪者のうちで私ほど自分の犯行を認めるにやぶさかならぬ素直な人間はなかったであろうとさえ、自負している人間なのだ。
 その私が、今断罪せられる直前に当って、この手記をつづる――被告は何か自己の有利のために、陳述する意志はないか、という裁判長ゾルフ・マーラ判事の言葉に従って、この最後の陳述を書く。私の死後この手記を読む人々は、定めし異様な感じをいだくに違いない。そして私を憫笑びんしょうして、あれほど昂然と自己の所信を固執していたアレサンドロも、ついに死の直前に至って死を恐怖するのあまり、なんとかして自己の罪の軽減をはかるべく、あがきもがいたものだろうとあざけるかも知れぬ。またそう考えることは、過去における幾多の死刑囚の書いた、懺悔ざんげ告白の記録から見て、当然なことであろうと考える。
 事実、私の読んだ狭少な範囲内においても、かつてそうした懺悔文を書き告白記録を遺した死刑囚の中で、自己の罪の軽減をはかろうと企てなかった者とては、ただの一人もなかったであろう。ある者は、それによって自己の罪をごまかそうと企んだり、ある者は安価に悔悟して、救いを浅薄な宗教に求めたり、またある者は裁判官や民衆にびて、自己の死後の名前を幾分なりとも有利にしようともくろんだり、いずれを見ても窮鼠きゅうその心情の哀れさを、紙の上に反映しなかったものとてはただの一つもない。したがって、今書こうとする私のこの手記も、やはりそうした種類のものと同一視されるのは、やむを得ないであろうと私自身も考える。
 が、私は、今日までもそうした哀れな死刑囚どものはかな※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいた文書の上に、いかに大いなる軽蔑と嘲笑とを投げ与えていたものであろうか。最後に至って哀訴歎願したり、自己の犯した罪をごまかそうと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)き苦しむくらいならば、なぜ初めからそんな罪を犯したのだ! と大喝したいくらい、唾棄だきせんばかりの憎悪を感じていたものであった。しかもその私が――そうした文書に唾棄せんばかりの憎悪を催し、軽蔑を感じていた私が、そして自己の犯した罪を微塵だに後悔してもいなければ、また犯した罪に対して与えられるであろう刑罰を恐れてもいない私が、そうした亜流の懺悔書と同一視されるであろう危険を冒しつつも、なお最後に与えられた機会を利用して、ペンと紙とを執ろうとするのは何故か?
 率直に言おう。もう一度、ハッキリと言わせてもらおう。私は決して、裁判官や民衆の同情や憐憫れんびんなぞを買おうとしているのではない。いわんや、これによって自己の犯した罪を歪曲したり、弁護しようとしているわけでは毛頭もないのだ。神も照覧あれ! 私の言わんとしていることは、むしろその反対に私のごとき立場に置かれた人間は、そして私のように妻を熱愛した人間ならば、私同然の道を歩まずにはいられなかったであろうということを――妻を裸体はだかに引きいて、後手うしろでくくり付けてみたり、これを床の上に引き摺り倒して、全身に擦過傷を負わせたり、そして最後に自分にはついに与えられなかった豊麗な肌の上に、拳銃を打ち込まずにはいられなかったであろうということを絶叫したいからなのだ。
 すなわち現在の裁判や民衆は寄ってもって私を死に値する残虐なりとする、その残虐こそは、私がいかに妻を熱愛していたかの証左であり、たとえ現行の法律や民衆がいかに極刑を振りかざして迫ろうとも、妻のドローレスがよみがえりまた私が生き返ってくる限りは、幾度何十遍でも私が繰り返すであろうドローレスに対する私の限りない愛慾の現れであるということを、私の身をもって証明したいからなのだ。そして同時に私のような、かつて世の中にその例を聞かぬ、怪奇凄惨な運命に翻弄せられた身の上は、いくたび生れ変ってもこうする以外には生きる道を見出し得なかったということを、自己に与えられた最後の陳述の機会を利用して、呼号せんとしたにほかならぬからだ。
 そうしてもう一つ、文明と制度の完備を誇っている現在の国家の法律や秩序というものが、犬商ベナビデスのごとき世にも恐るべき人間性の破壊者、道徳律の蹂躙じゅうりん者、大自然への冒涜ぼうとく者に対しては、何らの制裁権をも持たぬいかに無力な存在であるかということを、声を大にして叫ぼうとしたにほかならぬからなのだ。そしてさらにもう一つ、こういう世にも幻怪な運命の犠牲者となった私を目して、殺戮者、嗜虐性色情狂サディストと罵るならば、誰か世に殺戮者、嗜虐性色情狂サディストたらざる人間ありやと、呼ばわらんがために、この一文を草して静かに電気椅子の上に坐る日のくるのを待とうとするからなのだ。
 嘘も飾りも言わぬ。曳かれ者の小唄と罵らば罵れ! 白昼の幻覚者と笑わば笑え! 私は以上のような目的と確信とをもって、この手記をしたためる。おそらく、活字になってこの手記が公表せられた時分には、最早私はこの世に生きてはいないだろう。とっくの昔に高圧八百五十ヴォルトの電流を通されて、黒焦げになった屍体は梔子くちなしの花散るウベニア丘の墓地に、妻と並んで墓標の下に眠っていることであろう。
 縁あって、苔むした墓側を通り過ぎる者あらば想え! 世にはかくも幻妖なる人生を送って、狂わんばかりの憤りと嫉妬と愛と憎悪との相剋そうこくえやらずして、かくも奇怪至極なる殺人鬼となり果てし一人の敗残者、今は永遠とこしえの休息を取ると……。

跛者の歎き


 人はあるいは私を目して、ああいう虚栄の権化の性格のまったく対蹠たいしょ的な妻と結婚したばっかりに、私が自己の生涯を、自ら破滅させてしまったのだというかも知れぬ。しかし、あくまでも妻を愛し切っている私としては、自己のこの手で殺害した妻ではあるが、何としてもこの責任をドローレス一人の上に負わせる気にはなれぬ。やはりすべての原因を私自身の内部に検討して、もし私がこういう不具者かたわものでさえなかったならば、おそらくこんな事件は起らなかったのではなかろうかと考えている。
 というのは、もし私が不具者でさえなかったならば、おそらく私がああまで妻の前に卑屈になる必要もなかったであろうし、卑屈にさえならなかったならば、おそらくあんな魔の手を自分の家へ引き入れるハメにも至らなかったであろう。そしてあんな魔の手さえ家へ入れなかったならば、こんな悲惨な生涯を終ることにもならなかったであろうと思われるからであった。しかしそんな返らぬ愚痴なぞを、いくら繰り返してみても、どうにもなるものではない。ありのままに書いてゆくより仕方がないのであるが、おそらく不具者の苦しみを、私ほど深刻に味わった人間もなかったであろうと思われる。
 私が初めて、自分の身体のみじめさをしたたかに感じたのは、何でも十四、五の時分ではなかったかと覚えている。その頃、すぐ近所に住んでいた私の同級生で、フロール・エスビイナという、愛くるしい女の子があった。亜麻色の髪をしてひとみの澄んだそして非常に学課のよくできる、優しい気質きだての子であったが、この女の子が女生徒側の首席であり、私が男生徒側の一番であったせいか、学校でも家へ帰ってからも、まことに仲のいい遊び相手であった。机を並べて一緒に勉強もすれば、また私の家の広い芝生で一緒に鞦韆ぶらんこに乗ったり、夾竹桃きょうちくとうの花の咲いた下で、共に楽しく語り合ったり、外に兄妹のない私は、自分の妹のようにフロールと親しんでいた。
 その頃まだ生きていた私の母が、洋琴ピアノを弾いている窓の下なぞで投げ独楽デアボロをしたり、紫雲英クローバーを摘んだりして遊んでいるところを見ると、母は洋琴の手をやめて窓越しに、微笑みながら私たちの姿を眺めていたり、時にはお菓子を包んでくれたりしたことを覚えている。そしてフロールの髪にリボンを結んでやりながら、
「家のロドリゲスはね、エスビイナさん、本ばかり読んでいて、外で遊ぶことの大嫌いな子なんですけれど貴方がお友達になって下さったばっかりに、こうして元気で遊ぶようになったのですよ。いつまでも仲よく、お友達でいてやって下さいね」と結んだリボンに接吻くちづけしながら、しみじみと可愛げに言うのであった。それをまたフロールが、えくぼたたえながら深くうなずいているのを見ると、私までも嬉しくなって、幼い時から跛者びっこ跛者びっこわらわれて、外へ出ることが大嫌いな私ではあったが、このフロールとだけは生涯、仲よく暮してゆこうと思っていたのであった。
 そして、思いしかフロールも私を、誰よりも好いていてくれるように思われた。父が本なぞ買って来てくれると、「お父様、フロールにもやるんだから、もう一つ買って頂戴よう」とせがんで、同じ本を二つお揃いに買ってもらって、それを持ってフロールの家へ駈け込んで行く。
「フロール! フロール! いい物持って来たよう。お父様が買ってくれたんだよう」と息せき切って「まあ、そう! 有難うよ、ロドリゲス」とフロールの喜ぶ顔を見ると、私は自分が買ってもらったよりも嬉しく感じたものであった。そして時にはこの嬉しさを味わいたいばっかりに、自分の一番大切にしていた玩具さえ、二つ買ってもらったんだといって、フロールのところへ持って行ってやったことがある。何かといえば、フロール! フロール! と口癖のように言うので、
「お前は、ほんとうにエスビイナさんと仲がいいのう。どうだ、そんなに好きなら、今にお前のお嫁さんに貰うてやろか?」と言葉すくなの父からさえも、冗談を言われたことがあった。
いやだよう、お父様! 僕はフロールと兄妹なんだもの、お嫁さんなんて厭だよう」と言って、父にしたたか笑われたが、父も母も子供の時から跛者跛者とはやし立てられて、泣いて帰って来る子と仲よくしてくれるフロールの気持を、どんなにか嬉しく感じていたことであろう。降誕節クリスマスや新年や復活祭の時なぞ、どんな物を包んだのかは知らないが、
「さあ、ロドリゲスや! お前の大好きなエスビイナさんに、これを持ってって上げるんだよ」と笑いながら肩を叩いてくれた。私は逢わない先から、フロールの笑顔が眼先にちらついて、母が襟飾ネクタイを結んだり頭髪かみいてくれるのさえも待ち切れずに、戸外へ飛び出して行く。月の晩に行ったこともあれば、また雪の降る朝に行ったこともある。雨のしとしとと降る夕暮に、今銀行の支配人をしているアロンゾ・マジャルドーを供に連れて、二人で濡れながら行ったこともある。しかし月の夜は月の夜で、雨の降る日は雨の降る日で、雪の朝は雪の朝で、みんなそれぞれに楽しく、その道は私にとってはまったく胸躍らせて行く、懐かしい思い出の道であったことを覚えている。
 それほどに親しいフロールと私とであったが、ある年の謝肉祭カーニバル前後のことであった。学校はその年の創立記念日の催しとして、町の来賓や生徒の父兄たちを招待して、出来のいい生徒を指名して学芸会を開くことになっていた。そしてフロールと私とは、拉丁ラテン語でディオゲネスか何かの対話をすることを、受持ちの教師から指名されていた。その学芸会へ出る生徒の名前が教室で順々に発表されて、やがて私の番に廻ってきた時、どんなにきまり悪げにしかし幾分の誇らしさをもって、私はフロールの方へ視線を送ったことであったか! 今でもまだその時の胸の鼓動を覚えている。確かフロールもずかしげにしかし嬉しげに、私の方へ瞳を送り返してくれたように思われた。……と、私には感ぜられたのであったが、ちょうどその日の放校間際であった。私はその対話中の一カ所に不審な点があって、それをただすべく受持ちの教師の姿をここかしこと、学校中に探し求めた挙句、やっとのことで向い側の物理教室の扉の陰に見出すことができた。
「先生!」と息せき切って飛び込もうとした途端、おや! と思わず私は耳を澄ませた。聞き慣れた声が耳をうってきたからであった。フロールも私と同じように不審を質しに来ているんだなと思った瞬間、私は言おうようもなく嬉しくて胸がほてった。教師に質疑を済ませた後で、フロールと二人、課せられた対話の話をしながら帰る道々の楽しさが、胸をうってきたからであった。
「しかし、可笑おかしいではないか! 大体お前は、あの子と仲がよかったはずなのに、なぜ急にそんなことを言い出すんだね?」
 半ば開かれた扉の陰になってフロールの姿は見えず声も小さくて私の耳へは入らなかった。
「そうか……あの子が可哀そうだから仲よくしているが、大勢のお客様のいらっしゃる前で、二人で並んで立つのは厭だというんだね? 先生の手で、あの子にわからんように、組合せを替えてくれ……とこう言うんだね?」
「だって、先生! 跛者びっこなんですもの。あたし恥ずかしいわ」と、明らかにフロールの声であった。
 途端に私は、眼の前が眩々くらくらっとした。どこをどう走ったのか、家まで駈けている道が私にはわからなかった。ただ無我夢中で二階の自分の部屋まで辿たどり着いて寝台ベッドの上に身を投げると蒲団ふとんにしがみ付いて、声を限りに泣いた。涙が後から後からと、止め度もなくあふれ出した。先生に言う前に一言私にそう言ってくれたら、それでも無理に学芸会へ出たいとは決して言わないのにと思うと、それがうらめしくて涙が湧いてきた。学校が一番でさえあれば、跛者びっこ跛者と言われずに済むと思っていた。自分の夢が破れたのが口惜しくて、また泣いた。涙がみんな出尽したと思った頃、私は背中に優しい母の手を感じた。
 そしてやっと母に抱き起されて、泣きじゃくりながらわけを話した。「そして……それからお前はどうしたの?」と私を抱きながら、先を促し促し母はほうり落ちる私の涙を拭いていてくれたが、突然拭く手をやめて、母が呼吸いきもつけないくらい私を抱きすくめたので、吃驚びっくりして顔を挙げてみたら、母はブルブルと身体をふるわせながら、妙に唇を歪めて、今にも泣き出さんばかりの顔をしていた。そこへ銀行が退けて、いつものように莞爾莞爾にこにこしながら、父がはいって来た。そして怪訝けげんそうに母に何か尋ねていたが、急に顔を曇らせると、つと起って、窓の側へ行って両手を背後に組んだまま、いつまでも階下の庭を見下ろしながら突っ立っていた。
 私は、母の腕に抱かれたまま、もう涙も乾いてしまった顔を挙げて、壁の龕灯がんどうを眺めながら夢のような気持で考えていた。勉強をしなさい、勉強一三昧いっさんまいにおなりなさい。勉強をして学校さえ優等を続けていたら、足の悪いくらい誰があざける人があるものですか。みんなお前を尊敬して、お前のお友達になることを望むのですよと、口を酸くして今日まで母も学校の教師も教えてくれた。しかしそんなことはみな、ただ単に私への慰めや励ましの言葉にすぎなかったのだ。学校なんぞどんなにできたって、誰が不具者の友達なぞに、なりたがる奴があるものか。フロールでさえ……あんなに親しかったフロールでさえ、跛者びっこと一緒に学芸会へ出るのは恥ずかしいと言ったではないか!
「僕、もう、学校へなんか行きたくないよう、お母さん」と言ったら、
「おうおう……お母さんも」と母はまた嗚咽おえつした。
 父はエヘンエヘン! とせき払いしながら、相変らず彫像のように突っ立ったまま、身動みじろぎもしなかった。
 それからどれだけの時が経ったかを知らない。眺めている龕灯に灯がとぼっても、まだみんなで、そうしていたことを覚えている。
「さあ、もう元気を出して、食事にしよう。お父さんは、莫迦ばかに腹がったぞ」と父はわざと快活に言った。それに促されて私たちは食堂へ降りて行ったが、その晩の食事のどんなに淋しかったことか! 誰一人口をきく者もいなかった。黙って父は、ただマジャルドーと酒ばかりぎ合って、ナフキンでひげばかり拭いていた。母も黙ってはなをすすって、一言も言わなかった。しかもその夜中に眼が醍めてみたら、悄然しょんぼりと私の顔をのぞき込みながら、母が腰かけていた。
「どうしたの? お母さん」と起き上ったら、
「いいのだよ、いいのだよ、ちゃんと神様は見ていて下さるのだからね」と、私の蒲団の裾を直してくれた。そして、
「お父様もそうおっしゃってたけれど、学校へ行くのがいやだったら、もう行かなくてもいいのだよ」と小さな声で言った。
「その代り勉強だけはしないと、えらい人になれないからね。これからは先生を呼んで、家で勉強をするのだよ」
「いいんだよう、お母さん! 僕、もう何とも思ってやしないんだから」と言ったら、母はまた泣きそうな顔をして、黙って蒲団の下から私の手を握ってくれた。
 少年の昔の想い出が、まざまざとまぶたの上に描かれてくる。そしてとりわけ思いうかぶのは、その晩母の立ち去った後で、しみじみと寝台ベッドの上で眺めてみた、内飜転ないはんてんを手術したとかいう自分の脚の人知れぬ正体であった。朝晩見慣れた自分の一部分ではありながら、今夜は特にまるで、一対の生き物でもあるかのように眼に映ってくる。縫い合わせた痕が醜く幾重にも痙攣ひきつって、ダブダブと皺がより、彎曲わんきょくしたくるぶしから土踏まずはこぶのように隆起して、さながら死んだふかの腹でも眺めているような、何とも言えぬぶざまな無気味な恰好をしていた。ピクピクと何気なく栂指おやゆびに力を込めて動かしてみた瞬間、思わず顔をおおうて、一思いに膝から下を切り取ってしまいたいほどの絶望と懊悩とを感じたことであったが、眼を閉じるとその時の苦しみが、二十七年の歳月を越えて、今もなお惻々として胸に迫ってくるのを覚えずにはいられない。
 が、もちろん、私は別段こんな他愛もない幼少時の追憶なぞにふけるつもりで、このペンを握ったわけではない。フロールの話に始まって、つい少年期の柔らかな私の頭にえぐり付けられた、不具者かたわものの惨めさを思い出していたのであるが、世間では不具者はひがみやすいという。そして私もその言葉の真を決して否むものではないが、それにも増して不具者の懐く苦しみというものを、世間では、もっと察してくれぬものかと考える。不具者の苦しみは、不具かたわでない者には到底、想像も察しも付かぬものであったろう。
 私自身は優しい父と母の愛の下に、それからは数学の教師、拉丁ラテン語の教師、歴史の教師、物理の教師……とあらゆる学課のことごとくを家庭教師に就いて学んだから……そして父と母の旨を受けて、それらの教師のことごとくは明るい人生の表面へと、私の心を向け直してくれたから、再びまた勉強一三昧いっさんまいになっていたが……そしてもう人から跛者びっこと罵られる機会もこなかったが、しかし一度人の心の裏を知って、傷つけられた自分の痛手というものは、最早それからの日以来一日として私の脳裡から消え失せたことはなかったのであった。何事をするにも何事を考えるにも、自分が人からいとわれる不具の身であるという観念は、常に息苦しいまでに私の心に付きまとうた。そしてそれが日となく月となく心の中で成長していって、めった自分の気持を萎縮させ、不必要にまで、自分を卑屈なものにしてしまった。
「さあ、もういいだろう。これで、普通学だけは終えたのだから、大学だけは、家で家庭教師というわけにもゆくまいからのう」と父は私に大学を勧めてくれ、そして私も学問だけには興味を持っていたから、父の言葉に従って大学へはいったが、その大学三年間の生活も、ついに私は、ただの一人の親しい友達をも作ることができなかったのであった。
 フロールとの苦い経験が絶えず私の脳裡にひらめいて、私には邪心なくして人を受け容れることもできなければ、また邪心なくして人に近づくこともできず、仲間たちのように朗らかに、青空の下に青春を嬉戯することができなかったからであった。
 いいや、嬉戯しようとすれば、それはできぬことではなかったかも知れぬ。しかし表面では何気なく嬉戯しながらも、友達たちが心の中で不具の友達と嬉戯している彼ら自身を、さぞ苦笑しているであろうと考えると、二度と再びフロールとのあんな経験をめたくないという恐ればかりが先に立って、人と交わることが苦しくなってくるからであった。
 友達たちは、ウナ! と叫ぶ。心にわだかまりのない友達たちは、応! と素直に受け取るであろう。しかし、私だけはウナの裏にまたダッシュのウナがありはしないかと邪推し、嫉妬し、疑懼ぎくし……その我と我からかもす邪推や危惧きぐや、嫉妬の念に堪えやらずして、自分と自分からめった、人との交際を忌避する気持になるのであった。そして、望みもせぬ孤独の淋しみの中へと自分を逐いやって、ただ読書と研究にのみ慰めを求めていたのであった。
 夏草の茂った校庭に寝転んで、マルクスやアダム・スミスを読みながら、どんなに私は運動場に笑い戯れている友達たちを羨ましく思ったことであろう。打ち連れだって三、四人、口笛を吹きながら校門へ急ぐ姿……球を空高らかに響かせながらラケットをふるう友達たち……水泳衣みずぎを着てプールへ出掛ける友達たち、ついそこの紫雲英クローバーの上に、車座になってエンゲルスを論じている友達たち……、いずれか私にとって羨ましからぬ存在はなかったであろう。殊に私の官能を刺戟して、餓えたる私をして堪えざらしめたのは、青春の香をきちらしながら女の友達と、群れつどう学友たちであった。
 女……女……ああ、美しき女たち! どんなにかそれは甘美であり、優雅であり、生活の旋律、男の力……生きる男の生命いのちそのものでさえあったであろう。が、しかし、あれほどまでに親しかったフロールでさえ、親しいと考えていたのは私の自惚うぬぼれで、フロールはただ憐愍れんびんと同情とを一人の不具者かたわものに恵んでいたにすぎなかったのだ。不具者を愛する好奇ものずきな女なぞが、所詮、この世のどこに住んでいようものぞ! いわんや女との交際には、昔のフロールとの世界に学芸会があったように、舞踏と社交との及び難き二つの世界がある。一歩は高く一歩は低く、猿猴ましらのように肩で調子を取って歩む身体に、燕尾服えんびふくを着けてびっこを曳き曳き舞踏場の嵌木細工モザイクを踏む、社交界の笑われ者……ぶざまな道化の不具者!
 夢から醒めたように淋しく爪を噛みながら、また私は書物の上に眼を伏せた。所詮不具者の世界には、ただ書物を通して友達にあこがれ、女に憧れる道が残されているばかりであった。かくして烈しく人を恋い女を恋いながら、大学の三年間私はあり余る情熱のことごとくをただ書物に打ち込んで、私の話し相手というのは少年の昔そうであったごとく、今も老いたる支配人のアロンゾ・マジャルドーただ一人であった。いいや、ただに大学の三年間がそうであったばかりではない。やがて母も世を去り父も死に、莫大な遺産と父の事業とを継承して、バルセローナ銀行の頭取となり、若手経済学者として世に立っている現在も、やはり私の友達はただ一人、アロンゾ・マジャルドーのみであり、いつか人生の半ばを通り越して鬢髪びんぱつとみに白きを加えた今日も、なお依然として私は分別盛りの情熱を、ただ書物を通して未知の女に憧れているばかりであった。
 繰り返して言う。人はこれを不具者のひがみという。私はこれを必要の限度を越えた卑屈さという。そして私は自分のこの卑屈さが、ついに私の人生を、破局のどん底に陥らしめたのだと信じているものであった。想い出したついでに付記するが、後年フロールは結婚した相手に棄てられて、窮迫した身に繿縷ぼろまとうて私の銀行へ来て応分の助力を請うたことがある。呶鳴どなり付けようとしたマジャルドーをとめて、私はこれに若干そくばくを与えたが、もちろんあの時分から私は、フロールを決して憎んではいなかった。私の憎んでいたのは私自身の脚であって、決してフロールその人ではない。むしろ彼女こそはいろどりすくない私の少年期に幾分の内容を添えてくれたものとして、できるだけのことはしてやったが、彼女もまさかに彼女の不用意な一言が、かくも私の一生を支配していようとは、夢にも知らなかったであろう。
 しかも、彼女は金に餓え、私は金に囲繞いにょうせられていたが、その時資本金八千六百万ペセタ、バルセローナ銀行頭取の欲しかったものは、金でもなければ名誉でもない。人と自由に恋を語り、街路をスタスタと歩いて帰って行くことのできる、フロールのように人並の脚を持つことただそのことだけであった。

伯爵未亡人


 その私の長年の夢叶うて、初めた得たものが妻のドローレスであった。生れて四十三年……初めて持ち得た女の友達であり、妻と名のつく女であり、しかも二十六歳の匂やかな若さを、その伸びやかな均斉の取れ弾力ある肢体一杯に発散させた、嬋娟せんけん水を滴らんばかりの美女であった。いかに私が狂喜して、青年のごとき熱情を捧げて妻の膝下にひざまずき、不具者の飽くなき執拗さをもって妻を愛撫したかは、おそらくこの手記を読む人々の思い半ばに過ぐるものがあったであろう。
 しかも私が夢中になればなるほど、妻はいよいよ眉をひそめて私を嫌悪し、近頃ではほとんど近寄り難きまでの冷厳さを示していた。まったく氷に包まれたような艶やかさであった。しかもその氷柱の美女の艶やかさが、私にとっては一層蠱惑こわくとなり、いやが上にも情慾を掻き募らせて、いかに私が狂おしきばかりの恋情に身をただらせていたことか!
 もちろん妻が私を厭うたのは、私が醜い不具者であり私の容貌が粗野であり、しかも深刻なる悩みを持つ者の常として、人に与うる私の全体の印象が沈欝であって――質素じみくすんで言葉が流暢りゅうちょうでなく……つまり一口に言って瀟洒シックとか典雅とか俊敏スマートとか、あるいは軽快とか洒脱ユーモラスといったようなパッとした社交的の洗錬さを、まったく欠いていたことに大半の原因は帰すべきであったろう。が、さらに大きな根本の理由としては、初めから妻は私のごとき人間を、自分よりも数層倍身分の低い人間として極度に軽蔑し切っていたのであった。
 それがともかくも、半年なり一年なりの結婚生活を維持し得たということは、到底妻なぞは生涯持ち得ぬことと諦め切っていた私が、かくも美しき優位の女性と結婚し得たことに満足し、感謝して、万事万端妻の頤使いしに甘んじて、奴僕ぬぼくのごとき忍辱にんにくを重ねていたからであったが、もっと手っ取り早く言おうならば、ドン・アルヴァロ・メッサリイノ伯爵といえば、わが国においても一流を誇る由緒正しい家柄であり、伯爵夫人ドローレスといえば、素晴らしい美貌と一夕の宴会に万金を投じて惜しまざる、その生活の豪華さにおいて鳴り響いている麗人であった。
 夫の伯爵がシェラ・ネヴァタ山中の自動車事故で急逝した後も、伯爵夫人の孔雀のごとき地位は、玲瓏れいろう玉を磨き上げたような容貌と相俟あいまって寸分の身揺ぎもしなかったが、世間に秘められた裏面の生活においては、夫伯爵が生存中から長年にわたる豪奢な生活が禍いして借財は山のように積っていた。パセオコロンの山荘も、プンタアレーナス広場の本邸も、ことごとく私の銀行の抵当にはいってその利子さえも容易な額ではなかった。しかもまだそのほかに、伯爵振り出しの不名誉極まる不渡り手形さえ何枚か市中に流れ出しており、夫人は夫の死によって遺産どころか! たちまち、明日の糧にも困る境遇に逐い落されなければならなかったのであった。
 当時巷の噂では、伯爵夫人の底知れぬ贅沢さが夫人を溺愛できあいしていた夫伯爵を破産に導いて、伯爵の死はおそらく自殺がその真相だろうというもっぱらの取沙汰であったが、それはあまりにも酷に過ぎた穿うがち方にもせよ、派手好きな人一倍勝気で気位の高い夫人の気性からいえば、半分はあるいはその真を衝いていたかも知れぬ。というのは、喪服を着けた夫人が夫伯爵の死を歎きつつも、心の中であせっていたものは死んだ夫に代って自分を救い、交際場裡における女王のごとき自分の地位を保証してくれる結婚の相手であり、そして一方私は未だ女の味を知らず金に囲繞いにょうせられながらも人生の孤独を歎じている身の上であったといったならば、おおよそこの結婚がどういう因縁によって成立したものであるかということは、容易に判断のつくことであったろう。
 本来ならば歓びに面をほてらせて、蜜のごときささやきを交わし合うべき婚約成立の場合にさえも、妻の言葉のいかに倨傲きょごうを極めたものであったか! おそらくは、今まで眼中にさえも入れていなかった私風情の人間から、結婚を申し込まれたということそのことすでに、自分へとっての最大の侮辱と憤り切っていたことであろう。
 たちまち面を蒼白にして、しばらくは心中の動揺を抑えかねるように、眼を閉じて凝乎じったたずんでいたが、拒絶すれば私の握っている破産申請の書類に署名して、法廷に立たなければならぬ。そして妻の眼をつぶっている間中落ち付かぬ気持で前に廻り背後に廻りつ、私は跛の足を引き摺りながら妻の返事を待って、ノートルダムの傴僂せむしのように部屋の中じゅうい廻っていたのであった。
「では、頭取!」と妻は一文なしになりながらもなお未だ伯爵夫人のおごりと衿持きんじとを失わず、蒼白なる顔は冷たいながらいよいよ美玉の輝きを増して、慇懃いんぎんを極めた私の結婚の申込みを受諾した。そして私の接吻を受けるべく、手袋をはずして片手をさし伸べながら、喪服の面紗ヴェールを挙げて昂然と言うのであった。
「結婚は御承諾いたしますわ。身分が違うとか違わぬとか……そんなことなぞは、私一向意に介しませんの。でも、たった一つだけ、私貴方あなたの御人格にかけて、誓っていただきたいことがございますのよ」
「ハ、夫人!」と言ったか、「おう奥様!」とうめいたか、有頂天になり切っていた当時の私の返事なぞはもう記憶せぬ。この花の咲いたような美夫人から……私なぞの終世垣間見ることもできぬ上流の貴婦人から、かくも容易たやすく応諾の返事が得られようなぞとは、私にとってはまったく意外も意外! 手の舞い足の踏む所を知らぬ、歓喜そのものであった。
「ハッキリと申しますれば、私まだ、貴方を愛する気持にはなっておりませんのよ。どうかして愛するような気持になりたいとは望んでおりますし、またそう努めるつもりではおりますけれど。まだちょっと、今のところではね……」
「奥様、どんな条件でも……どんな条件でも、御遠慮なく、……御遠慮なく、お付けになっていただきます。私でお役に立ちますことならば、どんなことでもいたしまして……私は……ソノ奥様の……」
「条件なぞと、……そんな難しい言葉をお使いになるほどのことではありませんけれど」
 と夫人は当惑そうに、ちらりと微笑んだ。しろい歯が覗いて、ほころびた顔の両鬢りょうびんには、柔らかそうな黒褐色の髪が渦巻いていた。希臘ギリシャ古彫刻のように気高いその横顔を……透き徹るように美しい瑠璃色のひとみを……すっきりとして豊かなあごを……そして羅衣うすものの上衣の下からむっちりと隆起している両の乳房を……私は椅子にったまま、全身の肉をうずき廻されるような気持で盗み見ていた。
「では、思い切って、私申し上げますわね。気を悪くして下さっては困りますけれど……私が貴方を充分愛するようになれますまでは……結婚はしましても、私、貴方の御人格にかけて御約束を守っていただきたいと思いますの。そうでなければ……それは……愛のないそれは、罪悪でしょうと私思いますのよ」
「何をおっしゃる、奥様、そんな当然至極なことを……ごもっともです……ごもっともですとも、奥様! 私こそそれをお誓いしなければなりません。私の方からこそ、そういうことは……私も奥様を御幸福にいたしますためには……奥様が私を信じて下さいまして……ああ、奥様が私を信じて下さいますれば」、何を言っているのか私にも自分の言ってることが、サッパリ飲み込めなかった。自分ながら夢遊病者がさえずっているような気持がした。ともかく女なぞと口をきいたこともない私には、これだけ述べるにも大苦しみで、しまいには「仕合せです、仕合せです……」と、無闇やたらに汗ばかり拭っていた。
 その時の私は、どんな屈辱を忍んでも夫人の気持が変らぬうちに一刻も早く自分のものにしてしまいたい一心であったが、何が仕合せもクソもあったものか……今考えてみると、妻のその時の言い分には論理上の狡猾こうかつさがある。愛なき関係上のそれが罪悪であるというならば、そして結婚とは当然それをも含んだものである以上、なぜ妻はそれを切り離して、同棲という単なる形の上の結婚だけを承知したものであるか? 境遇やむなく私の持つ財力だけを一刻も早く利用したいばっかりに、そして不具者の私自身は身震いするほど厭わしいために、わかったようなわからぬ理窟を付けたものではないか! 今もし妻が生きているものならば、骨を刺すほど面罵してやりたい気持がするのであるが、しかし私は財力的に不自由だけはさせぬつもりであったから、――もちろんそれをさせたら私という人間は、妻にとっては三文の価値もない人間になってしまったであろうが、結婚の祝い物としてイスパノスイザの最新型を買い求め、サンタルシアが丘に別荘を新築し、闘牛士トレロスたちに祝儀を出してやり、妻の友達たちを招いて連夜の饗宴を張り、おそらく瞬く間に、七、八百万ペセタくらいの金はつかい果してしまったであろう。
 この生活の激変ぶりにまず顔をひそめたのは、アロンゾ・マジャルドー老人であった。結婚のそもそもから妻にあまり好感を示していなかったこの老人は、堅実を尊ぶ銀行家として、いかに妻が可愛いからとはいえ莫迦な金を費うのもほどほどにせよ! と忠告してきたのであった。
 あの奥さんが本心から貴方と結婚したなぞと思っていられたら、事は大間違いです。機会があったら貴方を相手取って、離婚の訴訟でも起すとか遺産相続でも狙って、財産の半分くらい取ってしまおうと考えているのが関の山ですよ。だから、何とか今のうちに、考え直しておしまいなさいと言うんだ! 大体貴方は、自分の身体が悪いということを、あまり卑下なさりすぎるから甘く見られるのです。足の悪いくらいが何です? 貴方くらいの身分なら、求めたら女はほうきで掃くくらいあるじゃありませんか! というのが、この忠実なる支配人の言い分であったが、マジャルドーはもちろん私がどんな手段を用いて、妻のドローレスを手に入れたかを知ろうはずもなく、またそんな詳しい話なぞがいくら隔意がないとてこの老人に打ち明けらるべき性質のものでもなかった。が、しかし、父の代から勤めて、父の死ぬ時には懇々私の輔佐ほさを頼まれ老いてもなお矍鑠かくしゃくとして銀行の業務一切を取り仕切っているこの老人に向っては、真っ向から反対するわけにもいかず、
「いいじゃないか、マジャルドー、そんなわずかな金くらいのことは!」と、私はニヤニヤしながら煙管パイプを磨いていたのであった。「お前の親切はよくわかっているが、俺だって子供じゃあるまいし、お前の眼から見たら剣呑けんのんかも知れんが、まあ、俺の家庭のことだけは俺に任せといてくれ」と適当になだめて、この煙たいオヤジを帰してしまうのであった。
 マジャルドーの忠告に、充分聴従すべきものがあることは私にもよくわかっていたが、しかし、そんなことなぞは初めから覚悟していたことであるし、それに今となってはもう私は、この妻なしでは生きてゆくこともできぬくらい、ドローレスに打ち込んでしまっているのであったからその私にとって、マジャルドーの危惧きぐしている物質上の問題なぞは、何の関心でもあり得ないのであった。そんなことよりも今の私にとって一番の悩みだったのは、何と高慢チキなことを言おうとも結婚さえしてしまえば、妻の肉体は私の思いのままと高をくくっていた私の楽観を裏切って、ドローレスが最初の約束を真っ向から実行に移してきたことであった。
 召使たちの手前、表面は私の妻として振る舞っていたが、内面では決して私に許さず常に身分違いの夫としての軽蔑をあらわに面に現して、私にその豊艶な肉体を委ねたというのも、結婚初夜のほんの一、二度だけ、同じ邸に住みながらも夜は自分の寝室の扉に厳重な鍵をかけて、決して私の近付くのを許さなかった。やむを得ず私と一緒に、どこかの宴会なり夜会なりへ招かれてゆくという場合には、自動車の中でさえ一フィートくらいも間隔を取って、右と左の窓際へ離れ離れに席を取った。そしてうっかりその身体にでも触れようものなら、棺桶人夫か道普請の土方にでも、触れられたように眉をひそめているのであった。
 いくらお互いの年に隔たりがあったとはいえ、体力的にまだいささかの衰えも持ってはいなかった健康な私にとって、いつまでもこんな不自然な、妻から強いられた禁慾なぞが、守っていられようわけのものではない。やがて折りがきたならば、その時こそ存分に、忿懣ふんまんやる方ないこの胸の思いをらしてやって! と、ひそかにその機会のくるのをうかがっていたのであったが、妻はいよいよ警戒を厳にして私を寄せ付けず、この頃では私も大分れ切ってきた。分別盛りの身をもって、ただ妻の肉体ばかりが、寝ても醒めても眼前にちらついていた。
 時には自分でも抑えることのできぬ狂暴な血が、若者のように理性を衝き破って全身の脈管にみなぎりわたってくることもあれば、時には眠られぬままに鍵がかかっているとは知りつつも、上靴スリッパを脱いで絨毯じゅうたんの上に跫音あしおとを忍ばせながら、深夜妻の寝室の前にたたずんだこともある。ある朝は銀行へ出勤することも忘れて恍惚うっとりと書斎の窓越しに、庭を逍遙する妻の綾羅うすものを通した姿体に見惚れていたこともあり、殊に私にとってえられなかったのは夕暮浴室の前を通りかかると、妻が愛好するアレキサンドリア産の菫香水アリモネの匂いをほのかに漂わせながら扉の向うでボチャボチャ! と、音させて入浴ゆあみしていることなぞであった。部屋へ戻ってからも、薔薇ばら色になった妻の肌が絵のようにうかび上ってきて、私は自分の身体にまでも、湯上りのような血が上ってくるのが感ぜられた。こんな時人目につかぬ貧しい生活であったならあんな扉の一枚くらい叩きこわしてでも! と、出るにも退くにも大勢の召使たちに囲繞いにょうせられている、ままならぬ境遇をいかに腹立たしく感じたことであろうか! そしては抑え切れぬ気持を無理に抑えながら、寝る前に自分でこしらえた一杯の混合酒カクテルに、わずかに懊悩をやりながら眠りを取っていたことであったが、おそらくこんなことを聞いたならば、マジャルドーなぞは舌打ちをして、さぞかし主人の情痴を無念がったであろうが、痴人であったか痴人でなかったかを知らず、ただ知っていたのは今の私にとっては、マジャルドーの懸念している物質上の問題なぞよりも、この方がよっぽど大きな悩みであるということであった。

