不老長寿の秘訣

北大路魯山人




 美味談も考えてみるとなかなか容易ではない。前に木下の『美味求真』、大谷光瑞おおたにこうずいの『食』、村井弦斎むらいげんさいの『食道楽』、波多野承五郎はたのしょうごろうの『食味の真髄を探る』、大河内正敏おおこうちまさとしの『味覚』など、それぞれ一家の言を表わしてはいるものの、実際、美味問題になると、いずれも表わし得たりと学ぶに足るほどのものはない。
 各々美味道楽の体験に貧困が窺えて敬読に価いしない恨みがある。というのは、料理を作る力の経験を欠くところから、ものの見方考え方が、皮相に終ってしまって物足りないのである。また一面、先天的素質にもの言うものがないため、という理由もあろう。それに第一、美に関心がうすい。
 いずれにしても、食いもの話はあまりにも広く深いので、軽々に論じ切れるものではないようだ。だから多くの人の食物談というものが、いつの場合も出鱈目である。極言するなら、食物を楽しみきるすべを知らないし、また意欲も足りない。
 私にしても美味道楽七十年、未だに道をつくすとは言い得ない。ただ道を楽しんでいるまでのことである。しかし七十年も絶え間なく美味生活に没頭した結果、さすがに突当ってしまい、最高の美味というていのものは殆んど影を没し、まことに不自由この上もない所に至ってしまった。「歓楽きわまりて哀情多し」の感なきを得ない。これが今日の私である。
 私を知る多くの者は、そうなっては不幸だという。そうかも知れない。どうやら美食癖七十年の成果は不幸に終ったようだ。嘲笑ちょうしょうに価いするらしい。
 しかし、人の世でいろいろ与えられている天恵の中でも、命をつなぐ「食」、これをおろそかに受取ることは相済まぬことである。数千数万の食物は、一々別々の持味をもっていて、人間に無上の楽しみを与えている。この一々の持味を受取ってありがたく享楽するのが食事であり、料理の道理である。下手な料理で、ものの本質を殺し、せっかくの持味を台なしにしてしまう如きは、天に背くものと言えよう。食ってうまくないものを怪しみもせず、無神経に食べて、腹ふくらし病気ばかりしている人々の姿は、まことに笑止千万と言いたい。ラジオ、雑誌、テレビで毎日のように栄養を説いているが、これは栄養失調者がこの世の中にいかに多くはびこっているかを物語っているものといえよう。
 幼稚な栄養研究者は、栄養食と栄養薬を混同しているようである。栄養食とは口に美味で人間を楽しませ、精神のかてともなるもの。栄養薬とは病人をいよいよ病人にするばかりの不愉快極まりないもの。もう一度言ってみよう。栄養食というものは人間が自己の欲求して止まぬところの美味。これを素直にとり入れ、舌鼓打ちながら、うまいうまいと絶叫し続けるところに、自ずと健康はつくられ、栄養効果が上がるのである。多くの実例が示すように、栄養食がまことにまずいものと評されているようでは、理屈通りの栄養効果は望めるものではなかろう。
 食を説く限り食品そのものの持つ特質を鋭敏に察知し、そこから料理を工夫発見し、合法的に処理するなら、食ってうまい。うまければ栄養は申分なく発揮され、身心爽快、健康成就と落ちつくのである。こうなれば料理の考え方も芸術的になり、おもしろくもなるというのである。世間のインチキ料理、出鱈目料理にごまかされて生活しておるとすれば、世の中が殺伐さつばつになるのは当り前だ。「衣食足りて礼節をる」は今日においても真実の言だ。この本の中で、私の体験を誇りがましくいうつもりは毛頭ないが、今述べたような食生活を長々と続けた結果、私は七十余歳の今日まで、およそ病気らしい病気をしたことがほとんどない。常に人から酒後の顔色と間違えられるまでに血色が良いらしい。第一寒さを覚えぬ。暑さにも平気である。仕事にしても通常人の数倍はして来た積りである。能く笑い、能く談じ、金のないのも人の笑うのも一切苦にならぬ。だから健康なのだと人は言う。己の欲する好餌ばかりの生活は、これこの通りということになろうか。





底本:「春夏秋冬 料理王国」ちくま文庫、筑摩書房
   2010(平成22)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「春夏秋冬 料理王国」淡交新社
   1960(昭和35)年2月25日発行
初出:「芸術新潮」
   1954(昭和29)年1月号
※「木下」は底本では「木下〔謙次郎〕」です。
入力:江村秀之
校正:栗田美恵子
2020年11月27日作成
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