怪物!
そうだ、怪物にちがいない。
怪物でなくて、なんだろう?
科学が
発達した、いまの世の中に、
東洋の
忍術使いじゃあるまいし、
姿がみえない
人間がいるなんて、これは、たしかに
変だ。
奇怪だ!
しかし、それは、ほんとうの話だった。
怪物ははじめに、ものさびしい
田舎にあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも
出没するようになったのである。たいへんな
騒ぎになったことは、いうまでもない。
その
怪物の
姿は、まるっきり
見えないのである。すきとおっていて、ガラス、いや
空気のように
透明なのだ。
諸君は、そんなことがあるもんか――と、いうだろう。だが、待ちたまえ!
怪物が、はじめて
田舎のその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある
寒い朝のことだった。
身をきるような
風がふいて、朝から
粉雪がちらちら
舞っていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。
その男は、
丘をこえて、ブランブルハースト
駅から
歩いてきたとみえ、あつい
手袋をはめた手に、黒いちいさな
皮かばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり
包んで、ぼうしの
つばをぐっとまぶかにおろし、
空気にふれているところといったら、
寒さで赤くなっている
鼻さきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、
黒馬旅館のドアをおしひらいてはいってきたのである。
「こう
寒くちゃあやりきれない。火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな」
酒場へ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって
雪をはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。
いまどき、めずらしい
客である。こんな冬の
季節に、しかもこんなへんぴな土地に、
旅の
商人だってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の
金貨をみると、すっかりよろこんでしまった。
「とうぶん、とめてもらうから」
客をへやに
案内すると、
暖炉に火をもやしてたきぎをくべ、
台所でお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと
食事のしたくをした。
スープ
皿、コップなどを
客室にはこんで、
食卓のよういをととのえた。
暖炉の火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。
ところが、火にあたっている
客はこちらに
背をむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。
中庭にふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。オーバーの雪がとけて、しずくが
床のじゅうたんの上にしたたり落ちていた。
「もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら?
台所でかわかしてまいりますわ」
と、おかみさんが声をかけた。
「いいんだ」
ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。
料理をはこんで、もういちど
客室にきてみると、客はまだ、さっきとおなじ
姿勢で
窓のほうをむいていた。
「お
食事のよういができました」
「ありがとう」
へんじはしたが、うごこうともしなかった。おかみさんがでていくと、男は、さっと
食卓に近づいた。そして、スープをせっかちにすすり、パンやベーコンをがつがつと食べはじめた。
つぎに、おかみさんがハム・エッグを
皿にのせて、
軽くドアをたたいて
客室にはいっていくと、とたんに、男はナプキンを
食卓の下になげ、それをひろうようなかっこうをして、身をかがめて口におしあてた。
(おやっ?)
と、おかみさんは思った。
ぼうしとオーバーはやっとぬいで、
暖炉のまえのいすにおいてある。長ぐつは、
炉のかこいの
金具のうえにおいてあった。
「これはあたしが、かわかしてまいりましょう」
金具がさびちゃあこまる、とおもって、長ぐつを取りあげながら、おかみさんが言った。
「ぼうしは、いじらんでおいてくれ」
陰にこもったふくみ声で、
客はぴしりと言った。おかみさんはおどろいて、客のほうを見た。客はかの女をにらんでいる。
おかみさんは、ぎくっとして、その場にたちすくんでしまった。なんという顔をしているのか……。男の口から下はナプキンにかくれて見えないが、青いめがねをかけたその顔は、頭から顔じゅうをほうたいでぐるぐる
巻き、ほうたいの白い中から
鼻だけが赤くのぞいていて、そのぶきみさは、
全身の毛がそうけ立つほどだった。
「あっ」
と、あやうく声をたてるところだった。男は茶色のびろうどの服のえりを立てて、顔をうずめている。
「いいかい、そのぼうしにはさわらんでくれ!」
もういちど、男が、こんどははっきりと言った。
「もうしわけありません」
おかみさんはぼうしだけ残して、オーバーなどをかかえこむと、にげるように
客室をとびだして
台所にもどった。
ひとりきりになると、男は
窓ぎわにいって、まだ
昼間だというのに、カーテンをひいた。へやのなかが、きゅうに、うす暗くなった。
男は、じつによく食べた。
カーテンをひいて、へやがうす暗くなると、それで
安心したのか、
食卓につくと、まるで三日も四日もたべずにいたかのように、
皿のなかの物をかたっぱしからたいらげていった。
黒馬旅館のおかみさんは、なんとも気もちのわるい
客をとめたもんだと、考えこんでいたが、この男がまさか
怪物であろうとは気がつかない。ぶっきらぼうで、ぶあいそうな客だとはおもうが、なにしろ
先払いで
宿料に二枚の
金貨をわたしている。わるい気もちはしなかった。
(あの人はかわいそうな人なんだよ、きっと! ひどいけがをしてるらしいよ。どこで、どんなけがをしたか
知らないが、かわいそうに……。だけど、ほうたいだらけのまっ
白なあの
顔には、ぞっとするわ。まるで
化けものみたいだもの)
おかみさんは
台所の
暖炉の火で、
