十九世紀の終りから今世紀にかけては、電気の世のなかと言われているほどに、電気の利用がさかんになって来ました。実際に皆さんが自分たちのまわりを見まわして見るならば、電気がどれほど多くつかわれているかがすぐにわかるでしょう。電灯やラジオを始めとして、電信、電話、電車から、たくさんの工場で使われている電力や、そのほかいろいろな種類の電気の利用をかぞえてゆくと、とても一々挙げきれないほどに多いのです。ですから今の人々の生活から電気の利用を取り除いてしまったなら、どんなに不便になるかわかりません。ところで、電気がこれほどさかんに使われるようになったというのも、つまり電気の学問がそれまでに非常に発達したおかげに外ならないのです。さてこの電気の学問がこのように発達するのには、それはもちろんたくさんの学者の苦心を経た研究がかさねられて来たのに依るのでありますが、なかでも最も多くそれに貢献したのは、ここにお話ししようとするファラデイと、それに続いてその仕事を完成したマクスウェルとの二人であることは、誰しも認めないわけにはゆかないのです。そういう事をよく考えてゆくと、今日電気の利用で多くの便利を得ている人々は、この二人の学者の名を忘れてはならないのですし、そしてその研究に対して限りなく感謝しなくてはならない
電気の現象は、二千年以上も古いギリシャ文明の頃に既に知られていたと言われていますが、それを学問的に研究し始めたのは、やはり十六世紀の末頃で、ちょうどガリレイなどがイタリヤで活躍していた時代なのですから、つまりそこには科学が興るような時勢の動きのあったことが、これからもわかるのです。このころイギリスにギルバートという医者があって、後にはエリザベス女王の侍医にまでなったのでしたが、この人が電気や磁気の現象を初めて研究し出したので、その実験を女王の前で行って、非常な評判になったということが伝えられています。もちろんその頃の実験などはごく簡単なものなのですが、ともかくそれが機縁となって、だんだんにいろいろな学者が電気の研究を行うようになったのでした。十七世紀になると、空気ポンプの発明で名だかいドイツのゲーリッケという人が電気を起す起電機という機械をつくり、その後だんだんにこれが改良されて、いろいろな電気の実験が行われるようになりました。しかしその後の最も眼ぼしい進歩は、十八世紀の末にイタリヤのヴォルタによって電池が発明されてからであります。これは同じくイタリヤのガルヴァーニという解剖学者が
エールステットの発見に引きつづいて、フランスのアンペールや、ドイツのオームの大切な研究が現れたのですが、それらの話はここでは省いておきます。しかしともかくもこのようにして電気の現象について学問の上で非常に注目されるようになったときに、ちょうどファラデイが出て、その研究をますます進めたのでありました。前にも言ったように、今日電気の利用のおかげで便利を得ていた私たちは、せめてファラデイがどんな学者であったかということぐらいは、ぜひとも知っていなければならないと思われるのであります。
マイケル・ファラデイが学者として尊敬すべき偉大な人物であったのは言うまでもありませんが、それ以上に彼が貧乏な家に生まれながら学問への強いあこがれと、それへの自分の熱心な志とで、絶えずその道を踏み進んで行った真摯な態度を見てゆきますと、誰しもこれに感激しないわけにゆかないのであります。もちろんそこには科学というもののすばらしい興味が彼をそれへ強く
ファラデイは一七九一年の九月二十二日にイギリスのロンドン郊外にあるニューイングトン・ブッツという
さて、人間には何が幸になるかわからないのです。もちろんファラデイが製本仕事に
科学の実験というものは、少しやり出すと、それからそれへとおもしろくなるもので、またいろいろな知識を得て、新しいことをして見たくもなるのです。それでその頃誰でも聴きにゆかれるような講義のあるのを探し出しては、それを聴きにゆきました。そして気の合った友だちが見つかると、互いに励まし合いながら実験を一緒に行ったりしていました。
