よい書とうまい書

北大路魯山人




古来世間でいう「うまい書」というものには、例えば夏の夕、裸であぐらをかいて、夕顔棚の下で涼しい顔をしているようなのがある。

 それではまた、先輩諸君を前にして失礼でございますが、また実学上のことを話さしていただきます。
 今日、字のことは、相変らずうまいとか、まずいとかいうことで済んでしまっておるようでありますが、前に申し上げましたように、うまいとか、まずいとかいう事はなかなか簡単に片付けられるようなものではありません。ただ、うまいといった所で、うまいのはどうだとか、まずいのはどうだとかいう意義が詳しく得心の行くように分って来なければならないと思うのであります。うまい書は夕顔棚の下で涼しい顔をしておるような、呑気に、洒々しゃしゃとして書いておるようなのがございます。例えば、江月こうげつ和尚のごとき、原伯茶宗のごとき、あるいは、一茶いっさの書なんぞは、そんなことをいって宜しいと思います。

かと思うと、同じ能書でありながら、容姿端麗そのもののようなものもある。
また堂々と三軍を叱咤するような勢いあるものもある。

 それからまた非常に厳然とした形の上に正しい謹厳な書もあります。それも能書の中に這入っている。それからまた堂々三軍を叱咤するような勢いのよい字もある。みなさんも、そういう書のある事をご承知であろうと思いますが……。

その他、痩躯鶴のごとき、あるいは鈍愚驢馬のごとき、さては富有牡丹のごとき、なよなよと可憐な野に咲く撫子のごとき、細雨のごとき、あわただしい夕立のごとき等々、形容すれば際限のないほど、いわゆる能書なるものに様々な「柄」がある。

 また、非常にひょろひょろとした骨と皮のような字もあります。例えば、竹田ちくでんのような書はそうだろうと思います。それから非常に鈍感な驢馬のような感じの字もあるのであります。また牡丹のように華やかなものとか、様々な感じのする書がありますが、今日まで著名なものとして残っておりますものは、体裁がどの形体でありましても、やはり、能書として残っております。そうすると、論より証拠、字は必ずしも、こうでなくちゃならぬ、というような体裁書体を持っておるものではない。体裁だけで、もし能書だとか能書でないというような区別が簡単に付けられるものであったならば、規矩整然とした形のものが能書であると決められるのですが、きちんとうまそうに書いてあっても、必ずしもそれを能書といわないのが沢山あります。