客のオーバーや長ぐつをかわかしながら、そんなことを考えていた。
(ナプキンで口をかくしているところをみると、口のまわりに、大けがをしたんだよ。ぞっとしたりしては、気のどくだわ)
しばらくして、おかみさんが
食事のあと片づけに
客室にはいっていくと、客はパイプでたばこをくゆらしていた。顔の
下半分にはマフラーをまきつけて、パイプを口にさしこむのに、マフラーをゆるめようとはしないで、口もとをかくすようにしてパイプを
吸っていた。
暖炉の火が青めがねにうつって、
赤々とゆらいでいるが、どんな目をしてこちらを見ているか、とおもうと、やはり、ぶきみさが先に感じられてくるのだった。
めずらしく、客のほうからしゃべった。
「ブランブルハースト
駅に、
荷物をおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね?」
「おや、それはおこまりでしょう。さあ、この
雪では……それに、こんな
田舎ですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね」
男はほうたいだらけの頭で、うなずいていたが、
「こまるなあ。どうしても、きょうじゃあだめかね?」
と言った。
「きょうじゅうには、むりでございますよ」
「あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな?
馬車ならいってこられそうなものだが……」
がっかりしたようすで、なおもつづけた。
おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすを
探るようにながめながら、
説明した。
「それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、
馬車なんか通れやしませんよ。
去年でしたか、
馬車がひっくりかえりましてね、お客さんと
馬車屋が
死にました。とんだ
災難で、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね」
「なるほど、災難って、そういったもんかね」
男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。
「マッチをとってくれんか」
パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。そしておかみさんに
背をむけると、
窓ぎわにいって、カーテンのすきまから
中庭の
雪をながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。おかみさんは、はっとして、へやをでていった。
ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。
ふるびた
時計が四時をうった。あたりはいつのまにか、うす
暗くなっていた。
宿のおかみさんは、さっきから、もうなん度も
時計をながめてはためらっていた。
(四時だわ、どうしてもあのお
客さまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのお
客さまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……)
おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに
勇気をふるい起こして、さっと立ちあがった。そのとき、いきおいよく戸をあけて、
「おお! おかみさん、えらく
降りだしたじゃねえか。いやになるねえ、いつまでも寒くて、この
大雪じゃ、わしのぼろ
靴で歩くのはこたえまさあね」
と、大声でいいながら、
戸口でぶるぶるっと雪をはらって、
時計屋のテッディ・ヘンフリイが
寒そうにはいってきた。
外では、まだ
雪がやすみなく
降りつづいている。
「ああ、テッディさん! まったく、こう
寒くてはやりきれないわね」
おかみさんは、こう言いながら、
時計屋が
片手にぶらぶらとぶらさげている
修理道具のはいったふくろを
見た、とたん、いいことを
思いついた。それは、
(テッディといっしょにあの
客のところへゆく)
ということだった。そこで、
「テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お
客部屋の
時計を見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの
時計ときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、
時間だって、
元気よく打つんだけど、
針だけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら?」
「へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう」
テッディは
首をかしげながら言った。おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎな
客の
部屋のドアをかるくたたいた。
へんじはなかった。が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。
「
眠っておいでらしいわ」
おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。
男は、
暖炉の前のひじかけいすに、ふかぶかと
体をうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。
灯のついていない
部屋は
暗かった。ただ
赤々とさかんに
燃えている
暖炉の火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。
男は、うつぶせになったまま、
身動きもしない。
「まあ、なんて
暗いんだろう。
灯をつけないから、なんにも見えやしない」
いままで、明るい
台所にいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。
「もし、だんなさま」
声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。と、つぎの
瞬間、
「あっ!」
おかみさんは、ぶっ
倒れるかと思うほどおどろいてしまった。ひょいと見た男の顔が、なんと
怪物そのままの
不気味な顔をしているではないか!