愛犬品評会


 こうした事情を知ってか知らずにか、この頃私に対するマジャルドーの忠告はますます手厳しさを加えてきたのであった。
 大体まともな奥さんならば、いくら貴方が買ってやろうとおっしゃったからとて、結婚早々こんな莫大な金を貴方につかわせるというはずがない。あまりにも方図がなさすぎる。金もそうだが、殊に自分の心外に堪えぬのはこうやっていつ来ても貴方を一人ぼっちにしておいて、奥さんは家を外にして遊び歩いていられる。たまに家にいられると思えば、ああやって貴方をうっちゃらかして御自分はさも楽しそうにお友達たちと打ち興じていられる。あまり貴方を踏み付けにするにも程がある。それでもロドリゲス! 貴方は心外だとはお思いにならないのですか? という筆法なのであった。
 少しでも私の意が動くと見たら、マジャルドーはもっと何か私に言いたいことがあったのであろうが、私が相手にならず多少迷惑そうな素振りさえ示していたので、自分より年下でもまさかに主人筋たる私の私事に、この上無遠慮にくちばしを入れることもはばかられたのであろう。賑やかにれ聞こえてくる階下の応接間の笑い声に、苦々しげな一瞥いちべつを与えると、物足りなそうに引き揚げて行くのであった。
 マジャルドーも妻とはあまり顔を合わせたくなかったであろうが、妻もまたマジャルドーの来ている時には、たとえ家にいても決して居間の外へは顔出しをしなかった。応接間から玄関へかけて、賑やかに笑いさざめきながら客たちの帰って行く跫音あしおとや、やがて幾台も幾台も自動車の滑り出して行く音は聞こえても、そのまま自分の居間へ引き取ってしまうと見えて、控え間ロビーへすら決して姿を現さなかった。
 そしてその頃、私は妻からもまたマジャルドーに優るとも劣らぬ手酷てきびしい厳談を受けていたのであった。お客を迎えるのに今のような召使の制度では、まったく家格というものがない。給仕頭の上に執事バトラーを置き、玄関には専属の玄関番を設けて扉の開閉に当らせ、そしてもっと給仕や小間使たちをやし、召使たちには今のように西班牙エスパニヤ風の服装みなりをさせず、金筋のはいった英国風の燕尾えんび服を着せて、もっと家柄の高い旧家同様の習慣しきたりに改めなければ自分の友達たちが来ても、肩身が狭くて仕方がない……というのであった。そしてそれもあるが、第一自分が主婦として来ているのに、何が故にマジャルドー風情の者が家政に容喙ようかいするのか。召使たちの制度を改めるよりも、まず真っ先にマジャルドー風情の者がこの邸に出入することだけは絶対に禁止してもらわなければならぬ。それをこの間からやかましく催促しているのに、なぜ躊躇していられるのか? という強談判であった。
「別段躊躇ためらっているというわけではないが……それほどの家柄でもないのに、金ピカの制服もあまり大ゲサすぎると思ってね。それに父の代から私の家はこういう質素じみな暮しをしていたものだから、昔の習慣をそう急に改めるのもと思っていたからさ。ちょっとマジャルドーにも相談しにくかったものだからね」
「マジャルドーに御相談……?」
 と妻は怒りを美しい顔に走らせた。
 最後の一句が、恐ろしくかんさわったらしいのであった。
「そう……マジャルドーに御相談なんですね、では、もう申し上げませんわ。私せめて貴方のところを、もう少し世間へ出しても恥ずかしくないように……せめてないながらにでも、家柄を付けようと考えてお願いしたのですけれど、高が銀行の番頭くらいの者に気兼ねしてお改めになれないのならば、もうお願いしませんわ。……ですが、お断りしておきますけれど」と、持前の冷たさを一層冷たくさげすむような口調で言った。
「貴方のお父様は日雇人夫から立身して銀行の頭取におなんなすった方ですから、マジャルドーのような手代の力もお借りになったのでしょうけれど、私にはマジャルドーは何の必要もございませんのよ。これから私の前でマジャルドーのお話はもうこれっきりにして下さいましね」
 それが洗錬された社交性というのであろうか、いかなる場合にも妻は、これ以上の怒りというものは内に含んで決してあらわに現さなかった。しかし我儘わがままで勝気な妻には、自分に対するこれ以上の侮辱はないと考えたのであろう。二度と再び邸の内部を改革せよとは言い出さなかったが、その代り私に対しては露骨な挑戦的態度に出て、今までよりも一層執拗な無言の行を守り続けるのであった。そして私の方で折れて、何とかこの問題を考え直してみようと言い出しても、もうてんで相手にはしなかった。
「いいえ、結構ですわ……私、貴方のおためを思って申し上げてみたのですけれど……そんなことをなすったらマジャルドーが何と思いますでしょう? 一度マジャルドーに御相談なすって御覧になりましたら?」という調子であった。
 折れてはみたものの、もちろんこんなことがマジャルドーに相談できることでもなければ、また相談する必要もないことではあったが、やはり私にはどうも世間の思惑というものが気になって、ちょっと長い間の習慣しきたりを変えようという気にもなれなかったのであった。私の持っている金を妻が費う分には、たとえ何百何千万ペセタ費おうともまだ我慢がなるが、しかし妻の言い分ではないが、日雇人夫から株式仲買人の手代となり、やがて株式仲買人となり、やっと小さな銀行の頭取にまで漕ぎ付けた父の一生を考えると、いくら金はあるにもせよ、その成り上りの私風情の家が――いわんやびっこである私ごとき者の家が、急に何の侯爵家とか某々の旧家とかいったような御大層じみた真似をするのは、何としても気がさしてちょっと手を付けかねることであった。ましてや、長年恪勤かっきんを励んできた何のつみとがもないマジャルドーに向って、私の家へ出入りせずにもらいたいなぞとは、私のこの口からは何としても言い出しかねることであった。
 さりとて、あれ以来妻は気持を悪くして、なるべく私とは顔を合わせぬように努めているらしく、早晩この問題は解決しなければならず、とつおいつ苦慮しながらも一日延ばしに延ばしていたのであったが、……さてその妻が打って変った柔らかな調子で、突然私のところへ電話なぞを掛けてよこしたというのは、ちょうどお互いの間がこういう風に、妙にこじれた状態の時であった。
「頭取! ……奥様からお電話でございますが」
 と女秘書から受話器を差し出された時には、場合が場合だけにドキリとした。
 てっきりこの間からの話を付けるためか、さもなければあんな我儘わがままな性質だから、事によったら弁護士事務所へでも寄って、離婚の訴訟でも起してくるのではあるまいか? とさすがに胸のとどろくのを禁じ得なかった。が、
「ああもしもし……貴方ロドリゲス? え? ロドリゲスでいらっしゃる?」
 と受話器の向うから送られてくる声は、マジャルドーのことなぞ言い出して、機嫌を悪くしたのはどこの誰でしょうと言わぬばかりに、柔らかな優しい妻の調子であった。
「私ねえ……今ホテル・アルベアール・パラスへ来ていますのよ。貴方もうお食事お済みになりまして? まだ? そう……まだでしたらいかが? これからこちらへいらっして一緒にお上りになりません?」
 何かは知らず風向きが変ったなと思った途端、安堵が私の胸にも込み上げてきた。電話の模様によっては、言いにくいことも今日こそマジャルドーに打ち明けて、当分家へ来ることは遠慮してもらわなければならぬと咄嗟とっさに決心していた胸のつかえが跡形もなく消え失せて、私は電話口を抑えてほっと深い溜息をらした。
「そして私帰りにプラツア・デ・カタルニアへ行って買いたいものがありますの……貴方にもぜひ手伝っていただきたいと思ってますのよ」
「いいともいいとも、何でも手伝って上げるとも! では、すぐに出掛けようかね。ちょうど銀行の方も……」
「もしもし……貴方ロドリゲス? そう……電話が混線してますのよ……今日あたしルロイ・ソレル男爵の夫人おくさまにお眼にかかりましたのよ。……私口惜しくて口惜しくて……ぜひ貴方にも手伝っていただいて、あの夫人おくさまの鼻を明かせて上げなくちゃならないって決心してしまいましたわ」と妻の方では、ろくろく私の言うことなぞ耳にも入れていなかった。何かよほどきおい込んでいるらしい口吻くちぶりであった。
「……ああもしもし……また混線して……ですから貴方、私と一緒にプラツア・デ・カタルニアへ一緒に行って下さいません? 私どうしても手に入れたいものがありますのよ」
「いいともいいとも! 容易わけないことだよ! 今すぐそちらへ行くからね。大体あのルロイ・ソレルの夫人おくさんというのはお前ばかりじゃない、私も昔から虫が好かんのだよ。顔は綺麗かも知れないが、高慢で高ぶって見識張っていて……」
 言いかけて私は慌ててまた、送話器のふたをした。これではまるで妻の棚卸しをやっているようなものであった。
「ともかく、あの夫人おくさんの鼻を明かすというのは、私も大賛成だね。では待っておいで! 今すぐ行くからね」
 これで電話は切れて、さっきから部屋の隅で書類の整理をしながら、私の電話に聞き耳を立てていたらしい秘書の方にクルリと廻転椅子を廻すと、久方ぶりに蒼空でも仰ぐような気持でプウと葉巻の煙を輪に吹いたが、さっきとは違った味で、また胸が轟いてくるのを感じた。この間の話のケリを付けるも付けぬもあったものではない。こんな優しい、こんな打ち解けた調子で私にものを言ってきたなぞということは、およそ私にとっては結婚以来未有みぞうの出来事であった。これでいよいよ事態も好転してきたなと心の中で私は、北叟笑ほくそえんだが、今の電記の口吻くちぶりでは、何事にも自分が第一人者を占めなければ我慢のならぬ、我儘で、勝気で派手好きな妻が、何かのことでルロイ・ソレル男爵夫人に引けを取って昂奮し切っている姿が想像されて、妻と私との間に感情が融和してきたというのも、一にその男爵夫人の御恩沢のような気持がした。そして「夫人よくぞ私の妻を蹴落として下さった」と手を合わせて拝みたいような感謝を覚えてきたのであった。
 薄暗い銀行の金網の外は、証券取引所の前場の引け時とて、金を出す人預け入れる人々でごった返していた。そして一歩明るい街路へ出ると、そこにも一攫いっかく千金を夢見る人々が渦を巻いて喧騒し、その人波を掻き分けて、眼の色変えた仲買店の小僧や番頭たちが声をらして駈けずり廻っていたが、その雑踏の間を縫って疾走する車の中で、私一人はいかにものんびりと口笛でも吹きたいほどの軽い気持で羽根蒲団クッションもたれながら、これから私の前に開けてくるであろう結婚当夜のような楽しい世界を想像して顔をほころばせていたことは、もちろんこの記録の読者にも御推察の付くことであろうと思われる。そして同時に私がいかに全身をくすぐるような楽しい喜悦に心を躍らせながら、豪華絢爛なホテル・アルベアール・パラスの特別室で、今日は珍しくも黒づくめの羅衣うすもの鼈甲べっこう高櫛ペイネータ高々と、黒い絹レースのマンテリアを後に垂らした純西班牙エスパニア風の装いをした妻と卓を挟んで薔薇と麝香撫子カーネーションの花陰に語り、飲み、喰べ、そして微笑し、初めて頭取らしい鷹揚おうような威厳を取り戻した一幅の場景をも、併せて御連想になり得ると考える。
 妻の用件というのは、食事が済んだら自分と一緒にこれからプラツア・デ・カタルニア街へ車を走らせて、そこにあるフリオ・ベナビデスという犬商の店で、犬を一匹買ってもらいたいという頼みなのであった。あれほど昂奮し切って、我を忘れて電話を掛けてきた用件というのが、そんな簡単な他愛もない用件かと誰でも思うかも知れないが、交際社会においては常に優勝の地歩に、自分を占めていなければ承知のできぬ妻にとっては、そこになかなか然かく簡単ならぬ競争意識と、希望と不安とがかもし出されていたのであった。
 というのは、上流貴婦人たちの血を沸き立たせていたものに、毎春一回国都マドリイドにおいて開かれる全西班牙エスパニア名家の愛犬品評会というのがあった。特賞には、二十五万ペセタの賞金が賭けられてあり、英国、仏国等のそれぞれの犬種協会よりも副賞が提供せられてあって話題を賑わせ、ある意味においては、富んで閑のある名家階級の貴婦人にとって、アンダルシア高原地方の牧場主たちが自己の丹誠凝らした猛牛を闘牛場グラサ・デ・トロスへ送るよりも、より以上の熱狂をそそり立たせる有名なシーズン行事の一つになっていた。
 もちろん品評会で審議を受けるほどの名犬を手に入れて飼育するためには、二十五万や三十万ペセタくらいの金では追っ付かなかったから、その賞金なぞは何らの目的めあてでもなかったが、この品評会へ出して審査を受ける資格を持つというそのことが、すでに所有者が富んで豊かなる階級に属することを示し、審査を受けることそれ自体が、並々ならぬ巨費を投じて手に入れた贅沢なる愛好物であることを示す。いわんや入選したというに至っては、シーズン交際場裡の羨望と話題とを自己一身に集めることであったから、金と暇とを持て余した婦人たちの心を刺戟して品評会開催中は、愛犬を品評するというよりもむしろ豪華な毛皮にくるまってそこに集まる貴婦人たちの服装の品評会であろう、なぞとゴシップせられるほど、それは上流婦人たちに血道を挙げさせていたものであった。
 妻もまた御多分に洩れず、まだメッサリイノ伯爵夫人の時代から毎年出品していたが、まだただの一回も入選したことがなかった。
 そして犬の流行は、最近の傾向としてポメラニアンやペキニイス、ケアンテリア等の珍犬、愛玩犬の変り種が歓迎されて入選していたので、貴婦人たちは眼の色変えてここ四、五年変り種漁りに憂身をやつ[#「宀/婁」、U+5BE0、142-15]していたのであったが、バルセローナ州選出の上院議員ルロイ・ソレル男爵の夫人は、すでに一昨年と昨年と続けて二回も入選していた。その夫人が今年もまた、南米あたりから珍しい変り種を手に入れて、来春は三度目の入賞を得るであろうという巷間もっぱらの噂なのであった。
 夫人とは交際場裡の双璧とうたわれて、事ごとに烈しく妻の競争心理をあおっていたが、かねて安からぬ思いを懐いていたその夫人の、極秘にしている犬の入手先が、今日初めて友達のマシアス・モリナーレ夫人に耳打ちされて、南米あたりから手に入れたどころか! 足許も足許、このバルセローナ市の裏通りでささやかな犬屋を営みつつ犬の変り種の研究に没頭しているフリオ・ベナビデスという奇人の店から、多額の口留料を付けて買ったものであると聞かされた時の嬉しさ! 途端に召使たちの改革も家柄も家格もマジャルドーの問題なぞもたちまち消し飛んで、妻の心は来春の品評会と犬の変り種とで一杯を占めてしまったのであった。そしてその嬉しさが妻の心を有頂天にさせて、白い眼を見せているのも忘れて、私のところへ電話を掛けて寄越させたのであった。口留料が利いているから容易なことでは売ってくれまいが、これから行って銀行の圧力をかけて、なんとかして一匹を手に入れて欲しいという頼みであった。
 鷹揚にうなずきながら、フムフムと私は耳を傾けていたが、心の中ではもう一度改めて、ソレル男爵夫人とモリナーレ夫人とに手を合わせて伏し拝みたいような気持がした。

犬商フリオ・ベナビデス


「あの高慢なソレルの夫人おくさまの鼻を明かして上げるだけでも、胸がどんなにスッとするかと思いますのよ。ですからモリナーレの夫人おくさまともお約束しましたの。もし犬屋で売ってくれましたら、二人で同じものを手に入れて品評会へ出して、ソレルの夫人を吃驚びっくりさせてやりましょうって……」と妻はショコラの茶碗カップいて、細巻きの煙草ピソンテに火を点けた。
「なんだ、それではお前はソレルの夫人おくさんに逢ったというわけではないのだね。モリナーレの夫人おくさんに逢ったわけなんだね。私はまた、お前が電話でソレルの夫人おくさん、ソレルの夫人というものだから……」
「どちらだってそんなことなんか大した問題じゃないじゃありませんか。私は犬が欲しいんですもの、犬さえ手に入れば文句ないじゃありませんか」と妻は苛立たしそうに、たちまち持ち前の癇を眉の間に現して、胸許をあおっていた扇子の細かい象牙骨をシャリシャリと鳴らした。これでまだ私が感ぜずに同じようなことを繰り返していようものなら、その次にはたちまち蔑み笑いを口許にうかべてかかとで床をコツコツとやる番であった。
「そ……そうだよ。そんなことなぞはどうでもかまわんのだがね……それで何かね、犬はどんな種類なのかね?」と大急ぎで私も話題を変えてみた。
「ウルフ・ハウンドとダックスフントとの混血種あいのこみたいな、……とても見てくれの悪い大きな犬なんですって、モリナーレの夫人おくさまが言ってらっしゃいましたわ」
 見てくれの悪い犬と言われた途端、私は口許をおおうている扇子の陰から、妻の視線を激しく浴びたような気持がして、無意識に卓子テーブルの下の脚を引っ込めた。
「口留料くらいの金は、私だって充分出す積りだよ。高が犬の一匹くらいまさか売ってくれんこともないだろう」
「お金よりもその犬を売ってもらうことが面倒なんですって、さっきから何遍も私申し上げてるのに、どうしてお飲み込めになれませんの? 気に入らなければお金なんか何百万ペセタ積んだって売ってくれないんですって申し上げてるじゃありませんか」
「金で売らなければ何で売るんだね?」
「ですから、私そう言ってるじゃありませんか! 主人の気分一つで売るんですって! どうして貴方はそう感がお悪いんでしょう。一を聞いて十を知るって言いますのに、貴方のは十を聞いてやっと一がお飲み込めになれますのね」
「ともかく行こうじゃないか。一つ出掛けてみよう」と私は煙草を棄てて立ち上った。私のように口の下手な社交性を欠いた男に、妻との長話は絶対に禁物であった。早く何事でも実行に移すに限る。
「どんな難しい主人か知らないが、私が行ってようく頼んでみたら、まさか無下に断りもしないだろう。また金のことを言ってお前に叱られるかも知れないが、金で済むのだったら、二十万が三十万ペセタでもかまわんし……必ず手に入れてみせるよ。ねえ、お前安心して一つ出掛けてみようじゃないか!」私の勇ましそうな言葉が、妻の気を引き立たせたのであろう。やっと妻も機嫌を直して立ち上った。
 そして私たちは、久しぶりで二人肩を並べてホテル・アルベアール・パラスを出たのであったが、この日だけは珍しくも間隔を一フィートとも置かず、私と並んで車の中に腰を降ろした妻を身近かに感じて満足しながら、もちろん私はどんな難しい犬屋の主人かは知らないが、高が犬一匹くらい金で買えぬこともあるまいと高を括っていたのであった。そして犬を手に入れて、妻との間がうまくいったら、その機嫌のいい妻を誘って久しぶりで、快走艇ヨットへでも乗ってみようかと、晴々しい気持で考えていたのであったが、もちろんその日私が妻と快走艇に乗ったかどうかはもう覚えてもいない。ただ今でも、私の記憶に残っているのは、犬は売ってくれたがその代り何ともいえぬ陰惨な印象を私の頭に刻み込んだ犬商フリオ・ベナビデスという人間の顔と姿とだけであった。
 ベナビデスの店はプラツア・デ・カタルニア街というのにあったが、この町がまた貧民窟も貧民窟、物凄くせまくるしい町であった。犬を買う買わぬももちろん大切だいじではあったが、私としてはむしろそういう用にかこつけて、こうやって妻と二人で車を走らせているという方に、より大きな喜びを感じていたのであったが、その私のひそかなる喜びも、車が段々と走って行くに従って、一刻増しに興趣を失っていったのであった。
 狭苦しい通りを挟んで、両側の建物の出窓という出窓からは往来の上じゅう細引ほそびきを張りめぐらして、襁褸おしめ同然の襤褸ぼろ着物が一杯に懸け連ねてあるし、私のところへ来るまでにも長いお邸勤めの生活で、市中の地理は隈なく知っているはずの運転手でさえ、二度も三度も把手ハンドルを止めて、汗みずくで探し廻らなくては、目指すプラツア・デ・カタルニア街というのはなかなか見当らなかった。
「何もこんな所まで、自分でわざわざ出掛けて来なくたって、犬が欲しいなら欲しいで、給仕頭にでも言い付けて買いに寄越したらよさそうなものを! 女の競争心というものはこんなにもすさまじいものなのか!」と私はほとほと呆れ返っていたのであった。
 妻はそのうっとりとうるみ、時にぎらぎらと熱情的にまた憎悪に激しく輝く抑揚に富んだ美しいひとみつぶらに見開いて、しきりにもの珍しそうにあたりに迫ってくる汚穢むさくるしい家々の景色に見惚れ切っていた。そこには、もう市中の二、三流町でも見られぬような汚らしい貧しげな服装みなりをしたお内儀かみさん連中が、縄で括った魚をブラ下げながら、ギャンギャン高声に子供を叱り飛ばしたり、そのまた叱られた子供が跣足はだしで逃げ出しながら、はなを垂らして私たちの自動車の廻りにたかって来たり、プラツア・デ・カタルニア街というのはそういう陋巷ろうこうであったが、目指す犬商ベナビデスの店は割合容易に探し当った。
 この貧しい町の広場近くに、煉瓦のくずれ落ちた二階建ての家があって、入り口近くに二、三匹のプードルやハリイア種の犬のおりを出したのがそれであった。屋内からも種々雑多な犬のき声がかまびすしく、プウンと動物特有の臭気が鼻を衝いてきた。しかもこんな汚穢むさくるしい町の小さな犬屋のオヤジにもかかわらず、私たちの運転手がいくら案内を請うても返事ばかりで、おそらく十五、六分ばかりも待たされたであろうか。しかもやっと顔を出して来たオヤジというのが、この陰惨な犬屋の店に相応ふさわしく、日陰からでも生れてきたような妙に陰鬱極まる人物で、ほとんど口もきかずに、薄暗がりに突っ立ったままはいって来た私たちを観察するかのように、ジロジロと眺め廻しているのであった。
 プウンとえた臭いを身体から発散させて、見るからに貧弱な小男の、年の頃はまだ四十そこそこくらいであったろうか? 皺の多い顔の奥から金壺眼かなつぼまなこを眼鏡越しに光らせながら、猶太ユダヤ人の冠るような縁なし帽に鉤裂かぎざきだらけの上衣を着けて、薄暗い土間の奥からこんなオヤジに観察されていることは決して気持のいいものではなかった。
「私たちはルロイ・ソレルの夫人おくさまから教わって来たんですが。お宅でお売りになるという……あの……珍しい犬というのをちょっと見せていただけませんの?」
可笑おかしいですね。ルロイ・ソレル夫人がそんなことを仰るわけはないはずだが……」
「だって教えて下さいましたのよ」と妻は平然として微笑んだ。
「人に吹聴されては困るけれど……貴方だけにはお教えするけれど……まあ行って頼んで御覧なさい。一匹くらいならきっと何とか都合してもらえるでしょうって……」
「へえ……あの夫人おくさまが自分でそんなことを仰ったのかね? ……へえ! これはあきれたもんだな!」口で言うばかりではなく実際呆れたように、男は一層繁々と妻の顔を見守っていたが、私もまた唖然として薄暗の中に白く浮いているキリッと引き緊った妻の横顔を眺めながら突っ立っていたのであった。いざとなると女というものは、こうも大胆に平気でスラスラと嘘が吐けるものなのかと、茫然としてただその横顔を眺めていたのであった。
「……見せていただけません?」
「へえ……見せるのはお見せしてもかまいませんがね……一体どちらから貴方がたはお出でになったんでしょうかね?」
「パセオ・デ・コロンからまいったんですのよ」と妻はまた平然として口から出任せの嘘を吐いた。「珍しい犬がいるって……ソレルの夫人おくさまから伺ったもんですからね、早速飛び込んで来ましたのよ、もう犬はいませんの?」
「あともう一匹だけ……いるにはいますがね」とオヤジは何か思案しながら、もう一度ジロジロと穴のあくほど妻の顔を眺め廻していた。
「……奥様は一体犬はお好きですかね?」
「……まあね」と妻は微笑んだ。「人一倍と言ってもいいのかも知れませんわね……これなんですの?」
 と自分の佇んでいるすぐ傍の、檻の中に寝そべっている一匹の犬を指し示したが、オヤジは不精そうに無言で頭を振った。
「どこにいますの?」
「まあそうおきにならないで」と、どっちが客だか売手だか、わけのわからぬ横柄なものの言いぶりであった。
「大切な犬ですからな。手前共でもなかなかこんな所へは出しておきませんのじゃ。……ってお望みなら、そりゃお売りしてもかまいませんがな。して、奥様は一体、雌雄どちらをお望みなさるのかな? 手前共で今売るのは雄だけだが、それでもよろしかったらお見せいたしますがな」
 大体こういう素っ気ない、愛想もコソもない調子であった。せっかく銀行から引っ張り出されて来てはみたものの、私には生れ替っても、オヤジとこんな嘘の問答なぞはできなかったから、さっきからオヤジと問答しているのは妻であって、私はただ衣嚢ポケットの中で小切手を握り締めながら莫迦みたいに妻の背後に佇んでいるにすぎなかった。店全体に漂っている悪臭に辟易へきえきして、洋杖ステッキの先で土間をコツコツと突きながら、こうした問答に耳を傾けていたのであったが、もしこれが妻とこんな経緯いきさつの下に来たのでなかったならば、こんな不快な店とこんな不快なオヤジの許は、おそらくさっさと立ち去ってしまったであろうと、考えずにはいられなかったのであった。まったく陰惨な倨傲きょごうさというの外はなかったのであった。
 しかも妻はこうやって、オヤジが売りともない風情を示せば示すほど、ますます好奇の心を燃やしてくるらしく、いよいよ熱心を面に現しているのであった。が、その間にもオヤジの方は、無遠慮な視線をジロジロと遠慮会釈もなく妻の頭のてっぺんから足の爪先まで、そして時々はギロリと探るような瞳を私にまでくれていたのであった。やっとこの買手は決して素見客ひやかしきゃくではないという見定めが付いたのであろうか。黙って、億劫おっくうそうに店の奥へ引っ込んでしまったかと思うと、やがて恐ろしく手間取った末に――ヨタヨタと段梯子だんばしごでも登って屋根裏へでも行ったものか、それともあなぐらからでも引っ張り出して来たものか、大分待たせた挙句に、まるで家宝でもあるかのように、両手に捧げて来た粗末な檻の中にうごめいていたのは、なるほどダックスフントとウルフ・ハウンドとの混血種あいのこのような、そして最早大分成長して生後五、六カ月くらい、ムクムクと肥え太ってはいたが妻の話しどおりに……いいやそれよりももっと、百倍も千倍も見てくれの悪い犬であった。しかも狭い檻の中で蠢いている恰好ときたら、――まったくそれは歩くというよりも動くというよりも、蠢くというのが一番適切な言い現し方なのであったろう――妙にヨタヨタとして腰の大きなガニ股の、しかも顔は犬というよりも動物園にいる狒々バブーンそっくりの相貌であった。私と妻とに犬の流行廃はやりすたりというものについて何らの知識の持ち合せもなかったとしたならば、たとえ千ペセタでも、おそらくは無代ただでくれてやると言われてもこんな醜い恰好をした犬なぞは連れて帰らなかったであろうと思われるほど、まったくそれは妙な顔と姿とをした犬なのであった。しかし犬そのものについて深い知識は持ち合せなくとも、私たちには富豪としての犬の流行廃はやりすたりというものにある程度までの経験を持っていた。その経験が私たちをしてこれだけの顔と恰好をした犬ならば、確かに今年あたりからの愛玩犬の流行になるかも知れないと考えさせていたし、同時にまたこれだけの不思議な恰好をした犬ならばオヤジの言う値段が妥当であるかないかは知らないが、すくなくとも十万ペセタ以上の値段は当然であろうと考えさせていた。
 そうして私は言われるがままに十九万ペセタの小切手を書き与えて、檻から出したこの汚い犬を運転手に抱えさせて、また車をラムブラ・デル・セントラ大街の方へと走らせて来たのであったが、しかも今でも覚えているのは、この犬屋のオヤジのあくまでも変った商売ぶりであった。他の犬屋のように、二匹も三匹も見せて好いたのを選び取らせるというのではなく、たった一匹だけを見せて、それを引き取らせるさえ、普通の犬屋から見れば桁外れであったが――もっとも、それは外の犬を私たちが買いに行ったのではなく、その犬だけを特別に目指して行ったのであり、そしてその犬が一匹しか犬屋の手許に残っていなかったとすれば、当然のことであったかは知らないが、それにも増してこの犬商の桁外れであったのは、こうして巨費を払って犬を買い取っても別段商人らしい愉快そうな表情を見せるでもなく、いいや、愉快そうな表情を見せるどころか! むしろその反対にかえって迷惑そうな渋面を作って、「手前共でも大切なものをお売りするんですからな。御迷惑でも一応お邸も伺っておきませんとな」と、当然その権利があると言わぬばかりの顔をして、大きな帳簿を持ち出して来た。
「奥さん、貴方が御自分でお飼い下さるんですな? そして貴方がその御本人でいらっしゃるんですな?」と、くどくも念を押した挙句に、根掘り葉掘り私たちの住所、姓名それに職業までも自署させたには一驚したのであった。高が犬の仔一匹金を出して買うのにまるで警察へ出頭して※品ぞうひん[#「貝+藏」、U+8D1C、150-14]の払い下げでも受けるような騒ぎであった。が、その驚きすらも、オヤジがこうまで愛惜して売りたがらぬものを無理に手に入れたと考えることによって、どんなに私たちの掘り出し感を倍加させたことであろうか! 神ならぬ身の私にも妻にもこれが後々世にも恐ろしい、自分たちの身を破滅に導く悪魔の触手であったろうとは、その時夢さら感じるわけもなかったのであった。

二匹の悲哀トリステサ


 ……その日獣医検診証に添えてベナビデスのくれた標準体形書は次のごときものであった。

トロエス・アピエラド犬種標準体形書
    一九四三年フリオ・ベナビデス初めて創り犬種をトロエス・アピエラドと定む
被毛 短く滑らかにして密なるも、腰部のみ長毛簇生ぞくせいす。銀黄褐色または杏色、または暗き黄褐色なり
眼  卵形にして斜めに付き、昂奮時は火のごとく燃ゆ
唇  下顎を被い、鋭く切り取られず
鼻  嗅覚数マイルに及ぶ
前肢 は広く、離れ、骨極めて太く、外向きなり
ひじ  は肋骨よりよく離れ、胴に平行して、前方に曲らず
肋骨 は深く捲き、胸部深く、広し
背  水平にして、腰に向って傾斜し、曲らず
後躯 臀部は円くて広く、極めて逞し
尾  付根は高く、長からず、彎曲し、低く垂る
体重 おすで一一〇封度ポンドめすで八〇封度まで
体高 三〇インチより三二吋
習性 気質はげしく愛撫すれば温順なるも、怒れば獰猛どうもうなり、死闘す、未知の人に絶対に馴染まず愛玩用なれども、番犬に適す

