回顧と展望

高木貞治




 回顧は老人の追想談になるのが普通で,それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります.それは当然不確かになるべきものだと考えられます.遭遇というか閲歴というか,つまり現在の事だって本当には分らない.それは当然主観的である.しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう.そうしてそれを回想する主観そのものも年とともにかわって行くのであるから,まあ大して当てになるものではない.これは一般にそうだろうが,今私の場合は確かにそうなのだから,むしろ始めから,自己中心に,主観的に,過去を回顧すると,明言して置くのが安全であろう.
 大学(東京帝国大学)へ私が学生として来たのは1894年――日清戦争が起った明治27年である.西暦のこの数字は,後に引合に出るから,ついでに言って置きますが,それから十年後,すなわち1904年には日露戦争,それから又十年後の1914年には第一次世界大戦が夫々それぞれ起ったので,非常に記憶し易い数字であるが,とにかく1894年に田舎から東京へ出てまいった.その頃の数学教室の先生は,菊池大麓先生と藤沢利喜太郎先生の御二人であった.当時何を教わったか,古い記憶を辿たどって見ると,先ず微分積分それから解析幾何学.これは当然だが,次で二年になると,Durege の楕円函数論というものをやったものである.これは古い本だから,諸君は知らないだろうが,まあヤコービの楕円函数論を書いたもの,つまり Fundamenta Nova の平易な解説といったものである.函数論の出来る前の楕円函数論で,随分時代離れのものだが,多分これは,私の想像なんだけれども,ずっと明治の初期に,ケンブリッヂあたりから,そういうシステムが輸入されたのではないか――と思われる.それから,サルモンの代数曲線論,例の略記法か何かで,我々はそれが射影幾何学であることを知らずに習った訳なのだ.
 まあそんな風で,1894年から98年まで四年間の初めの二年間は過した.しかし,当時は相当学風が自由であって,藤沢先生などは,ドイツ仕込みの Lehr-und Lernfreiheit ということを鼓吹されて,なんでもいいから本は勝手に読め,そんなことを奨励されていたものだから,いろいろのものを読んだわけである.殊に三年になると,菊池先生が文部省の方に行って了われたものであるからして,藤沢先生御一人になって,講義の時間が非常に少なくなった.今はそうでもないけれども,一時はずいぶん沢山詰め込み主義の時代もあった.そういう時代に比べると,大分自由であったとえる.それで,後の二年間は全く自由に暮して,最後の一年は大学院で,結局四年大学におったが,その間にいろいろな本を読んだのであるが,指導者なしの乱読で,本当に読んだと謂うよりは,図書室にあるだけの本を見境いもなく片っ端からひっ繰り返して見たという程のことであった.
 それからまあそんな風にいうと,いかにも不完全なようであり,事実不完全に相違ないけれども,藤沢先生はベルリンでクロネッカーの講義を聴かれたらしいのであって,代数を大学へ入れなくてはならぬということを絶えず言っていられたのであるが,当時日本では,代数は中学校でもう卒業してしまったもののように考えられていた.そこでその後セミナリが出来てからは,そういう処で頻りに代数の問題を与えられた.当時代数といえばセレーの「高等代数」で,それによって,私はアーベル方程式を読めと言われ,そこで謂わゆる高等代数の洗礼を受けたわけである.しかし,その当時,すでに書棚の隅っこに,ウェーバーの「代数学」の第1巻が来ていたので,それを探し出して,ガロアの理論に接したのだが,それが本当に分ったのだかどうだか.その後,段々いろいろ新しいものが来るようになって,ウェーバー第2巻もやがて来た.
 その中に1898年になって,私はドイツへ留学を命ぜられてベルリンへまいることになりました.それは明治31年で,その年に日本最初の政党内閣(隈板内閣)が出来ることになって,内閣総辞職があったのですが,時の文部大臣の外山正一さんが辞職の際の置土産として,一年分の留学生十余人を一時に発表されて,私も幸いに其の中に加わって,予想外に早く出立することになったのである.
