志野焼の価値

北大路魯山人




 古伊賀、古志野は日本の生んだ純日本的作風を有することが先ず第一の権威に価いする。そうしてこれらの真価は、三、四百年前、すでに識者の重きを加えるところとなって、爾来今日までその声価は重加こそすれ、少しも軽くはなっていない。言わば間違いも勘違いもなく、陶器中の名品たることを保証されているので、その価格も、中国名産の万暦赤絵や祥瑞、古染付などの上座を占めているのである。敢えて某政客の説明を俟つまでもなく、拙者の志野考などと今更喋々要しないのである。
 しかし、こう言ってしまっては、話に愛敬がなくなるとして、やはり伊賀を生まれ故郷として、伊賀を論ずる気になるように、拙者も志野窯発見を機会として、志野考の一部を一席弁じさせてもらうとする。
 志野そのものの全体的価値は前述のとおり昔から定評あって、その結構なることは万人の認めるところであるから、言わば製作人として我々の感服する点を一、二摘出することにする。製作家として進む後進作家の参考に価いしないともかぎらないからである。志野の窯跡が発見されたことは珍しいことにはちがいないが、別に大したことではない。尾張、瀬戸だと思っていたら、なーんだ美濃だったか、そう言えば今まで瀬戸窯跡では発見されなかったようだね、これでおしまいなのである。ところが製作家の立場となると、製陶研究上、すこぶる有益なるものがあって、等閑視できないことになるのである。
 先ず志野破片中、ナマ焼、ヤケ過ぎ、上出来、下出来、土の赤きもの白きもの、見たこともない絵模様、絵色の赤きもの黒きもの、絵の白抜きとして様々なもの、手造りのもの、ロクロ製、茶器類、雑器類、この他、意外中の意外は、黒瀬戸の大茶碗即ち濃茶に用いられつつある黒瀬戸が、同時代の同窯作品と看做されるべく、混同して発掘されることであった。
 大分脱線した。こんな発掘状況を説明するのではなかった。志野の芸術的説明をすることにあるのであった。何にしても志野は、実に立派な陶器であるがために、立派な話題になるのである。これが面白いと言ったとて、高の知れた、後年の下手物の油皿や、鯡皿ぐらいで吾人研究の芸術的問題にならんのである。価値ある志野、それに吾人は重きを置くのである。
 志野の出来のよい物になると、足利前後の絵画彫刻に比して一歩も譲らない芸術的価値を持っていると言えよう。今一歩進めて、絵画彫刻に見る伝統的規矩、方法が付きまとっていないだけに、それ以上ゆるゆるとしたよい気持で見ることが出来ることを喜ぶのである。これを朝鮮の茶碗類に比べて、いささか遜色なきのみか、さらに大特色を有するのである。志野茶碗を見ると、これが光悦の先をなすものだなと、うなずかずにはおれない。光悦以前に生まれている志野、光悦以前に世にもてはやされている志野を思う時、光悦が起こるのは当然である。
 全く志野の茶碗を見る時、何人の頭にも光悦の大まかな茶碗が連想されるほど、光悦に彷彿たるものがある。否、光悦以上だという感じさえするのである。しかも志野茶碗ばかりではない。志野と一緒に発掘されている同時代、同窯ならんと吾人の見るものに黒瀬戸茶碗がある。後年の黒楽茶碗は、最初、黒瀬戸茶碗にヒントを得て、軽便焼黒茶碗として造られたものであるとの伝説がある如く、ちょっと見て黒楽茶碗に見ゆるが、しかと、作行さくゆきを見る時、長次郎ものんこうもその気宇に於て到底及ぶものではない。誰が目にも映る凜とした格を備えている。
 この黒瀬戸茶碗と志野茶碗は同時代、同所に生まれ出でているだけに、その保有美及びその貫禄は兄たり難し弟たり難しの間にあるが、何かしら志野の方が白い上に地肌の焼き色に素晴らしい風情が備わり、暗紅色なる素朴閑雅な絵模様が著しく人を魅きつける力をもって、万人に迫るところがあり、その当時より著名であったものの如く、世上有名である。しかも黒瀬戸は立派な姿をもって生まれ出ながら、後年軽便焼黒楽茶碗に押されて、擡頭を傷つけられた感がある。そこへ行くと志野の軽便焼は生まれ出なかったために、幸運にも志野はその特色を持ったまま長く寵遇を蒙ったわけである。
 志野は下手物とか上手物とかの戸籍を極める必要はないと思う。唯々志野はよい陶器であり、稀に見る純日本的陶器であり、珍重すべき陶器であり、尊敬すべき陶器である――と、簡単にこれだけでよいと思う。何と口を極めて説明してみても、わかる者だけにしかわからないのであるから、従ってこの焼物は何種属に属するもの、何系統に属するものなどいう詮議立ては、てもってその美を解する方の好者には没交渉であるのである。どうでもよいことなのである。
 故に吾人は製作年代だけは、鑑賞上いささか影響あるところなきにしもあらずとして、一応は詮議するが、其の余は唯見て、眺めて、その保持する特種の美感に陶酔出来得るだけを喜ぶのである。前にも言うように、志野が素晴らしくよいということは、吾人の発見に係るものではない。古人がすでに吾人に教え、且つ見せつけたのである。吾人は唯古人によって覚えただけなのである。
 このごろある一部の人が輓近の下手物、民芸の美を発見したとして、鼓を鳴らしておられるような特種的矜持は許されないのであるが、製陶研究については、吾人のみの享くる利益についてみても、決して之を鮮少ということはできないのである。況や鑑定資料としては(古来鑑定至難となす志野なるが故に)、将来多くの鑑定家がこれによりて目を慥かにすることは論を俟たぬところであって、この点、すこぶる有益なる発見と見てよかろう。(この項未完)
(昭和五年)





底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論新社
   1992(平成4)年5月10日初版発行
   2008(平成20)年11月25日12刷発行
底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社
   1975(昭和50)年3月刊行
入力:門田裕志
校正:木下聡
2019年3月29日作成
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