モイルの荒々しい水に洗われているアルバンの南方の王であったケリルが寂しい土地にたった一疋の猟犬をつれて一人で猟している時のことであった、ケリルはその時、同じ生命を持っている二人の生命は互に触れて一つになることがあるという事を見出した。
ケリルは
ケリルは驚いて犬の後を見ていたが、やがて自分の倚りかかっていた樫の樹から垂れ下がっていたミッスルトオのほそ枝を払いのけた。そのとき足の下で物音がした。見ると、ほそ長い
その人は若かった。緑色の衣を着けて、
ケリルはその人を見ていた。
「お目にかかるのは嬉しいが、まだあなたの顔は見たことがありません」ケリルが言った。
「私はあなたの顔を知っています、ケリル・マック・ケリル。あなたは私にこんな侮辱を与えたから、私もあなたの王位に疵をつけます」
「どんな疵をつけますか、『迅き槍』のケリルに疵をつけようとするあなたは誰ですか」
「私は仙界の王キイヴァンです。私はどんな災禍でもあなたに与えることが出来ます。しかし、私は自分に対して悪意を持っていないものには決して災禍を与えないという誓いをしているのです」
「死や恥辱でなく、王者らしい礼ある相談ならばいつでも辞さないのが私の誓いです」
「けっこうです。あなたは私を足で踏んで無礼をしました。私はあなたがた人間界のものではないのです。あなたの足で踏まれたことは一年のあいだ私の傷痕になります。こんな事にしましょう。一年のあいだ私はあなたの姿になり、あなたが私の姿になる、私はあなたのケリル城にゆく、あなたは私の国にゆく、そして誰ひとりこれを知ってはなりません、あなたの妃も私の同族のものも、あなたの犬も私の犬も、あなたの剣も私の剣も、槍も、酒のむ酒杯も、琴も太鼓も、これを知ってはなりません」
「それで、何かこの事で私の恐れなければならないことがありますか」
「私は敵を持っています、フェルガルというものです。月の昇る時刻にはフェルガルに気をつけて下さい。そして私もあなたの代りに何か恐るべきことがありましょうか」
「私の愛人ドルカの愛を恐れて下さい」
キイヴァンは笑った。
「それは何処にもあることです、星に住む竜のなかにも、地に住む虫けらのなかにも」キイヴァンが言った。
「蜜の言葉のキイヴァンよ、これがただ一年のあいだの約束と信じても確かでしょうか」
「天地のなかの[#「天地のなかの」は底本では「天使のなかの」]七つの物にかけて誓いましょう。日と月と、火焔と風と水と、露と、夜と昼とにかけて誓いましょう」
二人は姿を
こうして一年が過ぎたのであった。
その年の四分の三ほどの月日がすぎる頃、ドルカは苔の枕に蛇を入れた、そしてキイヴァンの傍に寝ていて彼が死ぬのを見ようとした。しかし激しい
その一年の四分の三の月日がまだ廻って来ない頃のこと、ケリルは長い猟から帰って来て「蜜の髪」のマルヴィンの側に寝ていた、その時キイヴァンの妻は立って行ってフェルガルに相図した。月の上ぼる時であった。フェルガルは樫の大木のかげに立っていた、弓はひき絞られて虻のような声をして風に唸っていた、その弓に一本の矢がはさまれて、矢には、月の上ぼる時刻にはダナの神たちも恐れるという
しかし、キイヴァンの耳にささやいた蛇はこの事も囁いてきかせた、キイヴァンは笛の音に寄せてケリルの心に夢を送った、こうして
フェルガルは低い声で笑いながら近くまで来た。
「
「そうだ」ケリルはマルヴィンの胸から矢を抜き取った「
ケリルはそう言いながらフェルガルに矢を投げつけた、矢がフェルガルの眼に当った、彼は
あかつきに仙界の人たちは二人を葬った、ながれる水の底のくぼ地に、下流にむけて二つの平たい石を二人の上に載せて。
その夜ケリルは一人で坐していた。過ぎ去った日の夢が彼と共にあった。彼はひどくむかしを恋しく思った。
一人の女が彼の側に来た。女は宵の
彼女はケリルのために一つの歌を弾いてくれた。