「洋行」は嬉しかったが,その時にベルリンへ行ったならば大変だと怖気おじけって行ったのである.それは西洋の学者を神様のように思っている時代であったし,殊にベルリンは,例のワイエルシュトラス,クロネッカー,クンメルの三尊の揃っていた隆盛時代の直後であった.その三尊はみんな亡くなって,後継者のフックス,シュワルツ,フローベニウスの時代になっていたのだが,何分数学といえばドイツ,ドイツといえばベルリンと言われていた時代で,そこへ素養もなく,自信もない,東洋の田舎者が飛び込んで行くのだから,怖かった.しかしベルリンへ行って見ると,フックスやシュワルツは,既に相当齢をとって日本ならば停年といわれる年頃であった.フックスの微分方程式の講義を聞いたが,それはクレルレ誌66号の自分の書いた論文の講義だけども,特異点まで届くはずの解の収斂円が,黒板の上では其処まで行かないで,立往生というようなこともあった.
 シュワルツもいろいろ講義するのであるが,殆ど講義の度毎に,ワイヤストラス先生が,こう言った,ああ言った,Herr Professor Weierstrass pflegte zu sagen ……云々ということが出る.これはワイヤストラスの数学をそのまま,本当の,正真正銘ワイヤストラス直伝の数学を講ずるという建前で,函数論の講義はワイヤストラス流の無理数論から始めるといった遣り方で,これ少々旧い.このような所は,まあ東京でいろいろ読んだのと大して変わりないのであった.
 フロベニウスは年も一番若く,講義はガロアの理論や整数論で,内容は別段変ったことはないが,講義振りは実にキビキビしたもので,ノートなんか持たない,本当に活きた講義といったものを生れてから初めて聞かされたのである.フロベニウスは少し怖かった,というには訳がある.私がドイツへ往く少し前に,ちょうどその頃理学部の少壮教授が数人新たに帰朝された.だからドイツへ往くなら,そういう方にいろいろ注意すべきことをいてゆくがよかろうというので,いろいろ御話を伺った.すると,「君,フロベニウスの処へ行くなら余程注意しなければいかぬ」というのである.それはフロベニウスが学部長かなんかに成ったときに就任演説をやった.その時に,ドイツの科学の進歩を大いに自讃したわけである.それで外国人が頻りにドイツへ科学を勉強に来る.アメリカからも来れば,何処からも来る.近頃は日本人すら来る.今に猿も来るだろう――と言ったそうである.まさかそういうことを公開の就任演説で言った訳でもあるまいが,いくらか誇張して話されたのであろう.
 このように日本人を軽蔑するフロベニウスであるから,フロベニウスの処へ行くなら,その積りで,よく覚悟をして行くがよかろうと,まあ大いにおどかされたのである.しかし実際行って見ると,そんな怖いこともなかった.私が何かある問題を持って,先生に訊きに行ったことがあったが,その時先生は,それは面白い,自分でよく考えなさい,Denken Sie nach! といっていろいろな別刷などを貸してくれた.この「自分で考えなさい」も,思えば生れて初めての教訓であった.当時フロベニウスは群指標の理論をやっていた最中であったが,そんなことは講義には少しも出ない.セミナリでも,コロキウムでもちっとも出ない.猿に近い日本人ばかりでなく,ドイツの学生でも,つまり相手にしないわけである.そんなものはちゃんと秘蔵というか,学生なんかに公開しない.だからベルリンに居ながら,フロベニウスの群論を知らずに居たのである.
 そんな風であったから,ベルリンに三学期もおったけれども,大してこれということもなかった.尤もあの頃は,今と大分時代が違っていて,文化の喰い違いというようなことが余程甚しかったので,ヨーロッパの生活に慣れるとか,語学の練習とかに時間を費さざるを得なかった次第である.