暖炉の火をうつして、赤く光る
色眼鏡、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。まるで顔の
下半分が、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。
「う、うーん」
おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりと
体を動かし、
眠そうにいすから立ちあがった。
「あっ」
男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、
襟巻のはしで口のあたりをかくそうとあせった。
その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、
「だんなさま、
時計屋が時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……」
「時計をなおすのかい? いいだろう――」
男は、とりつくろったようすで、
重々しくこたえた。
「では、テッディさん、ちょっと、待っててください。すぐランプをとってきますからね」
おかみさんは、
逃げるようにへやからでてきた。時計屋も、
怪しげな
客の
姿を見て、どぎもをぬかれ、
部屋にはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっと
待っていた。
「お待ちどおさま!」
と言って、おかみさんは、ランプを
片手にもち、
時計屋をうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。時計屋があとにつづいた。
男は、部屋のまん中につっ立っていた。時計屋は、おずおずと、
「おじゃまではございませんか? お
客さま」
と言うと、男はちらりと
色眼鏡をきらめかして、
「いや、かまわんとも」
と、ごうまんな
態度でこたえた。
時計屋は、なにやら、ぞっと
背すじが
冷たくなるような、いやな感じをうけた。できることなら、時計の
修理などはほうりだして、この
部屋からでていきたくなった。
と、男は、こんどはおかみさんにむかい、
「おかみさん! ぼくのほかにはだれも、この
部屋にはいらせない
約束だったね」
と、つめたい声で
不満そうに言った。おかみさんは、たじたじと
後ろにさがり、
「ですけど、
時計だけは――」
なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。
「むろん、
時計は
正確でなくてはいけないよ。だが、ぼくは、この
部屋にいつでもひとりで
静かにいたいのだ。だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね」
ぶきみな男にどなりつけられると、
時計屋は
逃げだしたくなった。もじもじ、手足を動かした。それをみると、男は、すぐに、
「だけど、
時計をなおしてくれるのに
文句をいうつもりはないよ。けっこうだよ。なおしてもらおう。きみ、さっそく、やってくれたまえ」
時計屋のヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、
修理にかかった。
男は
暖炉をうしろにして、両手を
背中でくみあわせ、また、おかみさんにむかって、
「おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ」
おかみさんは、
「ただいま、すぐ持ってまいりますわ」
と、いうより早く、出ていこうとした。男は、
「おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハースト
駅にある、ぼくの
荷物をとりよせるようにたのんでくれたかね」
「
配達屋にたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます」
「あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね」
「ええ、だめでございますよ」
おかみさんは、むかっ
腹をたてていた。と、みると男は、にわかにものやわらかいようすになり、
「じつはね、おかみさん。ぼくは
科学者なんだよ。いままではこのひどい
寒さがこたえて、
気分がすぐれなかったうえに、疲れきっていたので、なにをやる元気もでなかったが、ここで
休んでいるうちにやっと元気がでたんだよ。となると、もうじっとしていられないんだ。すぐにも
実験にとりかかりたくてね……これがぼくの
性分なんでね」
人のいいおかみさんは、これを聞くと、たちまち、この男を
怪しんだり、いやがったりしたことを
後悔して、
「さようでございましょうとも、で、
駅にございますお
荷物の中に、
実験道具をおいれになっていらっしゃるのでございますか?」
「そうなんだ。
全部はいっているんだ」
男は、おかみさんがじぶんを
信用しはじめたと見て、また話しつづけた。
「ぼくがこの
片田舎のアイピング村へやってきたのは、だれにもじゃまされないで、思うように
研究をやりたいからなんだよ。
実験をやってる
最中にさまたげられると、たまらないからね。それに、ぼくは、ちょっとけがをしてね」
(やっぱりそうだったんだわ。この方は
怪しい人じゃなかったのよ。お気のどくに……ずいぶんひどいけがをなさったらしいわ)
おかみさんは、心のなかでそう思った。男は、よわよわしい
調子で、
「そのうえ、けがのために
視力がすっかりよわってしまってね。ときどき
痛みだすと、何時間も