 もちろん、この標準体形書なるものも、仔細にこれを吟味してみたならば、あるいは表面の文字の裏に隠されたこの犬の持つ種々なる秘密の特性や、あるいはそこに仕組まれたベナビデスの世を欺く狡猾こうかつなる手段に気が付いたかも知れなかったが、これも後日に至って問題になろうなぞとは夢さら知る由もなかったから、私は軽く眼を通すと、くるくると巻いて抽斗ひきだしの中へほうり込んでしまった。が、ただその時私の注意を惹いたのは、昂奮すれば火のように燃えるという眼の項目と、怒れば獰猛なり死闘す、という習性の記載のみであった。怒れば獰猛になって死闘する犬にはウルフ・ハウンドもあれば、ブルテリアもありブルドッグもあれば、シェパードもあり、ダックスフントもおそらくその範疇に入ったであろう。しかも大体において犬というものは、その習性として程度に強弱の差こそあれ、怒れば獰猛になって敢闘する性質であったから、こんな記載はあえて異とするに当らなかったが、ただこの犬の場合のみはあまりにも鈍重でヨタヨタしているのであったから、こんな犬がそういう性質を持っているのだろうかと、いささか私の興味をそそったのであった。
 しかも眼についての記載では、私の記憶する限りでは、支那産のパグという愛玩犬の体形書にはこういう項目があったように覚えている。この鈍いノロノロした犬の血管の中に、はたしてそういうパグのような情熱が潜んでいるのだろうか? と私は何か造化ぞうかの秘密でも覗くような気持がして面白く感じたのであったが、それもその瞬間そう感じただけで、大体私は犬なぞにそう特別の関心を持っているわけではないのであった。ただ妻の歓心を買いたい一心で、犬屋へもいて行けば、またこの犬も買って来たようなわけであったから、別段それ以上の興味というものも湧かず、読み終えるとそのまま抽斗の中へ抛り込んでしまったのであった。そしていつかこの犬の習性というものも、すっかり忘れ切っていたのであったが、さてその晩、大広間サルーンの花のようにきらびやかな飾電灯シャンデリヤの下で、その飾電灯に映えて眼も醒めんばかりに輝いた波斯絨氈ペルシャじゅうたんの上に放ったその犬が、どんなに妙な恰好でその辺を嗅ぎながら、ヨタヨタとうごめき廻ったことであろう! そして給仕頭や小間使や大勢の女中たち、しまいには笑い声に惹かれて料理人や門番までが、恐る恐る広間の入り口近くへ覗きに来て、妻や私の気を兼ねながらいかに渋面作って笑いを噛み殺すのに骨を折ったことであろうか! 召使たちが笑えば笑うほど、妻は一層いい機嫌になって、いかに掘り出し感に酔っていたであろうかは、最早ここにくだくだしく述べるにも当らないであろうと思われる。
 まったく見ようによっては、悪魔の触手どころか! 笑いのない妻と私との冷やかな家庭の中へ、こういう笑いと賑やかさを醸してくれたのであったから、いわば天使の触手でも舞い込んで来たような観があったが、ともかく眺めれば眺めるほど、まったくこれは得体の知れぬ怪物というべきであった。胴が無暗に長くて四肢の極端に短い点では、ダックスフントそっくりであり、前肢の逞しさや毛色では英国産のマスチーフであり、やがて成長すれば三二インチの高さ体重一一〇封度ポンドにも達するのでは、まさに犬種中の最大種アイリッシ・ウルフ・ハウンドであった。まったく得体の知れぬ犬であったが、成育の後はいざ知らず、現在眺めているところでは仔犬のくせに妙に腰の廻りのみが発達して、そこにだけしゃ切り立ったような黄褐色の毛がむらがり、全身はあまりにも短い滑らかな密毛に被われているために、さながら水に濡れた海豹あざらし膃肭臍おっとせいのようにヌラヌラした感があり、それが狒々バブーンのような顔をしてヨタヨタと老人臭いガニ股の歩みをしているに至っては、ただ滑稽そのものというべきであった。
 しかも眼を留めてさらに凝乎じっと眺めれば、そのまた滑稽感も消え去って、何となく造物主の造り損ねた動物といったような……妙にこう、生きている悲哀とでもいったような一抹の哀感を懐かせてくるのであった。この感じは、私ばかりではなく笑いさざめている妻の心にもおそらく同じ気持が萌したのであろう。妻はこの犬に悲哀トリステサという名前を与えたのであった。そして一向に悲哀らしくもない悲哀トリステサかこんで、その恰好に楽しげな笑いを挙げているのであったが、化粧と友人の訪問と観劇と夜会と……それ以外には何のすることとてもない身の上では、早速この珍犬を手に入れた喜びを、親しい友達たちに吹聴ふいちょうせずにはいられなかったのであろう。
 もちろん品評会の入選は珍しい犬を手に入れたというにあるのではなく、その毛並、色沢いろつや、飼育ぶり如何を審査するにあったから、手に入れた犬を秘し隠しておく必要は毛頭もなかったとはいえ、その翌る日からは早速この仔犬に銀の頸環くびわと銀の鎖とを付けて、朝晩の散歩にもまた車の仕度をさせて友人たちを訪問するのにも、片時離さず連れ歩いたのであった。そして喜びと満足とがさせるわざなのであろう、私が銀行から退けて来ると、不断来たこともない私の書斎にまで姿を現して、今日散歩に連れて行ったら大勢の人たちが珍しそうに悲哀トリステサを繞んだとか、訪問先の友人が大変に羨ましがって、どこから手に入れたかを根掘り葉掘り穿鑿せんさくしたが、
「意地が悪いようですけれど、私教えて上げませんでしたのよ。だってアルテスの夫人おくさまったら、この前あんな意地の悪い真似をなすったんですもの、今度は私あだを討って上げなくてはね……」なぞとさも楽しそうに微笑んでいるのであった。が、ごく親しい三、四人の友達だけには、せがまれて決して人には洩らさないという約束の下にプラツア・デ・カタルニア街の犬商を教えてやった……というのであったが、数日たって私が銀行から帰って来ると、
「面白い話がありますのよ」と小娘のように顔を輝かせながら、妻は書斎へはいって来たのであった。
 今外出先から帰って来たところと見えて、今日もまた象牙骨の伊達扇だておうぎを持って、純西班牙エスパニア風に装いを凝らしていたが、その楚々たる風姿のなんとまた妻の身体に似つかわしいことであったろうか。
「ロデスの夫人おくさまとグラナドスの夫人おくさま御存知でしょう? あの方たちわざわざ買いにいらしたのに、いくらお金を出すからと仰っても、どうしても売ってもらえなかったんですってよ」
「あの時も手許にもう一匹しかないと言ってたから、全部売り切れてしまったんじゃないのかね?」
「……と誰だって考えますでしょう。ところがそうではありませんのよ。あとからいらしたモリナーレの夫人おくさまだってアルベルトオの夫人おくさまだってちゃんと買っていらしたんですものね。もっともお金も随分おつかいになったようですけれど……」
「そんなに方々へ売ってしまうんなら、ルロイ・ソレルの夫人おくさんなんぞ口留料を出しただけ莫迦を見たようなもんじゃないか! ハハハ! ともかくあの犬屋のオヤジときたら気難し屋らしかったからね。何か気に入らないことがあって売らなかったんだろう」
 別段可笑しくもなかったが、私も一つ笑って見せて、妻の機嫌に調子を合わせてやった。
「でも、かえってその方が有難いじゃないか。この犬がそんなに手に入れにくい犬だとすれば、あのオヤジのお陰でお前の持ち物の値打ちが上るというわけじゃないかね?」
「そうですのよ。ですから私ロデスの夫人おくさまやグラナドスの夫人おくさまがおこぼしなさるから、相槌あいづちは打っていますけれど、おなかの中ではね……オホホホホホ」と妻は耳輪を重たげに檜扇ひおうぎで口許をおおって、結婚以来初めての華やかな笑い声を挙げたが、董香水アリモネの匂いがどこからともなくかすかに鼻を打ってきた。そしてそのオヤジのお陰で値打ちの上ったはずの妻の持ち物は、相変らず大きな腰を振り振り、それでも仔犬らしく長椅子にもたれている妻の靴先にじゃれついているのであったが、すでに家へ来てから二十日余りにもなって、身体はかなり大きくなっていたが、成長すればするほどますます悲哀ぶりを増して、一向に値打ちが上っている風にも見えなかったのであった。
 ともかくこうして、相手を見て売ったり売らなかったりする犬屋のオヤジの妙に商人らしくもない商売ぶりが、売ってもらえなかった婦人たちをして一層妻の珍妙な持ち物を羨ましがらせる結果になり、妻をしていよいよ得意感を増させることとなったのであったが、さてその時夢にも考えなかったことで、今気が付いてみれば、この犬屋が犬を売らなかった相手のロデス夫人というのもグラナドス夫人というのも、いずれももう五十幾つ六十幾つというお愛想のいい老夫人たちであり、売ってもらえたモリナーレ夫人は権高い無口な二十七、八歳くらいの美夫人、アルベルトオ夫人というのも似たり寄ったり同年配くらいの、豊艶な姿態の持主であった。
 すなわちこの犬商の売る売らぬは、決して相手の出かた如何によったのではなく、犬商自身の鑑識めがねに叶った夫人――すなわち老夫人ではなくて、若い美夫人ばかりであったということに考え至れば、その時私の胸にも一種奇異な感じが起ったであろうが、これもまた神ならぬ身のその時どうして私に、そういう考えなぞが浮かび得たものであろう。
 かくして私たちの家は当分悲哀トリステサを中心としての生活をしていたのであったが、悲哀トリステサが来てから二カ月余りの日はいつかもう夢のように過ぎ去っていた。犬そのものに特別の愛情でも感じていたのならばともかく、この程度の物珍しさではやがてその珍しさの時機が過ぎてしまえば、自然と忘れがちになってくるものであった。
 いわんや妻は移り気な性分であったし、来年の品評会までにはまだ八、九カ月ばかりの間もあったし……しかも妻の一日の生活は必ずしも悲哀トリステサだけを対象としたものではなかった。今売り出しのブランカ・ルーナというアルゼンチン・タンゴの名手の後援もしてやらなければならず、音楽会へも招かれねばならず、ロデス夫人の凝っている降霊会へも出席しなければならず、また家で友達たちを招待して晩餐会も催さねばならず、観劇……夜会……宝石……そして衣装店へ! この頃では悲哀トリステサのこともあまり口に上らなくなっていたのであった。が、悲哀トリステサの方でもまた、もう十年も前からこの家に住んでいるような顔をして、ウソウソと邸の中や庭をい廻って、いつの間にか私の家の欠くべからざる家族の一員になり切ってしまったかのような工合であった。そしてもちろん、妻は初めから自分の手を下して食事や細かい世話なぞをしていたわけではなく、一切がっさい給仕頭のガルボ任せであったから、妻からかまい付けられなくなった悲哀トリステサは、むしろ食事をくれるガルボの後ばかりを追って、これを妻よりも慕っているような風であった。
 さて、その頃のある日であった。もっと詳しく言えば、夜寝室へ鍵を掛けるのをもうそろそろ外してくれるようにと妻の最も機嫌のいい時を見はからって、今日頼んでみようか明日言い出そうかとそのことばかりに私が心を砕いていた頃のある日のことであったが、一日私は税務署関係で自分の財産調べのために銀行を休んで、書斎に引きこもっていたことがあった。妻の許へは朝から女友達の来訪があったらしく、居間からは洋琴ピアノの音が洩れたりレコードが奏でられたり、そして昼は庭の常春藤きづたの陰に卓子テーブルしつらえさせて、そこで食事を取っていたようであったが、かれこれちょうど二、三時間くらいもたった頃であろうか。私は書斎の外に書庫をもう一つ、サン・ルームの隣りに持っていた。
 そしてちょっと調べたい書物があって、階段を上って私はそこまで行こうとした。外廊下を通り過ぎてヴェランダを眺めつつ中廊下へはいって、妻が今が今そこで友達と茶のテーブルを囲んでいるサン・ルームの隣りまで来て、さて必要な書物を書架から抜き出している時であった。妻も友達も、まさか隣りの書架の前に私がたたずみながら書物の頁をはぐっているとは夢にも知らなかったのであろう。椰子やしを並べ、蘭を飾り、種々くさぐさの熱帯植物の咲き乱れたサン・ルームの中からは、手に取るように二人の話が耳を打ってくるのであった。
「まあいやらしい! 猥らしいわ、シリオン! そんなことができるもんかしら?」と妻の声であった。
「できるもんかしらて言ったって、それが真実ほんとうなら仕方ないじゃありませんか。だから世間ではそう言ってるじゃあないの、独身の婦人や未亡人たちの寵物ペットなんだって! 大体ダックスフントだってそうなのよ。あの胴のヒョロ長い脚の短い……オホホホホ」と女友達の笑い声がした。そしてすぐまた続いて、「まあ驚いた! 迂闊うかつねえ、ドローレス、貴方は! ホホホホホ、私こそ貴方の迂闊屋さんには驚いたわ。ほら、御覧なさい! ここのところがこうなっているでしょう……ね?」と女友達の声がしてあとは妙に声を潜めたヒソヒソ話になってしまった。私は聞くともなく聞かぬともなく、活字に眼をやりながら耳を傾けていたが、何を話しているのか、隣りでは声を低めてしまったので、私にはもう少しも聞こえなかったが、聞こえないながらにそこからは犬の鼻を鳴らす音もして、悲哀トリステサもその辺に寝そべっているらしく何か犬に関連して人に聞かせることのできぬ秘密話のような気がしてくるのであった。頁をはぐって紙の音を立てることすらも、ちょっと躊躇ためらわれた。仕方がないから、必要な書物だけを抱えて、跫音あしおとを忍ばせながら、そっと私はそこを立ち去ろうとしたのであったが、途端に私の足は釘付けになってしまった。笑い声とともにヒソヒソ話はまた以前の調子に戻ってきたのであったが、「銀行の頭取」という一語が私の足をすくませてしまったのであった。
「そうね、……銀行の頭取でもあの恰好じゃねえ……お察しするわ、ドローレス」
「でしょう? だから私、夜寝室の鍵だけはどうしても掛けずにはいられないのよ。ね、わかる、シリオン! 私の気持が? まるで悲哀トリステサを二匹飼っているようなものよ。動物園だわ、家の中は!」
 瞬間、私は全身の血が逆流するような気持がした。立っている脚、書物を抱えている手がワナワナと震えて、自分ながら顔や唇からさっと血の気の引いてゆくのが感ぜられるようであった。その場に立っていることもできず、その場から逃げ出すこともできず! ……しかも扉を閉めることも忘れて、自分の書斎まで戻って来た時には、道の千里も歩いて来たように胸があえいで、抱えて来た書物をドタリと机の上に投げ出すと、椅子にヘナヘナと崩おれてしまった。
 二十七年前のフロール・エスビイナの時のあの気持であった。大学を出て、書物を読んで年を取って銀行の頭取になって、歳移り星は変っていたが、しかも気持は一足飛びに少年の昔にさかのぼって、二十七年前に跛者びっこと一緒に演壇に立つのは厭だと言われて泣いて学校から帰って来たあの時の気持と寸分の違いもなかった。しかもあの時は、泣いて帰って一晩泣いていたら涙は拭われたが、今は一晩泣いても十晩泣いても涙も拭われぬ限り、別段初めから拭う涙も出てこない。少年の昔フロール・エスビイナを信じていた純情がすっかり傷つけられて、今は誰を信じもしなければ、また誰からも好かれているとも考えてはいないからであった。そして少年の昔フロール・エスビイナを少しも憎んではいなかったように、今の私も別段妻のドローレスを少しも憎んではいない。ただ私の残念なのは、あくまでも愚かしい自分の気持ばかりであった。二匹の悲哀トリステサが飼われているとも知らず、妻と一緒になって犬のぶざまな歩みに手をたたき指ざして可笑おかしがり、しかも自分の悲哀トリステサには気が付かないで、犬の悲哀トリステサばかりを笑っていた自分の迂愚さ加減が、ただ悔まれてならなかったのであった。
 父が不具の子不愍ふびんさに、死ぬまで営々として働いて遺していった金を、湯水のごとくに蕩尽して妻の歓心を買い求め、しかも妻や召使たちから陰口を叩かれているとも知らずに、あんな犬屋にまで頭を下げて動物園と嘲られてもまだその女が諦め切れず、腹も立たなければ憎む気も起らない……いいや、憎むどころか腹が立つどころか! 今にもその妻がここへ現れて来たならば、またぞろ腑甲斐なくも父の遺産を捧げて平伏してしまうであろう自分の愚かしい心が――最早自分にはどうすることもできぬ私自身の気持が、言おうようもなくただムシャクシャして残念で無念でたまらなかったのであった。
 頭を掻きむしりながら、私は机の上に突っ伏した。そこには洋罫紙一杯につい今し方まで、書いては消し消しては計算し直していた所有財産の見積りがあった。眺めてみると五十センチモでも一ペセタでも、税金を免れようとして一日中頭をしぼり抜いていた自分の気持までが声を挙げて嘲笑あざわらいたくなってきた。自分をいとい抜いている女のためにやがて費い尽されてしまう財産ならば、百万ペセタ取られようが、二百万ペセタ課税されようが、五十歩百歩ではないか、という気がしてきたからであった。
 堪らなくなって私は起ち上って、部屋の中を歩き始めた。ムシャクシャしながら、そのムシャクシャをどこへ流したらいいかを知らず、煮えたぎるような憤怒を感じながら、その憤怒をどこへ向けるかを知らぬ私は、ただこうして部屋の中をあえぐような気持で歩き廻る外はなかったのであった。そして檻の中の熊のような恰好で私は自分の机の廻りを止め度もなくグルグル廻っていた時に、音もなく影のようにはいり込んで来たものがあった。二階から降りて来た悲哀トリステサであった。日向に長々と寝そべって日陰が欲しくなったものか、それとも、庭へ出て行く拍子に明け放たれた扉を見ると、何気なく潜り込んで来たものか! 甘えるようにクウンクウンと鼻を鳴らしながらヨタヨタと側へ近付いて来たのであったが、その姿がたとえようもなく醜悪で、私にはまるで私自身の歩む姿としか思われず、面を背けたいほどに憎悪が込み上げて来たのであった。そして憎悪の眼で私が見下しているとも知らず、犬は愛撫してもらいたいのか、ますます身を擦り寄せて来るのが、私にはいかにも不具者かたわもの同士仲よくしようよ! と言わぬばっかりのしぐさに思われて、厭わしさに私は一歩身を引いた。
 しかも今度は身を引いた自分に、また一層の憤怒が込み上げて、キョトンと不思議そうに見上げている犬の愚鈍のろまそうな眼を見た途端、息も詰まらんばかりの憎しみと激怒とが私の脳天に衝き上げてきた。足を挙げてその脾腹ひばらと思うあたりを力一杯蹴上げてくれた。
「キャン、キャーン」と家中が震撼するような悲鳴を挙げて犬は飛び上った。飛び上ったところを、また左足を挙げて蹴上げてくれた。悪い足は中心を失って思わず蹌跟よろめいて[#「蹌跟いて」はママ]机の上に片手を突いたが、突いたその手で無我夢中につかみ上げた書物を、力一杯犬の胴体眼蒐めがけて投げ付けた。投げ付けた書物は反れて、明け放したドアに当ってドサーン! と凄まじい響きを立てた。続いて私は簿記棒を投げ付けた。グヮラグヮラガターン! と一層凄まじい音を立ててどこかに当ったらしい。犬はグウとうなった。そしてキャ、キャーン! ともう一声飛び上ると、この犬がどうしてこんなに敏捷すばしこくと思われるほどの速さで、一目散に扉の外へ飛び出した。何を掴んで投げたかを、もう私は記憶しない! 召使たちが駈け付けて来るのであろう。跫音あしおとが、あちらこちらから入り乱れて来た。

深夜


「キャアン! キャンキャン! キャアン! キャンキャン」と続けざまの悲鳴を挙げて、犬は逃げ惑いながら大広間サルーンへ走り込んだ。そしてそれを追って今一度投げ付けようとした途端、私は大広間サルーンから二階へ通じる正面の大階段を急いで駈け降りて来たらしい妻と、階段の上下で真正面まともに顔を合わせたのであった。
「何をなさっていられますの?」と歩を止めて、妻は振り挙げた私のこぶしを見下した。まるで学校の教師と生徒のような恰好であった。
「そんなものをお投げになったら悲哀トリステサは死んでしまいます」
「死んでもかまわん!」と初めて気が付いて、私は振り挙げた拳を降ろしたが、夢中で掴み上げていたものは精巧な透し彫りをした銀の重い大きな灰皿であった。犬は広間の長椅子ソーファの下へ逃げ込んで、まだ悲しげに絶え間もなくき続けていた。
「一体悲哀トリステサが何をしましたの?」
「何をしたもかにをしたも!」と私は勢込んだが、たちまち絶句した。「……その……此奴こいつが私の部屋へはいって来たのだ!」
「まあ!」と呆れたように妻が叫んだ。
「お部屋へはいっただけで貴方は……貴方は」と息を弾ませた。「こんなひどい目にお合わせになりますの?」
「…………」
「さっきから、まあなんて騒ぎをなさっていらしたんでしょう。二階に私の友達が来ていらっしゃることを御存知ありません? 私恥ずかしくなりますわ」そして「悲哀トリステサ! 悲哀トリステサ!」と呼んだが、犬は怯え切ったようにただクウンクウンと啼いているばかりで、長椅子ソーファの下から出ては来なかった。
「可哀そうに! さあ、早くこちらへ出ていらっしゃい! 貴方御気分でもお悪かったら、おやすみになりましたら?」
「気分なんぞ悪くはない。私はただ動物園になりたくないだけなんだ」うっかり口へ出してしまってから、失敗しくじった! と思ったがもう遅かった。
「え? 何て仰いまして? 今貴方は」
「…………」
「動物園とかって……それは何のことなんですの? 私には飲み込めませんけれど……」
 最早ここまできては、なんとも仕方のないことであった。召使たちは当惑したように入り口近くに佇んでいるし……騎虎きこの勢いであった。
「家の中を動物園にしたくないと言っただけなのだ……お前のことではないよ」
「私のことではありますまいけれど、……どういうことなのでしょうか? 何のことやら私には、サッパリわかりませんのよ」
「わからんことはない! 私は別段そんなことに決して腹を立ててはいないのだよ。腹も何も立ててはいないが、ただ悲哀トリステサの仲間にはなりたくないというだけなのだ!」
「まあ、貴方は! まあ、貴方という方は!」
 一瞬ちらっと狼狽ろうばいの色が頬をかすめたが、それを掩い隠すように妻は大急ぎで叫んだ。たちまち癇癖かんぺきが顔一杯に現れて、美しい顔は凄まじいまでに蒼白まっさおになった。
「立ち聞きなさいましたのね? まあ! 立ち聞きするなんて男らしくもない。それで貴方は紳士なのでしょうか? まあ……紳士のくせに立ち聞きをなさるなんて……」
「いいや! それは違うのだ。私は立ち聞きなんぞしたのではない……書庫へ本を調べに行った時に……誤解してもらっては困る。誤解をされては困るのだ……私はその……調べ物のために……」
「いいえ、御弁解は伺いたくありませんの。私、男の方が御弁解なさるとは考えたくありませんのよ。……そして貴方も御弁解なされば、御自分のなすったことに一層醜い色をお付けになるようなものですわ。それでやっと私にも腑に落ちましたわ……」
「弁解ではない! 決して弁解ではないのだ。お前に誤解してもらっては困るのだ。……ほんとうにドローレス、私は、調べ物のために……」
「お調べ物のために立ち聞きなさいましたのでしょう? よくわかりましたの。それで……それで貴方は何の罪もない悲哀トリステサをあんな酷い目にお合わせになりましたのね? 仰ることがおありでしたら、なぜ面と向って私に仰いませんのでしょう……? 可哀そうに何のつみとがもない悲哀トリステサにお当りになるなんて! まあなんて卑怯な方なんでしょう」
 びっこきつつ恐ろしそうに、私の側を摺り抜けて傍へ寄って来た悲哀トリステサを、
「おお可哀そうに! さあさあ、お出で」とさも愛しそうに彼女は抱き上げた。
「ドローレス……私は口が下手だから思うことが言えないが、私は決してお前を怒っているのではないのだ……私はお前には」
「立ち聞きをなすっといて私が叱られてはたまりませんわね」とピシッと彼女は極め付けた。そして手を挙げて二階を指ざした。
「貴方! お客様がいらっしゃいますのよ。恥だとはお思いになりません? こんな騒ぎをなすって恥だとは……」
 彼女は深呼吸でもするように胸を張って、一つ大きく息を吸い込むと……また繰り返すようではあるが、それが高度の社交性とでもいうのであろうか、自分の胸一杯もある大きな悲哀トリステサを抱いたまま、そのまま静かに、また階段を上って行ってしまったのであった。
 階段の下に私だけが取り残されて――しかもその私は頭髪を掻きむしってネクタイは引ん曲り、灰皿を掴んで、見て見ぬ振りをしている召使たち環視の中で、妻に立ち聞きを極め付けられて、いかに悄然しょんぼりとして立場を失ってしまったかは、最早くだくだしく言うだけ愚かなことであったろう。
 再び書斎へ戻って、崩おれるように机の前に腰を降ろした途端、玄関に車の横付けになる響きがして何を語らい合っているのであろうか、妻と妻の友達とが、悲哀トリステサまでも連れて賑やかに外出して行く声が、私の耳朶じだを打ってきたのであった。消え去って行くその車の音を追いながら、何思うともなく何考えるともなく、凝乎じっと私は空間の一点を凝視したまま、身動みじろぎもしなかったが、妻の肉体を手に入れるどころか! 苦心惨憺さんたんの結果、やっとここまで漕ぎ付けた妻と私との距離を、たった一言迂潤うかつに口を滑らせたばっかりに、再び一万マイルもある向うへ引き離してしまった自分の莫迦さ加減を思うと、つくづく愛想もコソも尽き果ててしまったのであった。
 そしてもう頭を掻きむしる元気もなく、ただ茫然ぼんやりと椅子にもたれていたのであったが、しかも颯爽さっそうたる今の妻の姿を想うと、生れ変っても私にはできない芸当をキビキビとやって退けるだけに、一層その人恋しい思慕が募って、慟哭どうこくしたいほどわびしい気持に襲われていたのであった。が、そんな私の気持なぞには頓着なく、妻はもしこのまま悲哀トリステサを階下にうっちゃっておいたならば、いつか折りを見て私が殺してしまうとでも恐れたのであろうか? その翌る日からは、悲哀トリステサを自分の居間へ繋いで、決して放し飼いにせず、三度三度の食事も給仕頭のガルボに言い付けて、部屋へ運ばせて決して私の近付くのを許さず、今度のこの失敗たるやいよいよもって私にとっては致命的フェータルなものたることを如実に示してきたのであった。
 そしてそれからの私の立場たるや、いかにみじめを極めたものであろうか。殊に今度は間に悲哀トリステサという邪魔物が介在してきただけに、私にとっては事態の収拾が以前よりも一層困難を極め、一家の主人でありながら、召使たちの一顰いっぴん一笑にまで気を兼ねて、まったく誰が主人か召使かわけのわからぬ存在となってきたのであった。しかも私こそは、折りを見て妻に謝罪したい気持は胸一杯であったが、妻はそういう私の気持なぞ一切受け付けようともせず、夕方銀行から退けて来たからとて、私と顔を合わせぬようにしているドローレスが家になぞいた試しは決してなかった。毎夜のごとく友達たちと劇場へ行き、舞踏会に招かれ、ちょうど闘牛のシーズンにかかっていた時とて、同好の貴婦人たちと連日闘牛場コリダ特等席パレラスに陣取って、夜はこれら贔屓ひいき闘牛士マタドールたちを引き具して宴席を共にし、ほとんど家で晩餐なぞを取ったこともないのであった。
 もちろん私としては怒っていようが笑っていようが、この美しい妻がたとえ表面だけでもいいから、私と夫婦の関係で同棲していてくれるということに、せめてもの淡い満足を感じていることであったから、そんな些細な妻の自由にまで干渉して、この上妻の怒りを招こうという気もなければ、またそんな夫婦離れ離れの食事なぞは結婚以来もう充分に慣れ切っていることであったから、今更別段驚くところもないことであった。
 が、それでも時には、さすがに飾電灯シャンデリアばかりは煌々として雪白せっぱく食卓布テーブルクロスの上一杯に、紫羅欄花あらせいとうやチューリップ、ダアリアなぞの飾られた広い森閑がらんとした食堂で、たった一人でナイフを動かしている侘しさを身にしみじみと感ぜぬわけにはいかなかった。たとえそこに坐っていて私と一言も口をきいてくれぬでもいいし、また口をきけば二言目には冷たい嘲笑を頬のあたりにうかべる、あの側へも寄り付けぬ怒りを現した態度であってもいいから、ついその花陰に、ドローレスが坐っていてくれさえしたならば、この食堂もさぞかしもっと温味のある居心地のいい食堂になったであろうに、なぞと思わずにはいられなかったのであった。
 そして主婦を欠いた食堂の冷え冷えとして胴震いのしそうなほど空虚な広さを、今更のように見廻さずにはいられなかったが、私と妻とのこうしたいびつな気持は召使たちにも逸早く感ぜられたものであろう! 私がスープをすすりフォークを使っている間中、調理場と食堂の間を往きつ戻りつ手持無沙汰そうにかしずいている給仕頭のガルボの眼にも、また廊下の往き戻りに逢う小間使のテレサの瞳にも、気の毒そうな色がありありと泛んでいるのであった。まるで妻の外出が彼らの責任ででもあるように、そして私に何か問われるのを恐れてでもいるように、絶えず彼らは身をすくめて、私の視線を避けているらしいのであったが、それがまた私にとっては、何とも言えず彼らから憐れまれているような、嘲笑されているような気持がして、喉までこみ上げてきても、「奥さんはどこへ行かれた?」と彼らに一度も聞いてみたこともなかったのであった。
 ……いいや、そんなことを聞いてみるどころか! むしろ私の方から召使たちに顔を合わせぬように、我が家でありながら廊下一つ通るのにも、なるたけ彼らのいない隙をうかがって逃げるようにして通り過ぎていたのであった。そしてそうした私にとって、一番に心の休まる落ち付いた場所というのは、階下の一番奥まったところにある私の書斎なのであったが、ここに納まって扉をピッタリと閉して、緑色の窓掛カーテンを深々と垂らして、スタンドに灯でも入れて、さて椅子にどっしりと腰を埋めて、愛用のダンヒルから立ち昇る煙を楽しみながら、新刊の経済書でも手に取った時が、今の私にとって一番に心のくつろぐ時なのであった。
 もちろんそうした書籍に眼をさらしていたからとて、心のどこかでは妻の帰りが気になって、絶えず玄関の植込みへ滑り込んで来る自動車の音ばかり聞き耳を立てているのであったから、昔のまだ独身ひとりみ時分のように読んでいる書物の中に、身も魂も打ち込むということはできなかったが、それでもまだこの方法が酒もたしなまず賭事も好まず、さりとて倶楽部へ行くことも嫌いな私にとっては、一番に心の休まる方法なのであった。いくら私が帰りを待っていたからとて、もちろん妻は私のところへなぞ顔出しをして帰って来た挨拶をするわけではない。さすがに跫音あしおとだけは深夜の空気をはばかって、高いかかとでコツンコツンと階段を上って行くのであったが、その跫音は一直線に自分の寝室へと引き取ってしまうのであった。が、それでも私にとっては妻が帰って来て、この同じ屋根の下に今眠っていると考えることが、一種の安心とも付かなければ落ち付きとも付かぬ気持を与えて、それからは読んでいる本の活字もしっとりと頭にはいってくれば、また私も安心して階上の寝室に引き取って眠りも取れるという工合なのであったが、さて満たされぬ悩ましさは、なまじいにその水々しい姿態を朝夕見ているだけに、この頃の私にとってはいよいよ痛切堪え難きものとなってきたのであった。
 今でも心にえぐり付けられて忘れられないのは、その頃のある晩であった。小糠こぬかのような雨が生暖かいむんむんするような春の気を部屋一杯に垂れ込めて、甘酸っぱい梔子くちなしの匂いが雨に打たれて、むせぶように家の中じゅうに拡がっていた。例によって夜更けまで本を読んで寝に就いたのであったが、その神経をとろかすような甘い匂いが鼻を衝いて、何としても眠られず、枕許のスタンドを消したり点けたりして輾転反側していたが、眼はますます異常に冴えてきて到底このままでは眠れそうにもない。
 寝台ベッドの上に懊悩しているのも堪え難く、仕舞いには上靴スリッパをつっかけて、私は寝衣ねまき姿のまま、寝室の中をグルグルと歩き廻っていたが、ええクソー! 思い切って自分のこの富の力をもって、妻に優るとも劣らぬ若い美女を一つ手に入れて、妻の鼻を明かしてくれようかとも考えぬではなかったが、そう思う横から意気地なくも眼の前に泛み上ってくるのは、今私に白い眼を見せている妻の美しい姿態であった。冷たく装いながらも豊艶なししむらの、しかも豊艶な臠のくせに犯し難い気品を見せて、人妻の艶かしさを処女の慎ましさに包んでいるような妻の顔……それが……その喉の下にポツンと一つ小さく付いている黒子ほくろまでが、何ともいえぬ蠱惑こわくと悩ましさとをもって、私をうずかせてくるのであった。
「ええ俺の欲しいのはそんな金で買えるような女たちではない。金で身体を任せぬ、あの気品の高い妻の肉体だけが手に入れたいのだ」一瞬間立ち止まってうめくような気持で、私は頭を掻きむしったが、この瞬間ほど私は妻を心から憎いと思ったことはなかった。しかも同時にもし許してくれるならばその寝台ベッドの前に平伏してどうぞこの上俺をじらさないでくれと哀願したいほど苛だたしさ可愛さを、心一杯に覚えずにもいられなかったのであった。しかもその憎い苛だたしい愛らしい妻は今眠っている。健康そうな寝息を立てて眠っている。柔らかな夜具に包まれて……この私の寝室からわずか三部屋を隔てたあの寝室の中に……到頭私は自分の寝室の扉を明け放ってドアの前に佇んだ。
 そして凝乎じっと妻の寝室の扉の方をにらんで突っ立っていたのであった。別にどうしようという考えがあったためではない。また何のために、こんな真似をしているのか自分にもそのわけはわからなかったが、わからぬながらにこうして突っ立たずにはいられなかったのであった。長い廊下の壁龕へきがんには油絵が懸って、大きな花瓶は枝もたわわに紅紫とりどりの花を乱れ咲かせていた。そして猩々緋しょうじょうひ絨氈じゅうたんが、天井からの電気に照り映えてこの深夜、最早召使たちもスッカリ眠り就いてしまったと見えて、邸中は闃寂閑ひっそりとして針の落ちたほどの物音とてもないのであった。この物凄いほどの深夜の寂寞せきばくみつめたまま、私はしばらく佇立ちょりつしていたが、やがて溜息をして再び扉を閉めようとした途端、思わずギョッとして歩を止めた。
 どこからかヒソヒソと人の話し声が聞こえてくるような気がしたからであった。
 この深夜人の話し声が聞こえてくるとすれば、それは妻の部屋以外にはないはずであった。爪先立って二足三足跫音を忍ばせた途端、今度は明瞭にその声が聞こえてきた。
「あら違うわよう……悲哀トリステサ! まあ、厭だわ……ホホホホホ」
 低い声ではあったが、疑いもなく妻の声であった。ハハア妻もやっぱり眠られずに悲哀トリステサとふざけているんだなと思った途端何とはなしにほっとしたが、次の瞬間大急ぎで扉を閉めて、私は寝台へ駈け上るや否やパチンとスイッチを消して、耳を抑えながら突っ伏してしまった。
 何という柔らかな柔らかなとろけるような妻の声であったろう。結婚以来未だかつて一度も私は妻の口からこんなにも夢見るような恍惚うっとりした声を聞いたことはなかった。あの取り澄ました権高い妻のどこから出るかと思われるほど、それは甘い甘い絶え入るような声、そして溶け入るような含み笑いであった。しかももしこの甘い声をもう一度聞いたならば、その人恋しと思っている私の理性は、たちまちたがを外して、年甲斐もなく鍵を掛けた妻の寝室の扉に体当りでもしかねまじいのを、自分ながらハッと恐れたからであった。