 それから1900年に私はゲッチンゲン大学へ参りました.当時,ゲッチンゲンでは,クラインとヒルベルトの二人が講座を有っていた.講座が三つになって,ミンコフスキがへいせられたのは後である.此処はベルリンとは様子がまるで変っているので驚いてしまった.当時は毎週一回大学で談話会があったが,それはドイツは勿論,世界各国の大学からの,言わば選り抜きの少壮学士の集合で実際,数学世界の中心であった.そこで私ははじめて,二十五にも成って,数学の現状に後るること正に五十年,というようなことを痛感致しました.この五十年というものを中々一年や二年に取り返すわけにゆくまいと思われましたが,それでも其の後三学期即ち一年半の間ゲッチンゲンの雰囲気の中に棲息している裡に何時とはなく五十年の乗り遅れが解消したような気分になりました.雰囲気というものは大切なものであります.
 私はヒルベルトの処へ行ったところが,「お前は代数体の整数論をやるというが,本当にやる積りか?」とえらく懐疑の眼を以って見られた.何分あの頃,代数的整数論などというものは,世界中でゲッチンゲン以外で殆ど遣って居なかったのであるから,東洋人などが,それを遣ろうなどとは,期待されなかったのに不思議はないのである.さて僕が「やる積りです」と言ったところが,「それでは代数函数は何で定まるか?」と早速口頭試問だ.即答ができないでいる裡に,「それはリイマン面で定まる」と先生が自答してしまった.成る程,それに相違ないから,私は「ヤアヤア」と応じたが,先生は,こいつはどうも怪しいものだと思ったろう.それからヒルベルトは,これから家へ帰るから,一緒にいて来いといわれるので,いて行った.そこで私のやろうというのは,例の「クロネッカーの青春の夢」とわれるものの中で,「基礎のフィールドがガウスの数体である場合,つまりレムニスケート函数の虚数乗法をやろう」と思うと言ったら,「それはいいだろう」といわれ,それから,今でもよく憶えているけれども,ウイルヘルム・ウェーバー町へ曲る所の街上で,ステッキでもって,こっちへ正方形を描き,こっちへ円を描いて,つまりレムニスケート函数を以って正方形を円の中へ等角写像をする図を描く,シュワルツのヴェルケに載っている画を描いたわけである.「お前はシュワルツの処から来たのであるから,能く知っているだろう」と,これも試問の続きだが,実はよく分かっていなかった.さてヒルベルト自身は,私が行きました頃は,整数論から離れてしまった後で,ちょうどその頃は1900年であったから,幾何の基礎論を済ました後であった.そうして1904年に積分方程式,今のヒルベルト空間論の前身が始まる.それの中間の時期で,先生のやっていたのは,変分法や理論物理の微分方程式などであった.その頃のヒルベルトのやったことを承け継いでいるのはクーランである.ちょうどそういう時代であったから,ヒルベルトの側にいたけれども,直接には何等の指導も受けなかった.
 こういう次第で,私の留学は出掛ける時はえらい勢いで出掛けて行ったけれども,帰る時には,すごすごと帰国した始末であった.しかし,例のレムニスケートの一件だけは,幼いものだけれども,論文を書いてヒルベルトに見せておきました.ヒルベルトはそれをドクトル論文と思っていたようだが,当時日本にも相当矜持きょうじが出来て,留学生がドイツのドクトルを取って来る必要はないといった時勢になっていたから,私もその論文を持って帰って,これを以って学位を頂戴したわけだが,ドイツ土産といえば,まあそれ位のものであった.
 1901年に帰って来てからは,いろいろな講義をさせられた.代数曲線とか,その他何をやったか忘れてしまったが,いろいろやらされた.そのお蔭で当時学生であった諸君は,大分フリーの時間が減って皆迷惑を蒙ったことであろうと思う.その裡に,吉江君や,中川君が帰って来られて,私もそういう余計な仕事はやらなくて済むようになった.
 全体私はそういう人間であるが,何か刺戟がないと何もできない性質である.今と違って,日本では,つまり「同業者」が少いので自然刺戟が無い.ぼんやり暮していてもいいような時代であった.それで何もしないでいた間に,今の「類体論」でも考えていたのだろうと思われるかも知れないが,まあそんなわけではないのである.
