ふぐを恐ろしがって食わぬ者は、「ふぐは食いたし命は惜しし」の
これらにむかってわれわれが冬季常食する天下唯一の美味、
ふぐというもの、いかんせん人命を奪う毒素があり、例えば十中の三位は確実に中毒しまったく命にかかわると決まっているときにこそ「ふぐは食いたし命は惜しし」が岐路に立って迷うひとのために、時に善き教訓となり、あやうくひとの生命を守り得る寸鉄のはたらきと……ならんでもないが、このごろのようにふぐの安全料理が確立して、まったく危険が取り除かれた時においては、「ふぐは食いたし命は惜しし」は、寸鉄としての価値を失うばかりか、無益にひとを恐怖さすところの戯言にしか当たらない。しかのみならず、ひとの口福を拘束する余計な失言であるともいい得られる。
誰がいったか、いつどんな時代に出来た
しかし今日のふぐ料理は絶対安全といって差し支えないまでの成績が挙がっている。この時安心して天下唯一の美味に親しんでみることは決して徒事ではないと思われるのである。なんでもかでも、海から山から捕えて食べ物となす人間としてのあたりまえの行事といえよう。それもたいやはものうまさ、うなぎやてんぷらのうまさ、このわたやからすみのうまさ、あゆやあなごのうまさ、まつたけやしめじのうまさ、うどやぜんまいのうまさ、そばやそうめんのうまさ、すっぽんや山椒魚のうまさ、若狭の
わたしはひとがなんと思おうとかまわぬ気で告白するが、今日わたしほど美食に体験を持っている人間は世間にほとんどない。朝から晩まで、何十年来片時も欠かさず美食の実験に浸っている。まったくわたしのようなものはまずないと信じられる。この点では
偉いこととも思わねば、馬鹿な所業だとも思わぬ。ただそういうふうに生まれ合わしてきただけだと思っているまでではあるが。とにかく、誰がなんといっても美食没頭の体験においては人後に落ちない自信を有している。従って、あらゆる美食を尽くしていると告白するに
由来毒をもって鳴るこのふぐなるものも料理に法を得ればなんら
下関人の話によれば下関、
それが一人前最高の五円当たりにして六万人分であるから一人前一円くらいから商う料理店などを加えて口数を想像するとき、話半分の三十万円から概算しても、なおかつ、十万人分くらいにはなるはずである。これだけのものを商う料理屋、その他専門店等のふぐ料理からは一人の中毒者さえ出したことがないといってまた誇る。これはわたしは信じてやってよいとする者である。しかして、この危険なき実際状態を目撃し体験する者からは、もはや、常識上かりそめにもその不安に駆られてよい訳合いのものではないという結論が生まれるわけだ。
ふぐを料理する法といっても実はそうむずかしいものではない。生きたるふぐを条件としてただ肉中骨中の血液を点滴残さず去ることのみの仕事と解してよい。だが、なんだといって軽々に取り扱う気になる蛮勇は止めて
死んだふぐを料理しては危険のある場合が多い。また素人料理にうかうか安心してはいけない。ふぐによって命を失ったという話の全部が全部、素人庖丁の無知が原因となっていることを銘記する必要がある。価の安い場合にも注意すべきだ。