闖入


 寝苦しいその夜も明けると、妻は相変らず冷厳な近寄り難い気品を漂わせつつ、朝餐の卓に坐っているのであった。あの顔のどこから、あんな世にも甘い蕩けるような声が出るのかと、解けぬ謎でも解くような気持で、私もまた難しい容儀を整えながら燕麦粥オウトミルを啜り、ハムエッグを切り、麺麭パンをちぎりつつ新聞を読み、商況欄に眼を移しているのであったが、眠り足りた妻の若々しい頬には何の暗いかげとてもなく、まったく照り輝くような美しさであった。そして私も言葉を控え目に、やがて車に乗って出勤するのであったが、さて銀行が退けて、夜がくると、またもや疼くような懊悩を催してくるのであった。殊に昨夜ゆうべ犬と戯れているあんな甘い言葉を聞いたことが、妙に私の胸を躍るようにえぐって、あの声を聞くと眠られなくなると思いつつも、やはり寝台ベッドを滑り降りて扉の外に佇まずにはいられなかったのであった。しかし私の期待していたその声は聞こえてくる時もあれば、聞こえぬ晩もあり、聞けば聞いたで眠られず、聞かねば聞かぬで物足りなくて、妙に頭が冴え、このところまったく私も烈しい煩悩のとりことなり果てていたのであったが、さて、そうした夜がおよそ幾晩くらいも続いた頃であったろうか。
 ついに私は自分の扉の入り口に佇んだだけでは気が済まず、思わず二足三足跫音を忍ばせつつ……しまいにはその跫音を忍ばせることすら忘れて、妻の寝室の入り口近くまで歩を運ばずにはいられなかったのであった。そして到頭ある日の深夜であった。
「どうしたのようトリステサ、ホホホホホホ駄目じゃないの、ホホホホホホあらまあ! っうううううう」
 華やかな笑い声の中に、恍惚うっとりするような妻のうめきが交って、思わずギョッとして、私は顔色を変えた。相手は最早悲哀トリステサではないのであった。妻の呻きは低く低く、甘く甘く、ほとんど聞き取れぬくらいに微かではあったが正しくこれは囁きであった。相手の声は聞こえなかったが、もちろんそれは犬ではない、確かに相手は人間なのだ! そしてこれでこそ読めた、なぜ妻があんなぶざまな犬なぞを自分の居間に飼っているかが……女の浅はかな知恵の正体を今こそ見破ったと、私は思ったのであった。トリステサと戯れていると人には思わせつつ、その実妻は男を引っ張り込んでいたのだ。そしてドローレスにそういう男があったればこそ、なるほどそれで俺はこんなにも嫌われ抜いていたのだ。
 てっきり私はそう考えずにはいられなかったのであった。
 そして周囲を見廻して、相変らずげきとした深夜の廊下に、電灯のみが煌々と輝いているのを見ると、私は忍び込んだ男が、窓を破って二階から下へ飛び降りる以外にはどこからも逃げ出す口のないのを見定めておいて、真っ青な顔を硬直させつつ、強いて落ち付き払って妻の寝室の扉を叩いたのであった。
「あけなさい! ドローレス! 戸をあけなさい!」
 結婚以来初めて私は威厳に満ちた夫の声で呶鳴った。最早何のじ恐れるところもない。不貞の妻に夫として当然の権利の行使をするのだ。妻に裏切られた憤りと忿懣に口もきけぬくらい顔を痙攣ひきつらせつつも、私は力強い男の怒りに満ちた声を出した。しかし扉はすぐに開く様子もなかった。思いしか低い呻き声が、切なそうに途切れ途切れに聞こえてくるような気さえしたのであった。
「あけろ、ドローレス! 早く戸をあけろ!」
 私は苛立って破れんばかりに扉を叩きながら、足を挙げてドシン! と蹴り付けた。中からは低い悲哀トリステサうなり声が聞こえて、ようやく起き上って身仕度をしている様子であったが、それでもなかなか手間取って容易なことでは扉を明けようともしなかった。窓からでも男を逃す工夫をしているのではあるまいかと、私は真っ暗な鍵穴に眼を付けて室内の気色けはいに耳を澄ませてみた。
「早く開けないか、愚図愚図していると戸を蹴破るぞ!」
 声が私だとわかっていたのか! わからなかったのか! ともかく、誰かがガヤガヤと扉の前で騒いでいると思ったのであろう。恐ろしく手間取った挙句やっとのことで中では、電気を点けて犬の唸り声やガチャガチャと鍵を廻す音がしてきたのであった。
「なぜそんなにお騒ぎになっていらっしゃいますの……?」
と妻は半醒半睡でいるらしくつい今し方ほどではなかったが、それでもまだ夢の中のように甘たるく言葉をかけながら扉を開いたが、扉が開かれるのと私が飛び込むのとがほとんど同時であったため、誰が飛び込んで来たかがわからなかったらしいのであった。しかも鎖を解かれて低い唸りを立てて今にも飛びかからんばかりの悲哀トリステサは、飛び込んで来たのが私とわかった瞬間、たちまち尻尾を股に挟んで哀しげなき声を挙げながら、寝台ベッドの下へ逃げ込んでしまった。
 飛び込むと同時に、私はさっと寝台の背後うしろとばりを引きあけた。そうしておいてすぐ窓の方へ走り寄って、この方もまた二カ所ばかりの重い帷をさっと引いてみた。寝台の上の深々とした羽根蒲団をパッとめくり挙げてみて、返す足で寝台の横手へ駈け込んで、大きな姿見の付いた衣装戸棚を全部あけっ放した。寝台の枕許に据えてある六面鏡の大鏡台の観音開きをあけっ放して、すぐこの寝台に隣った次の控えの間への通路へ飛び出した。その拍子に寝衣パジャマの袖がそこに飾ってある支那製の螺鈿らでんの人形に触れたのであろう。バターン! グヮチャ、グヮチャ、グヮチャーン! と、台座と一緒に微塵になって人形の砕ける凄まじい音がした。しかも眼もくれずに手負い猪のようになって飛び込んだ控えの間へ通ずる扉には、ちゃんと鍵が降りて、そこの書棚の下、扉一切合切をあけ放ってみたが、別段何者も潜んでいる様子はなかった。
「鍵を出せ! さ、早く鍵を出せ!」
 男が逃げてはならぬと、およそこれらの動作を飛鳥のごとくに一瞬のうちに済ませた私は、勢い込んで妻に手を差し出したが、それまで扉をあけたまま茫然と入り口近くに佇んでいた妻は、呆気にられたように、狂気のような私の姿を眼で追うていたが、やっと眠気も去ったのであろう。そしてこの狂気のように飛び込んで家探しをしているのが私だとわかったのであろう。
「ま、貴方は!」と叫ぶといきなり、つと身を翻して寝台ベッドの枕許へ走り寄ると、そこに据えられたスタンドの小卓の上へ手を差し伸べた。
「何を失礼なことをなさるんです。何の真似です! 一体これは!」
 驚破すわといわば、スグその指の下の紐釦ボタンを押さんばかりの姿勢であった。紐釦を押せば、たちまち階下から小間使なり、女中なりが駈け上って来るのは必定であった。
「鍵を出しなさい! 鍵を」
 さっきから見れば、大分落ち付いてはきたが、それでもまだ眼をいからせながら手を突き出している私の剣幕に度胆を抜かれたのであろう。明らかに不快と怒りを眉の間に走らせつつも、妻は手にしていた鍵束を無言で私に差し出した。ガチャガチャと控えの間への扉を開くと同時に、私はパッと電気スイッチを入れてみた。すぐ隣りの居間を仕切る境の帷をも、勢い込めて引いてみた。しかしこの部屋も隣りの居間も、整然として誰一人潜伏しているらしい形跡もないのであった。それでも長椅子ソーファ背後うしろ、装飾戸棚、暖炉横の洋琴ピアノの陰、窓のカーテンの脹み、箪笥の扉、ありとあらゆるところはことごとく調べてみた。
 意気込んだ私の身内から次第次第に力の抜けてゆくのが感じられた。そして取り返しの付かぬ恥辱を妻に与えた私の軽率さと失敗とが、競い込んだ私の気持を一刻ごとに冷やしてきた。もうそこには、妻の小社交室へ通じる、嵌文細工モザイクの道しか残された部屋はないのであった。そしてもう、私にもその部屋を調べるほどの元気はない! 私が扉を蹴飛ばしてから妻が扉を開くまでの間に、それだけの工作をする時間的の余裕ゆとりなぞが、妻にはなかったであろうことは明白なことであったし、第一今夢から醒めたように佇んでいるあの冷静な妻の態度、少しの乱れもない妻の寝台の模様なぞから見ても、ここに何の変りがあったと考えられることであろうか。
 浮かぬ顔をしてスゴスゴと戻って来た私が、どんなに極まりの悪い思いをして、女王のごとくに冷然とし厳然としてさっきのままの姿で佇んでいる妻の前へ戻って来たかは、最早くだくだしく書き立てずとも、読者には諒解の付くことと思われる。この時ほど、私は妻に近寄り難い威厳を感じたことはなかったのであった。
「何事が始まったのでございましょうか? これは一体……」
「いやソノ……なに……悪く思ってくれては困るのだ……どうも……つい……ソノ……」
「つい……その……どう遊ばしたのでございましょう?」
「私は、実にどうもソノ、申訳ないと思っている。……何と言ってお前に謝ったらいいか……私にできる謝罪なら、どんな謝罪でもしてと……私は……」
「謝罪だとか、申訳ないとか、そんなことをおっしゃっても私には、少しもわけが飲み込めませんが、何かそんな私にお謝りにならなければならぬようなことでも、なさいましたのでしょうか?」
「実はその……私を許してもらいたいと思っているのだ……私は実に重大な侮辱をお前に与えたと……ソノ」
 今更ながら年甲斐もないことをしでかした後悔が、またぞろ夢から醒めたように、私の心を噛んで、冷たいものが両の脾腹をビッショリと潤してくるのを感じた。しかも妻は私の差し出した謝罪の手を握ろうとするでもなく、冷たい面を一層冷たく輝かせながら、そこいらの取り散らした残骸を、ジロリと意地悪く見渡した。すべてがまったく冷たいという、一語に尽きるのであった。しかも一瞬の間に誰がこんなに取り散らしたかと思うくらい、磨き清められた室内は乱暴狼籍を[#「乱暴狼籍を」はママ]極めて、私は返す返すも穴あらばはいりたいほどの気持……そしてこの瞬間妻に飛び付いてその眼を掩いたいほどの、堪らなさを感ぜずにはいられなかったのであった。
「……貴方のお立場を考えますから、私手をこうやってはいましても」と妻はスタンド台にかけている白魚のようにたおやかな指を動かして見せた。「押しはしませんの。もしテレサでも来まして、この様子を見ましたら何と感じるでございましょうか?」
「……恥ずかしく思ってる……」
「つまり御自分の妻というものをお信じになれないのでございますわね」
「そ、そう誤解されては困るのだ。決してそんなわけではない……信じないどころか! 私は深く深くお前を愛して……それなればこそ……」
「いいえ、結構でございますわ、そんなことを伺いませんでも、御疑念がお起りでしたら、またいつでもどうぞ! ともかくお疑いがお晴れになりましたら、これでお引取りになりましたら? 跡を片付けさせますから」
「そ……それでは困るのだ。私がお前に重大な侮辱を与えておきながら私の疑念が晴れるとか、晴れんとか……そんなところではない。私はどうかしてお前に許してもらいたいと……」
「許すも許さぬもございませんわ。妻ならば夫に疑念がお起りの時はどんな目に遭わされましたからとて……」
「そ、そんな風にお前考えてくれては実に困るのだ。決してそんな意味ではない……お前……」と私はしどろもどろであった。「私は許してもらいたいのだ。お前から一言許すと言ってもらいたいのだ」
「ま、いいじゃございませんの、そんなことはどうだって! それよりもお気持がお晴れになりましたら、さ、お引取りになりましたら? 夜も大分けておりますし………」
 とついに妻は最後まで、謝罪に差し出した私の手を握ろうともしなければ、私の望んでいる許すという言葉を与えようともしなかった。
 表面はどこまでも自分を下に置いた、円滑な言葉を用いながらも、一皮剥けば烈しい憤りを籠めた皮肉な措辞を列ねて、最後まで私と折り合おうとはしてくれなかったのであった。そこには私をして、永久に自分のこの失策で妻に頭の上らぬように、近寄ることもできぬくらいの障壁が設けられ、その障壁の向うに、妻は自己の立場を優越に保持しようとしているのであった。
 しかも、長年社交で練り上げた妻の方が、比較にもならぬほど役者は段違いであった。赤面しながら訥々とつとつとして口籠っている私なぞには、到底歯の立とうはずもないことであった。初めの勢いはどこへやら、私は這々ほうほうていで妻の部屋から出て来たが、まったく虎の※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとのがれたというか、腕白小僧が母親の許から逃げ出して来たというか、っとした気持の中で、さて明日の朝から、またもや妻の前に頭も上らぬ自分の惨めさを考えると、また新たなる赤面でかっと身体をほてらせてきたのであった。

恐喝者


 さすがにこの大きな失敗は私にもつくづくと、自分が一家のうちに占めている位置というものと年齢とを考えさせて、二度と再び深夜に妻の寝室をうかがうぶざまさだけは、慎ませていたが、さえそれから一、二週間も過ぎた時分であったろうか。
「このお手紙はどういたしましょうか?」と女秘書が、ある朝私の机の上へ差し出したのは、私のかつて名も知らぬ男から寄越した手紙であった。宛名はバルセローナ銀行頭取ロドリゲス・アレサンドロ殿として、紛れもなく私に宛てた書信であったが、差出人はジェラルドウ・サルヴァドールという、私の記憶にもなければまた聞いたこともない名前、その住所のヴィザケーヤ街というのも、私には馴染みの薄い場末町であった。
 不審に思いながら執り上げたその手紙の内容は、酷く粗末な紙に恐ろしく誤字だらけの拙い字で、貴殿にお眼にかかってお耳に入れたい重大事があるが、折り返し会見の日と場所と時間とを指定していただきたい。なるべく人目にかからぬ場所を御指定になるよう。これは貴殿御家庭上の重大な事件であり、貴殿の御名誉にもかかわることであるから、至急お逢いになった方がくれぐれも貴殿のおためであろう、といったような意味のことがたどたどしい文字で繰り返し繰り返ししたためられてあった。
 今までにも私はこういう種類の手紙を受け取ったことがないではなかった。銀行なぞというものは、世間の信用ばかりに気を遣うものであったから、ちょっとした悪い噂を立てられても、多大の迷惑を蒙る場合があった。そういう弱味に付け込んで、さも重大そうな手紙を寄越す。逢ってみると、埓口もない針ほどのことを棒大に言い立てて、金をせびり取ろうとするのであった。それに応じないと見ると急に居丈高になって私から金を出させようと恐喝したり、あるいは自分の窮状を並べ立てて若干そくばくの無心をしたりする。こんな手合いに一々かかり合っていたのでは、頭取の身体なぞ幾つあっても足りるものではなかった。
 その煩に堪えなかったから、こんな手紙は一々秘書の手で適当に返事をして、それでも押し太く面会を強要してくるものは支配人のマジャルドーの手によって処理するよう命じておいたのであったが、貴殿御家庭上の重大事であり、御名誉にも関係する問題云々というのが、秘書にも独断で処理が付きかねたのであろう。そして同時にその数文字が、また私にも何となく普通の用件とは異った種類のものたることを感じさせたのであった。
「そうだな、これは私が自分で処理せずばなるまいな」と私はその拙劣な手紙を眺めながら凝乎じっと考えていたが、ともかくも逢ってみようと決心したのであった。日は明後日、時間は午後の三時から……場所はラムプラス裏通りの銀行倶楽部三階の特別応接室、そこでお待ちすることにする……パチパチパチと秘書はタイプライターを叩いていたが、
「では、ギレルモにもそう言っておきまして?」と起ち上った。
「そう……ギレルモにもそう言っておいてくれるといいな」と私は言ったが、ギレルモというのは守衛代りに使っている銀行の用心棒、身のたけフィートインチもあって鼻のつぶれた拳闘選手崩れであったが、こういう見知らぬ人間との会見の時には、いつでも拳銃を持って隣りの部屋に潜ませておくことにしていたのであった。そしてこういう会見の時の用意に銀行倶楽部のこの特別応接室というのは、特に私の坐っている安楽椅子の左足の踵の当る辺の床に、紐釦ボタンが出ていてこれを踏みさえすれば、隣室に忍んでいる用心棒が私の背後のたつを排して、ニュウッと現れる仕組みになっていたのであった。
 さて約束のその日、銀行の仕事も終えると私はラムプラス裏通りの銀行倶楽部へと車を駈ったが、さて妻のドローレスだけには手を焼いても、こういう手合いには充分慣れ切っていることであったから、今更どんな人間が現れるかと胸を躍らせるほどのこともなく、一杯のマンザニーラ酒をちびりちびりと干しながら、ついでに隣室にうずくまっているギレルモにも、一杯の葡萄酒ブイノを取ってやって、備え付けの新聞の表を返し裏を返して読みふけっている頃に、給仕ボーイが来客の入来を報じて来たのであった。
「よろしい、ここへ通してくれ」と私は新聞を下に置いたが、給仕ボーイに案内されてはいって来た男を見ると、さすがにっと心の中で叫ばずにはいられなかった。そこに極まり悪そうに幾分ひし堅くなって入って来たのは、なんと……ついこの二、三日前まで私の家に働いていたガリアナ・ホセという年頃二十二、三になる園丁なのであった。
「なんだ! 手紙を寄越したのはお前だったのか?」と私は思わず身を乗り出した。「お前ならば、なにもこんな手数をかけさせずとも、家で話してくれたらいいじゃないか」
「ところがそうはいかねえ事情がありやしたんで……旦那、あっしゃもうくびでやんすよ」
「馘? 馘とはなんだ?」
「これでさあ!」とホセは自分の頸部へ手を当てがって、鋸で挽く真似をして見せた。
「私はお前をめさせた覚えはないが、誰が解雇した?」
「そんなことをお聞きになるがものはありやしませんや! 誰がした彼がしたって……そんなことをなさるのは奥様に決まってまさあ!」とホセは自暴自棄やけくそ半分のようなせせら笑いをうかべた。
「旦那は奥様にゃ頭が上んなさらねいから、お邸ん中のこたあ何にも御存知ねいが、ちょっとでも奥様の御機嫌をそこねりゃ、今日きょうびたちまちこれでさあ!」とホセはもう一度頸へ手をやった。「あっしばかりじゃねいんです。ガルボの奴もこれになりやした。おまけに奴ときちゃ、奥様から悲哀トリステサけしかけられて、向うずねと頬ッぺたに喰い付かれやがって、ウンウン唸って寝込んでる始末でさあ!」
 給士頭のガルボも、園丁のホセも、この三、四日、妙に姿を見せないと思っていたら、揃いも揃ってアッサリとドローレスの手で解雇されていたのであった。しかもドローレスが悲哀トリステサを嗾けて、ガルボが怪我をして寝込んでいるというに至っては、まったく唖然として、私は開いた口が塞がらなかった。しばらくは茫然として、ホセの顔ばかりみつめていた。
「旦那、内々で少しお耳に入れてえことがありやす」
「…………」私は黙って頷いた。もうこうなってはこの男の方に話がないと言っても、私の方で一応この男から話を聞いてみぬことには、この初耳の事件の合点がいかぬのであった。「まあ、かけるがいい……ところで話は早いがいいと思うのだが、一体どうしたというわけなのだな? 何が何やらとんと私には納得がいかんのだが……」
 しかしホセは急に黙り込んでモジモジと中腰で椅子にかけながら、クタクタの帽子をの中で揉んでいるだけで、なかなか話の緒口いとぐちを切ろうともしないのであった。
「実はガルボの奴も連れて来ようかと思いやしたんですが、奴はどうもこんな恰好で旦那にお眼にかかるなあ、工合が悪いってんで、あっしの家へ待たしてありますんで」
「…………」もう一度私は黙って頷いたが、途端にホセは不安そうに眼を光らせて、またもや口をつぐんでしまったのであった。
「それで? ズンズン話すがいい」と私は先を促した。
「旦那、いかがでやんしょう?」と急に決心したように、突拍子もない声を出した。「もしあっしの申し上げることが、旦那のおためになることでやして、もっともだと旦那がお思いでしたら、一万五千ペセタ下さいやしょうかね?」
「もちろんそれは、私のためになることであって、私がそれだけの値打ちのある話だと思えば、一万五千が二万ペセタでも惜しみはしないが……しかしどんなことだか話してみなければわからんではないか」と私は微笑んだ。
「そう硬くなってないで、一つズンズン話してみたらどうだな? ……何なら一杯、気付けでも取ってやろうか?」
「旦那、真平でやす。この話の済まねえうちに酒なんざあ……」とホセは慌てて手を振った。いよいよちぎれんばかりに帽子は掌の中で揉みほぐされているのであった。一万五千ペセタなぞと、どこから割り出して途方もない値段を付けて来たのかわからなかったが、つい二、三日前までの主人を恐喝しようと企みながら、その悪党の柄にもない初心うぶらしい様子に、思わず私は肚の中で笑い出さずにはいられなかった。
「……それで?」
「それで旦那、奥様のことでやす」とホセは喉の乾干ひからびたような声を出した。精一杯に一万五千ペセタになる陳述をしようという意気込みであった。そして私はもちろん、この男が――妻によって解雇された園丁風情の男が、給仕ボーイ頭くらいの者に入れ知恵されて持って来た話というのは、たかだか気位の高い妻の讒訴ざんそをして愚痴をこぼすくらいのものだろうと、そして話し終ったらせめて百ペセタか二百ペセタくらいも恵んでやろうかと考えていたのであったから、そう身を入れて聞いているというわけでもなかったのであった。
「旦那、奥様あ犬を抱いていられるでやす」とまたホセの奴は乾干びた声を張り上げた。
「それがどうしたというのかね?」
「ああ旦那は何にもお知りなさらねい。旦那こりゃ容易ならねえ話でやすぜ。旦那あ引っ繰りけえりなさるだから」とホセはうまく言い現せないで、身悶みもだえせんばかりの様子であった。
「だから何にも話を知らんのだから、お前がよく私に飲み込めるように筋道立てて話をしてくれたらいいじゃないか。……私に得心さえいけば金をやろうと言ってるじゃないか。……そこで家内が悲哀トリステサを可愛がってると……それは私にもよくわかっているが、それが一体どうしたと言うんだね?」
「旦那、奥様は悲哀トリステサを可愛がってなさるんじゃねえんでやす。奥様あ悲哀トリステサを抱いてなさるんでやす」
 結局私は、この骨の折れる恐喝者のために強いアブサンの一、二杯を取ってやった。そして、言いたいことがあったら、私を以前の主人だと思わずに友達だと思って話して御覧! と言葉優しく説き勧めたのであったが、毒薬でもあお[#「呻る」はママ]ような恰好で、そのくせ喉を鳴らして舌めずりしながら流し込んだ強烈なアルコオルの一、二杯がこの男の硬張こわばっていた舌を滑らかにさせたのであろうか、ホセの話はやっと板に乗ってきたのであった。が、それと同時に私は今更に唖然として、いよいよもって開いた口が塞がらなかった。なんという奇怪至極なホセの話であったろうか!
 怪奇ともそれはたとえようのない……未だかつて私が人から聞いたこともなければ、また物語の本で読んだこともない話! しかもそれを今現に私の妻ドローレスは悲哀トリステサと行っているというのであった。
「…………」ホセの顔を瞶めたまま私はとみには言葉も出なかったが、仕舞いにはあまりの荒唐無稽さに、腹を抱えて笑い出してしまった。
「バ……莫迦なことを言うんじゃない! 冗……冗談もいい加減にせんか!」
 腹が立ったというよりも、不愉快になったというよりも、私はあまりの莫迦莫迦しさに、涙を溜めて笑い転げたが、その私の態度がせっかく競い込んで話しているホセには、腹立たしかったのであろう。
「旦那! 笑いごとじゃごぜえやせん」と不快そうに顔をしかめて、どっちが主人だかわからぬ声を出した。
「今はそんな呑気なことを言って笑ってられやすが、ま、あっしの申し上げることが、根もねえ嘘かほんとうか、とっくりと一つ調べて御覧なせえやし。旦那あ、眼廻して引っ繰りけえってしまえなさるだから」
 そしてホセの話はいよいよ微に入り、細を穿うがっていくのであった。……いつの何日の晩には、こういうことが給仕頭のガルボの眼に映ったとか、ガルボの言うのにはこういう話であったとかいうようなことが際限もなく続いてゆくのであった。
「…………」
 せっかく真剣で話している相手の気持を考えると、そう無下に頭から笑ってしまうわけにもならず、さりとて話はあまりにも奇々怪々を極め、私は渋面作って頷きながら耳を傾けるだけは傾けていたが、しかし何としてもこれは信ずべくあまりにも莫迦莫迦しい限りであった。いかにも何ぼ何でも、人間としてそんな莫迦莫迦しいことがあり得るものであったろうか? いわんや伯爵爵夫人で[#「伯爵爵夫人で」はママ]あったあの美しい妻が……あの気位の高い妻ドローレスが……あんな醜いぶざまな悲哀トリステサと……私にとっては、ただもう莫迦莫迦しいという外には、何と表現のしようもない話であった。
「奥様はあの犬に悲哀トリステサなんて名をくっ付けてなさるが、何が悲哀トリステサかってんでさあ。あの犬は奥様にとっちゃ、歓喜アレグリアってえところでさあ!」とこれでやっと奇怪を極めたホセの長物語も終りを告げたのであったが、あまりの莫迦莫迦しさに腹の中で苦笑し続けであった私にも、たった一つだけ笑うことのできなかったのは、このホセの話の中に出てきた給仕頭のガルボの解雇ということであった。給仕頭風情の者が、妻の怒りに触れて解雇されようがされまいが、そんなことは何も私にとってさほどの問題でもなかったが、ただ聞き棄てにならなかったのはその解雇された理由なのであった。
 すなわちホセの語るところによれば、邸の中で妻と悲哀トリステサとの情事を知っているのはただガルボ一人だけであって、しかもそのガルボはこの情事を嗅ぎ付けたのを奇貨くべしとして、あろうことかあるまいことか! これを種に妻に恐喝を試みて情交を迫ったというのであった。しかも人並外れて気位の高い妻が、そんな下剋上の恐喝なぞに一顧だに払うはずもなく、かえって手酷しく一言の下に一蹴され即座に解雇を申し渡されてしまった。それでもまだ執拗しつこく掻き口説いたのが妻の癇癖に触れて、「悲哀トリステサ! この身の程知らずを噛んでおしまい!」と烈しく犬をけしかけられて……それがガルボの大怪我をした原因だというに至っては、最早私も莫迦莫迦しいと、腹を抱えてばかりもいられなかったのであった。
 無知文盲なこんな園丁風情の言うことが、真か偽かはわからなかったが、たとえ話半分に聞いていても醜怪とも醜悪とも言おうようのないことであった。これではバルセローナ銀行頭取の家庭は、まるで動物園であった。これこそ妻の言い草ではなかったがまったく動物園さながらと言うべきであった。そして今にも物見高い世間がこんなことを知ったならば、どんな尾鰭おひれを付けて取沙汰せぬとも限らなかったであろう。それこそ世間は真偽いかんも確かめぬうちに、バルセローナ銀行頭取の邸を、百鬼夜行の紊乱びんらんし切った家庭として、全西班牙エスパニヤ中に喧伝してしまうであろう。これというのも、妻があんな下らぬ犬なぞを、居間に繋いで可愛がっているからこそ、こんな途方もない臆測を受けなければならんのだと、私は苦り切って考えていたが、こんな取り留めもないことを、もち込んで来ている無知な連中よりも、何にも知らずに犬を居間に飼って戯れている妻の方に、より大きな憤ろしさを覚えずにはいられなかったのであった。
「もういい……もういい……大体わかった、お前たちの望んでいることも」と到頭私は堪らなくなって世にも奇怪なこの取引に終止符を打ちたくなってきた。
「よろしい、出そうじゃないか、一万五千ペセタ。お前のその親切心とガルボの怪我の見舞いに出そうじゃないか。しかし私にしてみれば、一体この話がほんとうのことか、根も葉もない出鱈目でたらめなのか、それが判然せぬうちは出す気持が起らんな。もしお前の言うことが根も葉もないことであったならば、金を出すどころか! 私が訴えたら、反対にガルボとお前がどんな目に遭うか、それはお前にも見当が付くだろう? 相当な家庭の名誉を傷つけた恐喝罪として、まず十年くらいの懲役は免れまいな」
「そ、そんな莫迦なことが! 旦……旦那」と案に相違して、眼ばかりパチクリさせているホセの奴に、
「莫迦なことでも何でも法律だから仕方がない」と私は頭ごなしに一喝してしまった。
「が、せっかくお前の親切に対してそんな野暮なことはせぬ。気持よく金は出そう。しかし今は出さん。お前の話がほんとうだとわかった時に出すことにしよう。ともかくここにこれだけある」
 とふところに持ち合せていた三千ペセタだけをホセの前に並べてくれた。
 そして一万五千ペセタが三千ペセタになって気抜けのしたようなこの初心うぶな恐喝犯人を適当に追っ払ってしまったのであったが、三千ペセタでも、もらわないよりは貰った方がましだと考えたものか、大した凄文句すごもんくも切り出し得ずにコソコソと退散して行くこの男の後ろ姿を、蒼茫と暮れてゆく夕の町の建物の遥か下の方に眺めながら、苦虫を噛みつぶしたような顔で葉巻をくゆらせていた私が心の中で考えていたことは、もちろんホセの話がほんとうか嘘かを思案していたわけなぞでは毛頭もなかった。そんなことなぞは頭から信じもしなかったが、こんな下らぬ奴から下らぬ話を聞かされるというのも、結局は妻と私の間がピッタリせぬからこそ起ってくるのだと思うと、それがただ譬えようもなく苛立たしくて腹立たしくてならなかったのであった。
 そしてお前のお陰であんな下らぬ奴らから、こんな下らぬ話まで聞かされたではないかということを、やんわりと妻に言ってやらなければならないが、あの冷たい権高い妻にどういう風に言ったらとっくりと飲み込めるように話せるものだろうかと、それをまことに、苦手に思わずにはいられなかったのであった。

マルセ・モネス探偵


 とつおいつ考えながら、私は家へ戻って来て例のとおり、召使たちの視線を避けるようにして、そそくさと書斎へ引っ込んで凝乎じっと考え込んでいたのであったが、もちろん何としても、私にはあの園丁の言った話がほんとうのこととは思われなかった。そしてこんな家庭内の紊乱した噂が世間へれるのを、危ういところで食い止めたからよかったようなものの、今後は再びこんな忌まわしい噂なぞの立てられぬよう、妻にも話して充分注意させなくてはならない、と考えていたのであった。
 が、そう思う横から、しかし何ぼ何でもまんざら根も葉もないことを、いくら無知な彼奴きゃつらとても主人たる私のところへ持ち込んで来るはずもなかろうし、幾分かはほんとうのことかな? という疑念も萠してくるのであった。なるほど今までは気が付かなかったが、ガルボは妻が解雇してしまったと見えて、こうやって私が帰って来ても扉をあけて出迎えるのも、今また珈琲を運んで来たのもことごとく給仕ボーイのユアンなのであった。してみるとホセの話したガルボのことも、いくらかはほんとうかな? という気がしてこぬでもないのであった。
 そしていつもならば、おそらく召使たちには顔を背けていたであろう私もこの時ばかりは、ふとそれを聞いてみずにはいられないような気持がしてきた。最早とっぷりと暮れ果てて真っ暗な庭の木立を窓の向うに透しながら、灯を点けることも忘れ窓掛カーテンを引くことも忘れて、凝乎じっと私は椅子にもたれていたが、「旦那様、お食事のお仕度が整いましてございます」とユアンのはいって来た時、
「奥さんは?」と訊ねてみた。
「ちょっと……お出掛けになっていられますが」とユアンは当惑そうに口籠った。そして逃げるようにして部屋を出て行こうとするのを呼び留めて、
「ガルボの姿が見えないようだが、どうかしたのかね?」と何気ないていに聞いてみた。
一昨々日さきおとといあたりから、ちょっと宿下やどさがりをいたしておりますが」という返事であった。
「どうして……?」
「……どうしてでございますか……私も詳しくは存じませんのですが」とユアンは一層困ったように口籠った。「……何か悲哀トリステサに噛まれましたような話でございましたから、それで宿下りをいたしましたのではございませんでしょうか?」
「……そうか」
「……お食事のお支度ができておりますから」
「よろしい……スグ行く!」
 これでユアンは、逃げるようにして部屋を出て行ったのであったが、妻に話してその注意を促したものかどうか……まだ何とも私には決定が付きかねたのであった。
 そして決定の付かぬままに、食堂へ行って相変らず一人っきりで、ボソボソと夕食をしたためたのであったが、その夜の食事のなんと殊に、ろうを噛むように不味まずかったことであろうか。一口食っては考え、考えながらまたフォークを動かし、どう処置したらいいかに考えあぐね切っていたのであったが、やはりホセの言ったことの一部は事実であった。
 ガルボは悲哀トリステサに噛み付かれたのであった。悲哀トリステサに噛み付かれたという以上は、もちろん妻が怒りのために悲哀トリステサけしかけたに違いなく、妻がそれほどまでに怒ったということは、やはりガルボが身分をもわきまえず、妻に無礼を申し込んだと見るの外はなく、してみるとホセの言ったことは言葉はがさつであったが、まんざら根も葉もない偽りを持ち込んで来たということにはならないのであった。まんざら偽りでないということになってくると……妻はやはり……悲哀トリステサと……何らかの関係が……?
 私はがらりとフォークとナイフを投げ棄てた。あの冷たいまでに艶美な妻が、あろうことかあるまいことか! そんなけがらわしい真似をしていると考えると、眼の前が真っ暗になったような気持がして、思わず私は眩々くらくらっとした。最早我慢にも、食事をしている気にはなれなかった。今にも外出先から戻って来たら、妻を責めて責めて責め抜いて、一思いに醜い事実を白状させてやりたいような残忍な気持がムラムラッと起らぬでもなかったが、同時に妻のあのツンとした権高い顔を考えると、もしそうでなかった場合には、たださえ悪化している妻と私との間は最早永遠に絶望の状態に陥って――この上にもない侮辱を私は妻に与えることになり、妻は早速離婚の訴訟を私に向って提起して、私は金に換えられぬ大切な妻を失ってしまわなければならぬ。
 しかし、永遠にあの妻を失ってしまった後の荒寥落莫たる自分の生活を想うと、また別種の暗憺あんたんたる絶望が襲うてきて……私は思わず頭を抱えてうめきを挙げずにはいられなかった。が、その気持の中で咄嗟とっさに、こうして苦しんでいるより、いっそのこと、探偵事務所へ行って、明らさまにこの問題を告げて、解決してもらおうという考えが湧いてきたのであった。
 そして明日という日を待ち切れずに、その夜スグに車を言い付けて、イスラ・クリスティーナ街へと走らせたのであった。深い交際はなかったが、私が会長をしている快走艇ヨット倶楽部の会員であるという関係から、私はここに事務所を構えているマルセ・モネスという秘密探偵を知っていた。そしてこのマルセ・モネス探偵は西班牙中でも最も名声のある一流の腕利きであるということをも、兼ねて耳にしていたのであった。今の私には、探偵に頼んでその判断を徴する以外には、このいても立ってもいられぬ気持のスウッとする方法を外に知らなかったのであった。
 探偵事務所のあるキャセレス・ビルの前に車を停めて、その急な階段を登って行く時に、私は今しも階段の上に見える部屋の灯が消えて、そこから降りてくる四、五人連れの黒影とれ違った。
「失礼ですが」と擦れ違いざまに、その四、五人連れの中の肥った一人が、錆びた声をかけた。「マルセ・モネスをお訪ねになるのと違いましょうかな?」
「そうです、マルセ・モネス事務所へまいろうと思っているのですが」
「はなはだ失礼ですが」とその錆び声が、もう一度鄭重ていちょうに言った。「少し事情がありまして、新規の御依頼はお受けしないことにしておりますが……殊に今夜は、もう事務所を閉めましたし」
「そうですか……取り扱ってはいただけなくなったのですか……」
「まことにお気の毒ですが」
「では、……仕方がありません」
 言わん方なく落胆がっかりして、張り詰めた気持の持って行きどころもなかったが、断られたのでは仕方がない! 私は会釈して、また悪い足に調子を取りつつ、ゴトンゴトンと階段を降りかけたが、私を見送っていたらしいその錆びた渋い声が、またもや言葉をかけてきた。
「ロドリゲス・アレサンドロさんではいらっしゃいませんか?」
「そうです、アレサンドロですが」
「おう! これはこれは……失礼しました。私マルセ・モネスです。どうもお姿が、会長さんらしいと思いましたが、やはりそうでしたな。……何か御用でも?」
「少し御依頼したいことがありまして、……実は」
「おう! そうでしたか……それでは……」と探偵はそこに佇んで、ちょっと思案するように周囲の黒影を見廻したが「では、ロザリオ君だけはちょっと残ってくれたまえ! 外の諸君は、帰ってよろしい。今夜はどうも遅くまで、御苦労でした」
 いずれも探偵事務所で働いている人たちであろう、私に会釈してドヤドヤと帰って行くのを見送って、「さあ、どうぞ、おはいり下さい。会長さんならば、何もあんな失礼なことを申し上げるのではなかったのですが」と探偵はまめまめしく、いったん消した電気をひねったり、鍵を掛けた扉をあけたりして、私を迎え入れた。
「お帰りになるところを、どうも失礼しましたな。実は、是非お願いしたいことがありまして、夜分なんぞにお伺いして恐縮なのですが」
「なんの、なんの、そんな御斟酌ごしんしゃくには及びません」と探偵は、引いたカーテンを払いながら、愛想よく応酬した。私の坐ったところからは、灯の瞬いているバルセローナ港の全景が、一眸いちぼうのうちに見渡せた。「会長さんとわかっていましたら、決してあんなことは申し上げなかったのですが、……ま、御容赦下さい! このところ連日遅くまでやっとりましたものですから、今日あたり少し早目に切り上げて、寛ごうかと思いましてなハハハハハハ」とわだかまりなく探偵は笑ったが、デップリと肥えた血色のいい四十恰好の身体に快活な笑みをうかべ、柔和なしかしどうかすると鋭い光を放つその逞しそうな面を眺めていると、この人にこそは今の私の悩みを打ち明けても立ちどころに解決してくれそうな、何とも言えぬ力強い信頼感が胸に沸き起ってくるのであった。
「さあ、どうぞ、御用の筋を仰ってみて下さい。私の力で及ぶ限りは、お力になるつもりですから」と探偵は促してくれたが、しかし何と言っても事は妻の閨房けいぼうに関したことであった。なかなか私の口からは言い出し得なかった。肚の中一杯に訴えたいことはありながら、それがどうしても唇へ出てこなくて私が言いよどんでいるのを見ると、探偵は微笑みながら黙って、壁に掛けてある数行の額縁入りの法律条項らしいものを見上げた。
「ああいうわけですから、決して御心配はりません。どんな秘密でも、貴方御自身が仰らない限りはこの事務所から洩れるという御掛念は絶対にないのです」
 探偵の眼の示したその額の中の条文は「医師、薬剤師、産婆、弁護士、弁護人、公証人、探偵、またはこれらの職に在りし者、故なくその業務上取り扱いたることに付き知得せる人の秘密を漏洩ろうえいしたる時は、二年以下の懲役または三万ペセタ以下の罰金に処す」と刑法第百七十八条が、抜き書きされているのであった。しかもそれを眺めながらもまだ躊躇ためらっている私を見ると、この世慣れた探偵はもうそれ以上、私のために余計な口数は弄さなかった。その代り黙って立ち上ると、机の上から部厚なノートを一冊抜いて来て、それに要点を書き留めるべく、視線を私の顔からそのノートの方へ移してしまった。そして、探偵と真正面まともに視線を触れ合わせずに、ペンを握ったその指先だけに眼を留めているということが、どんなに私の心をしてこの言いにくいことをも、スラスラと口の端にまろび出させ得たことであろうか。
 ポツリポツリと私は、ドローレスとの結婚以来の顛末を、そして悲哀トリステサを買ったことからその悲哀トリステサに端を発して妻の機嫌を害ねたこと、今夕以前の、召使の園丁が来てこれこれしかじかの話を持ち出したということまでを、残る隈なくこの探偵に打ち明けたのであった。そして自分としては決して園丁の言うことを信じてはいないが、さりとて一概に笑い去り得ぬ節もあるように思われ、何とも思案に余ることであったが、妻に気取けどられぬよう、はたして妻と悲哀トリステサとの間に、そういう浅ましい関係が成り立っているものかどうか、それを一つ探索していただきたいということをも、ことごとく依頼することができたのであった。
 私も話し終り、そして探偵も要点を書き留め終って、「もちろん御名誉にきずの付かぬように、一日も早くお悩みの解決するよう、全力を尽しますが、随分御苦労なさいましたな。お察しいたします」としみじみねぎらってくれた時には、さながら亡くなった親からでも傷ついた痛みの個所を温かく抱擁されているかのように結婚以来の鬱屈していた胸の中が、初めて軽々と飛揚するかのような感じがしてきたのであった。もちろん探偵に向って依頼することは、妻と悲哀トリステサとの間にそのような関係ありやなしやの一点であって、妻と私との結婚以来の顛末なぞは何ら必要のないものではあったが、外に胸の悩みを訴える人を持たぬ私は、この探偵を眺めているうちにどうしてもそれらのことにまで、言及せずにはいられないような気がしてきたのであった。
 一とおり話し終えると、探偵から補足的な質問が二、三発せられた。
 たとえば妻が犬を自分の居間へ繋ぐようになってから、何か私に気の付いた不審な点があったかなかったかというようなこと。これはいつか深夜に私の聞いた、眠られぬままに妻が悲哀トリステサと戯れていたこと、そしてその挙句に情人と間違えて、私が踏み込んで大失敗を演じたことなぞを……もちろんそれらのことも、私自身では何ら実としているわけでもないが、変ったことと言われて思い当るのはただそれくらいのものであると言い添えて、参考までに述べておいたのであった。
 腕組みをして頷きながら耳を傾けていたが、突然、
「ロザリオ君、ロザリオ君」と隣室越しに、さっき残れと命じた青年を呼び立てた。そして莞爾にこやかにはいって来て、私に会釈して佇んだ年頃二十五、六の青年を顧みながら、「ルカ・ロザリオ君といいまして私の腹心ですから、決して御掛念には及びません」と断っておいて、この青年と同じくらいのせいと肉付きを持った人物で、私の邸へ出入りしている者があるだろうか? と訊ねた。私の家の給仕ボーイの一人に、これこれしかじかの者がいると私の答えるのをまた書き留めていたが、それから私のところへ恐喝に来た園丁の住所、最後に犬を買った時に、フリオ・ベナビデスがくれた体形書を、明朝このロザリオ青年を参上させるから、渡してくれるように……と。
 これで探偵も聞きたいことを聞き、私もまた言うだけのことをみな述べ尽したことになったのであったが、費用は大体いくらくらいと聞いたのに対して、少々家庭の秘事に立ち入って面倒な仕事だから、六万ペセタでお引き受けしましょうという返事であった。そして期日はこれから二週間以内に、必ず確実なところを調べて御報告しようと、こう約束してくれたのであった。