これに依ってみても、能書は書体書風の柄で決するものではない。

 まあ近い例を挙げますと、申し上げて甚だ悪いようですが、上野あたりに催されます書道展覧会などを見ますと、若い人でも、名のない人でも、きちんとした俗にいう正しい書き方で書いておる字が沢山あります。一見見事に書けておるのが沢山あります。また、上代仮名でも、いかにも体裁が行成や貫之のように書けておるのがあります。これを書いたご当人は非常に得意なことだろうと思いますが、それでも私達から見ますと、能書にもなっていない。それは体裁だけを模倣したものだからであります。現に近頃、貫之風の書が流行している。いかに貫之風に書いてあってもなんにもならぬのです。要は無精神のものですから……。つまり、貫之を皮相的に見ている。非常な皮相の見をなし、貫之の見方を誤っているというように、私どもは思うのであります。そこで貫之の仮名というのは、あの細い線で、巧みに筆が伸びて行って、鮮やかな技巧でありますが、しかし、それだけが貫之の能書の全部ではない。それは貫之の能書の中の技術に属するある一部の柄なんです。模様なんです。図案だといっても宜い。デザインであります。
 貫之の生命というものは、その能書の中に無形の姿を以て這入っている、それが貫之の生命でありまして、書体の特色、あれは着物なんです。あるいは住まっている所の家だといって宜いかも知れません。もし、ああいう柄が一番よいとしますと、今後太い型が出て来た場合に、それは三文の価値もないということになりますが、事実、太い線で書けておっても能書だといわれておるのが、ご承知のごとく沢山あります。現に弘法大師の「いろは」のごときも非常に太い線でありましょう。貫之の仮名が細いから良いと限るのではない。また、弘法大師の書が太いから良いというのではない。そう致しますと、能書というも、その字は太いから良いという訳でもなし、悪いという訳でもない。また、貫之、行成のごとくに細い線で書かれた書が良いと限る訳でもなければ、悪いという訳でもない。そうなると太い線で書いても宜いし、細い線で書いても宜いし、それはその人の持って生まれた性分に随い、またその人の好む所に随ってよろしい。また筆などが太い筆であれば、否応なしに太くなるが、それでも構わない。そこで太いとか、細いとか条件を決めてしまおうということが元来、間違っておるのじゃないかと思うのです。今の人の仮名に、見事貫之と同じように細く書いてよく似ているのもありますが、貫之のよいというのは、細い線ではなくして、その線の動きの中に、貫之という人間価値の中味が這入っておりまして、その中味が一番尊いので、その尊い中味があの細い線を自然に動かして行く、非常にデリケートな、微妙な、なんともいえないようなよい線の実を結んでいるのであります。そのよい線というものが未熟の眼に手先でこしらえたもののように見えるのです。それを後からの人は、手先で真似する。そうして寸毫も違わぬように形造る。だが、それだけではよい物は出来ない。そこで貫之を学ぶ人に悪口いいますれば、ご苦労さんにも能く真似られたというよりほかに、自慢になることはないだろうと思います。また、器用以上人から尊敬されることはなかろうと思うのであります。
 貫之を見んとする時には、貫之の中味を見なくちゃならぬ。しかるを皮相的に、輪郭的に、表面だけ見て、得たりとすることがありましたならば、それは習字する者の考えが間違っているか、あるいはその人の程度が低いとかいうようなことがいえると思うのであります。それで書は結局、形整ではない。線の太い細いではない。勢いが宜いとか筆の運びが速いとか、遅いとか、そういうようなことでもない。結局、自然に近いよい線が引けねばどうあっても悪いのであります。太くても、細くても、それはどちらでも宜い。例えば樹でも細いひょろひょろとした樹もありますが、そうかと思いますと、この庭にあります椎の木のように太い樹もあります。しかしながら、どちらも自然の線を引いております。細い樹は、その枝が矢張り自然の細い線を引いております。椎の木の根幹は、堂々と太い線を引いておる。それで結局細い線も、太い線も同じ線を引張っております。ちょっとも違わない。そこで大師の筆になる太い「いろは」を見ましても、貫之の細い仮名を見ましても、結局は樹木の太い、細いの如くに根本価値は同じことなんです。従って、それが両者ともに後世までどちらも宜いとされておる。ものの程度は、その人によっていろいろと論じられることもありますが、また好みによって分けられることもありますが、根本の是非だけは、ちゃんと決っている。
 分り切ったような話でありますが、それが近頃一部の見方で行きますと、そう行かなくなってこうでなくちゃならぬということをいう者もあります。ここの床の間に今日掛かっておりますのは、細野燕台ほそのえんだい氏が持って来られた楊守敬ようしゅけいでありますが、片一方は北方心泉きたかたしんせんという加州金沢の坊さんであります。楊守敬は、明治年代に日本に来て六朝時代の書、あるいは、その他著名な書道についてショックを与えて、当時の書家を刺激した人であります。鳴鶴めいかくとか、巌谷いわやとかいう人が最も刺激を受けまして、筆を使うにしても懸腕直筆というようなものが流行りまして、一種の型を作ったのでありましたが、その新知識を与えたのがこの楊守敬であります。書論なども盛んにやった人であります。それと一方は、やはりそれらの影響を受けた一人の北方心泉であります。今ここに掲げて、芸術的の見方を以て私が批判しますと、まあ、守敬と兄たり難し、弟たり難しというようなものに見えます。しかし、筆の運び方から行きますと、北方心泉の方が囚われた所が少ない。楊守敬の方がむしろ書法に囚われて、悪芝居しておる所があるのであります。北方心泉はかなり古い所を見ましてそれに習っている。筆の運びが素直で、楽々しています。楊守敬の方はなかなか書法などをやかましくいう人だけにそれに引っ掛かっておる所がある。それから古い書の見方が足らない。中国人で当時一流の人でもありますし、中国人としては存外楽に書いてありますが、それでも悠長には行っておらない。北方心泉の方は、全幅があたかも一字の如くぴたっと行っておりますが、こちら守敬は非常にがたがたとしてまとまっていません。これは一字一字になんか目的がありますために、一字ずつの面白さを表現する苦心のために、全幅の調子を取り兼ねておるという短がある。その点に於て論じて行きますと、楊守敬の方が北方心泉よりも非芸術的であるということがいえると思います。その未熟という意味が、これだけ筆達者な者に未熟という事はなかろうといわれますが、それをもう一歩進んで見ますと、北方心泉によい字を書くよい天分があって、楊守敬の方にそれが少ない。学ぶのは学んだに違いはないが、書法に現われた根本の美術精神が少し足らない。もし心泉をああいう立場に置いて学問を与えたならば、これが反対のすばらしい書が出来ていたろうと思います。
 北方心泉は金沢であったため、東京では余り知られておりませんが、ある時、「実業之日本」の社員で、北方心泉の親類に当る人が私の所へ参りまして、図らずも心泉の話が出ました。その時に率直に申しますと、北方心泉は、非常に珍しい書家だと私がいいました。鳴鶴という書家が東京におって、非常に有名であったけれども、較べると問題にならない。心泉の方が立派である。鳴鶴の方は天分のある人でもなし、こつこつと一種の字を書いたが、鳴鶴は俗調だし、心泉は欲のない点、人格的の違いもあるようだし、というと、そうかといって、親戚でありながら知らない。「鳴鶴くらい書けるのですか」というから「鳴鶴くらいじゃない。鳴鶴が足許あしもとにも追っつかないのだ」と私は色をなしていったことがありますが、それくらい北方心泉という人は天分を持って、ご覧の通りよく出来た人であります。
 心泉がえらいからといって、どれくらいえらいかということは分りませぬ。大してえらくないかも知れない。仮りに副島種臣そえじまたねおみ伯に較べますと、北方心泉が副島さんの足許にも寄らないのであります。副島さんの書はえらいものでありまして、いわば人為的な書でありながら、非常に自然に近い。それから内容がしっかりしている。それから前にも度々申しましたが――

