穀神としての牛に関する民俗

中山太郎




牛を穀神とするは世界共通の信仰


 牛を穀神として崇拝したのは、殆んど世界共通の信仰であるが、殊に印度、支那、我国において、その濃厚なるを認める。そして、我国の牛の初見は、日本書紀の一書に、天照大神が月夜見尊に勅して、葦原中国あしはらのなかつくに保食神うけもちのかみを訪ねさせし際に、保食神の無礼に接して、
月夜見尊忿然(中略)。すなわち剣を抜いて保食神を撃殺したまひき(中略)。是の後に天照大神た天熊大人をつかわして往いて看せたまふ。是の時に保食神まことすでみまかれり、唯し其の神の頂に牛馬化為れり云々(岩波文庫本)。
と記せるがそれである。そして、この神話からおよそ三つの民俗学的問題を抽出することが出来る。第一は穀神である保食神は、何故に殺されたのか。第二は保食神は、何故に女性におわしませしか。第三は保食神の屍体から、牛馬が化生けしょうしたとは、如何なる意味を有するかの点である。ここにはこの三つを押しくるめて概説する。
 古代の民俗は、穀物を播種すると、繁茂し結実するのを、直ちに自分達の生死を類推して、これを穀物の生死と考えたのである。発芽とともに繁茂するのは生であって、結実とともに幹葉の枯れるのを死と信じたのである。加うるに我国にも天父地母の思想は顕然として存していた。即ち蒼天を父とし大地を母とし、総ての自然物は、この天父地母の交会作用によって生成すること、あたかも自分達の交会作用によって、子孫を生成するのと同一だと考えていた。それに古代民族にあっては、穀物その物が直ちに神であった。文化のやや進んだ民族は、穀物の豊凶は穀物を支配している神――即ち農業神の左右するものと考えるようになり、穀物と穀神とを区別するが、古代民族にはこの区別が出来なかった。従って穀物の幹茎を刈り取ることは、とりも直さず穀神を殺すことなのである。
 地母の信仰の神格化されたのが保食神である。狩猟時代から農耕時代に入った頃の男子は、なお依然として山野に河海に、狩漁の仕事をつづけていた。それと同時にこの時代に有りがちな他部落との闘争には、是非とも男子の体力と智慮とに俟たねばならぬので、耕作機織の如き仕事は、当然女子の手で処理されたのである。かつ穀物の発芽結実を天父地母の生殖の作用と信じ穀神を女性と考えた時代にあっては、女子が農耕に従事するのは穀神の恩頼を蒙る所以としたのである。さらに女子は農耕以前から、野や山に出て副食物たる植物の芽や実を採集した伝統的の経験があるので、農事に親しむべき素養を充分に有していたのである。神代紀に雀を碓女うすめとし、崇神朝に定めしみつぎに『男の弓端ゆはずの調、女の手末たなすえの調』とあり、万葉集に『稲つけばかゝる吾が手を今宵もか、殿のく子がとりてなげかむ』とあるのも、ともに古く女子が農耕者であったことを明白にしている。なお地母と穀神との関係は、詳細に記述すべきであるが、民俗学専門の雑誌ならぬ本誌では、万一の誤解をおそれ深く言うを避けた。
 支那の古典によれば、神農氏は牛首人身にして、五穀をえることを始めたと伝えられ、さらに易経には牛は坤なりとある。そして、その坤は、天の乾に対する地であることを知れば、穀神――牛――地母の関係が明白に認識されるのである。ただ注意すべき点は、これらの支那の古伝説と、我国の保食神の頂より牛馬が化生したという神話との間に、交渉があるか否かの問題であるが、これもこの以上は言わぬこととした。

