恐ろしく肩幅の廣い五人の男が、鹹氣と海との臭ひのする或る薄暗い家のやうななかで、肱を突いて酒を飮んでゐた。彼等の身長にはひくすぎるその棲家は、一方の端へ末細りして、丁度大きな海鴎の空虚な腹のやうであつた。それは緩い、眠氣を催させる、單調ななげきを立てて、微かに搖れた。
外界は確かに海と夜とであつた、が、それについては少しもわからなかつた。天井にたゞ一つだけ開けてあつた窓は木の蓋で閉されてゐた。そして古い吊りランプがゆら/\搖れて彼等を照らしてゐた。
暖爐には火が燃えてゐた。彼等の濡れた衣服は、湯氣を立てて乾いた。その湯氣は彼等の素燒のパイプからの烟と入り亂れた。
彼等の嵩張つた食卓はその室一杯を塞げてゐた。それは室と全く同じ形をしてゐた。そしてその食卓の周圍には槲の壁板へ打ちつけた狹い棚木に腰を掛けるだけのいくらかの餘地はあつた。彼等の上には殆ど頭のつかへさうな大きな梁が渡つてゐた。そして彼等の背後には、厚い材木のなかを抉つたらしい寢床が、死者を入れる墓穴のやうに、口を開いてゐた。總てこの木細工は粗末な荒削りで、濕氣と鹹氣とが中まで沁み透つてゐて、彼等の手擦れで磨れて光つてゐた。
彼等は
部屋の奧の鏡板には、ファイアンス燒の[#「ファイアンス燒の」は底本では「フ イアンス燒の」]聖母の像が小架の上に祠られてあつた。この聖母はこれ等水夫達の守神で、すこし古びてゐた、そして極く簡素な技巧で彩られてゐた。けれど、陶器で作られた人の姿は、生きた人々より遙かに長い命を保つものである。それで彼女の紅と青との服裝は、この貧しげな木造の家の總ての薄暗い灰色の中で、一點の鮮かな效果を見せてゐた。彼女は、これ迄にも、度々、惱みの時の熱い祈りを聽いたことであらう。彼女の足許には、二つの造花の束と、一つの念珠とが釘づけにせられてゐた。
五人の男達は皆同じやうな身なりをしてゐた、厚い青色の毛編みのシヤツが、上半身をしめつけてゐて、それがズボンのしめ帶の中へたくし込まれてゐた。彼等の頭には、シュロア(これは西半球で雨を伴ふ南西風の名から出てゐる)と呼ばれる、瀝青を塗つた麻布の一種の水夫帽をかぶつてゐた。
彼等の年齡はそれ/″\違つてゐた。船長は四十恰好に見えた。あとの三人は、廿五歳から三十歳位であつた。も一人の、皆がシルストルとか、またはリュルリウとか呼んでゐるのは、まだやつと十七歳であつた。彼は、脊丈と腕力とでは、もう一人前の男であつた。極く細い、ちゞれた黒い髯が彼の兩頬を包んではゐたが、未だ子供の眼をしてゐた。それが灰色がゝつた青みを帶んでゐて、いかにも柔しく、そしてまつたく無邪氣でもあつた。
場所がないので、互ひに體をくつつけ合つてはゐたが、彼等はこの薄暗い住家にかうしてもぐつてゐるのが、心から愉しさを味はつてゐるやうであつた。
外界は、確かに、海と、夜と、深い黒い波の無限の荒野とであつた。壁に懸つてゐる銅の時計は十一時を、いふまでもなく、夜の十一時をさしてゐた。そして木の天井板に打ち當る雨の音が聞えた。
彼等はいかにも樂しさうに結婚問題のことを論じ合つてゐたが、――不都合な事は一言も言はなかつた。まつたく、それはまだ獨身者の彼等の立てさうな計畫か、或は婚禮の時に郷土で起つたをかしな出來事の話かであつた。時々は、快ささうな笑聲を立てて、彼等は戀事の歡びに、少しむきだしすぎる暗示を投げてはゐた。然し、かういふふうに鍛へられてゐる男達の解してゐる戀は、いつも健やかなものである。そして粗野ではあるが、殆ど無垢である。
けれど、シルストルは、ジャン(ブルトン人は此の名はヤンと發音する)といふもう一人の水夫が姿を見せないので、くさ/\してゐた。
まつたく、ヤンは何處にゐるのか、まだ甲板で働いてゐるのか? なぜ降りて來て、この面白い話の仲間入りをしないのだらう?
『もうそろ/\夜中かなあ』と船長が言つた。
そして、彼は背一杯に伸び上つて、明り窓からヤンに聲を掛けようとして、頭で木の
『ヤン! ヤン!‥‥おゝい』
呼ばれた男が外から荒つぽく返事をした。
そしてこの蓋板の開いた瞬間に、内へ射し込んで來たその蒼白い光りは、まつたく晝間の光りのやうであつた、――「夜中ぢかい」‥‥のに、しかもそれは太陽の光りのやうでもあつたし、また不思議な鏡で、遠方から反射された薄明のやうでもあつた。
その窓が閉まると、夜がまた歸つて來て、小さなランプが再び黄ろく輝きだした。するとその男が大きい木靴の音を立てて、木梯子を降りて來るのが聞えた。
彼は殆ど巨人のやうな男だつたので、内へはいるには、大熊のやうに、體躯を
彼は、體躯の組立が普通の人よりずつと圖拔けてゐたが、殊に肩幅といつたら、閂のやうに突つ張つてゐた。彼が
このヤンの體躯へ兩腕をして、シルストルは子供のやうな態度で、懷かしさうに、彼を抱いた。シルストルはヤンの妹と許婚になつてゐたので、ヤンを兄のやうにしてゐた。ヤンは、人の好い微笑を浮べて、白い齒を見せて、人なつこい獅子のやうな樣子をして、抱かれるまゝに身を委せてゐた。
彼の齒は、他の人々より据わる場所が廣いので、まばらになつてゐて、非常に小さく見えた。
ヤンが腰を掛けると、また
かうしたことが、その見習にも、すこし煙草をすふ
その後では、結婚の話がまた盛んにはずんだ。
『えゝ、ヤン』シルストルが訊いた。『何日になつたら俺たちはお前の婚禮のお祝ひをするんだい!』
『お前は恥かしくないか』と船長が言つた。『お前のやうなそんな大きな人間が、廿七にもなつて、まだ女房を持たずにゐるなんて! 娘達がお前を見たらどう思ふだらう?』
彼は、女を蔑むやうな風を見せて、その恐ろしい肩を搖すぶりながら答へた。
『俺の婚禮なら、そりや夜中にやるさ、また外の時にや丁度好い時にやるさ。都合によらあ』
ヤンは、つひ此の頃、海軍を五年間勤めて歸つて來たばかりであつた。そして其處でこそ彼は艦隊の砲手として勤めてゐて、佛蘭西語が話せるやうにもなつたが、懷疑的な言辭を吐くやうにもなつた。――その時彼は皆に彼の最近の戀物語をした。その戀は二週間ばかりは續いてゐたやうであつた。
それは、ナントに於いて、一人の歌うたひとの戀であつた。ある夜、海から歸ると、彼はほろ醉ひ機嫌で、ある寄席へはいつて行つた。一人の女が戸口に立つて、大きな花束を二十
『それで』と彼は言つた。『歸る時に、その女が此の金時計を俺に呉れたんだ』
それで、それを皆に見せようとして、彼はそれを、つまらない玩具かなにかのやうに、食卓の上へ投げ出した。
それは彼のぞんざいな言葉と、いろ/\な姿とで物語られた。けれど、さうした文明生活の常套事は、彼等を取り卷いてゐると思はれた海の深い靜寂を持つた、また極地の消え行く夏の姿を思はせて、上の方にほの見えた眞夜中のさうした微光を持つてゐる原始的な男共の間には、ひどく調子が合はなかつた。
そのうへ、ヤンのさうした行状はシルストルを苦しませ、また驚かせもした。彼は、純な心の子供であつた。彼はブルバラネク村の漁夫の寡婦なる老祖母の手で、聖禮を尊ぶやうに育てられて來た。まだ極く小さな頃には、彼は毎日祖母と連れ立つて母の墓へ行つて、その前へ跪いて祈りを捧げた。斷崖に臨んだ此の墓地からは、遠く、英吉利海峽の灰色の波が見られた。其處は彼の父親が難船して、命をなくした場所であつた。
――祖母も彼も貧しかつた。で、彼は早い頃から漁船へ乘つて出なければならなかつた。そして彼の幼年時は海ですごされた。今でも彼は毎晩怠らずに祷りをした。そして彼の眼には信心深い淨らかさが宿つてゐた。彼もまた、みめかたちの好い方で、ヤンに次いで、船中では一番立派な姿をしてゐた。彼の非常にやさしみのある聲と、子供らしいその調子とは、その伸びた脊たけと、黒い髭とに寧ろ不思議な對照であつた。體躯の發育がいかにも早かつたので、彼は自分ながら、急にさう大きくなつて、脊が伸びるのを當惑した程であつた。彼は近いうちにヤンの妹と結婚するつもりでゐた。けれど、これ迄ほかの娘達がどんなに言ひ寄つて來ても、決して受け付けたことはなかつた。
船には寢床が皆で三つしかなかつた。――二人に一つの割であつた。――で、夜は時間を分けて、彼等は順番をきめてその中で眠つた。
彼等の酒宴――彼等の守神、聖母の昇天祭を祝ふための――が濟んだのは、眞夜中すこし過ぎであつた。彼等の三人は、窖のやうな、小さな暗い凹みへもぐり込んで、眠りに就いた。他の三人は、かうして中止せられてゐた大事な漁を續けるために甲板へ出た。それはヤンとシルストルと、も一人ギュイヨームといふ同じ郷里の男とであつた。
外は晝、永久の晝であつた。
けれど、それは何にも似つかはない蒼白い、蒼白い光りであつた。それは丁度消え失せた太陽の反射のやうに物象の上へたゆたつてゐた。彼等の身邊から、直ぐ、定かな色を持たない無限の虚空がはじまつてゐた。そして彼等の船の板子から先きの方は、總てがたゞ透きとほつた、觸れることも出來ない、幻か何かのやうであつた。
肉眼では、海さへもほとんど見分けがつかなかつた。一目見たときは、それは何物の影をも映さずに顫へてゐる鏡か何かのやうであつた。それは遠く擴がつてゐて、霧の平原ができたのかと思はれた。――そして、たゞそれだけ、其處には水平線もなく、境界線も無かつた。
空氣の濕つた冷たさは、實際の寒氣よりも一層烈しく、一層身を剌した。そして呼吸する度毎に、強い鹹氣が鼻を衝いた。四邊は
此處に立つてゐるこの三人は、少年の時からかうした冷たい海の上で、この幻のやうな、ぼうつとした、微暗い影繪の中で生活して來たのであつた。この無限の變化が、彼等の板子の狹い家の周圍で演じられるのを、彼等はすつかり見馴れて來た。そして彼等の眼は大きな海鳥の眼のやうにそれに馴らされてゐた。
船はゐながらで緩かに搖れて、單調なその同じ呻きをたててゐた。丁度或る眠つてゐる者が、夢の中で繰り返すブルターニュの歌のやうに。ヤンとシルストルとは手早く針と釣糸との用意をした。その間にもう一人が鹽桶の蓋をあけた。そして彼の大きなナイフを
それは長くはなかつた。彼等が靜かな、冷たい水の中へその釣糸を投げ込むか投げ込まないに、直ぐ鋼鐵のやうに光る、灰色の重い魚を釣り上げた。
それからつぎ/\に、ぴしや/\跳る鱈が獲れた。此の無言の釣りが、手早く、しつきりなしに行はれた。その一人は、大きなナイフで魚の臟腑を拔いて、それを開いて、鹽へつけて、そして數へた。軈て、彼等が國へ歸ると一かどの金になるこの鹽漬は、水をたらして、鮮かに彼等の背後に積み上げられた。
時間は單調に過ぎた。そして外界の空漠たる大天地では、光りが徐々に變りつゝあつた。今はそれが一層眞實なものに見えて來た。蒼白い薄明、極北地の一種の夕暮は、つひに夜とはならずして、今や、曙光のやうなものとなつて、海のあらゆる鏡は、薔薇色のうねりを立てて、それを反射した。
『ほんとに、お前は結婚しなきやならないんだ、ねえ、ヤン』と、シルストルは海をぢつて[#「ぢつて」はママ]見詰めながら、今度はごく眞面目な調子で、不意にさう言つた。(彼は、この兄の鳶色の眼にすつかり心を奪はれてゐる、或るブルターニュの女のことは知つてゐるやうであつた。けれどかうした眞面目な問題に觸れるのが何となく氣後れがした。)
『俺か。‥‥さうさなあ。いづれ近いうちに結婚するだらうよ』とヤンは、鋭い眼をくる/\しながら、やつぱり馬鹿にしたやうな調子ではあつたが、さう言つて微笑んだ。『だが
話に暇を潰してはゐられないので、彼等は漁をつゞけてゐた。彼等は移動する同一種族の無限の魚群の眞中にゐた。この魚群は二日以來、まだ通り切つてはしまはなかつた。
彼等は前夜も眠らずに漁を續けてゐた。そして三十時間に大きな鱈を千以上も獲つた。その爲め強い腕も疲れ切つて、うと/\しだした。
朝の光りは、眞實の光りは、とう/\やつて來た。天地開闢の日のやうに、その光りは、水平線の上にうづたかく集まつてゐるやうに思はれ、重い塊となつて其處にたゝなはつてゐた「闇から引き分かれた」。はつきりそれと見分がつくやうになつたので、彼等は、今や、夜の中からぬけ出たことを知つた。――そして以前の光りは、夢の中の光りのやうに、ぼんやりした不思議なものであつたことがわかつた。
雲に覆はれてゐた空には、
一屑低い雲は、濃い影の堤のやうに並んで、水の四方を取り圍み、遠い方をばとりとめのない
ヤンと海との結婚!‥‥シルストルは漁をしながらも、其の事ばかり考へて、一言も口をきかうとはしなかつた。彼は、兄とも思つてゐるヤンが、結婚の神聖な儀式をかうも茶化してゐるのを聞くと、悲しくなつた。そして特に、迷信深い性質であつたので、それが彼を恐れさせた。
彼は、これまでも長いことヤンの婚禮を期待してゐた。ヤンは、ゴオ・メルといふ――パンポルの金髮の娘を――貰ふだらうと、彼は思つてゐた。――そして自分が海軍へはいる前にこの結婚祝ひを見るのを樂しみにしてゐた。この歸還の不確かな、避け難い近寄りが彼の胸を痛くさせだしてゐたその五年間の追放以前に‥‥
朝の四時。下で眠つてゐた他の三人は、彼等の代りにとて出て來た。まだうと/\してはゐたが、その三人は、冷たい大氣を肺臟一杯に吸ひ込みながら、甲板へ出ると、其處で長靴をきちつと穿いた。そして蒼白い光線の反射を受けて、初めは、ぐら/\して眼を閉ぢた。
その時ヤンとシルストルとは朝飯の堅麺麭に手早くとりかゝつた。その麺麭を小槌で割つて、騷々しく、がり/\噛り出したが、それがいかにも堅いので、彼等は笑ひ出した。彼等は、これから下へ降りて、寢床の中で、ぐつすり暖かく眠られるかと思ふと、また全く以前の快濶になつた。で、彼等は互ひに躯を抱き合つて舊い歌の調子につれて身を搖りながら、艙口の方へ行つた。
その口から身を隱す前に、彼等は一寸立ち停つて、船に飼つてあるチュルクといふ、まだ幼い、ぎごちない、太い四脚をした、ニウーファウンドランド産の仔狗にからかつた。彼等は手でその犬をいぢめた。すると犬は、狼のやうに彼等に噛みついた。そしてとう/\彼等を痛くした。するとヤンはその變りつぽい眼に角を立てて、犬を強く突き飛ばした。すると犬はへたばつて、吼え立てた。
ヤンは親切者であつた。けれど、その本質は少し粗暴であつた。で、彼の
彼等の船は、「マリイ」といつて、船長はゲュヱルムルであつた。毎年、この船は、夏には夜の無い、かうした寒い極地へ乘り出して、大げさな危險な漁業をしてゐた。
この船は、その守神、ファイアンスの聖母の像のやうに年經てゐた。槲の椎骨をした、その厚い船側は、磨れて、皺よつて、濕氣と鹹氣とがしみ透つてゐた。が、まだがつしりして、丈夫で、瀝青の活氣づけるやうな香を立ててゐた。ぢつとしてゐる時は、嵩張つた船材で、重げな樣子をしてゐたが、一度強い西なぐりがやつて來ると、風に目醒める鴎のやうに、身輕さうな元氣を見せた。さうなると、此の船は、近代の巧みをもつて造つてある多くの新造船よりも、一層敏捷に巨濤を蹴立てて跳る獨自の姿を持つてゐた。
六人の男と見習とはみな、
彼等は、殆ど佛蘭西で夏を送ることはなかつた。
毎年冬の終りに、彼等は他の漁夫達と共に、パンポルの港で船出の祝祭を受けた。この祭日には、いつも同じな一時の祭壇が埠頭に築かれた。それは岩の間の洞窟のやうな形を模した。そしてその中央には、碇や、橈や、網を飾り立てたなかに、船乘り達の守神、優しい、冷やかな聖母が祭られた。この聖母は特に彼等のために寺から此處へ遷して來たので、いつの時代にも同じ生氣のない眼で、今度の
聖禮式は、女房達や、母親や、また許婚者等や、姉妹達の緩かな行列に續かれて、港を一めぐりした。其處では、旗を飾りたてたあらゆる氷島行きの船が、それ等の行列の過ぎる時に、旗で挨拶した。司祭は一々此等の船の前へ立ち停つて、言葉をかけ、祝福の身振りをした。
やがて此等の船は、一の艦隊のやうに、この國の夫といふ夫、情人といふ情人、息子といふ息子を引きさらふやうにして、盡く出かけて行つた。遠ざかるに連れて、乘組員等は顫へる聲を張り上げて、
かうして毎年同じ船出の式が、同じ訣別が、なされた。
やがて、大洋上の生活が初まつた。纔か三五人づゝの荒くれ男だけが一團となつた、北極海の冷たい水のたゞ中で、搖れ動く板子の上の、孤獨の生活がまた初まつた。
かうした時期にまで、彼等は來てゐた――海の守星、聖母は、その名を負うてゐるこの船を保護したのであつた。
八月の末は彼等が歸還の時節であつた。けれど「マリイ」は大方の
日光がまだ温かなこの南國の港々では、歡樂に渇いた嚴丈な水夫等は、數日間、四方に散つて、夏の名殘りや、微温かな空氣や、――大地や、そして女たちに醉はされた。
やがて、初めての秋霧が立ちわたると共に、彼等はパンポルの自分等の家へ歸るか、或はゴエロの田舍の疎らな小家へ歸るかして、暫くの間、家族や、戀事や、結婚や、或は出産などに心奪はれる。殆どいつも家には、この前の冬に出來て、洗禮式を受けるために名親の歸りを待つ可愛い生兒がゐるのである。――氷島が餌食にする斯ういふ漁夫等の親族には、大勢の子供が無くてはならない。
その年の六月の、或る日曜日の夕方、パンポルで、二人の女が忙しさうに、一通の手紙を書いてゐた。
それは開いた大きな窓のもとであつた。その窓のかさ張つた古びた花崗石の臺には、草花の鉢が並べてあつた。
卓の上へ俯向き込んでゐて、二人とも、若々しく見えた。一人は非常に大きな、舊式の
書き取らせてゐる方――大きな
彼女は、孫息子を樂しませるために何かもつといつてやる事がないかと搜すやうに、窓から外を眺めた。
實際、パンポルの近在では、何かにつけて話をするにせよ、またちよつとした事を言ふにせよ、面白い種を見つけだすのに、この婆さんのやうに巧みな善い老媼は他になかつた。この手紙の中にも、もう三つ四つ無類の話が書き込まれてあつた。――けれど、彼女は心に一點の惡氣もないので、それには少しの惡意も含まれてはゐなかつた。
も一人の方は、もう旨い思ひつきもなささうだと見てとつて、丁寧に宛名を書き始めた。
氷島の海上、レカク附近にて――船長ゲュエルムル、「マリイ」乘組、モアン・シルストル樣。
やがて、その女も顏を擧げて、訊いた、――
『これでお仕舞ひ、ねえ、モアンお祖母さん?』
彼女は如何にも若かつた。引きつけられるほどに若い、廿歳の娘であつた。全く金髮で――一體に髮の黒い此のブルターニュ邊には稀な頭髮であつた。全く金髮で、亞麻の灰色な眼をして、睫毛は殆ど黒かつた。眉はその頭髮のやうに金色をしてゐて、一層濃い、一層赤い線で、眞中に、描きかへでもしたやうで、強い確りした氣性を見せてゐた。稍短かい顏立はいかにも氣高く、額から一線をひきのべた鼻は、ギリシヤ人の顏立に見るやうな、類なき端正を示した。下脣の下に刻んだ深い笑靨は、その周邊に微妙な調子を與へた。――そして、時々、ぢつと考へ込む時は、いつも眞白い上齒で、この脣を噛むので、こまかい皮膚の下はすこし紅らんだ跡を曵いた。そのすらりとした姿勢には、彼女の祖先の、勇敢な氷島の船乘りから傳はつた、誇らしげな、また少し重々しげなところがあつた。眼にも、きかぬ氣と、優しさとの表情を見せてゐた。
この女の頭飾りは貝殼のやうな形をして、殆ど一筋の帶のやうにまつはつて、額の上へひくゝさがつてゐたが、その兩端はまた高くあげられて、耳の上で蝸牛型につかねてある房々した編髮を見せた。――この頭髮の結ひ方は、ずつと昔から行はれてゐて、今でもパンポルの女達に古風な樣子を與へてゐる。
彼女は、彼女がお祖母さんと呼んでゐる此の貧しげな老婆とは全く育ちが違つてゐるやうに見えた、が、實は、この老婆は彼女の遠い大伯母で、幾度も不仕合せな目に出遇つた女であつた。
彼女はメル氏の娘であつた。この人は以前はやはり
今、手紙の書き終へられたこの綺麗な室は、彼女の居間であつた。――レースで縁取つた綿紗の幕をさげた、都會風の全く新らしい寢臺が据ゑてあつた。そして、厚い壁には、明るい色の壁紙が、花崗石のでこぼこしたのを調へてゐた。天井には、家の舊さを見せる巨きな梁を白い漆喰で塗つてあつた。――これは、純然たる氣樂な中流人の住居であつた。そして窓は、市場や
『これでお仕舞ひ、ねえ、イヴォンヌお祖母さん。もう言つてやる事はなくつて?』
『あゝないよ。でも序でにちよつと[#「ちよつと」は底本では「ちよつて」]、ガオの
ガオの息子‥‥またの名はヤン‥‥その名を書いた時、この美しい、誇らしげな若い娘はぼうつと紅くなつた。
その名を終りへ念を入れて書き加へると、彼女は立ち上つて、外の廣場で何か面白いものを眺めでもするかのやうに、其方へ顏を向けた。
立つと、彼女は脊丈が高かつた。彼女の體躯は、皺一つ寄つてゐないきちんとした
實際、最初彼女もまだ小娘のゴオドといつてゐた頃には、母親がなくなつたので、跣足で水を渉つたり、父親が氷島へ行つてゐる漁期などは、ほとんど打つちやらかされてゐた。綺麗で、薔薇のやうで、頭髮を亂して、氣儘で、強情で、海峽から吹いて來る荒い風の中で強く育つたのであつた。丁度その頃は、貧しいモアン祖母さんに引き取られて、祖母さんがパンポルの人々の家で骨折仕事をしてゐる間、シルストルの
そして、この小娘は、自分が守をすることになつた、やつと十八ヶ月ばかりしか年の違はない其の兒に對して、小さな母親の熱愛を示した。彼女は金色の髮をしてゐたが、その兒のは黒かつた。彼女は活溌で氣紛れであつたが、その兒はすなほで人懷こかつた。
富にも都會生活にも損なはれずにゐた娘としての自分の生活のかうした初め頃を彼女は思ひ出してゐた。それは粗い自由な遠い夢のやうに、また、ぼんやりした不思議な時代の思ひ出のやうに彼女の心に浮んで來た。その思ひ出のなかでは海邊がもつと廣々としてゐた。そこではたしかに斷崖がもつと巨大に聳立つてゐた‥‥
彼女がまだ五歳か六歳の幼い頃に、船の積荷の賣買をしてゐた父親が金を儲けて、彼女をサン・ブリウへ連れて行つた。やがてパリへ連れて行かれた――その時、彼女は小娘のゴオドから、脊の高い、眞面目な、沈んだ眼つきのマドムアゼル・マルゲリイトとなつた。ブルトンの砂地にゐた頃とは違つた風に打つちやられて、氣委せにされてゐたので、彼女はやはり子供の頃の強情な性質をそのまゝ持つてゐた。彼女が人生の事物について知つたことは、何の選擇もなく、ほんの偶然に彼女の前へ展かれたものであつた。けれど優れた生得の一種の威嚴が彼女の護身の役に立つた。時とすると、彼女はいかにも無遠慮な調子で、面と對つて、明らさま過ぎるやうな事を言つて人々を驚かした。そしてその美しい朗かな眼を若い男達の眼の前で、いつも伏せてはゐなかつた。けれどそれがいかにも正直で、全く無頓着なので、人々は決して誤解するやうな筈はなかつた。彼等は直ぐにその顏のやうに心もすが/\してゐるこの怜悧な娘とどういふ物言ひをすべきかを知つた。
かうした大都會では、彼女の衣裝は彼女自身より一層烈しく變つて行つた。彼女はブルトンの女達が脱ぐのを厭がる頭飾はまだつけてゐたが、直ぐに、異つた着物の着かたを覺えた。以前漁夫の娘として自由にのび、海風でそだて上げられた豐滿な美しい輪郭を備へた彼女の姿勢は、令孃等の長いコルセツトで、腰のところで、
毎年、彼女は父親と一緒にブルターニュへ歸つて來た、――海水浴をする者のやうに、たゞ夏だけ――そして暫くの間、過去の記憶を鮮かにして、ゴオド(これはブルトン語ではマルゲリイトを意味する)と云ふ昔の名に歸つた。ともしたら、たび/\人の話すそれ等の
さうかうしてゐる間に、或る日、彼女は、父親の氣紛れから、かうした漁夫達の國へ永久に連れ歸られた。父親は餘生をこの地で送り、パンポルのこの廣場で中流の人間として住まはうと、思ひ立つたのであつた。
貧しくはあつたが、身綺麗な人の好い老いた祖母は、手紙が讀み返されて、封じられると、やがて禮をいつて其處を出た。彼女は其處から程遠い、ブルバラネク區の入口の、海岸の小村で、自分が生れもし、又息子達や孫共やを儲けた、その小屋に今も住んでゐた。
町を通りながら、彼女は「今晩は」といふ幾人もの人に挨拶をした。彼女はこの界隈での老年者の一人で、勇ましい、尊敬すべき家族の最後の人であつた。
不思議に丹誠をし、念を入れるので、彼女は繕ひだらけの、もう役立ちさうもない粗末な着物を着てゐても、それがどうやら樣子よく見せ掛けた。いつも同じ小さな鳶色のパンポル風の肩掛が彼女の飾りであつた。その上、大きな頭被の綿紗の布片が六十年來垂れ下つてゐた。これは彼女が婚禮の時の肩掛で、以前は青色であつたのを、息子のピエルの婚禮の時に染め直して、その後は日曜だけしか掛けないので、まだ人前へ出しても恥かしくはなかつた。
彼女はしやんとして歩きつゞけて行つた。世間の老媼じみたところは少しもなかつた。そして實際、頤こそ少し出てはゐるが、その優しい眼と、細やかな顏立とは、彼女を十分小綺麗に思はせずには置かなかつた。
彼女は人から非常に尊敬されてゐた。それは人々が彼女にする挨拶ぶりにも現はれた。
彼女は途すがら、自分に言ひ寄つた以前の求婚者で、指物師を稼業としてゐる男の家の前を通つた。彼はもう八十男で、今では若い息子等に仕事臺で板を削らせて、自分はいつも戸口の前に腰を卸してゐた――彼は、決して、彼女が自分を最初の夫にも二度目の夫にも望まなかつたといふことで心平かでないといふ評判であつた。そして年齡と共に、それが次第に滑稽な、半ば惡意を含んだ一種の憎しみに變つた。で、彼はいつも彼女にかう訊いた。
『どうだな、えゝ、いつお前は寸法を取るつもりかな?』
彼女は、まだそんな衣裝を作つて貰ふつもりはない、といつて斷つた。老爺さんのいふのは、此の世の最後の衣裝たるべき、樅の板具の特別仕度の着物のことで、面白くもない冗談であつた。
『さうか。ぢや何時でも好きな時にするさ。だが心配するにや及ばないぜ、え、いゝかい‥‥』
彼は、かうした同じ冗談をこれ迄に幾度も言つた。けれど、彼女は今日ばかりは、それを笑つてばかりはゐられなかつた。彼女はいつもより疲れてもゐたし、斷えず働いて暮して行くのに弱つてもゐた、――それに、氷島から歸ると、海軍へはいる筈の可愛いゝ、一人きりになつた、孫息子のことも氣にかゝつてゐた。――五年の間!‥‥支那へ行くといふこと、戰爭へ出ないとも限るまい! その子が歸つて來た時に、自分は生きてゐるだらうか?――かう考へると、鋭い苦痛が彼女を捉へた‥‥實際、この哀れな老婦は、見掛けほど元氣ではなかつた。そして顏は今にも泣き出しさうに、痛ましく
實際、これは避け難いことであつた。これは眞實であつた。人が彼女の手からその最後の孫息子を奪ひとつて行くといふことは‥‥さうなつたら! 彼女は恐らく獨り殘されて死ぬであらう、二度とその子にも逢へないで‥‥人々は何かと手段を講じた(彼女の知つてゐる町の重立つた人々が)、やがて働きも出來なくなる殆ど無一文なこの老婦の杖柱ともたのむ彼を行かせないで濟むやうにと。が、それも駄目であつた。――それはシルストルの兄のジャン・モアンが脱走者で、家族の間ではもう何人もうわさもしなかつたが、それでも未だ、何處か亞米利加で生活してゐると云ふ事實が、兵役免除の特權を弟から奪つてしまつた。それに、水夫の寡婦としての僅かばかりの恩給が邪魔になつた。彼女は、それほど貧乏だと思はれてゐなかつた。
家へ歸ると、彼女は、この世を去つた息子達、孫共、皆のために長い間祈りをした。それから、可愛いゝシルストルのためにも心を籠めて祈つた。そして寢ようとしたが、板の着物の事が氣に掛りだし、孫が出掛けるといふのに自分はいかにも老いてゐるのを思ふと胸も痛くなつた‥‥
若い娘の方は、まだぢつと窓際に坐つて、石壁へ映る入日の黄ろい反射と、空に飛びかふ黒燕とを見つめてゐた。五月の長い夕方は、日曜日ですらも、パンポルは、やはり死んだやうであつた。若い娘達は、自分等に媚を送る人達もゐないので、氷島にゐる戀人等のことを思ひやりながら、二人三人づゝ組になつて歩いてゐた。
‥‥『ガオの息子へも宜しく‥‥』彼女は、かうした文句と、今はもう自分を離れられないかうした名とを書くので、ひどく身が震へた。
彼女は、一人のお孃さんのやうに、この窓際でよく夕方をすごした。彼女の父親は、彼女が昔の遊び友達であつた同じ年頃の娘達と一緒に外を出歩くのを餘り好まなかつた。そして自分は、カツフエを出て、同じやうな老水夫等と、煙草をふかしながら歩きつてゐる時、上の方に、石枠で圍んだ窓際に、植木鉢の間に、この豐かな家の中に身を置いてゐる自分の娘を見掛けると、それで滿足であつた。
ガオの息子!‥‥彼女は思はず海の方角を眺めやつた、が、それは眼には入らなかつた。たゞ船頭達が登つて來る狹い路地の先きの方に、それが近くにあるのが感ぜられた。そして、彼女の思ひは、人をまどはし、人をのみこみ、常に引きつけずにはやまぬこの無限の世界へとさまよつた。彼女の思ひは、極洋の遠い彼方、「マリイ」船長ゲュエルムルの帆走つてゐるかたへと行つた。
あのガオは何といふ不思議な人間だらう!‥‥あんな思ひ切つた、[#「思ひ切つた、」は底本では「思ひ切つた。」]あんな柔しげなふうに進み寄つて來ておきながら、今は逃げるやうにして、縋ることすら出來ない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
やがて、彼女は長い空想の中で、去年ブルターニュへ歸つて來た時のことを思ひ出してゐた。
十二月のある朝、一夜の旅の後で、巴里から來た汽車は、霧深い、茫とした、非常に寒い、まだ薄暗い明方、ギアンガムへ父と彼女とをおろした。その時、彼女は此の町から不思議な印象を享けた。この小さな舊い町を、彼女は以前夏通つただけであつた。それはもう覺えてゐなかつた。彼女は不意に、この田舍で、人々が呼んでゐる「
とはいへ、彼女は、パリには美しい物や愉しい事が多かつたけれど、そのパリを去つたことを、實際くやみはしなかつた。第一に彼女は血管の中に船乘りの血を受けてゐたので、その都では一人だけ幽閉されてゐるやうな感じをしてゐた。それから、自分は異郷人で、場所はづれの者だといふ氣がしてゐた。巴里の婦人等といつたら、それこそその華奢な體姿の腰のところに、わざとらしい曲線をうたせ、特別な歩き方をし、鯨髯の
かうしたパリの女達の中には、際立つて、その振舞ひが彼女の心を惹きつけた程の人もないではなかつた。けれど彼女はさうした人達には到底近よれないことを知つてゐた。また彼女は、向うから親しくならうと仕向けて來るやうな一層低い人達をば、自分にふさはしくないとして遠く退けてゐた。それで、彼女には友達もなく、いつも忙しく出歩いてゐる父親の交際する人々の他には交はる人も無かつた。彼女はかうした郷土を離れた孤獨の生活を、棄てて悔やまなかつた。
けれど、やはり、この到着の日、眞冬に見たブルターニュのこの峻烈な光景では、彼女も痛くも愕かされた。そしてパンポルへ着く迄には、まだこれから馬車の旅を四五時間も續けて、此の陰鬱な田舍の奧へ奧へとはいり込んで行かなければならぬかと思ふと、壓しつけられるやうに不安を感じた。
その同じ灰色日の午後中を、父親と彼女とは、風といふ風に吹きさらされて、小さな、舊い、壞れかゝつた乘合馬車に乘り通してゐた。夜の迫つて來た頃、悲しげな幾つかの村々を、霧が細かい滴となつてかゝる樹々の幻影の下に通りすぎた。やがて角燈が點されねばならなかつた。もう何も眼にはいらなかつた。たゞベンガルの燈火のやうな緑色の二條の長い影が馬の前方の兩側を走つて行くやうに見えるだけであつた。これは二つの角燈から流れる火影が、路傍に果てしもなく續いてゐる生籬へ映るのであつた。――十二月といふに、不意にこんな緑色の青葉が見えたのはどうしたのか?‥‥彼女も初めは驚いた。で、前へ屈み込んでよく見ると、やうやくわかつた、思ひだした。それは小徑や崖際に生えてゐる常緑のはりえにしだで、このパンポル地方では、年中葉の黄ばむことがなかつた。と、同時に微温い風が吹き始めた。彼女はそれとまた氣がついた。そしてそれが海を思はせた。
この道の終る頃に、彼女はふと胸に浮んで來た思ひで全く目醍まされ、悦しくなつた。
『さうだ、ちやうど今は冬だから、きつと今度こそあの立派な氷島の漁師達に逢へるだらう』
十二月なら、彼等は皆歸つてそこに居る筈だ。彼女が毎年、夏、此處へ來てゐた時、子供や大人の彼女の友達等が、夕方散歩しながらよく話してきかせた兄弟や、許婚や、戀人等や、從兄弟達は皆歸つてゐるはずだ。こんな事をぢつと思ひ耽つてゐると、少しも動かさずにゐた彼女の足は、馬車の内で凍えて來た‥‥
彼女はたうとう眞實に彼等に逢へたのであつた‥‥しかも今では、彼女はその中の一人に心を奪はれてしまつた‥‥
彼女が初めて彼を、このヤンを見かけたのは、彼女が其處へ着いた翌日、
此の赦免祭には、悲しげな空の下で、愉しみは重げで、少し粗暴にも流れた。樂しみはあれど浮き立たないで、不作法と、輕侮と肉體の強さと、酒精とでごつたかへしてゐた、その上を壓して、死のあまねき威嚇が他所よりもまざ/\見えてゐた。
パンポルは非常な騷ぎであつた。鐘の響き、司祭達の歌聲、居酒屋の内には荒々しい單調な唄、水夫等を搖り眠らす古い船唄、海からか、また時の深い夜の底からか、どことも知れず、やつて來る昔ながらの哀哭の節々、水夫等の群は、まろびつこけつする癖のあるためか、また醉が初まつたためでもあらう。腕を組み合はせ、よち/\しながら街を歩いた。そして海上の長い禁慾生活の後なので、一層鋭い眼を女達に投げた。娘達の群は修道女風の白い
そして宗教的の感じ、過去の印象は、純白な、無垢な聖母の保護の象徴、古風な信仰尊崇の念と共に、總てこれ等の上にたゆたつてゐた。居酒屋に接して會堂が建つてゐた、その階段には木の葉が散らばり、その戸口は微暗い大きな灣のやうに開いてゐて、
總てこれ等のとりあつめた事象から、ゴオドは混雜な印象を受けた。彼女は興奮して笑つてはゐるものの、内心壓へつけられるやうな氣がして、この土地が今はもう永久自分の住むべき場所になつたのだと思ふと、一種の鋭い苦痛に捉へられた。競技や、見世物のある廣場を、彼女は友達等と歩きつた。その友達等は、彼女に、パンポルやブルバラネクの若い男達の名を、彼方此方と名指して教へた。流行歌の歌手の前に、此れ等の
『隨分脊の高い人がゐるわねえ!』
此の言葉は殆どかういふ意味が籠められてゐるやうであつた、
「あんな大きな肩幅の人を御亭主にしたら、それこそ家は坐り場もなくなつて了ふわねえ!」
その男は此の言葉が耳にはひりでもしたやうに、此方を振り向いて、素早く、彼女の頭から足の爪先まで、ちらつと見てとつた。それはかう言はないばかりであつた、――
「パンポル風の頭飾をしてはゐるが、こんな美しい女は、一體だれだらう、つい今まで見掛けたこともないが?」
とやがて、彼はつゝましさうに素早く眼を伏せた。さうしてまた歌手の方へすつかり氣を奪られやうな樣子で、此方へは、頸の上で長く
彼女は他の男達の名は平氣で訊いたが、この男のことはどうも訊きにくかつた。彼女がちよつと見かけただけのその美しい顏立、その誇らしげなやゝ荒つぽい眼つき、彼女の
この男こそ、彼女がシルストルの非常に親しい友達として、モアンの家の人達から聞かされてゐたその「ガオの息子」であつた。この同じ祭の夜、シルストルと彼とが腕を組んで歩いてゐる途中、父親と彼女とに出逢つたので、立停まつて挨拶をした‥‥
‥‥この可愛げなシルストルは直ぐ彼女に以前の姉弟のやうな樣子を見せた。この二人は從姉弟同志なので、お互ひにお前だのお前さんだのと呼び合つて來た。――確かに、彼女は、最初は、もう黒々とした髯の生えてゐる、脊の高い十七の若者に對してきまりが惡かつた。けれど、彼の正直な、優しい眼は子供の時とちつとも違つてゐなかつたので、彼女は直ぐ、いつも顏を合はせてゐたと思はれるやうな打ち解けた心地になつた。彼がパンポルへ來た時は、彼女は一緒に夕飯を食べてゆくやうに彼を引き留めた。これはまつたくあたりまへのことであつた。そして、彼は家では少しつましくしてゐたので、非常に
‥‥實を言へば、ヤンはかうして初めて紹介された時、彼女に餘り愛想よくもしなかつた――緑の小枝を一面に撒いてある、狹い灰色の街路の角では、彼はちよつと氣後れがしたやうな、けれど非常に立派な態度で、一寸帽子を取つたばかりであつた。そしてその時も、前と同じ眼つきで、素早く彼女をじろツと眺めると、直ぐ眼をほかへ外らした、が、それがいかにも逢つたのが不愉快で、早く立ち去りたいやうな樣子であつた。強い西風は祭の行列の始まつてゐる間に吹き起つて、
ゴオドは追想の夢の中で、總てかうした事をはつきり思ひ出してゐた。その祭の濟みぎはのもの悲しい黄昏、家々の壁に沿つて風に波打つてゐた花を刺した白幕、ざわめいてゐる氷島人の群、今にも降つて來さうな雨を避けるために、歌を歌ひながら居酒屋へはいつて行つた風や暴風雨に馴れてゐるその男達、わけてもそれ等の中で、彼女の前へすつきり立つて、頭を反けて、彼女に逢つたのを如何にも煩さく、邪魔されたやうな顏つきをしてゐる脊の高い男‥‥その時から見ると、なんといふ深い變化が彼女のなかに起つたことだらう!‥‥
そして祭の濟みぎはのさわがしさと、今の靜けさとは何といふ相違であらう! 彼女がかうして獨り窓に凭れて、夢みるやうに戀を思ひ續けてゐるこの五月の長いなま温い黄昏時、その同じパンポルは、今夕、何といふ靜かな空虚なものであらう!‥‥
二度目に二人が逢つたのは、或る婚禮の席であつた。このガオの息子が、彼女に腕をかすことにきめられてゐた。最初彼女はそれを有難くないと思つた。この男と町を練つて行つたらば、脊が高いので、皆が目をつけるだらう、それに、この男は、途中で、恐らく自分に何も話しかけもしないだらう!‥‥やがてまた、この男はいかにも
時刻が來て、皆の者が行列に集まつたが、まだヤンは姿も見せなかつた。時は經つて行つた。それでも彼は來なかつた。で、皆はもう彼を待つまいと言ひ出した。その時ふと氣がつくと、彼女は自分が仕度をして待つてゐるのはその男一人のためであり、他の若い男達なら何人と一緒に居ようとも、そのお祝ひも、その舞踏も、物足らないで、何の愉しみもないやうであつた‥‥
漸く彼は晴衣を着てやつて來た。慌てた樣子も見せずに、花嫁の親達に遲れた言譯をした。その譯は斯うであつた。英國からの知らせによると、思ひもよらぬ非常な魚群が現はれて、オリニイの沖合を夕方通るといふことであつた。それ故、ブルバラネクに居る船といふ船は殘らず大急ぎでかり立てられた。村々では大騷ぎで、女達は居酒屋へ亭主を搜しに行き、突き出すやうに彼等を急き立てて、自分達まで骨を折つて帆をあげたり、手傳つて船の仕度をしたりした。つまりそこには、てんやわんやの出帆準備があつた。
彼を取りまく人々のなかで、彼は身振りをしたり、眼をクリ/\させたり、綺麗な齒を見せてにこやかに笑つたり、頗る落ち着いた樣子でその話をした。慌てて船出をして行く樣子を一層よく現はすために、彼はとき/″\言葉の間へ挾んで、少し長く引いたウーといふ滑稽な聲を立てた、――これは急ぎの意を示す船乘り達の叫び聲で、風のひゆう/\いふ音に似てゐた。彼は一時も早く自分の代理を見つけ出して、彼がこの冬の間雇はれてゐた船の船長の承諾を得なければならかつた。そのために彼は遲れたのであつた。そして、この婚禮の席をはづしたくないばかりに、彼はその漁の分前を失はなければならなかつた。
かうした理由は、聽いてゐる漁夫達には十分解つた。そしてだれひとり彼に對して氣を惡くした者は無かつた。――彼等は、自分達の生涯では、すべての事が、多少とも、豫想のつかない海の事象に繋がつてゐて、氣候の變化と、魚族の不思議な移住とに從はなければならないといふことをよく知つてゐた。其處に居合せた他の氷島人等は、ブルバラネクの漁夫達と同じやうに、自分等にもやはり、そんなうまい儲け仕事が沖合を通りかゝつてゐるといふ通知が早く來なかつたのを口惜しがつただけであつた。
けれど、もう、今では間に合はない。仕方がない、娘達へ腕をかせるより他にする事はなかつた。オロンが戸外で鳴りだした。そして行列は樂しげに動き出した。
初めのうちは彼も彼女に、若い男が普通婚禮の祝ひで自分のよく知つてゐない若い娘達に話しかけるやうな、いかにも叮嚀な、意味のない言葉を使つてゐた。この結婚の列へ加はつた組のなかで、互ひに知り合はない同志は彼等二人きりであつた。その行列の中にゐる他の組は、みな從兄妹同志か許婚同志かであつた。また戀人同志の一對も隨分あつた。それは、このパンポル界隈では、男達が氷島から歸る頃は直ぐ、ずゐぶん進んだ戀仲になるからであつた(でも、彼等は皆正直な男達ばかりだから、後では結婚はした)。
だがその晩、人々が舞踏をしてゐる間、二人の話はその魚群の通過といふことに立ち歸つてゐた。すると不意に彼は彼女の眼をまともに見詰めて、思ひもよらないこんな事を言つた、
『パンポルぢうでたつたあなた一人ですぜ‥‥いや、世界ぢうにだつてあるまい‥‥私をこの漁に出掛けさせなかつたなんて人は。いや、まつたく對手があなたでなかつたら、こんな好い漁に出掛けずに置くもんですか。ねえ、ゴオドさん‥‥』