そうしているうちに七、八年を過ぎて彼も二十一歳の青年になりましたが、製本屋の主人のリボーという人が、さすがにファラデイの学問修業に対して熱心なのに感じ入り、自分の店にいつも来るダンスという学者にその事を話したので、この人も大いに感心して、王立研究所で行われる講義の聴講券を持って来てファラデイに与えました。王立研究所というのは科学の研究をする機関でもあり、またそれと同時にわかり易い科学の講義を行って、一般の人々に科学を普及する役目をも果していたのでした。それでファラデイがこの聴講券で聞きに行ったときの講義は、その頃の若い有能な学者であったハンフリー・デヴィーという人の物化学に関するものでありました。ファラデイはそれを熱心に聞いて、ますます科学に興味を感じ、何とかして自分も科学の研究をしてみたいということを一層強く希望するようになりました。そこでついに決心して、デヴィーに宛てて手紙を書き、それに自分の聞いた講義の筆記を添えて送りました。デヴィーもこれを見て大いに感心したので、この製本屋の奉公人であったファラデイを呼びよせて親切な話をしてくれたばかりでなく、その後幾週間か経つと自分の助手が辞任したので、その代りにファラデイを助手に雇ってくれました。この助手の給料は製本屋のよりも少かったのですが、それでもファラデイは自分の希望に沿うことができるので大いによろこびました。
これは一八一三年の春頃のことであったのですが、その年の秋にはデヴィーがフランス、イタリヤ、スウイスの国々へ学術研究の旅行に出かけることになったので、その秘書として同行することになりました。この時代にはもちろん汽車などは無かったのですから、これだけの旅行にも一年半の歳月を費したのですし、おまけにフランスはナポレオン以後イギリスとは敵対していたのですから、学術上の旅行であったにしても容易なことではなかったのでした。それでもどこをも無事に通過することができましたし、
ファラデイがイタリヤのローマに滞在していたとき、十二歳になる小さな妹に送った手紙には、彼の愛情がいかにもよく現れています。
「マーガレットちゃん。私の手紙が届いたとのこと、マーガレットちゃんのお手紙もありがとう。いろいろ知らせて下さって、また私のからだや安否を気づかって下さって、あなたにお礼を言わなくてはなりません。手紙を読んだら第一に
こんな書出しで学校での勉強のしかたなどをこまごまと教えているのですが、そんな中にもファラデイの高い人格がよく
それからファラデイの五十二年にも
ファラデイは最初の頃には物化学の研究を主として行っていたのでしたが、そのなかで当時の学界を驚かしたのは、塩素を始めて液化したこと、並びにベンゼンの発見であります。これは一八二三年から二箇年ほどの間のことでした。
ところが、ちょうどこの頃からエールステットの発見に続いて電気の研究がさかんになり出したので、ファラデイもこの問題に非常に興味を感じ、いろいろな実験を工夫しましたが、その結果、一八三一年には針金を磁石の極の間で動かすと、針金のなかに電流のおこることを見つけ出しました。これは電磁感応と名づけられている現象で、今日では大仕掛けに電流をおこすための発電機はすべてこれによっているのですから、それだけでもファラデイの仕事がどれほど大きな意味をもっているかがわかるわけです。この発電機を逆にして、電流から動力を得るためにつかっている電動機というものも、やはり同じ原理によってつくられているので、こういうものがなかったなら、現代の多くの工業は出来上って来なかったにちがいありません。
これに続いて、一八三三年には電気分解の法則を発見し、それからは光と電気
ファラデイの後に、マクスウェルが電気や磁気の理論を正しくつくり上げることができたというのも、つまりはファラデイのこの考えに基づいたからであって、それだけにファラデイの研究は非常に重要な意味をもっていたのでした。
上にも言いましたように、ファラデイの研究を一々述べていては限りがないほどに多いのですが、それらは『電気学に
ファラデイはすぐれた科学者であると共に、宗教上の信仰にも篤かったのでした。それで若い頃からいつも教会に出入りしていたので、その教会の長老の娘であったサラ・バーナード嬢と知り合いになり、一八二一年に結婚しました。それから一八二四年には王立協会の会員になり、翌年王立研究所の実験場の場長となり、一八二七年に王立研究所の教授となって、これが一八六一年まで継続しました。その間にロンドン大学からの
王立研究所では一般の人々のための講義が行われていたのでしたが、ファラデイは特別に少年少女のために毎年クリスマスの日にごくわかり易い講義を行って科学を普及することを始めました。ファラデイのそういう講義のなかで最も有名なのは、『
ファラデイは研究生活のほかに楽しい家庭生活をも味わって来たのでしたが、一八四一年頃には健康を少し損じたので、その夏にはスウイスへ保養に出かけ、それで元気を取戻してまた研究を続けました。