人間が家畜食

北大路魯山人




 山の中に三十年の朝夕起臥、ほとんど社交のない生活を営みながら、わたしは時に快速船のように何事も進ませずにはいられないくせをもっている。自慢ではないが、それっというすべてが超スピードで活動するために、周辺の助け舟は大変である。眼の回るようにキリキリ舞いだが、わたしから見てすべてが鈍速で見ていられない。第一快調を欠いている。その理由をわたしはよく考えているのだが、それは他でもなさそうである。第一わたしのように出来るかぎりの睡眠をとっていない。第二わたしの日常のように栄養を摂っていない。第三碌でもない俗事に頭を煩わすことが多過ぎるようだ。わたしが美生活していることに対し、彼等はわたしの美しずくめばかり狙っている生活とはかけはなれすぎている。
 わたしのように自由を好むものには、グループに加わることは所詮出来るものではない。共同画業、共同陶業などはとうてい出来るものではない。日常の食べ物について見ても多くの人間は家畜同然おあてがいの食べ物をもって栄養を満たしている。
 妻女の作ったおあてがいの料理、料理人の作ったおあてがいの献立料理、これで事を足してすましているのが大部分の人間である。わたしはこれを見て食物道についてはまったく無知な人間のいかに多いかに驚くのである。自己の真から好む食べ物というものに自覚がないのである。山鳥のように野獣のように自己の好むものばかりを次から次へとあさって、充分なる栄養を摂る人間自由を知らないのである。いつの時代からの慣習かは知らないが、この点、家畜となんら異なるところがないようである。わたしの考えからすると、おあてがいの食べ物では、そのひとびとに当てはまる栄養は摂れるものではないと判断している。わたしはだいたいにおいて日常食生活四、五十年、自己が真から底から好む食べ物をもって健康を作る栄養としている。食品の低廉とか、高価とかあるいは名目とかには決して囚われないようにしている。
 これでこそ自己に完全なる、栄養は摂れ健在が保たれるのだと確信している。それが第一の証拠として白頭翁といわれる今日までわたしは病気を知らない。およそ病気と称するものはなに一つない。旨いものを食って、寝たいだけ寝る。野獣、野鳥の自然生活にすこぶる似ているのがわたしである。早寝、遅起き、八時間以上十時間を寝る。眼が覚めたとなれば、常人の幾倍かの仕事をする。毎日自家の湯に第一番に入る。湯から出れば間髪をいれずビール幾何かを痛飲する。無人境に近い山中の一軒家においてである。眼に観るものは家の外が山野であり、家の中は最高に近い古美術品である。他は犬であり、兎であり、猫も二匹いる。鴨もいる。鶏もいる。鷹もいる。わたしの周辺にはわたしの健康を害するようなものはなに一つない。わたしの健康はここから生まれているのかも知れない。勿論、親兄弟も妻も子もない孤独生活である。これも世間類がないかも知れない。わたしに勝手気儘な自由が出来るゆえんのものは、わたしを束縛するものが皆無であるからであろう。親兄弟や、妻子があっては、妥協生活はなんとしても免れないであろう。ヤセ浪人では家族全部が好むところに従うわけにはゆくまい。自分ばかり好むままの食事にひたりきる生活も出来まい。そこへゆくと野獣の生活、山禽の生活は、人間よりは何ほど自由をしているか分らない。人間のように病気もないのであろう。
(昭和二十七年)





底本:「魯山人著作集 第三巻」五月書房
   1980(昭和55)年12月30日
初出:「独歩 2号」
   1952(昭和27)年9月
入力:江村秀之
校正:木下聡
2021年1月27日作成
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