彼女は、最初は漁夫のくせに彼がこんな思ひ切つたことを言ふのに驚いた――この舞踏會へ、すくなくとも女王といふ形で來てゐる自分に向つて。でも、やがて、うつとり引き込まれるやうな心地になつて、彼女は遂に斯う答へた、
『有難う、ヤンさん。私だつてやはり他の人より貴方と一緒の方がよござんすわ。』
それが總てであつた。けれど、其の時から舞踏の濟むまで、二人は前とはずつと異つた調子で低い、柔しい聲で話し込んでゐた。
人々はオロンの音につれて古風な舞踏をしてゐた。同じ組の者は大抵いつも離れなかつた。彼がちよつと愛想を見せて他の女と踊つた後で、彼女ともう一度一諸になりに來た時は、二人は舊い友達同志がめぐり合つたやうに微笑して、いかにも親しげな前の會話を續けた。いかにも素直に、ヤンは、漁夫としての生活や、苦しい仕事や、給金の事や、また自分が總領として十四人の弟妹等を養はなければならなかつた頃の一家の窮状などを話した。――今ではもう彼等は別に暮しには不自由はしなくなつた。特に、それは、彼等の父親が海峽で、或る漂流物を見つけたので、それを賣つて政府から分配せられた金が一萬
『
‥‥ゴオドは、舞踏會で二人が話し合つた總てを、丁度きのふのことかなにかのやうに思ひ出してゐた。そして、パンポルの上に落ちて來た五月の夜をぢつと見詰めながら、しづかにそれらを記憶のなかで思ひ辿つてゐた。若し彼に結婚する氣がなかつたなら、どうして彼の生活の樣子をあれほど細かく話す筈があらう。しかもそれを彼女は許婚の仲か何かのやうに、身に沁みて聽いてゐたのだ。それに、彼は、何人にでも自分の事を話したがる有りふれた男のやうな樣子はしてゐなかつた‥‥
‥‥『だが矢張り好い仕事ですぜ』と彼はこんな事も言つた。『だから、どうしたつて止す氣にやなれない。年によつては八百
『お母さんに渡すんですつて、ヤンさん?』
『えゝ、さうです、いつでもみんな渡してしまふんです。私達、氷島へ行く者は皆さうしますよ、ゴオドさん』。(彼はさうするのが當然の義務で、まつたく自然のことのやうにさう言つた)。『だから、まつたくのところ、私はまるで一文無しだ。日曜にパンポルへ出掛けて來る時は、阿母がすこし小遣ひを呉れるくらゐなもんでさあ。どつちにしたつて、同じ事です。それで今年は親爺がこの着物をつくつて呉れたんですがね、さうででもなけりや、此の婚禮に出る氣にもなれなかつたかも知れませんよ。いや、まつたく、去年の古着物であなたの介添に來るわけにやいきませんからね‥‥』
少し舊式の
彼は何か言ふ度に、笑顏で、彼女の眼をぢつと見入つて、彼女の思はくを讀むやうにした。自分が金持でないといふことを彼女に會得させようとして、色々かうした話をした時の彼の眼つきは何といふ善良な、正直な眼つきであつたらう。
彼女もやはり笑顏で、彼の顏を正面に見詰めた。言葉すくなに返事をしながら、しかもその話を心から身に沁みて聽いてゐるうちに、次第々々に愕かされて、彼の方へ惹きつけられて行つた。彼には、どうしてあんな荒々しさと、人懷こい子供らしさとがあるのだらう! ほかの人に對しては、粗暴で決めつけるやうないかついその聲が、彼女に話しかける時は、次第に打ちとけて懷かしみが籠つて來た。彼女にだけは、彼はその聲をちやうど絃樂器のくゞもつた音のやうに、非常に柔しく顫はせることが出來た。
それにしても、何といふ不思議な、意外なことであらう。この大きな男は、態度はいかにも打ち解けてはゐるが、見かけは如何にも怖ろしく、家ではいつも子供扱ひにされてゐながら、それを當り前のことのやうに思つてゐた。世界の果てまで渡つて、あらゆる冐險をし、あらゆる危險に出逢つてゐながら、しかも兩親には從順で、頭から服從してゐた。
彼女は、彼を他の男達と較べてみた、巴里の三四人の輕佻な男ども、手代、へぼ文士、それから何だかわからないが、金に目をつけて、彼女にいろ/\追從をした連中なぞと。そして、彼は彼女の知つたさうした男達より遙かに優れてゐるやうに思はれた。同時に、一番立派な男のやうに思はれた。
一層打ち解けるやうに、彼女は、自分の家もやはり今のやうに昔は好い生活ではなかつた[#「なかつた」は底本では「なかつ」]といふことや、彼女の父親はもとが氷島の漁師であつたので、今でも氷島人を非常に尊敬してゐるといふことや、彼女がまだ小娘の時分は――母親に死に別れた後は――海岸を跣足で驅けつてゐたことを今でも覺えてゐるといふ事やを彼に話した。
‥‥あゝ、あの舞踏の夜、彼女の生涯のなかであの唯一の愉しい、總てが決まつたやうな夜!――それはもう遠いことであつた、それは十二月の事で、今は五月になつてゐた。あの夜のあの立派な踊手達は、今はみな遠く漁に出掛けて、氷島の海上で思ひ思ひに散つてゐた――其處では、猶ほ青白い日光が、茫漠たる寂涼の中で、はつきり見られてゐるのに、このブルトンの地上へは夜の闇が靜かに落ちかゝらうとしてゐた。
ゴオドは窓ぎはにぢつとしてゐた。古風な家で四方が殆ど圍まれてゐるパンポルの廣場は、夜と共に次第に暗くなつて行つた。何處にもほとんど物音一つ聞えなかつた。家々の上では、まだ微明るい虚空が、次第に虚ろになり、高くなつて、地上の物象から遠く離れて行くやうに思はれた、――そしてそれらの地上の物象は今、この薄闇時に、破風や舊屋根がつくる一の黒い蔭繪に全く溶けあつてゐた。時々、戸や窓が閉された。年寄りの船乘りがよろ/\した足取りで居酒屋から出て來て、狹い暗い路地へ消えて行つた。と思ふと、散歩で遲れた若い娘達が、色々な五月花を束にしたのを持つて歸つて來た。ゴオドを知つてゐたその中の一人は、挨拶しながら、腕を伸ばして、その香を嗅がせるやうに、
ゴオドは、幾晩も/\、この窓側で、陰鬱な廣場に見入つたり、遠く出てゐる氷島人達のことや、そしていつも、あの舞踏の時のことやに思ひ眈つて、すごしてゐた‥‥
‥‥舞踏の濟み際は非常に暖かであつた、そしてウォルツを踊つてゐる人々の頭はぐら/\しだした。彼女は、彼が他の娘達や女達と一緒に踊つた時のことを思ひ出した。彼はさうした女達に多少とも思はれてゐたに違ひなかつた。また彼女は、彼がさうした女達の呼ぶ言葉に、いやいやながら返事をしてゐたことも思ひ出した‥‥彼等に對する彼は何といふ異つた態度をしたことであらう!‥‥
彼は人を魅するやうな舞踏者であつた。森の槲のやうに眞直ぐ立つて、頭を後ろへ反らせて、氣高く輕く上品に身を躱はした。鳶色の縮毛は輕く額にかぶさつて、舞踏のあふりで起る微かな風に搖らめいた。ゴオドもかなり脊が高いので、早拍子のウォルツを踊つてゐる間、彼女の體躯をよく支へようとして、彼が身を屈める度に、彼の縮毛が彼女の頭布へ觸れるのを感じた。
彼は時々、一緒になつて踊つてゐる許婚同志の彼の妹のマリイとシルストルとの方をそれと知らせた。彼は、この若い二人がいかにも愼ましげによりそうて、他所目にも愉しさうな事をこそこそ話し合つて、互ひにおづ/\顏を見合つたり、控へ目にしたりしてゐるのを見ると、氣の好ささうに笑つた。若し二人の素振りがそんな風でなかつたら、確かに彼は默つて見てゐなかつたに違ひない。だが、奔放な、冐險ずきな人間になつてゐた彼には、二人がさうして無邪氣にしてゐるのを見るのがやはり嬉しかつた。で、その時彼はゴオドと親しい打ちとけた笑顏をかはしたが、それはかう言つてゐるやうであつた、「私達の弟と妹の樣子は、如何にも可愛く、をかしいぢやありませんか!」
その夜の終りには大方の者は抱き合つた。從兄妹同志の、許婚者同志の、戀人同志の接吻をした。それが皆、人の見てゐる前で、心からの打ち解けた、正直な、さつぱりした風であつた。勿論、彼は彼女に接吻はしなかつた。メル氏の愛孃に接吻するといふことは許されないことでもあつた。でも、彼は最後のウォルツの間に彼女を自分の方へすこし引き寄せるやうにしたが、彼女は別に拒まうとはしなかつた。拒まないばかりか、却つて彼女は、信じて彼に倚りかゝるやうにした。心から許すことであつた。かうした思ひがけない、深い、
『ねえ、あなた見て、なんてあつかましいんでせう。あの娘があの人を見てゐる樣子は!』と、二三の若い娘達が、ブロンド色や或は黒い睫毛の下で、その眼を愼ましげに伏せて、かう訊き合つた、が、さうした女達もやはり踊り手のなかに、少くも一人か、或は二人の戀人を持つてゐた。實際、彼女は何度となく彼を見やつた。けれど彼女はかう言譯した、自分がこれまで心を惹かれた若い男はたゞ彼一人であつた。彼が始めてであつた。
朝になつて、皆が冷やかな夜明けに、ごた/\と立ち去つて行つた時、二人は、明日にでもまた逢はふと約束した同志のやうに、特殊な別れの挨拶をした。そして、歸り途で、父親と連れ立つて彼女はこの廣場を横切つて來たのであつた。少しもくたびれもせず、活々した愉しさを感じながら、生きがひのある心持で、氷のやうな戸外の霧と、悲しい黎明とを悦んで、あらゆるものが微妙に悦しく思はれたのであつた。
五月の夜はもうかなり更けた。家々の窓は微かにきしむ
‥‥でも、舞踏の後で何故あの人は來なかつたのだらう。なんといふ氣の變りかただらう? たま/\二人が出逢つても、いつものやうにちらと動くその眼をそらして、彼は彼女を避けるやうな風をした。
彼女は幾度もこのことをシルストルと話し合つてみた、が、彼にも矢張り解らなかつた。
『だが、何と言つても、嫁に行くならあの男さ、ねえ、ゴオド』と、彼はさういつた。
『お前の阿父さんさへ承知したらさうするさ。この界隈を搜したつて、ほかにあれぐらゐな男はないからなあ。第一、あの男は一寸見たところぢやさうでもないが、あれで實に
彼女は、父親の許しなら確かに得られると思つた。これ迄自分の仕ようと思つた事に反對されたためしはなかつた。彼が金持でないなんてことは彼女には何でもなかつた。彼のやうな船乘りは、前金ですこし金を貰つて置けば、六ヶ月くらゐの航海にはさして不自由もしなからうし、それに、やがて彼は船長になつて、船主達から安心して其の持船を委されるやうになるに違ひない。
それに彼が大男のやうだからといつて、それも彼女には苦にはならなかつた。餘り強過ぎるのは女には疵だが、男には決してそれが美しさの邪魔にはならなかつた。
それに彼女は、總ての戀事を知つてゐる、この界隈の若い娘達の口から、それとなく確かめたところでは、彼は約束などもしてはゐなかつたし、特にどの女を好くといふ風もなく、レザルドリューや、またパンポルで、彼に氣のある美しい娘達のなかを、即かず離れずに暮して行つた。
或る日曜の夕方、遲くに、彼女は彼がジャンニイ・カロフとかいふ際立つて美しい、そのくせ非常に評判のよくない女と寄り添つて、自分の窓下を通るのを見たことがあつた。これはまつたく、彼女には酷い苦痛であつた。
また彼女は、彼が非常に激しい氣性を持つた男だといふこともよく知るやうになつた。或る晩、彼が、氷島人等が祝ひをやつてゐたパンポルの或るカツフエで、醉つ拂つて、人々が開けて彼を入れようとしなかつたといふので、大きな大理石の卓を、その戸口から投げ込んだといふこともあつた‥‥
かうしたことさへ總て彼女は彼にゆるした。水夫達が怒ると、時には、どんな事をするかといふことは何人でも知つてゐることであつた。‥‥併し、彼が正直な心を持つてゐる人間であるならば、何故、自分が何も考へてもゐない時に、あれほど自分を迎へ求めて置いて、後で顧みないやうなことをするのであらう。何のために彼は、あの晩ぢう、極めて打ち解けた美しい笑顏を見せて、彼女の顏ばかり見詰めてゐる必要があつたのであらう。また、何のために彼は、彼女が許婚ででもあるやうに、あれ程しんみりした調子で打ち明け話をしたのであらう? 今となつては彼女はもう他の男に、心を繋ぐことも、また、變へることも出來なくなつてゐた。彼女がまだ小さな子供で、この國に住んでゐた頃、皆から叱られる時、きまつて、彼女がお轉婆だとか、何人よりも剛情な娘だとかいふ言葉を聞かされたものであつた。今でこそ、何人にしつけされるともなく、眞面目な、打ち上つた態度をした若い美しい娘になつてはゐたが、しかも彼女にはまだ、心の底にはさういふところがそのまゝ殘つてゐた。[#「殘つてゐた。」は底本では「殘つたゐた。」]
その舞踏會のあつた後で、彼女はもう一度彼に會はれるだらうといふ期待のうちに、この一冬はすごされたのであつた。しかも彼は氷島へ發つ前に、別れを告げにすらも來なかつた。彼がもう其處にゐない今は、何事も彼女には存在しなかつた。遲々たる時の歩みがもどかしく思はれた――彼が漁から歸つて來る秋までは。その時は彼女ははつきりした心をつきとめて事を決めてしまはうといふ計畫を立ててゐた。
――町役場の時計臺では一時を打つた。――靜かな春の夜に鳴り渡る鐘の特殊な響きをもつて。
パンポルでは、十一時はごくの夜更けであつた。で、ゴオドは窓を閉めて、寢るためにランプを點けた‥‥
ヤンとしては、たゞ不作法にそんな事をしたのかも知れなかつた。でなければ、彼のやうに自尊心の強い男は、彼女が金持すぎると考へて、拒絶されるのを恐れたのかも知れなかつた‥‥彼女はいつか其の事を彼に打ち明けて訊いてみようとも思つた。けれどシルストルはそれは駄目だと思つた。若い娘がそんな思ひ切つたことをするのは決して好いことではないであらう。パンポルでは、彼女の樣子や衣裝は、もう人の批評の種にされてゐた‥‥
‥‥彼女は夢を見てゐる若い娘のやうに、ぼんやりしながら、ゆる/\着物を脱いだ。初めに綿紗の頭飾をとり、それから都會風に仕立てた、華美な着物を脱いで、それを無雜作に椅子の上へ投げかけた。
次に長いお孃さんのコルセツトを取つた、これこそ彼女を巴里風の姿に見せて、人々の口の端に上せたものであつた。すつかり自由になつてしまふと、彼女の姿勢は一際整つて見えた。もう壓へつけたり、腰を緊めつけたりするものもないので、大理石像の線のやうに、いかにも充實した、柔らかみのある自然のまゝの線を再びとつた。そして體躯を動かす度にそれらの線の形をいろいろに變へた、そしてその姿態の一つ/\が微妙に眺められた。
こんな遲い時刻にたゞ一つ點けてある小さなランプは、彼女の兩肩や、胸や、まだ何人の眼も注がれたことのない見事な彼女の全身の上へ、神祕な光りを投げてゐた。が、かうした美しい姿も、やがて總ての人々から失はれ、見られることもなく、萎れてゆくのであらう、あのヤンがそれを自分に望まないといふからには‥‥
彼女は、自分の顏が綺麗だといふことは知つてゐたが、體姿の美しいといふことはまるで氣にとめてもゐなかつた。それに、このブルターニュの界隈では、氷島の漁夫達の娘等の間には、體姿の美しいのが殆ど持ちまへであつた。それは決して目立たなかつた。そして餘り嗜みのない娘達でさへ、それを見せびらかすどころではなく、人に見られるのを恥とした。いや、都會の所謂教養ある人々こそそれ等を重大視して、モデルにしたり、畫いたりするのである‥‥
彼女は兩耳の上で圓く束ねて置いた頭髮の蝸牛卷を解きはじめた。そしてその二つの編毛は重い二匹の蛇のやうに彼女の背へ垂れ下つた。彼女は――眠り心地のいゝやうに――それをまた頭の上へ冠卷きにした。――すると、その整つた横顏が、丁度羅馬の處女のやうに見えた。
けれど、彼女はまだ腕を頭へあげたまゝで、脣を噛みつゞけながら、金髮の編毛を指で搖すぶつてゐた、――丁度子供が、何かよそごとを考へながら、玩具をなぶつてゐるやうに。と、やがてまたそれを下へ垂らして、慰みのために、伸ばすために、手早にほぐし始めた。やがて彼女は森の巫女かなにかのやうに、腰まで毛髮で覆はれてしまつた。
それから、人戀しさと、泣きたいやうな氣持とに囚はれてはゐたが、それでも睡氣がさして來たので、彼女は不意に寢床の上へ身を投げて、いまは面紗のやうにしき伸べられてゐる絹絲のやうなその毛髮のたゝなはつたなかへ顏を埋めた‥‥
ブルバラネクの彼女の小家では、人生の一層暗い坂路にあるモアン老婦が、やはり、孫息子と、死とのことを思ひながら、やうやく老年者の冷たい眠りにはいつてゐた。
丁度その時刻に、「マリイ」の上では――その夜ことに荒れた北氷洋上では――二人の戀男、ヤンとシルストルとが歌をうたひながら、果てなき眞晝の光りのなかで、元氣よく漁をつゞけてゐた‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
約一ヶ月の後――六月。
氷島附近は、船乘り達が「白いなぎ」といつてゐる稀な一種の天候であつた。それは、あらゆる風がもはや吹き絶え、吹き盡してでもしまつたかのやうに、空中にはそよとの動きもない時である。
空は大きな、白みがゝつた薄紗で蔽はれてゐた。それが水平線の方へ下るにつれて、次第に暗くなり、鉛色に變り、錫色のどんよりした陰影に變つてゐた。そしてその下には、生氣なき水が、眼を疲らせ、寒け立たせる、蒼白い輝きを立ててゐた。
その時は、たゞ波模樣があつた。海の上を戲れるやうに變化してゆく波模樣だけがあつた。丁度鏡の上に呼吸を吹きかけて生ずるやうな幾つかの輕やかな輪があつた。輝く全水面は、絡み合つたりくづれたりするぼんやりした網細工のやうな模樣で蔽はれて、それが見る見る消えたり、逃げたりした。
果てなき夜か、また果てなき朝か、いづれともいはれなかつた。もはや如何なる時刻をも示さない太陽は、絶えず空に懸つて、それ等生氣なき物象の輝きを司つてゐた。その太陽そのものすら、殆ど輪郭のない、ぼんやりした
ヤンとシルストルとは並んで漁をしながら、いつまでたつてもやまない、「ジャン・フランソア、ドゥ・ナント」を歌つてゐた。――その單調そのもので心を慰めたり、互ひに眼尻で顏を見合つたり、子供のやうなおどけた樣子で笑つたりした。さうしながら彼等は絶えずその對句を繰り返して、その度毎にそのなかへ新らしい生氣を吹き込まうとしてゐた。彼等の兩頬は、鹽分を含んだ大氣の鮮かさで輝いてゐた。彼等が吸ふ空氣は純で、活氣づけるものであつた。彼等はあらゆる力とあらゆる生命の源泉に於いて、この空氣を肺に充たした。
しかも、彼等の周圍とては、生氣なき光景、滅びたるか、或はいまだ造られざる世界の姿であつた。光りには何の暖かみもなかつた。あらゆる物がぢつとして、白い大きな怪しげな眼のやうな太陽の凝視のもとに、永久凍りついてでもゐるやうであつた。
「マリイ」は、廣い水の上へ、夕暮のやうな長い影を投げてゐた、そしてその影は、眞白な空を映してゐる磨き上げた水面のたゞ中に、緑色に見えた。そして、すこしも反射しないその影のなかを覗くと、透きとほつてゐて、水中で何事が起つてゐるかがはつきり見られた。無數の魚族、何百萬とも知れぬ全く同じ魚族が、一の目的をもつて、果てしもない旅を續けてでもゐるやうに、同一方向に向つて靜かに流動してゐた。これは群をなして活動してゐる鱈であつた。灰色の縞畫のやうな效果を浮べて、並行線をつくつて前へ前へと續きながら、急速な顫動を見せて、小歇みなく動いてゐた。それがこの默したる生の塊團に流動の姿を與へてゐた。時とすると、不意に尾をぱち/\させながら、一齊に身をかへして、銀色をした腹の光りを見せた。と、やがて更に、一齊に尾をぱち/\させながら、また身をかへして、緩いうねりを立てて、その全魚脈のなかを、八方へ衝き擴がつて行つた。丁度幾千とも知れぬ金屬の刃先が二重の水面の間で、その兩方へ閃きを投げるやうであつた。
太陽は既に低くなつてゐたが、なほ傾きつゞけてゐるので、明らかにそれは夕方であつた。それが、海に接する鉛色の帶層のなかへ降つてゆくにつれて、次第に黄色になり、その環は一層はつきりした形を現はし、一層眞實なものに見えた。月を眺めると同じやうに、それをはつきり見定めることが出來た。
それはやはり耀いてはゐた、しかしそれが空間遙か遠くに在るやうには見えなかつた。たゞ船と一緒に水平線の涯まで行きさへすれば、水面から五六メエトルの空中に漂つてゐるこの巨きな悲しげな氣球を捕へることが出來るやうに思はれた。
漁は迅速に行はれてゐた。靜まつた水中を覗き込むと、其處でなされてゐることがはつきり見られた。鱈は來て慾深さうに、餌に噛みついた。そしてちくツと剌されたのを感ずると、身を搖すつて、一層鼻さきをくツつけようとするのであつた。すると漁師達は、絶えず、手早に、兩手でその絲をたぐり寄せて、――魚の腹を開いて、平にする役をしてゐる男の方へその魚を投げた。
パンポル人等の小船隊は、かうした靜寂な鏡のやうな水面に散らばつて、荒れ果てた海原へ生氣を與へてゐた。彼方此方に、少しの風もないので、型ばかりに掲げた小さな帆影が遠く見えて、それが眞白く灰色がゝつた水平線にくつきり浮びあがつてゐた。
かうした日には、氷島の漁夫達の仕事はいかにも靜かで、いかにも容易で――若い娘の仕事のやうな風をしてゐた‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ジャン・フランソア、ドゥ、ナント。
ジャン・フランソア、
ジャン・フランソア!
彼等は歌つてゐた、二人の大きな子供のやうに。ジャン・フランソア!
そしてヤンは、自分がそんなに美しいといふことも、そんなに立派な容貌を持つてゐるといふことも、殆ど氣にとめて居なかつた。それに、彼はシルストルと一緒にゐる時だけはまるで子供のやうで、ほかの者となら決して歌つたり、巫山戲たりはしなかつた。他の者に對しては全く變つて、むつちりして、そして何處か驕慢な、氣鬱な風を見せた。――けれど他人からなにか頼まれでもする時は、いかにも素直にしてもやるし、苛立てさへしなければ、いつも親切で人のためにつくした。
彼等はこの歌をうたつてゐた。彼等の處から少し離れて、他の二人の男がやはり、何かほかの唄の、睡げな、健康さうな、そしてとりとめのない悲しげな調子の籠つた節をうたつてゐた。
彼等は退屈はしなかつた。そして時は經つて行つた。
下の船室では、鐵の暖爐のなかで絶えず[#「絶えず」は底本では「絶えす」]火が燃えてゐた。そして艙口は閉されて、眠りに就くもののために夜のけはひをつくつてゐた。彼等が眠るには纔かな空氣しかいらなかつた。都會に育つて、それ程達者でない人々は、それをもつと欲しがつたであらう。けれど、彼等の深い肺臟は、かうした無際限の空氣で終日脹らまされてから、眠りに就くので、その肺もまた眠つて、ほとんど動きもしない。かういふ時には、人は、獸のするやうに、どんな小さな穴のなかへでももぐりこむことが出來る。
彼等は、當番をした後で、いつでも、好きな時を選んで、臥床へ行つた。時刻なぞは不斷の輝きの中では意味をなさなかつた。そして、それは、妨げられない、夢のない、全く休息の好い眠りであつた。
若しどうかして彼等が女のことでも考へ出すと、それは寢つく邪魔になつた。若し彼等が、もう六週間で漁が濟んで、間もなく新らしい戀人か、舊いなじみを、自分のものにするのだといふやうなことを思ふと、彼等はまたかつと眼を見開いた。
けれどそんなことは、極く稀にしかなかつた。またあつても、彼等はごく素直にそんな事を思つてゐた。女房や、許婚者や、姉妹や、身寄りの者のことなぞ思ひ出してゐた。禁慾の習慣と共に、感覺もまた眠つてしまふ――長い時期の間‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ジャン・フランソア、ドゥ、ナント。
ジャン・フランソア、
ジャン・フランソア!
‥‥彼等は今、灰色をした水平線上の遙か彼方に、ほとんど識別しがたい或る物を眺めた。一條の細い煙が、空の色よりはすこし黒く、すこし異つた灰色を帶んで、極めて小さな尾のやうな形をして、水の上へ立ち昇つてゐた。水の底を搜り馴れた眼で、彼等はそれを素早く見つけたのであつた。ジャン・フランソア!
『汽船だよ、あれは!』
『さうらしいな』と、船長は、ぢつとそれを眺めながら言つた。『政府の船らしいぞ、――巡洋船がつて來たらしいぞ‥‥
この微かな煙が、漁夫達に佛蘭西からの便りを持つて來るものであつた。それ等の手紙の中には、綺麗な若い娘の手で書かれた、年寄つた祖母からの或る手紙もはいつてゐた。
それは
ちやうどこの頃から、前に吹き起つてゐた、呼吸するに苦しい輕い微風が、此處彼處に死したる水の面に模樣を彫み始めた。それは、縱列をなして延びたり、扇形に擴がつたり、或は
海のさま/″\な方面から、この廣漠たる領域のさま/″\な方角から、漁船が集まつて來た。この界隈に浮遊してゐた佛蘭西からの總ての船、ブルターニュからの、ノルマンデイからの、ブーローニュからの、或はダンケルクからの船等。彼等は、一聲で集まる群鳥のやうに、巡洋船の後へ集まつて來た。彼等は水平線の空漠たる隅々からさへも現はれて來た。そしてそれらの小さな灰色の翼は到る處に見られた。彼等はすべてこの青白い水の荒野に群れた。
彼等はもはやぐづ/\してゐないで、若い生々した微風に帆を張つて、出來るだけの速力を出して近づいて來た。
遠くの方に見える氷島も、彼等と一緒に近よつて來たさうであつた。次第々々にその島の裸岩の高い山々がはつきり姿を現はして來た。――この山はたゞ一方からのみ、即ち下からのみ、物惜しげに光りを投げかけられるにすぎなかつた。そして、それは次第に際立つて見え出して來た同じ色をした第二の氷島と連接して擴がつてゐた――併しこの第二の氷島なるものは幻影であつた、そしてそれの一層巨大な山々は濃霧の凝結したものに過ぎなかつた。物象の上へ高く昇ることは出來ないで、いつも低くたゆたつてゐる太陽は、この幻の島を透して見られた。そしてそれが島の手前にでも置かれてあるかのやうで、肉眼でははつきりけじめがつけられなかつた。太陽はもう日暈をもつてゐなかつた。その圓い圓盤の輪郭はまたくつきりして來て、ちやうど見窄らしい、黄ろい、滅びかけた遊星が、渾沌の眞中で迷ひ迷つて、しばらくぢつと其處に立ちすくんでゐるやうであつた。‥‥
巡洋船は既に停つて、氷島人等の群星に取り卷かれてゐた。總てそれ等の船からは、胡桃の殼のやうな形をした短艇が出され、粗野な服をつけた、長い髭をした荒くれ男達を船へ連れて來た。
彼等はみな子供のやうに、何かを欲しがつた。ちよつとした傷藥だの、繃帶だの、食糧だの、手紙だの。
また中には、何か亂暴をしたこらしめに、かせをはめられに、その船長からこの船へ送られて來る者もあつた。彼等はみな政府に使はれてゐたので、さうされるのは彼等に當然のことに思はれた。そして巡洋船の狹い下甲板に、かうした大きな四五人の男達が、足に輪錠を嵌められて臥そべつてゐると、彼等に錠を嵌めた古い主長がかう言つた、『やい、はすに臥て、通路をあけておけツ』すると、彼等は笑ひながら、素直に路をあけた。
その時に氷島人等へ來た手紙はずゐぶん多かつた。その中で、船長ゲュエルムル、「マリイ」へ宛てのが二通あつた。その一通はヤン・ガオへ宛てたものであり、もう一通はシルストル・モアンへ來たのであつた(これは丁抹を通つて、レカクまで來てゐたのを、其處から巡洋船が積んで來たのであつた)。
船の事務長は、それらを帆布の袋から取り出して、彼等に分けた。馴れない手で書かれた宛名を讀むのには屡弱らせられた。
やがて指揮官がかう言つた、
『さあ急げ、急げ! 晴雨計がさがつたぞ』
彼は、水面に浮んでゐるこれ等の殼のやうな小船等と、そしてこの不確かな世界に集合してゐる多くの漁夫達を見ると、多少の不安を感じた。
ヤンとシルストルとは、來た手紙をいつも一緒に讀むことにしてあつた。
その時も、彼等は、滅びた遊星のやうな同じ姿を見せて、水平線の上から彼等を照らしてゐた眞夜中の太陽の光りで讀んだ。
彼等は、甲板の片隅へ二人だけ離れて、腰をおろし、互ひに肩へ腕を掛けながら、書き送られた故郷の便りをよく味はうとするやうに、極めてゆつくり讀んだ。
ヤンへの手紙の中では、シルストルはその可愛いゝ許婚者、マリイ・ガオの便りを見つけた。シルストルへの手紙の中では、ヤンは、遠くへ出てゐる彼等を慰めるのに類ひない上手な祖母イヴォンヌのをかしい幾つかの話を讀んだ。やがて最後の一節は彼へのたよりであつた。『ガオさんへ私からもよろしく』
手紙を讀み終ると、シルストルはおづ/\その自分への手紙を大きな友達に見せて、その手紙の手蹟をよく味はせようとした、――
『どうだ、いゝ
けれどヤンは、若い娘のその
やがてシルストルは、この哀れな、小さな、顧みられない手紙を叮嚀にたゝんで封筒に入れた、そして編襯衣の内懷の中へ入れて、悲しさうにかう考へた、――
『どうも二人は結婚しさうもないな‥‥だがいつたいヤンはあの女のどこが氣に入らないんだらう‥‥』
‥‥眞夜中の鐘が巡航船から鳴り響いた。それでも二人は、まだぢつともとの處に坐つたまゝ、家のことや、別れてゐる人々のことや、その他數知れぬほどさま/″\なことを、夢のやうに考へてゐた‥‥
その時、水中へその一端をちよつと浸した常住の太陽が、また徐々に昇り始めた。
そしてそれは朝であつた‥‥
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氷島の太陽もすでにその外觀と色とを變へてゐた。そしてこの新らしい晝をその恐ろしい朝と共に開展した。面紗をすつかり脱ぎ棄てた太陽は、噴射のやうに大空を横ぎる凄じい輝きをとつて、險惡な天候の近づくのを知らせた。
この數日は餘りよく晴れてゐて、それがもう終るべきであつた。微風はこれらの群船の上を吹いた。それ等を吹き散らす必要を感じでもしたやうに、掃海の必要でも感じたやうに。そしてそれ等の船共は
風は次第に吹き募つて、人と船とを顫はせた。
波はまだ小さかつたが、後から後からと立ちはじめ群がりはじめた。最初、それらの波は塑像のやうに盛り上つて眞白な泡をかぶつた。やがて、ヒユツ、ヒユツといふ音を立てて、潮煙を立てた。丁度それが煮られたり、燒かれたりでもしてゐるやうであつた。――そしてあらゆるそれ等の鋭い響きは刻一刻と高まつて行つた。
彼等はもう漁のことなどは考へなかつた、たゞ船の處置についてのみ考へてゐた。釣り糸はもうとくに手繰り込まれてゐた。彼等は總て慌たゞしく走り去つた。――或る者は峽江の中の避難所を求めて、間に逢ふやうに遁げ込まうとし、また或る船は氷島の南の一角を過ぎて、沖へ出て、追風を受けて疾走する自由な餘地を彼等の前面に持つのが安全だと考へた。彼等はまだ互ひの影を認めることは出來た、此處彼處に、怒濤のくぼみに、多くの帆影が湧き上つた。哀れな、小さなそれ等のものは、濡れて、疲れて、逃げながらも――やはり眞直に立ち上つて、丁度、木髓でつくつた子供の玩具が、吹き倒されても、また起き上るやうであつた。
西方の水平線上にたゝなはつて、島のやうに姿を見せてゐた巨大な雲の壁は、その上部から崩れはじめて、その斷片は空の上を飛んでゐた。この雲の壁は無盡藏のやうに思はれた。風がそれを敷き、伸ばし、擴げて、その中から暗い戸帳を無限に繰り出し、そしてそれを、朗かな黄ろい空の、濃い冷たい鉛色になつた中へ溶きひろげた。
次第々々に吹き募つて、この大きな風はあらゆる物を衝き動かした。
巡洋船は氷島の避難所の方へ行つてしまつた。漁師等だけがこの凶相をとつた、恐ろしい色を帶んだ、この搖れる海の上に殘つてゐた。彼等は大急ぎで暴風に備へる準備をした。船と船との距離は遠くなつた。彼等は間もなく互ひに視線から消えさうにしてゐた。
渦紋を卷いてゐた波は、斷えず互ひに追ひかけ、入り亂れ、掴み合ひ、次第に高まつて來た。そして、それ等の間に谿を刻んだ。
數時間のうちに、昨日まであれほど凪いでゐた此のあたり一帶のありとあらゆる物が總て覆へされ、擾されて、以前の沈默に引きかへて、騷がしさで耳も聾せんばかりになつた。何といふ光景の變化だらう、心なき、無益な、かくも迅速になされたる現在のこの擾亂は。果して如何なる目的であらうか、‥‥何といふ神祕な盲目の破壞であらう。
雲は西から西からとなほも湧いて來て、空中に擴がり、うづ高く重なつて、慌たゞしく、迅速に萬物を隱蔽した。まだいくらかの雲の黄ろい裂目だけ殘つてゐた。それを通して太陽は、下方から、その最後の光りを束にして送つてゐた。そして、今や緑がゝつた海水は、次第々々に白い泡で筋だつて來た。
正午までには、「マリイ」は荒天準備をすつかり整へてゐた。艙口は閉され、帆は卷かれ、彼女はしなやかに輕く跳つてゐた。――始まりかゝつた擾亂のたゞなかで、彼女は、暴風雨が元氣づける大きな
上の方はもう眞暗くなつて、密閉されて押つかぶさつて來る穹窿となつた、――その表面には、一層黒い炭坑かなにかのやうな蒙々たる斑紋を擴げてゐた、それが一つの動かない圓蓋のやうに思はれた。けれど、それとは反對に、それがぐる/\旋轉してゐるのを知るためには、ぢつとそれを見つめてゐる必要があつた。大きな灰色の敷布が急速に通りすぎて行つた。そして水平線の果てから湧いて來る他の敷布と小やみなく入れ代つた。眞黒な布が、終りなき卷物からのやうに、解きほぐされて行つた‥‥
「マリイ」はこの天候の前を逃げた、はやくはやく逃げた。――そして天候もまた逃げつゝあつた。――何か知ら怖ろしい神祕力の前を。風も、海も、「マリイ」も、雲も、すべて同じ方向に、急速に遁逃の同じ混亂に驅られてゐた。最も迅く逃げるのは、風であつた。その後から、大きな波浪が卷き起つて、一層重く、一層のろく追つかけた。すると「マリイ」もこの一般の運動の中へ捲き込まれた。波は、無盡の瀧津瀬をなして轉びながら、その蒼白い頂冠を立てて彼女を追つかけた。そして彼女は――斷えず追ひつかれ、斷えず取り殘されて――纔かにそれ等の波から脱れた、彼女が後へのこした巧みな船跡によつて、それ等の波の怒り碎かせる渦卷きによつて。
この遁走の歩度のなかで、特に經驗されたことは、幻のやうな輕やかさであつた。何の苦もなく、努力もせずに、人々は躍り進むのを身に感じた。「マリイ」が波の頂へ乘り上つた時は、何等の動搖もなく、風にでも揚げられたやうであつた。そして、そこから彼女の下るときは、「露西亞車」[#「露西亞車」は底本では「靈西亞車」]の擬似滑斜面で、或は夢の中で假空の墜落に於いて、人が腹部に感ずる微震を經驗させて、滑り下るやうであつた。逃げ行く山が、その前進をつゞけるために、彼女の下をくゞり拔けるので、彼女は宛かも後ろへ戻されるやうに滑つた。と、その時、彼女は大きな流るゝ波の凹みの一つへ衝き込まれたが、如何なる損害も受けず、彼女は水煙の中で、その恐ろしい底まで沈んだ、が、その水煙は船體を濡らしもしなかつた、そしてその水煙もすべて他のものと同じく逃げて行つた。そして逃げて、眞先きに煙のやうに、跡かたも無く消え失せた‥‥
これ等の波濤の谿底は一層暗かつた。そして、一の波が過ぎ去ると、すぐ後からもう一つの波が立つて來るのが見られた。その一層大きな波は、透き通つて眞青に立ち起つて、近づかうと急ぎ、怖ろしい曲轉をなし、呑みこむばかりの渦卷を立てて、かういふやうに思はれた――『待て、いま追ひついてやるぞ、そしてお前を一呑みにするぞ‥‥』
‥‥けれど、さうは行かなかつた。たゞ、それは肩を聳やかして羽飾をあげるやうに、彼女の船體を揚げたばかりであつた。そして船は、その波が騷がしい泡を立てて、瀧津瀬のやうな轟きをあげて、自分の下を殆ど柔らかに通つて行くのを感じた。
かういふふうに絶えず引き續いて行つた。が、それが次第に激しくなつた。波は後から後からと續いて、次第々々に大きくなり、長い山系を形成し、その間の谷は怖ろしくなりだした。そして、總てこの狂ほしい激動は、次第々々に暗くなつて來る空の下で、そして次第に怖ろしい響きを増して來る騷亂の眞たゞ中で、一層速度を加へて來た。
天候は慥かに非常に險惡であつた。そして見張りをしなければならなかつた。けれど、彼等の前に自由な空間のある限りは、遁げるべき十分の空間のある限りは!、それに、「マリイ」は今年は丁度、氷島の漁區のうちで、最も西寄りの場所で、漁期をすごしてゐた。それ故かうして東の方へ走れば走る程、故郷の方へ一層近づくわけであつた。
ヤンとシルストルとは、横木へ腰帶を結びつけてゐた。彼等はまだ「ジャン・フランソア、ドゥ、ナント」を歌つてゐた。轉動と進速とで興奮して、彼等は聲の限りで歌つたり、總てこの騷音の爆裂の中で、お互ひの聲の聞えないのを笑つたり、また、風に向つて歌はうとして、其方へ顏を向けて、呼吸を切らして、興がつたりしてゐた。
『おい!、どうだ、其處では、徽臭いにほひはしないか、上の方では?』とゲュエルムルが、惡魔が箱の中から出かゝつてゐるやうに、半分開いた艙口から髭面を出していつた。
いゝや、決して惡い臭ひなんかしなかつた。
彼等は、かうした場合の處理もはつきり心得てゐたし、自分等の船の堅固なことや、自分等の腕力に對しても自信を持つてゐたので、すこしも恐れは抱かなかつた。それに彼等は、これまで四十年の間氷島への航海で、造花の花束のなかでいつも微笑しながら、かうした恐ろしいダンスを幾度となく踊り馴れて來たファイアンスの聖母の加護のなかにゐた‥‥
ジャン・フランソア、ドゥ、ナント、
ジャン・フランソア、
ジャン・フランソア!
ジャン・フランソア!
概して、彼等は自分等の周圍は遠く見えなかつた。數百メートルの彼方では、あらゆる物が茫漠たる姿となり、逆卷き上り、眼界を遮る蒼白い波頂となつて終つてゐるやうに見えた。彼等は、斷えず變化はして行くものの、或る限定を附せられた光景の中心に常にゐるやうに思はれた。それに、あらゆる物は、一面の海上を、極度の早さで、雲のやうになつて逃げてゆく一種の水煙のなかに包まれてゐた。
けれど、とき/″\東北の方に當つてほがらかな一點が現はれた、其處から方向の異つた風が吹いて來るかもしれない。その時一筋の光りが水平線の端に現はれて、たゆたふやうな反射が、空の圓蓋を一層暗く見せて、激動する白い波頂の上に擴がつた。そしてこのほがらかな一點は見る眼を悲しませた。これ等の遠い瞥見や、これ等の見透しの遠景やは、一層氣をふさがせるものであつた。それらは何處へ行つても、同じやうな斯うした渾沌状態と、同じやうな狂ほしさのあることを明示してゐた、――この空漠たる彼方の無限の水平線の背後にいたるまで、この恐ろしさは果てしがなかつた、そして彼等だけがその眞たゞ中に居るのであつた!
凄じい騷音は、世の怖ろしい終りを告げる天啓の序曲のやうに、あらゆる物から湧き上つた。そのなかで幾千といふ聲音が聞き分けられた。空からは、ひゆう/\いふ深い聲々が來た、それ等はいかにも廣漠としてゐるので、殆ど遠いもののやうに思はれた。それは風であつた、この狂亂の巨きな靈であつた、あらゆる物を持ち來たす眼に見えぬ力であつた。それは恐ろしかつた。けれどそのほかに、一層近い、一層有形的な、破壞を威嚇する騷音があつた。下から石炭を燃やされでもするやうに、沸えくりかへり、湧きかへる海水の立てるものであつた‥‥
それは引き續いて力を増して行つた。
そして彼等がいくら逃げても、海は彼等を包まうとし、彼等の言葉でいふと彼等を「呑まう」としはじめた。最初潮煙が船の艫を衝いた、と思ふと、海水の束は何物をも破壞するやうな勢で、どつと打つかつて來た。波は次第々々に高く、一層狂奔した。が、それ等の波はそれ/″\切られて巨きな緑の斷片となるのが見られた。この片々は、風のために八方へ投げられた落ち水からつくられるのであつた。その水は重い塊となつて甲板の上へ落ちて來て、ざあつと鳴つた。するとその時「マリイ」は惱むがやうに、全身を震はせた。眞白な泡が一面に飛散したので、もう何物も眼にははいらなかつた。疾風が一層音高く怒號するにつれて、その白い泡は、――眞夏の路上の沙塵のやうに、一層厚くうづまいて、馳つて來るのが見られた。既に降りはじめてゐた重い雨が、また横なぐりに、平らかにやつて來た。そしてそれ等あらゆる物は一つになつて、革紐か何かのやうに、ヒユツ、ヒユツいひ、打つかり、傷つけた。
彼等二人はまだ、横木に身を縛して、其處にゐた。鮫皮かなにかのやうに硬い、そして光澤のある油衣に身をつゝんで、固く身を立ててゐた。その油衣を、瀝青を塗つた細引で、海水のはいらないやうに、頸と、手首と、踝とで、しつかり縛つてゐた。そして、水が一層重く落ちかゝつて來ると、それにさらはれまいとして、身の釣合をつけ、背をかゞめると、その水はそれ等の上を流れ、背をふくらませた。彼等の兩頬の皮膚はぴり/\した、そして彼等の呼吸は絶えずとぎれがちであつた。一塊りの巨きな浪をかぶる毎に、彼等は互ひに顏を見合せた――お互ひの髭に溜つた鹽を見て笑ひ合つた。
やがては、彼等もひどく疲れて來た、この狂亂はやまうともしないで、なほも同じやうな激昂した痙攣を續けてゐた。人間の怒りや、獸の怒りは疲れが來て、速かに消えてしまふ――理由もなく、目的もなく、生の如く、死の如く不思議な無生物の怒りは、長く、長く忍ばなければならない。
ジャン・フランソア、ドゥ、ナント、
ジャン・フランソア、
ジャン・フランソア!
