お正月になると、大概の人は数の子を食う。私は正月でなくても、好物として、ふだんでもよろこんで食っている。なかなか
さて、どんな味があるかと言われてもちょっと困るが、とにかく美味い。しかし、考えてみると、数の子を歯の上に載せてパチパチプツプツと噛む、あの音の響きがよい。もし数の子からこの音の響きを取り除けたら、到底あの美味はなかろう。
音が味を助けるとか、音響が味の重きをなしているものには、魚の卵などのほかに、
もともとたべものは、舌の上の味わいばかりで美味いとしているのではない。シャキシャキして美味いもの、グミグミしていることが佳いもの、シコシコして美味いもの、ネチネチして良いもの、カリカリして善なるもの、グニャグニャして旨いもの、モチモチまたボクボクして可なるもの、ザラザラしていて旨いもの、ネバネバするのが良いもの、シャリシャリして美味いもの、コリコリしたもの、弾力があって美味いもの、弾力のないためにうまいもの、柔らかくて善いもの悪いもの、硬くて
数の子は他の魚とちがい、親にしんの胎中にいる時から、乾物を水でもどしたものとほぼ同じ硬さをもっていて、
干したものを水でもどしたほうが元の生より美味いというようなものは、
数の子の親魚、すなわちにしんからしてそうであって、にしんの生は煮ても焼いてもさほど美味くないが、これを一旦四つ裂きにしたのを乾物にし、それをまた水でもどしてやわらかくし、その上、料理したものは立派に美食として取扱い得る力をもっている。
にしん、棒だらなぞというものは、料理が不味いと感心しないものであるが、料理が適当に
数の子を食うのに他の味を滲み込ませることは禁物だ。だから味噌漬けや粕漬けは、ほんとうに数の子の美味さを知る者は決してよろこばない。醤油に漬け込んでおくことも禁物だ。水にもどしてやわらかくなったものをよく洗い、適当の大きさに指先でほぐし、花がつおかまたは粉がつおのよいものを、少し余計目にかけて、その上に醤油をかけ、醤油があまり卵の中に滲み込まない中に食うのが、数の子を美味く食う一番の方法である。しかも、これが在来、世間でふつうに行われている方法である。これ以外、変った料理をしてみても、ただ目先が変っているというだけで、味覚に、これが美味いというようなものに出くわさない。
生または塩漬けの数の子は、庖丁で斜めに薄く切ったものを、甘酢にしばらく漬けておいてもよいが、いや、そのほうがよいようでもあるが、干し数の子は、庖丁で切ると、どうも面白くないし、美味くもない。これはやはり指先でほぐしたものにかぎるようだ。
数の子には、口中でパリパリ炸裂せず、型の如き音の響きを発せず、シコシコ、ニチャニチャして、少し渋味のあるようなものがあるが、それは卵が胎中において成熟していないのである。言わば臨月間際のものでなくて、妊娠五カ月六カ月程度の未熟なものである。このような成熟しないものは、いかに数の子といえども、不味いものである。
(昭和五年)