西洋料理、中国料理に添えてあるあのからしを見るたびに、どうも気になってしようがない。日本料理に付けられた場合などはなおさらである。
元来、西洋からしというもの、肝心の辛さが一向辛くなく、第一大切な香味がなっていない。辛味も香味も共に優れている日本からし。しかも、安価で存在しているものを、なにをもって西洋からしをありがたがるのか。わたしにはさっぱりその気が知れない。あの小麦粉とからし粉を混ぜ合わせたような精気のない西洋からしのいったいどこがよいのだろう。
なるほど、日本からしは使用に臨んで溶くというちょっと手間のかかるキライはあるが、それとてからし粉を湯呑の底にでも入れて、日本紙を一枚置き、少しばかり湯をそそぎ、灰あるいは炭火のおこったのでも入れれば、それだけですむことではないか。
しかし、日本からしは西洋からしのように色が美しくない。キメがあらい。これを改良したら質においては、西洋からしにまさること数等である。
美味で効果的で経済的であることを実行しないのは、食べ物に対する不見識であり、陋習を改めない横着さは充分責めねばなるまい。
ビフテキに一度日本からしを付けてみるがいい。どんなにうまく食えるだろうか。日本からしはおでんと納豆にかぎる出合い物だなどとばかり決めこんでいては、物笑いの種である。
独りこのことばかりではない。だいたい西洋ものでさえあれば、てんからなにもかもがよいように思ったりする癖が悪い。むしろ、西洋人と食卓に向かい合いでもしたような場合は、日本からしの優れていることを、教えてやるくらいの見識を持ちたいものだ。
(昭和十三年)