ジャン・フランソア!
白くなつた彼等の脣からこの古い唄の疊句が、まだ聞えてゐた。けれどそれは何の響きも無いもののやうに、とき/″\無意識に繰り返されるに過ぎなかつた。この極度の騷動が彼等を夢中にしてゐた。彼等の若い力も無益であつた、彼等の笑ひは寒さでがち/\鳴つてゐる齒の上でにがかつた。彼等の爛れて瞬く眼瞼の下に、半分閉ぢた彼等の眼は、ひどく弱つてきよとんとしてゐた。彼等は二つの大理石の支壁のやうに横木に結びつけられて、青白い、硬ばつた手で、殆ど無意識に、たゞ筋肉の習慣だけで、なすべき努力を續けてゐた。
彼等は最早お互ひが眼にはいらなかつた! 彼等はたゞ、自分等がまだ並んで其處にゐるといふ意識だけを持つてゐた。彼等の背後に、新らしい水の山が湧き上つて、押つかぶさり、怖ろしく咆え立てて、巨きく、重く、ざあつと彼等の船へ打つかつて來る一層危險な瞬間毎に、彼等の片方の手が知らず/\、十字を切るのであつた。彼等はもう何も考へなかつた、ゴオドの事も、どんな女の事も、また結婚の事も少しも考へなかつた。餘り長く續いてゐたので、彼等は最早なんの考へもなくなつた。騷がしい物音と、疲勞と、寒氣とに夢中にせられて、あらゆる物が彼等の頭で昏くなつてゐた。彼等はたゞ横木を支へてゐる硬ばつた二つの肉の柱にすぎなかつた。死ぬまいとする本能から其處にしつかり踏み止まつてゐる二つの強健な生物たるにすぎなかつた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ブルターニュに於いて、九月半ば過ぎ、もはや冷え/″\する或る日のことであつた。ゴオドはたゞ獨りブルバラネクの曠野の上を、ポル・エヴァンの方へ歩いてゐた。
殆ど一ヶ月ほど前に、氷島の漁船等は歸つてゐた――六月の颶風で行方不明になつた二艘は缺けてゐた。けれど、「マリイ」はそれをうまく切り拔けたので、ヤンその他の乘組もみな無事に歸つてゐた。
ゴオドは、これからヤンの家へ行くのだと思ふと、ひどく胸の躍るのを感じた。
たゞ一度だけ、彼女はヤンが氷島から歸つてから、見たきりであつた、それは皆してシルストルの入營するのを見送りに行つた時のことであつた。(人々はシルストルと連れだつて馬車立場まで行つた。シルストルも泣いてゐた。が、彼の老祖母は非常に泣いた。そこから彼はブレストの隊へはいるために立つて行つた。)この小さな友達に別れを告げに來てゐたヤンは、彼女が彼の方を見た時、わざと眼を外らすやうな振りをした。それに、馬車の周圍には澤山の人が集まつてゐたので――その他にも出て行く新入水兵達や、それらの親戚等が別れに集まつてゐた――言葉を交はす機會も無かつた。
それ故遂に彼女は固く心を決めて、すこし氣後れはしたが、ガオの家へ行くことにした。
彼女の父は以前からヤンの父親と或る共同の利得を持つてゐた(農夫等や漁夫等の間に行はれてまだ終つてゐない、或る混み入つた仕事で、)そしてこの頃一艘の船を賣つたので、その配當として、百フランを其の人に渡す筈になつてゐた。
『わたし、此のお金を持つて行つて渡したらいゝでしよう。ねえお父さん』と彼女はいつた。『第一わたしマリイ・ガオさんに逢つたらどんなに悦しいでしよう。それに、わたしまだブルバラネクでもそんなに遠くへ行つたことなんか無いんですもの、そんな遠みちをしたらきつと面白いと思ひますわ』
實際、彼女は、自分がいつか其處の者になるかも知れないヤンの家族や、その家や、その村に對して氣遣はしい好奇心を持つてゐた。
シルストルはその出發前、最後の話の中で、彼の友達のその無作法なことを、如何にも彼らしく彼女に説明した。
『ねえゴオド、それはつまりかうなんだ。あの男はだれとも結婚したくない、と、かう思ひ込んでゐるんだ。あの男の好きなのは海だけだ。そしていつかも冗談半分に、俺は海と結婚する約束をしたんだなんて俺達に言つてたつけ』
それ故、彼女はヤンにそんな振舞ひをするのをゆるしてやつた。そして、やつぱり、舞踏の晩の彼の眞率な、懷かしい笑顏を思ひ出して、更に希望を繋いだ。
若し彼の家で彼に逢つたにしても、勿論彼に對して何も言ふまい。それほど臆面なしな振舞ひはしたくなかつた。でもあの人は、そんなに身近くで逢つたらば、いくらなんでも物を言はないことはあるまい‥‥
彼女は一時間ばかり、氣をくばり、心をつかひ、海からのすこやかな空氣を吸ひ込みながら歩いた。
四辻路には大きな十字架碑が立つてゐた。
時々間を置いて、彼女は漁夫等の住む小村を通り過ぎた。それ等の部落は年中風に吹き晒されて、岩のやうな色をしてゐた。それ等の一つで、其處では小徑が急に暗い壁と壁との間で、セルト人の小屋のやうな尖つた高い草葺屋根の間で、狹くなつてゐたが、其處の或る居酒屋の看板が、彼女を微笑させた。――『支那林檎酒』としてあつた。そして、それには辮髮の有る、淡紅色と緑色の着物を着た、二人の奇怪な人物が林檎酒を飮んでゐるのが描いてあつた。無論これはその國へ行つて來た年寄つた船乘りの思ひつきであつた。彼女は歩いて行くにつれて、色々な物が眼についた。自分の旅の目的にすつかり心奪はれてゐる人々は、その途上の澤山な細かな事柄で、却つて他の人々よりも、一層興味を唆られるものである。
その小村はもう彼女の後に遠くなつて、そして彼女がブルターニュの最後の岬へ近づくにつれて、周圍の樹木は次第にまばらになつて、あたりが一層わびしくなつて來た。
土地には高低があり、岩が多くなり、小高い場處ならば、何處からでも廣い海が見渡された。今はもう樹木は一本も無くなつた。緑色のはりゑにしだの生えてゐる荒れた沼地のほかには何も無かつた。そして其慮此處に長い腕を伸ばして空に向つて立つてゐる聖十字架像は、この一帶の土地をして廣漠たるゴルゴタの地を忍ばしめた。
かうした巨大なキリスト像の一に護られてゐる或る岐路で、彼女は藪の繁つた傾斜地の間を走つてゐる二つの路のいづれをとるべきかにためらつた。
丁度その時彼女の當惑を救ふやうに、一人の小娘が出て來た。
『今日は、ゴオドお孃さん』
その子はガオの家の子供で、ヤンの妹であつた。彼女はこの子に頬ずりしてやつて、家の者はみんな内にゐるかと訊いた。
『お父さんとお母さんはゐるの。だけど兄さんは』とこの小娘は何心なく言つた。『ログヰヴイへ行つたの。だけど直きに歸つて來るでせう』
彼は家にゐない! いつ如何なる時にも彼を彼女から距てようとするその同じ惡運が、まためぐつて來た。彼女は、この訪問をいつか他の時まで伸ばさうかとも考へて見た。けれどこの女の子は、途中で彼女に逢つたと屹度話すに違ひない‥‥ポル・エヴァンの人達はそれをどう思ふだらう。で、彼女は行く事に決めたが、彼が歸つて來る暇のあるやうに出來るだけゆつくり歩いた。
彼女がヤンの村へ近づくにつれて、このかけ離れた場所へ近づくにつれて、總ての風物が次第々々に荒く、わびしくなつて來た。その地の人々を一層強く育てる海からの暴い風は、植物をば低く、短かく、いぢけさせ、固い土壤の上を匍ひらせた。小徑の上には、海草が地を匍つてゐた。見馴れない簇葉は異つた世界が近くにあることを語つてゐた。それ等の葉は空中へ鹽の香を漂はせてゐた。
ゴオドは時々行き過ぎる人に逢つた――海に馴染んだ人々であつた。この周圍のあらはな場處では、遠くの方から、その姿が、遙か高い水平線に對して、くつきりと、大きくなつたやうに、見られた。彼等は、水先案内か或は漁師等で、何れも見張番をしてゐるか、或は海の警備でもしてゐるやうな風をしてゐた。彼女と擦れ違ふと、彼等は挨拶をした。日に燒けたその顏が、水夫帽の下で、いかにも男らしく、きつぱりして見えた。
時はなか/\經つて行かなかつた。そして彼女は實際どうして路を手間取つたらよいか知らなかつた。その人々は彼女がそんなにゆつくり歩いてゐるのを見て驚いてゐた。
ヤンは一體ログヰヴイで何をしてゐるのだらう? ともしたら、若い娘達の機嫌でもとつてゐるのではないか‥‥
あゝ! 彼が美しい娘達のことなぞ殆ど氣にとめてゐないといふことを、彼女が知つてゐたならば! どうかした拍子に彼がそれ等の一人を好くやうなことがあつたにしても、大方の場合先方から言ひ寄られるに過ぎなかつた。パンポルの若い娘達は、古い氷島の唄にもあるとほり、その方へかけては氣儘な方だつたから、彼のやうな立派な男を斥ける筈はなかつた。けれど、この時は彼はたゞその村の或る籠屋へ註文をしに行つたに過ぎなかつた。その籠屋はこの界隈で本式の蟹わなの編み方を知つてゐる唯だ一人の男であつた。ヤンの頭はその時、戀事なぞからは全く離れてゐた。
彼女は小高い處に遠くから見えてゐた或る禮拜堂のところまで來た。それは極く小さな、極く古い灰色の禮拜堂であつた。四邊のむき出しになつてゐる眞中に、同じ灰色をした、そして殆ど葉の落ち盡した一叢の樹々がその頭髮のやうに立つてゐた。――しかもその頭髮は、手か何かで撫でられでもしたやうに、同じ方向に吹き倒されてゐた。
そしてこの手こそはかの漁夫達の船を覆へす手と同じものであつた。――海岸の捩ぢ綯れた樹木の枝を、波のうねりと同じ方角へ靡かせる西風の不斷の手であつた。舊くなつた樹々は、この同じ手の幾世紀もの努力の下に、背を屈めてゐて、
ゴオドはもう殆ど自分の行く路の終りへ來たことに氣がついた。その會堂はポル・エヴァンの禮拜堂であつたからである。で、彼女は其處で時を消すために留まつた。
小さな崩れかゝつた塀が、澤山の十字架の立つてゐる一廓の地を圍んでゐた。總ての物が同じ色をしてゐた――禮拜堂も、樹木も、墓石も。その場處全體が一樣に日に灼かれ、海からの風に蠶食せられてゐるやうに見えた。灰色がゝつた一樣の苔が、硫黄の黄味あせた斑點で、石や、節くれ立つた木々の枝や、壁龕の中に立つてゐる花崗石の聖徒達を蔽つてゐた。
木製の十字架の一つに、大きな文字で、名前が書かれてあつた、――
「ガオー・ガオ・ジョエル、八十歳」
あゝ! さうだ、祖父だ。彼女はそれと知つた。海はもうこの老人を要しなかつたのだ。してみると、無論この境内にヤンの一族が眠つてゐるに違ひない。それは自然であつた。そして彼女はそれを期待してゐるべきはずであつたらう。併し彼女が墓石の上で讀んだこの名は、彼女に苦しい印象を刻んだ。もう少しの間時を消すために、彼女は舊い、白塗りの玄關で祈祷をしようと思つてはいつて行つた。その玄關は極く小さく、磨り減らされてゐた。けれど彼女は其處へ立ちどまつた。彼女の胸は一層苦しく壓せられた。
ガオ! また此の名が、海で死んだ人達の記念のために立ててある卒塔婆の上に刻んであつた。
彼女はその文句を熱心に讀んだ――
千八百七十七年、八月三日、氷島にて沒したる、
「マルグリイト」乘組水夫、行年二十四歳、
「マルグリイト」乘組水夫、行年二十四歳、
ガオ、ジャン・ルイの
追憶のために。
彼に平和ある眠りあれ!
追憶のために。
彼に平和ある眠りあれ!
氷島、――またも氷島だ! 到る處、この禮拜堂の入口には、死んだ水夫達の名を記した木の板が打ちつけてあつた。其處はポル・エヴァンの難船者達のための一隅であつた。で、彼女は暗い豫覺を感じて、其處へ來なければよかつたと思つた。パンポルの會堂でも、彼女は同じやうな碑銘を見たことはあつた。けれど、此處の、この村の、氷島の漁夫達の空しい墓は、一層小さく、一層損じた、一層粗末なものであつた。其處にも此處にも、寡婦達や母親達が腰を掛ける花崗石が置いてあつた。そして、此の洞窟のやうな、低い、亂雜な場處は、地上の原始の女神シベールの眼のやうな大きな嫌な眼をした、薄紅く彩つた極く舊い聖母の像で護られてゐた。
ガオー! またも!
千八百七十七年、四月一日より三日頃、
その配下の乘組員二十三名と共に氷島にて歿したる、
その配下の乘組員二十三名と共に氷島にて歿したる、
「パンポレエ」船長、
アンヌ・マリイ、ル・ゴアステの夫、
ガオ・フランソアの
追憶のために。
アンヌ・マリイ、ル・ゴアステの夫、
ガオ・フランソアの
追憶のために。
平和なる眠り彼等と共にあれ!
そして、その下には、碧色の眼をした黒い頭蓋骨の下に、十字に組んだ二本の死骨――遠い昔の未開の姿をにほはせてゐるむき出しの凄い繪があつた。
ガオ! 到る處にこの名
イヴェといふも一人のガオ、「氷島ノルダン峽江附近にて船外へ落ちて行方不明、行年廿二歳。」この碑は長年の間此處に立つてゐるやうであつた。これはもう人から全く忘れられてしまつてゐるに違ひない‥‥
彼女はそれを讀んだ時、ヤンに對して、急にしみ/″\した懷かしさと、少しの絶望の感じとが起つて來た。決して、決して、彼は彼女のものとはなるまい! 彼女はどうして海と爭つて、彼をとることが出來よう、ガオの人々はこんなに澤山海へ沈んでゐるではないか。彼の先祖等や、彼の兄弟達や、それ等の人々はきつと彼によく似てゐたに違ひない。
彼女は禮拜堂の内へはいつて行つた、其處はもう暗かつた。厚い壁に開けた低い窓からの光りで辛うじて照らされてゐた。そして、其處で、涙のあふれ落つるばかりの心持で、彼女は聖者や聖女達の前へ跪いて祈りを捧げた。それらの巨きな聖徒等は、粗末な花で取り圍まれ、頭は天井につかへてゐた。戸外では、吹き起つてゐた風が、あだかも死んだ若い人々の歎きをブルトンの國へ吹き返しでもするやうに、呻きを立て初めた。
もう日が暮れかゝつて來た。けれど彼女は是非とも彼の家へ行つて、用を濟まして來なければならなかつた。
彼女はまた道をとつた。そして村の中で教へられて、高い崖を背後にして立つてゐるガオの人々の家を見つけた。其處へは石の階段を十二ばかり登つて達せられた。ヤンがもう歸つてゐるかも知れないと思ふと、少し體躯が顫へながら、彼女は小庭を通り拔けた。其處には菊と
家へはいつて、彼女は、船を賣つた金を持つて來たと言つた。すると、家の人達は丁寧に、父親が歸つて來て、受取を書くまで其處に掛けて待つてゐて呉れるやうにと言つた。彼女は、其處にゐる人々のなかから、ヤンを眼で搜したが、その姿はつひに見えなかつた。
彼等は家の内で忙しさうにしてゐた。眞白な大テエブルの上で、次ぎの氷島の漁期に必要なシラルジュ(油布)と呼ばれてゐる衣服をつくるために、新らしい木綿を裁つてゐた。
『ねえ、ゴオドお孃さん、漁に出ると、めい/\この着更へが
彼等はそれ等の見窄らしい衣服が、やがて、どういふ風に染められ、どういふ風に蝋を引かれるかを彼女に話して聞かせた。そして彼等がかうした細々した話をして聞かせてゐる間、彼女の眼はガオの人々のこの住居を注意ぶかく見まはした。
家は、ブルトンの草屋の昔からの樣式で整へられてゐた――非常に大きな爐が奧の方を塞げてゐて、どちらの側にも棚床がしつらへてあつた。しかし此の家は路傍に半ば埋もれたやうになつてゐる農夫達の住家のやうに、暗くも陰氣でもなかつた。船乘りの家に共通な、明るく清楚であつた。
此處には、男の子や女の子や、小さなガオ達がいくらもゐた、みなヤンの弟や妹で、――たゞ二人だけが大きくなつて海へ出てゐた。その他に、愁ひ顏の、小ざつぱりしたブロンドの女の子が一人ゐた。これは他の子供達にはすこしも似てゐなかつた。
『これが去年貰つた子でございます』と母親が言つた。『うちにもどつさりあるんですけどねえ、まあ仕方のない譯で、ねえ、お孃さん、この子の父親といふのは、この前の漁どきに、御承知の通り、氷島で行方知れずになつた「マリア・ディウ・テーム」に乘つてゐたのでございます――それでまあ、後に殘つた五人の子供をそれ/″\近所で引き取ることにして、この子がうちへ來ることになつたのでございますよ』
みなが自分の話をしてゐるのが耳へはいると、その貰ひ子は頭をさげて、笑ひながら、仲よしのローメック・ガオの傍へ隱れた。
家の内には愉しげな空氣が何處にもあつた。そして爽かな健康は皆の子供等の薔薇色の頬の上に咲き出てゐた。
彼等はゴオドを非常に鄭重に歡待した――彼等はかうした美しい若い婦人の訪問を家族の名譽とでもするやうに。彼等は、白い、眞新らしい木の階子段から、彼女を二階の室へ招じた。その室はこの家の誇りであつた。彼女はこの二階の出來た歴史を思ひ出した。これは父親のガオと、水先案内をしてゐるその從弟とが、海峽で見つけた所有主の知れぬ漂流船から出來たのであつた。この話は舞踏會の晩ヤンから聞いたのであつた。
難破船から出來たこの部屋は、全く新らしくて、白くて、いかにも小綺麗で、明るく居心地がよかつた。此處にはうす紅い波斯更紗のカーテンを垂れた都會風の寢臺が二つ置いてあつた。部屋の中央には大きな卓があつて、窓からはパンポル全體、港全體、其處に碇舶してゐる氷島の漁船等までも、また、それらの船が出てゆく時に通る水路までも、一目に見渡された。
彼女はヤンが何處で寢るのか知りたくもあつたらうが、思ひ切つて訊きもされなかつた。無論、子供の時分には、階下の、あの古風な棚床のなかで眠つたに違ひない。けれど今は、多分このさつぱりした、うす紅いカーテンの内で寢るのであらう。彼女は、彼の生活の細かしいことに親しみたかつた。殊に、彼が長い冬の夜をどうして送るのか、それが知りたかつた‥‥
‥‥階子段の重い足音が、彼女をはつとさせた。
いや、それはヤンではなかつた。けれどその人は頭髮こそ白いが、脊の高いところからしやんとしたからだつきまで、彼そつくりであつた、――父親のガオが漁から戻つて來たのであつた。
彼女に挨拶をして、訪問の用向を聽くと、彼はその受取に署名をした。が、手の運びがもう確かでないと、自分でも言つてゐたが、それを書くのに暇がかゝつた。しかし、彼はこの百フランを、分配金の全部を仕拂ふ最後の勘定としては、受け取らなかつた。たゞその内金としてであつた。彼はその事についてはメル氏に逢つて話さうといつた。ゴオドは、金のことにはあまり氣を止めてゐないので、目に立たない微笑を洩らした。けれど、して見ると、仕合せなことに、この事はまだ片がつかないのであつた。さうにちがひない。これから先きもまだ、ガオの家族と是非交渉を續ける必要があつた。
彼等はヤンが家にゐないといふことを詫びるやうに言つた。彼等は、一家族そろつて彼女を迎へたら、一層鄭重なわけだと考へてでもゐるらしかつた。それとも父親は、老水夫の素早さで、自分の息子がこの美しい相續女に全く無關係のものではないと、推察したのかも知れなかつた。彼はヤンの事をいひだしては、少し強くいひはつた、――
『不思議だな』と彼は言つた。『彼奴がかう遲くまで外にゐるなんて、つひぞ無かつたことだが。あれはログヰヴイへ蟹わなを買ひに行つたんですがな、お孃さん、御承知でがせうが、冬は蟹が澤山捕れますからな』
彼女はつひうつかりして、餘り遲くゐすぎるとは思ひながらも、ヤンの姿を見ないと思へば胸がひきしめられるやうに感じながら、長くゐてしまつた。
『彼奴のやうなおとなしい男が、一體何をしてゐるのかな。まさか居酒屋にゐるやうな事はないのだが。あの子に限つてそつちの心配を掛けたことはありませんがな。だが、長い間にや偶に一度ぐらゐは、日曜かなんかだと、友達と一緒になることもありませうがな――ねえ、お孃さん、何しろ船乘りといふ奴が、――その、まつたくのところ、若いうちは、さう愼んでばかりもゐられんぢやごわせんか。だが彼奴に限つて、そんなことは滅多にやありませんよ。彼奴はおとなしい男ですよ、さうは言へますだ』
とにかく、夜が來た。彼等が縫ひかけてゐた油布は疊まれた。そして仕事は中止された。小さな子供達も、その貰ひ娘も、夕方の灰色時で悲しくなつて、腰掛の上へぴつたりと體躯を寄せ合つて坐つてゐた。そしてゴオドを眺めながら、かう訊いてゐるやうに思はれた、――
『どうしてまだあの人は行かないのだらう?』
爐のなかでは、暗くなる夕闇のなかで、火が紅く燃えはじめた。
『一緒に夕飯でも上つて行つて下さい、お孃さん』
いや、彼女はさうしてはゐられなかつた。そんなに遲くまでゐたのかと思ふと、さつと顏に色がさして來た。彼女は立ちあがつた、そして暇乞ひをした。
ヤンの父親もつゞいて立ち上つた。古い樹々が小徑を暗くしてゐる寂しい低地の彼方まで暫く彼女を送つて行くためであつた。
二人が並んで歩いてゐると、其の人に對する尊敬と柔しさとが彼女を襲つて來た。彼女は父親にでも對するやうに彼に話しかけたくて耐らない不意の衝動を感じた。けれど、言葉は咽喉につかへた。そして彼女は何も言はなかつた。
彼等は、海の香を含んだ冷たい夕風の中を歩いて、平らかな荒地の其處此處で、既に戸をしめた、脊蟲のやうなその屋根の下に薄暗くなつてゐる藁屋、漁夫達の引籠つてゐる憫れな巣に打ち當つたり、十字架や、はりえにしだや、岩などを見かけたりした。
いかにも遠く離れて、このポル・エヴァンの村があるやうに思はれた。それをどうしてこんなに遲くまで居たことだらう!
折々彼等はパンポルやログヰヴイから歸つて來る人達に行き逢つた。さうした影法師が近寄つて來る毎に、彼女は彼を思つた、ヤンを思つた。けれど、遠くからでも見分けがつけられた。そして直ぐに彼女は思ひを裏切られた。彼女の足は、頭髮のやうにからみ合つた長い鳶色の草のなかにからまつた。それらは地上に散亂してゐる海藻であつた。
プルウエゾクの十字架の處で、彼女はこの老人に挨拶して、家に歸つて呉れるやうに言つた。パンポルの燈火がもう見えてゐた。そしてもう何も怖ろしいことのあるはずはなかつた。さうだ、今度はこれですべてが濟んでしまつた‥‥そして、いつ彼女がヤンに逢へるか、それが何人にわかることだらう!‥‥
彼女はもう一度ポル・エヴァンへ行くだけの口實を見出せないことはなかつた。けれど、その訪問を重ねることは彼女のためにあまり善くは見えないであらう。もつと自分を抑へる勇氣を持つて、もつと誇りかにしてゐなければなるまい。若しシルストルさへ、自分の若いあの相談相手さへ、ゐてくれたら、ヤンに逢ひに行つて貰つて、彼の本當の心持を訊いて貰ふことも出來たであらう。けれど彼はもう遠くへ行つてゐる――しかも、何年歸らないのか、それさへわからない‥‥
『嫁を貰へつて?』とヤンはその晩兩親にいつた。『俺に嫁を貰へつて? えゝ! 何だつて一體、嫁なんか貰ふんだい。俺はお前達と一緒にゐりや、これくらゐ仕合せなことはないと思つてゐるんだ――心配もないし、何人とも喧嘩をするぢやなし、おまけに海から歸つて來りや、毎晩熱いうまいスープも吸はれるしさ‥‥あゝ、解つた、さうだ、今日うちへ來てゐたあの娘のことを言つてるんだな。だが、第一あんな金持の娘が俺達のやうな貧乏人をどうかう思ふなんて、そいつがさつぱり俺にや判らねえんだ。いや、俺はあの女に限らず、だれとでも婚禮はしないつもりだ。そのことをよく考へて見たんだ。俺はそんなつもりはねえ』
二人の年とつたガオ達は無言で顏を見合せた。彼等はひどく失望した。二人は色々話し合つた末に、あの娘なら、たしか自分等の立派なヤンを厭だといふはずはないと信じてゐたからであつた。けれど、これ以上言つても無駄なことは解つてゐるので、彼等は、強ひようとはしなかつた。殊に母親は頭を下げて、一言もいはなかつた。彼女は、今では殆ど、この家族の頭になつてゐる長男の意志をば尊敬した。彼は母親にはいつも極く優しく、穩かで、細かな暮し向きのことでは子供よりも從順であつた。が、重大なことになると、以前から絶對の權威を持つてゐて、傍から何と迫つても、はねかへして、冷靜な、猛烈な獨立心をもつてゐた。
彼は夜遲くまで起きてゐることはなかつた。他の漁師達のやうに彼もやはりいつも夜明け前に起きる習慣を持つてゐたからであつた。そして夕飯の後、八時頃になると、いかにも滿足さうに、ログヰヴイから買つて來たわなと、新らしい網とをまた一渡り眺めやつてから、いかにも落ちついた靜かな心持で着物を脱ぎはじめた。やがて彼は弟のローメックと一緒に薔薇色更紗のカーテンを引いた床のなかで寢るために二階へ上つた。
二週間この方、シルストルは、ゴオドのその若い相談相手は、ブレストの隊へはいつてゐた。――家ばかり戀しがつて、けれど非常におとなしく、勇ましげに、青色の開いた襟をつけて、紅い
ある一夜、彼はいつものやうに、同じ地方から來てゐる仲間と一緒に醉つ拂つた。彼等の一隊は腕と腕とを組み合はせて、聲の限りに歌ひながら隊へ歸つて來た。
また或る日曜日に彼は劇場へ行つて、二階に陣取つてゐた。舞臺では或る大芝居が演ぜられてゐた。水兵等はその中の一人の反逆者に氣を立たせられて、「ウー」といふ聲をその男に浴びせかけた。それ等の聲は集まつて、西風のやうに騷々しく聞えた。それに劇場内はむつとするほど暖かで、空氣も無く、席もないやうに思はれた。彼は外衣を脱がうとして、上官から譴責された。そして、終りの頃には眠り込んでしまつた。
眞夜なか過ぎになつて、營舍へ歸らうとする途で、彼は帽子も冠らずに、街路を歩いてゐる年増の女達に逢つた。
『ねえ、ちよいと、お前さん』と彼等は嗄れた、粗野な聲で言つた。
彼はすぐ彼女等の求めてゐることが解つた。彼は人の想像してゐる程うぶな人間ではなかつた。けれど、年寄つた祖母やマリー・ガオのことを不圖思ひ出したので、彼は馬鹿にするやうにその女達の前を通りすぎ、無邪氣な、からかふやうな笑ひをうかばせて、自分の美しさと、若さとを誇りかに、それ等の女を見下してやつた。その魔女等はこの水兵の澄ました態度に驚かされた。
『あの人を見た、お前さん!‥‥氣をつけて早くお逃げ、早くお逃げ。いまに食はれるよ』
やがて、彼女等が彼に呼びかけるそれ等の卑猥な聲は、日曜日の夜の街路に充ちてゐる定かならぬ物音のなかへ消え込んでしまつた。
彼は氷島に於ける如く、ブレストでも同じ振舞ひをしてゐた。海上に於ける如く、彼の身持は清かつた――けれど他の者共は決してそれを笑はなかつた。彼が強かつたからであつた。そしてそれが水兵達に尊敬の念を起させたからであつた。
或る日、彼は司令部へ呼ばれた。そして、臺灣沖にゐる艦隊へ加はるために、支那へ向けられることになつたと告げられた。
彼は疾うからさうなりはしまひかと危ぶんでゐた。彼は新聞を讀んでゐる者から其の地に起つた戰爭がなか/\終りさうもないといふ事を聞いてゐたからであつた。
彼等の出發が迫つてゐるので、いつもなら、出征者等に、家へ歸つて暇乞をして來ることが許されるのだが、それさへ出來ないといふことを、彼は同時に告げられた。五日間のうちに彼は準備をして、出發しなければならならかつた。
彼は激しい心の動搖を感じた。一方には、長い航海と、未知の世界と、戰爭とに關する魅力と、また、總てのものから離れてゆく苦痛と、期しがたい生還とがあつた。
幾千の事實が彼の頭の中で渦紋を卷いてゐた。營舍の内の彼の周圍でも大騷ぎが起つてゐた。其處にゐる澤山の水兵達もやはり支那艦隊へ編入される命令を受けたのであつた。
そこで、彼は大急ぎで、憫れな老祖母に手紙を書いた。彼は床へ腰を卸して、わく/\するやうな夢心地で、彼と同じやうに近く出發する若い水兵達が往つたり來たりして、騷がしい聲を立ててゐる中で、大急ぎで鉛筆を走らした。
『彼奴の
彼等は、彼が他の人達と同じやうに、女に腕をかして、懷かしげにその方へ體躯を曲げて、そしていかにも樂しさうに何か話しながら、ルクウブランスの街路を歩いてゐる姿を初めて見たので、興がつてゐた。
後ろから見たところでは、その女は體躯つきのいかにも敏捷な、小柄な女であつた、――今の流行としてはやゝ短かすぎるスカートと、小さな褐色の肩掛と、そして大きなパンポル風の頭飾と。
彼女の方でも彼の腕へ身を凭せかけながら、親しげに彼を眺めるやうに彼の方へ身を曲げてゐた。
『あの情婦はすこしお婆さんだな』
彼等は、それが生れ故郷から來た彼の老祖母だといふことを知つてゐながら、何の惡氣もなくそんなことを言つた。
‥‥彼女は、孫から出發の知らせを受けて、ひどく驚かされて、急いでやつて來た、――支那とのこの戰爭は、パンポルの界隈だけでも既に澤山の水兵を犧牲にしてゐた。
彼女は乏しい貯への金を殘らず集めて、日曜日の晴着と、頭飾の掛更へとを厚紙の箱の中へ入れて、少くももう一度孫に接吻するつもりで出て來たのであつた。
彼女は着くと直ぐ營舍に彼を訪ねて行つた。が、最初、隊附の副官は彼を呼び出す事を拒んだ。
『是非逢ひたいといふなら、ね、お婆さん、隊長のところへ行つて話して御覽、そら、其處へ行くのが隊長なんだ。』
で、彼女はすぐ彼の方へ行つた。彼は心を動かされた。
『モアンに服を着更へさせてやれ』と彼は言つた。
で、モアンは一時に四段づゝも飛び上つて、外出服と着更へに行つた。――そのあひだ老祖母は、いつものやうに、彼を樂しませてやることを考へながら、奇妙な顏つきをして、副官の後ろで、恭しくしてゐた。
やがて、孫が頸を
瞬間、彼女は息子のピェールを見るやうな氣がした。ピェールもまた、二十年前に、艦隊の檣兵になつてゐた。彼女の後に逃げ去つた長い過去や、總ての死んだ人々の思ひ出が現在の上へ竊かに悲しい影を投じた。
悲しみは直ぐ消え失せた。二人は腕を靼み合はせて、樂しげに連れ立つて、出て行つた。――そしてその時、人々は彼女を彼の戀人として、『すこし婆さんすぎる』と言つたのであつた。
彼女は彼をつれて二人きりで食事をしに、或る宿屋へはいつて行つた。それはパンポルから出た人のやつてゐた宿屋で、餘り高くないといふ評判を彼女は人から聞いてゐた。やがてまた、彼等は腕を組み合はせて、ブレストの町中を、いろ/\な店の飾りつけを見て歩いた。けれど、彼女には孫を笑はせるために思ひついて言つたことくらゐ樂しいものは他になかつた、――それはパンポルのブルトン語で話されたので、傍を通る人達には少しも解らなかつた。
彼女は彼と三日滯在した、――祝ひの三日間、その上に暗い「やがて」が漂つてゐた、ちやうど許しの三日間のやうに。
そして、つひに彼女は彼を殘して、ブルバラネクへ歸らなければならなくなつた。第一に彼女の乏しい貯へが盡きたからであつた。それにシルストルはいよ/\一日おいてその翌日出發することになつたからであつた。そして水兵等は大切な航海へ出發する前日は、營舍内から出ることを固く禁ぜられてゐる、(これは一寸考へると、寧ろ殘酷な習慣のやうに思はれるが、出征せんとする間際に、水兵等が陷り易い脱船に對する必然の豫防である。)
おゝ、その最後の日! 彼女は孫になにか面白いことを言はうといくら腦髓を絞つても、無駄であつた。何も考へられない。たゞ涙が溢れて來るばかりで、歔欷が絶えず彼女の咽喉を詰らせた。孫の腕へ身を凭せかけて、彼女はいろ/\と心添へをした。それがまた彼を泣きたくさせた。最後に二人は共々祈りをするやうに會堂へはいつて行つた。
彼女は夕方の汽車で歸ることにした。餘計な金のかゝらないやうに、彼等は停車場まで歩いて行つた。彼は行李を持つたり、強い腕で彼女の身體を支へたりした。彼女はその腕へすつかり體の重みを投げかけてゐた。
氣の毒な婆さんは疲れてゐた。すつかり疲れてゐた。彼女はこの三四日間に、あれこれと氣をくばつてゐたので、もう何もすることができなかつた。背は褐色の肩掛の下で、身を伸ばす力も無く、全く屈まつてゐた。彼女はいつもの若々しい體躯の樣子もすつかりなくしてしまひ、七十六といふ壓へつけるやうな年の重荷をひどく身に感じた。これですべてが終つてしまふかと思ふと、そして數分の後には彼と別れなければならないのかと思ふと、彼女の心は引き裂かれるやうであつた。しかも彼の行くのは支那であつた。遠い殺戮の巷であつた! 今はまだ彼は自分の傍にゐた。今はまだ自分の哀れな手が彼を掴んでゐた‥‥けれどやがて彼は出發するであらう。彼女の意志も、彼の祖母としての、あらゆる涙も、あらゆる絶望も、彼を止める役には立たないであらう!‥‥
切符や、食物の籠や、手袋などがうるさいので、氣がいら立ち、體躯をふるはせながら、彼女は彼に最後の心添へをした。その一つ一つに彼は極く低い聲で、小さく、すなほに、ハイ/\と受け答へした。子供のやうな樣子で、親切な柔しい眼で彼女を見ながら、彼女の方へ懷かしさうに頭を曲げてゐた。
『さあ、お婆さん、乘るのか乘らないのか、早くしなくちやいけない!』
汽鑵はしゆう/\いつた。乘り遲れてはならないと氣を揉んで、彼女は彼の手から紙箱を取つたが、それをまた下へ落して、最後にもう一度孫の頸のまはりへ彼女の兩腕を投げかけた。
彼等は停車場の注意の多くを身邊に集めた。けれど彼等はもう何人にも笑ひを起させる暇もなかつた。驛員等に急ぎ立てられ、疲れはて、當惑して、彼女は眼につき次第の車室の内へ身を投げ込んだ。すると扉が後ろでバタンと閉ぢられた。その間にシルストルは、水夫の敏捷な驅け足で、飛んでゐる鳥のやうに輪を描いて、ぐるつと停車場をまはつて、彼女の過ぎるのを見るのに間に合ふやうに外の柵の處まで出た。
高い汽笛の音と、騷々しく軋る車輪の響きと――祖母は通り過ぎた。――彼は柵に倚りかゝつて、若々しく、美しく、ひら/\するリボンのついた帽子を振つた。すると彼女は三等室の窓の外へ體躯を伸ばしてたやすく彼の眼につくやうに、
氣の毒なお婆さん、可愛いシルストルをよく見てお置き、最後の瞬間までも、彼の消えゆく面影をとめてお置き、それは永久其處から消えてしまふであらう。
やがて、もう彼の姿が見えなくなつた時、彼女は腰掛へ身を倒して、晴れの頭飾が皺になるのもかまはずに、身も消えるやうに、さめ/″\とすゝりないた。
彼は頭を垂れて、大粒な涙を頬に流しながら、しづかに歸つて行つた。秋の夜は既に落ちてゐた。瓦斯の火が何處にもともされた。水兵等の祝ひが既に始まつてゐた。何物にも氣をとめないで、彼はブレストの町を横切つた。やがてルクウブランスへの橋へ、そして自分の營舍へ歸つて行つた。
『ねえ、ちよいと、貴郎』かうした嗄れた聲が、もう街路をうろつき始めた例の女達の口から聞かれた。
彼は歸るとすぐ吊床の中へ身を倒した。そして獨りきりで泣きながら、朝まで殆ど睡らずに明かした。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
氷島の海よりも一層深碧な、見知らぬ海へと迅速に運ばれて、彼はもう大洋へ出てゐた。
遠い亞細亞へと彼を運んで行く艦は、急ぐべき命令を受けてゐた。途中の寄港をしない命を帶びてゐた。
風や潮流やをば殆ど物ともしないその小止みなき、均一な疾走で、もう彼は餘程遠くまで來てゐることに氣がついてゐた。檣兵として、彼は、下なる雜沓、甲板に群れてゐる兵士等から離れて、帆綱の中へ、鳥のやうに
彼等は
秋の季節だといふのに、なほ續いてゐる熱と日光とは、故郷を遠く離れたといふ感じを彼に與へた。
或る日、彼等はポール・サイドと呼ばるゝ町へ着いた。歐洲各國の旗が長い竿の端から飜へつてゐて、バベルの祭日でも見るやうであつた。そしてぎら/\輝く砂原が海のやうに周圍を取り圍んでゐた。彼等は埠頭場に沿うて、木造の家屋の建ち續いた長い街路の殆ど眞中へ碇舶した。彼は出發以來艦外の世界をこれほど近く、これほど明瞭に、見たことはなかつた。そしてその町の喧騷と、船舶の輻輳とは彼の心を亂した。
號笛や汽笛の不斷の響きを立てて、これ等の船舶は、果てなき砂原の間に、銀線の如く伸びてゐる濠のやうに狹い細長い運河の中へと進んで行つた。彼は彼の檣樓の頂上から、それ等の船が、行列を作つて、平原の中へと消えて行くのを見た。
あらゆる種類の服裝が埠頭の上を行き來してゐた。あらゆる色合の衣服を着けた人々が運搬の大騷ぎのなかで、忙しく、呼び聲を立ててゐた。そして夜は、惡魔のやうな汽鑵の響きが、此處を通り過ぎるあらゆる追放者等の、胸を引き裂く悔恨の情を消さうとでもするやうな騷がしい調子を奏する無數の
その翌日、太陽が登るか登らないうちに、彼等は、あらゆる國々の人の乘つてゐる船舶の一列を從へて、砂原の間の狹い水路へはいつて行つた。この砂漠の間の徐行が二日間續いた。すると彼等の前へ他の海が開けて來た。そして彼等は再び廣々とした處へ浮び出た。
彼等はやはり全速力で航行をつゞけた。この一層暑くなつた海水の表面には、赤色の斑紋があつた。そして船跡に湧き立つ水泡がとき/″\血の色を帶びた。彼は殆どいつも檣樓に棲つて、「ジャン・フランソア、ドゥ、ナント」を小聲で歌つて、親しいヤンや、氷島や、過ぎ去つた樂しい日のことやを思ひ出してゐた。
時とすると、彼は、
彼にはたゞ一つの考へしかなかつた。恐ろしく遠い處へ來てゐるといふ事と、その距離が斷えず増して行くといふことであつた。しかもこの考へは、彼が、高い處から、泡音を立てて、迅速に後方へ後方へと、逃げて行く船跡を眺めやつた時、いかに長い間、この速力が晝夜たゆまず續けられて來たかを考へた時、極めてはつきりしたものになつた。
下では、甲板では、大勢の人々が日除の蔭へ集まつて、喘ぎ喘ぎ呼吸をしてゐた。水も、空氣も、日光も總て陰鬱な、押し潰すやうなきらめきを立ててゐた。そして、これ等の物象の永遠の祝宴は、人間に對する、はかない有機的生存物に對する、反語のやうであつた。
‥‥ある時、彼は檣樓の中で、見知らぬ種類の小鳥の大群を非常に興がつた。それらの小鳥は黒い塵雲の龍卷のやうに、艦上に落ちかゝつて來た。それ等の鳥はもうどうすることも出來ぬやうに、捕へられ、撫でられるまゝになつてゐた。檣兵達の肩の上へも止つた。
しかし、そのうちに、ひどく疲れてゐたのから先づ死にだした。
‥‥これ等の小さなもの共は、紅海の恐ろしい太陽に照らされて、帆桁の上に、舷門の上に、幾千となく死んで落ちた。
彼等は烈風に吹き煽られて、大沙漠の彼方から飛んで來たのであつた。何處にも見らるゝこの果てなき青色の中へ落ち込むのを恐れて、疲勞し切つた最後の飛翔で、通りかゝつたこの船の上へ落ちて來たのであつた。彼方リビアの何處かの遠い奧の方で、彼等の種族は豐かな愛のうちに繁殖したのであつた。そしてその種族は過度に繁殖したので、住み切れぬほどに數を増したので、その時、盲目な、無情な母は、自然の母は、此の過剩な小鳥の群を、或る一時代の人間に對してすると同じ冷淡さで、一吹きの風で、追ひ立てたのであつた。
そして彼等はみな、艦上の熱した鐵器の上で死んでゐた。甲板の上は、昨日まで生命と、歌と、愛とで胸を躍らせてゐたこれらの小鳥の死骸が撒き散らされた‥‥シルストルと他の檣兵等とは濡れ羽をした、黒い、小さなそれらのきれ/″\を集めて、憫れむ樣子で、彼等の手のなかで、そのきやしやな、青みがゝつた翼をひろげて見た。が、やがて海の巨きな空漠たる中へ掃き落してしまつた‥‥
やがて、蝗の群が、モーゼの昔のそれ等の子孫が、襲つて來た。そして船はそれ等で包まれた。
やがて彼等は、折ふし水面とすれ/″\に飛ぶ魚族のほかには、何一つの生物とては見掛けない、不變な碧のなかをなほ數日航行して行つた。
重い暗い空の下、瀧津瀬なす雨――それが印度であつた。
シルストルは、艦上で、小艇の乘組員を充たすために偶然撰ばれたので、その地へ上陸したのであつた。
温かい驟雨は濃い簇葉をとほして彼の上へ注いだ。そして彼は身を取り卷く不思議な物象に眼をやつた。あらゆるものは目ざましきまでの緑であつた。樹々の葉は巨きな鳥の羽のやうになつてゐた。そして往き來してゐる人々は大きな
或る女たちが、彼に跟いて來いといふやうな身振りをした。それがブレストで屡聞き馴れた『ちよいと、貴郎』といふ言葉に似てゐた。併し、この魅惑に充ちた國では、彼等の呼ぶのにも心を掻き亂すものがあつた。そして彼の肉は顫へた。彼等の立派な胸は、それを包む透きとほるモスリンの下で小高く盛り上つてゐた。彼女等は
ためらひながらも、けれど彼女等に引きつけられて、彼は少しづゝ彼女等の方へついて行くやうに、寄つて行つた。
‥‥けれど、丁度その時、小鳥の顫へ聲のやうな節をして、ピユツ、ピユツいふ
彼は急いで引きかへした。さらば、印度の美しい女達よ! 彼がその晩また洋上に浮んだ時、彼はやはり子供のやうにまだ童貞であつた。
更に一週間青い海上を走つた後で、彼等は雨と緑葉とのまた新らしい國へ舶つた。黄ろい小柄な人間の群が、喚きながら、石炭の籠を運んで、瞬く間に船を襲つて來た。
『ぢや、もう支那へ來たのか』と、シルストルは彼等すべてが奇怪な顏と辮髮とをしてゐるのに氣がついて、訊いた。
彼等はまだだと言つた。もう暫く我慢してゐなければならなかつた。其處はまだシンガポールであつた。彼は風が吹き散らす黒い塵に辟易して、高い檣樓へ逃げ歸つた。その間、幾千の小籠の石炭は狂熱的に艙庫の中へ積み込まれた。
つひに或る日彼等はトウラヌといふ處へ着いた。其處には『シルセ』といふ艦が碇舶して港を封鎖してゐた。これが前から彼が乘組むべき艦だと聞かせられてゐたのであつた。そして人々は其處へ手鞄と共に彼を引き渡した。
彼はこの船でも同郷人に逢つた。そして當時砲手をしてゐた二人の
その晩、天候はやはり暑くて平穩でもあつたし、それに別にする事もなかつたので、彼等は他の者から離れて、
彼はこの陰氣な港で、戰爭に參加すべき期待の時まで、無爲な、追放された五ヶ月を送らなければならなかつた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
パンポル――二月の末日――漁夫達が氷島へ發つといふ前日。
ゴオドは自分の室の戸口に倚つて、身動きもせず、青白く立つてゐた。
ヤンは階下へ來て、父親と話してゐた。彼女は彼のはいつて來るのを見掛けた。そしてその聲音をはつきりはしないが、聞き取ることができた。
彼等は、いつも運命が互ひ互ひ引き離しでもするやうに、冬ぢう一度も逢はなかつた。
彼女はポル・エヴァンへ行つて來てから後、
『これぢや、ブルバラネクからだれも來やしまい』と、そつちの方に戀人を持つてゐた若い娘達は悲しさうにいつた。そして實際彼等は來なかつた。來たにしても大急ぎで飮屋へ驅け込んでしまつた。行列も散歩もなかつた。そして彼女はいつもより一層心の引きしめらるる思ひで、宵の間ぢう窓ガラスのなかで、屋根を流れる雨の音や、居酒屋から聞えて來る漁夫達の騷がしい歌聲を聞きながら坐つてゐた。
數日以來、彼女はヤンの訪問を期待してゐた。船を賣つた事件がまだ片づかないので、自分でパンポルへ來るのを好まない父親のガオは、屹度息子を寄來すに違ひないと彼女は思つてゐた。さうすれば彼に逢はう、――若い娘の仕打としてはなみはづれてはゐるが――そして、はつきり心をつきとめるために、彼に話さうと期してゐた。その時には、彼女は彼が自分の心を掻き亂しておいて、名譽など持たない男のするやうに、やがて自分を見棄てたのを責めようと思つた。強情や、亂暴や、海の仕事に對する愛着や、或は拒絶されはしまひかといふ懸念や、‥‥シルストルが指示した總ての障害がそれだけであるならば、彼等二人で心を打ち明けて話したらば、その障害に打ち勝てないこともなからう。さうすれば、彼の柔しい笑顏がまた歸つても來よう。さうすれば、すべてが整ひもしよう、――その笑顏こそは、去年の冬の舞踏會の夜、彼の腕のなかで、ウォルツを踊り明かしたとき、彼女を驚かせもし、魅しもしたものであつた。そしてその希望が彼女に勇氣を與へた。殆ど樂しい待ち遠しさを彼女に充たした。
離れて考へれば何事も、言ふのも、するのも、極く譯もない、單純なことのやうに思はれる。
そしてまさしく、ヤンのこの訪問は選ばれた時になされたのであつた。そして、その時煙草に喫ひ耽つてゐる父親は自分でわざ/\ヤンを送り出すやうなことはたしかにないのを彼女は知つてゐる。さうすれば玄關で二人きりになつて、彼の意中を聞くことができるでもあらう。
けれど、愈その時が來てみると、さういふ仕打は餘り大膽なやうに思はれて來た。彼に逢ふといふ事を考へただけでも、階子段の降口で彼と顏を見合せるといふ事を思つただけでも、彼女の身は顫へた。彼女の心臟は破れるやうに跳つた‥‥そして、今一瞬間、あるひは二瞬間の後には、階下の戸がいつも聞き馴れた微かな軋りを立てて開いて、彼を送り出すであらう!