 ところが,1914年に世界戦争が始まった.それが私にはよい刺戟であった.刺戟というか,チャンスというか,刺戟ならネガティヴの刺戟だが,つまりヨーロッパから本が来なくなった.その頃誰だったか,もうドイツから本が来なくなったから,学問は日本ではできない――というようなことを言ったとか,言わなかったとか,新聞なんかで同情されたり,嘲弄ちょうろうされたりしたことがあったが,そういう時代が来た.西洋から本が来なくなっても,学問をしようというなら,自分で何かやるより仕方が無いのだ.恐らく世界戦争が無かったならば,私なんか何もやらないで終ったかも知れない.序でにその頃の事で思い出したことがあるから,御話するが,ある人がこんなことを言うたのを記憶している.それは「大学教授を十年もやっていて,神経衰弱にならないのは嘘だ」というのだ.私は大学教授を十年はやっていなかったかも知れないけれども,別に神経衰弱の徴候も無かったが,神経衰弱はどういう意味かといえば,頻りに本が外国から来る.丸善などには毎月多数来る.どんな本が新規に来るかを注意して看過されないようにするだけでも大変である.又そんな本をみんな買って来て,買って来るのも大変なんだが,それをみんな読まなくてはならないから大変だというのだ.それが神経衰弱の原因だという.全体,本を書く奴は大勢いる.それを一人で読まなければならないと思って,神経衰弱に成るなどは,あまり賢明ではないようだ.私なんか幸いに生来不精で,人の書いたものをあまり読まないで,神経衰弱を免れたのである.同様の意味で,諸君に神経衰弱の予防を勧告したいと思うのである.
「類体論」の話を少しすると,あれはヒルベルトに騙されていたのです.騙されたというのは悪いけれども,つまりこっちが勝手に騙されていたのです.ミスリードされたのです.
 ヒルベルトは,類体は,不分岐だというのであるが,例の代数函数は何で定まるか,リイマン面で定まる――という,そういうような立場から見るならば,不分岐というのは非常な意味をもつ.それが非常な意味をもつがごとくに,ヒルベルトは思っていたか,どうか知れないけれども,そんな風に私は思わされた.所が,本が来なくなって,自分でやり出した時にそういう不分岐などいう条件を捨ててしまって,少しやってみると,今ハッセなんかが,逆定理(ウムケール・ザッツ)とっている定理であるが,要するにアーベル体は類体なりということにぶつかった.当時これは,あまりにも意外なことなので,それは当然間違っていると思うた.間違いだろうと思うから,何処が間違っているんだか,専らそれを探す.その頃は,少し神経衰弱に成りかかったような気がする.よく夢を見た.夢の裡で疑問が解けたと思って,起きてやってみると,まるで違っている.何が間違いか,実例を探して見ても,間違いの実例が無い.大分長く間違いばかり探していたので,其の後理論が出来上った後にも自信が無い.どこかに一寸でも間違いがあると,理論全体が,その蟻の穴からわれてしまう.外の科学は知らないが,数学では「大体良さそうだ」では通用しない.特に近くにチェックする人が無いので自信がなかったが,漸くのこと1920年に,チェックされる機会が来た.その年,大学教授の欧米巡廻ということで,外国へ往くことになった.その年にはストラスブルグで万国数学会議があったから,その時に持ってゆこうというので,急いで論文を書き上げたが,出発までに印刷が間に合わなくて,後から送って貰ったような状態であった.ところが,ストラスブルグの会議は,戦争の直後,連合国とドイツ側と分離した時代で,それはどうもそういう整数論の話などを持出すには最も不適当な所であった.類体論などに理解を持った人は僕の知っている所では二三人位で,先ずフューター,あれはスイス人だから来ていた.それからフランスではシャトレという人,その外ではアダマール,彼は問題を理解する.興味を有つか,有たんかは知らんが,問題を理解する人である.まあ当てになるのは,こんな連中だけであった.なんでもあの時,レセプションの晩に,私の近くで,「あの日本人が整数論の話をするというではないか.多分フェルマーをやるんだろう.こいつは面白いぞ」などと私語するのが聞えて,私は苦笑した.会議では15分位の講演をしたけれども,無論,反響も何もありはしない.