暗がりの中で、じっとしていなければならないんだ。
痛みの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに
部屋にはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ
他人をいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね」
「わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの?」
おかみさんは
同情のこもった声で、やさしくたずねた。すると男は、
「話はそれだけだ」
うってかわった
冷たさで言い、おかみさんが二度と口をひらかないように横をむいた。
おかみさんがでてゆくと、男はヘンフリイが
時計の
修理をやっているのを、じっと見つめはじめた。
ヘンフリイは、さっきからだまりこんで、せっせと手を動かしている。
針をぬき、
文字盤をはずし、なかの
機械をひっぱりだした。
かれはねんいりに
機械をしらべた。男がじっとながめているので、かれはなんとなく
気味がわるくて、
仕事をしている手が思うように動かなかった。
十五分ほどたつと、
時計はすっかりなおったが、ヘンフリイは、いつまでもぐずぐずと
機械をいじっている。
時がたつにつれて
恐ろしさがうすらいでくると、かれは、
(この
奇妙な男の
正体を見きわめてやれ!)
と、いう気になっていた。どうにかして、男と話すおりをつかみたいと思ったが、だめだった。
男は、口をきかないばかりか、
身動きひとつしないで、じっとつっ立っていた。
眼鏡のレンズが、青白く光ってヘンフリイを見つめている。
ヘンフリイは、たまらなくいらいらしてきた。
(ちえっ、なんていやなやつだろう。ぞっとするよ。まるで
化物とむきあってるような気もちだよ。
人間なら人間らしく、きょうはひどく
寒いねぐらいのことは、言ったらよさそうなもんだよ。ぶあいそうなやろうだ。が、こういつまでもだまってても、らちがあかねえや。ひとつこちらから先に、声をかけてやろう)
かれは
決心して、男の顔を見あげ、
「この天気は――」
とたんに、するどい声がとんできた。
「さっさと
仕事を片づけて、でていったらどうだ?」
男は、どなりたいのをやっとがまんしているらしく、ふるえる声で言った。ヘンフリイはまっさおになった。男は、かさねて、
「
短針をじくにはめれば、すむんじゃないか。さっきから見ていると、やらないでもいいことばかりやってるみたいだぞ」
ヘンフリイは、ぎょっとした。男はなにもかも見すかしているのだ。
恐ろしさで
体が、がたがたふるえてきた。大あわてで
仕事をすませ、
道具を片づけると、あたふたと
部屋をでていった。
台所にくると、ヘンフリイは、いそがしそうに
働いているおかみさんに、
「さようなら」
と、ふきげんなみじかいあいさつを
残して、さっさと、
雪がふる外へとびだした。
道にはすっかり雪がつもっていた。
「ちくしょうめっ! なにが科学者だい。学者ってものは、もうすこし
上品なもんだよ。大きなつらをしやがって……あいつは
悪魔かもしれねえぞ」
時計屋は、
道々、思いつくかぎりの男のわる口をつぶやいた。それでも、やはりむしゃくしゃしていた。
時計屋がどんどん歩いて、グリーソン
屋敷のかどまできたとき、のんきな顔で
馬車を走らせてくるホールにばったりと出あった。
「よう! どうしたい、ヘンフリイ! 浮かねえ顔で、やけにいそいでるじゃねえか」
ホールがくったくのない声をはりあげた。
ホールは、
怪しい男が
泊まった
黒馬旅館のあるじなのだ。かれはみるからに人の好いのんき者で、ホール夫人に気にいるように、てきぱき
働くことなど、ぜったいにできない男だった。
ホールの
仕事といえば、ときどき、シッダーブリッジ
駅まで
馬車を走らせ、
荷物をはこんでくるのが、せいぜいだった。
いまも、
駅からのかえり道で、いつもとおなじようにホールは
途中で、さんざん
世間話に
油を売ってきたところである。
ヘンフリイは、ホールに声をかけられると、いんきな声で、
「ホール、おめえのとこには、へんな
客がとまっているな」
「なんだって?」
お人よしのホールは、すぐに
馬車をとめて、
時計屋のほうへのりだしてきた。
「おめえ、知らねえのかい? あのみょうちきりんな顔の
客のことを……」
ホールは
首をふった。ヘンフリイは、
「おれもおどろいたぜ。おかみさんが
客間の
時計をなおしてくれっていうんで、いっしょに客間にはいったらさ、顔じゅうほうたいだらけの、
色眼鏡をかけて、おっそろしく口の大きな、へんな顔の客がいるじゃねえか。おどろいたの、なんのって……おったまげたよ」
ホールはおどろいて、口をぽかんとあけてきいていた。それをみると、ヘンフリイはますます
熱心に、客のようすをしゃべりたてた。
「あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは
科学者だなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、
変装してるのかもしれないぜ。どこかで
悪事を
働いて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね」
「うちのやつは知ってるのかね?」
ホールが、心ぼそそうな声をだした。
「もちろんだよ。おかみさんもおかみさんだよ。なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう? おれが
宿屋のあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、
