料理と器物

北大路魯山人




中国料理の食器を使っている日本料理


 日本料理に使っている上手物の陶器の食器は、多く中国で出来たものである。殊にわが懐石料理に尊重する器具の例を挙げるならば、染付の各種、青磁万体、呉須赤絵、金襴手類などは、残らず中国の食器として生まれたものである。それを三、四百年以来、日本料理に適当として調和させている手腕は、慥かに一見識というべきである。以て当時の人々の鑑賞力のほどもわかって来るというもので、所謂古渡り物は、今日なお食器の最高権威として取扱われている次第である。
 ところが本場の中国では、古い優良な佳器は殆ど地を払って皆無というありさまである。このように本場の空虚になった原因は、日本人に上手物を選抜されたことと、その後は欧米人にも選り取られた結果である。しかし、外国には現下所有者の図録などに徴して、日本人の良しとする素晴らしいものは、あまり輸出されていないらしい。大体に於て日本人が掘り出したあとの選り屑といった形であるらしい。
 かように本場の中国では、よいものは出尽しているのに反し、日本では中国の優れた品を今も使っていて、しかも、その使途が動きのとれぬところまで発達しているのは、吾ながら感服の至りである。

良い料理には良い食器が入用で、
良い食器には良い料理が要求される

 このようにして、良い料理には、食器の選定が大いに、必要を生じて来るものである。たとえば、ここに良い料理があるとしても、それを盛るべき器物が偽物や粗悪品では、料理の価値の引き立たぬこと夥しい。
 ここにまた名什の鉢があるとする。これに不様な不調味な菜肴を容れれば、名器の価値は泣かねばならぬ。要するに料理の美と容器の美は両立して、はじめて最善の馳走ということになる次第である。
 しかして味覚を充分に感じ得る者は、是非器物の鑑賞眼が入用であって、そこに初めて料理通完成を称すべきであると思う。
 食器の鑑別が充分に行届いていて、深い心入れになる真実の料理には、真剣味がある。真剣の料理は一種の芸術的生命を有する。かようにして芸術的作品の器物とはじめて調和の美を得るに至るものである。
 良い料理には盛り方の美しさ、色彩の清鮮、庖丁の冴え、すぐれた容器との調和、それらに対する審美眼がなくてはならない。
 また、佳味を賞している席、即ち建築物に就いての審美眼がなくてはならない。
 さらに林泉の幽趣、あるいはその境の山水に対する審美眼もなくてはならない。
 その中の一つに通ずる素質があれば、必ずその他の鑑賞も出来るようになるものである。
 この三つの審美眼を包含し、綜合して立っているものは茶道である。即食道楽の極致であり、食道楽の完成である。
(昭和五年)





底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論新社
   1992(平成4)年5月10日初版発行
   2008(平成20)年11月25日12刷発行
底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社
   1975(昭和50)年3月刊行
入力:門田裕志
校正:木下聡
2018年11月24日作成
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