 それから会議が済んで暫くして1921年にドイツへ行って,ハンブルヒ大学へも行った.その頃ハンブルヒはヘッケとブラッシュケの二人であった.私の論文も着いていて,一人女の助手がそれを読んでいるのを見たのであるが,とにかく類体論を一番早く読んだのはハンブルヒだったろうと思う.
 ヒルベルトが類体論を読んだか,読まなかったかハッキリしない.ヒルベルトは,1898年位から,例の報文ベリヒテを書いた直後から,整数論とは離れていたのである.1932年頃,ヒルベルトの論文集の編集を手伝っていたT女が,報文の中にちょっと分からぬところがあって,ヒルベルトに訊きに行ったところが,先生にもそれが分からない.自分で書いたことをすっかり忘れてしまうのは不思議だと,彼女は驚いていたけれども,そんなことは不思議でも,何でもない.それ程までにヒルベルトは整数論から離れていたのである.ところが1925, 6年頃に私はヒルベルトから手紙を貰った.それは私の論文をアンナーレンに転載することを申込んで来たのであったが,その手紙の中に,ヒルベルトが代数的整数論の講義をするについて,「初めてお前の論文を読んだ」と書いて,そこの処へ ausf※(ダイエレシス付きU小文字)hrlich と書き入れがしてある.どうも1920年に受取った論文を25年に初めて読んだのでは,あまり気の毒だから,「初めて詳しく読んだ」ことにしたのであろう.ああ見えても,ヒルベルトは中々細心な所のある人であると思って,可笑しかった.さてヒルベルトが実際その講義をしたのか,しなかったのか,若しやったのならば,筆記がとってあるから,そういう筆記を見た人があるか,無いか,訊いてみようと思いながら,いまだに,その機会がない.
 それから,話は前後になるが,クラインの事を少しお話したい.クラインの講義は当時非常な人気であった.あの頃のドイツの大学の制度は,講義は自由に聴くことになっていて,聴く講義だけは聴講料を払う.その聴くか聴かぬかを決めるためには,初め六週間位は只聴いていていい.その裡に,いよいよ聴こうと決心したら,聴講料を払う.こういう制度であった.クラインの講義を聴くと非常に面白いが,実は白状すれば,聴講料を私は一度も払わなかった.だいたい六週間位聴いてやめてしまう.それで十分であったのである.この六週間ずつの聴講が,例の五十年の取り返しに大いに役立ったのである.終りまで聴講を続けても,こういう方面には大して有効ではなかったろうと,私は想像している.とにかく講義の初めの一般論が非常に面白い.ちょうど現今の数学の状態を,四十年前にクラインが独りでやっていたといっていいと思う.よくクラインは,「三つの大きなA」ということを言った.それは Arithmetik, Algebra, Analysis の花文字のAである.クラインの意味は,そうと明言したわけでないけれども,そんな風にAの一,Aの二,Aの三などと数学の中にギルドのような分界を立てて,やっているけれども,俺なんかは俺の幾何学でもってそれらを統御するのだと,そういう事らしく,例の六週間を聴いていると,そういう統一的の精神が基調になって,非常に面白く聴かせた.今時青年諸君に,「数学に三つの大きなAがある」といったら承知しないだろう.今は唯一つの小さなaだ.即ち abstract だというであろう.今の数学は抽象法で統制されているが,クラインは既に四十年前に,彼の幾何学的方法を以って,統制を小規模ながら im Kleinen にやって居たのである.だから名前も Klein だ.これは悪謔あくぎゃくだけれども,嘲笑ではない.実はクラインに対する敬慕親愛の表現である.クラインはよく空虚なる一般論 leere Allgemeinheit ということを言った.これも一つの大きいAだが,それは浅薄無用なる一般論を指弾したのであろう.クラインが今生きて居たら,現今の抽象数学を空虚な一般論としたであろうか.否,そうではあるまい.クラインは何でも彼でも具体化せねば承知しなかったが,それは具体的なる表現を要求したのである.具体と抽象とは,言葉の上では,反対のようだけれども,数学統一の精神は同一である.唯浅薄と固陋ころうとがいけないのである.
