昆布とろというのは、昆布とかつおぶしの煮だしだけでつくるとろろ汁である。夏の朝、食事の進まないようなとき、あるいはなにを食っても口が不味いとき、またはなにも口に運ぶ気が起こらないときなどに、これをこしらえて熱い御飯にかけて食うと、まずは大概美味い美味いで、日ごろの三杯飯は、知らず知らず五杯飯になること請合いである。
製法は極めて簡単だが、美味しく食うことの根本は、材料の選択の如何である。昆布のことは、京、大阪では心配はないが、東京となると、どこにでもあるというわけにはいかない。
由来、東京人は昆布の味を知らない。だから昆布だしの味というものを解しない。従って昆布を使わない。それゆえ、あまり方々で売ってないということになる。東京人の舌は、そう言ってはわるいが、すこぶる
論より証拠、東京っ子は今もなおてんぷらが好きだ。しかも、甘ったるいだし汁を用いて。うなぎが好きだ。これも中串以上の大物が好まれる。しびまぐろが好きだ。しかも、油っ濃いトロというのを好む。このまぐろとか、てんぷらとか、うなぎとか言うものは、元来酒の肴として極めて調和のわるいものである。にもかかわらず、東京っ子はこれをもってよろこんで酒を飲む。次に牛肉のすき焼きが好きだ。いずれをみても手っ取り早い簡単な味ばかりであって、女でも子どもでも、書生でもというわけである。そして、これを自慢しいしい日常生活に堅く結びつけているのが大部分の江戸人であり、東京人である。それをとらえて、私が東京人の舌は杜撰であると言うのも、あながち無理ではあるまい。
しかし、昔から東京にも通人がいて、衣食住なんでござれ、並尋常では済まさぬという凝り方の、趣味性に富んでいる人もいるのであるが、これも雅びやかな風流人ではなく、よく江戸文学にあらわれるような一種の型のあるものであって、ちょっといなせなところがあり、気取ったところがあって、稚気があり、童心に満ち、愛すべきところのものであるが、やはり、これもまだ「若い」の一語に尽きるようで、軽い感じをまぬかれない。
昆布の選択がとんだところへ脱線してしまったが、事実、食通はかつおぶしの味ばかり知っただけですましているのでは問題にならない。是非とも昆布だしの味を知らねばならない。たいの眼玉で潮の吸いものをするのはよいが、かつおぶしのだしでは合点がいかない。たいの潮は、なんと言っても昆布だしにかぎるものである。さかなにさかなのだしでは魚味の重複でおもしろくない。これは理屈が言いたくて言うのではない。実際において、たいの味と海藻である植物の味との混合で潮の汁味は成立するようである。
ところで、この昆布だが、かつおぶしに上下の差異があるように、昆布だから一概によいだしが出るとは言い切れない――と言ってみても、良質の昆布は、東京ではそんじょそこいらに今なお売っていないようである。だから、私は京都の松前屋からわざわざ取り寄せる。産地の北海道みやげだからと安心するわけにもいかないようである。幅広で、白い粉が吹き、立派にみえるものだからと言って美味いとはかぎらない。東京で安心して買えるのは、今のところ、室町の山城屋だけしか私は知らない。
とにかく、美味い料理の根本は材料にあると考えねばならぬ。庖丁の力は四であり、購買の力は六であるというようなことを中国の随園という人が言っているくらいで、美食は裏表ともに食品材料の鑑識が必要であり、またその食品鑑定ができるようでなくては、料理はできないと言うことにもなるのである。
さて、長談義をこのくらいに止めて、いよいよ昆布とろの製法に取りかかろう。まず最初上等のだし昆布の砂を落とし、塵を払い、水を使わずに洗ったようにきれいにする。次に縦長に幅五分ぐらいに
こうして、以前のだしを少しずつ入れながら同じことを繰り返し、なるべくとろろのようにどろどろした液をつくるのが、昆布とろの眼目である。人手の多い家なら、替り合って精々かきまぜ、ねばねばしたものに仕立て上げるのである。
かくして、でき上がった汁を昆布は除き、炊きたての御飯に少量かけて、その上に浅草のりのもみ粉を少し振り掛けて食べる。ただこれだけであるが、万人向きに美味いものであって、食通をよろこばすに足る調子の高い料理である。
これを要約して言えば、昆布とかつおぶしの味の長所を合理的に利用した簡単な美食である。精進ならかつおぶしを用いないでやるのもよいだろう。
(昭和六年)