二人のユアン


「決して二週間の三週間のと、そんな短期間でなくてもよろしいのです。もし不確実な情報をいただいて、自分の家庭へひびを入らせるよりは、むしろ一カ月でも二カ月でもお待ちする方がよろしいのですから、決してそんなにお急ぎ下さるには及ばないのです」と私の心配したのに対して、探偵は穏やかな笑いを洩らした。
「実は私の方に、貴方よりもこの仕事を急がなければならぬ事情がありますのです。ブエノスアイレスの警視庁から招かれまして、このロザリオを連れまして……一カ年ばかりの予定で亜留然丁アルゼンチンへまいることになっておりますのです。それで実は、なるべく新規の御依頼はお引き受けしたくないと思いまして、さっきもあんな失礼なことを申し上げましたようなわけなのでして」そしてこう付け加えた。「おそらくこれが、こちらで私のお引き受けいたします最後の仕事になりますでしょう。マルセ・モネスの事務所は、不確実な報告を差し上げますくらいならば、むしろ不可能な顛末を事細かに申し上げて、残念ながらこの事件だけには降参しましたと率直にお詫びする信用第一主義を取っておりますから、その点はどうぞ御安心を願います」「しかし……そ、そういうことが今までにおありになったのでしょうか?」と私のき込んだのに対して、モネス探偵は前より一層穏やかな笑いをうかべて、こう答えたのであった。
「ここで事務所を開きましてちょうど今年で十四年になりますが、幸いにまだ一度もそういうことは……」そしてこれで会見を終って、私は再び賑やかなラムブラ・デ・サン・ホセの大通りをフェルヴァ街へと車を走らせて帰って来たのであったが、アルメルダ街を抜けて、私の邸のあるプラザ・アベニイダ・フロリダ街あたりへかけては、広々とした庭園を廻らせた宏壮な邸宅のみの建ち列なっている区域として、街灯の影も疎らに蓊鬱おううつたる植込みを通して、青白い月のみが路上に淡い光を投げているのであった。
 その淋しい住宅街を疾駆している車の上で、探偵にすべてを打ち明けて爽やかになった気持の中を往来してくるものは、さっきとはまた反対に何となく妻に申し訳のないような、一種の悔恨にも似た感情であった。気位は高く我儘ではあり、虚栄心は強く私にとってはまことにつれない妻ではあったが、まだそこまでは堕落してもいないであろう清浄な妻に向って、人間として考え得べからざる不潔千万な疑いをかけて、何にも知らぬ妻の留守の間に探偵に依頼して妻の秘密をあばこうとすることは、私の方こそ獣よりもまだ劣った品性の持主のような気持がして、何とも言えず妻を冒涜するような………我が家でありながら、門口をはいるのに言い知れぬ後ろめたさを感じたのであった。
 さてその日以来、どんなに私は、モネス探偵の約束してくれたその二週間目のくるのばかりを、待って待って待ち抜いたことであったろうか。探偵には一カ月でも二カ月でもお待ちするから、ゆっくり調べて欲しいと大きなことを言ったが、そんなことはただ言葉の上だけの綾だけであって、到底私の堪え得るところではなかった。たとえ妻は私に向ってつれない真似はしていても、私としては自己の全愛を傾け尽している妻を疑いつつ、その挙動を探偵に監視させつつ、同一の家に起居していることのいかに心苦しいものであるかを、身に染みて感ぜずにはいられなかったのであった。
 一晩二晩は我慢したが、三晩目には最早、妻と三部屋を隔てた二階の自分の寝室へ、眠りに行くことはできなくなった。私は到頭自分の書斎の長椅子ソーファの上で、その翌晩とまたその翌晩とを明したが、しかも階下に眠っていたからとて、やはりどこからか悲哀トリステサの啼き声が聞こえてきはせぬかと、絶えず階上の物音にばかり聞き耳を立てているのが、私には堪えられぬ苦痛になってきた。五日目六日目には、家庭のこんな秘事をモネス探偵に頼んだのを私は、後悔したくなってきた。探偵に頼みさえしなければ、すくなくとも私自身が妻を裏切っているような心の呵責かしゃくからだけは、免れることができるからであった。しかし男がいったん頼んだことを、今更取り消すことのできるものでもなく、ただ今日の日が早く暮れて明日の日も早く暮れて、探偵の約束した日が、一日も早くきて妻の潔白が証明されたならばどんなに嬉しかろうと、私は自分の心に平和の戻ってくるのは、一にその日一つにかかっているような気持で、日々を送っていたのであった。
 以前は妻の方で、私に顔を合わせるのを厭うていたのであった。が、今では私の方が、それを恐れてきたのであった。かくてまた二、三日暮したが、到頭十日目に至っては、何にも知らぬ妻と顔こそ合わさね同一の棟に暮していることの心苦しさに、いかんとも私は堪え難くなってきた。そして給仕のユアンを呼んで、手廻りの物を旅行鞄トランクに詰めさせた。サンタルシアが丘の別荘へ行って、残りの四日間を過ごそうというつもりであった。
 書籍、歯磨き、タオル、寝巻き、ブラシ……と私の投げ出すのを、手際よくユアンの詰めてくれた鞄を下げて、運転手が出て行った後を続いて私も出ようとした途端、パタン! とユアンが扉をとざした。
「な……何をするんだ!」と私は呆気にられたが、ユアンは私に※(「目+旬」、第3水準1-88-80)めくばせしながら人差指を自分の唇に当て、黙っていよ、という素振りをした。そして片手で私を押して、机のところまで私を退すさらせて来た。呆気に奪られつつも、此奴こいつまでも人を莫迦にするのか! と烈しい怒りに身をふるわせながら[#「顛わせながら」はママ]、私は押されるままに机の前まで後退って来たが、あたりを見廻しながらユアンが低い声で私に聞いた。
「サンタルシアが丘の別荘へお出になるのですか?」
「お前に……お前にそんなことを言う必要があるのか!」と私は大声を出した。
しっ! お静かに」そしてユアンの右腕が挙がった。此奴こいつめ! 拳銃ピストルを突きつける気だな! と私は直感したのであった。
 薄暮とはいいながら、主人の邸の中で主人を脅迫しようとするユアンの大胆さに舌を捲きながら、私はユアンの顔をにらみ付けていたが、ユアンは別段拳銃ピストルを取り出すのではなかった。不思議にも自分の左頬を私の方へ向けて、右手でその※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみを示しているのであった。ユアンの左の顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)には、一センチモ銀貨大の赤痣あかあざがあった。その赤痣を指ざしているのであった。
「私はユアンではありません」
「何を言う! お前がユアンでなかったら、誰がユアンなのだ?」
「ほんとうのユアンは、一週間ほど前からヴァレンシアの母親のところへまいっています」そしてユアンはにっと口許に笑みを泛べて、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみあざはがして見せた。
っ!」と私が眼をみはった途端、ユアンはさらに左の頬の揉み上げをむしり取って見せた。耳の下まで長々と生え下っている揉み上げの代りにそこには滑々すべすべした青年らしい美しい皮膚が現れ出た。
「私が誰だか、おわかりになりませんか?」
「あっ」と今度こそ、すんでのことに声を挙げるところであった。
 髪……赤痣……声……挙惜ものごし[#「挙惜」はママ]……表情……丈恰好せかっこう……前屈みの癖……何から何まで正真正銘のユアンの、瞳だけが私のみつめているうちに、段々と違う人間の眼になってきた。
「おっ! 貴方は……」
「大きな声をお出しになってはいけません」と急いでまた指を唇へ当てがった。「おわかりになりましたでしょう? 私はマルセ・モネス事務所のルカ・ロザリオです。いつぞやの晩お眼にかかりましたね」と青年の眼が二、三回まばたいて笑みをたたえた。「サンタルシアが丘の別荘へお出でになりますのでしょう?」
「そうです……しかしお約束した日には……二十日の朝には、帰って来るつもりですが」
「恐れ入りますが、別荘へお出になりましたら、用事をおこしらえになって小間使のテレサを呼んでいただけますまいか。三、四時間あの女を留守にさせていただきたいのですが」
「テレサを?」
「そうです。もうちょっとのところで仕上げを終るのですが、どうもあの女が眼を光らせていて困るのです。ほんの三、四時間で結構なのですが」
かしこまりました。何とか考えて……そういうことにしましょう……そして妻は潔白だったでしょうか? 妻は……?」
「大体調べも順調に運んでいますから、お約束の日にモネスから一切御返事を申し上げますでしょう。ではテレサの件をお願いします……なるべくなら明日の午前中の方が、都合がよろしいのですが」と口早に答えて「さあ、旦那様まいりましょう!」と青年はまた召使のユアンに戻って、私の旅行鞄を執り上げたのであった。私はこのにせのユアンに見送られて車に乗ったのであったが、似ているとか似ていないとか、そんなことは言うだけ愚かなことであった。
 二十五、六の青年が三十八歳のユアンの顔に……ユアンの声に、なんと巧みに化けおおせていたことであろうか。五、六年毎日ユアンに接している主人の私でさえ、これほどまで物の見事にだまされてしまったのであったから、最早ここに至っては扮装も変装も入神にゅうしんの域に達していると言うの外はなく、ただただ驚歎舌を捲くばかりであった。十四年間ここに事務所を開いているが、まだただの一度もさじを投げたことがないというあの時の探偵の言葉を思い合わせて、なるほどモネス探偵は外部からそしてあの敏腕な助手は内部から、周到な智嚢陣ちのうじんいて内外呼応して探偵するのでは、どんな至難な問題とてもこれで解決できぬことはよもあるまいと、したたかに感じ入らざるを得なかったのであった。
 そして亜留然丁アルゼンチンからの招聘しょうへいで私から引き受けたこの仕事が済み次第ブエノスアイレスへ赴くといったあの時の探偵の言葉をも想い出して、これだけの素晴らしい技術を持った人々がたとえ一カ年でも故国を留守にしてしまったのでは、今後私のような悩みを持って切実に探偵の必要に迫られた人々が、どんなに困惑することであろうかと、その人々の去るのがそぞろに惜しまれてならなかったのであった。
 そして同時に、今までは秘密探偵などという職業は何か児戯に類したような、大してこの世の生活に密接な関係もないもののように感じていたのであったが、急に人生には最も必要な欠くべからざる存在のように考えられてきたり、……到頭サンタルシアが丘の別荘に着くまでの車上、あまりにも巧みなロザリオ青年の変装に魅せられて、ただそんなことばかりを思いめぐらしていたのであった。
 もちろん青年の頼みのとおり小間使のテレサは、ここへ着くと早速電話で呼びつけて、適当な仕事を言い付けて小半日ばかりの間本邸の方を明けさせてやったのであったが、さてこの四日間を私が閑寂なサンタルシアが丘の別荘で、どんなに退屈して身体を持て余し切って送ったかは、それを言うだけ最早無駄なことであったろう。
 いよいよ、約束の当日の二十日はつかであった。今日こそハッキリと黒白の決定される日と思うと、なんとなくその日が今日でなくてもう二日ばかりも先であってくれればいいと願うような、……同時に探偵に逢うのをちょっと延ばしに先へと送りたいような、そうかと思うとこうしているよりも一刻も早く探偵に逢って、事件に終止符を打ってしまいたいような、言うに言われぬ複雑な感情に襲われて朝から落ち付きを失っていたのであったが、ここに苦笑を禁じ敢えなかったのは、一まず本邸へ戻ってそれからモネス事務所の方へ出直すべく、私がプラザ・アベニイダ・フロリダ街の邸へと車を走らせ帰らせて来た時であった。
 車を出迎えて扉を開いたユアンは、やがて旅行鞄トランクを書斎の中へはこび入れたのであったが、出て行こうとするそのユアンをさえぎって私は丁寧な礼をした。
「これから事務所の方へ伺おうと思っておりますが」
 結構です、お待ちいたしておりますという返事を予期していた私の前に、相手は恐縮し切ったように、
「ハ、旦那様!」と平伏せんばかりに頭を下げたのであった。
「……まだ少し、時間が早過ぎましょうかな?」
「ハ、旦那様!」と相手は困惑したように、いよいよ頭を低く垂れた。私はまたもや呆気にられて、頭を下げた相手の姿を見守っていたのであった。
「旦那様、何のことでございましょうか? 私には判じかねますのでございますが」
 恐る恐る顔を上げたユアンと視線が触れ合った途端、思わず私は、心の中で苦笑せずにはいられなかった。顔貌かおかたち……赤痣……揉み上げ……、せい、肉付き……年齢、どこからどこまで寸分の相違もなかったが、ただ眼だけがまったく異っていた。
「旦那様からのお許しだそうでございまして……誰にも口外するなと仰せでございますから、一切口外はいたしておりませぬが」とユアンは揉み手せんばかりの調子で、また頭を下げた。「お陰様で久しぶりに、ヴァレンシアの母親おふくろを見舞ってやることができまして何とも有難うございました……母親も、くれぐれもよろしく旦那様へ申し上げて欲しいと、申しておりまして」
 おそらくユアンは、七、八日間の休暇をもらって、ヴァレンシアの母親のところへ行かせてもらったことに対する礼を述べているのであろうが、一切はモネス探偵の巧妙なる計らいであって、私の関与したことではない。私はユアンの感謝を聞いているのも面伏おもぶせしく、くどくどした礼の言葉を背後に聞き流しながら、暖炉の前に腰を降ろしたのであった。そして心中で苦笑ばかりを続けながら、二、三度続けざまに手を振って、何も知らぬ召使を立ち去らせたのであった。ロザリオ青年の扮装があまりにも巧妙を極めていたばかりに、休暇をもらった挙句に私から丁寧にお辞儀をされて、召使のユアンも面食らったことであろうが、私もまた至極面食らったことであった。
 そして私は、暖炉の前で煙草を一服する間もなく、心のくままにまたぞろ車を命じて、探偵事務所のあるキャセレス・ビルへと赴いて、いよいよ虎の※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとを踏むような気持で、その階段を上ったのであったが、最早仕事はすっかり完了して、にせのユアンから元の青年へと戻ったのであろう、私のノックに答えて中から扉を開いたのは、今の今私の間違えたばかりのロザリオ青年であった。
「お待ちいたしておりました。マルセ・モネスもまいっております。さあ、どうぞ!」と莞爾にこやかに案内してくれる姿は、最早あざもなければ揉み上げもなく、若々しい上品なおもてに笑みをうかべて、スッキリとした堅縞たてじまの背広を着流した、見るからに悧発そうな青年の姿であった。

偏執狂者


 そしてそれから何分かの後私は、例の港を俯瞰みおろす部屋でうららかな朝暾あさひを浴びながらモネス探偵と向い合っていた。
「調べも全部終りました。今日はお見えになるだろうと先程からお待ち申しておりました」と探偵は相変らず莞爾にこやかに口を開いたが、思いしか穏やかなその眉のあたりに、一抹の鬱陶しさをたたえているような気がしてならなかった。しかも私のひがみかは知らないが、例のロザリオ青年の運んで来た調査書類を繰りながらも、なんとなく私と視線を合わせることをはばかっているかのように、肝心の用件にもおいそれとはいるのを躊躇ためらってでもいるように感じられてならなかった。そして私もまた、こちらから切り出すのがなんとなく腫れ物にでも障るような気がして、探偵の手許に戯れているまぶしい朝の光線に、凝乎じっと眼を落していたのであった。
「奥様のお友達でシリオン・アロセメナという女優がいられるのを、御存知でしょうか?」と探偵は書類を見ながら顔も挙げずに聞いた。
「名前だけは知っております。妻から正式に紹介されたわけではありませんが」
 探偵は無言のまま頷いてまた書類に見入っていた。息詰まるような時の何秒か何分かが過ぎていった。
「……いかがでしょう?」とたまりかねて、到頭私は切り出してみた。「お調べがお付きのようでしたら一つその結果をお聞かせ願えませんでしょうか?」
かしこまりました」と意外にハッキリした返事であった。そして意を決したように書類を押しやって、私の顔を凝乎じっと見守った。「どういう風な段取りで飲み込んでいただいたらよろしいかと、実は考えておりましたのです。ではこれから結果を申し上げることにいたしましょう」
 しかも探偵はまだ凝乎と真正面まともに私と眼を見合ったままなかなか容易に口を開かぬのであった。女子供にも親しめるような柔和な顔はしながらも、時々眼底のどこからか鋭い突き刺すような光の射してくる眼差しを眺めながら、こういう人が緊張した場合の顔というものは、さぞや威厳に満ちた厳粛極まりない表情に変化してしまうことであろうと考えていたのであった。
「さっきからの私の様子で、大体結果の御想像はお付きになっていられますでしょうな?」
 ズバリとえぐるような調子であった。「まことに残念ですが」予期したこととはいいながら、途端に私は自分の顔からさっと血が引くのを感ぜずにはいられなかった。「まことに残念ですが、調査の結果は御疑念の点がことごとく事実となって現れたと申し上げるの外ありません。貴方を恐喝したホセという人物は、決して虚偽のことなぞ持ち出して貴方を恐喝しようとたくらんだのではないことがわかりました。これから逐一申し上げます……忌憚ないところを御報告いたしますから、お聞き苦しいところは何分御容赦願います。事件直接の核心ではありませんが、ほとんどこの事件の主題とも申すべき重要なる因果関係にむすび付いておりますから、まず、カタルニア街の犬商フリオ・ベナビデスというものから申し上げることにいたしましょう」そして押しやった書類の要点へ眼を走らせながら探偵は話し出した。
「これははなはだもって油断ならぬ性格の人物です。角度を変えた観点みかたから申しますと、こういう人物の張った陥穽かんせいに奥様はおかかりになった……いわば奥様の御受難であったということになるかも知れませんが、ともかくベナビデスという人物はまことに恐ろしい偏執狂者モノメニアであり、非常に変態的な心理の持主です。頭脳はかなり鋭く研究心に富んだ一面があり、陋巷ろうこうの犬屋のオヤジ風情で葬っておくには惜しいくらいの人間ですが、性格が社会性を欠いたまことに低劣極まる人間です。まず一応その経歴をザッと申し上げましょう。一九二二年までこの男の前身は国立サラマンカ大学の動物科の学生でした。非常な苦学をして勉強を続けていたらしいのですが、卒業する前々年同じ大学の女学生で名前はハッキリしませんが、アンジェリカなにがしという娘に熱烈な恋慕をしましたが、貧しい身の上や風采の上らぬため、もちろん娘からは問題にもされはしませんでした。この男の片恋した相手の娘というのはかなりに美貌でもあり、またサラマンカ市中でも一、二を争う富裕な美術商の愛娘まなむすめだったそうですから、もともとこういう相手に恋するなぞということが当人としては釣り合いの取れぬ間違いの元だったのでしょうが、そんなことはまあ余計なおせっかいだとしまして、ともかく相手の娘の方はこんな男の恋なぞには一顧だにも払わず、やはり同じ大学生だったビルバオ市のこれもまた相当な富豪の息子と結婚してしまいました。そしてあながちそればかりが原因ではなかったかも知れませんが、その後間もなくこのベナビデスという男は大学を途中で退めてしまいました。この初恋の痛手というのが、多少偏執狂的な性癖はあったかも知れませんが、まあ真面目まともな苦学生であったこの男の人生の針路を滅茶滅茶に踏みにじってしまったことは事実なのです。
 ベナビデスのそれからは生きんがために、色々な職業をそれからそれと転々と変えていたように思われます。ブルゴスで料理屋の給仕人として働いたこともあれば、ヴァリヤドリード付近の村で小学校の教師を勤めたこともあり、一時はアルマデンで墓地の掃除人にまで落魄おちぶれたこともあったらしい様子です。そしてその間に妻と名の付く女との同棲も一、二度はあったようですが、職業と結婚生活の方もいずれもどういうものか、あまり長続きがしなかった模様です。元々が動物学なぞという実に社会には、あまりかかわりのない学科をやっていたような身の上ですから、その道を進んで学校の教師にでもなっていればよかったかも知れなかったのですが、中途半端で社会へ出ましたから、どんな職業も向かなかったというわけかも知れません。あるいは当人にもう真面目に働く気がなかったか、ともかくこの男の歩んで来た道は一歩一歩人生のどん底の生活へと転落していったように思われます。そしてもしこれが普通の人間でしたら、いくら自分が初恋を感じた女なればとて、広い世間に女が他にないわけでもありませんし、また自分は恋を感じたればとて相手の女には何ら道徳的の責任なぞはないことなのですから、そういつまでも人の夫人になった女なぞに執着なぞを感じてもいなかったでしょうが、そこがこの男の多分に偏執狂的な所以ゆえんであり、同時にまたいかにその性質がネチクリと蛇のように執拗しつこかったかという、証拠にもなると思われるのですが、社会的に転落すればするほど、この男の呪詛じゅそと怨恨の対象は昔自分の恋を容れてくれなかったサラマンカ時代の初恋の女にあったのです。
 社会的にずり落ちればずり落ちるほど、そして第二、第三の妻との関係がうまくいかなければいかぬほど、この男の呪いと怨嗟えんさの対象は、昔自分に一顧も払わなかったアンジェリカというその初恋の女にかかっていくらしく思われました。到頭そうした生活の数年後には、ビルバオ市へ赴いてその女の邸の付近をウロ付き廻ったり、何か執拗く付きまとったりしたのでしょう。女の夫から訴えられて、名誉毀損と恐喝の併合罪で一九三一年ビルバオ刑事裁判所で三年間の重懲役を宣告せられ、コルドウベンセの刑務所での服役を終っております。
 出獄後五、六年ばかりは亜米利加アメリカへ渡っていたようでしたが、亜米利加で何をしていたかはあまりハッキリいたしておりません。また私共の方にも別段関係のないことですから、これ以上の詳しいことは調べてもみませんでしたが、ともかく以上が大体私共の方で調べ挙げましたフリオ・ベナビデスという男の経歴です。何の必要があって長々とこんな男の身の上なぞを並べ立ててるかとお思いになるか知れませんが、前にも申し上げましたように、この男の蛇のように執拗な湿湿めした性格というものが、今度の奥様の事件にまことに重大な因果関係を帯びておりますので、もうしばらくのところ御辛抱なさってお聞きを願いたいと思います。
 この男が初めて犬屋になって現れたのは、一九三六年クエレタロ市で開業したのが最初のように思われます。クエレタロ市からハリスコ市へ移りました。しかしどういう都合からか、ここにはわずか半年ばかりおりましただけで、次いでムルシア市へ移りました。そして当バルセローナ市へ移ってまいりましたのは、今から三年ばかり以前の一九四二年以来のことになります。どういう動機で犬商を始めたのか、その点もハッキリはわかりませんが、犬屋としては現在かなりの成功を収めております。資産として六百二、三十万ペセタばかりを所有しているように思われますが、これはことごとく犬商を始めてからの利潤と見て差し支えありません。これは私の推察ですが、当人の昔の専攻が動物学であった関係上、犬を飼育したりその鑑定めききをしたり、あるいは流行を追って変り種の交配を図ったりする上に、かなりの利便があったのだろうと考えております。そして当人自身もまたこの商売には相当興味を持っているらしく思われますが、その性質は先程も申し上げましたとおり、まことに陰険で無口、どういうものか、これだけの資産を蓄えながら再び妻をめとろうともせずプラツア・デ・カタルニアの陋巷で独り暮しを続けております。長年喰うや喰わずの惨めな生活に沈湎ちんめんしておりましたせいか、資産を作りました今日でも、非常に猜疑心に富んで人と語る時には常に上眼遣いをして相手を見る不愉快な癖があります。そして生活ぶりは極度に吝嗇りんしょくを極めて人との交際を嫌厭けんえんしておりますから、近隣のものでこの男と往来ゆききしているのはほとんどありませんし、また当人がこれだけの財を持っているということを、信ずるものとても一人もありませぬ。当人もまた金を貯えているのを人に知られることを極度に恐れているもののごとく、使用人一人置かずたった一人で店の切り盛りをしております。そして夜間閉店してからは何を研究しているか判りませんが、深夜十二時くらいまでも顕微鏡なぞをのぞいてコツコツと調べ物をいたしております。これが今回の事件に第一の立役者を勤めております犬商のフリオ・ベナビデスという人物の全貌なのですが、ともかく一言にして尽せば、非常に陰惨な陰気な沈鬱な執拗で吝嗇で猜疑心が深いという、人から好かれる要素なぞというものは微塵も持たぬ一個の人物を御想像下されば、それが実在のフリオ・ベナビデスという人間を組み立ててくることになります。こういう人物が我々の側から見ますと、時に非常な犯罪を企図するタイプなのですが、このフリオ・ベナビデスもやはり御多分に洩れずまことに恐るべきことをいたしておりますのです。そのいたしているまことに恐るべきことが今回の奥様の事件に重大な連鎖関係を帯びておりますために、以上直接には何の必要もないようには見えますが、フリオ・ベナビデスの性格経歴というものを一応精細に洗ってみたのでして、これから申し上げる私の話に照らし合せてお考え下さると、なぜ長々とこんな男の話なぞを最初に申し上げたかということが充分お飲み込みになれるであろうと思います。ではこの男のことは一まずそれだけとしまして次へ移るといたしましょう」と探偵はその時ロザリオ青年の運んで来た珈琲コオヒイの一杯に喉を潤した。そしてすこぶる難しい引き緊った眼をしながら、パラパラと書類を繰って忙しく瞳を走らせた。
「そのベナビデスの企てた容易ならぬことというのはどういうことかと申しますと、トロエス・アピエラドという頗る変った犬を飼育して売り出していることなのです。どう変っているか? それを説明するためにはこの犬の歴史から申し上げなければなりませんが、この事件を御依頼の時拝借いたしましたベナビデスの体形書には、一九四三年フリオ・ベナビデス初めてこの犬種を創ると書いておりますが、これはベナビデスの真っ赤な嘘でして、決してベナビデス自身の創始交配によって生れ出た犬種ではありません。調べたところによりますと、古昔埃及エジプト貴族の愛玩犬であったらしいこの犬の原種は、キレナイカのベン・ガジ付近であり、原産地付近の土語名前ではトラス・サピド……これが原名でトロエス・アピエラドなぞというのは、ベナビデスがこれからもじって勝手に付けた名前であろうと思われます。一八九〇年代アレキサンドリア市の埃及エジプト人富豪貴族夫人の間で、一時非常に飼育されましたが、あまりにも風紀を壊乱し幣害続出のため、時のアレキサンドリア総督はこの犬の飼育を禁止し、撲殺を命じたということになっております。今日では純粋種は原産地付近でもまったく絶滅して、容易に手に入れ難いといわれているそうですが、その後どういう手を潜り抜けてきたものか、これがまたまた一九一〇年代君府コンスタンチノウプルドルマバフチェ宮の後宮ハレムで宮女たちによって非常に愛玩せられ時の土耳古皇帝サルタンの激怒に触れて、飼育した宮女は即時死刑、犬は発見次第撲殺された、という重ね重ね因縁付きのものでありまして、決してベナビデスなぞの創始した犬種ではありません。がただ今回のものは、多少の改良がベナビデスによって加えられているのではなかろうかと考えております。いずれにせよ、ベナビデスがどういう経路によってどこから入手して飼育し始めたものか、またその改良した点がどういう種類との交配によってどういう部分に現れているものか、もちろん私共はその方面の専門家ではありませんから詳しいことなぞはわかろうはずもないのですが、さてそれならば、この犬はどういうわけでそれほどまでにも婦人たちによって愛玩せられるか? はなはだ申し上げにくい説明になってまいりますが、忌憚なくその説明しづらい点を申し上げてしまいますと、この犬は婦人の享楽を最も長時間にわたって持続せしめるということと、その与える快楽が到底男性から味わい得るくらいの比ではない、凄まじい淫楽的なものであるという点に帰するのです。すなわちそういう目的一つのためにこの世に生れ出てきたかのごとき犬種であり、また他犬種との交配によって、いよいよそういう目的のために改良されてきた、特殊目的の犬であるということが言い得られます。したがって何故淫蕩頽廃たいはいを極めた往古の埃及エジプト貴族の夫人たちが、この犬を愛育したか君寵くんちょうを失った後宮ハレムの宮女たちがこの犬を愛玩したか、これで大体の御想像もお付きになれたことと思いますが……」

