家畜食に甘んずる多くの人々

北大路魯山人




 ひとは偉そうな顔はしていても、また自由、自由と、自由を叫んでみても、みながみな、家畜に等しく、宛てがわれたままの食べ物を口にして、うまいとかまずいとかいってはいるが、日常の事務的行為として三度の食事の不自由に気がつかない。
 大部分の人間が、女房の宛てがい扶持、弁当屋、料理屋の宛てがい食に従い、いささかも不自由を忍んでの食事とも、奇妙な食生活とも気にしていないようだ。まことに不思議である。このひとびとからは食生活の見識というものは見出し難い。
 日本のように食品に恵まれた国柄では、選択に少しの不便もなく、山禽のごとくどんな食餌でも気儘に摂れるはずであるが、自由生活ご随意の人間として、自己の欲するものが口に入れられないということは、なにかに捉われているのであろう。
 今日はなにが食べてみたい、明日は何々が食べたいを実行して、おのが体を拵えているひとは皆無であろう。
 たいがいは家畜同様、誰かのお宛てがいを口に入れ、当然のごとくいささかも不平がない。うまいもの、好きなものを選び食いすることは贅沢だなどと、無知な考え方に従い、頭から気儘無用と決めてかかり、栄養のことなどに、思慮は少しも働かないようである。三度の飯が食って行けたら結構などと、自分の血肉を侮辱してかかり、身も心もおのれ自身から凡俗化して行く。
 平凡な食事の常習、これはまことに恐ろしいことで、否応なしに各人の個性を麻痺させ、三度の食事にさえ自由の精神を失い、気儘な心を圧殺し、自己より進んで凡人の境界へと堕ちて行くのである。
 健全な肉体を作り、精神力を養ってくれるものは、まず食事の摂り方からであるとわたしは信じている。
 正しき自由の発見、間然するところなき個性の発揮、好むものはあくまでも好む、嫌いはあくまでも嫌う。
 この点、山禽、野獣に学んでよいようである。われわれはここらで、そろそろ長年の陋習とはさようならして、家畜扱いから離れていいのではないか。
 繰り返しいうようだが、平凡生活は平凡児を生む。多数型という一定の無理型によって、型のごとくさまざまの病人を作る。
 なんらかの[#「なんらかの」は底本では「なんらか」]病気という苦痛を身につけぬ人間は人間でないように、天意を軽視し、粗忽にも無理に生きるからである。山禽、野獣は人間ほど病んでいないようである。
 欲する自由食に生きるものと、不自由食に命を支えているものの相違であろう。人間世界は衛生学の発達と薬学の飛躍的発展がありながら、これと競争するかのように、病苦者を次から次へと生んでいる。
 まことに今人の生活は一面文化人、一面、非文化人の譏りを免れまい。ついでながらわたしはこの論旨の実行者であることを申し添えておく。
(昭和二十七年)





底本:「魯山人著作集 第三巻」五月書房
   1980(昭和55)年12月30日
初出:「独歩 1号」
   1952(昭和27)年6月
※誤植を疑った箇所を、「魯山人著作集 第三巻」五月書房、1997(平成9)年12月18日新装愛蔵版の表記にそって、あらためました。
入力:江村秀之
校正:栗田美恵子
2020年8月28日作成
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