土牛を立て寒気を送る信仰と追儺


 我国でも牛を大地の象徴とし、これを穀神として崇拝した例は段々と存しているが、それが朝儀として行われ、かつ最も有名なのは土牛どぎゅうの行事である。そして、この事は延喜式、政治要略、年中行事秘抄などに載せてあるが、ここには公事根源より抄録する。
大寒の日、夜半に陰陽師土牛童子の像を門口に立つ。陽明待賢門は青色の土牛をたつ。美福朱雀門には赤色なり。談天藻璧門は[#「談天藻璧門は」はママ]白色なり。安嘉偉かん門には黒色なり。郁芳皇嘉殷富達智の四門には、黄色を立つるなり(中略)。四方の門にまた黄色の土牛を立て加ふるは、中央土の色なり。木火金水に土は離れぬことわりあり。慶雲二年天下疫癘さかんにして、百姓多くうせたりしかば、土牛を造り追儺ついなといふ事始りき。異国の書には、農事のために時を示さんとて、土牛を立つる由見えたり。
 なおこの外に万物物語に土牛の色彩の由来、漢事始に丑と牛との関係を説いているが、要するに陰陽道の理由に過ぎぬので今は省略した。さて、この土牛の行事が礼記月令の季冬命有司、出土牛、以示農耕之早晩、思想に負うている事は明白である。ただ問題となるのは文武朝の慶雲二年に始めて追儺を行うとき、一見これには交渉なきものと考える土牛を立てた事である。反言すれば、季冬の頃に農事の早晩を示すに用いる土牛を、何故に農事に関係なき追儺に用いたかと云う点である。しかるにこれについて鄭玄の礼記註疏に、この月は墳墓に四司の気があり、※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)れいきとなり強陰に随い出て人を害するので、土牛を作って牽止けんしさせるのであると論じている。追儺の呪術的信仰から云えば誠に徹底せぬ理論であるが、信仰と理論とは往々両立せぬので、これ以上に筆をすすめることは差控える。
 そしてこの機会に印度における牛の崇拝に関し略説する。これも仏教という信仰を通じて、我国の牛と民俗との交渉に因縁を有しているからである。印度でも牛は女性の象徴であったことは、支那と我国と少しも変りがない。従って諸種の経文に現われた牛の功徳については、余りにも多いので載せきれず、また載せる必要もないと考えたので省略する。これに加え、牛は印度において地神であった。かつて南方熊楠氏から親しく聴いた話であるが、英国の博物館の秘密室に、印度から招来した彫刻物であるが、農耕地を犯した婦人に対し、牛が制裁を加えているのがあったとのことである。即ち同国でも牛が地神であり、かつ農耕に関係を有していることが知られる。さらに巷説によると、我国――殊に秋田青森地方で、牛をベコと云うているのは、印度のべこを輸入したもので、同国では貨幣に牛頭を鋳出し、これをベコと称すとのことである(牛の伝説と雑話)。なおケルレル著の家畜史はこの点につき詳説している。

我国の家畜の分布と牛飼神の地位


 保食神の頂から牛馬が化生したと云うのは、神話であって史実ではない。しからば牛馬はいつ頃から我国に飼育されていたか、それと同時に何者がこれを使用し始めたか。魏志の倭人伝によれば、我国には牛馬は居らなかったと明記している。しかるに先年瀬戸内海の海底から化石した牛骨が現われたとか、尾張熱田の貝塚から一本の馬の歯が出たとかで、牛も馬も太古時代から我国に棲んでいたように云われたものであるが、これは一種の風説であって、牛馬とも古くは我国には居らぬのが事実である。
 しかるにこれも風説を記したものであるが、大国主命の御子である和加布都努志命わかふつぬしのみことは、牛を使う技術が巧みであって、多数の国人にその法を教え、牛飼神と崇められ、今に出雲大社の傍に、その尊像が安置してあると云う(無用の書)。この記事を基調として考察を試みるのは、少しく心許なく思われぬでもないが、しかしながらこの記事には多くの史実が伴っていることが発見される。即ち大国主命の御子に和加布都努志命のおわしたことは、出雲国風土記にも明徴があり、さらに同書によれば命は『天地あめつちの初りの後、あめ御領田みしらたおさ供奉つかえたてまつりき』とあるので、農耕に親しまれた事も判然する。そればかりでなく我国の牛馬の分布から見るも、牛はこの和加布都努志命の本貫である出雲を中心として中国に多く飼われ、馬は近畿から東方へかけて盛んに用いられ、この事実は現在にあっても変更する所がない。そして、これだけの事実を資料として、結論めいたことを云うのは慎しまねばならぬが、どうも牛は出雲民族によって、韓国から我国に輸入され、これに反して、馬は大倭おおやまと民族によって、同じく韓国から舶載したもののように考えられる。時代においては牛が馬よりも古く、分布においては馬が牛より広いと思う。さらに想像すれば、出雲系の神と云われる須佐之男命が、韓国の牛頭山ごずさんに降臨したという伝説も、同みことが大倭の地に棲んだと察すべき斑馬ふちうま逆剥さかはぎにしたという神話も、何となくこの想像を有力ならしむるもののように解せられる。家畜の上より見た両民族の起伏は牽引力だけに強き牛に対して牽引と走駆とを兼ねし馬との消長ではなかったか。なおしいていえば、和加布都努志命の名義は和加は若、布都は名剣の持主である若き神の意と拝せられるのである。手短くいえば武神なのである。その武神が天の御領田の長となり、さらに牛飼神として祀らるとは、種々なる暗示に富む興味深い問題である。

