夏の暑さがつづくと、たべものも時に変ったものが欲しくなる。私はそうした場合、よくこんなものをこしらえて、自分自身の食欲に一種の満足を与える。
これはまったく夏向きのもので、朝、昼、晩の、いずれに用いてもよい。まず揚げ豆腐の五分ぐらいの厚さのもの(東京では生揚げと称しているもの)を、餅網にかけて、べっこう様の焦げのつく程度に焼き、適宜に切り、新鮮な大根おろしをたくさん添え、いきなり醤油をかけて食う。
分量と器を、その場その場で加減し、注意さえすれば、単に自家用の美食に止まらず、来客に用いても、立派な役目を果たすのである。そして美味くできれば、その味、簡適にして醇乎、まことに一端の食通をもよろこばすことができる。なまなかてんぷらなぞ遠く及ばない。そして、これを美味く拵えるコツは、よい揚げ豆腐を手に入れることは言わずもがな、新鮮な大根を求めることにある。
蒲団着て寝たる姿や東山
目前に加茂川の清い流れのせせらぎを耳にしつつ、どうやら眼の覚めて、用意の控えの座敷に直ったとき、にこにこ、ぞろぞろ這入ってきた「お早うさん……」
の次は、直ちに、
「今朝、なんでまま(御飯)おあがりやす。今日は、あっさりと、錦木でままおあがりやすな」
とくる。この錦木でまま食べて、はじめて、ために心気爽然となるちょう代物なのである。
上等のかつおぶしを、せいぜい薄く削り、わさびのよいのをネトネトになるよう細かく密におろし、思いのほか、たくさんに添えて出す。で、これが食い方は、両方適宜に自分の皿に取り、ざんぐりと箸の先で混ぜて醤油を適量にかけ、それを炊きたての御飯の上に載せて、口に放り込めばよいのである。同時にアッと口も鼻も手で押えて、しばし口もきけないようなのが錦木の美味さである。この場合、浅草のりなぞを混ぜてもよいが、むしろそれは野暮であろう。最高の錦木とは、上等のかつおぶしの中心である赤身ばかりを薄く削ること、太いよいわさびを細かいおろし金で密におろすこと。御飯をこわくなく、やわらかくなく、上手に炊くこと。そして炊きたてであること。食器は平らな皿に入れないで、やや深目の向付に盛ることである。
錦木と称するのは、削ったかつおぶしの片々を、木の錦木のへらへらになぞらえたものにほかならないと思う。
白瓜の皮――白瓜、これはあさうりとも、また越瓜ともいう。白瓜を賞味するのはこれから当分の間である。この白瓜を薄葛の汁椀なぞにつくる場合、大概はその皮を
パリパリと舌ざわりよく、色青くして、夏の夕餉には、それこそもってこいである。酒やビールの肴にも申し分ない。この料理は、昔から京都人の日常生活に入っている漬けもの中の一名案なのである。京都のひとびとは、よく知っておられるはずである。
鰹中落ち味噌汁――かつおの刺身をつくる場合、かつおを三枚におろすと、中の一枚はいわゆる中落ちである。この中落ちも大概は打ち捨てることが多いようだが、これを捨てないで、骨付きの残肉を、はまぐり貝かなにかでこそぎ取る。こそぎ取った肉が三とすれば味噌七ぐらいの割合でいっしょにしたものを、
白瓜の皮の浅漬けと言い、かつおの中落ちの味噌汁と言い、ともに食通をアッと言わすだけの立派な料理であるから、ご存じなき向きは、ゆめゆめ廃物利用だなんて薄っぺらな頭を持たないで、これこそ立派な意味ある料理だとの首肯から、ぜひとも試みてもらいたいものである。
(昭和六年)