左千夫先生への追憶

石原純




 左千夫さちお先生のことをおもうと、私にはいかにも懐かしい気分がいてくる。あの大きなふとった身体からだ、そしてみなりなどにかまわない素朴な態度、その平淡ななかに言い知れぬ深いところをたたえて我々に接せられたことなどに対し、私はどんなに懐かしさを感じているかわからないほどである。
馬酔木あしび」がはじめて発刊せられたのは明治三十六年のことであった。それ以前から根岸派ねぎしはの歌に親しんでいた私はこれを嬉しく思いながら、先生のことを想像していた。その時分は大学の学生であったが、まだ見知らぬ人をいきなりたずねて行ってよいかどうかを思いまどいながら数箇月を過ごしてしまった。そのうちに毎月の歌会が先生の宅で開かれるようになったので、この年の秋過ぐるころに、私ははじめてその歌会の日に訪ねて行った。牛乳屋の硝子ガラス戸のはまった入口のかたわらに、少し奥まったところに格子戸こうしどの玄関が別にあった。そこで案内を乞いながら私ははじめて先生のあの懐かしい面に接したのであった。この折りに見たをきった座敷や、愛蔵せられていた茶釜や、無一塵むいちじんの額面や、それらは今でも私の眼前にちらついて見えるようである。そして先生のおもかげと結びついて私の脳裡のうりに消されずにのこっている。
 本所ほんじょ茅場町かやばちょうの先生の家は、もう町はずれの寂しいところであった。庭さきのかきの外にはひろい蓮沼はすぬまがあって、夏ごろはかわずやかましいように鳴いていた。五位鷺ごいさぎ葭切よしきりのなく声などもよく聞いた。そこで牛を飼っていながら、茶を楽しみ、歌や文学や絵画を論じていられた先生は、実に高尚な趣味に徹した人であった。雑然たる都会のなかに住んでいた私には、暇を見つけては先生のもとに行って、その閑寂かんせきな趣味のなかにひたることのできるのを、この上なく嬉しく思ったことであった。いつもあまりながく話して、知らない間に夜をふかしてしまうこともしばしばあった。まだ電車などまるでなかったころであったから、本郷ほんごうの家まで帰るのに、もうひっそりと寝しずまった町々を歩いて来たのであったが、時々はあまりに遅い時間になってしまって、そのままめていただいたことなどもかなりにあった。
 趣味に徹していた先生は、そうであるからと言って趣味におぼれる人では決してなかった。閑寂をもとめ平淡を愛しながら、なお決して世を離れるような退嬰たいえい的な態度をとらしめるに至らなかった所以ゆえんはここにあると私は思う。あれほど淡雅な趣味を好んでいた先生が、他面においてはなはだ進取的な若々しい気分や、執拗しつような強い自信をもって、実世間につき進んでゆかれたことなど思うと、むしろ不思議なほどである。この性格において私は先生の偉大さを切実に認めるとともに、そこに少しの厭味いやみをも伴うことなく、どこまでも懐かしさを感ぜしめることを、まことに貴とくも思うのである。
 歌論に対する先生の自信はおそらくすべての人々が異常な感をもってそれに対したほどであった。先生のこころにはそれが絶対のものであったので、当時世間でもてはやされていた歌などには、まるでその価値を認めずに罵倒ばとうされた。その議論に熱烈であったことはまことに驚くべきほどである。私はあぶらぎってえていた先生の体格が、この強い確信を燃えたたしめる素質となっていたのだと思っている。正岡子規子まさおかしきしの没後、先生がひとりその門弟のなかにぬきんでて、根岸派歌会の中心となってそれを背負ってゆかれたことも、年齢などの関係もあったには違いないが、また主としてこの強味をもたれていたからであると思う。中年になってから、あれだけの小説を書かれたのも、やはり同様の性格に基づくもので、そのころの小説に対する自信もかなりの程度のものであった。
 先生が我々よりも二十年も年上でありながら若い気分をもっていられたことは随所に見られた。本当に友だちのように我々を遇せられていた。歌会のときなど、席上の歌作に苦しんでいると、いつも先生は元気な声で、「そんなことではだめだ、僕はもう数首できたよ」と言っては、我々を励まされた。また私が大学で物理学を専攻していたので、先生はよく物質の分子とか電子とかラジウムとか、それから地球や天体のことなどを、非常な興味をもって私に尋ねられるのであった。そしてそれらのふしぎな現象をいろいろと心に描きながら、自然の幽幻なありさまや、人間の知識の究極するところの深さに感嘆しておられた。これらのことは、一面には先生が近代教育を受けない素朴な性質をもっておられたことにもよるが、それでありながら先生が熱心にこのような知識を解しようとせられたところに、実に若々しい進取的な気質を私は観取しないわけにはゆかないのであった。
 自然に対する驚異、それは本当に敬虔けいけんな心から生まれる。なまなかの学問をしたものはかえってそういう心を失って、自分の浅薄な知識にたよりたがるのである。先生にはそういうことが絶対になかったので、最も深く自然を愛し、これを讃美せられた。明治四十三年五月にかの有名なハリー彗星すいせいが太陽に近づき、遠くその尾をひいて、それがわが地球にも触れると言われたとき、先生はちょうどその折りにできあがった茶室唯真閣ゆいしんかくに我々を待って、このまれな日の感慨を深められた。そのとき書かれた文には次の句がある。