泊めるか、泊めないか決めるね。女ってものは、よそものっていうと、とかく
信用しがちなものさね。まして
科学者なんていうと、なおさら
信用するがね。
部屋をかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな
人間じゃねえやね」
人がいいばかりで、頭の
働きのにぶいホールは、ぼんやりと、
「そう言うもんかね」
「あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一
週間のけい
約をむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな
悪者だったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう
実験道具とやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの
実験をするつもりだかわからないがね」
「ふうん」
ホールは、
心配そうに考えこんでしまった。ヘンフリイは、なおもくどくどと、
「
用心したほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり
宿屋をやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの
宿料をふみたおされて、
逃げられたあとだったんだ。おめえたちも、
怪しい
客には、よくよく気をつけたほうがいいぜ」
「ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう」
すっかり不安になった
黒馬旅館の
主人ホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。
いきおいこんだホールが家にとびこむと、
「おまえさん! いつまで外をうろうろしてたんだい? また
油を売ってたね。そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの!」
ホール
夫人のがみがみとどなりつける声がとんできた。
「なに……それが、あの……その」
と、いままでの元気はどこへやら、ホールは
叱られた
猫のようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、
「おまえ、新しいお
客があったってね。いったいどんな方だい?」
と、おずおずしながら聞いた。
「だれに聞いたの? ヘンフリイがおしゃべりしたのね。どんな方って……りっぱな方よ。あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ。
科学者なんですって」
それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。
(ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。いいよ。おれはじぶんの目で、そのへんな
客ってやつを見てやるから――)
ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって
決心をした。
九時半になった。
怪しい
客も
眠りこんだらしく、
黒馬旅館は
物音ひとつしなくなった。
「やつも
眠ったらしいね。どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう」
ホールは立ちあがり、
足音をしのばせると、むこう見ずにも、
客間にそろそろとしのびこんでいった。思ったとおり、
客は、ふかぶかとベッドにもぐりこんで
眠っていた。
ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、
机のうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい
数字をかきこんだ
紙が
散らばっているのをみると、ばかにしたようすで、
「ふふうん!」
と、
鼻のさきでせせら笑って、ひきあげた。
お人よしのホールは
数字をかきこんだ紙を見ただけで、このへんな
客が、おかみさんの言うとおり、
学者なのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。
一方、おかみさんは、
主人にむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、
内心はやはり、
客のことが気になってしかたがなかった。
ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられる
夢をみて、うなされつづけた。
「おはようございます。
荷物を持ってあがりました」
馬車屋のフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、
馬車をひき、
黒馬旅館にやってきた。
寝ぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、
主人のホールといっしょにでてきた。
「ごくろうさま」
「きょうは、きのうの
雪のために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい
難儀でしたよ」
フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。が、二人は、かれの
