今の世のなかで私たちの役に立っているいろいろな産業技術や、それと関係しているさまざまの問題のもとは、いずれも科学の上での深い研究にもとづくので、その意味で科学と技術とはいつも密接につながり合っているのです。現在では、そういう科学や技術がすばらしく進んで来ていて、私たちが何をするにもそれらのおかげを
蒙らないわけにゆかなくなっているのですが、今から数百年も前の時代にさかのぼると、科学や技術もまださほど進んではいなかったので、一般の世のなかの人たちもそれらを今日のように重くは見ていなかったのも事実であります。おまけにその頃には科学や技術が西洋では多少とも進んで来てはいたのですが、我が国には全くの実用的な技術の外には、学問としての科学などはまるで無かったので、学問と
云えば昔の聖賢の書に通ずると
云うことが主にせられていたのですから、この時代に最初にそういう道に進むということがどれほど難かしかったかは、恐らく想像以上のことであったに違いないのでした。ところで、ここでお話ししようとする平賀源内は、江戸時代に今からは二百十余年ほど前に生まれた人なのですから、おまけにそれもさほど高くない家に育ったのでしたから、普通ならばその
儘で終る
筈であったのですが、どこかに科学や技術を好む性格をもっていたと見えて、その頃としては実に驚くべきほどのいろいろな仕事をしたので、そういう点から見て、いかにも非凡な人物であったと
云わなくてはならないでしょう。それで源内がどんな事をなし遂げたかと
云うことについて、次にざっとお話ししてみたいと思うのです。
平賀源内は
讃岐国志度浦の新町で生まれました。その年ははっきりしないので、後に安永八年に歿した際に、年齢が四十八歳であったとも
云い、また五十一歳、
又は五十七歳であったとも
云われていたので、どれが正しいかわからないのですが、
位牌には五十二歳と記されているそうで、この五十二歳を
採れば、享保十三年に生まれたことになるのです。父は茂左衞門國久と
云い、高松侯の足軽であったと
云うことです。平賀家の古い祖先は平賀三郎國綱と称し、その子の國宗が奥州白石に住んでいたことから白石という姓を名のっていたのが、後にまた平賀姓に復したのだとも伝えられています。
何れにしても源内の生まれた頃には、身分も低かったのですから、そのなかから学問好きの源内が現れたと
云うのは、一つの驚くべき事がらにはちがいありますまい。
幼名は
四方吉と
云い、後に
傳次郎、それから
嘉次郎とも称しました。生長してからは
國倫と称し、
字を
士※[#「帚」の「冖/巾」に代えて「(米+扮のつくり)/廾」、U+5F5B、286-3]と号したのです。元内
又は源内というのは通称で、そのほかにいろいろな号をその著述の上では使っています。
鳩溪、
風來山人、
天竺浪人など、そのなかで多く用いられたものでした。
前にも記しましたように、源内の生まれた頃には世のなかでは儒教や仏教や神道が盛んで、それらに属する古い書物を習い覚えることが一般の
慣いであったのでした。またその半面には、名だかい西鶴の浮世草紙に続いて、いろいろな読み本や、
洒落本などと
称えるものがたくさんに出はじめた頃でもあったのでした。ですから源内の眼にもそういうものが触れないわけではなかったので、現に源内自らも後年になってたくさんの
滑稽本や
洒落本を著しているのですが、それでいて他面にはいろいろな学問の道にも進もうとしたのですから、その頃として実に多芸多才な点で
稀に見る人物であったと
云ってよいのでしょう。
源内が学問を志すようになったのは、幼少の頃から藩の医者に接近していたことや、また薬園に勤めて
本草学に興味をもつようになったのに
依ると
云われていますが、ともかくも生来そういう学問を好んでいたには違いなかったのでしょう。それで年が長じてから長崎まで赴いて、そこで熱心にオランダ語を学び、オランダ人について薬物をいろいろ研究したのでした。このような
本草学や薬物の研究が源内の学問の道への出発点となったのでしたが、源内はその後あらゆる方面の知識を修めようと志したのでした。それで、やがて江戸詰となって江戸に来てからは、林信言や三浦瓶山について漢学を修め、
賀茂眞淵から国学を学び、服部南郭や石島筑波から修辞を習い、更に江戸幕府の官医田村藍水から
本草学を一層詳しく学び、その間に当時名高かった杉田玄白、
中川淳庵、
太田蜀山人、松田元長、千賀道有などと
云う人々と親しく往来して、いろいろな見聞を広めたので、その学識もあらゆる方面にわたり、これが明敏な彼の性質と
相俟って、一世にその多技多能を
謳われるようになりました。宝暦十一年に
俸禄を辞してからはどこにも仕えなかったので、なかには彼を招こうとする諸侯もいろいろあったのでしたが、特別な仕事のほかはそれに応じなかったと
云うことです。しかしその間に自らは貨殖の
途を講じて、いろいろの計画を立てましたが、これにはいつも成功しなかったので、それで
煩悶しているうちに、世のなかに対する不平不満が多くなり、それをどうにかして晴らそうと思って、たくさんの戯作をつくり、そのなかで自分の
欝憤を晴らそうともしたのでした。源内ほどの多芸の人も時世がそれに適応しなかったことによって十分にその手腕をふるうことのできなかったのは、まことに遺憾と言わなければなりますまい。
それにしても源内は、その一生の間にいろいろの仕事をしているので、それについて次に少しくお話して見ましょう。
源内が最初
本草学を修めてそれに詳しかったことは、