牛を以て神を祭るは我国の古俗


 牛が我国に輸入された時代は、紀年的に知ることは出来ぬが、その分布は案外に早かったもののようである。これは農耕にとり欠くことが出来なかった為である。そして、神武紀には、牛酒を以て軍族をねぎらいし記事が見え、皇極朝の元年には『村々の祝部の所教のまゝに或は牛馬を殺して、諸社の神を祭る』迄になった。この牛馬を殺して諸神を祭るのは、我国の習礼ではなくして、外国の模倣であると説く学者もあるが、必らずしもそうばかりとは云えぬようである。孝徳朝に善那が牛乳を献じたので姓を和薬使やまとくすしと賜い乳牛院を建てたことは著聞している。天武朝になり牛馬等の家畜を食うことを禁じたのは、仏教の影響であって我国の古俗ではない。昔の神道学者が、けものとけだものとを区別して、前者は野獣ゆえ食うてよく、後者は家畜とて食うはわるしと云われたのは無意味であって、古く我国では獣畜の差なく食した。神々もまた同じで、毛の柔物でも毛の荒物でも聞食きこしめしたのである。奈良朝まで時代が降ると牛の記録も相当にあり、日本霊異記には牛五十頭を、東大寺に寄進するなどと見えているので、その需要の多かったことも知られる。しかし今の問題は牛の需要とか分布とか云う事ではなくして、祭儀に呪術に牛が如何に利用されたかという点にある。これについて斎藤彦麿は、左の如く述べている。
神祇正道に於ては、牛馬犬猿※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は人にやしなはれ、人の用をなす故に、継ぎて産死の穢あり(中略)。後漢書に、以牛祭神とあり、広洲記に殺牛取血、和泥塗右手背祀とあり、これら神も真の神にあらず、牛馬も穢とせざるなり。天竺にては、雨を祈るに以牛糞場地、以牛乳酪法師とあり(中略)。いつの程にか異国の風義うつりつらん、皇極天皇紀に殺牛馬諸社神云々。桓武天皇紀に断百性殺牛用祭漢神云々。自然と悪風儀うつるなり(傍廂後篇)。
 牛が世界的に崇拝されていることが、ここにも証明されているが、我国で牛を殺して神を祭ることが異国の風の移入とのみいうのはどうかと思う。古語拾遺に『大地主神、田を営るの日、牛のししを田人に食はせ』たことや、さらに、『宜しく牛の宍を以て、溝の口に置かせた』ことがあり、なお播磨国風土記の賀毛郡雲潤里の条に丹津日子神が『吾れ宍ノ血を以てつくる故に、河の水を欲せず』とあるは、即ち牛の血液に稲種を浸すことで、以上は牛の肉や血を農耕に用いた呪術であって、ともに我国固有の習俗と見るべきである。
 牛の腹中から出る牛玉が、牛玉宝印とまで発展し、それが熊野の烏と道連れとなり、誓詞に伴う民俗については、南方熊楠氏の考証が発表されているので略すが(南方随筆)、それによると牛は宰判するという信仰から来たとあるが、これこそ異国の風の移ったものとしか考えられぬ。