マジャルドーの訪問


「それなれば、一体この犬はどういう習性を持っているか? その特長をベナビデス作製の体形書に基いて仮に調べてみますと、……この体形書はベナビデスが苦心をして実に巧妙におおい隠しておりますから、一見何の奇もないようには見えますが、この犬の習性に照らし合せて考えてみますと、その何の奇もない文面の裏にひそめてある幾つかの特長を拾ってすら、ここに想像も及ばぬ一個の淫獣の全貌を組み立ててくるのがわかります。たとえば被毛の点……短く滑らかにして密なるも腰部のみ長毛簇生ぞくせいす、とベナビデスはこう書いておりますが、全体の体形が成熟した婦人の半身にピッタリと適合したくらいの、巨大な犬の上半身が、一面に海豹あざらし膃臍おっとせいでも想わせるようなヌラヌラとした密毛に蔽われている。そして腰部にのみ長毛がむらがっている………もちろん幾度も幾度も他犬種との交配を図った結果、こういう畸形児みたいな犬の変種を創り上げているのでしょうが、何の必要があって、こんな妙な毛並を作り上げているか? 説明いたさずとも、これもまた容易に御想像がお付きになれますでしょう。すべて淫楽という目的のために外なりません。眼……卵形にして斜めに付き昂奮時は火のごとく燃ゆ、この昂奮時は火のごとく燃ゆは、これを他の表現を借りますならば、発情時は熱情火のごとき動物に化するという意味の婉曲なる言い廻しなのでして、淫獣その物と化するという意味を表現したことに外なりません。字句どおりに読み下せば犬が憤怒した時には眼が真っ赤になるといったような印象を与えるかも知れませんが、別段犬の眼自身が赤くなるという意味では毛頭もありません。後段習性において怒れば獰猛どうもうなり死闘す、未知の人に絶対に馴染まずという章句に連接しているかのごとくに見せかけている欺瞞でありまして、ベナビデスの狡猾こうかつなる手段に過ぎません。御存知のように、世界犬種協会の規定によって、各犬種にはそれぞれの特長、個性、体形を規準した体形書というものが付いているはずであり、それなくしては顧客は大金を払って犬を買いませんから、ベナビデスはその点に実に苦心を払っているのです。何にも知らぬ初めての顧客は、体形書記載の字義どおりの意味で安心してこの犬を買います。しかもこの犬を実験しない人には、これらの章句の裏に秘めてある意味までは飲み込めませんが、一度でも実験した人には――たとえば例に引いては失礼ですが、奥様のごとき場合にはこの体形書は表面的に書かれてはあるが、それは同時に、この犬の持つ秘密の習性をも円滑に言い現しているものであるということに、スグお気が付かれるように仕組まれているのです。ですから、虚偽の体形書でもなければ詐欺でもなくいささかも犯罪は構成してはおりませぬ。
 鼻嗅覚数マイルに及ぶ………これも別段この犬の嗅覚が、実際上の問題として数哩なぞに及んでいるわけではありません。普通感覚の最も鋭敏なる犬においても――たとえば警察犬のごとき、あるいは軍用犬のごときものですら、その嗅覚は精々一マイル半から二哩半にわたるのでして、数哩なぞという嗅覚のあろうはずはありません。ですからこれもただ非常に特殊なる嗅覚を持っているという表現なのでして、例をお宅の犬に取りますれば、この犬は奥様に対してのみ特別の嗅覚を持っている。すなわち奥様のある体臭はこの犬に対して特別なる刺戟――発情を促する力を持っておりますが、奥様以外の人に対しては決して発情することができないということを示しているのです。ということは奥様の秘密がそれで保たれる………というためなぞでは決してありません。これも御承知のように、人間と異って動物の発情にはそれぞれ游牝期ゆうひんきと称する時期があり、この時期を除いては絶対に発情し得ないのでありますが、それでは人間の玩弄物たり得ません。そこでこの犬だけには、一番最初に自己を発情せしめたある特殊なる体臭に接する時には時期を選ばず発情するという本能が、改良に改良を加えて後天的に付与せられているのでありまして、この項と習性未知の人に絶対に馴染まず、愛玩用なれども番犬に適す、という項とが結び付くように仕組まれております。すなわちお宅でこの犬に対して至上権を持つものは、この犬に特殊なる嗅覚を与えておいでになる奥様だけということになってくるのです。
 貴方はもう覚えておいでにならぬかも知れませんが、貴方を恐喝したガリアナ・ホセという園丁の話によれば、給仕頭のガルボは奥様にけしかけられてこの犬のために大怪我をしたということですが、そういうことは他の犬の場合においては絶対にあり得ません。というのは、貴方のお話では食事一切の世話は奥様が直接手をお下しにならず、ガルボが世話していたということになるのですが、犬というものは自己に直接食事を給してくれる人に最も親愛を感じるのでありまして、奥様が御主人であるから、御主人の命令に従って自分に食事を給している召使を噛むなぞという理知は、犬の世界においては絶対に起り得ざることなのです。むしろガルボの嗾けによって奥様を噛むということこそ、起り得る可能性のあることなのですが、お宅の場合においてはこの起り得ざる出来事をき起しているということは、すなわち以上のような習性をこの犬だけは帯びているのだということがおわかりになったであろうと思います。貴方は別段何ともお想いになっていられなかったかも知れませんが、私は初めて貴方のお口からこのお話をお伺いしました時に、非常に奇異な感に打たれました。が、やがて現実に私自身のこの眼で犬を見るに及んで、さらに仔細にこの体形書と照らし合せて見たり、また助手のロザリオの報告を聞くに及んで、私にもこの納得がようやくにまいったようなわけなのです」
 初めて逢った時もちろん私は探偵には一部始終を詳しく打ち明けた。フムフムとさりげなく頷きながらも、この探偵は要所要所だけちゃんと抑えていたわけなのであった。そしてまた前にも言ったとおり私はこの体形書を見た時も、別段何の感じも懐かずにそのまま机の抽斗ひきだしほうり込んでしまったのであったが、見る人が見れば、何の奇もないこの体形書からさえも汲み尽せぬ秘密の臭いを嗅ぎ分けているのであった。私はその炯眼けいがんにも舌を捲いたが、同時にこれだけの力量ある探偵の調査ならば、充分に信頼が持てるであろうという安心感をも、しみじみと感ぜずにはいられなかったのであった。がそれにしても、たった一つ私には解せぬことがある。親しく私自身のこの眼で見るに及んで………と今探偵は言ったが、この探偵が私の邸へ来たということはただの一度もなかったのであった。とすればどこで一体私のところの悲哀トリステサを見たということになるのであろうか?
「………悲哀トリステサを御覧になったと………今仰いましたか? どこで一体御覧になったのでしょうか?」
「もちろんお宅へ伺ってですよ」
 と口許にいくらか笑みを含みながら探偵は答えたが、それでもまだ不審そうにしている私の面持を見ると、ふと気を換えたように探偵はこんな付かぬことを言い出した。
「先週の終りから今週へかけて………そうですね、ちょうど貴方がサンタルシアが丘へお出掛けになる前くらいに支配人のアロンゾ・マジャルドー氏が続けて三度ばかりお宅へ伺っているのを御存知でしょうな?」
「ハ知っておりますが………」
「その三度ともマジャルドー氏は貴方とはお話をせず、ただ召使に何か注意を与えただけで帰りましたな?」
「ハ……そうです」
「マジャルドー氏のこういうことは、別段珍しいことではありませんな?」
「そうです、よく御存知です」探偵の言うとおり、マジャルドーのこういうことは少しも珍しいことではないのであった。それなればこそドローレスは酷くこれを嫌っていたのであったが……。
「珍しいことではありませんが……しかしマジャルドー氏の伺うのは、いつも夜分のことで銀行の勤務時間中にはあまり伺いませんでしょう?」
「そ……うです。何の用があったのだろうと、それでまことに不思議に思っていたのですが」
「ですからその三度伺ったマジャルドー氏というのは私だったのです」と莞爾にこりともせずに探偵は言った。
「呀っ!」とばかりに私は開いた口が塞がらなかった。この四十男の肥満した探偵があのせてコツコツした六十幾つのマジャルドーに扮装していたろうとは! 私にとってはユアンに化けたロザリオ青年の場合にも劣らぬ驚きであった。しばらくは呆気にられたまま言葉もなくただまじまじと探偵の顔を打ち見守っているばかりであった。似たも似ぬも言うだけ愚かであった! 銀行で毎日顔を合わせている私自身が、今の今までてっきりマジャルドーとばかり思い込んでいたことであった。事ここに至ってはもはや技神に入るというよりも、何よりもむしろ寒けを催すばかりの空恐ろしさであった。そのうつけのような私の顔を探偵は凝乎じっと眺めていたが、
「そういうわけで、御報告はすべて私のこの眼で確かめて真なりと認めたことのみを、申し上げているのですから、充分御信用下さって大丈夫なのです」と付け加えた。
「しかしどういう風にして探偵したかということを申し上げるのが目的ではなく、探偵した結果がどうあったかを申し上げるのが、私共の仕事なのですから、ともかくただ今の続きを終えてしまうことにいたしましょう。で今の標準体形書なのですが、前肢は広く離れて外向きなり。………いいですね、前肢は広く離れて外向ですよ。肋骨は広し。背は水平にして腰に向って傾斜し……尾は付根高く低く垂る。この要点だけをお考えになっても――これはそのままお宅の飼犬にもピッタリと当てまることなのですが――およそこれらの恰好が何を意味するものか、容易に御想像になれますでしょう。ある状態における婦人の享楽を――そういうことを望む婦人の享楽を最高の極致に誘うのに最も好適な姿態にこの犬が作り上げられているということに外なりません。
 すなわちこの犬は、その習性といい本能といい姿態といい、最もその状態に適合フィットするように改良に改良を重ねて作り上げられているのでありまして………もっと外の言い方をしますならばこの犬の習性としては婦人からもてあそばれなくとも発情すれば、犬自身の方から能動的に挑みかかるような本能が付与せられているということなのです。もし卑近な言葉を用いて痴漢という言葉が、犬の世界にもあるとしますならば差詰さしずめこの犬の一挙一動がそれに類するかも知れません。終始無言です。決して吠えたりいたりは致しません。そして振り払っても振り払っても、幾度何十遍でもある挙動をしてくるのです。性慾本能一つに生きているような犬ですから身を摺り付けてその挑み方もすこぶる露骨に執拗を極めたものであろうと想像せられます。そして挑まれて初めは面白半分ふざけ半分にこれと身体を交えたとなったが最後……ただの一度でも身体を交えたが最後、もはや人獣のこの浅ましいきずなから逃れ去ることはできなくなってくるのです。おそらくいかなる男性としても与えることのできぬものを、この犬は与えるでしょうから一度禁断の木の実を味わわされた婦人は阿片吸飲の患者と同じ状態になりましょう。心では浅ましいと恥じつつも、この醜い関係をいかにしても断ち切ることができなくなってくるのです。なぜ土耳古皇帝サルタンは発見次第この犬の撲殺を命じられたか! この犬を愛玩した宮女をただちに死刑に処されたか! そしてアレキサンドリア総督もこの犬の撲殺を命じたか! その理由がこれで貴方にもおわかりになりましたでしょう。お飼いになった犬の悲哀トリステサは実にこういう種類の犬だったのです。そして犬商フリオ・ベナビデスという男は、その偏執狂的な陰惨な半生を実にこういう犬の研究に没頭して、ひそかにこれを売りさばいていた男なのです。なぜ彼がこういう忌まわしい仕事に血道を挙げていたか? もちろんこれはベナビデスから直接聞いたわけでもなければ、また聞いたからとて彼がそうではないと言い切ってしまえば、世間も法律もそれで立派に通ることなのですから、ベナビデスはおそらく否認してしまうでしょうが、私はこれをこういう風に解釈していますのです。第一の彼の目的はいわば人の弱点に付け込んだこういう犬を売るということによって、濡れ手に粟のごとき莫大な利益を納めることができるからなのです。早い話がこの犬の特性なぞを、何にも御存知ない時でさえ、この珍しい形の犬をお求めになるために、貴方や奥様は十九万ペセタという莫大な代価を彼にお払いになったではありませんか。もし一度この犬との経験を充分に味わった婦人が、この犬を失った場合を御想像になって御覧なさい。この毒薬のような犬に酔いれて人間性の麻痺している婦人たちは、何としても再びこれと同種の犬を手に入れずにはいられなくなってくるのです。すでに犬の値打ちを熟知しているのですから、十九万ペセタがたとえ三十万ペセタでも、自分の財力の許す限りにおいては、血眼になってこの犬の入手に狂奔するでしょう。あたかも阿片中毒の患者が阿片なりモルヒネなりの入手に財力を傾けるのと、何の変りもありません。そしてこれが、ベナビデスにとっての第一の狙いなのです。その場合この男は、常識では判断の下せぬくらい途方もない代金を要求しています。立場上名前を申し上げることは憚りますが、今度の事件を調査中私共の知りましたところでも、二度目を購入に行ったある一人の夫人からは四十三万ペセタ、もう一人の夫人からは三十二万ペセタという法外な代価をむさぼっております。
 貪った人間も貪った人間ですが、払った婦人もまた払った婦人………ただ呆れるの外はありません。したがってこの男の第一の目的は、もちろんこういう犬を作って売ることによって莫大なる利得を納めようと企んでいるには違いありませんが、その外にもし私の推測が許されますならば、この男の目的の中にはおそらく第一の企みにも劣らぬある容易ならざる意図が潜んでいはせぬかと考えるのであります。すなわち富あり名誉あり美貌な若き夫人を持って何不自由もない幸福なる家庭に、こういう犬を売り込むことによって、その家庭の幸福を最も陰険なる手段によって滅茶滅茶に破壊してしまう……そして昔貧ゆえに見向きもしてくれなかった上流富裕な階級に属する婦人たちの、やがては陥ってゆくであろう破滅を考えて悪魔のごとくにせせら笑っている………。
 それがこの男にとっては今日銭金ぜにかね以上の大きな目的になっているのではなかろうか………とこう私は推測しているのでありますが、そうまで考えることはあまりにも穿うがちすぎた想像かも知れません。しかしこの男の前経歴から洗い立ててきますれば……動物学を専攻していたこの男が犬商になったことから推測しますれば……また手酷てひどい失恋の苦しみが、この男をして今日ああいう偏執狂者モノメニアのごとき陰惨極まる厭人的な性格を作り上げていることから推せば………もう一つ今日なおこの失恋の痛手から、この男が癒され切っていないという事実から推せば、私はこういう結論を付けざるを得なくなってくるのです。またこの男としてもこういう社会悪的な動物を飼育して、ひそかに社会の裏面に瀰毒びどくせしめている以上、こう私から推論されましても、決して弁解の余地はなかろうと考えているのです。なぜならば………なぜならばですね、動物は犯罪責任の対象とはなり得ないのですから、この男としてはどれほどまでにこの行為によって社会を紊乱びんらんさせ巨富を積みましても、刑事上の責任なぞは一切負う必要はないのでして、自分は決してそういう目的のためにこの犬の飼育改良を企てたのではない、ただ単に変り種の愛玩犬を世の中に提供しようと考えたまでであって、そういう忌まわしい行為に陥ったのは貴婦人それ自身の罪である、と一言こう言い切ってさえしまえば、法律はいかんともこの男には手を付けることができないからなのです。覚えておいででしょうか? 貴方と奥様が初めてこの犬を買いにいらした時に、この男は根掘り葉掘り詮議して貴方がたの御住所御姓名までも伺ったと仰いましたな? そして奥様は犬がお好きかお好きでないか、御自分でお飼いになるのかならないのかと、これまた根掘り葉掘り穿鑿せんさくして帳面にけていたとこうお話になりましたな? ただ単に一つの商品として犬を売るだけが目的ならば、こんな煩わしい手数をする必要がどこにありましょう。私はもちろんこれはその犬をお買いになった奥様が、第二回目を買いにおいでになる日に備えているためであって、それまでに充分奥様の御家庭を調べておくために違いありませんが、同時にまたおそらくは犬を買ったその家庭が今後どうなっていくかを見窮めるためにも、充分それだけの準備をしておく必要があったのではなかろうかと推察しているのです。そして私は、私のこの推察が推察ではあるが充分に的を得ていると確信しておりますのです。
 いわんや私のこの推察を裏書きするように、彼はこの犬の雌というものを絶対に売ってはおりませぬ。もちろんこの犬の雌はどういうものか雄と違ってその方面の需要というものが全然なく、無価値のため原産地のベン・ガジ地方でも昔から棄てて顧みないといわれているほどではありますが、しかし犬商ともなれば彼の犬舎で雌が生れていないということは決してないはずです。しかもそれにもかかわらず、この男は雌犬というものをただの一匹も売ってはおりませぬ。売ったのはことごとく雄犬ばかりです。しかもその雄犬も売った相手というのは、必ず判で押したように若い美貌な夫人ばかり………男にはもちろん娘にも売っておりませぬ。これが単なる愛玩犬を売りさばく犬商の態度として受け取り得ることでしょうか。この点から考えてみても、私は自分の推定が充分に当っていることを堅く信じております。ともかく話が大分長くなりましたが、ベナビデスという男がどういう姦智にけた恐るべき男であり、その売ったトロエス・アピエラドと名付けられた変り種の犬が、どういう卑猥極まる犬であったかということは、これで充分御飲み込みであろうと思いますが、何にも御存知なかったとはいえ、こういう犬商からこういう犬をお買いになって……しかも貴方に殺されないよう犬を保護するためとはいえ、奥様はこの卑猥極まる犬を御自分の寝室へお飼いになった。どういう結果がそこにかもされてまいったかは、もはや私が申し上げるまでもないことと思います」
 そして探偵は気の毒そうに、深い溜息を吐きながら次へ移るべく、書類の頁をはぐった。その手を眺めながら、私もただ茫然として吐息を吐いていたのであった。

テーエーレ2317のベー


「大体今まで述べましたようなことは、私自身で調査いたしましたが、一方奥様の御動静は主として助手のルカ・ロザリオをしてこれに当らしめました。がロザリオに何らかの先入見を持たしめては事実を調べる上に、いささかでも歪曲に陥ることがあってはと、その点を懸念いたしましたから、私の調査事項はもちろんロザリオに絶対に秘して、ロザリオの調べ上げた部分と、私の調査した分とを、私の手許で突き合わせる方法を執ることにしましたのですが、遺憾ながら両者の結果とも、奥様にとってはまことに面白からぬ帰結となってまいったのです。
 すなわちロザリオには、最初奥様とサン・ルームで声を潜めて話をしていられたという、御友人のシリオン・アロセメナ嬢の身元を洗わせてみましたのですが、御友人はイベリア劇場付きの女優をしていられます、奥様とは子供の時分から大分親しい仲でいられるようですが、非常な派手好みで、奥様からはかなり多額の物質上の援助を受けていられます。しかしそんなことは、別段この問題には関係がありませんからどうでもよろしいのですが、ただここに聞き棄てになりませんのは、この女優もまた奥様と同種類の犬を非常に溺愛できあいしている、という聞き込みを得ましたことなのです。これは迂闊に聞き流しておくことはできませんでしたから、早速手を伸して掘り下げてみましたが、この女優はトルレス・ナルローという夫人の紹介によって、犬をベナビデスから買い求めていることがわかりました。そしてナルロー夫人はまた、レビイタ・クレメンテ夫人という友人の紹介によって犬を求めていたのですが、これらの夫人連は別段奥様とは何の友人関係でもいられません。まったく奥様とは無関係に、やはりこの犬の享楽に酔い痴れているらしいのでしたが、ただここにその調査の副産物としてロザリオの知り得ましたところでは、まことに余計なことのようですが、奥様の御友人として貴方のお挙げになったお名前中二、三名は、まったく架空な口から出任せのものであるということだったのです。たとえば奥様がしょっ中親しく交際していらっしゃる旧友人だと仰るマリーナ・アルテス夫人という方も、アグエダ・エルシア夫人という方も、全然架空の名前であって、そういう御友人を奥様は全然お持ちになっていらっしゃらないばかりか、第一そういう名前の夫人たちというものはバルセローナ社交界には全然実在していないということを、発見いたしましたのです。この事実は貴方から御依頼の事件の本質には別段何の関係もありませんし、またどういう必要があって奥様がそういう嘘を貴方に仰っておいでになったかは存じませんが、いずれにせよこの事実を知った結果として、ロザリオ青年としてははなはだ失礼な言い草ですが、奥様の御生活には、大分貴方の前を虚偽でお固めになった部分があるらしいという疑惑の念を深めてまいったわけなのです。かつて奥様と声を潜めて犬の話をしていられたシリオン・アロセメナ嬢も、またこの犬の陶酔者であるということを確かめ得たのでありますから、私はこの辺で奥様に対する外部からの調査を打ち切って、直接内部から御生活を探偵するの必要を感じ、早速ロザリオ青年をお宅へ張り込ませることといたしたわけなのです。すなわちかねてお宅の給仕のユアンという男が病気で故郷くにのヴァレンシアに寝ている母親を見舞いに行きたいと、しょっ中同輩たちに話していたという聞き込みを得ておりましたので、マジャルドー氏に扮して初めてお宅へ伺いました折りに、独断ではありますがユアンに若干そくばくの金を与えて、母親の許へ見舞いに行くことを話してやりました。そして青年をユアンにやつさせてお宅へ張り込ませたのですが、結果は、まったく園丁のガリアナ・ホセや給仕頭のガルボたちの申すことがすべて真実であるということを、立証せずにはいられなかったのです。すなわち貴方が眠られぬ夜々お聞きになった深夜のうめき声や笑い声なぞは、決して眠られぬあまり奥様が犬とふざけておいでになったなぞと、そんな単純なものではなく……この毒薬に酔い痴れておいでになったということを、正しく立証するようなことになってまいりまして……」
「失礼ですが……はなはだ失礼ですが……」と私は額ににじみ出てくる汗を拭いた。「その辺でちょっと待っていただけませんか……ちょっとその辺で……」
 喉がかすれて声が出なかった。急いで手を挙げて探偵を制した。そして凝乎じっとさし俯向うつむいた。裏切られた憤怒と無念さが眼もくらまんばかりに込み上げてきて、人眼がなかったらバリバリと歯噛みしたいような気持であった。自分ながらまた顔色の変っていくのがわかるような気持であった。そして手先がブルブルと震えて、冷たい膏汗あぶらあせが引っ切りなしににじみ出してくる。
「ちょっと……ちょっと……その辺で……待っていただけませんか……」
 俯向きながら汗を拭いている私の顔に探偵は怪訝けげんそうな眼をみはっていたが、やがて卓上に腕を組みながら気の毒そうに視線をらせた。
「商売柄、御依頼でこんな調査もお引き受けいたしましたが、まことに申し上げづらいことでして……衷心からお気の毒に存じております」と沈痛な口調で言った。「家庭の中からこういう浅ましい者を出しまして……恥入っております……」ともう一度私は額の汗を拭った。
「大体こういう調査をお願いしますさえ……こんな慙愧ざんきなことを身を切るような気がいたしておりますのに……こんな慙愧至極もないことを御覧に入れまして……お恥ずかしく思っております……」
「いいや私は奥様よりも、むしろ人間の弱点に付け込んでこういう卑劣至極なことをしているベナビデスという人間に、一方ならぬ憤慨を覚えております。奥様はただベナビデスの魔手におかかりになった……いわば被害者ともいったような……」と取りすつもりであろうか、相変らず顔を背けたままポツリポツリとした口調で探偵は言った。
「先程から申し上げておりますようにこの犬そのものは麻薬のようなものですから、奥様だけには限りません。大勢の婦人たちが麻痺しびれたような結果に陥っているのでして、むしろ憎むべきものはベナビデスその者であろうと私は考えております、過日も申し上げましたとおり、この事件を最後にして私は亜留然丁アルゼンチンへまいることになっておりますが……実は明後日出航のサンタ・カタルヘナ号の船室ケビンもすでに予約してありますようなわけですが……向うへまいりましてから一度貴方とお打合せいたしまして御迷惑にならぬ範囲で……これはほんの私一個の考えではありますが、一応当局へ私の意見を上申いたすつもりでおります。研究に藉口しゃこうして、こういうものを販売して上流婦人を頽廃せしめ、道義人倫を紊乱びんらんせしめている人間が、何らの刑法上の罪にも該当せぬということは、法律の重大なる欠陥であろうということを指摘いたしまして、即刻こういう犬の飼育販売は法律をもって禁止するよう、人道と人倫との根本的な破壊であるという面を、充分に強調いたしたいと考えております。……すでに当市の婦人たちの間にもこの弊風は相当瀰漫びまんしておりますようですし、この事件を調べておりますうちにその点を私は痛烈に感じました。いずれその節は充分お打合せを遂げた上でのことにしたいと思っておりますが」
 探偵は私を慰めるつもりで言っているのであろうが、私の耳にはこんな言葉なぞは少しもはいってはこなかった。そんなことよりも、無念とも憤りとも浅ましいとも、情けないとも慙愧とも恥ずかしいとも何とも譬えようもない気持がして、なろうことならばこのまま挨拶も何も抜きにして、探偵の前から姿を消してしまいたいような、切羽詰まった気持ばかりがただもう胸一杯に込み上げていたのであった。
 私が俯向いているために、探偵もまた黙してただ手持無沙汰そうに窓外へ眼を移したり書類をめくったりしていた。
「御調査を願ったり、またお話を途中でさえぎったり……まことに我儘勝手のようですが……どうかこの程度で……もうこれ以上のことは伺わぬでも充分私にも腑に落ちましたから」
「…………」
「ただ貴方に一言お伺いしておきたいのは」と私はどもり吃りもう一度首筋のあたりを拭いた。「このことは貴方として充分御調査の上のことと思いますから、こういう念をお押しするだけ失礼なこととは思いますが……もし私がそういう方法を執る場合には、法律的に証人として御立証下さることがおできになりますでしょうか?」
「仰るまでもないことです。向うにおりまして法廷喚問に応じられません場合には、もちろん書証をもって立証いたします。証拠力は同じことですから……こういう調査というものは一歩を誤ればただに御夫婦間に水を差すというくらいのことでは止まりません。被調査者からは重大なる名誉毀損の罪に問われねばなりません。充分確たる資料を握っての上ですからその点は御信頼下さい」
「決してお疑いするわけではありませんが、何か一つその資料というものを見せていただくわけにはまいりますまいか? ……充分御信頼はいたしておりますが……どうも平素の妻の性格から考えてあまりにも信じ難いお話で……実はまだ私は茫然といたしております。決して貴方のお言葉を疑うわけではないのですが……どうか哀れな愚昧ぐまいな夫を救ってやるとお思いになって」
 まばたきもせずに探偵は私の面を見守っていたが、決して私が探偵の言を疑っているのではなく、信じてはいるが、しかもなお信じられない事実にブツかって、困惑し切っている誠意を見抜いたのであろう。
「資料は私共の証拠材料として保存しておきまして、調査依頼者へは必要の場合ただ写しコピイだけを差し上げることにいたしておりますが、よろしゅうございます。お見せいたしましょう。その代り一つだけでよろしいでしょうな? 幾つ御覧になりましてもかえってお気持をお悪くなさるだけのことと思いますが」
「結構です。一つだけ拝見させていただけますれば……」
 凝乎じっと書類を眺めていたが、
テーエーレ2317のベーを」と背後に佇んでいる青年に指図した。そして「どうぞ御覧下さい奥様の御自筆です」とロザリオ青年の持って来た紙片を指し示したが、なるほどまがいもなく妻の自筆であった。しかも正しく私の家の紋章を浮き彫りにした私の用箋を用いて、女優のシリオン・アロセメナ嬢へ宛てた書簡であった。

 拝啓 昨日は態々わざわざお使いにての招待券確かに受け取りました。
 サルサイ座の御出演御好評、日延べの由まことに結構です。何よりとお喜びしています。何とか都合して二、三日のうちに是非拝見に伺うつもりです。
 なおお使いに持たせての練香水……早速使ってみましたが、なるほど仰るとおり効き目のいいのにはお世辞でなく驚きました。今までどんな香水を使っても逃げ廻っていた悲哀トリステサが、これだけはクンクン鼻を鳴らして身を擦り寄せて来ます。大変お気に召したようです。これなら大騒ぎをしてお湯を使わせる必要もありませんし、ほんとうにいいものを教えて下さったと喜んでおります。犬の大家はいつもいつも確かなことは教えて下さらないけれど、今度だけは千に一度の大手柄だと思っております。
 ついでのことにもう一つの悲哀トリステサの方も何とか処分の方法を教えて下されば、これに越したことはないのだけれど、この方だけはさすがの大家にも知恵がないらしいのだから心細いわね。何とか早く妙案を出して頂戴! さもないともう私元も子もなくして逃げ出してしまうかも知れないのよ。あの青脹れた鈍感な顔を見ているだけでも、この頃は息が詰りそうなのよ。その鈍感が私の顔を見るたびに何か謝りたそうにず怯ずしているから噴飯ものよ。ともかくあの手この手はもうあんな鈍感には効かないの。莫迦もあそこまで屈従を心得ていれば天下無敵ね。どんな手を用いてもかわずの顔に水なんだから策の用いるものがないのよ。
 一匹の悲哀トリステサだけを救って下さっても駄目なのよ。それをようく念頭においといて頂戴!
 死んでくれと祈る人にはお金がうなるほどあって、共白髪の末までもと祈る人には金はなし……なぞとそんな安っぽい同情を並べてないで、早くいい知恵を出して頂戴! それが私には一刻二刻を争う重大事なのよ。……例によって愚痴を少々……あんまり貴方がウケにはいってるらしいから。
 水曜日の晩餐会必ず出席します。どうぞ私のために取って置きの話題を沢山用意しといて頂戴! そして小説家のカーサス、音楽批評家のアンヘレス二人のうちどちらか一人だけは、呼んでおいて頂戴。二人とも多少下品だという評判はあるようだけれど、私の経験では十人以上の宴会の時はあの連中を一枚加えておいた方が、座の執り持ちがうまくゆくようよ。サンディーノは駄目よ、あんな人を呼ぶくらいなら家の悲哀トリステサでも呼んだ方がまだましなくらいね。
 この頃つくづく私毒物学の本が読みたくなったと言ったら、貴方だって少しは私の気持身に染みて下さるかしら? 身に染みて下さるようなら頼もしいんだけれど……ではいずれ水曜日にね……お約束の八万六千ペセタの小切手ここに封入しておきます。
  三月十八日
貴方の変らざる
伯爵夫人 ドローレス・メッサリイノ

