覚々斎原叟の書

北大路魯山人




 これは旨い字か、拙い字か、おとなか、子どもか、手の字か、心の字か、はた人格の賜物たまものか、それとも、学者の書か、高僧の筆か、あるいは書家の字か……。書家なら、もっと字をうまくまとめるはず、第一こんな風格の高い字は書けない。学者の字としては、並々尋常の学者では書けない自由さがある。坊さんの筆としては、いわゆる坊主臭さがない。俳人にしては、たいてい、この真面目さを見ることはできない。
 ほかでもない、これこそ、われらの誇る日本人の見識をもって生まれ出でたる茶道茶儀、この道の悟りに因って、世に表われた書である。旨い字か、いな、拙い字か、否、ただ、よい字である。よい字というものは、よい人格が生む以外、ほかに生んでくれる母体はない。
 人格の善悪上下は、大部分が生まれつきであり、天の成しあずかるところであるが、善智を心がける教養も決して軽く見ることはできない。
 世に能書はたくさんあっても、善書は稀にしか見当らない。能書はややもすると、技術を得意とする悪弊に陥り、由来価値を認めがたき、書家の書に成りたがるものである。善書は質が善を備えておるから、どう間違っても善書は善書であって、低劣の醜悪とはなんら関係がない。
 今は茶道の中、点茶の形式が辛うじてその面影を残しておるが、肝腎かなめの善知識を得るところの根源とも申すべきまごころが、ほとんど跡を絶ってしまった。真剣が影を薄くしたこの書は、必ずしも、茶家一流格の墨蹟ではないが、今の世に、せめてこれくらいの字ができる人格者が茶道界に現われると、茶儀に対する誤解もなくなり、国粋というようなことも鮮明になり、殊に審美上のことなどは、如何に有益に進展するかを思わずにはいられない。
 とにかく、茶道に入ると、入ること深ければ深いに随い、ものの見方が精密になる。従って、表面のみに陶酔するような杜撰ずさんから救われるようだ。この筆者は茶道第一の名家、千利休を相承する表千家三代覚々斎原叟かくかくさいげんそうである。
 今を距る二百二年前、享保十五年六月二十五日、五十三歳で永眠している。この墨蹟を按ずるに、おそらく晩年の作であると思われる。
(昭和六年)





底本:「魯山人書論」中公文庫、中央公論社
   1996(平成8)年9月18日初版発行
   2007(平成19)年9月25日3刷発行
底本の親本:「魯山人書論」五月書房
   1980(昭和55)年5月
入力:門田裕志
校正:きゅうり
2019年3月29日作成
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