いや、實際、彼女にはそんな思ひきつたことが出來さうもない。そんな位なら、むしろ空しく待つて、悲しんで死んだ方が好い。で、彼女は部屋の奧の方へ二三歩足をかへして、坐つて手仕事を始めようとした。
が、彼女はまた不意に立ち停つた。ためらつた。當惑した。明日はもう彼が氷島へ立つといふ事を思ひ出したのであつた。これが彼と話をする絶好の機會であつた。この機會を取りはづしたら、また寂しい中に幾月かを待つて送らなければならないであらう。彼の歸るのを待ち焦れながら、彼女の生涯のもう一夏をむだに送つてしまはなければならないであらう‥‥
階下の戸が開いた。ヤンは部屋から出た! 咄嗟に心を決めて彼女は階子段を驅け降りた。そして身を顫はせながら彼の前に立つた。
『ヤンさん、私お話したいことがございますの』
『私にですか、ゴオドさん?‥‥』と、彼は帽子に手を掛けながら、低い聲で言つた。
彼は鋭い眼つきで彼女をぎろりツと見た。頭を反らせ、むつちりした顏つきをして、足を停めたものかどうかと迷つてゐるやうでもあつた。逃げ腰で一歩足を前へ踏み出して、廣い兩肩を壁へつけて、無理に引き止められたこの狹間で、なるべく彼女の傍から離れてゐようとするやうであつた。
冷たく硬ばつて、彼女は言はうと用意してゐた言葉が一つも頭へ浮んで來なかつた。彼女は、まさか彼が自分の言葉に耳もかさずに行つてしまはうとするやうな、そんな侮辱を與へようとは想像もしてゐなかつた‥‥
『あなたは、わたしどもの家をこわがつてゐらつしやるの、ヤンさん』と彼女は、自分でもしようと思はなかつた乾からびた異樣な調子で訊いた。
彼は眼を外らして、外の方を見た。彼の兩頬は眞赤になつた。顏はかつと燃え立つた。そしてそのヒク/\動く鼻の孔は、牡牛のやうな胸の動きにつれて、呼吸するたびにひろがつた。
彼女はなほ言ひつゞけようとした。――
『あの舞踏會の夜、御一緒にゐたとき、何でもない者には言ひさうもない調子で、また逢はうをいつて下すつたではありませんか、ねえヤンさん、覺えてゐらつしやつて、それだのに‥‥何をわたしがしたといふのでせう?』
‥‥通りから流れ込んで來た意地惡い西風が、ヤンの頭髮を靡かし、ゴオドの頭飾の紐を吹いた。そして二人の背後で烈しく戸をがたつかせた。玄關はしんみり話をする好い場所でなかつた。やつとそれだけ言ふと、ゴオドは息が詰つて、そのまゝ默つてゐた。ぐら/\眩暈がするやうで、もう何も考へられなくなつた。彼等は表戸の方へ歩いて行つた。その間でも彼は逃げるやうにしてゐた。
戸外では風が音高く吹き荒んでゐて、空は眞暗であつた。開いた戸口から、鉛色の悲しい光りが彼等の顏の上へ射した。そして筋向うの家では彼等を眺めてゐた。あの二人は何を話し合つてゐるのだらう。あんな惱ましい樣子をして? メルの家では何事が起つたのだらう?
『いや、ゴオドさん』とやがて彼が、鹿のやうにやす/\と切り拔けてかう言つた。
『二人のことを、近所でかれこれ言つてゐることも、聞いてはゐます。けれどゴオドさん‥‥あなたは金持です。私たちは身分が違ひます。お宅へあがるのでさへ私の柄ぢやないのですよ、私は‥‥』
そして彼は行つてしまつた。
これで總てが終つてしまつた。永久に終つてしまつた。そして、彼女は言はうと思つてゐたことも言へずにしまつた。この會見では彼の眼には[#「眼には」は底本では「眼はに」]彼女をたゞ厚かましいものとして映じたに過ぎなかつた。‥‥ヤンは一體どういふ男なのか。女をさげすみ、金をさげすみ、あらゆるものをさげすむといふのは!‥‥
初めの間彼女は其處にぢつと立ち竦んでゐた。頭はぐら/\して、身のまはりの物が搖れ泳ぐやうであつた‥‥
やがて、一つの考へが、何よりも堪へがたい考へが、電光のやうに彼女の胸を掠めた。ヤンの仲間達が、
家の前には、確かにその人々の一群のゐるのが見られた。けれど、彼等はたゞ次第々々に暗くなつて來る空を見上げて、今にも降つて來さうな大粒の雨の豫想をしながら、こんなことを言つてゐた、――
『なあに、たかがはやてくらゐのものさ。さあ、はいつて飮まうよ、やむまで飮んでゐようよ』
やがて彼等はヂャンニイ・カロフや、いろ/\な女達のことを大聲で笑ひ巫山戲た。けれど何人も彼女の窓の方へ眼を向けるものはなかつた。
彼等はみな賑やかに陽氣さうにしてゐたが、彼一人は返事もせず、笑顏も見せないで、眞面目に氣鬱さうにしてゐた。彼は他の連中と一緒に飮みにはいらうともしなかつた。そして彼等には見向きもせず、既に降りだした雨をも氣にとめないで、ぢつと考へ込むやうにして、その驟雨のなかをゆつくり歩いて、ブルバラネクの方へ、廣場を横ぎつて行つた。
それを見ると、彼女は彼に總てを許してやつた。そして遣瀬ないしみ/″\した感じが、先刻の彼女の心に湧いた烈しい腹立たしさの場處を占めた。
彼女は兩手に顏を埋めて坐つてゐた。さて、どうすべきであらうか?
あゝ、若し彼がほんの一瞬間自分の言ふことに耳をかしてくれたら! いや、それよりも、若し彼が此處へ來て靜かに話の出來るこの部屋で、二人きりでゐられたならば、今でもまだ了解がつけられように。
彼女は面のあたり、彼にさうと打つけて言ひ得るほどに彼を愛してゐた。彼女はかうも言ふであらう、――
「あなたは、私が何もあなたに求めてゐなかつた時に、私に求めなさつた。今はもう、あなたがお望みなら、私はあなたのものです、魂までもあなたのものです。ね、わたしは漁師の妻になることだつて關ひはしません。そりや、夫にしようと思へば、わたしはパンポルの若い人達のなかから選びもします。けれどわたしはあなたを愛してゐます、何はあらうと、わたしはあなたが他の男の人達より優れてゐると信じてゐますから。わたしは少しはお金も持つてゐます。自分の美しいといふことも知つてゐます。わたしは町に住んでゐましたが、決して間違つたことなんかした事のない、立派な娘です。これ程わたしはあなたを思つてゐるのに、何故あなたはわたしをあなたのものにしないのですか?」
しかし、かうした言葉もたゞ想像にとゞまるだけで、決して口にはされないであらう。もう遲過ぎた。ヤンは聽かうとは思はない。もう一度彼に話さうとする――いや、それこそ、――そんなことをしようならば、何といふ女だと、あの人は思ふ事だらう。寧ろ死んだ方がましだ!
そして翌日、彼等はみな氷島へ立つて行つた。
白々した二月の日が射し込む美しい室のなかで、彼女はたゞ獨り、壁際へ並べた椅子の一つへ何といふこともなく腰を掛けて、冷々と寒さを感じてゐると、この世界が、現在も未來ものすべてと共に、もの凄い、恐ろしい空虚の底へ崩れ込んでゆくやうに思はれた。そしてその空虚はもはや彼女の周圍の到る處にあつた。
彼女は、この上の苦しみから逃れるために、いつそ生命も盡きて、墓石の下で安らかに眠りたいと思つた。‥‥けれど、彼女は心から彼を宥してゐた。そしてかうした彼に對する絶望的な戀のなかにも、彼を憎む心はすこしもまじつてゐなかつた‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
海、灰色の海。
夏毎に氷島へ漁夫等を導く、路なき公道の上をヤンは、もう滿一日緩やかに滑つて行つた。
前の日、彼等が昔ながらの讚美歌を歌ひながら、出掛けた時は、南風が吹いてゐた。そして總ての船は帆をいつぱいに張りひろげて、海鴎のやうに散らばつた。
やがてその風がやはらいで來た、そして船足が緩くなつた。霧の堤が水とすれ/″\に動きまはつた。
ヤンは常よりも一層深く默つてゐるやうであつた。彼は穩かな天候を不平がつた。そして、何か苦しみを心から追ひやるために身を激しく動かす必要でもあるふうであつた。けれど、たゞ靜寂な事象のなかを靜寂に動いてゆくより他にする事はなかつた。呼吸をして生きてゆくといふより他に何もすることがなかつた。周圍を見まはしたところで、深い灰色の他には何も眼にはいらなかつた。耳を澄ましたところで、沈默のほかに何も聽えなかつた‥‥
と、不意に、ほとんど聽き取れないくらゐな、しかし異常な鈍い響きが船の下で起つた。それは、丁度馬車のなかで、車輪に當てた齒止の音を聞くやうに、一種軋むやうな感覺を與へた。そして、「マリイ」は突然進行を停めて、動かなくなつた‥‥
坐礁! 何處へ、そして何の上へ? 英國海岸の或る暗洲かも知れない。彼等は、濃霧の
人々は彼方此方と驅けつて、騷ぎ立てた。彼等の激昂した騷ぎは、この船の俄かにぢつと靜まつたのと好い對照であつた。「マリイ」は其處に停つたきりで、小搖ぎさへ立てなかつた。この茫漠たる海原の中で、しかもこの霧深い天候では何時變動が來るとも知れないなかで、彼女は水の中に隱された或る不思議な執拗な抵抗の手に捕へられたのであつた。彼女はしつかり捕へられて、其處で滅亡に瀕してゐるかもしれなかつた。
黐に脚を捕へられた哀れな小鳥や、蠅を何人が見なかつたであらう。
はじめのうちは、はつきりそれと氣がつかずにゐる。それは樣子をも變へない、やがて、それが下で捕へられてゐて、もう脱れることの出來ない危險にゐることを覺らなければならない。
やがて、それがき初める時は、粘り強い物質がその翼を、その頭をぬり汚す時である。そして次第々々に、それは將に死なうとしてゐる苦しい動物の痛ましい姿を呈すやうになるのである。
「マリイ」も全くこれと同じ場合であつた。初めは大したことでもないやうに思はれた。船體はなるほど少し傾いてはゐたけれど、しやんとしてゐた。けれど早朝のことでもあつたし、天候も美しく凪いでゐた。彼等はその重大であることを知り、氣がついて、始めて不安になりだした。
船長は、航路に十分氣をくばつてゐなかつたために、こんな過失をしでかしたので、哀れであつた。彼は手を空へ振りながら、絶望的な調子で、『しまつた、しまつた』と、言つてゐた。
霧の霽れ間に、前には認めなかつた岬が、彼等のすぐ近くに現はれた。霧がまた見る/\降りて來たので、もうまたそれは見えなくなつた。
そのうへ、一つの帆影も、一隻の汽船の煙も視線の内にはなかつた。――そして暫しの間は彼等は寧ろその方を悦んでゐた。彼等は英國海難救濟者等をひどく怖れてゐた、それ等が來て人を救ふには、彼等獨特の方法をとるのであつた。そしてそれに對しては、海賊にでもするやうに、身を防ぐ必要があつた。
彼等は全くあわてだして、積荷を置き變へたり、ひつくりかへしたりした。チュルクといふ船の飼犬は海の動亂は少しも恐れなかつたが、この事だけはひどく身に感じたやうであつた。船底から聞えて來る響き、波が高くうねつたと思ふと、づしんと衝きあたる物音、そして、ぱつたりと靜まりかへつたこと――すべてこれらが異常なことだと、よく彼には解せられた。で、彼は、尾を垂れて、隅の方へ身を隱した。
暫くして彼等は錨を投ずるために短艇を卸し、曵綱へ彼等の全力をそゝいで、船を引きおろさうとした。――この勞働が十時間引きつゞいた――そして夜になつた時は、朝のうちはいかにもさつぱりと見好げであつたその哀れな船は、もう見窄らしく、じく濡れになつて、穢れて、すべて取り亂されてゐた。それはさま/″\に搖られ、藻掻いた。けれど、廢船のやうに固着せられて、やはりその場處を離れることが出來なかつた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
夜は彼等の上に迫つて來た。風は吹き起つて、波は次第に高くなつて來た。憫めな光景を呈した時、不意に六時頃になつて、船は浮き上つて、そして繋ぎとめてゐた大綱を振り切つて動き出した。‥‥そして人々は船の端から端へと喚き立てながら、狂氣のやうに驅けつた、――
『浮いたぞ!』
彼等はまつたく浮び上つた。けれど、どうしたらば彼等の「浮び上つた」この歡びが言ひ現はされよう。たつた今まで難破とばかり思はれたものが、再び輕快な、生々したものとなつて動き出すのを感ずる彼等の悦びは、如何にして言ひ現はされようか!‥‥
それと同時にヤンの憂鬱も飛び去つた。その船のやうに輕くなり、彼の腕の健康は疲れを癒やされて、彼はまたいつもの無頓着な風に歸つて、すべての思ひ出を振り棄ててしまつた。
翌朝彼等が錨を揚げ終つた時、彼はまた彼の寒い氷島への路を續けて行つた。彼の心は、その少年の時のやうに、自由な樣子であつた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
彼方、地球の他端なる、アロンに碇舶してゐた「シルセ」艦上では、佛蘭西からの郵便物を分配してゐた。
『モアン・シルストル!』
彼のところへも一通屆いてゐた。それにはパンポルの消印がはつきり捺してあつた。――しかしそれはゴオドの手蹟ではなかつた。何の便りであらうか、何人から來たのであらうか。
幾度も/\引つくりかへして見てから、彼はびく/\しながらそれを披いた。
一千八百八十四年、三月五日、ブルバラネクにて
懷かしい孫よ、――
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥やはり、それは年取つた祖母からのであつた。で、彼はほつと息をついた。手紙の終りには、彼女が諳記してゐる「寡婦モアン」といふ字が、不恰好に署名されてあつた。學校の子供でも書くやうに震へてゐた。
寡婦モアン! 彼は思はずその手紙を脣へ持つて行つた。そして神聖な護符ででもあるやうに、その哀れな名の上へ接吻した。この手紙は、彼の生涯の危期に際して來たのであつた。明日の朝夜明には、彼は戰列に加はることになつてゐた。
四月半ばであつた。バク・ニインとホン・ホアは占領せられたばかりであつた。トンキン附近にはまだ重大な交戰はなかつた。それに、援兵は到着はしたが、十分ではなかつた。それ故、既に上陸してゐる陸戰隊に、補充し得る限りの人員をこの艦の水夫等から選ぶことになつた。そして長い間巡洋艦に乘つたり、封鎖に加はつたりして疲れきつてゐたシルストルは、他の者等と一緒に、その一隊に編入されることになつてゐた。
その時、平和になりさうな話もあることはあつた。けれど、それでも何となく彼等は早晩上陸して、小競合ひぐらゐはしなければなるまいとは思つてゐた。彼等は背嚢を詰めたり、準備を整へたり、そして別れの言葉をかはしたりして、後に殘される水兵達の間を、勇み立ち、誇りを感じながら、それ等と一緒に歩いて夕方を送つてゐた。彼等は思ひ思ひに、訣れの心持を見せてゐた、――或る者は眞面目で、そして考へ込むやうにしてゐるし、また他の者は言葉に溢れるばかりの元氣を見せてゐた。
シルストルは默り込んで、出發の待ち遠しさをぢつと耐へてゐた。人に顏を見られる時ばかりは、微かな、緊張したやうな微笑を浮べて、かう言つてゐるやうであつた、――
『さうだ。俺はほんとに行くのだ。明日の朝行くのだ』
けれど、彼は戰爭については、砲火については、漠とした考へしか持つてゐなかつた。でも、それは彼を魅した。彼は勇敢な種族の生れであつた。
見馴れぬ手蹟だので、ゴオドのことが氣に懸つて、彼はその手紙をよく讀むやうに船燈の傍へ寄つて行つた。かうした半裸體の群れ合つてゐる水兵達のなかで、砲塔の息詰まるやうな熱氣の中で讀むのは、なか/\骨が折れた‥‥
手紙の始めには、豫期した通り、祖母のイヴォンヌが、餘儀なくその手紙を不馴れな隣りの年寄りに書いて貰はなければならなかつたことわりがしてあつた、――
『一筆申入れ候。さて、お前の從姉こと今度大變なる心配事できたる爲この手紙の代筆も頼みがたきことに相成り候。あれの父親こと一昨日突然死去致され候、その上財産も舊冬中巴里にて始めたる事業失敗のため、殆ど無一物と相成り居るやうの有樣に候。そのため家財道具とも賣り拂ふことに相成り居り候。界隈にても皆々思ひがけなき事に存じ候。お前も、私同樣、嘸かしこれにて心痛められ候事と存候。
ガオよりも呉々もよろしくと申し候。あれもまた/\ゲュエルムル船長と契約いたし、やはり「マリイ」に乘組み、今年も早々氷島へ出立致し候。出立の日は今月の朔日にて、氣の毒なゴオドの不幸はそれより二日後のことに候へば、皆々何も知らずに居ることと存候。
今となりては何とも致方なきこととお考へなされたく、あれ等二人の婚禮はもはや叶ひ難きことに候。あの娘もこの後は暮しのために働かねばならぬことと相成り候‥‥』
彼は打ちのめされたやうになつた。この凶報は、戰爭に行くといふ總ての彼の悦びを消してしまつた。
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‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
空中を彈丸がシュウツ、シュウツと飛ぶ! シルストルはぴたつと停つて、耳を立てる‥‥
柔らかな、天鵞絨のやうな青い春の曠野の上である。空は灰色で兩肩を壓する。
六人の武裝した水兵等は、其處の青々とした稻田の中に、泥の小徑に、偵察に出てゐる。
また!‥‥同じ響きが、靜かな空中で!――ズウンといふ長く引いた、鋭い、唸るやうな音、或る堅い、殘忍な小さな物體が非常の速度で一直線に飛んでゐて、それに打つかつたら最後だといふ感じを起させる。
生れて初めてシルストルはこんなたぐひの音樂を耳にしたのであつた。飛んで來る彈丸は、此方で撃つのとは全く異つた音を立てる。遠くから來る彈丸は、勢を削がれて、もうなんの音も聞えない。耳を掠めて、急速にひゆうと飛ぶ時には、金屬性の微かな唸りが一層はつきり聽き分けられる。
‥‥とまた、續いてヅウン、ヅウン! 彈丸は今や雨のやうに降り濺ぐ。ぴたつと止つてゐる水兵達のすぐ傍の、稻田の水のついた地面へ、それ等の彈丸は落下し、その一つ一つは霰の素早いぶす/\いふ音を立てて、輕く水を撥ね飛ばした。
彼等はうまく演じた茶番か何かのやうに、互ひに顏を見せて笑ひながら、言つた。――『支那人め!』。(安南人でも、トンキン人でも、黒旗兵でも――總て、水兵達の眼には同じ支那人として映つてゐた。)
卑しみと、舊くからの馬鹿にするやうな憎しみと、喰つて掛るやうな勢ひとを現はすのに、『支那人め!』と彼等を呼ぶ習慣になつてゐた。
彈丸が二つ三つまた一層地を掠つて、シュツ、シュツと通つた。それ等は草のなかの蝗のやうにはねとんだ。鉛の雨は一しきり續いたが、やがてぱつたり歇んでしまつた。廣い、緑の野原の上にはまた全くの沈默が返つて、動くものは何處にも見られない。
彼等はやはり六人そつくりで見張りに立つてゐた、聽き耳を立て、香ひをぎながら、それが何處から來たかを衝き止めようとしてゐる。
それは確かに向うの竹藪からである。その藪は、この野原の中で羽毛の小島かなにかのやうになつてゐて、その背後には角ばつた二三の屋根が半ば見え隱れてゐた。その時彼等は其の方へ、水深い泥田の上を、足を突き込んだり、滑つたりして走つて行く。シルストルはなみはづれて長い、輕捷な脚で、先頭に立つて突進する。
最早やシュツ、シュツといふ物音は少しもしない。彼等は今まで夢でも見てゐたのだらうか‥
そして、世界ぢうの何處の國々にでも見るやうな、いつも變らない同じな事象が見らるる――雲深い空の灰色や、春の牧場の爽かな色や――殆ど佛蘭西の野原でも見てゐるやうで、死の競技とは似てもつかない遊戲をして、若者等が其處を快活に驅けつてでもゐるやうである。
しかし、彼等が近づくにつれて、それ等の竹藪は異國的な、纖細な簇葉を一層はつきりと現はし、村落の屋根の異樣な曲線が際立つて來る。そして、黄色の人間共が、背後の方に身を濳めてゐたが、彼等を見るために、その憎さげな、恐ろしげにひきつツたひらたい顏を此方へ向けて來る。‥‥と思ふと、不意にそれ等の者は叫び聲を擧げて飛び出して、うね/\した、しかもきつぱりした危險な列をつくつて展開した。
『支那人め!』と、水兵達は同じ大膽な微笑を浮べながらまた言ふ。
しかし、今度は彼等は、それ等が多くゐるのに氣がつく。餘り多くゐるのに氣がつく。そして彼等の一人が、ぐるりと見すと、背後から、叢から簇々出て來るのを見とめる‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
若いシルストルはその日、その時は實際美しかつた。彼の老祖母が彼のこの武者振りを見たらばさぞ自慢した事でもあらう!
彼はこの四五日ですつかり樣子が變つてゐた、――青銅色になつて、聲まで變つてゐた。彼は本領を發揮してゐたやうであつた。
水兵達は、身を掠めて飛ぶ彈丸に、どうしてよいか態度を定めかねて、見る見る退却しようとしたが、さうしたとて鏖殺に逢ふよりほかはなからう。そのなかでシルストルは獨り突進をつづけた、彼は銃身を握つて多くの敵と渡り合つて、力まかせに銃床で敵を左右に毆り倒した。と、有難いことに、局面が一變して來た。狼狽、狂氣、といつたやうな、かうした小さな指揮者もない爭鬪の場合に、あらゆるものを肓目的にきめる不思議な或る物が、支那人の側を掠めて過ぎた。退却をはじめたのは彼等であつた。
‥‥もう終つてしまつた。彼等は逃げ出した。すると、六人の水兵は彈丸を籠め直して、つるべ打ちに、思ふまゝに彼等を倒した。草のなかには、眞赤な血の溜りや、きれ/″\の屍骸や、水田のなかへ腦髓を飛び出させた頭蓋などが横たはつた。
彼等はみな豹のやうに身を沈め、地を掠めるやうにして、かゞまつて逃げて行つた。そしてシルストルはそれを追ひ掛けた。二囘の負傷を、一つは腿に槍傷を、一つは腕に深い切疵を受けたけれど、彼は戰鬪に醉ふことのほかには、勇敢な血から湧き出て、單純な人に華かな勇氣を與へ、そして古代の英雄を造り出した一種解き難い酣醉のほかには、何の感じもしなかつた。
彼が追ひ掛けてゐた一人が、突きつめた恐ろしさのあまりに、咄嗟に振り向いて彼に銃を向けた。で、シルストルは微笑しながら、嘲るやうな、莊重な態度で、この銃を發射させるやうに立ち停つた。そして豫め彈丸の來る方向を測つて、左方へ少し飛び退いた。けれど、引金を引く途端に、偶然敵の銃身はその同じ方向に外れた。その時彼は胸部に震蕩を感じた。そしてその意味が十分解つたので、まだ何の苦痛も感じないうちに、咄嗟の考へから、彼は自分の背後に來た他の水兵等の方へ振り向いた。そして彼は老勇士のやうに『もう駄目だ』といふ健氣な言葉を出さうとした。
けれど疾走して來た後なので、胸一ぱい口から肺へ空氣を吸ひ込まうとすると、彼は、右胸部の傷口から、破れた
彼はぐら/\する頭で、二三囘ぐる/\まはつて、息をつかうとしたが、眞赤な液體が込み上げて來て、咽喉を塞いだ。――と思ふと、彼は泥の中へどさつと倒れた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
それから二週間ほど後、空はもう雨の近寄りで一層暗くなり、熱氣が黄色のトンキァンの町に一層重くなつてゐた時、ハノイまで送還されてゐたシルストルは、またアロンの港まで送られた。そして佛蘭西へ歸航する病院船へ乘せられた。
彼は長い間、いろ/\な擔架の上で運ばれたり、負傷者運搬車のなかで閉ぢ籠められたりした。人々は出來うる限りの手當をした。けれどこれ等の不便な事情の中で、彼の胸は負傷した方に一ぱい水氣が充ちて、癒着しない傷口からは、空氣がどく/\いふ音を立ててやはりはいつて來た。
彼は勳章を貰つた。そしてそれは彼に一瞬間の悦びを與へた。
けれど、彼はもう以前のやうな、歩調のしつかりした、明晰な、響く聲を持つた戰士ではなかつた。實際、それらは長い間の苦痛と衰弱させる熱のために失はれてしまつた。彼は再び幼い小兒のやうになつて、故郷を慕つた。彼はもはや殆ど話さなかつた、微かな弱々しい聲で、辛うじて答へてゐた。かうも病氣を感じ、そしてかうも遠く、遙か遠く來てゐて、その生れ故郷へ歸りつくには、まだ長く長くかゝるかと思ふと――刻々に衰弱してゆく體力で、その時まで生きられるであらうか?
故郷からは恐ろしいほど遠い處にゐるといふ考へが、斷えず彼の心を重くし、眼醍めには彼を押さへつけた。――うと/\と數時間眠つた後で、傷口の恐ろしい痛みや、燃えるやうな熱や、懷れた胸の中で微かなぜい/\いふ音などを意識しだした時はさうであつた。で、彼はどんな危險を冐しても船へ乘せて貰ふやうに頼んだ。
彼は、搖床のまゝで運ぶには、非常に重かつた。それ故、彼を車で持ち運ぶのに人々は心ならずも彼を酷く搖すつた。
出帆するばかりになつてゐるこの運送船では、人々は病院ふうに並列した小さな鐵製の臥床の一つへ彼を置いた。そして彼は再び海を渡る彼の長い歸航の途についた。けれど今度は、檣の絶頂で、活々した風にあたつて、小鳥のやうな生活をするのではなく、下の重苦しい空氣のなかで、藥品や、傷口や、その他の疾病やの臭ひの中にゐた。
最初の四五日は、歸途に在るといふ悦びが幾分彼を快くさせた。彼は寢床の上で、枕に身を支へて坐つてゐられた。そして時々は自分の手箱を取り寄せて貰つた。彼の水夫用の手箱はパンポルで買つた白い木箱で、大切な品を入れてあつた。その中には、祖母のイヴォンヌや、ヤンや、ゴオドなどから來た手紙や、彼が海の唄を書きとめた手帳や、何といふこともなく分捕した漢文の孔子の書物などがはいつてゐた、この書物の餘白へ彼は簡單な戰爭の日記をつけて置いた。
しかし、傷ははか/″\しくいかなかつた。そして最初の週間から醫者達はもはや死は免れないことと思つてゐた。
‥‥今や赤道間近になつて、嵐の堪へがたい暑さのなかにゐた。運送船は、臥床や、病人や、負傷者等を搖り立てながら進んだ。貿易風の交替期に於ける如く荒れ立ち、逆まく海の上をやはり迅速に走つて行つた。
アロンを發つてから死亡者は一人ならずあつた。そしてその屍骸は佛蘭西航路の深い水中に葬られた。小さな臥床の幾つかは、既にその哀れな主を失つてゐた。
さういふ特殊の日には、この浮動する病院内は陰慘であつた。高波のために、舷窓の鐵の扉は餘儀なく閉された。そしてそれが病者等の息づまるやうな室を一層恐ろしいものにした。
彼の容體は次第に惡くなつた。最後が近づきつゝあつた。彼は、負傷した方の胸をいつも下にして臥て、殘つてゐた有りたけの力を籠めて、兩手で、其處をぢつと押さへて、右肺の中の水、そのどろ/\になつた液體が動かないやうにして、片々の肺だけで呼吸しようとしてゐた。けれどその片方の肺も次第に感染を受けて來た。そして最後の苦痛が始まりかゝつた。
故郷のさま/″\な幻が彼の末期の頭腦に去來した。暑い闇の中で、懷かしい顏や、恐ろしい顏が、彼の上へ押つかぶさつて來た。彼は斷えず幻覺状態に陷つてゐた。その中でブルターニュや氷島やの幻が浮びでた。
或る朝、彼は一人の僧侶を呼んで貰つた。それは水兵達の臨終を見馴れたその老僧であつたが、いかにも男らしい姿の下にかくれた彼の小兒のやうな純な心を見つけて、驚かされた。
彼は空氣を欲しがつた。少しの空氣を欲しがつた。けれど、それは何處にもなかつた。送風器さへもはやそれを與へなかつた。看護人は斷えず支那風の花を描いた團扇で彼を煽いでゐたが、たゞ彼の頭の上で死んだ空氣を、既に何百囘となく呼吸された、肺はもうそれを要しない、味のない不健康な湯氣を攪き立てるにすぎなかつた。
時とすると彼は、死の近よりをまざ/\感ずるその臥床を拔け出して、生き更へるために上部の空濶な場處へ出ようとする絶望的な狂氣に捉へられた。‥‥あゝ!、他の者等は索具の間を驅けつたり、
彼を悦ばせるために、人々は、海がまだ十分凪いでゐないので危險ではあつたけれど、舷窓を開けてやつた。それは夕方の六時頃であつた。鐵の扉が揚げられると、そこから光線だけが、眩しい眞赤な光線だけが流れ込んだ。落日は、暗い空の中の一筋の裂目を透して非常に華かな姿を水平線上に見せてゐた。その目くるめく光りは捲き返す波の上を渡り、搖らめく炬火のやうに、動搖するこの病院を照らし出した。
大氣といつては、すこしも動きがなかつた。外氣とても極めて稀薄で、室内まで流れ込んで來て熱の香を追ひ出すだけの力はなかつた。この無邊際の赤道海の上には何處にも、暑い濕氣と、息詰まる重苦しさとのほかには何ものもなかつた。息切れしてゐる瀕死の人にとつてさへ空氣は全く何處にも無かつた。
‥‥最後の幻はひどく彼を惱ました。彼の老祖母は、心も裂けるやうな心配の顏つきをして、大急ぎで路を歩いてゐた。雨は彼女の上に降つてゐた。低い、もの悲しげな雲は空を蔽つてゐた。彼女は、彼の死の報知を受けに、海事部へ呼び出されて、パンポルへ行くところであつた。
彼はその時、身もだえをしだした。呼吸をはずませた。人々は、彼が死の苦痛で身もだえして、肺からどく/\と吐き出した水と血とを口の隅から拭ひ取つた。ぎら/\する太陽はその時まだ彼を照らしてゐた。それが沈み行く時、全世界は火事とでもいひたげに、あらゆる雲は血を漲らせ、開かれた舷窓からは一條の幅廣い赤い火の帶が射し込んで、シルストルの臥床の上に終りを告げ、彼を繞つて圓光をつくつた。
‥‥この時、この太陽は、彼方、ブルターニュでもやはり見られた。其處では正午の鐘がまさに鳴らうとしてゐた。それは全く同一の太陽であつた。そして、その果てしない運行の全く同一の瞬間に於いて、しかし、其處では、それが全く異つた色を帶んで、青色がゝつた空に一層高く懸つてゐた。それは柔らかな白い光りで、祖母のイヴォンヌが戸口に坐つて縫物をしてゐる上を照らしてゐた。
氷島では、朝であつた。太陽は死のこの瞬間に於いてやはり姿を見せてゐた。けれど、いかにも青白く、宛も、一種の強い斜光線によつてのみ初めて見られ得るがやうであつた。それは、「マリイ」の漂つてゐる峽江のなかへ悲しい光りを濺いでゐた。そして、空は此の時澄み透つた極北の色を見せて、もはや大氣のない、氷結した天體を思はせるもののやうであつた。冷たくはつきりと、その太陽は岩石の渾沌たるこの氷島のあらゆる微細な部分まで際立たせた。「マリイ」から眺めると、この島全體は同じ一圖案の上に据ゑられて、其處に屹立してゐるやうに思はれた。ヤンは其處で、彼もまた不思議なもののやうに照らし出されて、この月光のやうな光景のたゞ中で、いつものやうに漁をしてゐた。
‥‥船の舷窓から射し込む赤い火の流れが消え失せた瞬間、赤道直下の太陽が、
‥‥かくて私はシルストルの埋葬のことを、書かずにはゐられない、これは私自身が監督して、シンガポールの島で執り行つたのであつた。他の者共は航海の最初のうちは大抵支那海へ葬られたのであつた。が、今度は馬來の陸地が近くにあるので、其處へ葬るために、彼はなほ五六時間保存されることになつた。
太陽が恐ろしいので、埋葬は早朝に行はれた。彼の屍骸は、それを載せて運んで行つた小艇の中で、佛蘭西の國旗で蔽はれた。私達が海岸へ着いた時、この大きな異邦の都市はまだ眠つてゐた。領事からされた小さな四輪馬車が埠頭で待つてゐた。私達はその内へシルストルと、船で彼のために造つて置いた木製の十字架とを乘せた。この十字架は俄か造りにしたので、まだペンキも乾かず、[#「乾かず、」は底本では「乾かず。」]白く書いた彼の名が黒い塗り地へ滲み流れてゐた。
私達は太陽の昇る頃、この喧噪街を横ぎつた。そして、不潔な支那人の雜沓街に接して、物靜かな佛蘭西の會堂のあるのには少からず心を打たれた。私が部下の水兵達とだけで立つてゐた眞白な高い禮拜堂の下では、布教の一傳道師の歌ふ Dies Irae が樂しい、不思議な咒文のやうに響いてゐた。開いてゐる扉口を透して外の光景は、魅惑の園のやうに思はれた。目ざましい緑や、巨大な棕櫚の樹や、そして風は花をつけた大樹を搖り動かして、臙脂色の花瓣が驟雨のやうに地に落ちて、會堂の内までも舞ひ込んだ。
やがて私達は、遠く隔たつた墓地まで歩いて行つた。水兵達の僅かな列はいかにも靜肅であつた。そして柩はやはり佛蘭西國旗で蔽はれてゐた。私達は黄ろい人間どもの群がつてゐる支那街を通つて行かなければならなかつた。やがて馬來人や印度人等の郊外の居住地へ出た。其處ではあらゆる種類の亞細亞人種の顏が、通つてゆく私達を驚いて眺めてゐた。
やがて、もう暑くなつた田舍へ出て、影濃き路を歩いて行つた。其處では青い天鵞絨のやうな翼をした目ざましい蝶々が飛び交はしてゐた。多くの花や棕櫚樹などが豐滿に成育してゐて、赤道帶の樹液のあらゆる華かさを見せてゐた。遂に私達は墓地に着いた。其處にはさま/″\な色どりをした碑銘や、龍や、怪物などを彫つた安南官吏の墓石と、眼を驚かすやうな簇葉と、見知らぬ植物とがあつた。私達が彼を埋めたのは、インドラの園の片隅のやうな場所であつた。
彼の墓の上へは、一夜造りの急製の小さな木製の十字架を建てた。――
シルストル・モアン。
行年十九歳
やがて私達は、不思議な樹木や、華かに咲き亂れた花の下にゐる彼を顧みながら、刻々に高くなつて來る太陽を恐れて、歸りを急がれて、其處へ彼を殘して來た。運送船は、印度洋を横ぎつて航行をつゞけた。下なる浮動病室には、まだ傷病者等がゐた。甲板では、呑氣と、健康と、若々しさとのほかには何も見られなかつた。海上は、四方を繞つて澄み切つた空氣と日光との眞の祝宴であつた。
貿易風のために快晴の續く間は、水兵達は帆蔭でなが/\と身を伸ばしたり、鸚鵡を追ひ驅けまはして戲れてゐた。(彼等が通つて來たシンガポールでは、往き來の水兵達に、飼ひ馴らしたさまざまな動物を賣つてゐた。)
彼等はめい/\自分の選んだ鸚鵡の雛を持つてゐた。それらは鳥らしい顏つきをしてゐたが、いかにも幼なげな樣子をしてゐて、尾はまだ生えそろつてはゐないが、もう緑色をしてゐた。それが、まあ! 何といふ素晴らしい緑色であらう! 親鳥がいづれもみな緑色であつた。それ故、いかに小さくとも、それ等は自づと、その色を遺傳したのであつた。その船の綺麗な甲板の上では、それらはちやうど熱帶植物から落ちたばかりの鮮かな木の葉のやうに見えた。
水兵達はとき/″\それ等の鸚鵡を持ち寄つた。するとそれ等は滑稽な樣子をして互ひに眺めやつたり、頸を八方へして、彼方から、此方からとお互ひに査べ合ひでもするやうであつた。また翼ををかしな風にバタ/\させながら、跛でもひくやうに歩きつたり、さうかと思ふと、不意に忙しげに、あたふたと何處ともなしに驅け出したり、中には轉がつたりするものもあつた。
その他に、くる/\ることを覺え込んだ尾長猿がまた彼等の慰み相手であつた。なかにはひどく可愛がられ、あまやかされてゐるのがあつた。それ等は自分の主人の巖丈な懷へ身をまるくして、奇怪な、またいぢらしいやうな、女のやうな眼をして、主人の顏をしげ/\眺めてゐた。
三時が打つた時、給養係が、赤い蝋で大きな封印をした、シルストルと記名した麻袋を二つ甲板へ運んで來た。これは持主が死亡した場合の規則で、競賣にされるのであつた。――彼の衣類や、彼の生前の持物が殘らずはいつてゐた。水兵達は呑氣さうにその周圍へ集まつた。病院船では、かうした袋の競賣がとき/″\行はれるので、別に感動は與へなかつた。それに、この船では、シルストルは餘り多く知られてゐなかつた。
彼の上衣や、白襯衣や、青條のはいつた肉襯衣などが、まさぐられ、あちこちひつくりかへされ、買手等が面白半分に高値をつけて、いくらかで賣り拂はれた。
やがて彼にとつて大切な小箱が持ち出された、それに五十スウの値がつけられた。家族へ引き渡すために、手紙や勳章やは、前にその箱からとりのけられてあつた。それでもまだ歌の本や、孔子の書物や、絲や、釦や、縫針や、その他祖母のイヴォンヌの心盡しで、縫ひ繕ひをするために入れて置いた細々したものが一切はいつてゐた。
と、その時、競賣品を陳列してゐた給養係は、シルストルが或る塔の中から分捕つて來て、ゴオドに送るつもりでゐた小さな佛像を二つさし上げた。それ等の像はいかにも奇妙な樣子をしてゐたので、その最後の運命としてそこへ立ち現はれた時は、皆はどつと笑ひ出した。けれど、それは水兵達が無情なからではなかつた、たゞ無考へからであつた。
最後に二つの袋が賣られた。すると、その買手はすぐそれに書いてあつた名札を消して、その後へ自分の名を入れた。
それがすむと、きれいな甲板は丁寧に掃除せられて、荷を解く時に落ちた塵埃や麻絲の屑やをすつかり拂ひ捨てた。
そして、水兵達はまた快活に鸚鵡と猿をからかひに行つた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
六月上旬の或る日イヴォンヌが家へ歸つて來ると、隣の人達が、海軍名簿管理者のところから人が來て、彼女をたづねてゐたと話した。
何か孫の身上に關はつたことには違ひない。けれどそれは少しも彼女を驚かしはしなかつた。船乘りの家では、とき/″\「名簿係」に用事があつた。そして、彼女は船乘りの娘として、妻として、母として、そして祖母として、やがて六十年このかた、この係りとは親しんでゐた。
大方、シルストルの辭令のことか、でなければ、いつも彼の代理として受け取る「シルセ」艦からの僅かの差引支拂のことでもあらう。
それにしても、係りの役人には禮をつくさなければならぬので、彼女は頭髮をなほし、晴着を着て、白い
小刻みな急ぎ足で、斷崖にのぞんだ小徑を、彼女はパンポルの方へ歩いて行つたが、この二ヶ月間、孫の所から一通の手紙も來なかつた事を思ひ合はせてみると、多少心配にもなつて來た。
彼女は、戸口に坐つてゐる昔の戀人の前を通つた。彼はこの冬の寒さからめつきり弱り込んでゐた。
『えゝ? いつでも御勝手の時にさ。だが、やきもきするにあ當たらないぜ、いゝかい‥‥』
(やはり彼はいつもの思ひこんでゐる厚板のことを言ひだした。)
晴れやかな六月の天候は、到る處彼女を取り卷いて微笑してゐた。石ころだらけの丘の上には、いつものやうに黄金色の花をつけた
黒ずんだ、倒れかゝつた壁をした小部落の周圍に、薔薇の藪や、石竹や、あらせいとうなどがあつた。そして葺草や苔の高い屋根の上にさへ、無數の小さな草花が出たばかりの白い蝶々の心を誘つてゐた。
氷島人等のこの國では、春にはほとんど戀がなかつた。誇りかな種族の人懷かしげな娘達は、戸口に待つてうつとりとして、鳶色や青色の眼で、眼路の果て遠き彼方を眺めやつてゐるやうであつた。彼等の遣瀬なき憧れ心を注いでゐる若い男達は、極地の海へ遠く出て、大仕掛な漁仕事をしてゐるのであつた‥‥
けれど、やはり春であつた、温かで、爽かで、人の心を唆るやうで、微かな蠅のぶん/\いふのと、若い樹木の香とがあつた。
そして、かうしてすべてのものは、最後に殘つた一人の孫の死を聞くために出來るだけ足早に歩いてゐるこの老祖母の上に、まつたく心なげな微笑をかけてゐた。彼女は、遠い支那海の上で起つた出來事を聞かせられるべき恐ろしい刹那に近づいてゐた。彼女は、シルストルが末期の際に想像した、そして彼に最後の苦痛の涙を絞らせたその不幸な歩みをとつてゐたのであつた。彼の善良な老祖母は彼の死を知るために、パンポルなる「名簿係」に呼び出された。――彼は彼女がこの路の上を、小さな鳶色の肩掛をして、傘をもつて、大きな頭飾をつけて、體躯をまつすぐにして、急いで歩いてゆくのをはつきり見た。そして、その幻が彼の身を起させ、身を裂くやうに苦痛でもがかせた。その時、華かに沈みかゝつてゐた巨きな赤い赤道の太陽は、死にゆく彼を見るために、病院船の舷窓から射し込んだのであつた。
たゞ、彼方なる彼の最後の幻のなかで、彼の見たのは雨のなかを、この哀れな老女の歩む姿であつた。それが反對に、明るい、皮肉な春の日になされてゐた。
パンポルへ近づくにつれて、彼女には次第に不安が増した。そして一層足を早めた。
彼女はいま灰色の町中へ、日の照らす花崗石の狹い街へ來てゐた。彼女は、窓に坐つてゐる彼女と同年輩の老女達に挨拶をした。その人達は彼女の樣子を見ると不思議がつて、言つた、――
『まあ、あの女はあんなに急いで何處へ行くのだらう。何でもない日に、あんな日曜の晴着なんぞ着て』
『名簿係』の役人は不在であつた。十五歳ばかりに見える醜い小男が、その人の書記が、一人机に向つてゐた。漁師になるには不向きだつたので、教育を受けて、黒い
彼女が自分の名を告げると、その男は勿體ぶつた樣子で立ち上つて、書棚から極印してある書類を取り出した。
さま/″\なものがあつた‥‥一體これはどういふわけだらう? 證明書や、封緘した書類や、海氣で黄ばんだ水兵の手帳や、すべてそれらは死の匂ひがしてゐた。
その男はそれらを哀れな老女の前へ展げた。彼女は身が顫へて、胸騷ぎがしだした。彼女は、ゴオドに代筆して貰つて孫に送つた手紙が、二本とも封のまゝで戻つて來てゐたのを認めた。‥‥二十年前、息子のピェールが死んだ時にもやはりこんな事があつた。その時も、手紙はみな支那から役人の手へ戻つて來て、その人がそれ等を自分の處へ戻したのであつた‥‥
彼は勿體ぶつた聲で讀みだした――
『モアン・ヂャン・マリー・シルストル。パンポルにて兵籍記入、第二百三十一丁、記入番號第二千〇九十一、右の者‥‥年‥‥月十四日「ビエン・オア」艦にて死亡‥‥』
『何でございますつて? あれが、あなた、どうか致しましたか?』
『死亡したんだ!‥‥この人は死亡したんだ』と彼は答へた。
この書記は勿論、意地惡な人間ではなかつた。が、その小男の心は智惠が足りないので、丁度な判斷も出來ず、こんな風にづけ/\言ひ切つてしまつた。そして、彼女にこの定文句が通じないのを見ると、彼はブルトン語でかう言つた、
『死んだんだ!』
『死んだ!‥‥』と彼女は老年者の顫へ聲で、弱い幽かな、谺が無意味の文句を繰り返しでもするやうに、その言葉を繰り返した‥‥
なるほど、彼女はこんな事ではないかと臆測してはゐた。けれどその臆測はたゞ彼女の身を顫はせるばかりであつた。それが確かなものとなつた今は、却つてそれは彼女を感動させないやうであつた。第一に彼女の苦痛を感ずる力は、實際年齡のせゐで、殊にこの冬以來、多少鈍つて來た。悲しみはすぐ胸へは來なかつた。そして暫くの間頭の調子が變になつた。彼の死と他の者の死とがごつちやになつた。それほど多くの息子たちを失くしてゐた!‥‥今度のが、彼女の最後の、あれほど愛してゐた者の、死であるとはつきり意識するには暫く時がかゝつた、この者こそは彼女のあらゆる祈祷、彼女のあらゆる生命、彼女のあらゆる期待、二度目の幼年時の悲しい近よりのためにもう暗くなつてゐた彼女のあらゆる考への對象物であつた‥‥
彼女は、自分にとつて恐ろしいこの小男の前で、取り亂した姿を見せるのを恥ぢた。孫の死を祖母に知らせるこんな仕方つてあるものか!‥‥彼女は机の前にぢつと立ち窘んで、洗濯物で荒れた哀れな手で、褐色の肩掛の端を揉みくちやにしてゐた。
そして自分が家からいかにも遠く離れてゐるやうに彼女には思はれた!‥‥自分の草屋根の下へ行くまでには、何といふ遠い路を、しかもこんな晴着なぞつけて、歸つて行かなければならないことだらう。その屋根の下へ、――彼女は、傷ついた獸が地中へ隱れて死をまつやうに、急いで身を隱したいと望んだ。
この長い路を歩くといふ考へに氣押しされたことが、彼女がその事を餘り多く考へようともせず、またそれをつきとめても見ようともしなかつたもう一つの理由であつた。
シルストルの鞄を賣つたので送られて來た三十フランを受け取るべき爲替劵が、遺族として、彼女に渡された。それから手紙や、證状や、そして勳章のはいつた小箱やが。彼女は指を開いたまゝでおづ/\それ等を受けたが、それ等を入れるべき
パンポルの町中を彼女は、一むきに、傍目もふらず、前こゞみになつて、今にも倒れさうなふうで歩いて行つた。耳の中はぶん/\なつてゐた。そして哀れな舊い機械を發條線の切れるのも構はず、ある限りの力を出して卷き直しでもするやうに、無理やり息急ききつて歩いて行つた。
三キロメートルばかり來ると、彼女はもう疲れ切つて、腰を折るやうにして歩いてゐた。ときどき、彼女の木靴は石へ躓いた、それが彼女の頭へ痛く響いた。そして、彼女は、途中で倒れて、人に運ばれるのが厭さに、急いで家へもぐりこみたいと思つた‥‥
イヴォンヌ婆さんが醉つぱらつてゐる!