既に記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教をうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などと
云う人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないと
云うので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。
また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、
緑青、
明礬、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起して、それには大いに成功したと
云われています。この炭焼を始めたのは少し後の事がらで安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の
新庄侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を視まわったこともあるとのことです。
源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那
交趾の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを
建白したとのことです。また金唐革とか、紅革などと
云われるものを製作したり、
伽羅の木で
源内櫛というのを作ったり、
硝子板に水銀を塗って
自惚鏡という鏡をも作りました。
このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、
更に驚くべきことは、その頃オランダ人の持ち来した考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことであります。そのなかには
先ず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水
掛井手や
溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためなのでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは
火浣布というのとエレキテルと
云う器械との二つでした。
この中で、
火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に
浣れるようにとれてしまうと
云うので、
火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいと
云うので、香敷に多く使われたということです。
エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記した処によって自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけて
廻すようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの
廻転につれて
廻るようになっており、それと共に調帯が
硝子の円筒と
銀箔の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたと
云うことであります。安永五年と
云えば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたと
云うことは、まことに著しいことであったと
云わなければなりますまい。
このほかに、源内の行った仕事としては、西洋の油絵の描き方を会得して、それを人々に伝えたり、また田沼侯のためにオランダ語の
翻訳に従事したりしたことです。その著書としては、
本草に関するものがたくさんにある外に、農作物、物産に関するものもあり、
火浣布、陶器、寒熱昇降器などの説明もあり、また他面には多くの
滑稽本、
洒落本、及び浄瑠璃の作品があるので、これ等は実は源内があらゆる方面においてすぐれた才能をもっていたことを示すものであります。しかしそれにも拘らず晩年には甚だ不遇であったので、殊に安永八年には図らずも罪を得て十一月二十日に
牢獄につながれることとなり、十二月十八日に獄内で死歿したと
云うことです。この罪を得た原因についてもいろいろの説があって、どれが本当かわかりませんが、ともかくその際に人に
刄傷を加えたのは確かなようです。その墓所は江戸、浅草橋場町の総泉寺と、郷里の志度浦の自性院とにあるのですが、杉田玄白がその碑文のなかに、「非常の人あり、非常の事を好む。
噫非常の人、
遂に非常に死す」と記しているそうです。ともかくこのように平賀源内はその当時において
稀に見る非常の人であったに違いないので、しかし一般の人々に先だって彼が科学や技術の道に進んだことは、いつ迄も忘れられない事がらなのでありましょう。この点を尊重して大正十三年には源内に従五位を追贈せられたので、彼もまたこれによりて安んじて
瞑することができるのでありましょう。また現に彼の遺品としては、磁針器と平線儀とが香川県の教育会議所蔵として残っており、エレキテルの一つは逓信博物館に、もう一つは志度町の平賀家にあり、金唐革張りの手文庫が秩父の久保道三氏の許にあるとのことです。私たちは今日において遠い以前の源内のことを想うと、そこにいろいろな感想をもたないわけにゆかないのでしょう。