皆さんは物理学の上でエネルギー恒存の原理というもののあることを知って居られるでしょう。これはすべての物質現象に通じて成り立つ根本的な原理で、今ではこの原理に背くような事がらは全くないと考えられているのですが、このような大切な原理がどうして見つけ出されて来たかということは、科学の上で実に意味ぶかいことであると
もちろんエネルギーの原理が見つけ出されるまでには、いろいろな段階のあったことは確かであります。すべて科学の発達はある順序を踏んで、その一歩々々を進めてゆかなくてはならないのですが、根本的な原理になると一層そうであることがこのエネルギーの原理などにおいても知られるわけであります。エネルギーが恒存するということは、まず物体の運動に関して最初に知られたのでした。地球上の空間で物体が運動する場合を考えて見ますと、普通に物体が高い
これだけの事がらは、ニュートンの力学が発達した十八世紀の時代に
ルンフォード伯の本名はペンジャミン・トンプソンと[#「ペンジャミン・トンプソンと」はママ]いうので、アメリカのボストン市に近いノース・オバーンという
ところで、このルンフオード伯がバイエルンの首都ミュンヘンで軍事に関する仕事をしていた際に、大砲をつくる工場で砲身に
ルンフオード伯のこの考えは一七九八年にイギリスで発表されましたが、熱素説を信ずる人々は強くそれに反対しました。しかしだんだんに学者の間にそれが広まり、またハンフリー・デヴィーなども氷を互いに擦り合わせると、融けて水になることを実験で確めてこの説に賛成しました。この実験は空気を抜いたガラスの器のなかで行ったのでしたが、最初には氷点下二度というつめたい氷が、摩擦して融けると氷点よりも二度以上も高い温度になってしまいました。
このようにして摩擦によって熱のおこることが実験で確かめられるようになったのですが、それでもやはり一般の人々は熱に対するカロリック説に執着して、それを捨てきれなかったのですから、一度信じこんだ考えはなかなかとり去ることのできないものだということが、これでもよくわかるでしょう。それでこの考えが全く破られるまでには、それからなお半世紀を経なければならなかったのでした。
年月が経って一八四〇年頃になりました。そのときドイツにロバート・マイヤーという医者がありました。この人は医学を修めてから、東洋通いの船の船医に就職したので、
マイヤーのこのような考え方は、いずれも正しいのでありましたが、ともかくこれは熱と仕事とが外見上はちがっていても、実は同じものが形を変えて現れたのであるということを示した最初のものであります。後にそれが一般にエネルギーという名であらわされるようになったので、ここにエネルギーの原理の最初の言いあらわしが成り立ったのでした。ところがマイヤーがこれ等の考えを記した論文をドイツに帰ってからその頃の有名な学術雑誌に発表しようとしましたら、この雑誌では掲載を断ってしまったので、止むを得ず他の雑誌に載せてもらいました。それでも一向に注意されずに過ぎてしまったというのですから、学問上の仕事にしても、やはり時勢を待つより外はないと
マイヤーがこのような研究を行っていたのと同じ頃に、イギリスにはジュールという学者があって、やはり熱と仕事との関係を実験的に測ろうとしました。ジュールはマイヤーの研究についてはまるで知らなかったのですが、ルンフォード伯やデーヴィーの実験を知っていたので、それを数量的に確かめようとしたのでした。最初に実験を行ったのは同じく一八四〇年のことで、電気を通した針金のなかに起る熱を測って、今日普通にジュールの法則と呼ばれている関係を見つけ出し、その後水を機械的にかきまわして、機械のする仕事と、それによって水の温度を高める熱の量との関係を精密に測りました。そしてこの結果から、いつも一定の仕事によって一定の熱の量が起されることを確かめました。
これだけの準備がととのった上で、その次にドイツのヘルムホルツによってエネルギー恒存の原理が立てられることとなったので、それについては次にお話ししますが、科学の上の根本的な原理が見つかるまでには、いろいろな段階を踏み上らなくてはならないことが、これでよくわかるでしょう。
ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは一八二一年にドイツのポッツダムに生まれました。父はギムナジウムという中等学校の教師でありましたが、母方にはイギリスやフランスの血統を受け継いでいたということです。幼い頃は病身で弱かったので、自分の部屋に起居する日が多く、ひとりで積み木遊びなどをしているうちに、幾何学の知識を自然に覚えこんでしまったということです。ところが彼は子どもながらにも、幾何学だけでは満足しなかったので、眼を自然のいろいろな事がらに向けて、そこに大きな興味をもちました。そして父の書斎から物理学の書物を見つけ出して来ては、それを熱心に読んだのでした。しかし父は哲学や言語学に興味をもっていたので、息子をもその方に向わせようとしましたが、これはうまくゆかなかったのでした。その頃のドイツではまだ自然科学はさほど重んぜられてもいなかったので、この父の考えも当然のようでもあったのですが、息子が科学を好むとなれば無理に他に向わせるわけにもゆかないのでした。それにしても科学を勉強するには十分な学資を必要としたので、他に四人も子供をもっていた父親にはそれだけの余裕もなく困っていました。ところが陸軍の軍医を志願すると学資を
一八四二年に学校を卒業して、翌年軍医となり、生理学の研究をも同時に行っていたのでしたが、その際に生物体内の熱に関していろいろ考えをめぐらすうちに、遂に数年経ってエネルギー恒存の原理に達したのです。そしてこれを一八四七年の七月にベルリンの物理学会で発表しましたが、その際にはさほどの注意を
ヘルムホルツがこの原理を考え出したのには、おもしろい挿話があるのです。これは彼が自分で物語っていることなのですが、その頃の医学などもまだ本当に科学的ではなかったので、ある人たちなどは昔から言い伝えられた霊魂説を信じてもいたのでした。ところが霊魂が人間に宿って生命を得るという考え方ははなはだ非科学的だとヘルムホルツは感じたのでした。なぜと
エネルギー原理がだんだんに一般に認められるようになると共に、ヘルムホルツの名声は非常に高まりました。その研究も
ヘルムホルツの経歴を簡略に述べますと、一八四八年にベルリン美術学校の解剖学の教授になり、翌年ケーニッヒスベルグ大学の生理学員外教授に任ぜられ、一八五二年にそこの正教授となり、次いで一八五五年にボン大学、一八五八年にハイデルベルグ大学に転じましたが、一八七一年にはベルリン大学の物理学教授となりました。その後一八八八年にベルリンに新設せられた物理工業研究所長に任ぜられ、更に貴族に列せられて、フォン・ヘルムホルツと敬称されることとなりました。一八九一年にはその七十歳の祝賀の式が盛大にベルリンで行われ、ドイツ皇帝を始め、各国の帝王や学会などから祝辞が寄せられたのは、彼の一代における最大の光栄でもあったのでしょう。この時に彼は自分のそれまでの追憶を話しましたが、これは科学者としての彼の生涯を知るために非常に興味のある、またはなはだ有益な談話であります。かくて一八九四年にその輝かしい一生を静かに終ったのでありました。