言葉などまるで耳にはいらぬようすで、
馬車につまれている、ふうがわりな
荷物に見とれていた。
ふつうの
人間の
持物らしいのは、トランクだけだった。トランクは二個あった。そのほかの
荷物ときたら、
何ともいえずふうがわりなのだ。なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬように
麦わらをぎゅうぎゅう
間につめこんだ
籠が十二、三
個。それにぶあつな本をおしこんだ
箱が数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ
荷物が山とつまれている。
ホールは
馬車に近より、
籠の中に手をつっこみ、
詰物の
麦わらをかきわけてさぐった。
中は、ガラスびんらしい。おかみさんは、客をよびにいった。
「
荷物がきたんだって?」
男はうれしそうに、声をあげてとんできた。みるとおどろいたことに、男は、へや
着のうえから、オーバーを着、
帽子をかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。
フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。男は、せきこんで、
「ずいぶん待たされたよ。さっそく
運びこんでくれたまえ」
言いながら、
待ちきれないように、
荷馬車のうしろにまわり、
籠のひとつに手をかけようとした。
そのとき、フィアレンサイドがつれてきていた
犬が、とつぜん、かれの
姿をみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。
男は、気にもせず、
「いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ」
と、いいつけ、
玄関の
石段をあがりかけた。とたんに、
犬はひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。
「うわっ!」
男は、大声をあげた。びっくりしたホールとフィアレンサイドは、
「こらっ、こいつめ! なにをするのだっ」
と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドは
犬をぶちのめそうと、むちをふりまわした。
そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせに
犬をけとばした。
ふいをくらった
犬は、よろよろとよろめいたが、こんどは、
猛然とうなり
声をあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。
びりびりと、ズボンがさける音がした。
「ひゃあっ!」
とびあがったフィアレンサイドが、
「こんちくしょうめ、こんちくしょうめ」
と、さけびながら、こんどこそ、したたか
犬をたたきのめした。
きゃんきゃんと
犬は
悲鳴をあげ、車の
輪のあいだに
逃げこみ、小さくなった。
すべてが、あっという間のできごとだった。
気まずい
空気がみんなのあいだに
流れた。男は、かみさかれた
手袋とズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに
旅館の中にかけこみ、
足音もあらく、じぶんの
部屋にはいってしまった。
フィアレンサイドは、やっと
我にかえった顔つきで、
「でてこい! わるいやつだ。とんだいたずらをしくさって。お
客さまのズボンをかみやぶったではねえか……」
そして車の
輪のあいだから、おく
病そうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。
ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。フィアレンサイドが
浮かぬ顔で、
「ホール、あのお
客さまにけがはなかっただろうかね?」
「ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、
部屋へいって、ようすをうかがってこよう」
ホールは、あたふたとかけだした。
廊下までくると、これも
浮かない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。
「フィアレンサイドの
犬が、お
客さまの手と足にかみついたんだ」
ホールはせきこんで、
眉をしかめながら言った。が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。
客の
部屋のドアは、ひらいたままだった。
「お客さま、おけがはありませんでしたか?」
ホールは、声をかけ、なにげなく
部屋にはいろうとした。
窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうす
暗かった。その中に
手首からさきのない
腕が、にゅっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つの
深い
穴をあけて、
空中に
浮いていた。
あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬ
強い力に、どんと
胸をつかれ、ひとおしに
廊下につきだされてしまった。
「うわあっ!」
よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。
ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。