田遊びの牛の役と雨乞の牛の首


 穀神として崇拝されただけに、牛と農耕との民俗は、各地にわたり夥しきまでに存している。古い形式を残した田遊びの神事には、必らず牛が出るが、稀には生きた本物が出るのがある。富山県射水いみず下村しもむらの加茂神社の春季祭に牛乗式が行われるが、この牛は昔から飛騨より借りて来る。王鼻の仮面をつけた祠官が青竹の弓に白紙の羽の矢を番えて牛に乗り、天下泰平、五穀成就と三唱して放ち、拝殿へ向って乗り出すと、参詣の群集が牛を取囲みこれを押しつぶそうとひしめきあい、牛がつぶれると豊年なりとて歓声をあげる。牛の損料は玄米一俵だが、押しつぶされた際は二俵だという。縁喜を祝うての祝儀である。播州明石市の稲爪いなつめ神社の例祭には、牛乗権兵衛という神事がある。牛乗りを承る者は、顔へ白粉を塗り額へ大の字を墨書し、裃を着し赤青紙張りの笠を破り[#「破り」はママ]、手に長い竹弓と蕪矢かぶらやを持つ。牛の口取りは持主で焙烙ほうろくを被るが式は社頭と当宿で祝言を述べるだけである。大阪市住吉区平野郷町の杭全くまた神社の御田植祭には、牛を遣って田をく所作がある。この牛は人間が扮するのであるが、何故か牛に扮すると短命になるとて氏子は嫌う。それで無理に酒を飲ませて勤めさせるが、中々牛遣いの命令をきかぬそうだ。これは追儺祭の儺負人なおいにんや、護法祭の護法実ごほうだねと同じ心理である。
 農耕に深い交渉を有する雨乞祭に、牛の首が利用されることは今も昔も全く変る所がない。仁和四年に菅原道真が讃岐の国守として赴任した折に大旱にあい、雨乞せしに大雨あり、国民狂喜したが、その際に滝の宮八幡の社前にあった石彫りの牛までが躍り出し、その為めに石の牛が首を打ったとて、現在でも首折れ寝牛というがある。この不思議な話も牛の首を雨乞に用いた民俗を知るとき、限りなき興味が湧くのである。和歌山県西牟婁むろ郡北富田とんだ村庄川に牛屋谷という滝がある。昔から旱魃の時には村民が集まって祈雨するが、総ての方法を尽くしてもなお降らぬ際は、牛の首を切って、滝壺の柵に置き藤蔓で堅くゆわえ付け後を見ずに帰って来る秘法を行うことになっている。福島県南会津郡大戸おおと村の雨乞は、猿丸太夫の古跡という上の沼へ、牛の頭を投げ込むのであるが、この事は大正十三年七月の大旱にも行われた。広島県双三ふたみ郡八幡村を同じ大正十三年九月に旅行した人の報告によると、同村矢淵ノ滝口に生えている藤に、血の滴るような牛の生首が二つまで結え付けてあったが、これは祈雨の作法だとある。まだこの外に静岡県や兵庫県にも、この種の呪術が行われているが、同じ作法なので省略した。
 注連縄を牛血に浸し、それを村の入口に張って悪疫の襲来を防ぐことや、生ける牛を建築の犠牲として埋めることなど、書けば牛のよだれのように限りもなくあるが、概略を尽くしたので擱筆する。





底本:「タブーに挑む民俗学 中山太郎土俗学エッセイ集成」河出書房新社
   2007(平成19)年3月30日初版発行
底本の親本:「民俗点描」人文書院
   1937(昭和12)年
初出:「神社協会雑誌 第三六巻一号」
   1937(昭和12)年
※底本の解題によれば初出は未確認とあります。
※底本の親本での題名は「穀神としての牛」です。
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2012年4月28日作成
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