書には必ず「美」が無ければならぬ。
達者とか立派だといっても、人品賤しきものには「自然美」という「美」は具わらぬ。

 書にはどんな書でも美がなくてはいけない。美がなくては能書とはいわれない。いかに立派に書いても、いかに達筆に書いても、その人工的技術のほかに自然美というような美がなくちゃいかぬ。雅というものがなくちゃいかぬ。風流とか、雅とかいうものについては、先に行って解剖したいと思いますが、今のところ、簡単に申しまして、風流とか、雅とかいうようなものがなくちゃならぬ。そういうものは、どこから生まれて来るかといいますと、やはり、俗欲のない所から生まれて来るようであります。俗欲の旺盛なものは、いわゆる俗人であります。簡単にあれは俗物だからといいますが、そういうものから雅とか、美とかいうようなものは生まれて来ない。俗人というものは、自然美なんかに刺激される所は少ないようであります。自然の美に見とれて、物質的我欲を忘れてしまうというようなことは、まあ俗人には出来ない。出来ても程度問題であります。ところが常始終俗的なことに余り感興を持たないで、とかく、自然美の世界を見つめている、自然に親しむ機会を望んでいる人が、本当の風流人であり、また、雅人であるように思われます。

至った人というのは「自然美」に対して注意深い人である。

 兼行けんこう法師なんか『徒然草』にいっておりますが、よき人の住まった家は後から見て非常によいとか、あるいはそのほか、人の家の庭に、石の沢山あるのは見にくいとか、仏間の中に仏様の数の多いのは面白くないとか、家の中に道具の非常に沢山並んでいるのは見にくいとか、立派な事が書いてあります。通人というのはどうかと思いますが、余程至った人であればこそいえるように思います。やはり、結局「自然美」に対して注意深い人であるがために、そんなことがはっきりいえると思うのであります。それでよき人の住まった家は、後から見ても奥床しいように見える。書なんかでもよき人の書いた字はよく、後から見てもその書に美が多いのであります。そこで字を書くのは手でなくて、人だということになると思います。これは字ばかりでなく、絵を描いてもそうであります。つまり、よき人でなくてはよき字は書けない。

習字する場合、筆硯紙墨にいかに心を用うべきか。

 今度は手本を選ぶ場合に、よき人の手本で字を習い、よき人の書いた書に始終接しておること。そうすると、それから受ける感化で、自然と自分という人間がよくなって来る。自分という人間がよくなって来るから、よい字が書けるという順序になる。そういうことを、みなほったらかして置いて、いきなり手先器用でうまい字を書いて鼻高々とうごめかそうというのは無理なことでありまして、それは結局、うまい字を書こうということを簡単に考えたからだろうと思うのであります。うまい字を書こうということをもう少し別にしまして、うまい字を自分は書けるか書けないか分らぬが、どうせ字を書くのだから、よい字を書くのだということになったならば、都合が好いと思います。うまい字を書こうと思いますと、普通の三角とか四角とか、正確な四角さなり、正確な三角さなり、正確なまるさにしなくちゃならぬということになります。よい字は字が曲っておっても、よい字である。真直ぐに書けなくても構わない。つまり、よい字ということは規矩的な柄ではない、中味だ。そういうことになるから、この中味のことに注意さえすれば、自然よい字が書ける。そうして、よい字の形の手本で手習をして来れば、自然うまい字が書けるようになって来ると思います。

