近頃は以前のように、やれ
うまい米といえば、その昔、朝鮮で
殊にライスカレーなんてものに使う米は、少しまずい米でないといけない。たとえば玄米だ。
玄米は白米とは別な意味で非常にうまい。玄米のごはんにご馳走をつけて出すのは蛇足である。漬けものでもあれば充分である。だから、いくらうまいといっても、料理の後では邪魔になる。
ところが、一般の家庭はもちろんのこと、多数の料理屋がこのごはんというものについて、とても注意が足りない。
料理屋がそうだから、料理人はみなそうである。料理長というものは板前といって、
ところが、料理屋というものの多くは、酒飲み本位に工夫されているために、たいていの料理人は自分の受け持ちの料理さえ出してしまうと、後の飯がどうであろうと、一切お構いなしで帰ってしまう。それでは料理人としての資格はゼロに等しいといわれても、彼らは一向に
一般に飯炊きというと、料理人ではなく、雑用人として、一段と下った仕事として扱い、ろくな給料も出していないが、ずいぶん間違った話である。
だから、
とにかく、飯は最後のとどめを刺すものであり、
それにもかかわらず、料理人は自分の苦労の足りなさを棚に上げて、飯を炊くということは、なにか自分の
料理人は飯なんてものは、無意識のうちに料理ではないと考えているらしい。ところが、飯は料理のいちばん大切なものなのである。料理ではないと思うところに根本的に間違いがあり、まずい飯ができるのである。
洋食でパンの良否を問題にしたり、焼き方を問題にしたりするのとまったく同じなのである。だから、飯は料理ではないという考えを改め、立派な料理だと考えなければならない。
この意味で、料理人は飯の炊き方に注意しなければならない。わたしは断言する。飯の炊けない料理人は一流の料理人ではない。主婦、女中、飯炊きについても、同じことがいえるのである。