彼女は倒れた、すると腕白どもが驅け寄つて來た。そこは丁度ブルバラネク區の入口で、路の兩側には澤山の家があつた。それでもまだ彼女は立ち上るだけの氣力はあつたので、杖に縋つてひよろ/\と歩きだした。
『やあい、イヴォンヌ婆さんの醉つ拂ひ!』
惡たれ小供等がついて來て、鼻先きに覗き込んで笑ひ立てた。彼女の
さうした小供等のなかには心底惡い奴ばかりもゐなかつた。――彼女の傍へ寄つて、その年取つた顏に絶望の樣子を見ると、悲しく打たれて、それ以上口をきかうともしないで、引つ返して行くものもあつた。
家へ辿りついて、戸を閉めるか閉めないに、彼女は胸一ぱいになつてゐた苦痛で、わつと泣き出した、そして壁へ頭を向けて片隅へ身を倒した。頭飾は眼の上までずり落ちてゐた、彼女はそれを床へ投げつけた。――日頃あれほど大切にしてゐたその哀れな大事な頭飾を。彼女のかけがへのない日曜の晴衣もすつかり汚れてゐた。そして黄ばんだ白髮の薄い束は髮止から拔け落ちて、その哀れな取り亂した姿を殘りなく描き出した‥‥
その夕方、彼女を訪ねて來たゴオドは、彼女が頭飾もなく、兩腕を垂らして、壁石に頭をつけて、顏を顰めながら、小さな子供のやうにヒイ、ヒイ、ヒイと悲しげにすゝり泣きをしてゐるのを見出した。彼女はもう殆ど泣き聲も立てられなかつた。年たけた老祖母等は乾ききつた眼に涙を持つてゐない。
『あの子が死んでしまつたよ!』
かう言つて彼女は、手紙や書類や、勳章やをゴオドの膝へ投げた。ゴオドはそれ等を一目見ると、確かにさうだと判つたので、跪いて祈祷をした。
二人の女は、殆どなにも言はずに其處に向き合つて、六月の薄闇がたゆたふ限り坐つてゐた。――その夕闇はブルターニュでは長かつた、そして彼方イスランドでは、それは果てしがなかつた。竈の中では、幸運を持つてくるといふ蟋蟀が、いつもと同じく、キリツ、キリツと鳴音を立ててゐた。黄ばんだ夕方の光りは天窓からモアンの人々のこの小家へ、海が總てを奪ひ去つて、今ではもう絶滅した家族のこの小家へ、流れ込んでゐた‥‥
やがてゴオドが口を切つた、――
『わたし此所へ來てあなたと一緒に暮しますわ、ねえ、お祖母さん。わたしのものになつた寢臺をこゝへ持つて來ませうよ、わたしあなたの面倒を見たり、お
彼女は、幼な友達のシルストルを悼み嘆いた、けれど、さうした悲しみのなかからも、[#「なかからも、」は底本では「なかか も、」]彼女の考へは知らず識らず、他のことの方へさまよつて行つた、――大げさな漁業に出掛けて行つてゐる者の方へ。
このヤンへ彼女等は、シルストルの死を知らせようとした。丁度「
‥‥八月の或る青白い夕方、彼の兄弟の訃を傳へるヤンへの手紙がつひに氷島海上の「マリイ」へ屆いた。――それは、烈しい勞働と極度の疲勞との一日の後であつた。ちやうど彼は夕食に降りて寢ようとしてゐた時であつた。
彼はそれを眠たげな重い眼で、薄暗い船室の内で、小さなランプの黄ろい火光で讀んだ。最初のうちは、彼もまた無感覺で、ぼんやりして、十分の意味が解らないもののごとくであつた。勝氣な彼は、自分の心情を亂すやうなことは何事でもぢつと押し裏んで、その手紙をば、水兵等が何人ででもするやうに、青色の編襯衣の胸かくしへ入れた。そして何も言はなかつた。
けれど、彼はもう他の者等と一緒に坐つて食事をしてゐる氣にはなれなかつた。で、譯を話すのさへ馬鹿らしく思つて、寢床へ身を投げた。そしてすぐ眠つてしまつた。
やがて彼はシルストルの死や、その葬式やの夢を見てゐた‥‥
眞夜中ちかくになつて、――彼は、水夫等に特有な、眠つてゐながら時間の意識を持つてゐて、見張りに呼び起される時の近づきを感ずるその心の状態になつてゐると、――もう一度まざ/\その葬式の夢を見た。そしてかう思つてゐた――
『俺はいまこんな夢を見てゐるが、幸ひとだれか俺を起しに來ようから、そしたらこんな夢は消えてしまふだらう』
けれど、一つの荒くれた手が彼の體躯の上に置かれて、『おい、ガオ! さあ、起きろ、交代だ』といふ聲がしたかと思ふと、彼は自分の胸の上でかすかにカサ/\と紙の鳴るのを耳にした――死の眞實を確かめるその嫌な小さな音樂を。
『あゝ!さうだ、あの手紙だ! ‥‥やつぱりあれは眞實だつたんだ!』
するとその印象が一層鋭く、一層殘酷に眼に映つて來た。そして、かう俄かに目を醒まして、急にはね起きたので、彼はその廣い額を梁に打ちつけた。
やがて彼は衣服をつけて、艙口を開けた、漁の交代をしに甲板へ行くために‥‥
ヤンは甲板へ出ると、醒めきらぬ眼で、親しみ深い海の大きな圈線を、ぐるりつと見渡した。
その夜は、海は何ともつかぬ色を浮べて、驚くばかりな單調な姿をして、無際限に擴がつてゐて、たゞ底深い感じを與へた。
地球上一つの劃然たる境をも示さず、また地質學上如何なる特殊な年代をも示さない水平線は、劫初以來幾度となく同じ姿をとつたに違ひない。それを眺めやると、確かにそこには見らるべき何物もないやうに思はれた――たゞ存在し、また存在せざるを得ざる事物の永遠性のほかは。
其處は全くの夜ではなかつた。何處からともなき殘光によつてかすかに照らされてゐた。それはいつものやうにざわ/\として、あてどなき哭きを立ててゐた。それは灰色であつた、朧げな捉へかたなき灰色をしてゐた。――海は、その神祕な休息と眠りとの間に、名状しがたい色調につつまれてゐた。
雲は空に散り亂れてゐた。事物は總て暗いなかでは形なしではゐられないが故に、それ等の雲も何等かの形をとつてゐた。それらは總て混り合つて、殆ど一の大きな布を形づくるやうになつてゐた。
けれど、水近く垂れた空の或る一點では、それ等の雲は、いかにも遠くはあるが、一層明瞭な大理石模樣を形づくつてゐた、宛も不注意な手で描かれた不確かな意匠かなにかのやうに。ふと結び合つて、目に立つほどはつきりとはしないで、いつも飛び動き、消え去らうとしてゐた。――しかもこれのみが、この全體のなかで、何等かの意義あるものの如く思はれた。宛も其處には、虚無の憂鬱な、定かならぬ意味が書かれてあるやうに思はれた。――して彼の眼は不知不識そこへ据ゑられた。
ヤンのさまよひがちな眼が外部の闇に馴れて來るにつれて、その眼は次第々々に空のこの單一な浮模樣を眺めやつた。それは兩腕を開いたまゝ、下の方へ沈み行きつゝある或る者の形をとつてゐた。そして彼が今この姿に眼をつけて見ると、それは、遠くから來るので、尨大なものになつた、巨きな、人間の影であるやうに思はれた。
やがて、説き難き夢想や素朴な信仰などの浮び漂ふ彼の想像のなかでは、この暗い空の一端で潰えかゝつてゐるこの陰鬱な陰影が、少しづゝ彼の死んだ兄弟の記憶と混同して、それが彼の末期の顯れででもあるやうになつた。
彼はこれまで、特に幼い頃、子供等の頭に湧くやうな、事物の不思議な、聯想をする癖があつた。けれど、それを表はさうとするには、どんな漠然とした言葉でもまだ正確すぎる。それには、時として夢のなかで話されるとりとめない言語が要せられる。醒めてから思ひ出す謎のやうな、もはや意味をなさない斷片的なものが要せられる。
その雲をぢつと見詰めてゐると、彼は彼の魂をも凍らせる、不思議と神祕とに充ちた深い、痛ましい悲しみの湧くのを感じた。彼は其の時、前よりも一層はつきりと、もうあの哀れな小さな兄弟が二度とふたゝび現はれて來ないことを知つた。彼の、心臟の強い固い外皮を長くかゝつて貫いてゐた悲哀が、いまやその中に充ち溢れた。彼はシルストルの懷かしい顏と、優しい、子供のやうな眼とを思ひ浮べた。彼はシルストルを抱かうと思つた、と、不意に、我にもなく、面紗のやうなものが彼の眼瞼の間から落ちた。――成人になつてから、嘗て泣いたことがなかつたので、彼には、初めのうち、それが何とも解らなかつた。――けれど涙は彼の兩頬の上をとめどなく重く流れはじめた。そしてすゝり泣きが彼の深い胸を波打たせた。
彼は躊躇せず、一語も物も言はず、手早く漁をつゞけて行つた。そして傍にゐた他の二人は彼の泣くのを默つて聽いてゐたが、日頃の打ちとけない、傲慢な彼を知つてゐるので、氣にさわるのを恐れて、わざと聞かない振りをしてゐた。
‥‥彼の考へでは、死はすべての終りであつた‥‥
尊敬の念から、彼は、家族の中で死者に對する祈祷を皆と一緒にすることにしては來たが、來世の世界を信じてはゐなかつた。
水夫達が集まつて話してゐる時、彼等はこれらの事を、いかにも確かなきつぱりした風に、各自がよく知つてゐる事ででもあるやうに言つてゐた、けれど、それもやはり、亡靈についての漠然たる恐れや、墓地の朧げな怖ろしさや、聖徒や守護神やに對する最大な信仰や、とりわけ、會堂の周圍の聖地に對する生來の畏敬などを振り棄てることはできなかつた。
で、ヤンは、海で命を無くすといふことが、何よりも一層絶滅を意味するやうな氣がして、自分にとつては恐ろしかつた。――そしてシルストルが彼方で、遠い世界の向う側で殘されたのだと思ふと、彼の悲しみは一層暗く、一層絶望的になつた。
いつものやうに他の者には目も呉れないで、彼は自分獨りきりででもゐるやうに、恥も忘れ、止めどもなく泣いた。
‥‥まだやうやく二時であつたけれど、外面では、虚空が徐々に白みかゝつて來た。そして同時に、それが次第々々に遠くひろがり、一層無際限に恐ろしいうつろになるやうに思はれた。かうした黎明が生れ出るにつれて、眼は一層廣く開き、心は一層めざめて、無限の遠さが一層はつきりして來た。すると限界の區劃は一層遠のき、斷えず後方へ退きつゝあつた。
光りは非常に蒼白かつたけれど、次第に強くなつて來た。それは、微かに慄へて、幾條の小流れとなつて、射して來るやうに思はれた。常住の物象は、透明に照らされるやうであつた。宛も白光ランプが形なき灰色雲の背後で次第にあげられるやうに――海の憂鬱な休息を亂すまいとして、不思議な用意で、心こめてあげられるやうに。――
水平線の下にあたつて、その大きな白光ランプ、それは太陽であつた。それは早曉から初めるその水上の緩やかな冷たい運行をなす前に、力弱く身をひきずつてゐた‥‥
その日は、[#「 その日は、」は底本では「その日は、」]黎明の薔薇色は何處にも見られなかつた、總てが蒼ざめて物悲しかつた。そして「マリイ」の船上では一人の男が泣いてゐた。――あの強いヤンが泣いてゐた。
彼の荒くれた兄弟の涙と、あたりの飽くまで物悲しい光景とが、この氷島の海上で殆どその半生を送つた愍れな小さい隱れた勇者のために開展せられた喪の表象であつた‥‥
白日が照り出して來ると、ヤンは不意に毛織襯衣の袖で眼を拭つて、もはや泣かなかつた。もうそれはすんでしまつた。彼は漁の仕事と、眼前に迫る現實事象の單調な順序とですつかり元氣を恢復せられて、もう何事も考へないやうであつた。
それに、釣糸はよく働いた。そして殆ど彼の腕に餘るくらゐであつた。
漁夫等を取り卷いて、廣漠たる背景の中では、新らしい變化の光景が現ぜられた。無限の廣大な開示は、朝明けの壯觀は、終つてしまつた。そして今やそれに反して、距離は水上で狹まり閉づるやうに思はれた。どうして海はほんの今まであれ程無際限に見えてゐたことであらう? 水平線は今や直ぐ近くへ迫つてゐた。そして空處すらなくなつたやうに思はれた。空間はふわ/\した薄い面紗で充たされた。その或るものは雲よりも一層ぼんやりしてゐた、また或るものは形だけはとめて見られ、さゝ縁でもつけたやうであつた。それ等のものは重みのない白いモスリンのやうに、ひつそりと、やはらかく舞ひ落ちた。けれどそれ等は同時に何處へでもおりたので、直ぐ下へ閉ぢ籠められてしまつた。そして呼吸すべき空氣がそんなふうに立ち塞がれたのを見るのは胸苦しいことであつた。
八月の初霧がかゝるのであつた。數分のうちにこの
『そら、いやな霧がやつて來たぞ』と人々が言つた。彼等は漁の第二期に於けるこの避け難い伴侶とは長い間の知合ひであつた。けれどまたこれは氷島の漁期の終りを告げ知らせた。ブルターニュへの歸航の途につくべき時を告げた。
細かなぎら/\光る滴りとなつて、それらは彼等の髯の上へならべられた。それは彼等の日にやけた皮膚を濕氣で光らせた。彼等が船の兩端から眺め合つた時、彼等の姿は亡靈のやうにぼんやりと見えた。その反對に手近かな物體はこのどんよりした白つぽい光りの中では巨きくなつたやうであつた。人々は口を開いて呼吸しないやうに用心した。冷たい濕つぽい感覺が彼等の肺臟にしみ渡るからである。
その時漁は次第に活氣づいて來た、そしてもはや話なぞしてゐる者はなかつた、それほど釣糸は忙しく働いた。斷え間なく大きな魚が鞭のやうな音を立てて甲板へ投げられて、船上へ落ちて來るのが聞かれた。と、やがてそれ等の魚は狂ほしくはねまはつて、尾で船板をばた/\打つた。あらゆる物には、海水と魚が藻掻いて投げつけた細かい銀色の鱗とが飛びついた。大きなナイフで急いでそれ等の魚の腹を裂く水夫は、指に怪我をして、その赤い血が鹽水にまじつた。
この時は、彼等は十日間引きつゞいて何物も見ずに、この濃霧の中に閉ぢ籠められてゐた。漁は好結果でつゞいて行つた。そしてひどく忙しかつたけれど、彼等はそれをうるさいとも思はなかつた。時々、一定の時間を置いて、彼等の一人は、野獸の咆えるさながらの音を立てて、角笛を吹いた。
と、時とすると、外面の方から、白い濃霧の中から、他の遠い響きが彼等の呼びに應じた。その時は彼等は一層見張りに氣を配つた。その響きが一層近くへ來た時は、總ての耳がこの知れざる隣人の方へ緊張した。そのものの姿を彼等は決して見ることは出來ない。けれどそのものが居るといふことは彼等に危險であつた。彼等はそれについて推測をめぐらした。それが人々の心を奪つた、話題の種となつた。そしてそのものを見たいといふ願ひから、彼等の眼は、このおぼろげな、到る處空中に擴がつてゐる白いモスリンを見拔かうと努めた。
けれどそれが遠退くと、その角笛の響きもかすかに遠く消えてしまふ。と、彼等はまたしんとした中に、動かざる靄の果てしなくつゞく只中に、獨り殘されてしまふ。總ての物には水氣が沁み通つた。總ての物は鹽の香でべと/\した。寒さは一層骨にこたへるやうになつた。太陽は一層長く水平線下にたゆたひがちになつた。既に一二時間の眞の夜が初まつてゐた。その夜の灰色の近寄りは陰氣で冷たかつた。
毎朝彼等は、「マリイ」が氷島へ近寄り過ぎはしまいかと氣遣つて、水深を測つた。けれど船中のあらゆる索を繋ぎ合はせても海の底へはとゞかなかつた。彼等は十分海上へ出て、深い水の上にゐるのであつた。
彼等の生活は健全で荒々しかつた。骨を刺すやうなこの一層の寒さは彼等の夜の樂しみを増した。彼等は、夕食をたべに、或は眠るために下へ降りた時、巖丈な樫の船室で、暖かい住家の感じを味はつた。
日中は、僧侶等よりも一層世の中と隔たつた此等の人々は、話し合ふことも稀であつた。めいめいの者は釣糸をもつて、幾時間も幾時間も同じ持場にぢつとしてゐた。腕だけが漁の間斷なき仕事に働いてゐた。彼等は二三メートルづゝ離れてゐるに過ぎなかつたけれど、つひに互ひの姿を見ないやうなこともあつた。
霧の靜けさと、ぼつとした白さとが彼等の心を眠らせた。釣をしてゐながら、彼等は魚が恐れて逃げないやうに小聲で、自分だけで、國の唄かなにかを口にしてゐた。物を考へる事は一層鈍く、一そう稀であつた。それ等の考へは、虚無の如何なる間隙も、空罅も殘さないやうに、時を充たすやうにするために膨らまされ、引き伸ばされるやうであつた。彼等は、もはや寒くなつてゐたので、女のことも全く考へなかつた。けれど彼等の心は、夢の中のやうに、取りとめのない、奇怪な空想で充たされてゐた。そしてそれ等の空想の緯は霧の如く締りのないものであつた‥‥
この霧深い八月といふ月が、毎年氷島に於ける漁期を、陰鬱に靜寂に、終らしめるのであつた。それに、その頃はいつも水夫等の肺臟を廣め、筋肉を強める肉體の豐滿があつた。
ヤンは間もなく、彼の悲しみが根を張らなかつたやうに、いつもの態度に立ち歸つてゐた。何の懸念もないもののやうに、氣安い樣子で、船を動かしたり、漁をしたりするのに迅速で、用意深く、敏捷であつた。その上氣が向けば、――極く稀ではあつたが――話し好きにもなつた。そしていつも無頓着な、押つかぶせるやうな樣子をして、頭を高くあげてゐた。
その夜、ファイアンス燒の聖母像が守護してゐるいつもの見窄らしい部屋で、皆が食卓へついて、何か温かいうまい馳走を前にして、手に大きなナイフを持つてゐた時、彼は以前のやうに、はたの冗談で、笑ひ聲をあげた。
恐らく彼は、シルストルが臨終の間際までその小さな心の中で、彼の妻になるやうにと望んでゐた――そして今となつては世の中にたよりのない可哀さうな娘となつたゴオドのことを、少しは考へてもゐたであらう。‥‥また特に、彼の兄弟の喪がまだ恐らく彼の心の奧底にたゆたつてゐたでもあらう‥‥
けれどヤンの心は、御し難い、殆ど理解し難い、處女地であつた。其處では多くの事が外面には表はれないで起つて行つた。
或る朝三時頃、彼等が霧の蔽ひの下で穩かな夢を見てゐると、不思議な聞きなれない聲色の響きが彼等の耳にはいつた。甲板にゐた者は不審さうな眼をして互ひに顏を見合せた。
『いま物を言つたのはだれだ?』
何人も、何人も、何も言ひはしなかつた。
そして、實際、その聲は彼方の空間から來るやうに思はれた。
その時、角笛の係りで、しかも昨日からそれを怠つてゐた男が、急いで笛に飛びついて、呼吸のつゞく限り、精一杯、長い警告の響きを吹いた。
この響きのみが靜寂の中で彼等に身慄ひをさせた。と、その時、それとは反對に、一つの出現がその角笛の震へる響きで呼び醒まされでもしたやうに、或る大きな思ひもかけない物體が灰色の中から立ち現はれて、彼等に直ぐ近く、脅かすやうに非常に高く立ちあがつた。帆柱、帆桁、索具、空中に描き出さるゝ船形、丁度それが一閃の光りで張幕の上へ映し出される恐ろしい幻像のやうに、忽然と一時に全部が浮びあがつた。と、其處へ、手のとゞくばかりに近く、舷へ凭りかゝつて、驚きと恐れとで眼を見張つて、彼等を見てゐる他の人々の姿が現はれた‥‥
彼等は櫂や、豫備檣や、斜桁やに飛びついた――船中に在りとある長い強い物を手にして――彼等に打かつて來たこの物體とこれ等の人々との間隔を取らうとして、それ等の物を外の方へ突き出した。すると向うの者も愕いて、彼等を押し返すために、巨きな棒を彼等の方へ差し出した。
けれど彼等の頭上で帆桁と帆桁とが微かにギイ/\いつただけであつた。そして一時からみ合つた檣と檣とは、別に損害もなく、直ぐ解けてしまつた。海が穩かであつたために、衝突は全く輕微ですんでしまつた。宛も一方の船が量のないものかなにか[#「ないものかなにか」は底本では「ないものなかにか」]のやうに、柔らかな、殆ど重さのないものかなにかのやうに思はれたほどに、微かな衝突であつた‥‥
やがて、そのひやつとした思ひがすぎると、人々は笑ひ出した。互ひに知人を認めあつた。
『おーい、マリイ!』
『えゝ!、ガオ、ロオミック、ゲュエルムル!』
その出現は、やはりパンポルから來た、「レエヌ・ベルト」號、船長ラルヴォエルであつた。その乘組の水夫等もみな附近の村から來てゐた。脊の高い、黒い髯むしやらの、笑ふ時に齒を見せる男はブルターニュ出のケルジエグウであつた。その他の者はプルウネスか、或はプルウネランからの者であつた。
『なぜ笛を鳴らさないんだ?、野蠻人め』と、「レエヌ・ベルト」のラルヴォエルが訊いた。
『そつちこそ、どうしたんだ?、海賊め、海の惡黨め』
『あゝ、俺達は別だよ。俺達は騷ぎを立てちやならないことになつてゐるんだ』(彼はこれを何か暗い不思議なことを思はせるやうな風で言つた。しかも奇妙な笑ひ方をして。それが後々、「マリイ」の者共の心にとき/″\浮んで來て、いろ/\と考へさせた。)
と、その時、その男は少し言ひ過ぎたといふ風で、かう冗談をいつて言葉を切つた。
『俺達の笛は、此處にゐる男が吹いて、壞してしまつたんだよ』
そして彼はトリトンのやうな顏をした一人の水夫を指した。その男はまつたく頸と胸とだけで、ふくらんだ、ずんぐりな、何ともいはれぬ奇怪な落ちつかぬ樣子をその不具の力の中に見せてゐた。
そして人々は互ひに眺め合つて、微風か、或は船下の潮流かが二つの船を引き離し、互ひ互ひを一層はやく引き分けるのを待つてゐる間、何かと話し合つた。みな舷に凭りかゝつて、包圍された者どもが槍を使ひでもするやうに、長い棒の先きで押さへ合ひながら、故郷からの便りや、「獵兵船」が持つて來た最近の手紙や、老年の兩親や、女房たちのことを話し合つた。
『俺の女房から』と、ケルジェグウがいつた。『俺達の待つてゐた
また他の者は
彼等は白い紗布を隔てて眺めやつてゐるやうであつた。で、それが彼等の聲の調子をも變へ、息づまつた、遙か遠くから來るもののやうであつた。
さうしてゐる間、ヤンは一人の水夫から眼を離さなかつた。それは少し年寄りじみた小男で、これまでついぞ見掛けたことのない男であつた。が、その男は直ぐ、如何にも親しい調子で、『やあ、ヤンぢやないか』といつた。その男は鋭い眼を憎さげにぱちくりさせて、猿のやうに焦らだたしい醜さを持つてゐた。
『俺は聞いたんだが、』と、「レエヌ・ベルト」のラルヴォエルがいつた、『ブルバラネクのイヴォンヌ婆さんの孫息子は海軍へはいつて、支那艦隊に乘り組んでゐたさうだが、今度死んださうだ。實際氣の毒なことだよ[#「ことだよ」は底本では「ことたよ」]』
それを聞くと、「マリイ」の者共はみなヤンの方へ顏を向けて、彼がもうその凶報を知つてゐるか、知らうとした。
『さうだよ』と、彼は冷淡な大風な樣子をして、低い聲でいつた、『このあひだ親爺から來た手紙にさうあつたよ』
皆は一樣に、彼の悲しみを探らうとするやうに、彼を見た。それが彼をいらだゝせた。
彼等の話が蒼白い霧を透して迅速に交はされてゐる間に、彼等の不思議な會見の瞬間が次第に過ぎつゝあつた。
『それと一緒に女房からこんな事もいつて來た』と、ラルヴォエルが續けた。『メルさんの娘が町からブルバラネクへ引つ越して、大伯母のモアン婆さんの面倒を見るのださうだ。今ぢや、あの娘も毎日の稼ぎに出るといふことだ。やつぱり俺の思つてゐた通り、あの娘はけなげな、立派な娘だつたよ、ちよいと見るとお孃さんで、びらしやらしてゐるやうだつたけれどもな』
すると、また、皆はヤンの方を見た、それが彼を氣まづくさせた。そして彼の日に焦けた頬に濃い紅味が潮した。
かうしたしんみりしたゴオドの身上話で、「レエヌ、ベルト」の人々の會話は終つた、この船はもう二度と此の世の者は見てはならなかつた。少し前から彼等の顏は一層ぼんやりしてゐたやうであつた、彼等の船は、もうそれほど近くにはゐなかつた。と不意に「マリイ」の者共は押しやる物がなくなつたのに氣がついた。彼等の長い棒の端に觸れる何もなくなつてゐた。彼等の船材や、櫂や、檣や、帆桁やは空中を探るやうに動いた。そして一つ/\、大きな死んだ腕のやうに、どぶんどぶんと海へ落ちた。人々はもはや用のなくなつた防禦物を引き上げた。再び濃霧のなかへ埋沒した「レエヌ、ベルト」は、背後でランプが消されて、透繪の映像が無くなるやうに、不意に全くその姿をなくしてしまつた。彼等はそれに呼び掛けたが、應答はなかつた。――色々な聲に對して一種の嘲ける樣な谺のざわめきがあるばかり、それもやがて呻きに終つてしまひ、彼等は駭いて互ひに顏を見合せただけであつた‥‥
この「レエヌ・ベルト」は他の氷島人等と一緒に歸つては來なかつた。そして「サミュエル、アゼニイド」の乘組員等は、或る峽江のなかで、紛れもない難破物(この船の龍骨の一部と、船尾の冠飾と)を見掛けたので、もう何人もこの船を待ちはしなかつた。十月には、この船の乘組員等の名は盡く教會の黒い平板に彫りつけられた。
「マリイ」の人々がその日附を十分記憶に止めたこの船の最後の出現から、彼等の歸航の時までは、氷島の海上には險惡な天候はなかつた。然るに、その反對に、それより三週間以前、西からの狂風が數人の漁夫と二艘の船をさらつて行つた。人々は、そこでラルヴォエルの笑ひを思ひ出し、總てのことをとりあつめて、色々と憶測した。ヤンは、夜になると、一度ならず、猿のやうな眼をぱちくりさせてゐた男のことを思ひ出した。そして「マリイ」の乘組員の中には、彼等があの朝、死者と話をしたのではなかつたかと、おづ/\獨りで考へてゐるものもあつた。
夏はたけて行つた。そして八月の末、朝霧のたちはじめると同時に、氷島人等の歸つて來るのが見られた。
三ヶ月以來、二人の孤獨にせられた女たちは、ブルバラネクのモアンの小家で一緒に暮してゐた。ゴオドは船乘り等のゐなくなつたこの哀れな棲家の娘になつてゐた。彼女は父親の家が賣られた後、自分に殘された物をみな其處へ運んで來た。都會風の美しい寢臺だの、さま/″\な色の立派なスカアトだのを。彼女は極く質素な黒い新らしい着物を自分で仕立てて、老イヴォンヌと同じに襞だけつけた厚い綿紗の喪帽をかぶつた。
毎日彼女は町の金持の家へ縫物に行つた。そして夜になつてから歸つて來たが、道で男達から言ひ寄られるやうなこともなく、少し權高く見せてもゐたし、それにまだ令孃らしく尊敬されてもゐた。子供達が彼女に『今晩は』といふ時も、以前のやうに彼等の帽子に手を掛けた。
美しい夏の黄昏のなかを、いつも、斷崖の上の途を、心しづめる海の大氣を吸ひながら、彼女はパンポルから歸つて來た。彼女はまだ、仕事の上に身を屈めて一生をくらす他の女達のやうに、體つきの崩れるほど長いあひだ針仕事をしてはゐなかつた。それに彼女は海を眺めると、その遠くの方に、ヤンが行つてゐる沖の方を眺めると、生れつき持つてゐた美しい嫋やかな姿をすつきり伸ばした。
この同じ道が彼の家へもつゞいてゐた。少し先きの方へ、一層石ころの多い、一層風に吹き曝される方へと行けば、ポル・エヴァンの小村へ出られる。其處では、灰色の苔で蔽はれた木々が石の間に極く小さく生えて、強い西風の吹く方へと靡いてゐる。一里と隔つてはゐないけれど、彼女は恐らく二度とポル・エヴァンへ行くことはなからう。けれど今までに一度其處へ行つて來たといふことが、通つて行くこの途に魅力を與へるには十分であつた。それに、ヤンはこの道を度々通るに違ひない。そして、彼女の戸口から、荒地の上を、
この八月の末の季節には、暖國に見る如き、大氣の中に一種の倦怠がある。それが南から北へと流れ漂つて來る。宵々は明るく照らし、強い遠い太陽の反射が漂ひ、それがブルトンの海上にも低迷する。空氣は屡澄み切つて穩かで、一片の雲すら何處にも見られない。
ゴオドが家路へ向ふ頃には、物象は夜に見る如く、既に溶け合ひ、糾れ合ひ、影像をつくりかけてゐた。此處彼處にえにしだの藪が岩と岩との間の高地に不揃な羽毛束のやうになつて立つてゐた。節立つた木々がこんもり茂つて、窪地に黒い塊をつくつてゐたり、また他の場處では、草葺屋根の並んだ小村が荒地の上に、脊蟲のやうな小さな輪郭を見せてゐた。辻々には舊びたクリスト像があたりを見下して、磔刑にせられた實際の人間のやうに、十字架上で黒い腕を差し延べてゐた。そして遠くの方には英吉利海峽が、水平線近くはもう暗くなつてゐた空と對して、大きな黄色の鏡のやうに、くつきり見えてゐた。けれどこのあたり一帶に、この穩かさと、この美しい天候とのなかにも、物悲しさが漂つてゐた。なべての風物にかゝはらず、一種の落ち着きなさがあらゆる物を包んでゐた。不安は、幾多の生命が打ちまかされてゐる海から來た。そしてその海のとこしへの威嚇は眠りのみであつた。
うつとりと思ひに耽りながら歩いてゐるゴオドは、鮮かな空氣のなかの歸り路を、遠すぎるとは殆ど思はなかつた。鹽の香の波打際から來るのが感じられた。そして心持よき薫りが葉のない茨に包まれた崖の上に生えてゐる草花から立ちのぼつた。イヴォンヌの祖母が彼女を家に待つてゐなかつたならば、彼女は、このえにしだの間の小徑を、夏の夜の花園の中で夢見てくらす美しい若い貴婦人等のやうに、悦んで遲くまでさまよつてゐたに違ひない。
この邊を通つて行くと、幼時の幾多の囘想が彼女の胸に蘇へつて來た。けれど今では彼女の戀が、それ等を如何にもおぼろげな、遠い、つまらないものに思はせた。どうあらうとも、彼女はヤンをば許婚者かなにかのやうに考へたかつた、――逃げて行く、人をさげすむ荒々しい許婚者、おそらく自分のものとはなりさうもないその人、けれどこの人にこそいつまでも自分の心をさゝげて、何人にも決して打ち委せはしまい。暫くの間、彼女は、彼が氷島に居るのを知つて寧ろ悦んだ。少くも海は彼をばその深い僧院の中へ彼女のために閉ぢ籠めて置いた。そして彼は他の何人にも身を許すことは出來なかつた。
近いうちに彼は確かに歸つて來るであらう。けれど、彼女はこの事を以前よりは一層落ち着いて胸に描いた。彼は他の男達とは違ふから、自分が落ちぶれたからといつて一層蔑まれる筈はないと彼女は本能的にさう思つた。それにシルストルの死はたしかに二人を近づけるはずみともなつた。歸つて來れば彼はきつと自分の友達の老祖母を見舞ひに、その家へ來ないはずはなからう。彼の來る時は必ず家にゐようと彼女は思つた。さうしたからといつて別に厚かましいこととは思はれなかつた。以前のことなどは胸に持つてゐるやうな氣振りも見せないで、親しい間の眤近か何かのやうに彼に話し掛けよう。シルストルの兄弟にでも對してゐるやうに親しげに話し掛けて、わざとらしい素振りなど見せはしまい。そしてかうもしたらばどうだらうか? 今は全く孤獨になつてゐる自分には、さうした妹のやうな位置に身をおいて、彼の優しい心に縋つて、自分には結婚しようなぞといふ底意のない事を十分彼に會得させた上で、相談相手になつてくれるやうに頼むことは全く出來ないことであらうか。彼は武骨で、身勝手な考へでは隨分頑固であるけれど、優しい、打ち解けた、そして心底から湧く實意はよく汲み取ることの出來る人だと、彼女は信じてゐた。
此の破屋にも等しい小家の中に貧しく住んでゐる彼女を見たらば、彼はどんな感じをするであらうか? いかにも貧しい! 實際さうである。日々の洗濯仕事にも出られない程に弱つた祖母モアンは、寡婦扶助料のほかは何も持たなかつた。もつとも、今となつては彼女の食費とてはいくらも要らなかつた。そして二人はまだ他人の扶助を仰がないでも、どうにかやつて行くことは出來た‥‥
彼女が家に着いた時はいつでももう暗かつた。その家は水際への傾斜地の上を、ブルバラネクの往還よりは一段低い處に在つたので、その家へはいるには、磨り減つた岩の上を少し降りて行かねばならなかつた。その家は、丁度重い毛皮に壓しつけられた巨きな死獸の背中のやうに、反りかへつた、褐色の草屋根の下に殆ど全く隱されてゐた。壁といつては、岩のやうに荒くれて、黝づんだ色をして、苔と蝸牛の殼で蔽はれて、小さな緑色の叢脈をつくつてゐた。彼女は反りかへつた段々を三つ登つて戸口へ來ると、孔から出てゐる繩切れで、戸の内側の錠をはづした。内へはいると、前面に直ぐ目にはいるのは、厚い城壁へ穿たれたやうな窓で、其處からは海が見渡され、色褪めた黄ろな光りの最後の閃きが射してゐた。大きな爐には年寄つたイヴォンヌが路で拾ひ集めた松や椈の香り高い枝が燃えてゐた。その爐の傍に、貧しい夕食の仕度をしながら、老婆が坐つてゐた。家では、彼女は頭布を大事にして、たゞ髮止だけをしてゐた。まだどこか美しさの殘つてゐる横顏が赤い火光のなかにくつきり見えてゐた。彼女はゴオドの方へ眼を向けた。以前は鳶色であつたその眼も、今は褪せて青ずんだ色をたゝへて、老年の心配と、不安と、すさんだ表情とを見せてゐた。彼女はいつも同じことをいつた。
『あゝ、お前かえ、今夜は大變遲かつたね。‥‥』
『いゝえ、さうでもありませんわ、おばあさん。』と、いつもその言葉を聞き馴れてゐるので、ゴオドが優しく答へた、『いつもと同じ時間ですわ。』
『あゝさうかへ‥‥何だかわたしにはね、お前、いつもより、遲かつたやうな氣がするよ。』
彼女等は、使ひ古されて殆どもとの形のなくなつた、それでもまだ、樫の幹のやうに厚い食卓で夕飯をした。そして蟋蟀は、いつものやうに彼等のために銀の音色で歌ふ事をやめなかつた。
家の内の一方は、今はもう全く蝕んだ、荒削りの板壁で立ち切つてあつた。それを開けると、上下の寢棚の入口になつてゐた。其處では幾代もの漁夫達が生れて、眠つた。そして其處でそれ等の年寄つた母親達が死んだ。
屋根裏の黒い梁には、舊い家具や、藥草の束や、木の匙や、豚の燻肉や、また古網などがさがつてゐた。この古網は最後のモアンの息子達が難船した頃から其處にあるもので、夜は鼠が出てその網目を噛んだ。
白い綿紗の戸帳をつけたゴオドの寢臺は、室の片隅に置いてあつたが、かうしたセルト人の小家のなかでは、ことに目立つて新らしく立派に見えた。
シルストルの水兵姿の寫眞が一枚枠に入れて壁石に懸けてあつた。彼の祖母はこの寫眞に彼の勳章と、水兵達が右の袖に着けてゐる一對の赤羅紗の碇とを結びつけた。それは彼が服に着けてゐたものであつた。ゴオドもパンポルから、白と黒との小珠の喪飾の輪を一つ買つて來た、これはブルターニュでは死者の肖像の周圍に飾りつけるものであつた。これで彼の小さな靈廟が出來上つた、これが彼のブルトンの生家で彼の記憶を永久にとゞめる總てであつた‥‥
夏の夜は、燈火の儉約をするために、彼女等は早くから床についた。天氣の好い日は、少しの間、家の前の石の腰掛へ腰をおろして、路の上を、自分等の頭の少し上を、通つて行く人達を眺めてゐた。
やがて年取つたイヴォンヌは自分の寢棚へ、ゴオドはまた自分の立派な寢臺へ行くのであつた。彼女は詰めた仕事と、遠い往復の疲れとで直ぐ眠つてしまつた、そしてさう大して心配もせず、心をきめた、素直な娘として、氷島人等の歸りを夢みながら‥‥
だが、或る日、パンポルで、「マリイ」が歸つて來たといふ話を耳にすると、彼女は一種熱病にでも取りつかれたやうな感じがした。歸りを待つてゐる間の彼女の落ちつきはすつかり失はれてしまつた。何故かしらないが、急いで仕事を片づけて、彼女はいつもより早く家路についた。――そしてその路を急いで來ると、遠くの方から、自分の方へ歩いて來る彼に打つかつた。
彼女の脚は顫へた、そしてたはむやうに思はれた。彼はもう間ぢかに來て、二十歩と隔つてゐないところで、その立派な姿と、水夫帽の下からはその卷毛を見せてゐた。まつたく思ひもよらない邂逅なので、彼女はよろめきはしまいかと氣遣はれた。そしてそれが彼に見られはしまいかと思はれた。彼女はそれで消え入るばかりに恥かしかつた。‥‥それに頭布だつて丁度にしてはゐないし、慌てて仕事を片づけて來た後なので、屹度ひどく疲れて見えるに違ひないと彼女は思つた。えにしだの藪にでも身を隱し、貂の穴へでも姿を隱すことが出來るなら、何でもしてやらうとまでも思つた。それに、彼の方でも、はつと思つてたぢろいで、路をはづさうとでもするやうであつた。けれど、もう遲かつた。彼等は狹い徑の上でばつたり出逢つてしまつた。
彼女の體躯に觸れないやうに、彼は、臆病な馬が何物かを避けるやうに飛び立つて、土手へ身を寄せて、おど/\しながら、そつと彼女を見た。
彼女もまた、ふと眼を擧げて、思はず、惱ましげな、憫みを乞ふやうな視線を彼に投げた。そしてこの彈丸よりも早い、思ひもよらない見かはしの中に、彼女の亞麻色の眼は一層大きくなり、何か大きな焔のやうな思ひに燃えて、眞に青い光りを放つやうに思はれた。その時彼女の顏は、顳までも、美しい卷髮の下までも、紅味を潮した。
彼は帽子に手を掛けて、いつた――
『今晩は、ゴオドさん』
『今晩は、ヤンさん』彼女は答へた。
そしてそれだけであつた。彼は行つてしまつた。彼女も路をつゞけた。が、身ぶるひはまだやまなかつた、けれど、彼女は彼が次第に遠ざかつて行くのを感じた時、彼女の血はまたもとのやうに循り出した、そして氣力も恢復した‥‥
家へ歸つて見ると、老祖母は隅の方に坐つて、兩手で頭を押さへて、子供のやうにさめ/″\と啜り泣きをしてゐた。その頭髮は、亂れ髮の端は、灰色の麻糸の薄い束のやうに、髮止の下から滑り落ちてゐた。
『あゝ、ゴオドかえ、――私はね薪木を拾つて歸つて來ると、ブルウエルゼルの近くでガオに逢つたのだよ。――そしてお前、死んだあの子のことを二人でいろ/\と話し合つたのだよ。なんでもみんな今朝氷島から歸つて來たのださうだよ。そしてあの子はお晝時分私が外へ出た後へ來てくれたさうだ。可愛さうに、あの子も眼に涙をためてゐたよ。‥‥そして、お前、あの子は私の手から小さな薪木の束をとつて、戸口まで送つて來てくれたのだよ‥‥』
彼女は立つたまゝでその話を聞いてゐた。そして彼女の胸は次第に重くなつて來た。ヤンが訪ねて來たら、あれもこれも話さうと、あれほどかぞへてゐたのに、それがもうすんでしまつた。そしてもう二度とそれがなされることもなからう。もうすんでしまつたのだ。
さう思ふと家のなかが一層寂しく、彼等の貧しさが一層辛く、世の中が一層空虚に思はれた、――そして彼女は死にたい心持で、うなだれた。
冬は次第に近づいて、しづかに掛けられる
寒空と共に彼等の暮しは一層嵩んで、一層耐へがたくなつた。
それにこの頃では老イヴォンヌの世話が一層面倒になつた。彼女の憫れな頭は考へもなくなつた。彼女は今では怒りつぽくなつて、邪險な、面白くない物言ひをした。一週に一二度はきまつて、まつたく子供のやうに、譯もなくそんな氣分になつた。
氣の毒な老女!‥‥それでも機嫌の好い、心の晴れた日はやはり以前のやうに、優しかつた。で、ゴオドはやはり彼女を尊み、愛せずにはゐられなかつた。日頃あれほど良かつた人が、終りにかう惡くなるといふのは、終生眠つてゐた毒々しさの底が最後に到つて現はれて來るといふのは、これまでは隱されてゐた粗雜な言葉の知識がすつかり出てしまふといふのは、何といふ魂の愚弄、何といふ不思議な嘲笑であらう!
