「東北文化研究」創刊號の餘白録に、喜田先生の「安達ヶ原の鬼婆々」を讀んで、先生の御高見もさる事ながら、これに就いては小生も先年から多少考へてゐるところがあるので、こゝに異考として先生の驥尾に附し、敢て御笑ひ草までに書きつけるとした。そしてこゝには結論だけを申上げる。
妊婦難産の爲め死亡せし場合は、一般葬儀の場合と同一形式に依るも、墓地に到りて埋葬に先だち屍體の包を解き會葬者を遠ざけ、鎌を以て腹部を割き體内の嬰兒を出し母の屍體に抱かしめ、再び包みて之を葬る。此役に當る者は部落中のフツチ(老婆)の中より膽の座りたる者を擇ぶ由なり。此手術を爲す際着用したる手術者の衣服は、手術後現場に於て鎌を以て寸々に切り裂き其儘之れを放棄す。
安達ヶ原の鬼婆々は、此の鎌を執る老婆(或はこんな事を營業にした者があつたのかも知れぬ)の傳説化ではないかと考へてゐる。そして奧州には此の種の土俗の面影は二三年前までも殘つてゐた。私の宅にゐた福島縣平町に近い×村生れの女中の姉が難産で死んだ折に、醫師を頼んで胎兒を引き出しアイヌと同じやうに妊婦に懷かせて葬つたと私に語つたことがある。そしてこれと同じ土俗は喜田先生のお國に近い愛媛縣にも行はれてゐるといふ報告に接してゐる。これは御歸省の折にでも御調査をねがひたいものだと思ふてゐる。妊婦の腹を割いて胎兒を取り出し、それを母親に懷かせて埋めるといふやうな慘酷極まる土俗が何故に發生したものか、それと同時に内地に行はれたものはアイヌのそれに學んだものか、それとも獨立して發生したものか、それ等に就いて愚案あるも、尻馬に長いのは禁物と存じ、これで終りとする(創刊號を讀んだ朝)