「回顧」の話が永くなって「展望」の時間がなくなったが,展望などと言っても,固より予言をする訳ではない.まああやふやの展望よりも,むしろ序でに少し回顧を続けよう.数年前,1930年あたりを中心にして,数年間に欧米の一流の数学者が数人日本へ引続いて来たことがある.これはまだ記憶にも新しいことである.
 我々は数学者の流儀は知っているから,学界の名士を集めて歓迎の盛宴を催すなんということはやらなかった.いつも,われわれ同志だけの水入らずの談話会を山の上のバラックや,学士会館の一室で催した.日本式の西洋料理,鱒のフライにプーンと臭いマヨネーズ,彼等はあれを日本料理と思って食っていたのかも知れない.そんな待遇で追っ払われても,みんな満足して帰ったように考えている.そのうちの一人に,その後チューリヒで会ったときに,彼は「日本の数学は,今に二十年も経つと,豪いものになるだろう」というた.それはどういう訳かといえば,「まずアメリカを見給え.二十年前のアメリカは,数学などいうものは殆どゼロに等しかったではないか,それが今日はああいう勢いなんだから,日本も屹度きっと二十年経つと,数学がえらいものになるだろう.」少々心細い予言ではあるけれども,彼には何か見る所があって,そういうことを言ったのであろう.
 もう一人は,これもやはり鱒のフライで追っ払われた組だが,日本を去ってから手紙を寄越した.日本の数学には大いに感心した.殊に日本は,若手揃いだ,reich an guten jungen Kr※(ダイエレシス付きA小文字)ften というような文句だったと思う.若手揃いだから,近い将来に彼等がするであろうところの仕事(Arbeiten)に関して,汝をねたむ(beneiden)というのである.このように欧米の数学者が,日本の青年数学者に嘱望していることは多大のものがある.私は彼等の観察を以って,日本数学界の展望として宜しいと思う.
 私は今青年諸君の花々しい活動を傍観して,日本数学の将来に大なる期待を持ち得ることを無上の喜びとするものである.
(昭和15年12月7日,東京帝大,数学談話会に於ける講演)

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 歴史は反復するというが,第一次世界大戦の後二十年にして,再び世界的の大戦争が始まった.これは反復よりも,むしろ継続でもあろうが,学術上の書物や雑誌の輸入杜絶の時代が再び来たのである.そもそも前の世界大戦後に勃興した現今の抽象数学は,いつとはなしに,古典数学の全面的且つ徹底的なる再検討といった態勢を採るに至ったのである.この新方法は目今未だ緒についたばかりで,それが将来如何に発展するかは,固より予測を許さないけれども,既に今までにも,相当清新にして愉快なる成果を挙げていることは,争うべからざる事実と言わねばなるまい.あたかもその際,学術界の全面的交通杜絶の為に,いささか出鼻を挫かれた感はあるが,平和克復の後,蓋を開けて見た時,日本数学が花々しい寄与を提供するであろうことを,予は切に希望するものである.
(昭和17年1月10日追記)





底本:「近世数学史談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年8月18日第1刷発行
底本の親本:「近世数学史談」共立出版
   1970(昭和45)年10月発行
初出:「改造」改造社
   1941(昭和16)年発行
※表題は底本では、「1.回顧と展望(昭和15年)」となっています。
※底本は横組みです。
入力:鈴木厚司
校正:田中哲郎
2010年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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