(五月十九日) 七十五年ごとに現わるべき彗星のこの世界に最も近づくという日である。わが方丈の一室もようやく工をえ、この日はじめて諸友をここに会した。……十九日はもとより我々の忘るることあたわざる日である。今またこの日をもってこの会をなす。今後をしてさらにこの日を親しましめるであろう。予は永久に毎月この日をもってこの一室に諸友の来遊を待つことと定めた。
彗星来降の実況は晴天なるにかかわらずついに何ごとをも感ずることができなかった。夜に入ってはただ月白く風さわやかに、若葉青葉のかおりが夜気にらぐをおぼゆるのみである。会は実におもしろかりし楽しかりし。
 ここで十九日は我々の忘るることあたわざる日であると書かれたのは、正岡子規子の命日に当たるからである。このとき我々は夜を徹するばかりに語りふけって、それから月明のふけわたった静かな街路を、何ものかの変異を心に予感しようとしながら、それぞれの家に向けて帰ったのであった。
 偏僻へんぴなところにあった先生の家のすぐ前には、汽車の高架線があって、錦糸堀きんしぼりの停車場の構内になっていた。夜分静かに話にふけっていると、汽車がごうごうと通り過ぎてゆく。沼地につづいたこのあたりの軟らかい地面を揺らがして、地震のようにぐらぐらする。私はいつものびた心地のなかに、急に近代的の刺戟しげきを感じさせられるようにも思った。しかしそれにもれてくると、今度はかえってそれもなくてはならぬもののように平気になってしまった。先生の立てられた渋い茶を味わって、こうして我々は現代に生きていたのである。世の人たちは万葉崇拝まんようすうはいをいたずらに古めかしい趣味ででもあるように見なしていた。先生は万葉精神の体現はたとえ一般人には認められなくとも、それを理想とする少数の我々がここにあるということは、やはり現代思潮の一部として否定すべからざる事実であるとも言われていた。それを今思うと感慨がふかい。
馬酔木あしび」時代には、雑誌の編集はほとんど先生一人の仕事であった。それに対しては非常に熱心でいられたのにかかわらず、発行の遅れないときはないほどであった。きょうはぜひやってしまわなくてはならないと言いながら、訪問者でもあると、それを断わりきれずに、やはりゆっくりと茶を飲んで話していられた。先生のゆったりした、しかも愛情のみちた性格がこういうところに遺憾いかんなくうかがわれる。第二巻、第三巻のころには印刷所が京橋にあったので、雑誌のできあがった日には、そこへ出かけて行って雑誌を自分でうけとり、それから私の本郷の寓居ぐうきょへ立ちよって、一緒いっしょに発送をするのを例とせられていた。
 真間ままで歌会をやって手古奈てこなほこらに詣でたことや、千葉の瀬川氏の別荘へ行って歌をつくったことや、東京湾の観艦式かんかんしきを見るのに川崎におもむいてそこで泊った折りのことや、多摩川たまがわべりの寺内であゆを賞したときのことなど、私には忘れられない記憶となって残っている。そしてはかまももだちをとって田舎道いなかみちを歩いてゆかれた先生の姿など眼のまえに浮かんでくる。甲州御嶽みたけの歌会には私の都合で行をともにすることのできなかったのを、今でも遺憾に思っている。
 明治四十五年の三月に私が欧州へ向けて留学の旅に出かける折りに、送別の会を先生のもとで開いていただいた。先生の健康な身体をそのとき限り見ることができなくなろうとは、かりにも予想し得ないことであった。翌年先生の訃報ふほうを私はスイスのチューリッヒで受けとったのであったが、そのとき私はそこの山腹の下宿の高い窓から、呆然ぼうぜんとして町の向こうの青い湖水の面を見おろしながら、ひとり離れて遠い思いに浸らないわけにはゆかなかった。私はやがて故国に帰って先生に話そうと思っていたいろいろな事がらを、そのままにしなくてはならないようになってしまったことを、その時どんなにうらんだかしれない。
 西洋の文字を知らなかった先生は、欧州にいる私に対する手紙の宛名を書くのに、いつも斎藤君をわずらわさねばならなかったが、そういう面倒をあえてしては、いつも真情のこもった手紙をはるかに送られたことを、私はまことにありがたいと思っている。ドイツから送った私の歌に対して、「アララギ」第六巻第三号で「歌のうるおい」という歌論のもとで、大いにめられ、それが先生の最後に近い歌論ともなったことは、私にとってまことに感銘のふかいところである。それはこのころ斎藤君などが新らしい道に進もうとされて、先生からいくらか離れるようにも見えることを寂しく思われたのにもよることと思うが、ともかく私はこのことを忘れるわけにはゆかない。
 先生がかれて、もう七年も過ぎたかと思うと、今さらに年月の経つのがはやい気がする。先生がいままで達者でいられたならどんなであろうなどとも思っていると、近眼鏡を二重にかけた先生のおもかげが眼前にありありと見える気がする。
(一九一九年六月「アララギ」)





底本:「随想全集 第九巻」尚学図書
   1969(昭和44)年11月5日発行
底本の親本:「随筆集 夾竹桃」文明社
   1943(昭和18)年7月20日発行
初出:「アララギ」アララギ発行所
   1919(大正8)年7月
※「本所茅場町」は当時の東京市本所区茅場町、「本郷」は同じく東京市本郷区です。
入力:高瀬竜一
校正:フクポー
2018年6月27日作成
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