彼女はまた歌をうたひ出した。これがまた怒つた言葉なぞより一層聞きにくかつた。それは彼女の頭に浮んで來るまゝのものであつた。彌撒祭の祈祷だの、昔し漁師達が港で唄つてゐるのを聞き覺えた猥らな對句だの、時とすると「パンポルの小娘」だのを唄ひ出した。さうかと思ふと、頸を搖り、足で拍子を取つて、こんな歌をうたつた。――
『わしの夫は出て行つた。
アイスランドへ魚とりに、わしの夫は出て行つた。
錢は一文も殘つちやゐない。
まゝよ、どうなろ、どうなろ、まゝよ!
わしのみすぎはわしがする!
わしのみすぎはわしがする!』
アイスランドへ魚とりに、わしの夫は出て行つた。
錢は一文も殘つちやゐない。
まゝよ、どうなろ、どうなろ、まゝよ!
わしのみすぎはわしがする!
わしのみすぎはわしがする!』
と、いつも不意にその歌を止めると、ぱつと眼を見開いて、空を見詰め、生きた表情がすつかりなくなるやうになつた、――盡きかゝつた焔が不意に燃え上つて、ぱつたり消えて行くやうであつた。すると、その後は俯向き込んで死んだやうにがつくり顎を落して、長い間、ぼんやりしてゐた。
そのうへ、彼女は衣服を穢しもした。それがゴオドにはこれまで知らぬ辛い思ひであつた。
或る日彼女は孫息子のことすら思ひ出せなかつた。
『シルストル? シルストル?』彼女は、それが何人であつたかを思ひ出さうとでもするやうにして、ゴオドにいつた。『あゝ、さう/\、わたしやこれでも若い時分には隨分澤山息子や娘を持つてゐたんだよ、息子や娘をさ、それが今では、あゝあ!‥‥』
そしてさういふと彼女は、その哀れな皺よつた兩手を、他愛もない、ほとんどみだらな風に指しあげた‥‥
翌日になると、また、孫息子のことをはつきり思ひ出して、彼が言つたりしたりしたことをこまごまと話しながら、一日ぢう泣き暮した。
冬の夜々、燃やすべき薪のないこともあつた! 寒いなかを働かなければならなかつた、暮しを立てていかなければならなかつた、縫ひ物をしなければならなかつた、眠る前に、毎晩パンポルから持ち歸つた仕事を仕上げなければならなかつた。[#「ならなかつた。」は底本では「なかつた。」]
イヴォンヌ祖母は爐の傍に靜かに坐つて、燃えさしの前へ脚を伸ばしたり、前垂の下で兩手を組んだりしてゐた。そして宵のうちはいつもゴオドが話し相手になつてゐなければならなかつた。
『お前は默つてゐるねえ、えゝ、どうしたといふのだえ。わたしの若かつた時にや、お前ぐらゐの年恰好で、隨分話上手な人がゐたものだよ。少しお前が話でもしてくれたら、私達はかう陰氣なことはあるまいと、わたしやさう思ふよ』
で、ゴオドはどんなことでも、町で聞いて來たことを話した。路で逢つた人の名前などを語つた。今となつては、世の中の他の何事とも同じく、彼女にとつては全く意味の無いいろ/\な事を話して聞かせた。が、その話を中途で止めなければならなかつた。老女はもうその中で眠り込んでしまつてゐた。
彼女の水々しい若さは、やはり同じ若々しさを求めたけれど、彼女の周圍には生きてゐるものは何もなかつた、若々しいものは何もなかつた。彼女の美しさは孤獨と不成果のうちに萎れて行かなければならなかつた‥‥
海からの風は何處からでも隙をくゞつて、彼女のランプを遙らめかした。そして波の音は船の上にでもゐるやうに聞かれた。彼女はそれに耳を澄ましてゐると、いつも胸を去らない惱ましいヤンを思ふ思ひがその響きに混つた。總てそれ等のものがヤンの住家であつた。戸外の闇の中であらゆる物が荒れ狂ひ咆えたててゐる恐ろしい嵐の夜には、彼女の心の惱みはヤンを思ふにつれて、一層烈しくなつた。
そしてたゞ獨りきりで、眠つた祖母の傍にいつも獨りきりでゐるので、彼女はとき/″\は恐ろしくなつた。そして暗い隅の方をぢつと見て、多くの漁夫達、彼女の先祖の人々のことを考へてゐた。その人々はそこの寢棚の中に住んでゐたのであつた。そしてこのやうな嵐の夜に海上で死んだのであつた。その人々の魂は歸つて來るかも知れない。彼女は、殆どそれ等の人々の一人といつても好い老女が其處にゐたからといつて、それでそれ等の死者が訪ねて來るのを防いでくれようとは思はなかつた‥‥
彼女は不意にぶるつと總身を顫はせた。彼女は細々しい、とぎれ勝ちな、笛の音のやうな人聲が、地下に蔽塞されてでもゐるやうに、爐の片隅から來るのを耳にした。その聲は彼女の魂を凍らすやうな活々した調子で歌ひ出した。――
『アイスランドへ魚とりに、わしの夫は出て行つた。
錢は一文も殘つちやゐない、
まゝよ、どうなろ、どうなろ、まゝよ‥‥』
錢は一文も殘つちやゐない、
まゝよ、どうなろ、どうなろ、まゝよ‥‥』
すると彼女は亂心者等と一緒にゐる者の感ずる一種異樣な恐怖を感じた。
雨は降りつゞけて、泉から湧く不斷の音をたててゐた。彼女はそれが外側の壁の上をほとんどしつきりなしに傳つて流れるのを耳にしてゐた。古い、苔深い屋根には裂目が出來てゐて、そこからいつも同じ場處に、倦まざる單調な水の滴りが同じ陰氣なポタン、ポタンいふ音を立ててゐた。それが家の床の上の其處此處を濡らした。この床は、石や、固めた土や、礫や、貝殼などで出來てゐた。
水氣は四方に立ち籠めた。それは冷たい無限の塊となつて人を包んだ。惱ましげな雨は、叩きつけるやうに降り注ぎ、霧しぶきを空中に立て、闇を濃くし、ブルバラネクの區域に散在してゐる小家々々を一層孤立したものにした。
日曜日の宵々は、他の場所では人々が賑やかにしてゐるので、ゴオドには殊に陰氣であつた。それは海沿ひのこれ等の捨てられた小さな村々でさへ賑やかな宵々であつた。いつも、村中の其處此處に、暗い雨に打たれ、戸は閉めてはゐても、高い歌聲の響いて來る家があつた。家の内には酒を飮む者等のために食卓がならべてあつて、燻る火で身を乾かしてゐる船乘りや、
或る日曜日には時々、かうした若者共の群がこれ等の居酒屋から出て來たり、或はパンポルからの歸りなどに、モアンの家に近い路の上を通つて行つた。モアンの家の者はポル・エヴァンの方へ寄つて、區の出端れに住んでゐた。それ等の若者共は娘達の腕から脱れて、いつも風や波には慣れてゐるので、濡れるのも構はず、夜遲く歸つて行つた。ゴオドは、直ぐ嵐の音や波の響きに消されてしまふ彼等の歌聲や叫び聲やに耳を澄まして、ヤンの聲を聽き分けようとした。そしてそれを聽き分けたかと思ふと、身の顫へるのを感じた。
二度と彼女等を訪ねても來ない、それはヤンとしては餘りな仕打であつた。シルストルの死後間もないのに、さうして面白をかしくしてゐるといふのは、――いつもの彼には不似合なことであつた。實際、彼女にはもはや彼が少しも解らなくなつた。だが、どうあらうとも、彼女は彼を忘れることは出來なかつた、彼が無情な人間だとも考へられなかつた。
事實、彼が歸つて以來、彼の生活は非常に荒んでゐた。
第一にガスコニイ灣の例年の十月の周航であつた。――これはいつも氷島人等にとつては樂しみの時期であつた。この時は彼等の懷へは自由に使へる少しの金がはいつた(漁の配當は冬まで渡らないので、船長が立て換へてくれる當座の僅かの先拂ひの小使であつた)。
彼等は毎年のやうに灣内の島々へ鹽を買ひに行つた。ヤンはその時サェン・マルタン・ドゥ・レェで或る黒い頭髮の娘、去年の秋の戀女とまた好い仲になつた。二人は連れ立つて華かな最後の夕陽に照らされて、
それから「マリイ」はボルドオまでも行つたが、彼は其處でまた、或る大きな綺羅びやかなカツフエで、美しい歌うたひの看板娘を見つけた。そして彼は、また一週間その女に夢中になつて呑氣な日を送つてゐた。
十一月にブルターニュへ歸つてからは、彼は幾人かの友達の結婚の席へ付添人として晴衣を着て出た。そして、舞踏の後、眞夜中過ぎに、醉つ拂ふことなどは度々あつた。毎週必ず何か彼か新しい戀の出來事が彼の身にはあつた。すると、娘達は待ち構へてゐて、それに輪を掛けてゴオドに話した。
三四度彼女は、ブルバラネクへの路で、遠くの方に、自分の方へ向つて來る彼を見掛けた。けれど、いつも彼を避けるだけの暇はあつた。そんな時は彼の方でもやはり荒地を切れて行つてしまつた。互ひに默解し合つてでもゐるやうに、彼等はいまや互ひに避け合ひつこをしてゐた。
パンポルに、マダム、トレソルウルといふ太つた女がゐる。港へ出る街路の一つに飮食店を開いてゐる。そこは氷島人等の間には好く知られてゐて、船長や船主などが水夫を雇入れに來ると、其處で酒を飮み合ひながら、最も強さうなのを選び出す。
以前は美しかつた、そして今も漁夫等に愛想の好い彼女は、この頃では髭が出來て、男のやうに肩幅も廣くなり、應答なぞも大膽になつてゐる。修道女のやうな大きな白い頭布をしてゐるところは一かどの酒保の女主人らしくはある。けれど、そんな風はしてゐるものの、ブルトンの女だけに、何處となく宗教的な樣子が漂つてゐる。彼女は頭の中に、ちやうど登記簿のやうに、この界隅の總ての水夫等の名前をとゞめてゐるので、彼女はそれ等の人物の善惡から、稼ぎ高から、腕前まですつかり知り拔いてゐる。
一月の或る日、ゴオドはこの女から仕立物を頼まれて、その仕事をしに、
トレソルウルの家では、入口は、二階の下の凹所に、古風な、花崗石の太い柱をした戸である。それを開けると殆どいつでも街路にはうづまく突風があつて、それがその戸に吹きつけてゐる。で、その家へ來るものは、海の大波に卷き込まれでもするやうに、どつと家の内へ流れ込む。食堂は低くて、奧深くて、白く塗つてあつて、船の繪が、港へはいるのや、難破したのやが、金縁をつけて飾つてある。出張つた一角にはファイアンス燒の聖母の像が造花の束で圍まれて、竪持の上に置かれてある。
此處の古い壁は多くの力強い水夫等の歌の
ゴオドは、その縫物をしてゐながら、仕切りの向う側で、酒を飮みながら二人の退職者とマダム・トレソルウルとが氷島についての話をしてゐるのにふと耳を傾けてゐた。
その老人等はいま港で艤裝されつゝある美しい新造船のことについてかれこれ言つてゐた。その新造船「レオポルデイヌ」は次ぎの航海までには艤裝が間に合ひさうもないといふのであつた。『いゝや』と、主婦は言ひ返した。『あの船は屹度間に合ひます。――なぜかといふに、實は昨日あれに乘り組む顏觸れがもうちやんと定まつてしまつたからです。みんな[#「みんな」は底本では「みんなな」]ゲュエルムルさんと一緒にあの舊ぼけた「マリイ」に乘つてた人達です。「マリイ」は賣つて壞してしまふんだつてね。此處で契約しに來た五人の若者は、私の眼の前で――この
「レオポルデイヌ」!‥‥この船の名は今はじめて耳にしたばかりであつたが、ヤンを連れて行つてしまふかと思ふと。ゴオドの記憶にその名は、不意に、鐵槌で打ち込まれでもしたやうに、もはや消し難いものとして止まつてしまつた。
その晩、彼女がブルバラネクへ歸つて、小さなランプの下で仕事の仕上げにかゝつてゐると、その言葉がやはり彼女の頭のなかにあつて、その語の響きすらが悲しいものとして、彼女に印象を與へた。人々の名前や船の名前にはそれ/″\の特性があり、感覺すらも持つてゐる。そしてこの「レオポルデイヌ」といふ新らしい、聞き馴れない語は不思議に執念深く彼女に着きまとつて、何か忌まはしい憑きものでもしてゐるやうになつた。實際、彼女はヤンがこの次ぎもやはり「マリイ」に乘つて行くものとばかり思つてゐた。その船へは彼女も一度行つたことがあつた、そして親しみを持つてゐた。それにあの船をばあの聖母が危險な航海の幾年を加護して來た。それが急にかへられて、この「レオポルデイヌ」が代つた。彼女の惱みは増して來た。
けれど直ぐまた思ひ返した、こんな事はもう自分とは何も關係のないことだ、彼がどうあらうと二度と自分の心を動かす筈はなかつた。そして、實際、彼が此處にゐようと、他所にゐようと、どの船に乘つてゐようと、遠く出てゐようが、歸つてゐようが、それが今の彼女に何のことがあるだらう?‥‥彼が氷島へ行つたからとて、なま暖かな夏が、侘しい家々に、孤獨な心配がちな女達に循つて來たからとて、――また新らしい秋が來てもう一度漁夫等を家へ連れ歸つたからとて、それがため、彼女は一層不幸になり、或は不幸が減るとでも思はれるだらうか?‥‥總てそれは彼女には同じことであり、關係のない事柄であり、悦びもなければ同じく希望もなかつた。今となつてはもう二人の間には結び目がなかつた、近づき合ふ理由さへなかつた、彼は哀れな可愛いシルストルすら忘れてしまつてゐるのだから。――だから、この一つの夢は、彼女の生涯のこのたゞ一つの願ひは、永久かういふ風になつてしまつたものと思ひ定めなければならなかつた。彼女はヤンから身をもぎはなさなければならなかつた、彼の生活に關したあらゆる物からも、氷島といふ名前からでさへも。この名前は、彼を思ふが故に、いつも苦しい魅力をもつて波打つてゐた。彼女はこれ等の思ひを全く追ひやつてしまはなければならなかつた、すつかり掃ひ捨ててしまはなければならなかつた。つまり濟んでしまつた、永久濟んでしまつた‥‥
彼女は、まだ自分がなくてはならない、けれどもう長くは生きてゐられない哀れな眠つてゐる老女をしみ/″\眺めやつた。そして、この人が死んでしまつた先きは、何のために生きて行くのだらうか、何の必要で働くのだらうか、一體どうするのだらうか?‥‥
西風はもう戸外に吹き起つてゐた。屋根の雨樋はこの遠い大きな轟きに對して、靜かな穩かな玩具の鈴のやうな音を立ててぎい/\いひだした。そして彼女の涙もまたおちはじめた、頼りない、親の無いこの娘の涙が、脣の上へ微かなからい味を殘して、彼女の縫物の上に音もなく落ちた。風のない時に降り出した夏雨のやうに、そして、水分に充ちた雲から俄かに烈しく繁く降り濺ぐやうに。と、頭がぐら/\するやうに感じ、これから先きの空虚な生活に心亂れて、もう何も見えなくなつたので、彼女はマダム、トレソルウルの寛い胴衣を疊んで寢ようとした。
彼女は自分の美しい哀れな寢臺に身を伸ばしたとき、身顫ひをした。小家の中の他の總ての物と同じやうに――その寢臺は日毎に一層濕つて冷たくなつた。けれど彼女は若かつたので、泣きつゞけてゐるうちに、次第に身内が暖かになり、やがて眠つてしまつた。
それでも陰鬱な幾週間が經過して、やがて穩かに晴れた二月初めの天候となつた。
ヤンは、前の夏の漁の利益配當金、千五百フランを受け取つて船主の家を出て來た。彼はこの金を、家の習慣どほり母親の手へ渡しに行かうとしてゐた。この年は景氣が好かつたので、彼はすこぶる滿足して家路へついた。
ブルバラネクの近くまで來ると、路傍に人だかりがしてゐるのを見た。一人の年取つた女が杖を振りまはしてゐた。その周圍を子供等がとりまいて笑つてゐた。‥‥モアンの祖母だ!‥‥シルストルがあれほど慕つてゐたあの好い祖母が、衣服もしどけなくひきずり、破れて、みじめな老いぼれとなつて、路に人だかりをさせてゐた。‥‥これが甚く彼に苦しい思ひをさせた。
ブルバラネクの子供等は彼女の猫を殺した。そして彼女は杖を振り上げて、怒りきつて、つきつめた風で、子供等を嚇してゐた。――
『やい、あの子が居さへすりや、貴樣たちにこんな眞似はさせないぞ、させるものか、腕白どもめ!‥‥』
彼女は、子供等を追つ掛けて、毆らうとして、倒れたやうであつた。
ヤンはそんな筈はないことをよく知つてゐた。彼女は水のほか飮んだことのない立派な老女であつた。
『やい、そんな事をして恥かしかないか。』と、彼は、腕白共に、彼もまた腹立ちまぎれに、押しつけるやうな聲をしていつた。
と、子供等は脊の高いヤンの姿に、惶ててもぢ/\して、見る間に四方へ消えてしまつた。
ゴオドは丁度その時夜なべ仕事を持つてパンポルから歸つて來たが、遠くからそれを見掛けた、人だかりの中に祖母の姿を認めた。駭いて彼女は驅け出して、何事が起つたのか、祖母がどうしたのか、皆は祖母をどうしようとするのか見ようとした。――そして自分等の飼猫が殺されてゐるのを見ると、その始末が解つた。
彼女は打ち解けた眼をヤンの方へ擧げた。そして彼も眼を外らさなかつた。この時は二人とも避けようといふ氣は起らなかつた。けれど、ヤンも、彼女と同じやうに、さあつと頬へ血を潮して、二人とも同時に眞赤になつた。彼等は互ひにそんなに近く寄つてゐるのを少し憚るやうに、けれど、いやではなく、寧ろ心樂しく、愍れみ保護するといふ共通の考へで結びつけられて、眺め合つた。
久しい間、學校の子供等はこの哀れな殺された牝猫が、黒い顏をして惡相に見えるといふので憎がつてゐた。けれどこれは性質の好い猫で、手近で見ると、實際は穩かな甘つたれた顏をしてゐた。子供達は石を投げつけて殺して、眼を飛び出させてしまつた。氣の毒な老母は、まだぶつ/\嚇し言葉を出しながら、ひどく悲しさうに、よろ/\しながら、兎でも提げるやうに、猫の尾を掴んで持つて行つた。
『あゝ、あの子が、あの子が‥‥あの子さへこの世に生きてゐてさへくれたら、あんな奴等にこんな目に逢はされやしないんだ。どんな事があつたつて、こんな事はさせやしないんだ!』
彼女は涙のやうなものを流した。それが皺の中を流れた。太い青ずんだ血管の浮き出た彼女の手は顫へた。
ゴオドは頭布を直してやつた。そして孫娘の優しい言葉で慰めた。ヤンはまだ腹立たしかつた。子供等のくせに何といふ惡戲をするのだらう。哀れな年寄りにこんな眞似をしやがつて! 涙がまた殆ど彼の眼にも浮んだ――無論猫を愍れむ涙ではなかつた。彼のやうな荒つぽい若者等には動物を玩弄にする心はあつても、可哀さうだと思ふやうなことはない。けれど彼は、二度の子供に歸つたこの祖母が、尾を握つてその哀れな猫を提げて行く後からついて行くと、胸が痛くなつた。彼はその人をあれほど愛してゐたシルストルの事を思つた。そして彼はその祖母がこんなに馬鹿にせられ、そしてみじめな姿をして、その晩年を送るといふ事を、若しシルストルが豫想したら、どんな辛い思ひをしたことであらうかと思つた。
やがてゴオドは祖母の身なりを自分の責任のやうにして、言ひ譯した。
『こんなに穢れてゐるのは轉びなさつたからなんです』と、小聲でいつた。『もう新らしいものは着せてあげられないんです、實際、もう私達はお金がないんですからね、ヤンさん、でもあれは昨日つくろつて上げたばかりで、今朝わたしの出掛けには、まださつぱりして、しやんとしてゐたんですがね』
と、ヤンはぢいつと彼女を見詰めてゐた。かうした率直な言ひ譯は、巧みな文句や、非難や、涙が動かすよりは一層彼を感動させたやうであつた。彼等はモアンの小家の近くまで後先きになつて歩いた。――彼は、彼女が美しいといふ點では何人にも劣らなかつたといふことをよく知つてゐた。けれど彼女が貧しくなり親を失くしてから一層さうなつたやうに彼には思はれた。彼女の樣子は一層眞面目になり、彼女の亞麻色の眼の表情は一層愼ましくなつた。しかも、それでゐながら、その眼は一層深く、人の魂の底まで見拔くやうに思はれた。彼女の姿もまた發達しきつていた。彼女はやがて廿三歳になるのであつた。そして美しさの眞盛りであつた。
それに、彼女はいまは漁師の娘らしい身なりをして、飾り氣もない黒い着物と、極く質素な頭飾とを着けてゐた、しかも何處ともなく淑女らしい樣子があつた。それは彼女のなかに隱れてゐる無意識な或るものであつた。これについては彼女がかれこれ言はれる筈はなかつた。たゞそれは彼女の
思ひきつて彼は彼女等について行つた――無論彼女の家まで。
彼等三人は猫の葬ひでもしに行くやうに一緒に歩いてゐた。そして彼等が列をつくつて歩いて行くのを見るのは、今となつては少し滑稽でもあつた。それが戸口に立つてゐる人々を笑はせた。老イヴォンヌが猫を提げて眞中に、その右にはゴオドが困つたやうに、やはり顏を赧めながらつき添ひ、その左には脊の高いヤンが頭をきつと擧げて、考へ込むやうに歩いてゐた。
けれど、氣の毒な老婦は、この途中で、ふと氣が靜まつてしまつた。彼女は自分で頭布を直したり、そしてもう何も言はなかつたが、また晴々しくなつて來た眼の隅から、代る/″\二人を眺めだした。
ゴオドは二度と口を開かなかつた。それを機會にヤンが別れて行きはしまいかと氣遣はれた。彼女は彼が與へた親切な優しい眼の下で、ゆつくりしてゐたい、眼を閉ぢて他に何も見ないで歩いて行きたい。其處へ行けば何もかも消えてしまふ自分等の空虚な陰氣な小家へ餘り早く着かないで、かうして長い長い間、夢心地で彼と並んで歩いて行きたいと思つてゐた。
家の戸口では、急に胸の動悸も止まるかと思はれるやうな心もとない瞬間があつた。祖母が振り返りもしないで家の中へはいつた。やがてゴオドがためらひながら、そしてヤンも、彼等の後からやはりはいつた‥‥
彼はこれまでに初めて、おそらく、別に用もないのに、彼等の家にはいつたのであつた。何を彼はしようといふのであらう?‥‥彼は閾を跨いだ時に、ちよつと帽子へ手を掛けた。そして彼の眼が、第一にさゝやかな黒珠の喪飾をつけたシルストルの肖像の上へ落ちると、彼は墓石へでも近寄るやうに、その方へ靜かに歩み寄つた。
ゴオドは卓の上へ手をついたまゝぢつとして立つてゐた。ヤンは今度は周圍を見まはした。そしてゴオドは、ヤンがそんな風にして彼等の貧しさを默つてしらべてゐる後を追つてゐた。この二人の破産したたよりない女達が住んでゐる家といつては、健氣に取り片づけてはあつたものの、いかにも實際貧しいものであつた。おそらく彼も、彼女がかうした見じめな姿に、擦り減らした石壁や草屋根やの中に住むやうにさせられたのを見ては、彼女に對して少しは優しい愍れみを起したでもあらう。もう彼女の以前の豐かな樣子は何も殘されてゐなかつた。彼女の白い寢臺のほかには、彼女の美しい、寢臺のほかには。そしてヤンの眼は知らず/\その寢臺の上にとゞまつた‥‥
彼は一語も物を言はなかつた‥‥何故彼は出て行かないのか‥‥はつきりした氣分の時はまだ心の細かに働く老祖母は彼に氣を置かない振りをしてゐた。さうやつて彼等は互ひに默つて、落ち着かない心持で向き合つて立つてゐた。やがて何か大事なことを訊ねようとでもするやうに、互ひに顏を見合せてゐた。
けれど刻々に時が經つた。そして一刻ごとに彼等の間の沈默が一層凝結するやうに思はれた。そして彼等は、現はれて來るのに手間どれる或る異常な出來事を嚴かに待つてでもゐるやうに、一層深く眺め合つてゐた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
『ゴオドさん』と、彼は低い沈んだ聲で訊いた。『もし貴女が今でも‥‥その積りなら‥‥』
彼は何を言ひ出さうとしてゐるのか?‥‥何か大きな決心が、いつも彼のするやうに突然に、また不意に起つて、それがまだはつきり言ひ切れないでゐるやうに見えた。
『若しあなたが今でもその積りなら、‥‥漁も今年は景氣が好かつたし、それに金も少しは身に着いたから‥‥』
若し彼女が今もその積りなら‥‥何を彼は彼女に求めるのか? 彼女は聽き違ひをしはしなかつたか? 彼女は自分に解つたつもりの、その無限の思ひに度を失つた。
そして老イヴォンヌは何か幸運が來かゝつてゐると身に感じて、片隅で耳を澄ましてゐた‥‥
『私達は結婚してもいゝですよ。ゴオドさん、若しあなたが今もその積りなら‥‥』
そして彼は彼女の返辭を待つた。その返辭はなかつた‥‥何が彼女に『はい』と言はせないのか? 彼は驚いた。怖れた。それは彼女にもよくわかつてゐた。卓の上へ兩手をついたまゝ、眞青になつて、眼にぼつと曇つて、彼女は物が言へなかつた。そして死の迫つた美しい娘のやうな樣子をしてゐた。
『さあ、ゴオドや、返辭をおし』と、老祖母は立ち上つて、二人の方へ寄つて來て、いつた。
『この娘はどぎまぎしてしまつたのだよ。ヤンさん、氣を惡くしておくれでないよ。今考へて、直ぐ返辭をするから。‥‥まあ、坐つてお呉れ、ヤンさん、そして一緒に
けれどまだ、ゴオドは答へが出來なかつた。嬉しさに取り詰めて言葉が口へ出て來なかつた、‥‥やはり彼は善い人であつた。情の深い人であつた。彼女は復び彼を見出した、彼女の眞のヤンを、どんなにつれなくしても、どんなに烈しく拒まれても、どんなことがあつても、彼女が自分のものとして見ずにはゐられなかつたその人を復び見出した。彼は長い間彼女を振り捨ててゐた。今や彼女を受け入れた。――しかも彼女が哀れな樣になつてゐるいま。これがこの人の本心であつた。勿論、彼は或る動機を持つてゐた、それは後になれば彼女にも判るであらう。けれど、この時はその説明を求めようとは夢にも思はなかつた。また過去二年間自分に悲しい思ひをさせた怨みを言はうとも思はなかつた。‥‥のみならず、總てそれ等のことは忘られてしまつた、總てそれ等のことは一瞬の間に、今彼女の生命の上を通つてゐる愉しい旋風のために、遠く運ばれてしまつた。彼女はまだ口を噤んだまゝで、たゞ、彼の魂の底まで見入るやうな漂ふ眼つきだけで、自分の心のほどを見せてゐた。と、烈しい涙の雨が彼女の兩頬を流れ出した。‥‥
『あゝ、有難いことだ』と、祖母モアンがいつた。「わたしからも、お禮を言ひますよ。これでわたしも長生きしてゐた效があつた、これを見て死ぬのが悦しい』
彼等は互ひに手を取り合つて、向き合つたまゝ、ぢつと立つてゐた。そして言ふべきことも、愉しい言葉も、適當な意味を持つたどんな文句も、この愉しい沈默を破るに足りるやうに思はれる何ものも見出せなかつた。
『さあ、接吻だけでもおしよ‥‥まあ、二人ともなぜさう默つてゐるのだえ。まあ、ほんとにをかしな人達だね。‥‥さあ、ゴオドや、何とかこの子にお言ひよ、ね。わたしなんかの若かつた頃は、婚禮の約束が出來ると、接吻したものだよ』
ヤンは不意に何か大きななみならぬ敬虔の情にでも捉へられたやうに、身を屈めてゴオドに接吻する前に、帽子をとつた――そしてこれが、彼がこれまでにした初めての眞の接吻のやうに思はれた。
彼女もまた、抱愛の修練なき鮮かな脣を、海が金色に染めた戀人の頬に心からあてて、接吻した。丁度その時思ひがけなくも、石壁の間で、蟋蟀が祝ひを歌ひ出した。そしてシルストルの哀れな小さな像は、その黒い喪飾の中から彼等に微笑むやうであつた。そしてあらゆるものが急に活氣づいて、死のやうな小家の中を生々とさせた。沈默はなみ/\ならぬ樂の音で充たされた。小さな窓から射し込む青白い冬の薄明りすら美しい魅力ある光りとなつた‥‥
『それはさうと、二人の婚禮は氷島から歸つてからするのかえ?』
ゴオドは俯向いた。氷島「レオポルデイヌ」、――あゝ、さうだつた! 彼女はこれ等の怖ろしいものが途に在ることを忘れてゐた。――氷島から歸つてから!‥‥何といふ長いことだらう。また心配して待ちこがれる一夏! そしてヤンも深靴の先きでせつかちに床をこつ/\させて、せき込んだ。急いだらば出帆前に式を擧げる暇があるかどうかと手早く目算を立てて見た。屆書の始末に幾日、教會の結婚公示が幾日、さうだ、さうすれば婚禮の式は月の廿日か廿五日にはどうにか濟まされる。さうすれば故障さへ起らなければ、式後一週間は十分一緒に暮らされる譯だ。
『まづ第一に歸つて親爺に話しませう』彼は彼等の生活の刹那々々すら今は限られた貴いものであるやうに急き込んで、かういつた‥‥
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戀人等はいつも日暮になると家の前の腰掛へ寄り添うて腰を掛けてゐることが好きである。
ヤンもゴオドもこの習はしに從つた、二人は、日暮になるといつも、モアンの家の戸口の舊い石の腰掛へ腰をおろして戀に耽つてゐた。
他處ではもう春のさかりで、樹蔭や、暖かな夕暮や、薔薇の花の盛りであつた。けれど、彼等には、はりえにしだや石ころに充ちた海沿ひのこの國の上へ落ちる、二月の薄明りのほかはなにもなかつた。彼等の頭の上には緑の枝もなく、彼等を繞らしてたゞ濶い空のひろがりがあるばかり、その空をば浮き動く霧が徐かに流れて行つた。そして花といつては、漁師達が波打際から登つて來る時、網につけて來て小徑へ散らした鳶色の藻草があるばかりであつた。
このあたり一帶は潮流に温められて、冬はさほど嚴しくはなかつた。けれど黄昏はとき/″\冷たい濕氣と、細かな目にも見えない糠雨とを持つて來て、彼等の肩においた。
それでも二人は、愉しい心持で、その場處を立ち去らなかつた。そしてこの腰掛は百年以上もたつてゐるので、これまで、數多い戀を見て來たので、二人の戀にも別に驚きはしなかつた。その石は、幾代も幾代も、若人等の口から出る同じ愉しい言葉を聞いて來た。そしてそれ等の戀人達が後にはよろ/\する老人になり、顫へる老媼となつて、同じ場處へ腰掛けるために返つて來るのにも見馴れてゐた――けれど、その時は黄昏時ではなく、日中で、老年者等は其處へ來て、少しばかりすが/\しい空氣を吸ひ、彼等の最後の日光に身を温めるためであつた‥‥
とき/″\祖母イヴォンヌは彼等を見るために戸口から頭を出した。それは二人が一緒になつて何をしてゐるか心配するのではなく、たゞ二人を見るのが悦しいので、その優しい心からと、また二人を家の中へ呼び入れようとするためであつた。彼女はいつもかういつた、――
『寒からうに、お前達、病氣になるよ、ほんとにまあ、こんなに遲くまでそとにゐて、何か好いことでもあるのかえ?』
寒い! 彼等は寒いなどと思つたであらうか? 彼等は互ひに寄り添つてゐる愉しさのほかにどんなことか少しでも心に思つたことがあつたらうか?
夕がた路を通つて行く人達は、海が崖の下へよせて來て立てる轟きとまじつて、二つの聲がしめやかに囁いてゐるのを耳にした。それはいかにも調和した樂の音であつた。ゴオドの生々しい聲と、沈んだ調子の中に、樂しい懷かしい抑揚のあるヤンの聲とが交々聞えて來た。人々は二人が背を凭せかけてゐた石壁の上に隅どつた二つの姿をとめて見ることが出來た。第一にゴオドの
けれど、やがて二人は家へはいつて爐邊へ坐つた。そして老イヴォンヌは直ぐ頭を垂れてうと/\眠つてしまふので、若い二人の戀人等の妨げにはならなかつた。二人は沈默の二年間の補ひをするために、またその婚約期間が餘り短かいので、心せはしくそれをすごすために、また小聲で話しはじめた。
彼等は祖母イヴォンヌと一緒に住むことに決めてゐた。そして祖母も遺言書で自分の小家を二人に讓ることにしてゐた。差しあたつては、彼等は暇がないので、別にその家へ修繕も加へないことにした。ヤンが
或る夕方、彼は、二人が初めて逢つた時からの彼女の仕たことや、彼女の身に起つたことやの澤山のこま/″\したことを擧げて興がつてゐた。彼は、彼女が身に着けてゐた服裝や、彼女が見にいつてゐた祭のことについても彼女に話し出した。
彼女は非常に駭いて聽いてゐた。どうしてそんなことまでみんな知つてゐるのだらう? 彼がそんな事にまで氣をとめて、又そんな事をみんな覺えてゐようと何人が想像したであらうか?‥‥
彼は、そんな不思議なことをして、微笑んだ、そしてなほ他の細かなことを、彼女が殆ど忘れてしまつたやうな事までも話した。
すると、彼女はもう少しも彼の邪魔をしないで、全く自分を捉へた思ひ掛けない悦しさで、彼が話すまゝに聽きいつてゐた。彼女は、彼もまたこれまで自分を戀してゐたのだといふことを推量し始めた。了解し始めた。‥‥彼女は彼の意中の者であつた、彼はそれを今や素直に打ち明けてゐた!‥‥
だが、一體どうしたのだらう。どういふ事があつたのであらう。なぜ彼はあれほど彼女をはねつけて、あれほど彼女を苦しめたのであらうか?