 さて、ご承知の通り「筆硯精良人生一楽」という言葉がありますが、筆とか紙とかいうもので、字はうまく書けるものではないと思います。それはやはり「筆硯精良人生一楽」で、楽しめば宜いと思う。自分の好きな筆を持つ、自分の好きな紙を持つ、自分の好きな墨を磨って楽しむ。紙を見て楽しみ、硯の感覚を味わい楽しみ、筆の柔らかさを楽しみ、硬さに興味を持つ。筆の軸の材料が良い竹だとか、悪い竹だとか、良い毛で筆が出来ておるとか。とにかく読んで字の如く「筆硯精良人生一楽」だと思うのであります。そこでこれは何々という筆をもって字を書けばうまい字が書けるだろうとか、こういう紙に書かせばうまい字が書けるのだがなというようなことは俗だと思います。そういうようなことは、あるにはありますけれども、それに重きを置くことは俗だと思います。筆なんかどんな筆だって、私ども経験によりますと、同じことであります。筆によってうまい字が書けるというようなことは断じてありませぬ。昔から能書筆を選ばずといわれておりますが、全く私もそう思うのであります。筆と紙とでうまい字が書けるならば、自分の好き気儘に求めれば宜いのでありますが、自分の好きな筆を選んだから、紙を得たからといって、決して字がうまくならない。紙も書きよい紙に書けば気持の好いことはありますけれども、それによって直ちにうまい字が生ずることはありませぬ。墨も悪い墨であると粘りっこいので、膠が多いから書きにくいというようなことはありますが、これまで程君墨ていくんぼくというような良墨もありますが、そういうものを持ったからといって、別段によい字が書けるということはありませぬ。絵もその通りであります。大雅などの描いている墨色は頗るよい墨色でありますが、あれはやはり大雅の人の色でありまして、墨がよいというのではない。墨でよい絵が出来ますならば、絵描きなどは高い墨さえ使えば宜いのでありますが、そんな墨をなんぼ持った所がよい色が出るものではない。もしこれを化学的に分析しましたならば、大雅の墨色も松花堂しょうかどうの墨色も同じ色に違いない。同じ墨で書いたのだから……、けれどもこれがちょっとした濃淡とか、ちょっとした筆の遅速だとか、その人の品格だとかいうような関係で墨色の感じが紙上に変わる。そこで十人寄れば十人の墨色が出るのであります。しかし、それは墨色が変化したのではない。その人が墨色に化学的変化を及ぼしたのでもない。墨色が変化したのではなく、その人の色が墨とは別の関係で出たということであります。例えば、例がまるで違いますが、人の足音なんかでも知っておれば人が分ります。同じ下駄を履いて同じように歩いても、その人の区別がはっきりと足音を別にします。非常に不思議なものであります。十人寄れば十人とも足音が違うのであります。いかに力を入れて来ても、なよなよと歩いて来ても、その人の足音はその人の足音で、下駄の桐であるとか、地面が柔らかいとか、固いとかによって出るのではなく、その人の個性からの音が出ておる。そういう訳で、その墨色ということも、その人の持って生まれた色が出ておるのです。ちょっとした相違から感じが大変に変わるのです。従ってこれも墨ばかりではありませぬ。これは絵具でもその通り、同じ赤い絵具、青い絵具でも人次第で皆感じが違うのです。その人によってです。墨色ばかりではありませぬ。なんだって同じことであります。それで、結局は筆は見て用いて楽しむべきものである。「筆硯精良人生一楽」で楽しめば宜いという私の考えであります。日用的に今度良い硯を買って来ようとか、良い紙を買って来ようとか、なんぼ高い硯を買って来ても、それによってうまい字が書けるものではない。そういう点がはっきりしておる人、お分りになっておった人もありましょうが、はっきりしておらなかった人もありましょうと思いまして、失礼を顧みずこんな事をいったのでありますが、まあ筆を全部おろして書いても、ほんの先だけで書いても、全部自分の好みで宜いと思いますが、ただ実用の場合に、つるつるした硯であれば、一時間で墨の磨れる所が三時間も四時間もかかる。十分で磨れるものが一時間も二時間もかかります。殊に絵と違いまして、また細かい字を書いたりする場合は別ですけれども、普通の場合には硯が粗くても細かくても、字のうまい、まずいに影響するものではないと思います。誠によい書を見ます場合、筆が悪かったり、硯が非常に悪かったりしている場合もありますが、逆にそれがためにかえって宜い結果の例も沢山あります。それで今はよい筆がないとか、昔はこういう筆があったがということは、それは趣味上楽しむ上から、今を不足だというのならば分っておりますが、それがために、どうもうまく書けないというようなことは断じてないと思うのであります。
(昭和九年)





底本:「魯山人書論」中公文庫、中央公論新社
   1996(平成8)年9月18日初版発行
   2007(平成19)年9月25日3刷発行
底本の親本:「魯山人書論」五月書房
   1980(昭和55)年5月
入力:門田裕志
校正:木下聡
2020年2月21日作成
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