それが何ともいい尽されず美しかったので、ケリルの生命がもうひと息で絶えそうになった。
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「むかしを恋うる歌」女が言った。その声は白いクローバの花の上のあけ方の
ふたたび彼女が弾いた。その楽の音の激しさには、楯にぶつかる剣のあらしの音のように、血が彼の心に鳴りひびいた。
「この歌は何の歌」彼が訊いた。
「
三たび彼女が弾いた。その楽の音にケリルは聞いた、大洋の波が連山の項きの雪を浸す音を、地の白き汁と青き
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「愛の歌」女が言った。その声は一輪の花のしずかな息のようであった。
「私の名はエマルといいます、また来ましょう。あなたは私の
しかしケリルはもうそれきり彼女を見ることもなくてケリルの城に帰った、キイヴァンももとの姿になって再び仙界に戻って行った。
ある日、ケリルが樫の木の円盤に短剣を投げている時、彼は一人の女を見た、彼がまだ今日まで見たことのないほど美しい女であった。彼女はちょうどエマルぐらい美しかった。しかし彼女の美は人間の女の美であって、露と月の光のかげにある人たちの美ではなかった。
「うつくしい人、あなたは誰です、そして何処から来ました」ケリルが訊いた。
「私はエマルです」彼女が言った。彼女はケリルの愛を求めた、ケリルは彼女を妃とした。
婚礼の宴で、見知らぬ人が立ち上がった。
その人は手に持っていた杯を下に置いた。物いう時、その声は壁にかけた楯の上にひびく遠い角笛の音のようであった。
「私は贈物を項きたい」その人が言った。
「よそぐにの人に求められれば、どのような贈物でも上げるのが私の誓いです」ケリルが言った。
「私は
ケリルは立ちあがった。
「私の生命を取って下さい」ケリルが言った。
エマルは彼の側に来て「それはいけません」と言って、バルヴァの方に振りむいた。
「今日から一年経ってまた此処に来て下さい」
そう言われてバルヴァは微笑した、そしてその一年の猶予をあたえて立ち去った。
その一年にケリルとエマルは愛の深さと不思議さを知った。
「私は行かなければなりますまい、しかし、また帰って来ましょう」その日が近づいて来た時彼女はそう言った、そしてケリルに一つの方法を教えた。
バルヴァが再び訪ねて来てエマルを連れて行った日のたそがれ時、ケリルは草の露を瞼になすりつけ、
ケリルがバルヴァとエマルのところまで来ると、バルヴァが言った。
「盲人よ、うつくしい笛の音だ。もしその笛を私にくれるなら、お前の望みの物を何でもやる。これが私の誓いだ、もし私が笛にしろ鷹にしろ猟犬にしろ女にしろ人に求めた時は私は先方の望みの物を何でもやる」
ケリルは笑った。彼はつぶっていた目を見ひらいた。
「エマルをくれ」彼が言った。
その後の一年間、ケリルとエマルは深い歓びを知った。
産のくるしみが彼女に来た夜、ひと吹きの風が彼女の寝ているところを襲った。うまれた子は一枚の枯葉のように何処ともなく吹き去られてしまった。ケリルは怒りと悲しみに
あけがた、一人の若者が二人の傍に来た。若者はケリルが今までに見た美しい人たちの中の誰よりも美しかった、バルヴァよりも美しく、キイヴァンよりも美しかった。若者はみどりの森の中から来る春のように現われて来た。
「時が来ました」若者はエマルを見ながら言った。
「時が来ました」ふたたび彼はケリルを見ながら言った。
「この美しい年をかさねた青年は何者」ケリルが問うた。
「これは昨夜うまれた私たちの子のエイリル」エマルが答えた。
エマルは立ってケリルの
「愛する人間の世の恋人、さようなら……」彼女が言った。
エイリルはむかしケリルがエマルを取り返した時に吹いた
「三羽の鳥」の一節