この不思議をいつも彼は打ち明けると約束して置きながら、その説明となるといつも、當惑したやうな顏つきをして、譯のわからない風に笑ひだして、それを延び延びにさせた。
或る麗かな日に彼等は祖母イヴォンヌと一緒に、婚禮の晴衣を買ひにパンポルへ行つた。
ゴオドが以前から殘してあつた立派な着物のなかには、まだ直しさへすれば、別に何も買はないでも、今度の事には十分役立つやうなものがあつた。けれどヤンはその贈物を彼女にしてやらうと思つた。そして彼女はそれを拒む筈はなかつた。彼が漁に行つて働いた金で買つてくれる着物を持つといふことは、それだけでも既に彼の妻になつたといふ心持を彼女に起させた。
彼等は、ゴオドがまだ父の喪にゐるといふので、黒地を選んだ。けれどヤンは自分等の前へ展げられた布のなかでは氣に入つて美しいものは、何も見出さなかつた。彼は商人等には寧ろ應柄な方であつた。そしてこれまでパンポルの店家なぞへなに一つ買ひにはいつた事もなかつたが、この日は何もかも心をつけ、着物の仕立方にまでも氣をとめた。彼はその晴着を一層引き立たせるために天鵞絨の幅廣で縁取らせると言ひ出した。
或る夕方、彼等は淋しい崖の石の腰掛けの上に坐つてゐたが、夜の影の落ちて來るなかで、彼等の眼はふと茨の藪の上にとゞまつた、――あたりにはたゞ一つその藪が路傍の岩の間に茂つてゐるばかりであつた。薄闇のなかで、彼等はその藪の上に小さな輕々とした白い花房を見とめたやうに思つた。
『花が咲いてゐるやうだね』と、ヤンがいつた。
そして二人にそれをたしかめにその方へ寄つて行つた。
一ぱいに花がついてゐた。はつきりわからないので、その小花の群のあるのを確かめるやうに、彼等は指で觸れて見た、それ等は霧でしつとり濡れてゐた。と、あわたゞしい春の最初の印象が彼等の胸を打つた、と同時に、彼等は日が長くなり、空氣が一層柔らかくなり、夜が一層明るくなりだしたことに氣がついた。
それにしてもいかにもこの藪は氣早であつた! 何處にも、この附近の路傍には、この藪のやうに花の咲いたものは見當らなかつた。たしかにそれは、彼等のために、彼等の戀を祝ふために、わざ/\其處に咲き出したのであつた‥‥
『あゝ、この花を採らうぢやないか』ヤンがいつた。
そしてほとんど手搜るやうにして、彼は武骨な手で花束を作つた。皮帶につけてゐた漁師用の大きなナイフで叮嚀に刺を拂つて、その花束をゴオドの
『さあこれで、花嫁さんのやうだよ』と、彼は、闇の中ではあつたが、それが彼女に似合ふかどうか見ようとするやうに、後へ退きながら言つた。
彼等の下の方では、極く穩かな海が、眠つてゐる時の呼吸のやうに規則正しく、少し間を置いて、ざぶん、ざぶんと、汀の小石に輕く打ち當たつて碎けてゐた。直ぐ間近で、彼等が戀に耽つてゐるのに無關心なやうな、また好意あるもののやうな風を見せてゐた。
夕べ夕べの來るのを待つ二人の身には、日中が長いやうに思はれた。そして彼等は十時が打つて分れる時には、それがもうすんでしまつたので、殆ど元氣が無くなるやうに感じた‥‥
彼等は急いで、急いで、仕度しなければならなかつた、屆書のことにも、何事にも、手遲れにならないやうに、そして彼等の前に來てゐる幸福が、秋までも、當てのない未來までも延ばされてはならないやうに‥‥
二人の戀仲は、かうした寂しい場處で、海の不斷の響きのなかで、時の進むにつれて狂ほしいほどな焦燥をもつて、宵々毎になされて、それ等のことから、域る特殊な殆ど陰氣なものになつて來た。彼等は他の戀人等とは違つて一層眞面目で、一層自分等の戀について氣づかつてゐた。
今となつても、やはり彼は過去二年間彼女に對しての仕打を話して聞かせなかつた。夜、彼が分れて行つた後で、この不思議がゴオドを惱ました。けれど、彼は彼女を十分に愛してゐた。それは彼女が良く知つてゐた。
確かに彼はこれまでも彼女を愛してゐた、けれどそれは今のやうではなかつた。それは彼の心と頭との中で、ちやうど潮が次第々々に高くなつて來てあらゆる物を充たすやうに、次第に増して來た。彼はこれまで、こんな風に何人をも愛した經驗はなかつた。
時々石の腰掛の上へ體躯を十分に伸ばして臥て、子供らしい惡戲心から、撫でてでも貰ひたいやうに、ゴオドの膝の上に頭を置いた。と思ふと、急に、禮儀を重んずる心から、體躯をちやんとしたりした。彼はゴオドの足許の地面へ寢轉んで、彼女の着物の裾に額を當て、いつまでもさうしてゐたかつた。彼は來た時と、分れて行く時には、兄妹のやうな接吻はしたが、それ以外決して彼女に頬ずりするやうなことはしなかつた。彼は彼女のなかに籠つてゐる何かしら目に見えない或るものを尊んだ。それは彼女の魂であつた。それは彼女の澄んだ靜かな聲音のなかに、彼女の微笑の表情のなかに、彼女の美しい潤ひのある眼のなかに、自づと現はれてゐた。
と、同時に、彼女が他の何人よりも一層美しい、一層望ましい肉體をした女であるとも考へた。そしてその女が間もなく、以前の女たちと同じく完全に、それがため彼女自身たることをやめないで、全く自分のものになるのだとも考へた!‥‥この考へが彼を心髓までも慄はせた。彼はこんな甘醉がどんなものだかを豫め思ひまうけないで、こんな悦しい冐涜を敢てするかどうかを考へて、愼みぶかく、思ひを其處に止めなかつた‥‥
或る雨の夜、彼等は爐邊に身を寄せて坐つてゐた。彼等の祖母イヴォンヌは彼等の前で眠つてゐた。爐の中で薪の間で跳つてゐる焔は、黒い天井へ巨きな影をゆら/\させてゐた。
彼等は總ての戀人等がするやうに、極く低い聲で話し合つてゐた。けれどその夜は、彼等の會話の間に、長い、まの惡い沈默があつた。ことに、彼は殆ど何も言はなかつた。そして頭を下げて、ちよつと微笑を浮べて、ゴオドの眼を避けるやうにしてゐた。
それは、その夜にかぎつて、彼女が彼にこれまで言はせる手段のなかつたその不思議な仕打について、しつこく問ひ迫つたからであつた。そして今度は彼も脱れる途がないと見た。彼女が飽く迄でも鋭く、飽く迄でも知らうと心を定めてゐたので、如何なる逃げ口上も彼をこの難關から救ひ出しさうでなかつた。
『何か私の惡口でも、何人かいつたからなんですか?』と、彼女は訊いた。
彼はさうだともいつて見た。惡口、さうだ!‥‥パンポルやブルバラネクではずゐぶん惡い評判が有ることもあつた‥‥
それがどんな惡口であつたかと彼女は訊いた。彼は當惑した。そして何と言つて好いか知らなかつた。と、彼女はそれではきつと何か他の事があるに違ひないと思つた。
『ぢや、わたしのお化粧のことで? ヤンさん』
化粧のことがいくらかの評判になつたことも彼は確かに知つてゐた。一時、彼女は質素な漁師の女房になるには向かないほどに飾つてゐたことはあつた。けれど、彼はたうとうそんな事が總てではないといふことを打ち明けずにはゐられなくなつた。
『ぢや、あの時分わたし達の家が金持だと言はれてゐたからなの? あなたが斷られやしないかと心配なすつて?』
『いや! そんな事はありやしない』
彼はこの答へをいかにも卒直に請け合ふやうな風にしたので、ゴオドは悦しかつた。するとまた暫く沈默がつゞいた、そして風と浪との唸りが戸外で聞えてゐた。
彼をぢつと見詰めてゐるうちに、或る考へがふと彼女の胸へ浮んで來た。そして彼女の顏つきは次第に變つて來た。
『そんなことぢやないんですつて、ヤンさん、それぢや、一體、何?』と、彼女は、不意に彼の眼のなかをぢつと見込んで、相手の胸を讀んだ者の抗し難い糺問の微笑を見せながらさういつた。すると彼は頭をわきへそらして、はつ、はつと笑ひ出した。
やつぱりさうだつた。彼女が看ぬいた通りであつた。譯といつて、別に言ふべきものはなかつた。何も理由はなかつた。何も彼は持つてゐなかつた。さうだ、たゞ、彼は飽くまで片意地であつた(シルストルが甞て言つたやうに)、そしてそれだけであつた。けれど一つは皆がゴオドのことでうるさく彼に言つたからでもあつた! だれでもそれをかれこれと言つた、彼の兩親でも、シルストルでも、彼の仲間の
そして二年の間、ゴオドを憔れさせ、打つちやり、死ぬほどの思ひをさせたのもこのヤンの子供らしい心からであつた‥‥
突きとめられて當惑して、最初は笑ひだしたが、やがてヤンはぢつと眞面目な善良な眼をして、ゴオドを見詰めた。今度はその眼が、自分を宥してくれるかどうかと、思ひ込んだ風に訊いてゐた。彼は今では、彼女をそれほど苦しめたことをしみ/″\後悔した。自分を宥してくれるだらうか?‥‥
『これが私の性質なんだ。ねえゴオドさん』と、彼はいつた。『家で、親爺や母親に對してもやはりこの通りなんだ。時々、こいつが頭へ來ると、私はみんなに怒つてでもゐるやうに、一周間ぐらゐつてものだれにも物を言はないでゐることがある。そのくせ家の者はみな十分愛してはゐるんだ、ねえ。そしていつでも終ひには、十歳ぐらゐの子供かなんかのやうに、みんなのいふ通りになつてしまふんだ‥‥あんたは私が結婚する積りはなかつたと思ふか知らないが、さうぢやないんだ。そんなことがどうしたつて長つゞきのする筈はなかつたんだ。ねえゴオドさん、そりやまつたくなんだ』
彼女が彼を許したとしたら! 彼女は涙が靜かに湧いて來るのを感じた。そして彼女のこれまでの悲しみが殘つてゐたとしても、彼女のヤンのこの告白で跡方もなく消えてしまつた。それに、彼女の過去の總ての惱みがなかつたならば、現在もこれほど愉しいことはなかつたであらう。それが過ぎ去つた今は、この試錬の時を經驗したので寧ろ彼女は一層愛を深くした。
もはや二人の間には何もかもがはつきりしてしまつた。實際、思ひ掛けないふうにではあつたけれど、一切が判明してしまつた。もはや彼等二人の魂の間には何の隔てもなくなつた。彼は彼女を自分の方へ、自分の腕の間へひきよせた。そして彼等は長い間頭をつけ、頬を擦り寄せ、何の説明をする要もなく、何もものを言ふ必要もなく、そのまゝぢつとしてゐた。しかも彼等の抱擁は決して心疚しいものではなかつた。それ故祖母イヴォンヌが起きて來た時も、彼等は少しの當惑もしないで、祖母の前でぢつとそのまゝの姿をしてゐた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
氷島へ出發する六日前であつた。
二人の婚禮の行列は、重い黒い空の下を、烈しい風に追はれて、ブルバラネクの會堂から歸りかけてゐた。
二人が腕を組み合はせて、王者のやうに長い行列の先頭に立つて、夢見げはひに歩いてゐる姿は立派であつた。ものしづかに、落ち着いて、眞摯で、何物にも目をくれず、この世の生活を支配し、あらゆる物の上に臨んでゐるやうであつた。風でさへも彼等に敬意を拂つてゐるやうであつた。彼等につゞく行列は、西風のどほつと吹いて來るのに惱まされて笑ひ興ずる、幾對の男女の樂しげな大騷ぎであつた。多くの若者等の中には生氣が溢れてゐた。また、頭髮は白くなりかけてはゐたが、自分等の婚禮の日や、新婚當時なぞを思ひ出して微笑んでゐる人々もゐた。祖母イヴォンヌも他の者と一緒に其處にゐた。氣拔けしたやうであつたけれど、やはり幸福な心持で、ヤンの年寄つた伯父の腕に倚りかゝつてゐた、この老人は彼女に昔風の愛想を言つてゐた。彼女は特に今度の事のために買つて貰つた美しい新らしい頭布を着けてゐた。またシルストルを思ふ心から、――黒い、三度まで色上げをした、いつもの小さな肩掛をしてゐた。
そして風はこれ等の客人を無差別に吹き動かした。裾が吹き擧げられ、着物が吹き捲られ、帽子や頭布やが吹き飛ばされた。
會堂の戸口では、花嫁花婿は吉例で、祝ひの晴衣を飾るために造花の花束を買つた。ヤンは自分の買つたのをその廣い胸の上へつけたが、彼は何でもよく似合ふ人であつた。ゴオドは何處かにまだ殘つたゐた[#「殘つたゐた」はママ]お孃さんらしい風で、その哀れな粗末な花を自分のコルサアジュの上にピンでとめた。――その上衣は以前のやうに、彼女の優美な姿にぴつたりついてゐた。
提琴彈きは行列の先頭に立つてゐたが、風に亂されて、めちやくちやに彈いてゐた。その樂の音はフツ、フツと切れ/″\に人々の耳へ聞えた。そして突風の騷音のなかでは、かすかに、おどけた海鴎の啼聲よりも一層キイ、キイ鳴り渡つた。
ブルバラネクの者はみな彼等を見に出て來た。この結婚には何かしら人々を熱せさせるものがあつた。そしてみんな遠く八方から出掛けて來た。路の辻々には到る處、彼等を待ち受けてゐる人々の群があつた。パンポルの殆どすべての
そして附近の小さな村々からは、極く人里遠い、至つて暗い、森の中の村々からさへ、乞食や、びつこや、風癲者や、白痴やなどが
人々はポル・エヴァンの小村をも、ガオの人々の家をも通り越して、なほ行列を續けて行つた。彼等はブルバラネク地方の新婚者等の古くからの習慣に從つて、ブルトンの國の端れともいふべきラ・トリニイテの禮拜堂へと向つて行くのであつた。
その禮拜堂は、最端の斷崖の下に、低い岩の閾の上に、水に接して立つて、半ば水中のものの如くに見えてゐる。其處へ降るには、花崗岩の間のうね/\した細徑を下つて行かなければならない。で、この婚禮の行列は、岩の間のこの隔絶した岬の傾斜の上でばら/\になつた。そして彼等の賑やかな愛想好き話し聲は風や波の騷ぎのなかに全く沒せられてしまつた。
その禮拜堂までは到底行けさうでなかつた。さういふ荒い天氣ではその細徑は安全でない。海は直く近くまでどつと打ち當たつて來た。その白い波束は高く跳り上つたかと思ふと、落下して、あらゆるものを浸すやうにざあつと擴がつた。
ゴオドを腕に凭りかゝらせて、眞先きに進んでゐたヤンはその波の飛沫の前を第一に退いた。背後には、その行列が
振り返ると、彼はヴィオロン彈きが灰色の岩へ取りついて、風の吹き過ぎる合間々々に、コルトルダンスの曲を彈かうとしてゐるのが眼についた。
『おい君、彈いてくれ』と、彼はその男に言つた。『海も我々のために違つた音樂をやつてゐるぜ、あの方が君のよりや餘程よささうだ‥‥』
その時ちやうど朝から今にもと嚇してゐた雨が烈しくどしやぶりに降り出した。するとみんな氣狂ひのやうに散らばつて、ぎやつ/\叫んだり、笑つたりして、崖の上へ驅け上つて、ガオの人々の家へ逃げ込んだ‥‥
婚禮の祝ひはヤンの兩親の家ですることにした。ゴオドの家はあまり見窄らしいからといふのであつた。
それは二階の大きな新らしい室で開かれた。二十五人が新夫婦を取り卷いて食卓に着いた。ヤンの兄弟姉妹や、從兄で水先案内をしてゐるガオや、老船「マリイ」の乘組で、今度「レオポルデイヌ」へ乘つて行く連中のゲュエルムルや、クラエズや、イヴォン・デュフや、それに愛くるしい四人の花嫁づきの娘もゐた。この娘等は昔のピイザンスの皇后のやうに耳の上へ編髮を圓く束ねて、若い娘達の間の新流行の貝殼形の白い
階下でもやはり、勿論、みんなが料理をしたり、物を食べたりしてゐた。行列をつくつてゐた人々はみんな其處へごた/\集まつてゐた。そしてパンポルから手傳ひに頼まれて來た女共は、鍋や壺などの一ぱいになつてゐる大きな爐の前でまご/\してゐた。
ヤンの兩親は、實は、もつと金持の娘を息子の嫁に貰ひたかつたでもあらう。けれどゴオドは今では心掛けの好い健氣な娘だとは何人でも知つてゐたし、それに身代こそ無くなつたけれど、この界隈切つての縹緻好しではあつたし、かうも似合つた二人を並べて見るのが彼等には悦しかつた。
年寄つた父親はスープの後で、快濶に、今度の婚禮について言ひ出した。
『これでまたガオの奴等が一層殖えるといふものでさあ。もつとも今ではブルバラネクでこの種は斷えねえですがな』
そして指勘定をしながら、ガオの姓を名のる者がどれほどゐるかを、花嫁の叔父に説明した。彼の父親は九人の兄弟の一番の末弟で、子供が十二人あつた。それがみんな從兄妹同士結婚したので、
『それからわしも』と、彼はいつた。『わしも、みうちの者を、同姓の者を女房にして、二人で十四人の子供をなしましたぢや』
そして自分の一族のことを考へて、白髮頭を搖りたてて興がつた。
實際、彼がこの十四人の小さなガオの輩を育て上げるにはどれだけ骨が折れたことであらう。けれど今ではそれ等がそろ/\身の仕末をつけるやうになつて來たし、それに難破船の一萬フランが、實際みんなを樂に暮らさせるやうにはなつてゐた。
隣席のゲュエルムルもやはり同じ氣輕な調子で、自分の「
彼が何よりも忘れずにゐた事の一つは、「イフィジェニイ」艦上で起つたことであつた。もう薄暗くなつて來た或る夕方、みんなして酒庫へ酒の給送をしてゐた。すると酒を送りこむ
すると、食卓についてゐた老水夫等は、ちよつと惡戲心を起して、子供のやうに、心からをかしがつた。
『みんな「勤務」を厭がるけれど』と、それ等の者がいつた。『まつたく、そんなうまい事は、ほかには無いて』
戸口では天氣は好くなるどころか、風と雨とは濃い闇の中で荒れ狂つてゐた。なかには、前から用心はして置いたものの、彼等の船や、港に繋いで置いた小舟のことが氣に掛つて、それを見りに行かうと言ひ出すものもあつた。
けれど、一層賑やかな他の騷ぎが階下から聞えて來た。其處ではその婚禮へ集まつた一層若い人達が寄つて夕食をしてゐた。それは、
彼等は肉の煮たのや、
彼等は漁のことや密輸入のことやを話し合ひ、船乘り達の日頃敵のやうにしてゐる税關の役人等の目を掠めるあらゆる工夫を論じ合つてゐた。
二階ではまた、みんなが晴れの席で、滑稽な冐險談を初めてゐた。
さうした話は、若い時分、世界ぢうを乘りした連中の間で、ブルトン語で交はされてゐた。
『香港で、知つてゐるだらう、あの「家」さ、そら彼處にあるあの「家」、あの狹い路地を登つて行くと‥‥
『あゝ、さうだ、』と、食卓の端にゐた、其處へ屡足を入れたもう一人の男が答へた。『さうだ、あの右手の方にある、あれか?
『それだ。で、その支那女達のところへさ、‥‥そこで、俺達三人だつたが、其處で用が濟んぢまつたんだ‥‥ひどい女達だつたんだぜ、まつたく、そりやひどい!‥‥
『あゝ! ひどいつて、そりやさうだらうさ』と、ヤンの親爺が無雜作にいつた。彼もまた、放埒な時代には、長い航海の後では、よくその支那女達を知つてゐた。
『それから拂ひとなると、その金をだれが持つてゐる?‥‥搜したもんだ、ポケツトといふポケツトをね――俺もねえ、貴樣もねえ、彼奴もねえ――だれにだつて一文だつてありやしねえ!――また來るといふ約束をして言譯けをしたもんだ。(そこで、彼はその日にやけた粗い顏をねぢらせて、驚いた支那女のやうなしなをした)。けれど、その婆さんいつかなきかないで、ぎやあぎやあと大騷ぎをおつぱじめてしまつたんだ、そして、その黄ろい手脚で俺達を引つ掻くといふ始末だ。(今度はその尖つた聲色を眞似て、その怒り立つた婆さんのやうに、眼をぐる/\はし、指でその眼の角をつり上げて、しかめ面をした)。すると、今度は二人の支那人だ、二人だぜ‥‥つまり、その家の二人の持主だ、なあ、其奴等が門格子へ錠を掛けてしまつたんだ、俺達をなかへしめこんだんだ! で無論、其奴等の尻ぽをつかんだ、壁へ頭を打つ突けて、をどらしてやらうとしたんだ――が、しゆつ! 他の奴等が、彼處此處の穴から出て來やがる。一ダースはゐたな、俺達を打つ倒さうと棒を振り上げやがつて――それでもおづおづした樣子をしやがつて――俺は、丁度途中の兵糧に買つといた甘藷の束を持つてゐたんだ。こいつは丈夫なんだぜ、青いうちは折れはしない。でそれが猿どもを打ちのめすのに役に立つたのは、無論だ‥‥
だが、その時風が強く吹きつけて、恐ろしい突風のなかで、窓ガラスががた/\搖れた。そして、話手は不意にその話を切り上げて、立ち上つて、自分の小舟の見りに出掛けた。
他の一人が話し出した。
『俺が「ゼノビイ」號の水兵伍長で監督砲手をしてゐた時のことだ、アデンに碇泊してゐると、或る日駝鳥の羽毛を賣る奴等が艦へやつて來たものだ。(その調子を眞似て)「今日は、伍長さん。わしら泥棒ぢやねえんで。正直な商人で、へえ」、そこで、俺はいきなり鉤竿をとつて、一時に四段も追ひおろしてやつたんだ。「やい、この正直な商人奴、まづ俺にその羽毛を一束でも土産に持つてこい、さうすりや荷物を持ち込むことも許してやらないもんでもねえ。」こんな具合で、若し俺があんな馬鹿の眞似さへしなけりや(悲しさうな風をして)可成りな金を殘して歸れたかも知れねえだが、なにしろ、あの頃俺も若かつたし、‥‥それにツウロンに深間が一人あつて、化粧品の商賣をしてゐてね‥‥
ところが、その時、不意に、ヤンの一人の弟で、ゆく/\は
風は墮獄者の惱むやうに、烟突の中で咆えたててゐた。それがとき/″\恐ろしい力を出して、この岩床の上に建つてゐる家全體を搖すぶつた。
『俺達ばかり愉快をしてゐるので、風の奴怒つてゐると見える』と、從兄の水先案内がいつた。
『いやさうぢやない。海は不服をいつてゐるんだ』と、ヤンはゴオドを見て微笑しながら言つた。『俺は海と婚禮する約束だつたからさ』
けれど、一種不思議なけだるさがこの二人をとらへだした。彼等は他の人々が陽氣にしてゐる中で、取り殘されたやうになつて、手を取り合つて、低い聲で話してゐた。ヤンは酒が五官に及ぼす效果を知つてゐたので、その晩は少しも飮まなかつた。そして何人か氷島人の仲間がやがての夜について、水夫らしい冗談を言ふと、その大男が眞赤になつた。
時々彼は不意にシルストルのことを思ひ出して悲しくなつた。‥‥舞踏をとり止めにしたのもシルストルのためと、ゴオドの父親のためとであつた。
人々は食後の菓子を食べてゐた。間もなく歌が初まらうとしてゐた。けれど、その前に故人になつた家族の人々のために祈祷が上げられることになつてゐた。婚禮の席でこの宗教上の儀式は決して略されることはなかつた。やがて父親のガオが立ち上つて帽子をとつて白髮頭を出すと、周圍がしんと靜まりかへつた。
『これから』と、彼がいつた。『私の父親、ギュイヨオム・ガオのためにお祈りします』
そして身に十字を切つて、この死者のために羅典語の祈祷をはじめた、――
“ Pater noster, qui es in coelis, sanctificetur nomen tunm‥‥
(天にゐます我等の父よ。御名をあがめさせたまへ‥‥)
嚴かな靜けさが今度は階下までも、小さい者共の樂しげな食卓までも擴がつて行つた。家の中にゐた人々は、みなこの同じ不滅の詞を心の中で繰り返した。(天にゐます我等の父よ。御名をあがめさせたまへ‥‥)
『今度は氷島の海で死んだ、私の兄弟、イヴ※[#小書き片仮名ヱ、180-12]とジャン・ガオとのために、これは「ゼリイ」に乘り組んでゐて難破した倅ピェル・ガオのために‥‥』
やがて、ガオの家族のためにそれ/″\祈祷を捧げ終ると、彼は祖母イヴォンヌの方へ向いて、
『これは』と、彼は言つた。『シルストル・モアンのために』
さういつて彼は更に祈祷を繰り返した。するとヤンは泣いた。
――sed libera nos a malo. Amen.
(我儕を惡より拯出し給へ。アメン)
それがすむと、歌が初まつた。それらの歌は「(我儕を惡より拯出し給へ。アメン)
ヅウアブに負けぬ好き身體 、
われ等がうちの猛者ならば
人のさだめがなにかある
ウラ! ウラ! 水兵萬歳!
われ等がうちの猛者ならば
人のさだめがなにかある
ウラ! ウラ! 水兵萬歳!
歌の聯句は、心に滲みとほるやうな、思ひに耐へないやうな風に、新郎づきの一人の男に歌はれた。すると合唱が他の美しい深い聲々でなされた。
けれど新婚の二人にはそれ等總てが微かな遠いもののやうにしか響かなかつた。彼等が顏を見合はせた時、彼等の眼はかげつたランプのやうに、ぼつとした輝きでひらめいた。彼等はまだ手をとりあつたまゝで、一層低い低い聲で話してゐた。そしてゴオドは屡伏目になつて、身を捧げようとする君主の眼前で、次第にまして來る愉しい心の怯えに囚はれてゐた。
その時、水先案内の從兄は食卓をつて自分の葡萄酒をみんなに勸めた。彼はその罎を横にかかへて大切にして持つて來たのであつた。そしてそれは搖すつてはならないと言つた。
彼はその葡萄酒の來歴を話した。或る日のこと、漁をしてゐると、酒樽が一つ水の上を流れて來た。それは非常に大きなもので、船へ引き揚げる工風がつかなかつた。で、皆して海の上でその樽を開けて、めい/\持つてゐた壺や小椀に汲めるだけ汲んだ。けれど到底すつかり汲みきれないので、他の船の水先案内や漁夫達に合圖をした。見える限りの船がその發見した寶の周圍へ集まつて來た。
『その晩ポル・エヴァンへ歸つて來るのに、醉つ拂つてゐたのは一人や二人ぢやなかつたんだぜ』
風はまだ恐ろしい騷ぎをつゞけてゐた。
階下では子供等が輪舞を踊つてゐた。子供等の幾人かは――極く年下のガオどもは――もう寢床へはいつてゐた。が、殘りの連中は小フアンテク(フランソア、―佛語では)や小ロオメック(グュイヨオム―佛語では)が先きに立つて騷ぎ立ててゐた。この二人は戸外へ飛びだしたくて耐らないので、しつきりなしに戸を開けて見た。その度毎に風がどつと吹き込んで來て、蝋燭をゆら/\させた。
從兄の水先案内は自分の得をしたその葡萄酒の話を語り了つた。彼は四十本からの罎に詰めたのであつた。彼はその話を人にしてくれるなと頼んだ。その收得物は海事局の役人には屈けなかつたので、事が面倒になるからといふのであつた。
『だが、これはもつと氣をつけなきやいけなかつたんだ、これ等の罎は』と彼が言つた。『これらを澄ませる事が出來さへしたら、まつたく素的な酒になつてゐたんだがなあ。この中にや確かに、パンポルの小賣店屋の窖の中の奴なんかよりや、餘程澤山の
この難破船の葡萄酒が何處で出來たのやらそれは何人にも解らなかつた。それは強くて濃い色をしてゐて、海水が非常に混つてゐた。そして鹽つぽかつた。けれど皆はそれを非常に旨がつて、數本が空になつた。
みんなの頭は少しぐら/\して來た、聲の響きは一層こんがらかつた、そして男の子達は女の子等と頬ずりしあつた。
歌は樂しげに續いてゐた。けれどこの晩餐では、人の心に何となく落ち着きがなかつた。そして人々は刻々惡くなつてくる天候を氣遣つて、心配さうな樣子を見かはした。
戸外では荒々しい騷音がこれまでにないほど一層烈しくなつて行つた。幾千の荒れ狂ふ獸が頸を伸ばして、咽喉の限りに一時に咆え立てる、嚇しの、ふくらんだ、引きつゞく、一つの叫びのやうになつた。
みんなの者はまた遠方で、大きな海砲の恐ろしい、鈍い號聲が鳴るのを耳にしたやうな氣がした。けれどそれは、ブルバラネク一帶の土地、到る處へぶつかつて來る海の響きであつた。――實際、海は少しも滿足してゐないやうであつた。そしてゴオドは、自分等の婚禮の祝ひに何人もたのみもしなかつたこの恐ろしい樂の音で心の氣壓されるのを感じた。
眞夜中頃、嵐が少し凪いで來ると、ヤンは靜かに立ち上つて、自分の傍へ來て話すやうに、妻に身振りで知らせた。
それは彼等の家へ歸つて行くためであつた‥‥彼女は顏を赤くして、もぢ/\して、立ち上りかねた‥‥そして、他の人達を置き去りにして行くのは、無作法ではないかともいつた。
『いゝや』と、ヤンが答へた。『親父の許しが出たんだよ。歸つたつて構はないんだ』
そして彼は彼女を引き立てた。
二人はこつそり戸外へ出た。
戸外へ出ると、二人は、寒いなかに、恐ろしい風のなかに、暗い荒れてゐる夜の中に身を置いた。二人は手をとり合つて驅け出した。この崖の小徑の上からは、あらゆる騷音の湧き起つて來る荒れてゐる海の遠く擴がつてゐるのが、はつきりとは見られないが、それと知ることが出來た。二人は、烈しい風を眞正面に受けて、前へ屈むやうにして、時とすると、この突風に逆らひ、風にとられた息をつくために、口へ手を當てて、振り返らずにはゐられなかつた。
最初彼は彼女の腰へ手を掛けて身體を浮かせるやうにして、彼女の着物が地を摺つたり、彼女の華奢な靴が其の邊一面についてゐる水につかつたりするのを防いでゐたが、遂に彼女を全く擁へあげて、一層足早に走りだした。‥‥實際、彼はこれほど彼女を愛してゐるとは思はなかつた。そして彼女が廿三であり、自分がやがて廿八歳になると思ふと、二人は少くとも二年前に結婚してゐてもよかつたのだ、そして今夜のやうに幸福でもゐられたのであつた。
やがて彼等は彼等の家へ、草と苔との屋根をした、濕つた床をした、哀れな小さな家へ、着いた。――彼等は蝋燭をともした、それが二度までも風のために吹き消された。
年取つた祖母モアンは歌の始まらない前に家へ連れて來られて其處にゐた。そして自分の寢棚へはいつて、その入口を閉めて眠つて、もう二時間もたつてゐた。二人は恭しく彼女の寢てゐる方へ近寄つて、若しまだ眼が醒めてでもゐたら、お休みなさいと言はうと思つて、戸口の隙間から覗いて見た、けれど彼女の淨らげな顏は動かず、眼は閉ぢてゐるのを見た。彼女は眠つてゐたか、それとも二人の邪魔にならないやうにと、眠つた振りをしてゐるかであつた。
彼等は初めて二人だけになつたといふ心持になつた。
彼等は手を取り合つて身を慄はせた。彼は彼女の脣にキツスしようとして身を屈めた。けれどゴオドはさういふキツスを知らないので、脣を外らして、婚約の晩のやうに清らげに、ヤンの頬の眞中へ脣を當てた、その頬は風で氷のやうに冷たくなつてゐた。
彼等のこの小家はいかにも貧しく、如何にも低く、またいかにも寒かつた。若しゴオドが以前のやうに豐かであつたなら、こんな露き出しの床の上ではなく、綺麗な部屋をしつらへて、どんな樂しみをしたでもあらう。‥‥彼女はまだこれ等の荒い石壁や、いろ/\な粗末な姿をしてゐる物に十分馴れてはゐなかつた。けれど彼女のヤンが自分と一緒に其處にゐた。彼が其處にゐるといふだけで、總てのものが面目を變へてしまつた。そしてもう彼のほかは何も彼女の眼にははいらなかつた‥‥
今度は彼等の脣が合つた、彼女はもはやそれを外らしはしなかつた。やはり立つたまゝで、互ひに緊め合ふやうに腕をまはしてそこにぢつとしてゐた、終るときなきキツスの恍愡のなかに。彼等はせはしげな息づかひをまじへてゐた。彼等は烈しい熱病にでも罹つたやうに、二人ともひどく慄へてゐた、彼等はその抱擁を斷ち切る力もないやうに思はれた。それ以上何ごとも知らぬがやうに、この長いキツス以外には何も望まぬがやうに。
やがて彼女は、不意にあわてたやうに、身をはづした、
『いゝえ、ヤンさん!‥‥イヴォンヌお祖母さんが見るかも知れませんわ!』
けれど彼は、微笑して、なほも妻の脣を求めて、直ぐに自分の脣の間へとつた。いままで飮んでゐた清水のコツプを取りあげられた渇した者のやうに。
さうした擧動がいままでのおづ/\した悦びの魅力を斷ち切つてしまつた。最初のうちは、聖處女の前に跪いてでもゐるやうであつたヤンは、次第に身内が荒々しくなつて來るのを感じた。彼は眼のすみで、ちらつと舊い棚床を見やつた、が、祖母の近くにあるのに氣がさして、見られないたしかな工夫をこらしてゐた。やはりその悦しい脣をはなさないで、彼は背後へ腕をのばして、手の甲で、風が消しでもしたやうに、燈火を消してしまつた。
その時、不意に、彼は彼女をかゝへるやうに、兩腕で抱き上げた。口はやはり口へ當てたまゝで、彼は、獲物へ齒を立てる鹿のやうでもあつた。彼女は、この無上な抵抗不可能な奪取に身も心も打ち委せて、纏ひつく長い抱愛のやうに、ぢつとして柔らかであつた。彼は、暗いなかを、彼等の新婚の臥床たるべき「都會風」の美しい白い臥床の中へ、彼女を運んで行つた‥‥
彼等を繞つて、二人が新婚の初めての眠りのために、同じ目に見えぬオーケストラがまだ續いて奏されてゐた。
ヒユツ!‥‥ヒユツ!‥‥風は怒りに身を顫はせて、その
そして水夫等の廣漠たる墓場は間近にあつて、動きり、むさぼり喰ひ、同じ重苦しい攻撃を崖に打つけてゐた。いつの夜にかは、彼も黒い冷たい物の狂亂の中で、跪き爭ひながら、その中へ捉はれねばなるまい――彼等はそれを知つてゐた‥‥
それが何だ! いま暫くの間、彼等は、この無益な我と我が身に向ふ狂怒から防がれて、陸上にゐた。そして、貧しい暗い、風の吹き込む小家のなかで、彼等は互ひに身を打ち委せて、何の懸念もなく、死の懸念もなく、愛の永久の魔術に愉しく魅せられ、醉はされてゐた‥‥
彼等は六日間夫婦暮しをしてゐた。
出帆の間際は、氷島の事が總ての人の心を捉へてゐた。働く女達は鹽漬に使ふ鹽を船艙へ積み込んだり、男共は索具の整理などをした。そしてヤンの家では母親や妹達が朝から晩まで
ゴオドはかうした容赦なき準備に心苦しくも從つてゐた。彼女は日中の速かに過ぎゆく時間を算へて、一日の仕事が終つて、自分のヤンを自分一人のものとすることが出來る夕を待つた。
毎年、毎年、彼はこんな風に出て行くのであらうか? 彼女は彼を家に留めて置きたいと望んだ。けれど今はそれを彼に思ひきつて話さうとはしなかつた‥‥とにかく彼は心から彼女を愛してゐた。これまでの彼の女共を相手にしては、彼はこんな經驗をしたことはなかつた。いや、それはまつたく異つてゐた。これは同じキツスでも、同じ抱擁でも、彼女とならば、全く別のものであるほどに、打ち委せた爽かな、愛情であつた。毎夜、彼等の愛の甘醉は次第に増して、朝が來ても、飽くことを知らなかつた。
一つの驚きのやうに彼女を魅了した事は、時とするとパンポルの戀を仕掛ける娘達にあれほど蔑むやうな風を見せてゐたヤンが、彼女にはいかにも優しく、いかにも子供らしく思はれる事であつた。彼女に對しては、他の娘達へとは異つて、彼にあつてはいかにも自然らしく思はるゝ、その同じ親切をいつも彼は示してゐた。そして彼女は二人の眼が合ふ毎に彼がする優しい微笑が心から好きであつた。かうした率直な心をした者共は、妻の威嚴を認めて、それに對して或る情緒を、或る生れながらの尊敬を持つのである。一つの深淵が人妻と、快樂の對照物たる情婦とを引き離す、後者に對しては、人は輕蔑の微笑のなかで、直ぐ、夜のキツスを吐き出さうとする。ゴオドは人妻であつた。日中は、彼は少しも彼等の抱愛を思ひだしはしなかつた、これは二人が生涯一身同體であるかぎり思ふべきことではないやうであつた。
‥‥不安であつた、彼女は幸福のなかにゐて非常に不安であつた。この幸福は何かしら餘りに思ひ掛けないもので、夢のやうな不確かなものに思はれた‥‥
第一にヤンのかうした愛情が長くつゞくであらうか?‥‥彼女はとき/″\彼がこれまでの情婦や、熱情や、冐險やを思ひ出して、そして怖ろしくなつた。彼はいつまでも彼女に對するかうした無限の情愛を、かうした優しい尊敬を、持つてゐるであらうか?‥‥
實際、彼等のやうな愛情にとつては、六日間の夫婦生活なぞは何でもなかつた、彼等の前に長かるべきこれからの一生涯のほんのちよつとした夢中になつた先拂ひにすぎなかつた。彼等は殆ど互ひに話したり、見交はしたり、お互ひのものだとははつきり考へたりする暇さへないくらゐであつた。――そして彼等が一緒に住んで、穩かに悦しく暮らして、家を整へて行くべき總ての計畫は、彼の歸るまで伸ばさなければならなかつた‥‥
行く行くは、どんなことをしても、彼の氷島行きを防ぎとめなければならない!‥‥けれどどうしたらばそれが出來ようか? 二人とも金を持つてゐないのに、どうして暮しが立てられようか? それに彼は海の仕事をあれほど好いてゐるのに‥‥
彼女は何事があらうとも、いつかは彼を家に引き留めるやうにしよう。それにはあらゆる心力を碎いてもあらゆる智慧を絞つても、魂を盡してもしよう。
彼等はほんの一日だけ、春らしい日を持つた。それは出帆の前日であつた。船の艤裝もすつかり片づいてしまつたので、ヤンは終日彼女と一緒にゐた。彼等は戀人同士のやうに、腕を組み合はせて、ぴつたり體躯を寄せ合はせて、互ひに色々な事を話しながら道を歩いて行つた。人々は彼等の通るのを見て微笑んだ。
『あれがゴオドだよ、ポル・エヴァンの巨きなヤンと一緒に歩いてゐるんだよ、‥‥婚禮したてなんだ!』
二人のこの最後の日はいかにも春らしい日であつた。いつもは荒れ模樣の空に一片の雲もなく、不意にこんなに凪いだ日を見るのは珍らしく不思議であつた。そよとの風もなかつた。海は非常に穩かであつた。何方を見ても淡青い一色でまつたく凪ぎ切つてゐた。太陽は眩しい白い輝かしさで照り渡つてゐた。そして荒れ果てたブルトンの地方は或る貴重なものででもあるやうに、この光りで充たされてゐた。そしてその遠い隅々までも呼吸を吹き返し喜んでゐるやうに思はれた、空氣は氣持よく暖かになつてゐて、夏らしい感じすらあつた。そして永久動亂なぞもなさうで、暗い日や暴風などはもう決してなささうに思はれた。岬や灣の上にも雲の變幻する影も過ぎず。日の光りの下にそれ等の巨きな不易な輪郭を描きいだして、盡くるなき靜寂の中に休息してゐるやうに見えた‥‥總てこれ等は二人の愛の悦びを一層樂しく、不滅なものにするやうであつた。――そして早咲きの草花がもう目についた、溝に沿うて櫻草や、香氣のない弱い董の花なぞが。
その時ゴオドが訊いた。
『いつまでも私を愛して下すつて、ヤンさん?』
彼は驚いて、美し、正直な眼で、まともに彼女をぢつと見詰めて、答へた。
『あゝ、無論さ、ゴオド』
そして彼のやゝ荒つぽい脣から出たこの眞率な言葉は、いつまでも變らない眞の意味をあらはすやうに思はれた。
彼女は彼の腕に身を寄せかけた。自分の夢が眞實になつたと思ふ心の溶けるやうな悦しさで、彼女は彼にぴつたり寄り添つた。でもやはり不安であつた――大きな海鳥のやうに逃げて行く彼を感じながら‥‥明日は沖の方へ飛び去つてしまふ!‥‥そして今度はもう間に合はなかつた、彼女は彼の行くのを止めるのに何事も爲し得なかつた‥‥
彼等が歩いて行つた崖の上のそれ等の小徑から、彼等は海沿ひのこの邊一圓を見渡した。其處には目にはいる樹木とてはなく、低いえにしだに敷きつめられ、石がごろ/\散らばつてゐた。岩丘の上には其處此處に、舊い花崗石の壁をした漁夫等の家が立つてゐて、その高い脊蟲のやうな草葺屋根には新らしい苔が芽を吹いて緑色にかはりかゝつてゐた。そしてずつと遠くの方に海は、廣大な透明な幻のやうに、その永への果てしなき周圓を描き出して、あらゆる物を取り包むやうな樣子を見せてゐた。
彼女はむかし住んでゐたパリの驚くやうな不思議な事柄を面白さうに彼に話した。けれど彼はいかにも嫌々さうで、一向それには興も乘らなかつた。
『海岸からさう遠く離れてゐちや』と、彼はいつた。『そしてどつちを見てもさう陸地ばつかりぢや‥‥そんな場處はきつと身體によくねえ。そんなに家がどつさりあつて、そんなに人間ばかり澤山ゐちや‥‥そんな都會にやきつと惡い病氣があるに違ひない。いや、俺は、そんな處にや住まふとは思はねえな』
彼女は微笑んだ。こんな大男がほんの子供のやうに思はれるので驚いた。
時々、彼等は大地の襞のやうななかへ分け入つて行つた。其處には樹らしい樹が生えてゐて、海風に對して身をかゞめてゐるやうな風をしてゐた。其處では見渡しがきかなかつた。地面には葉が堆く、冷たくじめ/\してゐて、凹んだ徑は緑色のえにしだに縁どられて、樹の枝の下は暗かつた。やがてその徑は、長い年月に荒らされて、この低地に眠つてゐる、年經て崩れかゝつた、暗い寂しい小村の壁の間に狹められた。いつも、彼等の前には、枯枝の間から、十字架像が高く拔け出てゐて、蝕んだ木の大きなクリストが、屍骸のやうに果てしない苦痛に顏を歪めてゐた。
やがてまた徑は登つて、彼等は見果てのつかぬ水平線を見おろした。高地と海と生々とした空氣に接した。
今度は、彼が氷島の話をしだした、夜のない青白い夏のことや、決して沒することのない斜な太陽のことや。ゴオドにはそれがよく解らなかつた、その説明を求めた。
『太陽はいつでもぐる/\ぐる/\繞つてゐるのだ』と、彼は青海の遠い周圓の方へ伸ばした腕をぐるつと一周りさせながらいつた。『太陽はいつでもずつと低い處にばかりゐるんだ。ねえ、昇る力がないと見える。眞夜中になると、その端をちよつと水につけるが、直ぐまた昇つて、同じやうにぐる/\繞つて行くんだ。月がまた異つた方の空の端へ出て來ることがあるんだ。すると兩方が、めい/\の途を進んで行くんだ。ちよつと見たのぢや何方がどつちだか解らねえ。それぐらゐ彼處では兩方がよく似てゐるからね』
眞夜中に太陽を見る!‥‥どんなに遠い處にあるのだらう、その氷島といふ島は! そして
『
『それから』と、彼はいつた。『或る一つの峽江の内の、岸の上に、丁度こゝらにあると同じやうな小さな墓地があるんだ。それはパンポルの近所から出た者で、漁時に死んだり、海でなくなつた者を埋める處なんだ。其處は、ポル・ヱヴァンの墓場のやうに、やはり穢れの無い場處にあるんだ。そして死んだ者には此處らののと同じやうに木の十字架を立てて、それに名を彫みつけてあるだけだ。ブルバラネクから出た者ではゴアディウの二人が其處に埋めてある。それに、シルストルの祖父のギュイヨオム・モアンもさうだ。』
彼女は荒涼たる岬の麓に、その果てしない日の青白い薔薇色がゝつた光りに照らされてゐる小さな共同墓地をまざ/\見るやうな氣がした。それから冬と同じそれ等の長い夜々の黒い
『いつも、いつも漁をしてゐらつしやるの?』と、彼女が訊いた。『少しも休みもしないで?』
『のべつにやつてるさ。それから、船を動かさなきやならないんだ。海はいつも凪いでばかりはゐないからね、あつちは。まつたくの話、夜になると、俺達はぐつたりしてしまふんだ。そして夕食にはがつ/\するんだ。それから幾日もむしやうに喰べるんだ」
『さうしてゐて厭にならないの?』
『厭になんかなるものか』と、彼はきつぱりした風で言つた。それが彼女を苦しめた。『船に乘つてゐりや、海に出てゐりや、俺は時のたつのも忘れてゐるんだ。まつたく』
彼女は、一層悲しくなつて、一層海に打ち負かされて、うなだれてしまつた。
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‥‥彼等が共に送つたこの春の一日が暮れかゝると、夕闇が冬の感じを持ち歸つて來た。彼等は榾火の前で、夕食をするために家へ歸つた。
二人が共にする最後の食事!‥‥けれど二人にはまだ相擁して眠る一夜があつた。そしてこの期待がまだ彼等を全く悲しませはしなかつた。
食後、彼等がポル・ヱヴァンへの路へ出た時は、また幾分春らしい樂しい心持を感じた。空氣は穩かで、殆ど暖かいくらゐであつた。そして薄明りのなごりがまだ四邊にたゆたつてゐた。
彼等はヤンの兩親へ別れを告げに訪ねて行つたが、早めに歸つて來て、床についた、朝早く起きる手筈になつてゐたので。
翌朝、パンポルの埠頭は人で充たされた。
彼女はこれまでかうした光景に、かうした別れの場に、親しく臨んだことはなかつた。[#「なかつた。」は底本では「なかつた、」]總てが新しく、不思議であつた。それ等の女達の中には、自分と同じやうな者はなかつた。獨りぼつちにされて、別にされてゐる氣がした。お孃さんとしての彼女の過去は、やつぱりまだつき纏つてゐて、彼女を皆から引き離させた。
天候は別離のこの日もやはり美しく晴れたまゝであつた。たゞ沖には大きな重い
‥‥ゴオドの周圍には、彼女と同じやうに、いかにも愛くるしい、またいかにもいぢらしげな女達が、眼に涙を一ぱい溜めてゐた。また面白さうに、高笑ひを立ててゐて、心ないのか、それとも今は何も愛するものがないかのやうな女達もゐた。年取つた女達は、死の嚇しを身に感じて、子供達の別れを泣いてゐた。戀人同士は長い間脣の上にキツスしてゐた。そして醉つ拂つた水夫等が、氣を紛らすために唄つてゐるのが聞かれた。また一方にはカルヴェルへでも行くやうに、陰氣な樣子をして船に乘る者もゐた。
そしてまた酷い事件が演ぜられてもゐた。何日か居酒屋やなぞで巧く掛けられて、契約書へ署名させられた運の惡い男共が、今となつて無理やり船へ乘り組ませられた。それ等の者は女房や巡査などに押しされてゐた。また非常な腕力で抵抗の恐れのある者は、前から工風して醉ひ潰すやうにした。彼等は擔架へ載せて運ばれて、死んだ者かなにかのやうに、船艙へ擔ぎ込まれた。
ゴオドはそれ等が通り過ぎるのを見て身が縮まるやうであつた。何といふ人達と一緒に彼は生活するのだらう、彼女のヤンは? これ程な騷ぎを引き起し、そして男達にでもこれ程の恐ろしい思ひをさせるからには、どんなに恐ろしい事であるだらうか、氷島の仕事といつたら?‥‥
それでも、またにこ/\してゐる漁夫達もゐた。さういふ人達は、きつと、ヤンのやうに洋上の生活や、大仕掛の漁業が好きに違ひない。それ等は人の善ささうな連中であつた、氣高い立派な顏つきをしてゐた。それ等が未婚であれば、呑氣さうに最後に、ちらつと娘達の方へ眼をくれて出て行つた。既婚者共なら、女房や子供達に、いとしさうに悲しさうに、そして一層金持になつて歸つて來る希望を持つてキツスしてゐた。ゴオドはそれ等の者は、みな選り拔きの水夫等を載せた「レオポルデイヌ」の乘組だと知つて、幾分元氣づけられた。
船は二艘づゝ、また四艘づつ曵き船に引かれて出て行つた。それ等が動き出すと、水夫達は帽子を取つて、一齊に聲高く、聖母への讚歌「
「レオポルデイヌ」が出て行くと、ゴオドは急ぎ足で、ガオの人々の家の方へ歩みだした。ブルバラネクからの通ひ馴れた小徑を、岸づたひ、一時間半ばかり歩くと、彼女は區の出端れに在る、その新たな家族の家へ着いた。
「レオポルデイヌ」はこのポル・エヴァンの前方の繋留場に停舶して、夕方までは出帆しないことになつてゐた。それ故、その家で二人は最後の會見をすることになつてゐた。約束通り彼はその船の短艇で歸つて來た。三時間だけ、彼女に別れをしにとて歸つて來た。
波のうねりを感じない陸の上では、やはり前と同じ美しい春の天候がつゞいてゐた、同じ穩かな空がつゞいてゐた。彼等は暫くの間腕を組んで路へ出た。これが彼等に前日の散歩を思ひ出させた。たゞ今夜はもう二人を一緒にさせはしない。彼等は當てもなく、パンポルの方へ歩みを返しながら、ぶら/\歩いて行つた。やがて、いつか知ら、別に考へてもゐなかつたが、自分等の家の近くまで來てゐた。で、二人は最後の名殘に内へはいつた。祖母イヴォンヌは二人が連れ立つて歸つて來たのを見ると驚いて飛び立つた。
ヤンは衣裳棚のなかに入れて置いた細々した色々な物についてゴオドに注意をした。殊に彼の婚禮の晴着について。それを時々は擴げて、日光に當てるやうにと。――水夫達は軍艦ではこんな注意をも教へられる――そしてゴオドは彼がこんなことまで知つてゐるのを見て微笑した。けれど、彼は彼の持物は何でも好く保存せられ、心を籠めて世話せられることに安心してゐられた。
それに、こんな心遣ひは彼等にとつては附け足しの事であつた。彼等はたゞ話の繼ぎ穗に、自分等を欺くためにのみ、そんな事を話してゐただけであつた‥‥
ヤンは彼女に「レオポルデイヌ」で、みんなが漁場の抽籤を引いた話をした。そして彼は最も好い抽籤を引き當てて滿足だと告げた。ゴオドはまたそれを説明して貰つた、氷島の事は殆ど何も知らなかつたので。
『ねえ、ゴオド』と、彼はいつた。『俺達の船の船舷に、定まつた場處に、幾つもの孔が開いてゐるんだ。それを
‥‥彼等は、自分等に殘つてゐる瞬間を驚かすのを氣遣ひ、時の逃げ脚を速めるのを心配でもするやうに、低い低い聲で話してゐた。彼等の會話は是非とも終局を告げなければならないものと異つた性質をもつてゐた。彼等が語り合ふほんの取留めもない言葉も、其の時は、不思議な、異常なものになるやうに思はれた。
いよ/\別れるといふ瞬間に、ヤンは兩腕で妻を抱き寄せた、そしてもう何も言はないで、長い默つた抱擁のなかで、彼等はぴつたり身を寄せ合つてゐた。
彼は船へ乘り込んだ。灰色の帆が擴げられて、西から吹き起つた輕い風を孕んだ。彼を彼女はまだ認めることが出來た、彼は約束どほりに帽子を振つてゐた。いつまでもいつまでも彼女は見詰めてゐた、海の上に影像のやうになつて遠ざかつて行く彼女のヤンを、――それはまだ彼であつた。海の灰色がゝつた青い上に、ぽつんと黒く立つてゐる小さな人間の形は、――それがもうぼんやりして、やがて遠くへ消えてしまふ、ぢつとその方へ執念く注がれてゐた眼が、ぐら/\して、もう何も見られない‥‥
‥‥「レオポルデイヌ」が動き出すにつれて、ゴオドは磁石に吸ひ寄せられるやうに、崖に沿うて追つて行つた。
彼女はすぐに止まらなければならなかつた。陸地が盡きたからだ。で、彼女はえにしだや岩やのなかに立ててある、最端の大きな十字架の根元に坐つた。其處は高まつた突つ鼻なので、其處から見る海は遠くで盛り上つてゐるやうに見えた。そして「レオポルデイヌ」は遠ざかるにつれて、この廣大な圓周の傾斜の上を、ぽつツとした一點となつて、次ぎ次ぎに登つて行くやうであつた。波は大きな緩いうねりを立ててゐた、――水平線の遙か彼方で起つたらしい或る怖ろしい嵐の最後の餘波のやうに。けれど眼路の及ぶ限りでは、まだヤンのゐる邊では、何もかも穩かな姿をしてゐた。
ゴオドはまだぢつと見守つてゐた、その船の姿を、その帆やその綱具の形をはつきり記憶に彫みつけて置かうとしてゐた、やがてその船を、此の同じ場處で待ちに來る時、遠くからでも、はつきり見とめることの出來るやうに。
恐ろしい巨きな波のうねりは規則正しく西の方から寄せて來て、一つまた一つ、休みなく、小止みなく、その無益な努力を新たにして、同じ岩の上に打つかり、同じ場處で泡沫となつて碎け、そして同じ水際を洗つてゐた。そしてそれが長く續いてゐるので、この水の重苦しい攪亂は、空氣と空の平靜なのに對して異樣であつた。海床が溢れて、岸を浸し、蠶食しようと努めてゐるやうでもあつた。
そのうちに、「レオポルデイヌ」は次第々々に小さくなり、遠くなり、おぼろげになつた。疑ひもなく潮流がそれを運んで行つたのだ、その夕方は風が弱く、船は速かに走つて行つた。もうそれは灰色をした小さな一點に、殆ど一つの尖點になつてしまつた、間もなく視界の果てへ達して、もう暗くなりかけて來た無限の彼方へ消えてしまはふとしてゐた。
七時になつた時、夜が來た、船は限界から沒してしまつた。ゴオドは家へ歸つた。涙はたえず眼に湧いてゐたけれど、とにかく強く氣を張つてゐた。これが若しこの二年間のやうに、彼が一語の別れもせず發つて行つたのであつたら、今とはどんなに異つた、またその頼りなさは、一層どんなに侘しいものであつたらう! けれど今は總てが變つてゐた、樂しくなつてゐた。彼は彼女のものになつてゐた、あのヤンが。彼は行つてしまひはしたけれど、彼女は自分が十分に愛せられてゐることを感じた。それで寂しく一人で家へ歸つても、慰めはあつた、二人がこの秋にと言ひ交はしたそのオ・ルヴォアルの愉しい期待があつた。
夏は過ぎ去つた、悲しく、暑く、穩かに。彼女は初めての黄葉に、初めての燕の群に、菊花の咲き出すのに、目をつけてゐた。
レエカウイックからの郵便船や、巡航船やに托して彼女は彼に度々手紙を送つた。けれどもそれ等の手紙が屈くかどうかは何人にも判らなかつた。
七月の末に、彼女は一通彼から受け取つた。彼はその手紙の日附の頃、月の十日頃は健康で、漁期も調子よく初まつたし、それにもう自分の分として千五百尾からの魚を獲つたと告げた。初めから終りまで、
彼女は夏の間ぢう根氣よく働いた。パンポルの女達は、最初のうちは、彼女がお孃さんのやうな綺麗すぎる手をしてゐるとか言つて、俄か仕立の働き女としての彼女の腕を疑つてゐたが、それどころか、立派な腕で、體に着榮えのある仕立物をすることが判つて來た。で、彼女は殆ど名のある裁縫師のやうになつた。
彼女が働いて得た金は家を整へる方へ向けられた――彼の歸りをまつために。衣裳棚や、舊い寢箱やは手を入れ、磨き立てて、金具でぴか/\してゐた。彼女は海に望んだ彼等の窓を直して、ガラスを篏め、カーテンをつけた、冬のために新らしい毛布や、食卓や、椅子も買つた。
これ等の事をするのに、ヤンが發つて行く時に置いて行つた金には手をつけなかつた。彼女はそれを彼が歸つて來た時に見せようと思つて、小さな支那箱の中へ其のまゝしまつて置いた。
夏の夕方毎に、日の名殘のなかで、暖かい間は、頭も考へもめつきり好くなつて來る祖母イヴォンヌと戸口の前に腰をおろして、彼女はヤンのために美しい漁夫用の青毛の襯衣を編んでゐた。襟先と袖口の縁には驚くばかりの手細やかな、透かし細工の縫目があつた。祖母イヴォンヌもむかしは上手な編手であつたので、少しづゝ自分の若い頃の編模樣を思ひ出して、それを彼女に教へたりした。ヤンのは非常に大きな襯衣だつたので、その仕事には澤山の絲が入用だつた。
さうしてゐるうちに、彼等は、殊に夕方は、日が次第に短かくなつて來たのに氣がつきだした。七月に伸びきつた或る植物は、枯れかゝるやうに既に黄ろくなりだした。そして紫色の松蟲草は路傍に、一層小さく一層ひよろ長い莖をして返り花をつけた。やがて八月の末になつた。そして或る夕方、第一の氷島船がポル・ヱヴァンの突端に姿を現はした。歸還の樂しい日が初まつた。
人々はそれを迎へに崖の上へ群集した――どの船であらうか?