殺意


「……貴方の変らざる伯爵夫人ドローレス・メッサリイノ……伯爵夫人ドローレス・メッサリイノ……」二度も三度も口に出して茫然として読み直している私の様子に凝乎じっと眼を留めていたが、
「いかがです、おわかりになりましたでしょうか……御必要ならば写しを取らせましてもよろしゅうございますが」
「いいや……それには及びません……御調査の確実なことには充分な信頼を持つことができました。まことにどうも色々とお世話様になりまして……」と起ち上って私は手を伸べた。ドローレスに厭がられ抜かれていたこともようく知っていた。気位が高くて私なぞはほとんど塵芥ちりあくた同然にしか見ていないことも、ようく心得ていた。しかしそれは家庭内部においてだけのことであって、外部においてまでこれほどまでにも憎悪され軽蔑され切っていようとは夢にも思わなかった。私の妻になりながら……この短い間にほとんど二千五、六百万ペセタからの金を湯水のごとくに消費しながら、しかもなおかつ私を毒殺したいと叫び私の妻になりながら――いかに醜い不具者かたわものとはいえ、ともかくも西班牙エスパニア一流の銀行家の妻となりながら――しかもなお旧伯爵夫人を称している妻とは夢にも知らなかった。それほどまでにも私を軽蔑し、私を憎むのならばなぜ私の請いを容れて結婚してくれたのだ! 結婚してもいい……結婚してもいいから、なぜ私に離婚の請求をしてくれなかったのだと、子供のように慾も得もなく、私は慟哭どうこくしたいほどの気持であった。グヮーンと一つ頭をっ食らわされたような気持がして、眼をあいているのもまぶしかった。
「ではどうぞ……報酬を……そう言っていただきたいと思いますが」
 蹌踉よろめきながら起ち上って、そして眼をつぶって差し出した私の手を探偵もしっかりと握ってくれた。
「重々お察しいたします……お察しはいたしますが、しかし御身分柄……どうぞ穏やかに御解決になりますよう、衷心からお祈りいたしております」
 そして私はこの探偵事務所の請求するままに、報酬や立替金の清算を小切手で支払って、気の毒そうな探偵とロザリオ青年に見送られて、やがて蹌踉よろめく足に階段を踏み締めたのであったが、ただ耳鳴りがして頭がかっかとして何を思考する力とてもなかった。
 ただどこかへ行って誰かにすがり付いて、こうまでも呪われ切った自分の身体を泣いて泣いて子供のようにおいおい声を挙げて泣き尽したならば、さぞかし胸がスウッとするだろうという気がした。しかも同時にその半面今日まではあらゆる屈辱をこらえてきたが、もうその我慢の糸も尽き果てて妻が憎くて憎くて仕方がなかった。襟髪取って引き倒して縦横無尽に身体を踏ん付けてくれたならば、少しは胸が癒えるだろうと思われた。口惜しいのか憎いのか腹が立つのか情けないのか、それらの感情が一時に胸に込み上げてきて、眼も眩まんばかりのムシャクシャした気持であった。
 私が出て来たと見ると急いで扉を開いた運転手に手を振って車は家へ帰したが、さてどこへ行こうというあてどもなかった。ただ足に任せて行き当りバッタリ歩道を歩いていたが、それもどこを歩いているのかサッパリ見当が付かなかった。ただ歩いて歩いて歩き廻っていた。途中で歩き草臥くたびれて一、二度珈琲店カフェーへ寄ったような気もすれば、そうでなかったような気もしていた。
「もしもし」と背後うしろから呼び留められて、
「お客様お代金を頂戴いたします」と請求されたような気もすれば、それもまた私ではなくて誰か外の人であったような気もしている。ともかく白昼の市街を歩みながら、すべてが白痴こけのように朦朧とした感じであった。電車通りを踏み切って自動車をけてかれもせずに歩いていながら、眼前のことは瞬時に頭から抜け去って、今自分がどこをどう歩いたか、自動車がどこをどう通ってどっちの方面へ曲ったかを記憶しなかった。ただ頭の中で旋風のように渦巻き返っているのは、どういう風にして妻に復讐をしてくれようかとそのことばかりであった。歩いても歩いてもどこまで行っても、絶えずせせら笑いをうかべたドローレスの顔ばかりが眼前にちら付いている。その幻影をにらみ付けてバリバリと歯噛みをしながら、私はまたあてどもなく歩き廻っていた。
 時間がすでに何時頃になっていたかを覚えていなかった。どこをどう歩いてどうして銀行へ来るようになったかを覚えていなかった。
 ただ覚えているのはいつものように守衛たちが……昇降機エレベーターガールたちが……使い走りの給仕ボーイたちが……そしてここへ来るまでの幾つかの階段や廊下で、擦れ違った幾人かの行員たちの丁寧な会釈に対して表面うわべだけはいつもと変らぬ鷹揚おうような会釈を返したことを、覚えているばかりであった。そして気が付いた時には私はいつの間にか銀行へ来て、三階の頭取室の中で机の前に坐っている自分を見出したのであった。大体が放縦なことのできぬ持ち前であったから、今まで私は大抵定時には出勤するようにしていたが、しかしそれでも頭取となれば朝出掛けによそへ廻ったり、あるいは家で調べ物をして遅くなって出勤しなければならぬこともある。私の出勤時の不定は秘書も不断から慣れ切っていたが、私が出勤して来たと見ると今までタイプライターを打っていた手を止めて、小腰を屈めながら卓子テーブルの上に重ねられた編み籠を二つに分けて並べ出した。そしていつものように部屋の一隅の鋼鉄の書類ケースの中から部厚い書類を取り出して来て、その一つの編み籠へ積み重ねた。まだ私の決裁未了の書類であって空いたもう一つの方へ署名サインを済ませた分からほうり込んでおけば、頃合いを見計らっては秘書は給仕を呼んで、これを各課へ運ばせるという段取りであった。
 そして私は不断から書類の決裁が決して早い方ではない。充分吟味して一字一点の疑義も持たぬようになってから、初めて署名サインを済ませるのであったから、時には十日間くらいも滞っていることがある。腹では何と思ったか知らぬが、別段厭な顔もせず書類ケースから出しては、また夕方ケースへしまい込むという同じ動作を飽きもせず秘書は器械のように繰り返しているのであった。
 が、しかし今日だけは思考力を失った頭の中に何か考えなければならぬことが山ほど一杯詰まっているような、そしてそれを早く考えなければならぬような気がして仕方がなかった。妙に、この未決の籠の中にうずたかく積まれてある未決裁の書類が気になってならぬ。これを片付けて机の上をサッパリとしてしまわなければ、落ち付いて凝乎じっとものも考えられぬような気がしていたのであった。
 手を伸ばして私は書類の一つを取ってみた。眺めてみたが何が書いてあるのか、活字は眼にはいっても意味がバラバラになって少しもまとまってこぬのであった。ただやっぱり妻の憎々しく嘲けるような顔が、眼の前に躍ってくるばかりであった。私は署名サインをして空籠へ抛り込んだ。次の書類もやっぱり字が躍って何のことやらわからなかった。これにも署名して籠の中へ抛り込んだ。後の書類はもう眺めようという気にもならなかった。次々とただ決裁の署名をして籠へ投げ込むだけであった。次第次第に未決の書類は残りすくなになって、決裁済みの書類は堆く積もってきたが、それとともに今日まで粒々辛苦して築き上げた堅実な父の業務の一切が、この滅茶滅茶な乱暴な決裁と同時に見る見る音立てて崩れ去ってゆくような気持がしてきたのであった。
 眼の前の書類は全部片付け終ったがそのまま空になった未決の籠を眺めて茫然ぼんやりと椅子の肘に頬杖突きながら空虚うつろのような眼をみはっていた私の前に、タイプライターの手を止めてまた秘書が現れて来た。私の方に横顔を見せて、しきりに署名サイン済みの書類を取り揃えているのが映る。相変らず私はそのままの姿勢を執っていた。こんな恰好をしてこの女が不思議に思うだろうとは気が付いていたが、何をするのも億劫おっくうとみには姿勢を変える気にもなれぬのであった。
 若い女らしく「あら!」といったような軽い驚きが極めて自然に秘書の唇から洩れて出た。書類を揃えているしなやかな指先から一枚の紙が抜き取られた。
「もうこれも下げましてよろしいのでございますか?」と瞳が輝いた。
「そう……」
 おそらく一瞬不思議そうな表情が、今朝から人間の表情というものを失っている私の面を、走ったことであったろう。
「まあ! さぞみんなも喜びますことでしょう」
 喜色が秘書の面に泛んだのも道理! そう言われてみればこの書類だけには私も覚えがある。若い男女の行員たちが、兼ねての宿志として市内クリスティナの海岸通りにある、銀行の担保流れの小さなダンスホールを改装して社員たちの舞踏ダンス場にしたいと希望していたのであった。そしてその一隅に酒場バーも設け、寝室も設備して、若い行員たちの土曜から日曜へかけての交歓場としたいのであったが、そのためには銀行は百七十万ペセタばかりのものを、行員の福祉施設として投げ出さなければならなかったのであった。行員たちは再三マジャルドーに歎願していたが、律儀一途のマジャルドーは頑としてかぶりを縦に振らなかった。ついに頭取の許可さえあればというところまで運んで、この書類は私のところへ廻されてきたのであったが、私は万事をマジャルドー任せにしているために、この書類だけを決裁してしまうというわけにもならず、書類はこのところ二十日間ばかりを朝晩秘書の手によって書類凾から未決の籠へ、未決の籠からまた書類凾へと、出し入れが繰り返されていたのであった。
 それを私は今一瀉いっしゃ千里の勢いで署名してしまったのであった。それがこの若い秘書には嬉しかったのであろう。
「私が賛成をしたと、行って支配人にそう言いたまえ! 君たちは若くて……健康なのだ。その若い健康なうちに人生を楽しみたまえ!」ついぞ一度も私からかけられたことのない砕けた言葉を受け取って、
「ハイ」と秘書は困ったようにモジモジしていたが、それっきりまた私が頬杖を突いているのを見るとほっとしたように、書類を抱えて出て行ってしまったのであった。
 その後ろ姿を凝乎じっと見送っていたが、跫音あしおとが廊下の向うへ消え去ったのを見澄まして、大急ぎで私は机の右たもとの一番下の抽斗ひきだしの鍵を開けた。そこの書類の詰まった一番奥にかねてマジャルドーのくれた新型の拳銃ピストル一梃いっちょうしまっておいたことを、ふとさっきから想い出していたからであった。今から二年ばかりも前、アルジェー反乱勃発の頃であった。政府の依頼によって西班牙エスパニア銀行団がシンジケートを組織してチェッコ、スコダ会社の機銃、小銃、拳銃等を大量に買い付けて、アルジェー政府軍へ送ったことがあった。その中に珍しい何梃かの消音拳銃ピストルが含まれていた。極めて最新型の右てのひらの中に完全に隠れてしまうくらいの、ごくごく小型なものであった。
「こんなもののお入り用な時もないでしょうが、あまりよくできていますから、二梃だけ検査官から貰っておきましたがいかがです。一梃取ってお置きになりませんか」と笑いながらマジャルドーが持って来てくれたのを、珍しいまま私も子供が玩具おもちゃでももてあそぶように、そのまま机の抽斗へブチ込んでおいたのをさっきから想い出したのであった。もちろん庭の立ち木にでも試みるつもりでくれたのであろうから実包とても沢山にはない。精々十五発程度のものが紙に包んで添えられていたのであったが、あたりを見廻しながらあかがね色をしたはがねの胴体に、手早く装填そうてんしてしまった。そしてうっすらと、窓から差し込んで春の夕陽ゆうひを受けて鈍い光を放っている冷たい膚を、凝乎じっと眺めながら洋袴ズボンのポケットへ納めたのであったが、もちろん今私の全身をたぎらせている憤怒と無念さを、この実包だけによって解決しようという纒まった考えなぞが私の頭にひらめいていたわけではない。ただ驚破すわといえば、いつなん時でもスグに相手を倒すことのできる武器を身に付けている、ということがさっきからの疎通口はけぐちを失ってムシャクシャした気持の中へ、一抹の爽やかさを吹き込んできただけのことであった。
 拳銃を腰に納めると、私は手を伸ばして呼鈴を押そうとした。銀行の法律顧問を勤めている弁護士のセザレ・アルバラードを呼んで、もう一度とっくりと、ベナビデスに対する報復の手段を相談してみようかと考えたからであった。かくも狡智こうちな犯罪を企図した、社会の攪乱者、人間性の破壊者に対しては、はたしてモネス探偵の言うごとく、現行の法律が手も足も出ないほどの無力なる存在であったかどうか、何とかしてこれに獄屋の苦しみを与えてやることはできないものかどうか、その点をもう一応も二応も、相談してみたいような衝動を感じたのであったが、私は手を呼鈴に触れたまま凝乎じっと考えていた。アルバラード弁護士に相談するためには、またまた私の口から浅ましい家庭の内状をつぶさにこの弁護士に打ち明けなければならぬ。それはもう私の堪え得るところではない。しかももはや、私の頭は疲れ切ってそんな細かい相談なぞは面倒臭くなってきた。くどくどと堪えられない身の上語りを蒸し返しているよりも、いっそのこと私は自分の手で法律に代って、そういう不徳漢や自分に対する裏切り者を、ことごとく腹の癒えるまで制裁してくれたくなった。そして私自身も――この忌まわしい身体を持った私自身の運命をも、一思いに法の制裁に任せて獄屋へ下った方がどのくらい気持が清々して、胸がスウッとするかわからないと考えたからであった。大体私のようなこんな呪わしい身体に生れ付いた人間が、銀行の頭取なぞに納まって社会の表面に立っていようというところに根本の錯誤があるのであった。こんな錯誤なぞは一思いに断ち切って、私の運命は私の身体に相応ふさわしい地獄の道へ還元してしまうが……その代り……その代りにはこの無念さ、腹立たしさ、残念さ、憤ろしさ、だけは必ず必ず晴らしてみせずにはかないぞ! と決心したからであった。そしてそう決心した瞬間、私はさっきから沸きたぎっていた憎悪と憤怒激昂が水でもかけられたように落ち付いて、一時に胸に涼風の吹き込んでくるような気持を感じたのであった。いわばさっきまで私にはまだ判然たる殺意というものがなく、ただ夢遊病者のごとくに拳銃を装填したりポケットに忍ばせてみたにすぎなかったのであろうが、この瞬間ベナビデスと妻とに対する完全なる殺意を生じたのであった。そして殺意を生じると同時に激憤していた気持が、一時に納まって何とも言えぬ一種の冷徹な爽涼感を、その中に見出してきたような気持であった。
 しかもその爽涼感たるや、何というかつて世にありとしも、私の知らなかった楽しさ限りなきものであったろうか。もはやそこには己を屈せしむべき何ものもなければ、忍辱にんにくすべき何ものすらもない。卑屈もらなければ、己を曲げてまで人に頭を下ぐべき何ものもない。人に厭わるる人間が強いて人から厭われまいとして、人間の仲間入りをして社会の羈絆きはんの中に暮そうと思えばこそ、そこには粉飾もあれば粉黛ふんたいもあり、恥もあれば忍辱もあり、私の四十何年の憂鬱至極な生活の鬱積があり、感情の跼蹐きょくせきがあった。しかし、自己も倒れてしまう限り相手をも倒してしまおうと、心を決めたところにはもはや何の鬱積、何の跼蹐ぞ! あるものはただ自由な天と地であり胸を張って大地に立つ蒼穹あおぞらへの呼吸であり、魂の昂揚であり、虚飾もなければ虚偽もなく、いわんや忍耐もなければ卑屈もない。
 何という大いなる霊性の飛翔であろう。私は自分がこの殺意を生じた時ほど、未だかつて覚えぬ爽涼感に心の開けてくるのを覚えたことはなかったのであった。そして過去の四十二年の生涯のこの時ほど自由な清新な空気を呼吸する、一個人の人間の喜びを感じたこともなかったのであった。そして、この時この瞬間ほど不具者かたわでありながら自分の両脚がシャンとしてスックと大地に四股しこを踏んで、両手を振って自由自在に闊歩のでき得るような、身内に力の充実してくるのを覚えずにはいられなかったのであった。しかもこの瞬間ほど世界の殺人者という殺人者、あらゆる犯罪者の心理が共感できるような気持を感じたこともなければ、財産、邸宅、社会的地位、学問、教養礼儀、等あらゆるこの世にまとえるものすべてをかなぐり棄てて、あらゆる犯罪者、殺人者に友よ! と呼びかけ得るような親しみを感じたこともなかったのであった。さっきまではただ無意識に弾込めして腰に帯びていた拳銃ピストルを、改めてもう一度抜き出してしみじみとした懐かしみと信頼の念とを寄せずにはいられなかったのであった。そしてこの時ほど、私は今まで自分が脳中に蓄えてきた数百巻の財政学も数千冊の経済学も、ありとあらゆる学問も思想も、私を世に起たしめる上にこの鈍色にぶいろをした拳銃ピストル一梃の持つ人生克服の威力、にすらも遠く及ばざることを感じたことはなかったのであった。

妻への答礼


 すべての勤め人たちは、日曜よりも日曜を前に控えた土曜日の晩の方が楽しいという。そして私自身の経験によっても、子供の時分父がどこぞへ連れて行ってやろうと約束してくれた時には、その前晩の方が楽しくてなかなか眠れず、床の中でハシャギ廻っていたことを覚えている。ちょうど殺意を生じた後の、私のこの気持がそれと同様であったということができるであろう。
 ハッキリと言うが……何度でもハッキリと繰り返すが、私の犯意は決して偶然でもなければ発作でもない。私にはそんな嘘偽りを述べ立てて、人の憐みを買おうという気持なぞは寸毫もない。私は実にかくのごとくにまで犯罪の前味を十二分に楽しんだのである。それをハッキリと知っておいていただこう。そして私はかくのごとき、胸も躍るような殺意の快感を心一杯に満喫しながら、相も変らず彫像のように、凝乎じっと机にもたれて考え込んでいたのであったが、もし知らぬ人が見たならば殺意を起しつつも、なお私が心の中で動揺していたと考える人があるかも知れぬ。あるいはまた、さらに周密なる犯罪計画を練るためには、凝乎と考慮をめぐらしていたと見る人があったかも知れぬ。しかしそのいずれも、決して正鵠せいこくを射てはいなかったのであった。私は動揺もしなければ、反省もしなかった。いったんかくと決めた心は、もはや微塵の身動みじろぎだにもせず、何らの躊躇ためらいをも感じていたわけではなかったが、同時に、また別段より緻密なる犯行を考えていたわけでもない。犯罪をしても自己の身を安全に捜査の眼をくらまそうと思えばこそ、緻密なる計画も周到なる用意をも必要としたわけなのであろうが、私のごとく己を投げ出してしまう決心でいる人間には、こうしたことなぞは何らの必要もないことであった。すなわち私はあとへ引っ繰りかえるということも想わなければ、前へ進むということも考えず、ただそうして頑是ない子供のように、単純に繰り返し繰り返し、自己の四十二年の屈辱の生涯を、ただの一瞬の間に魂の飛揚と変えてしまうであろう、殺人の愉快さを味わい楽しんでいたことであったが、そうした姿勢のまま私は行員たちももうとっくに退けて、人気のないガランとした階下の営業所の大時計がボウンボウンと侘しげに五時を打つのも聞いた。六時の鳴るのをも耳にした。七時の打つのも聞いた。八時の鳴るのも数えていた。駘蕩たいとうたる春の夕もようやくに暮れ、窓から見上げる真っ暗な大空には無数の星が燦々きらきらと輝いていた。そしてその星空の下に、バルセローナ全市の灯光は華やかに映えて、電飾やネオンがあちらこちらの高層建築や繁華街と覚しきあたりを彩っていた。市街には今春の宵の歓楽がそろそろと始まってきた頃であったろう。その頃まで電気を点けることも忘れ珈琲コオヒイの一杯、麪包パンの一片を取ることすらも忘れ、閉め切った部屋の蒸し暑さも忘れて、私は凝乎じっと机にもたれていた。すでにさっきから五、六時間もこうしていたのであろう。しかも夜の冷気も感じなければ喉も乾かず腹も空かず、ただ躍り上るような軽やかさ……真っ白な妻の肌に銃弾を打ち込み、狡智にけたベナビデスのおもてけて拳銃を発射する時の喜びばかりがくすぐるように、胸に込み上げていたのであった。夜間の巡視が始まったのであろう。その頃になって忍びやかな靴音がコトリ、コトリと階段のほとり、廊下の遠近おちこちに聞こえてきたのであった。そして私が茫然ぼんやりしている間に、またどのくらいかの時が過ぎ去ったのであろう。突然部屋の静寂は破られた。真っ暗闇の扉の把手ハンドルをガチャガチャと廻すと同時に、パッと飛鳥のように躍り込んで来た黒影がある。躍り込むと同時に、
「誰だ! 動くと撃つぞ!」
 パッとスイッチをひねって灯りが点けられた。頬杖を突いていた顔を挙げた途端、タイム・レコーダーを肩から吊った屈強な守衛が、拳銃ピストルを差し向けながら当惑顔に突っ立っているのが映ったのであった。
「どうもつい……存じませんでしたもので……頭取がおいでになるとは、つい存じませんでしたので……」
「巡視かね?」
「ハイ……」
 今私がこのとおりの恰好をしようと思っている矢先へ、先を越されて私は苦笑を禁じ合えなかった。
 まだ私の待っている時間までには間があった。今出て行ったのでは、少々早すぎるのであったが、これではどうにも仕方がない。私は渋々身を起し始めた。
「……さあ……では、そろそろ帰るとしようかね?」
「お車をお呼びいたしますでございますか?」
「なあに……それには及ばん……」
「ついどうも存じませんで……頭取がおいでとは夢にも存じませんでしたので……庶務の方から何の知らせもなかったものですから……つい存じませんで……あ、表玄関の方はもう閉まっておりますから唯今お開けいたしますから」
「いや、裏門から出て行くからかまわん」
 そして私は冷汗を拭きながら、小走りに先に立った守衛に潜り戸を開けてもらって、外へ出たのであったが、ジャズの狂燥、蓄音器の律動リズム、カスタネットの足踏み、女たちの合唱、自動車はせ交い灯光はきらびやかに、巷は今春宵の一刻を歓楽の中に躍り狂おうとしているところであった。そして私も、またその渦の中に巻き込まれながら、呼び留めて来るタクシーにも乗らず、さざめかしい街路をカタルニア街へと、ブラブラ歩を運ばせたことであったが。
 私の着いた時、狂喚と雑踏春の夜のさざめきとの一層狭苦しい街路に溢れたカタルニア街の中でもただ一軒ベナビデスの店だけは、鎧戸よろいどを降ろしてともしびを消してもはやまったく沈々たる闇の中に眠っていたのであった。そして厳重な扉の潜り戸の傍に付いている鉄のを鳴らして、小窓が開いてそこに人の眼がのぞくまでにはおよそ何十分くらいもたっての後であったろうか。
誰方どなたですかい?」と胡散臭そうにその眼がまばたいた。
「私はいつぞや君のところから犬を買ったアレサンドロというものだが、ちょっと主人に話したいことがあって来たのだが」
「どういう御用でしょうかね? もう店を閉めてしまいましたから、明日の朝にしてもらえませんかね?」
「そういかんのだ。家内が是非今夜中に話して来てもらいたいと家で待ってるんでね。……手間は取らせぬからちょっと話したいのだが」
「どんな御用でしょうかな? ここでおっしゃることはできませんかい?」
「手間は決して取らせんと言っているのだ……表で話すというわけにもならんのだが」
「そうですかい……じゃ仕方がない……お名前は何とか仰いましたな?」
「アベニイダ・フロリダ街のロドリゲス・アレサンドロ……いつぞや犬を買ったことがある……帳面を見てくれればわかるはずだが……」
「そうですかい……ちょっと待ってて下さい……」
 そして中ではやはり私の言葉を帳面で照らし合わせているのであろう。やっと怪しいものではないという見窮めが付いたものか、恐ろしく暇のかかった末、今度は小窓が開かずにガチャガチャと鍵を廻して表戸が開いたのであった。
「フリオ・ベナビデスさんはいるかね?」
「フリオは私ですがね……一体何の御用ですかい?」
 ベナビデスはまたいつぞやのように破れ卓子テーブルを前にした向う側に突っ立っていた。天井から垂れた薄暗い電灯の影を受けて、両側に積み上げられたむさくるしい獣のおり……湿め湿めとした細長い土間……高い光も届かぬ天井……そして戸を閉め切った室内に殊にこもった獣特有のえた臭い……まったくこの間どおりの陰惨さであった。しかも表戸を降ろした室内に、まだ起きて帳面でもけていたのであろうか? 妙に皺の多い瘠せた顔の奥から、金壺眼かなつぼまなこを眼鏡越しに光らせている姿……鉤裂かぎざきだらけの上衣を着けて、ジロジロと穴のあくほど人の顔を眺め廻している貧相な小男の四十男! 正しくフリオ・ベナビデスその者に間違いはないのであった。
「犬でも御入用だと仰るのでしょうかな?」
「私の顔に見覚えがあるかね?」
「いつぞや奥様も御一緒にいらした……ルロイ・ソレルの夫人おくさまからの御紹介だとか仰った……」
「そうだ! 覚えていたね。……実はあの時、君のところから買った犬のことで、少し話があって来たんだがね」
「あの犬がどうかしましたかい?」
「そう……あの犬のことで、君にくれぐれも礼を言ってもらいたいと家内が言ってるのだ」
「…………」
「手を挙げたまえ! ベナビデス君」
 その眼の前へいきなり私は拳銃を突き付けてくれた。
「お、っ!」
卓子テーブルの側を離れたまえ! 愚図愚図していると弾が飛ぶかも知れぬよ!」
 両手を差し挙げたままベナビデスは、不承不承に卓子の傍を離れた。これでもう隙を見て卓子テーブルを私の方へ蹴倒すこともできなければ、卓子テーブルの下から兇器を取りだすことも不可能になったのであった。
「私はロドリゲス・アレサンドロというものだ。家内があの犬のお陰で君に大変世話になったと……是非行ってくれぐれも礼を言って来てもらいたいと……私からも厚く礼を言うよ。私の言ってることがどういう意味か、君にはよく飲み込めるはずだね。ベナビデス君手は挙げていた方がいいだろうね。私は臆病だから弾が飛び出すといけないからね……」と私は薄笑みをらした。下りかけていたベナビデスの両手が慌てて伸びた。
「これからとっくりと礼を言いたいのだが……その前に一言聞かせてもらいたいね、あの犬の売れ残りはまだあるかね?」
「し……下階したに……下階にいる」
「そこへ案内してもらいたいね、向う向きになってね! もっと手を高く挙げてね!」
 仕方なくベナビデスは、手を挙げたまま向う向きになって歩み出した。高く重ねられた檻が両側から今にも崩れ落ちんばかりにおおい被さって、すこぶる細長い通路であった。五、六ヤード奥へ進むと、左側にベナビデスの寝起きしている部屋であろう、換気の利かなそうな灯を消した真っ暗な部屋があった。この部屋の壁に沿うて突き当った右側が二階へ上る段梯子になる。その上り口の揚げ蓋の下がまた段梯子になって、これが地下室へと導いているのであった。
「電気を点けたまえ!」
「階段の下になっているから」
「では……先へ降りて点けたまえ!」
 そして私はその梯子を二、三段降りたところで、拳銃ピストルを構えていた。陰湿な臭気が一層プウンと鼻を衝いてくる。地下室というよりはまったくのあなぐらであった。パッと地下から光が射してくる。右側も左側も三段四段に重ねられて、ここもまた店と同じくおびただしい犬の古檻ふるおりであった。空の檻もあれば犬のはいっている檻もある。
「なぜ手を降ろすんだね! ベナビデス君! よくこの拳銃ピストルを見たまえ、消音になっているよ! いいかね、弾が飛び出して君が倒れても、音を聞いて君を助けに来るものなぞは一人もおりはせぬよ!」
 両側に檻の重ねられたその通路の中央を突き当り、街路に面したと覚しい窓際には、脚のガタガタの安卓子テーブルが据えられてなるほどモネス探偵の言ったとおり、その上には顕微鏡や薬瓶、試験管、フラスコなぞが雑然と載っていた。
「犬はどこにいるんだね?」
「そ……そこにいる……そことそこに……」
 たださえ薄暗い電灯の光が、檻の中までは射し込んでいなかった。ハッキリとは見えなかったが、いずれもその犬らしい恰好をしていた。一匹は丸くなってよく眠っていたが、もう一匹の方は起ち上って不安そうにクンクン檻の中を嗅ぎ廻っていた。
「では……もう一つ君に聞きたいが、君の店で一番高価な犬はどこにいるかね? ハッキリと教えてくれたまえ! 嘘を吐くと危険だからね」
「そ……それと……それだけだ!」
 これも光線がさえぎられてハッキリとはわからなかったが、一つはケアンテリア種、一つはペキニイスの純粋種らしく思われた。しかもベナビデスの料簡では、これらの問いを私が発したことに急に安心を覚えたらしく、これらの犬を強奪することが私の闖入ちんにゅうの目的であって、命の危険はないとでも安心したのであろうか。そして犬ならば、はこび出されても後で安全に取り戻せるとでも高を括っていたのであろう。銃口の前に両手を挙げてはいるが、どこかに不敵な落ち付きを見せてきた。狡猾こうかつそうな瞳が急にキョロキョロとせわしなく動き出して来た。
「もそっと後方うしろ退きたまえ! もそっと後方の方へ!」
 私はまず最初にベナビデスの指した二匹の檻の前へ近付いた。
「これだね?」
「…………」不敵な調子でふてぶてしくベナビデスがうなずいた。
「なるほど、同じ種類のようだね」カチリと引金を引くと同時に拳銃ピストルはシューッと鋭い閃光を発して、プスッと犬の胴体は鈍い音を立てた。さすがに無音とはいいながらも、この閃光と音だけはいかんとも消すことができなかったのであろう。断末魔の叫びもなく、犬は眠ったまま後脚をピクピクと二、三度痙攣けいれんさせて息が絶えた。
ッ、貴方は! 貴方は!」
「声を挙げるんじゃないよ、ベナビデス君! 騒ぐと君にも飛ぶといけないからね! これだったね、もう一匹の方は!」
 カチリ! シューッと閃光を発すると、これもプスッと鈍い音を立てて檻の中を嗅ぎ廻っていた犬は、もたれるような恰好で前脚を伸ばして、グウと喉を鳴らすとそのままガックリと前のめりに崩れた。まだ腹が脈うっていた。そして凄まじい煙硝の臭いが、湿め付いたあなぐらの空気の中に鼻を衝かんばかりでこもってきた。
「ベナビデス君! もう少し後方あとへ下りたまえ! 騒ぐとすぐ弾が飛ぶからね。……どうだね、わかったかね? この拳銃ピストルの味が!」私は八フィートを隔ててベナビデスと向い合っていた。さすがにこの瞬間穏やかな言葉の背後に死の予感を感じたのであろう。夜目にもしるくベナビデスの面は真っ青であった。挙げている両手も脚も烈しくふるえ出してきた。
「ベナビデス君! 答えてくれたまえ! 君はどういう怨みがあって、ああいう犬を売って私の家庭を破壊してくれたのかね? そのわけを聞かせてくれたまえ!」
「…………」
「言えないのかね? 言えなければ撃とうかね?」
 心持照準を挙げてベナビデスの心臓と覚しきあたりへ、凝乎じっと銃口を向けていた。
「……い……い……言います……言います……ご、後生ですから助けて下さい……どんな謝罪でもします……ど……どんな謝罪でも……ちょ……ちょっと待って下さい」
 歯の根も合わぬくらいガタガタぶるいであった。私は照準をまた心持下げてくれた。
「どんな謝罪をしてくれるのかね……?」
「二百万ペセタ……三百万ペセタ……六百万ペセタ……」しどろもどろであった。何を言ってるのかもはや自分にもわからなかったであろう。
「みんな差し上げます……どんな謝罪でもします……ご、後生ですから……い……命だけはお助け下さい」
「そんなに命が惜しいのかね?」
「ご、後生……一生のお願いですから命だけはお助け下さい……命さえ助けて下されば、も、……もう、どんな御相談にでも乗ります……ど……どうぞお願いですからお助け下さい、お願いです」
「私も命が惜しかった! しかし今日はここへ棄てに来たのだよ、その代り君の命も貰おうかと思ってね。さ、大分話が長くなった。そろそろ撃とうかね?」私はもう一度照準を付け直した。
「……貴……貴方……ベ……ベナビデスの一生のお願いです、どうか許して下さい……わ……私が悪かったから……い……一生の御恩に着ます……仰ることは……な、何でもしますから」
 途端にもし私が身をねじらなかったならば、私は風を切って飛んで来たその重い物体を真正面まともに身に受けて向うより先にこちらがけ反らなければならなかったであろう。ベナビデスが素早く猿臂えんぴを伸ばして、背後うしろの机の顕微鏡を取って投げ付けたのであった。顕微鏡はくるくると舞って後方の空檻からおりにドカーンと烈しい音をたてた。
「ベナビデス君、手を挙げていたまえ、手を……君は油断のならぬ人だね……誠意というもののサッパリない人だ!」
「ああ、もうどうしたらいいんだろう!」とベナビデスが身もだえして泣き叫んだ。「気が違いそうです! 貴……貴方お願いですから助けて下さいと言うに……何でもするから助けて下さいと言うに」
「狙いを付けられていると苦しいかね?」
「気が違いそうだ……後……後生一生のお願いです、どんなことでもしますから……た……助けて……」
「そしてまた顕微鏡を投げるのかね?」と狙いを付けたまま私は声に出して笑った。「私も君に狙いを付けられてその幾層倍を苦しんだのだよ。今君にもその苦しみがわかったかね?」
「ひ……人殺し! ……だ……誰か助けてくれえ!」もはや前後の見境が付かなくなったのであろう。突然烈しい絶叫であった。もう仕方がない! わめかれてはやむを得なかった。カチリ、シューッ! カチリ、シューッ! と続けざまに私の拳銃ピストルは火花を発した。
「……助けて……くれい!」
 カチリ! シューッとまた火花を吐いた。
 どうと俯伏せに倒れたベナビデスの身体眼蒐めがけて、また一発! 続けてもう一発! 挙げていた片脚をパタッと降ろしてそれで動かなくなった。続けて最後にもう一発! 動かぬ身体眼蒐けてブチ込んだ。都合六発! ハッキリと覚えている。全部で六発の弾を、この男の身体に打ち込んでくれたのだ。
 続いて私は、ポケットの実包ことごとくを装填して、さっきのケアンテリアとペキニイスの檻眼蒐けて撃ち込んだ。しかしこの頃には、もう全部の犬という犬のことごとくは室内に充満した鼻を衝かんばかりの、異様な臭気と物音に眼を醒まして、命の危険を知る動物の本能からか、グラグラと積み重ねられた檻も崩れ落ちんばかりに狂い立って、耳もろうせんばかりのけたたましいき声を挙げていた。もう一発また一発もう一発! どれこれの差別なく、手当り次第に私は犬の檻眼蒐けて放ちつつ梯子段を登った。登り詰めると起してあった揚げ蓋をパターンと閉じた。地底の喧騒と咆哮はたちまち海嘯つなみのように遠ざかって、店の犬もまたキャンキャン啼き始めてきた。これにも一発くれようとしたが、すでに撃ち尽したのか引金を引いても弾は出てこなかった。私は積み重ねられた檻を眼蒐けて拳銃を叩き付けた。くるくると舞いながら拳銃は檻の背後へ落ちたのであろう、ドチャーン! と凄い音がした。そして烈しく耳を打ってくる足の下と、周囲まわりの犬の啼き声に送られて私は表へ飛び出した。そして、おぼろな月の照らしている春の夜のさざめきの中へと紛れ込んでしまったのであった。

遺言状


 翌る朝サンタルシアが丘の別荘の二階の寝室で、私が眠りから醒めたのは朝の五時前後くらいであったろうか、付近の森や木立はまだ乳を溶かしたような朝靄あさもやに閉じ込められて、深々とした暁の眠りのうちにあった。さすがに悪人とはいえ、人ひとり殺した後の眠りはそう快適なものとは言われなかったが、しかし世の中でよく言う殺人後のうなされるような後味なぞというものは、微塵も私の心には残らなかった。もちろん記憶にいささかの混濁もなく、昨夜ゆうべどういう風にベナビデスの店を出てどこでタクシーを拾って、どういう道筋をここまで帰って来たかということも――ベナビデスの店の表戸の閉め加減から、乗って来た自動車の運転手の額の皺までアリアリと覚えているのであったが、ただ一つ心残りでならなかったのは、あんなにアッサリと殺してしまわずに、もっともっと拳銃ピストルの照準を付けたり外したり、外したり狙ったりしてベナビデスの冷汗を存分に流させた挙句、脚部に撃ち込んだり腕に発射したり、もっともっと長い時間をかけて七転八倒の苦しみを味わわせながら、なぶり殺しにしたかったということなのであった。
 しかしあの場合ベナビデスが夢中になって大声を出しているのに、そんな悠長な真似をしていて、開いていた表戸からもし人でもはいって来たならば、かえってアブハチ取らずに終ったであろうと考え直して、わずかに自分の執った処置に、慰めと満足とを覚えていたのであった。その朝寝起きの私の脳裏に泛み上ってきたのはわずかにそれだけであって、後悔とか悔恨とかいった気持なぞはの毛で突いたほどにも感じてはこなかったのであった。
 そして七時頃には顔も剃ればいつものように朝のシャワーも浴び、サッパリと身仕度を整えて階下の食堂へも出て来れば、また朝の食事とても不断と何の変りもなく旨く摂ることができたのであったが、麪包パンを割きながら眼を走らせた新聞には、まだただの一行も昨夜ゆうべの事件は載っていなかった。よしんば出ていたところで私は別に逃げ隠れしようと考えているのではない。妻を殺すまで今日たった一日一晩だけの自由さえあれば、後はもういかなる運命が襲いかかって来ようともいとわないのであったから、そう怯々びくびくすることもないのであったが、それでも昨夜の記事が出ていないということはさすがに私の心をほっとさせた。
 やがて私は嫩葉わかばの森に囲繞いにょうせられたヴェランダへ出て、食後の煙草を楽しんだり、白菖マートルの生えた池のほとり逍遥さまよいながら、籐の寝椅子にもたれてうとうとと昨夜ゆうべの足りぬ眠りを補ったり、他所眼よそめにはいつもと何の変りもない静かな別荘の昼前の時間を過ごしていたのであったが、さすがにいくら気持が落ち付いていたとはいえ人一人殺してしまった今となっては、たとえ時間つぶしでも本だけはもう眼を通す気にもなれなかった。仕方がないから葡萄の葉が陽をさえぎっている四阿あずまやの中で時間潰し旁々かたがた、心残りのないように遺言状を一通したためておくことにしたのであった。
 私は別段妻を殺したら自分も死のうなぞと考えていたわけではなかった。死ぬのが恐ろしかったりあわよくば逃亡しようなぞと考えていたからでは毛頭もない。人を殺して逃亡したとてもどうせ旨々とその筋の眼をくらまして一生を安穏に送ることのできないのはわかり切っていることであったから、そんな手数のかかることをしようなぞとは毛頭も考えなかったが、さりとて自殺をしようというほどの判然たる意志を、固めていたわけでもなかった。今の私にとっては怨み重なる妻を――妻が私の妻と呼ばれることを厭うて、伯爵夫人を呼称しているならばそれでもいい。その怨み重なる伯爵夫人を――いかにして自分の気持の癒えるまでなぶり殺しにするかということだけが、今の私にとっては手一杯の問題で、そんな妻を殺した後の私自身の始末なぞはその場の都合でどうでもいいことなのであった。気が向けば自首して出てもいいし自首が間に合わずに逮捕されたとならば、それでも差し支えないし、また場合によって死にたくなったら自殺してもかまわぬし……万事その場の成り行きに任せるつもりなのであった。どうせ自首したからとて逮捕されたからとて、おそかれ早かれ死刑は免れぬところであってみれば、慌てて自分で拳銃なぞを自分の喉頸のどくびへ当てずとも、いつでも死ねるではないかという気持がしたからであった。が、しかしそれにもかかわらず遺言状だけは今のうちに認めておきたかった。死ねばもちろんたとえ逮捕されて獄屋に繋がれても自筆の遺言状さえ用意しておけば、後顧の憂いがなく心が常にゆたかに保てると思ったからであった。その時葡萄棚の下で私の作った遺言状というのは次のごときものであった。

      遺言状
一、本遺言状は一九四五年四月二十一日、サンタルシアの別荘において余ロドリゲス・アレサンドロが何人にも拘束せられぬ自由なる意志をもって表明せる唯一の遺言状であって、本遺言状以外に余は一通の遺言状をも作製していないことをここにハッキリと明言する。
一、本遺言状は余の銀行の顧問弁護士たるセザレ・アルバラード氏において、余の死後即時効力を発生せしむるよう法律上の手続きを踏んでもらいたい。
一、余の所有財産であるバルセローナ銀行はもとよりこれに属する一切、アベニイダ・フロリダ街における余の本邸及びこれに属する一切、サンタルシアにおける余の別荘及びこれに属する一切、その他余の所有農園牧場、バルセローナ市中に散在する余個人の地所貸ビルディング等、およそこの地上に余が有し余の所有権利たるべき一切は、たとえ余の主宰せるバルセローナ快走艇ヨット倶楽部に余の有する快走艇ヨット二隻の末に至るまで、ことごとく挙げてこれを余の幼時よりの忠実なる輔佐役でありまた余の唯一の親しき友人たりしアロンゾ・マジャルドー氏に贈呈する。もしマジャルドー氏死亡の際は同氏の相続者によって継承せらるべきものである。
一、マジャルドー氏は余のごとき不具者救済のため、余より受けたる財産中の幾分かを割いて公共団体に寄贈してくれたならば余は本望である。その金額及び寄付先等は一切マジャルドー氏の自由である。余の気心を知るものマジャルドー氏にく者はないのであるから、同氏は必ずや適当に余の願いを達せしめてくれるであろう。裁量は一切マジャルドー氏にお任せする。
一、ただし一九四五年四月二十日すなわち頭取として執務せる余の最後の日に余の決裁せる行員舞踏倶楽部だけは、同日現在においてバルセローナ銀行員たりし者の共有物として右マジャルドー氏への贈呈財産中より除外し、余は前掲のごとくこの建物をバルセローナ銀行員各氏に贈呈することとしたい。
一、ドローレスは余の正妻であった。現在においても余は限りなく彼女を愛している。しかし彼女に対しては余は一物たりとも与うる義務を感ぜぬ。彼女に与うべきものはすでに充分に与え尽したことを知るからである。そして別に余は余が彼女を愛するが故の最大なる贈物として、今夜半もしくは明日中に死を与うるつもりだからである。
一、ドローレスの死後彼女の一族中より余の正妻たりしドローレスの血縁として余の財産継承権ありと主張するものが現れるであろう。その場合は顧問弁護士セザレ・アルバラード氏においてはマジャルドー氏らと力をあわせ、極力法廷に係争して余のために最善を尽し、決して彼らの手に一物たりとも渡らぬよう余は特にこの点をアルバラード氏に依頼しておきたい。
一、もしやむなくその係争に敗れたる場合にも、法律の認むる最少を彼らに譲渡せらるよう重ねてアルバラード氏に依頼する。
一、セザレ・アルバラード氏が顧問弁護士たると否とにかかわらず、同氏存命の限りバルセローナ銀行はすくなくとも年額三十万ペセタ以上の金額を終身年金として同氏に贈与せられたい。これがバルセローナ銀行に対する唯一にして無二なる余の希望である。
一、この遺言状に認むる前晩余はカタルニア街の犬商フリオ・ベナビデスなるものを殺害した。またでき得ればおそらく今夜前掲のごとく余の愛の贈物として妻ドローレスに死を与うるつもりである。その間のわずかなる時間を割いて余はこの遺言状を作製した。したがって余の死後、この遺言状作製当時の余の精神状態が問題となるべきをおもんぱかり、あらかじめ一言ここに自証しておく。
 余のこれらの殺人はことごとく何人にも強要せられぬ余の自由なる意志に基く殺人行為であって、決して発作でもなければ精神錯乱の結果でもない。充分に計画的のものである。したがって余の精神もまた冷静にして正常なる状態においてこの遺言状は作製せられたものである。
 一九四五年四月二十一日
サンタルシアが丘別荘において
ロドリゲス・アレサンドロ

