心のおもむくままに、いつも美味いものを食って、心の底から楽しんでみたい。朝も昼も晩も。犬や猫のように、宛てがい扶持の食事に、その日その日をつづけることは、肉体は生きられるとしても、心の楽しみにはならない。心に楽しむ料理なんて考えても縁遠い。食って生きて行きさえすれば、それで結構なんだ。安価で栄養価値のあるもの、それで充分じゃないか、今の世の中はと。エネルギーのない多くの人々はこれを常識として、栄養不良というやくざ人間をつくり出している。これが当世らしい。心に楽しむ余裕を持っていないのだろう。持っていても、極めて消極的で、あさはかなものらしい。
カロリー、ビタミンを一々気にする料理は、実を言うと栄養薬であることに気がつかない。だから美味くない。美味くない食事から充分に栄養を摂らんとするのは不合理に考えられるが、そこまで考えている者は稀なようである。
このことは日本人は言うに及ばず、外国人も同様らしい。アメリカの都市を観て歩いても、実に薬品店の多いのに驚かされる。ヨーロッパもその通り、よろめき歩く死一歩手前の老人の多いのに驚かされた。弾力ある青年時代の無鉄砲の
しかし、美味いものを食いつづけようとするには、もちろん知識も要る。経験も要る。努力もしなければ発見ができない。しかし、この努力はまことに楽しい努力であって、苦労にはならない。
私は今なにを考えているかと言うと、能登に産するこのわたを手に入れようとし、その卵巣のくちこをなんとかして一刻も早く口にしたいものだと念願している。このわたは知多半島にもある。尾道にも名物はあるが、能登半島のは特別の風味をもって、私たちをよろこばせてくれる。くちこに至っては絶味と言っていい。北海における寒中が生むところの味覚の王者である。それを送ってくれる友人が、二、三あって、今からモーションをかけ、せっかく努力中で、その楽しみは、まさに寿命をのばしてくれるようだ。しかも、これは私が五十年前からつづけている年中行事なのだ。
寒中ともなれば、数知れずと言いたいまで美食がせまって来て、その楽事に忙殺される。中形のふぐを食うのも口福の大なるもの。京のたけのこ、冬眠のスッポン、江州瀬田の寒もろこもまことに楽しい美食である。能登ぶりの砂摺りの刺身などは、考えるだけでもたまらなく美味い。しびまぐろの上々にもまさる美味さである。ただし、南日本海で獲れるぶりはそうはいかない。ともかく、寒中に美食を求めてはかぎりがない。餅だって寒餅というのが一番美味い。
私は秋十月から春二月までを美食多産期として腹構えをし、次から次と食欲を満たしてくれる最好季節を無駄に過ごしたことはない。三、四、五月頃になると、明石だいが美味くなり、はもも上々の食い頃。
瀬戸内海は、大体どんなさかなでも関東方面と違って、なにからなにまで特に美味いのであるが、貝類、えび類が関東に劣っている。あなごも、てんぷら、すしだねには向かない。とにかく美味いものばかり食って人生を楽しむことは、心ひそかにほほえましいことである。しかも、世界中で一番美味い食品の数多くある日本に存在する生活のしあわせを考えては、たまらなくほほえましい。
(昭和二十九年)