「サミュエル・アゼニイド」であつた、――いつもまつさきに歸る船であつた。
『してみると』と、とヤンの老父がいつた。『「レオポルデイヌ」もおつつけやつて來るな。あつちぢや能く知つてゐるが、一つでも歸り出すと、他の奴等ももうぐづ/\しちやゐないて』
彼等はぼつ/\歸つて來た、氷島人等は、――二日日に二艘、その翌日四艘、そして次ぎの週には十二艘。そしてこの地方一帶に悦びが彼等と一緒に歸つて來た。大騷ぎの祝ひがそれ等の女房等や母親等のなかにあつた。祝ひはまた居酒屋などにもあつた。其處ではパンポルの可愛い娘達が漁夫等の酒の相手に出た。
「レオポルデイヌ」は期日に遲れた群のなかにゐた。まだ歸らないのが十艘あつた。けれどさう長くのびる筈はなかつた。そしてゴオドは失望しないやうにと、自分から精々長くもう一週間は遲れると見ても、其の時にはヤンが來るのだと思ふと、豫期の悦しさに心は醉ひしれて、彼を迎へるために、何かと家のなかの物を
何もかもが整つた、で、もう何も彼女にはすることが殘つてゐなかつた。それに、待ち耐へられない心持で、彼女はもう何も大事な事には頭を向けなくなつた。
遲れた船がまた三艘歸つて來た。やがてまた五艘。たゞ二艘だけがまだ姿を見せなかつた。
『はゝあ』と、皆が笑ひながら彼女に言つた。『今年は「レオポルデイヌ」か「マリイ・ジャンヌ」がみんなの後片づけをやつてゐると見えるな』
そして、ゴオドも彼を待つてゐる悦しさに、一層愛くるしく、一層元氣よく笑つた。
そのうちに日はずん/\經つて行つた。
彼女は身仕舞に氣をとめたり、なるべく晴れやかな樣子を見せたり、皆と話をしに港に出掛けたりしてゐた。彼女はかう遲れるのも不思議はないといつた。それが毎年ないことだらうか? 第一、乘組員はみんな腕揃ひだし、それに、船は二艘とも立派な船だし!
さういひながらも、彼女は、夕方、家へ歸ると、初めて心配と悲しみの少しの身慄ひを身に感じ初めた。
實際どうしてかうも急に、氣にかゝり出して來たのだらうか?‥‥何事か起りでもしたのではないか?
さう思ふと、是までももう心は慴えてゐたので、彼女は飛び立つた‥‥
九月十日!‥‥何といふ日の經つことの速さだらう!
或る朝、もう地上には冷たい霧がかゝつてゐて、眞に秋らしい朝であつた。朝日は寡婦達の祈祷をさゝげに行く難破船の水夫等の記念禮拜堂の入口の下に、朝早くから坐つてゐる彼女を見出した。――顳をひきつめて、
この二日間、黎明の物悲しい霧が立ちはじめた。そして今朝、ゴオドはこの冬の氣ざしに、一層烈しく心を痛めて眼を醒ました。‥‥この日、この時、この瞬間は、過ぎしそれ等より以上に何を齎らしたか?‥‥船が二週間、或は一ヶ月ぐらゐ遲れることはよくあることだ。
その朝はことに何かしらいつもとは異つてゐた。彼女が初めてこの禮拜堂の玄關へ來て坐つて、死んだ若い人達の名前を讀み返すといふことからして既に異つてゐた。
ノルダン・フィヨルドの附近
海上にて沒したるガオ・イヴァン
の記念のため‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥の記念のため‥‥
大きな震動のやうに、一陣の風が海から吹き起るのが聞かれた。と思ふと、同時に何物かぱらぱらと雨のやうに屋根の上へ當たつた。枯葉だ!‥‥それが舞ひ狂つて、入口の下までもはいつて來た。舊いおどろに亂れた中庭の樹々は、大洋からのこの風で葉を剥がれ、搖り立てられた――冬が來たのだ!‥‥
千六百八十年、八月四日より五日に亙る颱風のため
ノルダン・フィヨルドの附近にて
海上に沒したる。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥海上に沒したる。
彼女はたゞ機械的にさう讀み下した、そして
また風がどほつと吹き過ぎた、そして落葉がぱら/\と舞ひ込んで來た。海上で嘗てこれ等の死者を撒き散らしたその西風ででもあるやうに、この一層吹き募つた一陣の風は、生きてゐる者にそれ等の名を思ひ起させる彼等の碑銘をも更に責めつけようとするのであつた。
ゴオドの眼は、しらず/\ぢつと、壁の上の空處に注がれた。其處は恐ろしい執着をもつて何かを期待してゐるやうであつた。彼女は、やがて其處へ他の名前をつけた新らしい位牌が置かれるに違ひないといふ考へに追ひかけられた。その名前は、彼女の心の中だけでも、こんな場處で言つて見るに堪へられなかつた。
彼女はぞつと寒さを感じた。そして頭を後の石に凭せかけて、花崗石の腰掛の上にいつまでもぢつと坐つてゐた。
八月四日より五日に亙る颶風のため
ノルダン・フィヨルドの附近にて沒す。
ノルダン・フィヨルドの附近にて沒す。
行年廿三才
平穩なる休息彼と共にあれ!
氷島はその小さな共同墓地と共に彼女の眼前に浮び上つた、――遠い、遠い氷島、眞夜中の太陽が低く照らしてゐる氷島‥‥と、不意に、‥‥何者かを待つてゐるやうに思はれたその壁の上の空處にも――恐ろしいほどはつきりと、彼女が想像してゐた新らしい位牌の幻影が浮び出た。新らしい位牌、死者の頭蓋と、交叉した骨と、その眞中に、縁飾りをした、その名前、懷かしい名前、ヤン・ガオ! 彼女は、狂女のやうに嗄れ聲を立てて、跳び上つた‥‥
外には灰色の朝霧がまだ地上に懸つてゐた、そして枯葉はしつきりなしに舞ひ込んで來た。
徑の上に足音が!――だれか來たか? 彼女はすつくと立ち上つて、手を當てて頭飾を直して、顏色をとゝのへた。足音は一層近くへ來た、何人かがはいつて來さうだ。彼女はまだ何事があつても難破船の水夫の妻だとは見られたくないと思つて、素早く、偶然其處へ來てゐた者のやうな樣子をした。
それはやはり「レオポルデイヌ」の副長の妻、ファント・フルウリイであつた。その女は直ぐ、ゴオドが其處で何をしに來てゐたか覺つてしまつた。それを欺かうとしても無益であつた。そして最初彼女等は、顏を合はせたまゝ默つてゐた。二人の女は、それで一層恐ろしくもなり、恐怖と殆ど憎みともいふべき同じ感じを抱いて、逢つたのを嫌にも思ひあつてゐた。
『トレギュイエの人達や、サン・ブリウの人達もみんなもう一週間も前に歸つてゐるのですにねえ』と、遂にファントは、焦々してゐるやうに、けれどだるい聲で、素氣なくいつた。
彼女は願掛けをしに、蝋燭をもつてゐた。
『さうですつてね!‥‥お供物‥‥、』ゴオドはそれまではまだ考へてゐなかつた、そんな悲しい事までは。けれど彼女はファントの後について、一語も言はないで、禮拜堂の中へはいつて行つた。そして二人は姉妹のやうに寄りそつて跪いた。
海の護神、聖母へ、彼女等は、心を籠めて熱い祈祷の言葉を上げた。そしてやがて彼女等の咽び泣きの聲のほかは何も聞えなかつた。彼女等のしぼる涙はぽた/\と床の上へ落ち始めた‥‥
彼女等は前よりは優しく、一層打ち解けた心持になつて立ち上つた。ファントはゴオドのよろよろするのに手をかして、彼女の體に腕をまはして、頬ずりをした。
彼女等は涙を拭いて、頭髮を直して、下着の兩膝についた敷石の塵や硝石の粉を拂つて、二人はそれ以上何もいはないで、別々の路へ立ち別れた。
九月の末はまた夏が返つて來たやうで、たゞ少し物悲しさが漂つてゐるだけであつた。今年は天氣はいかにも美しかつた。で、若しうら寂しい村雨に、枯葉の路に散る事さへなかつたならば、人は樂しい六月頃だとも思つたであらう。夫等も、許婚者等も、戀人等もみな歸つて來てゐた。そして到る處それは愛の小春の悦びであつた。
やがて、或る日のこと、氷島からの遲れた二艘の船の一つが沖合へ來て合圖をした。どつちの船だらうか?‥‥
直ぐ、女達の群が集まつて、斷崖の上で、默つて、心配げにしてゐた。
ゴオドは、身を顫はせ顏を青くし、其處へ來て、ヤンの父親の傍にゐた。
『きつとさうだよ』と、この老漁夫がいつた。――『たしかに彼奴等の船だ! あの赤い欄干、あの斜桁を張つた中檣帆、どうもたしかにあれらしいぞ、どう思ふ、えゝ、ゴオド?』
『いや、さうぢやない』と、不意に落瞻したやうに彼は言ひ足した。『やあ、またばかされたぞ、
一日、また一日と經つた。そして夜はいつも同じ時刻に言ひ難い靜寂を伴つてやつて來た。
彼女は少し氣でも妙になつたかのやうに、それでも破船者の妻だと見られるのが嫌さに、いつも身仕舞をしてゐた。他の者が彼女に不思議な同情を寄せるやうな風でも見せると、腹立たしくなつて、彼女をひやつとさせるそれ等の視線と目を交はさないやうにふいとわきを向いた。
この頃では彼女は毎朝のやうに早くから、土地の絶端へ、ポル・エヴァンの高い崖の上へ、出掛けて行つた。ヤンの母親や妹達の目につかないやうに、その家の背後を通り拔けた。彼女はたつた獨りきりで、灰色をした海峽へ、鹿の角のやうに突き出したブルバラネクの區域の絶端まで行つた、そして其處で終日、廣大な水面を瞰下してゐる孤立の十字架の根方で坐つてゐた‥‥
かういふ花崗石の十字架は到る處、水夫等のこの國の突き出した崖の上に立つてゐて、慈悲を求めてゐるやうであつた、また人々を誘き出しては、歸してよこさず、その中の最も立派な、最も勇敢な者を特に撰んで自分のものにしてしまふこの偉大な、動きつてゐる、不思議なものの心をなだめようとする風をしてゐた。
ポル・エヴァンのこの十字架を繞つて、水地がいつも緑色をしてゐて、短かいはりえにしだで敷きつめられてゐた。そしてこの高地では海氣は澄み切つてゐて、殆ど藻草の鹽の香もなく、九月の快い香氣が充ち充ちてゐた。
海岸の總ての突端は、遠くの方までも、一つまた一つととめて見ることが出來た。ブルターニュの土地は水の空漠たる靜寂の上に引き伸びて、ぎざ/\した突角となつて終つてゐた。
前景にある岩が、海を粗く刻んでゐたが、沖の方には、その鏡のやうな表面を掻き亂すものとては何もなかつた。あらゆる入江の奧から、小さな、輕やかな、抱きしめるやうな、無限の響きが起つて來た。それはいかにも穩かな遠い擴がりであり、いかにも柔らかな深さであつた! この廣大な青色の虚無、このガオの家族の墓場は、その解き難き不思議を藏してゐた、その時、吐息のやうな柔らかい風が、晩秋の日の光りを浴びて返り吹きした
一定の時刻に正しく潮が落ちた。そして干潟は到る處に大きくなつて、海峽が徐々に干あがりでもするやうであつた。と、やがて、前と同じに徐々に潮が滿ちて來た。そして死んだ人間のことなどには一向氣をとめないで、果てしなくこの滿干がつゞいて行つた。
そしてゴオドはその十字架の根元に坐つて、其處にぢつとして、この靜寂のなかに浸つて夜の來るまで、何も見られなくなるまで、いつまでも海を見詰めてゐた。
九月も暮れてしまつた。彼女はもう少しの食事もとらず、眠りもしなかつた。
彼女は今では家にばかり籠つてゐた。そして膝の間へ手を挾んで、背後の壁へ頭を凭せかけて、蹲るやうにしてゐた。何のために起き出るのか、何のために寢に行くのか。疲れ切つた時は、着たまゝで寢床の上へ身を投じた。さうでない時は、いつも其處にしびれて坐つてゐた。體を動かさないので、齒は寒さでがち/\した。いつも彼女は鐵の輪金が顳をしめつけてゐるやうに感じた。兩頓は窪み、口は乾き、熱病のやうな味覺を持つた。そして時々、咽喉からの嗄れた呻きを立てて、石壁へ頭を打つけて、長い間痙攣を起したやうに、その聲をつゞけてゐた。
でなければ、彼が直ぐ傍にでもゐるやうに、いかにも懷かしさうに彼の名を呼んで、嬉しい言葉を話し掛けた。
時とすると彼以外のことを考へることもあつた、こく鎖細な、無意味なことを。例へば、彼女は、日が沈んで行くにつれて、自分の寢床の高い板張りの上へ、ファイアンスの聖母と聖水器の影がながく伸びて行くのをぢつと見つめて樂しんでゐた。が、やがて彼女の苦痛の召還が前よりも一層烈しくなつてやつて來た。そしてまた叫聲を立てゝ壁へ頭を打つけた‥‥
かういふ風に、一日の總ての時が、一時間一時間と過ぎて行つた。夕方のあらゆる時間も、夜のあらゆる時間も、朝の總ての時間も。彼が歸るべき筈であつた時から如何に長い時間を數へたかを思ふと、一層大きな恐れが彼女を捉へた。彼女は日附のことや、日の名前についてはもう何も知りたくなかつた。
氷島に難破船があると、大抵の場合は何かその表示がある、歸つて來た者が遠くからその慘事を見かけるとか、或は破船の斷片か、屍骸でも見つけるとか、何かしらさう判斷をつけさせる徴候の見つかるものである。けれど「レオポルデイヌ」については何も見られなかつた、何も知られなかつた。八月の二日にその姿を最後に見たといふ「マリイ・ジャンヌ」の乘組員等は、あの船はもう一層北の方へ漁に行つたに違ひないといつた。そしてそれ以後は、解き難い不思議となつた。
何も知らずに待つて、いつまでも待つてゐる! 何日になつたらば彼女が實際待つに及ばない時が來るであらう? 彼女にはそれすら判らなかつた。そして今は殆ど寧ろそれが早く來れば好いと望んだ。
あゝ! 若し彼が死んでゐるならば、せめて何人かさうだと彼女に知らせて呉れる親切があつても好ささうなものだ!‥‥
おゝ! その瞬間に彼があつたまゝの姿を見たい! ――姿でなくば、せめてその片見でも!‥‥日頃あれほど心を籠めてお祈りする聖母が、或は聖母のやうな何か他の力が、彼女に惠みを與へて、一種の透視力で、彼女に彼を見せてくれたらば、彼女のヤンを――生きて家路へ向つて船を動かしてゐる彼か、――でなければ、波に搖られてゐるその屍骸なりと、‥‥少くも確かめることの出來るように! 知ることが出來るように!
時とすると彼女は不意に、水平線の果てへ帆影が浮び上る感じに打たれた。海岸へ着かうと急いで、近づいて來る「レオポルデイヌ」! すると、彼女は、思はず、びくつと身を動かして、立ち上つて、駈け出して、それが眞であつたか知らうと、沖を見渡さうとした。‥‥
彼女はまたぐたつと身をおろした。あゝ! この瞬間、その船は何處にゐるのか、その「レオポルデイヌ」は? 無論、彼方に、あの恐ろしい遠い氷島の彼方に、見捨てられ、片々に碎かれて、失はれて‥‥
そしてその考へはいつも同じ、執念い幻となつて終つた。打ち破られ、空虚になり、薔薇色がかつた灰色の默した海の上で搖られてゐる一艘の破船、徐かに、徐かに、音もなく、極めて穩かに、皮肉に、死海の廣大な靜寂のたゞ中に搖られてゐる一艘の破船。
午前二時。
特に夜は、彼女は近寄つて來る人足ごとに耳を澄まして聽き入つてゐた。ほんのちよつとした響きにでも、極く微かな常と異つた物音にでも、彼女の顳はどき/\動悸した。戸外の事物に對して張り詰めてゐるので、顳は恐ろしく痛くなつてゐた。
午前二時、今夜もいつもの通り、闇の中で、兩手を組み、眼を開いて、彼女は荒地の上を小止みなく吹き渡る風の音に聽き耳を立ててゐた。
不意に人の足音が、路の上を急ぐ足音が! こんな時刻に、何人が通るのか? 彼女は跳ね起きた、魂の底まで搖られて、心臟の動悸も止みさうであつた‥‥
何人かが戸口でとまつた、小さな石段を登つて來た‥‥
彼だ!‥‥おゝ、有難い、彼だ! コツ、コツ、と戸を叩く。他に何人であるものか!‥‥彼女は素足で立つてゐた。彼女はこの頃からすつかり弱つてゐたが、猫のやうにすばしこく跳び上つて、いとしい人を抱かうとして腕を擴げた。恐らく「レオポルデイヌ」は夜ちう歸つて來たのだ、そしてポル・エヴァンの灣内へ、正面に碇泊したのだ、――そして彼は、驅けつけて來たのだ。彼女はこれ等のことを電光のやうに素早く頭のなかで思ひ決めた。そして今や、彼女は狂ほしいやうになつて、固い閂をはづさうとして、戸の釘で指を傷つけた、‥‥なか/\はづれない閂をはづした。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
――おゝ!‥‥そして彼女は、徐々に後すざりした。がつかりして、胸へぐたりと頭を下げた。彼女の狂氣じみた樂しい夢はすんでしまつた。それは、隣人のファンテクであつた‥‥それがただの隣人で、ヤンについては何の氣配すらもなかつたといふことがはつきり判つて來ると、彼女は次第々々に以前の深淵の中へ沈み込み、その同じ恐ろしい絶望のどん底へまで落ち込んで行くのを感じた。
彼は言ひ譯をした。その氣の毒なファンテクは、その男の妻はひどく病んでゐた。それに咽喉を痛めてゐた彼等の子供が、いま搖籃の内で絶息しかゝつてゐた。それで彼がパンポルへ一走り、醫者を呼びに行く間、手助けを求めに來たのであつた‥‥
さうしたことがすべて何であらう、彼女にとつては? 自分の悲しみで氣が荒くなつてゐたので、彼女は他人の惱みにもう何も與へるものがなかつた。腰掛の上へぐだつと身を落して、彼女は死んだ者かなにかのやうに、ぢつと眼を据ゑて、何の答へもせず、耳もかさず、彼に目もくれず、そのまゝ彼の前でぢつとしてゐた。その男が彼女に話したさういつた事なぞ、彼女にとつて何であらうか?
と、漸く彼にも譯が解つて來た。なぜ彼女がそんなに急いで戸を開けたかも推測できた。そして彼は彼女を惱ましたことが氣の毒になつた。
彼は口の中でもぐ/\言ひ譯をいつてゐた。
「實際、この人を煩はすべきではなかつた、濟まなかつた‥‥」
『わたしを!』と、ゴオドは急きこんで答へた。『――そしてどうして、わたしをさうしてはいけないの、ファンテクさん?』
と、彼女は不意に生氣づいて來た。彼女はまだ他人の眼に絶望者として見られたくはなかつた、それはどんなことがあつてもいやだつた。それに、今度は、彼女がその人を氣の毒になつた。彼女はその男に從いて行くように身仕度をした。そして行つて彼の小さな者の世話をする元氣も出て來た。
四時に家へ歸つて、床の上へ身を倒した時は、すつかり疲れてゐたので、眠りが暫くの間彼女を捉へた。
けれど先刻の非常な悦びの瞬間が、彼女の心に印象を刻みつけて、それは何があつても、やはりそのまゝで殘つてゐた。やがて、彼女は何か思ひ出しでもしたやうに、ぴくつとして眼を醒まし、半身起き上つた‥‥やはりヤンについての何事かであつた。‥‥また起つて來た亂れ心地の中で、彼女は急いで思ひ出さうとした、それが何であつたかを搜し求めた‥‥
『やつぱり、なんでもなかつたのだ、あゝ!――なんでもなかつた。ファンテクが來たばかりだつた』
そしてまた更に、彼女は同じ深淵のどん底へ落ち込んだ。いや、實際、彼女の悲しい、絶望の期待のなかには何の變化もなかつた。
けれど、彼女がそれほど自分の身近に彼を感じたことは、何かしら彼の身體から放散するものが彼女の身邊に漂つて來たやうであつた。これはブルトンの國では、人々が Pressigne と呼ぶものであつた。そして彼女はきつと何人かが來て、彼のことを知らせるに違ひないといふ豫覺をもつて、一層氣をとめて、戸外の足音に耳を澄ましてゐた。
果して、夜が明けると、ヤンの父親がはいつて來た。彼は帽子を脱つて、息子と同じやうに捲き上つてゐる、美しい白髮を撫で上げ、ゴオドの寢臺の傍へ腰を卸した。
彼もやはり氣が滅入つてゐた。彼のヤンは、彼の立派なヤンは、彼の長子であり、彼の氣に入りであり、彼の誇りであつた。けれど、彼は實際ヤンを絶望し切つてはゐなかつた。まだ死んだとは思つてゐなかつた。彼は極く優しい調子でゴオドの氣を引き立てようとした。第一に、最後に氷島から歸つて來たものの話では、霧が非常に深かつたので、それが船を遲らせたのかも知れないとも言つた。それに彼の考へでは、船は多分、歸る途中、遠方に在るフロエの島々へ寄港したのでもあらう。その島からは手紙が來るにも大分暇がかゝる。これは四十年前に一度彼にもあつたことで、今はもう死んだ彼の哀れな母親は、彼の冥福を祈つて彌撒までも上げたのであつた‥‥「レオポルデイヌ」はあれほど立派な、まだ殆ど新らしい船ではあつたし、乘組員といつたらみんな熟練な腕揃ひばかりだつたし‥‥
老祖母モアンは頭を搖りながら、彼等の周圍を歩いてゐた。彼女の孫娘の不幸は彼女に強さと考へとをほとんど恢復させた。彼女は、家の中を取り片づけたり、時々は、碇の徽章と、黒珠の喪飾とをつけた、石壁に掛けてある彼女のシルストルの小さな黄ばんだ肖像を眺めやつたりしてゐた。いや、海の仕事が彼女から彼女の孫を奪ひ去つて以來、彼女はもはや船乘りの歸りを信じてはゐなかつた。彼女はたゞ恐ろしいので、哀れな年取つた脣の端で、聖母に折りを上げてゐるだけであつた。心の中には、聖母に對して深い怨みを抱いてゐた。
それでゴオドは熱心にそれ等の慰めの言葉に耳を假してゐた。周圍に隅のある彼女の大きな眼は、自分のいとしい人に似てゐるその老人を深い愛情をもつて眺めてゐた。この人が其處に、自分の傍にゐてさへくれれば、それが死の防ぎになつた。そして一層元氣づけられ、一層ヤンの傍へ寄るやうに思つた。彼女の涙は音もなく、一層靜かに落ちた。そして海の護星、聖母に對する熱心な祈りを心の中で繰り返した。
船が、恐らく破損したためで、それ等の島で滯留するといふことは、實際有りさうなことであつた。彼女は起き上つて、頭髮を撫でつけて、身仕舞ひをした、彼が歸つて來るかも知れないので。この人が、父親がまだ望みを絶たないからには、勿論まつたく見込みのないことはなかつた。そして、數日の間、彼女はまた彼を待ちだした。
もうまつたく秋であつた、晩秋であつた。物悲しい夕方になると、早くから、舊い小家のなかでは、全く暗くなつた。そして周圍のこの舊いブルトンの國のなかも、やはり暗かつた。
晝間でさへもはや黄昏のやうにしか思はれなかつた。無限につゞいてゐる雲が徐々と通つて行くと、不意に眞晝時でも眞暗になつた。風は斷えず騷ぎを立ててゐた、それは狂うて、凶々しい絶望の譜を奏する會堂の大きなオルグの遠い音のやうであつた。また時には、それが戸口へ近々と迫つて、野獸のやうに咆え立てた。
彼女は、老年がその羽のない翼を既に彼女に觸れでもしたやうに、次第々々に青白くなり、一層しぼんで行つた。幾度となく彼女はヤンの身に着いたものや、彼の美しい婚禮の晴着やを取り出して、氣でも狂つた女のやうに、それ等をひろげたりまた疊んだりした、――とりわけ彼の體の姿をそのまゝ殘した青い毛絲の襯衣の一つをば。それが卓の上へ靜かに投げられると、彼の身に着いてゐた慣性で、おのづと、彼の兩肩、彼の胸の輪郭をはつきり描きだした。で、やがて彼女は、それがその形をいつまでも保存してゐるやうに、それをそつとして置くためには、それだけ別に、二人の衣裳箪笥の棚へ載せて置いた。
夕暮毎に冷たい霧が地面から立ちのぼつた。この時彼女は物悲しい荒地を窓から眺めやつた。其處には白い煙の小さな羽飾りが此處彼處に、他所の小家々々から立ちのぼつてゐた。何處でも、他の處では、寒さが送り返した渡鳥のやうに、男達は歸つて來てゐた。そして多くのそれ等の火の前で、宵々は愉しいものに違ひなかつた。
それ等の島へ彼が寄港したのではないかといふ考へにつきまとはれて、多少の希望を恢復して、彼女はまた彼を待ちはじめた‥‥
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彼は終に歸つて來ない。
八月の或る夜、彼方、陰鬱な氷島の沖合で、凄じく荒狂ふ響きのなかで、彼と海との結婚の式が擧げられた。
嘗ては彼の保姆であつた海、彼を搖り眠らせた海、彼を大きな強い若者に育て上げた海、――そして、やがて彼を立派な男らしい姿に於いて、彼女一人のために取りかへした海、その海と彼とのこの恐ろしい結婚の式を深い神祕が包んでゐた。その間ぢう、黝い幕が上の方で搖れ騷ぎ、亂れ動く戸帳はその祝ひを隱すやうにひろげられた。花嫁は聲を擧げて、たえず出來るだけの大きな怖ろしい響きをたてて、彼の叫びを消さうとした。――彼は自分の肉體の妻、ゴオドを思ひ出して、巨人のやうな力で、この死の新妻ともがき鬪つた。が、やがて力が盡きて、死にかゝつた牡牛のやうな大きな深い叫びを立てて、腕を開いてこの新妻を抱くと、もう、彼の口には水が溢れ、腕は開き、伸び、永久に固くなつた。
そして彼が嘗て招いた人々は、みな今度の婚禮へも列して居た。たゞ、遠い、遙か遠い、地球の向う側で――魅するやうな花園の中へ行つて眠つてゐるシルストル一人が、ゐないだけであつた‥‥
[#改丁]
吉江喬松
彼には兄と妹とが一人づゝあつた。彼は第三番目で、末子であつた。隨分甘やかされて育てられたらしい。少年時から空想勝ちな兒で、學校の日課の準備をしてゐながら、遠い國々の事や、熱帶地方の光景なぞを胸に浮べて、恍りしてゐた。學校へ行くのもとかく怠け勝ちであつた。
彼の祖先等は船乘りであつた。彼の祖父はトラファルガアの海戰にも出てゐた。彼と海との關係は生前からの宿縁である。幼年時から海は恐れと不思議との感じを彼の心に充たしてゐた。暗碧の色をした果てしない水の廣野、四方から迫るが如く響きを寄せて來る夕方の海を初めて彼が眺めやつた時は、恐れと悲しみと、寂しさと、然かもなほ言ひ難い誘引とを身に感じたのであつた。
寂しさと悲しさと然かもなほ言ひ難き誘引とを起す大洋は、彼にとつては一種不可思議な世界であつた。セルトの種族の前へいつも誘引の魅力を見せる自然は、彼にも同じ力を及ぼさずにはゐなかつた。夢を追ふ心、不思議の國を追求する心、それが彼を驅つて洋上の人とならしめずには置かなかつた。
彼は佛蘭西の海軍へ身を入れて、廿九歳までには世界中を周航した。その時、彼は初めて處女作小説 “Azyad”(千八百七十九年)を公にした。それから「氷島の漁夫」の出づるまでには、左の諸作が引續いて公にせられた。
“Le Mariage de Loti.” (千八百八十年) “Le Roman d'un Spahi.” (千八百八十一年) “Fleurs d'Ennui.” (千八百八十二年) “Rarahu.” (同年) “Mon Frre Yves.” (千八百八十三年) “Les trois Dames de Kasbah.” (千八百八十四年) “Pcheurs d'Islande.”(氷島の漁夫) (千八百八十六年)
海といふ不思議な國を追求して海上生活に入つた彼は、茲に初めてエグゾティックな光景と人事との鮮かな世界を、彼の藝術を通じて萬人の前へ提供する事になつた。彼の藝術の最初の出發點は、同じセルトの先人シャトオブリアンの歩みを起したると、同一點である。たゞ後者が所謂「世紀の惱み」に苦しめられ、懷疑と厭世との痛ましい經驗を味はつてゐるのに比して、前者は、眼前の光景の中へ全身を浸し、それに醉ひ、それと共に溶け合つてゐる如き姿を見せてゐる。併し兩者とも我る[#「我る」はママ]目に見えぬ世界を求め、その出現の影をとめて走つてゐる點は全く同じである。たゞ一方がより多く情緒によつてその世界の響きを傳へんとするのに比して、他方が多く官能によつてこの世界の姿を飜譯せんとしてゐる差があるだけである。それだけ前者の藝術には音樂的の暗示があり、後者の藝術には繪畫的の眩耀がある。ロチが近代の大なるアムプレッショニストであるといはるる所以もこの點に横はつてゐるのであるが、彼の藝術の生命は、その鮮かな印象そのものではなくして、その印象の奧に漂ふ不可見の或る力である。「氷島の漁夫」は千八百八十六年、彼三十六歳の時の作である。この作には彼が幼年時から海について持つてゐた感じが最も具體的に、明瞭に、人格化せられて出てゐる。海洋を描く作家も多くある。併しロチのこの作の如く、海そのものが、自由に擴がり伸びて、地球は殆ど水の大なる球となつて、虚空をつて行くやうな感じを與へる作は殆ど他にない。作者の想像は太陽の光りとなつて直ちに世界の隅々をも照らし、作者の命は直ちに海波の流れとなつて四方に行き遶つてゐる。
我々はこの作を讀む時、冷たい霧深い、そして無始無終の極氷洋の光景と、灼熱した太陽の光りの溶けて漂ふ印度洋と、北佛蘭西の寂しい海岸の
またこの作は、アイルランドの劇詩人ジョン・ミリングトン・シングに影響して、その作「
シングの作中の老婆――自分等に生命を與へ、自分等を育て上げ、やがてはまた自分等の生命を奪ひ取つて行く海、その不思議な廣大な自由な水の國、その海が、その國が、彼女の男の兒を一人また一人と奪ひ取つて行くのを、ぢつと忍び耐へて、四方の水平線上から遠く攻め寄せて來るその響きに聽入つてゐる老婆、彼女は自分の運命を悲しみもし、哭きもしても、その底には深い諦めがある。彼女その者が海水の中から身を拔き出して、孤つ岩の上で休息してゐる海獸の姿のやうにも思はれる。
ロチのこの作に現はるる老祖母イヴォンヌにしてもさうである。ブルターニュの岸邊へ打ち寄せて來る海の波は、彼女の周圍の者を盡く冷たい北の波の國へ連れて行つて了ふ。然るに最後に殘つた一人の孫息子は東の方印度洋上で死んでしまふ。彼女はやがて自分と同じ運命の路を歩むべき少女ゴオドと共に寂しい孤つ家に日を送つてゐる。
女性は、彼等の作中では、運命への默從者であり、忍從者である。男性は運命の誘ふまゝに、何處へでもあれ、夢を追うて走つて行く。ロチのこの作で、この男性の代表者はヤンである。彼は強健な體躯と、負け嫌ひな氣象との快男兒である。如何に甘き陸上の戀が彼を引止めようとも、彼は遂に自分が豫見してゐた花嫁、恐ろしい歡喜の響きを立てる海と結婚するまでは、如何にしても海上生活を思ひ止まる事は出來なかつた。蛾が己が身を燒かうとも、燈火に引つきけられずにはゐられないやうに、海の魅力は遂に彼の生命を吸ひ取らずには置かなかつた。
陸上に止まつてゐる者も、海上で命を捨てる者も、いづれは目に見えぬ或る力に從はしめられ、或は誘はれたる者共である。この不可抗の力に對する一種の默聽、それこそはセルト種族の他とは異つた特徴ではあるまいか。彼等はその力を心内に聽いたと思ふ時は、何を置いてもその聲に從はずにはゐないのである。彼等が他と戰ふにしてもこの啓示によつてである。彼等が放浪の旅に上るにしても、この力を求めんがためである。
併しまたこの默聽忍從は、歡樂のたゞ中へ一脈の哀愁を漂はし、白日の底へ一味の暗涼を誘致する。畢竟目に見える世界へ、目に見えぬ世界を誘致せずにはゐられないのである。現在を現在としてでは滿足出來ず、更にその先きを求めずにはゐないのである。先きを求むる中に現在に對する不滿がある。歡樂に終始し得ざる悲しみがある。この心理は無視し笑殺し難き儼然たる事實である。たゞセルトの種族が他よりもより多くその傾向を持つてゐるといふに過ぎないのである。ルナンの内心の默示に聽け、シャトオブリアンの漂泊の思ひ、そしてロチの哀歡に想到せよ、セルト種族の心理、セルト種族の生命の一端に接し得らるるに異ひない。 (大正五年六月)