 認め終ってからこれを厳重な二重封筒に入れて私は弁護士セザレ・アルバラードの宛名を書いた。そしてこれをしっかと内懐うちぶところに納めたが、これでもはや私のなすべき用意はすべてなし終えたのであった。後はただブラブラとして日の暮れるのを待てばいいだけであったが、夜更けてドローレスが帰宅して来るまでには召使たちの始末を付けておかなければならぬ。そして私が躍り込んで行って絶体絶命の場合には、おそらくドローレスは電話に飛び付くであろうから、電話の線も前もって切断しておく必要があるし、それともう一つは私は拳銃をもう一梃いっちょう本邸の書斎に持っていた。使ったことのない物であったから、これも手入れをして充分に弾込めをしておかなければならぬ。旁々かたがたもって今日は出勤せぬ旨を銀行へ電話させておいて、午後の三時頃には私は迎えに来た自動車でアベニイダ・フロリダ街の本邸へと引き揚げて来たのであった。がすでにこの時刻には夕刊市内版の第一版は辻々で売られていたが、車を停めて運転手に買わせてみても、やはり昨夜ゆうべの出来事は一行たりとも記載されてはいないのであった。エル・コメルシオ紙、ラ・プレムサ紙、ウニベルサール紙いずれにもただの一行も出てはいなかった。おそらく揚げ蓋を降ろした無人の窖中あなぐらちゅうの出来事であったから、まだ人目には付かぬのであろうと推察したが、いずれにしても私にとっては満足この上もないことであった。そして私は召使のユアンに出迎えられて本邸へ帰って来たのであったが、言うまでもなくドローレスはもちろん外出中だった。しかも今日だけは何はばかるところとてもなく私は妻の行先を尋ねて、イサベール・デ・イズラ公爵夫人の茶会からデイムナ・カムペアドール夫人の夜会へ廻って、帰りはおそらく十時半か十一時頃にもなるであろうということをユアンの口から確かめ得たのであった。
「十時半か十一時頃なのだな……よろしい十一時頃と……」
 とさりげなく私は頷いた。「ところでユアン! 気の毒だがサンタルシアの別荘まで行って私の寝室の書棚からベラスケスの基督キリストという本を」と私は別荘に置いてある適当な書物の名を一冊挙げた。「取って来てもらいたいのだが、……ただし今夜見るわけではないのだから別段急いで帰って来るには及ばぬ。わしから用事を言い付けられたということにしておいて、今夜一晩は自由に外泊して来てよろしい。実は奥さんには内証で、お前だけにはかねがね一晩くらい暇をやりたいと考えていたのだから、このついでに遊んで来てもよろしい……本は明日持って来ればいいのだから、これはわずかだが、ほんのわしの気持だ」
「滅相もない旦那様! そんなお心付けまで頂戴いたしましては! そんな……そんな」と薄気味悪そうに押し返すユアンの手に私は無理に若干そくばくを受け取らせてくれた。
「ただしこれは外の召使たちに絶対に内証にしてな! 公平を欠くように思われても困るから」
 そして喜色満面でユアンを飛び出させてしまうと、今度は給仕頭を呼び付けた。給仕頭はガルボをめさせて友達の紹介で、新しくサンチョーというのを妻は雇い入れていたのであった。
「サンチョー」と私は給仕頭に言った。「知ってるだろうが、奥さんは今夜カムペアドール夫人の宴会へ出掛けているが、今私のところへ電話で頼んできた。今夜はカムペアドール夫人のところから、友達七、八人ばかりと一緒に帰って来るそうだ。徹夜で一晩中無礼講で遊ぶんだそうだから、召使たちには全部一晩の休暇を与えておくようにと頼んできた。今夜はお前たち全部いてくれない方が、都合がよろしいそうだ。私の夕食の仕度だけしておいてくれたら、お前たちも出掛けてよろしい。みんなにも一晩ずつの休暇を、明日の朝の八時頃までに帰って来るようにそう言っておいてもらいたい。奥さんの言い付けだから金は一人に三十ペセタずつ渡してやりなさい」
かしこまりました。旦那様早速そう申し伝えるでございます。さぞみんな喜びますことでございましょう」
「そうそう奥さんがそう言っていた。テレサが寝室の鍵を預かっているそうだから、それを受け取っておくようにとのことだった。後で私のところまで届けさせて欲しい」
「畏まりました。旦那様」
 給仕頭のサンチョーは、早速これを全部の召使たちに知らせて金を分配したのであろう。邸内のあちこちからは、何とはなしに声のない歓声らしいものが湧き起って、気のせいかうわずった靴音が入り乱れるような気持がした。そしてそれぞれに仕度をして、鳥がねぐらを飛び立つように裏門から出て行くのであろう。ドローレスの最も信頼している小間使のテレサすらも、私の言ってることが根も葉もない嘘だとは夢にも思わなかったのであろう、
「では旦那様、奥様のお部屋のお鍵をここへお載せしてまいりますから」と鍵束を私の机の上に置いた。
「明朝は必ず八時までに帰ってまいりますから」
「ああいいとも……いいとも」
 邸の中は一刻増しに森閑しいんと鳴りを潜めてきたが、最後に給仕頭がはいって来た時は、これも見慣れた仕着せを脱いでよそ行きの小粋な背広姿であった。
「旦那様……全部仰せのとおりに致しました。みんな喜んでまいりましたが、門番夫婦はいかが致しましょうか?」
「どうもこれだけは門の開閉あけたてをするのだから出て行かれては困るな、金だけをやっておいてもらおうか」
 門番夫婦はいずれも耳の遠い老人の夫婦であった。おまけに植込みを隔てて遠く離れた正門脇の小舎に住んでいるのであったから、この二人だけはいたからとて何の妨げにもならぬのであった。
かしこまりました。では私もお言葉に甘えまして明朝八時までには必ず帰ってまいりますが、そういたしますると奥様お帰りまではお邸の中は、旦那様お一人ということになりますから、もしまた裏門の方からでも誰かまいりますとお困りでございましょう。台所口、裏門の方は全部私鍵をかけておきましてございますが、それでよろしゅうございましたでしょうか?」
「ああそうしておいてくれたら都合がいいな、ではお前にも気の毒だから、さ、少し早いようだが食事にしてもらおうかな!」
 かくてその給仕頭もやがて私の食事が済むと、これもまたソワソワと出て行ってしまった。
 後には広いガランとした邸の中に妻の帰って来るまでは、いよいよ私一人っきりとなったのであったが、いざという時拳銃ピストルや刃物なぞを妻から振り廻されてははなはだ厄介であった。妻の部屋にそういうものが隠されてあるかどうか、それもひそかに調べておかなければならなかったし私の用いる拳銃の弾込めをしておかなければならず、そして何よりもまず第一に前もって妻の寝室の電話線だけは切断しておく必要がある。一人になると急に忙しくなってきた自分を感じながら、私はさっきテレサが机の上に載せて行った妻の寝室の鍵をいよいよ執り上げたのであったが、自分にはわからなかった。……私自身には少しもわからなかったが、しかしもしその時私の顔を窓からでも誰か垣間見た人があったならば、おそらくはすでにそこに殺人の鬼気を感じ取ったことであろう……と考えている。

一糸纏わぬ妻


 そして給仕頭のサンチョーも出て行った後広い邸の中には私ただ一人……食堂から持ち込んだマンザニーラの盃をチビリチビリと傾けて書斎に時を過ごしていたのであったが、九時……十時……その時が近付いてくるに従って胸を躍らせながら、遠くから響いてくる自動車の音に耳を澄ましていたのであった。が、十一時ついに待ちに待った妻の自動車はいよいよ砂利をきしませて門内に滑り込んで来たのであった。妻は自分の留守中にこうまで私の手配りが届いているとは、つゆいささかも気が付かなかったのであろう。コツコツといつものごとくかかとの高い靴で絨毯じゅうたんを踏んで、二階へ上って行く音が私の耳を打ってくる。それがすっかり階上へ上り切ってしまった頃を見澄まして、私はそうっと書斎を立ち出でた。その辺に給仕の姿は見えずとも、やがて扉の締りを付けるとでも思っていたのであろう、玄関の扉はさっと引き開けたままになっている。私はその扉をさも玄関番の給仕でも閉めているかのごとく音立てて閉めて電気を消すと、その一角からそうっと戸外そとへ滑り出た。春の夜とはいいながら、夜気が冷たく襟頸へみ込んで、利鎌りれんのような凄い下弦の月が植込みのはずれにかかっている。自動車を車庫へ入れて妻の運転手は、今出て来るところであった。
「おいボルダロ!」
 呼んだのが私とわかったのであろう、怪訝けげんそうにしかし硬くなって、
「ハ!」とボルダロは佇立ちょりつした。
「お前は知るまいが、今夜は奥さんの友達が大分家へ来て泊っている。召使たち全部には朝八時まで一晩の休暇をやることにしたから、お前にもその休暇をやる」
「ハイ!」
「これはわずかだが……みんなにもやったことだから」
「ハ! それはどうも……」と運転手は帽子を脱いだ。
「玄関の方はもう戸締りをしてしまったから、このままスグ行ってよろしい!」
「ハ!」何を言ってもハ、ハ言ってるばかりで此奴こいつはちっとも出かけたがらぬ奴であった。
「遠慮せんでスグ行ってもいいのだ。なまじ服なんぞ着換えにはいって、お客様方の眼に付いてもかえって何だからスグ行った方がよかろう。バルカももう出かけて行った」バルカはもう一人の運転手であった。
「旦那様はどちらかへお出かけでございましょうか?」
「なに、私は庭をブラ付いとるだけだ」
「そうしますと……ほんとうにこのまま出かけましてもよろしいのでございましょうか?」
「かまわん、かまわん! むしろその方がよろしいのだ」
 この運転手だけは何か気の進まぬ浮かぬ風であったが、私は手を取らんばかりにして遮二無二かし立ててしまった。そして運転手の姿が門前へ消えるのを待って、つと門番小舎の中へはいって行った。
「お、これは旦那様でございましたか。先程は大枚なお金を頂戴いたしまして」と門番夫婦は吃驚びっくりした。「何とも有難いことでござりまして」
「今夜は少し心祝いがあってな……みんなに少しずつだがやったのだ。無人だからスグ門を閉めてもらおうか。今夜だけは誰が来ても……仮に召使たちが帰って来ても、明日の朝までは絶対に開けんようにな。私がそう言ったと言えばいいから決して門を開けてはならぬぞ!」
かしこまりました……でも旦那様何かお邸でございますのでしょうか?」
「なあに何にもあるわけではないさ……たまにはみんなにも息抜きをさせたいからだハハハ……」
 と私は笑いに紛らわせたが、耳の遠い善良な門番は、
「それはまあお情深いことで……みんなもいい保養をいたしてまいりますでしょう」と十字を切った。そして早速門を閉めにかかっているのであろう。車寄せの方へ木立の砂利道を引っ返して来る私の背後から、ギギイと重いきしみを立てて鉄扉のレールを滑っている音が、夜陰の空に響いてくるのであった。
 私は玄関へ戻るとスグに厳重な錠を扉に降ろしてしまった。もうこれでこの広い建物の中にいるものとてはいよいよ私と妻との二人っきりになったのであった。
 そして居間へは引き取ったものの、誰一人用を足しに上って来るものもないのに業を煮やしたのであろう、階上の妻の寝室からは盛んに小間使たちを呼んでいるとみえて、遥かの厨房の方では引っ切りなしに呼鈴の鳴り響いているのが、妻の苛立ちを眼に見るように伝えてくるのであった。それを聞き流しながら私はまた自分の書斎へ取って返したが、机の抽斗ひきだしから、用意しておいた拳銃ピストルや、さっきテレサの残して行った鍵を取り上げると、今夜こそいよいよ勝ち誇ったような気持で、階上へと歩を運んで行ったのであった。しかもびっこは引きながらも、私がこんなにも大股にしっかと足を踏み締めて、悠然と二階へ上って行ったのは、一体ここ何カ月ぶりのことであったろうか。もはや今晩こそは、何とわめこうと何と泣き叫ぼうと、もはやただ一人の雇人もいないのであった。相変らず呼鈴は鳴り続けている。
「鳴らせ……鳴らせ……死物狂いで呼鈴を鳴らせ! そのうち夜が明けたら誰か上って来るだろう」とせせら笑わんばかりの気持で、私は寝室へと近付いて行った。案の定寝室には鍵がかかっていた。しかし少しも驚かぬ。私は悠然と鍵を廻して中へはいって行った。はいると同時に頭ごなしに恐ろしいとがり声が飛んできた。「こんなに呼んでるのに一体何をしていたんです? お前たちまで私を莫迦におしかえ?」妻は椅子にかけてこちらに背を見せながら、振り向きもせずに苛立ち切った調子で癇声を張り上げた。夜会服は脱いだが小間使が出て来ないために何をする気もないといったように、椅子にかけたまま呼鈴専門にかかっている風であった。そしてはいって来たのは小間使であって、まさか私がはいって来たとは夢にも思わなかったであろう。シュミーズに靴下だけ……豊かな肩も肌もまる出しであった。返事がないのによけい苛立ったのであろう、
「どうしてこんなにいつまでも出て来てくれなかったの?」
 と、一層尖り声を出した。
「お前には特別目をかけてると思ってあんまり付け上ると……あたしにも考えがありますよ」
 それでも私は黙って扉にもたれていた。再び鎖※さやく[#「鑰−口」、254-12]した錠は抜いてお手玉でも取るようにもてあそんでいた。
「ね、どうしたの? なぜ黙っているの? 返事をおしなさい! 何とか返事をしたらどう?」
 怒りの絶項に達したような突っ慳貪けんどんな声をあげてふと背後うしろを振り向いた途端、私は今でもこの時の笑止千万を……そして私にとって快この上もない胸の透くような想い出を忘れることができぬのであった。
「おう!」と異様な叫びを挙げるとシュミーズ一つのしどけなさも忘れて電気に打たれたごとくに突っ立った。
「……貴方は……貴方は……どこからはいって来ました? 恥をお知りなさい! ロドリゲス! 恥を!」
 満面朱を注いで憎悪に燃えるようないきどおろしさのそれであった。が相変らず扉に凭れたまま私はニヤニヤと姿勢も変えずにいた。
「出て下さい……スグに出て! 紳士のくせに鍵を破ってはいって来るなんて! 何という見下げ果てた! 陋劣ろうれつな……」
 舌打ちしながら妻は両手で飛び付くように呼鈴を押した。
「まだ出てゆきませんね! よろしい、テレサが上って来ますからね! いつまでもそこにいて恥をお晒しになったらいいでしょう」
「ところがハハハハハハ気の毒だがそのテレサは今頃パセオ・デ・コロンの通りでも男と二人で散歩しているだろう……? これがお前には見えないのかね? これが」と私は鍵を鼻の前で振り廻して見せた。
「私にこの鍵を預けて出掛けて行ったのだよ。……疑うのならいくらでも呼鈴を押してみるがいい……明日の朝くらいになったら誰か一人くらい上って来るかも知れん」
「この恥知らず……貴方は到頭たくらんだのですね! 企んだのですね!」と妻は歯軋はぎしりせんばかりに身悶みもだえした。急いで身を翻すと今度は枕許の卓上電話を取り上げた。
「ハハハハハハハ」と私はもう一度哄笑たかわらいした。
「かけるがいい。いくらでもかけるがいい! 線の切れた電話でかけられるものならいくらでもかけるがいい」
「このろくでなし……不具者かたわもの! 色情狂いろきちがい!」と烈しい憤りに昂奮した妻はついにその誇称する伯爵夫人の身にもあるまじき乱暴な言葉を浴びせかけた。そして足摺りして眼を吊り上げた。召使は来ず電話架線は切られてもはや最後の手段に出る外はないと思ったのであろう、烈しく私を指さすと「悲哀トリステサ!」と叫んだ。犬はムックと身を起して次なる主人の命令を待つかのごとく妻の眼を見上げながら前脚を揃えた。
「ドローレス! 眼を開けてようく見ろ! これが貴様には見えぬのか? これが」と私は初めて扉を離れて犬に向って拳銃ピストルを構えた。
けしかけてみろ! 一言犬を嗾けてみろ! 犬もろとも一発の下に貴様を撃ち殺すぞ! ようく見ろ! 今夜の俺の顔を! 命が惜しくなくば犬を嗾けてみろ!」
 凄まじい私の血相がようやく眼に留まったのであろう。朱を注いだ顔がたちまち蒼白に変じた。突っ立っている身体がワナワナとふるえ始めた。
「召使たちは一人もおらぬぞ。いるのは耳の遠い門番だけだ! 嘘だと思ったら大声を出して届かぬ救いを求めてみよ! 貴様の声が門番小舎まで届くか、届かぬか! 表門も裏門も全部鍵がかかっているぞ。逃げられるものなら逃げてみよ! シュミーズ一つの伯爵夫人が飛び出せるものなら飛び出してみよ! 蜂の巣のように弾を浴びせてくれるぞ! ドローレス! なぜ犬を嗾けぬ?」
 黙念として凄まじいまでに真っ青に……ただ身体が顫えていた。
「俺は殺すのだ! 何としても今夜は貴様を殺す! 殺す手配りはすべて付いている! もう未練もなければ愛もない! 貴様のような女の憐みも請わぬ、今日まで貴様からさげすまれて思う存分蔑まれて獣扱いされてきた礼だけは今夜充分に返してやるぞ。眼を開けてようく見ろ! 拳銃ピストルには弾が籠っているぞ!」
 私は徐々に拳銃を降ろしてベナビデス同様ドローレスにもまた心臓に向って狙いを付けた。
「…………」
「俺を毒殺したいと、女優のアロセメナに手紙を書いた不貞な妻を今夜は必ず殺すのだ!」
「ま……待って下さい……お願いです……大変な誤解です……貴方の誤解です、今そのわけを言いますからちょ……ちょっと待って……お願いですからロドリゲス! 拳銃ピストルを降ろして……」
 しかし私は拳銃を降ろさなかった。
「俺の妻になりながら相変らず伯爵を慕っていた伯爵夫人を殺すのだ……俺に許さなかった肌で毎晩この犬を抱いて犬に弄ばれていた俺の妻を殺すのだ!」
 途端に「っ!」と心臓でも突き刺されたようなうめき声を妻は挙げた。恐怖と絶望が見る見る顔色を変えさせて今にも倒れんばかりのあえぎであった。
「お願いです、どうぞ一言言わせてロドリゲス! ……一言だけ言わせて! 何という恐ろしい中傷でしょう。シリオンです……シリオンです……そんな中傷をするのはシリオンに決まってます。……大変な大変な貴方の誤解です。ロドリゲス……ああどうしたらいいでしょう……」と身悶えしながらしどろもどろのオロオロ声であった。
「その誤解だけは私何としても言い解かずにはいられません。汚らわしい……何という汚らわしい! 私ともあろう身があんな獣風情と! ああ口惜しい! シリオンは恐ろしい女です、ああ口惜しい! ロドリゲスお願いです、ちょっとだけ拳銃を降ろして……一言私に言わせて」
「つべこべ弁解するな! 証拠はみんな挙がっているぞ!」と私は破れ鐘のような声を出した。
「殺すと言ったら何としても殺すのだ。……ただしこれから心を入れ換えて俺の言うことを聞くというのなら貴様の命を取ることだけは許してやろう。厭か応か心を決めて返事しろ!」
「きっと……きっと聞きます……どんな仰ることでも……ロドリゲス助けて! ……助けてさえ下されば……どんなことでも聞きますから……お願いです! 拳銃だけは降ろして!」
 しかしそれでも私はまだ狙いを止めなかった。
「言うことを聞くと言うたな? ようし俺が一から三まで勘定する間に俺の言うとおりにしろ! しなかったらすぐに撃つ! わかったな! ドローレス! わかったら全部着物を脱げ! ……ウナ!」
「ロドリゲス……どんなことでも聞きますから……そんな……そんな無理なことだけは……」
「……ドス……」
 もはや愚図愚図この上の猶予はできないと感じたのであろう! シュミーズがハラリと摺り落ちた。続いて身を屈めて靴下を取る。私は黙って狙いを付けている。
「まだ全部取り切れないぞ! ……愚図愚図していると弾が飛ぶぞ!」
 ついに観念して最後の一枚も摺り落ちた。居間との境を仕切る重い翠帳すいちょうを背景にして、眼醒めんばかりあざやかな全裸の姿態が今私の前に佇んでいるのであった。見よ! あの衿持きょうじ高い我儘な妻が、命惜しさに奴隷のごとくに唯々いいとして恐怖と不安にふるえながら一糸纏わぬ豊艶な姿を、今軽蔑し切った不具者の私の前に晒しているのであった。

定められたる運命


寝台ベッドに上れ! 上って仰向けに寝転べ!」
 命ぜられるままに観念し切ったように妻は寝台に向った。生れて初めて見る一糸纏わぬ豊艶な妻の肉体が……均整の執れたピチピチと弾力のある妻の肉体が……今四肢の筋肉を躍動させて羞恥に全身を紅潮させながら寝台に上って行く姿! 真っ白な全身がさながら古名画、古彫刻からでも脱け出したかのごとく浮き彫られて、この煮えたぎる無念と憤怒の最中にさえも思わず私の眼をくらましめた。何という妖しいまでの蠱惑こわくさ美しさ、この私の怒りの感情をさえも惑乱せしめんばかりの、肉体の悩殺そのものであった。神の作った最も美しきもの、最も高きものというべきであったろう。しかもその美しく高きものは、私を苛立たせて苛立たせて気も狂わんばかりに苛立たせておきながら、ついにその最高最美なるものを、こんな醜怪なる獣風情に存分に汚させてしまったのであった。憎い憎い女……肉をらって八つ裂きにしても飽き足りぬ! しかしこの世における最も美しき悩ましきもの!
 一瞬私はおどかかって、その喉頸を両手で締めて悶絶させてやりたいような衝動と、いきなり抱きすくめて愛撫して愛撫して完膚なきまでに愛撫してやりたいほどの激情と……その異った二つの感情のもつれを身一つに感じながら、しばらくはその場に突っ立って、この世ならぬ絵巻に眼を背けながら心中に戦っている愛憎の交錯を抑えかねていたのであった。しかも犬に与えるくらいならばなぜその肉体を、ああも人間の私に惜んで惜んで惜み抜いたのだ! ……再び激怒が私の心一杯に盛り上ってきた。瞬間私は怒りのためにワナワナと全身を顫わせながら、眼も眩みそうな気持で、横たわった妻の姿態を、にらみ付けてくれたのであった。
「もう一度改めてウナからトレスを数えるまでに、俺の言うとおりにしなかったら容赦なく撃ち殺すぞ!」怒りで語尾が顫えてかすれてきた。しかもおそらくこの瞬間妻は私が満たされぬある慾望のために、こういう命令を下していると勘違いをしたのであろう。そして寝台に横たわっている自分の傍へ、私が歩み来ると予期したのであろう。ちょうどベナビデスが最初の瞬間、私の闖入ちんにゅうの目的の観測違いをしたように、妻もまた観測違いをしていたのであったろう。そしてもうこの期に及んでは凝乎じっと眼を閉じて、素直に私に肉体さえ与えてしまったならば、おそらく殺されることはあるまいと、甘く考え直したのであろう。生色もないまでに蒼白な顫えを帯びた顔にこの時、強いこしらえたらしい硬張り切った嫣笑えんしょううかんだ。そして不思議な媚態がなまめかしくその裸身を彩ってきたのであった。
「ねえ……さロドリゲス……もうそんな拳銃ピストルなんぞ向けないで……ねえ……さ……仰るとおりにしているじゃありませんの」
「犬を呼べ!」と私は大喝した。
「犬を呼べ! 呼んで犬が何をするか、凝乎としているのだ! 犬もろとも撃ち殺す!」
 媚態と嫣笑がさっと陰を潜めてまた絶望と不安とが全身をわななかせた。
「そんな……そんな無理なことをロドリゲス」慌てて身をねじ向けようとした刹那、ドウン! と一発私は寝台ベッドの枕許の六面鏡の大鏡台眼蒐めがけて発射した。室内の空気をビリリと震動させて凄まじい轟音が白煙と同時に……そしてグヮチャグヮチャグヮチャーン! と微塵になって、鏡面が砕け散った。顔色を失って、
「ト…リス…テサ……ト…リス…テサ!」と妻は顫え声を出した。
「もっと大きな声を出して呼べ! 躊躇してれば撃つぞ!」
「ト…リス…テサ!」
 犬は今の轟音に尻尾を捲いておびえながらも自分を呼んでいる寝台ベッドの方に聞き耳を立てている。
「もっと大きな声で呼ぶんだ! もっと大きく……」
「トリステサ!」
「撃つぞ! もっと大きな声で烈しく呼べ! ウナ! ドス!」
「トリステサ! こっちへおいで!」ついに思い切って妻はハッキリした声を出した。
 どうしようかと惑ったように犬は私と妻の顔とをかたみ代りにうかがっていたが、ついに身を起して寝台の方へ近付いて行った。そして一跳躍すると寝台に飛び上った。
 しかも畜生の哀れさであった。そこに拳銃ピストルを構えているものがこの女主人の夫とも知らなかったのであろう。しかももう一つ重ねて畜生の哀れさは、ここに一人の人間がその一挙一動を眺めているのも意に介せぬのであろう。そしてついにマルセ・モネス探偵の言葉は真実を衝いていた。妻の特殊な体臭はたちまち犬を烈しくいきり立たせて、畜生は露骨にその本能と今日まで慣らされ切っているその習性とを現し始めた。
「動くな! 動くと撃つぞ! 犬を邪魔すると撃つぞ! さあドローレス貴様の弁解が嘘かほんとうか、これから事実の上に立って俺が調べてやるのだ! 身体を動かすな!」
 繰り返して言う。探偵の言葉には微塵の偽りもなかったのであった。その醜怪なる事実は今私の肉眼の前に歴然と、明瞭に寸分の疑いもなく、立証されてきたのであった。しかも予期したことながらあまりにも醜怪なる現実に直面して「ッ!」と思わず、私は顔をおおわずにはいられなかったのであった。
 しかも、しかも、もはや寸分といえども正視するにはえなかった。片手で顔を掩うたまま獣眼蒐めがけて続けざまに引金を引いた。鼓膜も破れんばかりの響きのうちに獣の断末魔の悲鳴! 濛々たる白煙が立ちめて、私は何発を射ったかを覚えなかった。
「見ろ! 見ろ! 顔を挙げて見ろ! 大嘘吐きの大淫婦のメッサリイノ伯爵夫人! 伯爵トロエス・アピエラド夫人! 見れるものなら顔を挙げて俺の顔を見ろ! 貴方の誤解もクソもあるものか! この歴然たる事実の前に何の弁解の言葉がある! 言えるものなら言ってみろ! みろ! このブザマな醜態を! これが伯爵夫人の恰好か!」
 しかし妻は両手で顔を隠して身を悶えていた。さっきまでの真っ青な顔は、今度は酒でもあおったように両手で隠した顔の襟頸まで真っ赤に燃えて眼を閉じて、もがけるだけ身をもがきながら声を放って泣き叫んでいた。
「殺して下さい……こんな恥ずかしい思いをさせて……もう沢山です……もう充分です! ……貴方はさぞ御満足でしょう…さあ一思いに私を殺して下さい……死にたい…ね……早く殺して……」
「殺せと頼まれなくても殺す時が来れば殺してしまうのだ! 騒ぐな! 今更泣いて騒ぐくらいなら貴様は一体誰に頼まれて犬の夫人になったのだ? 今日までやっぱり泣きながらこうして犬の夫人になってたのか? おい……犬の伯爵夫人! 顔を挙げろ! 顔が見れるものなら……おい、顔を挙げて真正面に俺の顔を見てみろ!」
 しかしもはやこれらの言葉も、妻の耳へは何にもはいらなかったのであろう。
「一思いに殺して……さ、早く一思いに撃ち殺して…」と夢うつつのように泣き叫ぶばかりであった。
 しかも思い切り妻を恥ずかしめるべく拳銃ピストルを握って見下しているうちに、私の心の中には再びこの妻に対する不思議なる誘惑がムラムラと燃え上ってきたのであった。もはや妻ではない。また伯爵夫人としてでもない……ただ真白な四肢をくねらしている、世にも豊艶な美しい一個の肉塊として……。
「この女は!」と叫ぶといきなり私は拳銃ピストルを投げ棄てて妻の身体におどかかった。
 そしてその後のことはもはや諄々くどくど並べ立てる必要もないであろう。冒頭に抽出した四月二十三日のエキセルシオール紙が、御丁寧にも妻のきずの個所まで数え立ててくれている。
 なるほど確かにエキセルシオール紙が書いたとおりに違いない。暁方近くまで頸を締めたり、思い出してはまた髪をつかんで引き摺り廻したり、あらん限りの責め折檻を加えた挙句、確かに私は妻の肉体にも私への営みをさせてくれた。ハッキリと言おう。私は一度で飽き足らず二度までもその営みをさせてくれた。一度の営みの後、私は再び憤怒と無念さに眼が眩んでまたも狂暴なる発作に襲われて、部屋の中じゅう妻を引き摺り廻してくれた。しかもこれらの私の発作を見るたびに、妻はいよいよ今夜こそ私のために殺されることを予感したらしい。しかもなお死力を尽し、私からのがれるべく、すでに気死して半死半生の朦朧たる意識の中にもかかわらず、あらん限りの媚態を振りしぼった。そして私をその営みへ誘い込むことによって何とかして私の気持を転換させようと必死の努力を試みたのであった。
 これをしもなお私を目して変質狂と呼び、嗜虐性色情狂サディストと罵る者あらば、私はもう一度ハッキリと繰り返して叫ぼう! しからば世に誰か変質者たらず嗜虐性色情狂サディストたらざるものありやと! 私のごとき、かくのごとき運命に陥れられしもの誰か完全に我がものとなさずして、かくも美しき、かくも我儘なる妻をみすみす死の手に引き渡し得るものがあろうか! しかも私はかくのごとくあらん限りの媚態、あらん限りの手管を弄した妻に存分に女のすべてを尽させた後、なおもこれに拳銃ピストルを向けた。
「こんなにも……こんなにも存分になさって……まだそれでも……私をお殺しになるの……た……助けて! 誰か……た、助けて!」と絶叫した妻の下腹部眼蒐めがけて悪魔のごとくにせせら笑いながら拳銃弾を打ち込んだ。紅に染まって虚空を掴んだその心臓部眼蒐けて、さらに続けざまに二発を打ち込んだ。そして勝って勝って勝ちのめして、生れて初めて恍惚うっとりとした会心の笑みをらしながら、死の勝利の快感に酔って、妻の屍体に見惚れていた時に、扉を蹴破って闖入して来た二名の警察官によって、逮捕せられたのである。この顛末もまた前掲新聞所報のごとくであるが、泣いて詫びる妻を殺したことによって、私を野獣のごとき夫と目するならば、これにも一言明快なる反駁はんばくを加えておこう。もし私が野獣のごとき夫であったならば、おそらくは自己の存分にした後私は犬に汚されたごとき妻は棄て去ってしまったであろう。
 しかし私は野獣ではない。野獣のごとき真似はしてみたが、ついに野獣にはなり切れなかった。汚れた妻をなおも棄て切れず死を越えて、これを完全に抱擁しておかんがために、ついにこれを殺してしまったのである。

 以上私は裁判長ソルフ・マーラ判事の勧めによって、自分の書こうと思い定めたことだけは充分に書きつづってきたつもりである。もはやこれ以上、何の付け加えるところもないつもりではあるが、ただ一つ書き洩らしたことだけを補足してこの長い手記を終ることとしよう。
 第三回目の取調べの時、裁判官は私にこう聞いた。
「被告の申し立てはことごとく幻奇奇怪を極めた申し立てであって、裁判官には被告の心状が正当なる状態にあるとはいかにしても受け取り難い筋がある。そこで被告! 改めて被告に訊ねるが、それほどまでに被告が自己の信念に立脚して、自己の陳述の正当性を主張するならば誰か被告のために、被告の執った行為を当然なりと立証してくれる証人を有するか? 有するならば、その証人の姓名を挙げよ。どんな遠隔の地にあろうとも裁判所はその証人を呼んで、被告の陳述の妥当性をもう一度吟味することにしよう」
「もちろんある! 二人あります。バルセローナ市の有名な私立探偵マルセ・モネスとその助手ルカ・ロザリオ……この二人をお呼び下さい。亜留然丁アルゼンチンの警視庁顧問として現在ブエノスアイレスにいるはずです。この二人は喜んで、私の信念に誤りないことを立証してくれるでしょう」
 がしかし何故かマルセ・モネスという名前を聞くと、同時に法廷は一瞬ざわめいた。検事は冷笑をうかべて私を睥睨へいげいし、裁判長は呆れたように隣席の判事と顔を集めて凝議した。
「よろしい! 本日の公判はこれまで! 被告はあくまでも法廷を愚弄するものと認める。本日の裁判をこれ以上続行することは無意味と認める。被告に有利なる唯一の証人を挙げよ、と命じてさえも被告はかくのごとき愚弄的な言辞をもって法廷を揶揄やゆしている。マルセ・モネス探偵も、その助手も被告犯行の当日汽船サンタ・カタルヘナ号に乗ってバルセローナ港を出帆し、しかもサンタ・カタルヘナ号がその翌早朝リベラルタ沖において、汽船プレンガリア号と衝突沈没したことを、これほど周到なる犯行をめぐらした被告としてよもや知らぬはずもあるまい。知ってなおかつ法廷を愚弄する被告の態度は、裁判官の最も諒解に苦しむところである。被告に問うが、死んだ二人の人間を証人として法廷へ喚問する方法が、あるならば、その方法を明示してもらいたいと思う」
 この記録の読者に告げる。今更歎くこともなければ呆然たる必要もない。世の中というものは常にかくのごときものである。これが人生の実態であり、人が人を裁く裁判の実相でもある。
 これすなわち私がもはやこの世に生きたいとは寸毫も願わぬ第一の理由であり、一日も早く私の最も熱愛する妻の屍体の眠るウベニア丘に、私もまた眠りたいとこいねがう私の最大なる望みなのである。死を越えてなお愛する妻と愛と憎しみとの相剋そうこくの生活を続けてゆくことこそが、私のごとき人間に、定められたる運命というべきであろう。





底本:「橘外男ワンダーランド 人獣妖婚譚篇」中央書院
   1994(平成6)年11月28日第1刷
初出:「ホープ」
   1946(昭和21)年10月〜1948(昭和23)年9月
※「迂潤」と「迂闊」、「萠」と「萌」、「纏」と「纒」、「呀ッ」と「呀っ」、「麪包」と「麺麭」、「逍遙」と「逍遥」、「……」と「………」の混在は、底本通りです。
※「衿持」に対するルビの「きんじ」と「きょうじ」、「飾電灯」に対するルビの「シャンデリヤ」と「シャンデリア」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:江村秀之
2018年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「鑰−口」    111-5、254-12
「宀/婁」、U+5BE0    142-15
「貝+藏」、U+8D1C    150-14


●図書カード