「これは、いったい、どうしたってことなんだ。どこのどいつがおれの
胸をついて、
廊下にほうりだしやがったというのだ……」
さっぱりわけがわからない。
いっぽう、
宿屋のまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、
黒山の人だかりになっている。
フィアレンサイドは、その人たちを
相手に、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。
「おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとお
客さまの足にかみついたんだ。へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ」
フィアレンサイドは頭をふりふり、いく
度も言った。
「だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら?」
話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。
雑貨屋のハクスターがもっともらしいようすで、
「そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ」
「だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの
犬をかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ」
また、ほかのひとりがいった。
ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、
旅館のまえはたいへんなさわぎだった。
このさわぎの中に、ホールは
魂をなくした
人間のように、ぼうっとしていた。
目ざとく見つけたおかみさんは、
「おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?」
「いいや、なんでもねえ」
ホールはうつろな
目で、
集まってきた人たちを見ていた。
おしゃべりに
夢中になっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その
部屋から
玄関にでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。
「う、うう、わんわん!」
車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。
「あっ!」
思わずふりかえった人びとは、
玄関に
不気味な人かげをみて、ぎょっと
顔色をかえた。
そのとたん、
「
馬車屋、なにをぐずぐずしているんだ! はやく
荷物をはこべ!」
すご
味のあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。
フィアレンサイドが、びくっと
飛びあがり、ホール
夫人は
棒立ちになった。
村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。
馬車屋は、しばらくためらっていたが、
勇気をふるって男に近より、
「だんなさま。あいすみませんことで……おけがはありませんですか? なんとも、はや、申しわけありません」
ぺこぺことわびた。男は、じろりと
馬車屋をにらみ、
「けがなんかせんよ。かすり
傷ひとつしてないんだ。それより早く
荷物をはこべ」
と、おうへいな
態度で言った。
馬車屋とホールの手で、
荷物は男の
部屋にはこびこまれた。
男はすぐさま荷物をほどきにかかった。じれったそうに、
間につめた
麦わらをほうりだし、中のガラスびんをひとつずつ、だいじそうにとりだした。どのびんにも
液体や
粉末がつまっている。
男は、おびただしい
数のガラスびんをとりだすと、こんどは
試験管をとりだした。
つぎに、はかり、そのつぎは、えたいのしれぬ
機械だった。
「やれやれ、これですっかりとりだしたぞ。ぶじに
荷物がとどいてなによりだ。うすのろの
馬車屋め、おれのだいじな
荷物をだいなしにしないかと、はらはらしたよ」
男は、ほっとしたようにつぶやき、
麦わらや
空籠、
空箱で、すっかり
部屋が
汚れてしまったのも、気かつかぬようだった。
「さあ、さっそく、とりかかろう」
男は、
息をつくひまもなく、
窓のちかくに
機械をならべ、
実験にとりかかった。
いつのまにやら、
暖炉の火はきえ、
底びえのする
寒さがしんしんとせまっていた。
しかし、男は
暖炉の火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。
試験管をならべ、
毒薬とかかれた
茶色のびんをとりあげると、試験管の中に、たらたらと、三、四
滴の
液をたらしこんだ。
こんどは、それを火にかけ、また、ほかの
薬品のふたをとった。
男は、ながい間、こうしてなにもかもわすれ、ただ
実験にねっちゅうしていた。
時はすぎ、いつのまにか、
昼がきていた。ドアをたたく、かるい音がひびいた。
男はすこしも気づかない。おかみさんが、昼の
食事をはこんできたのだった。
ドアをたたく音は、しばらくつづいていた。男は、むちゅうで
試験管をふっていた。
たまりかねたおかみさんは、とうとう、だまってはいってきた。
「まあ! これは……」
ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまちしかめっ
面になって、ふきげんな声をはりあげた。
部屋がだいなしになっている。わらくずがちらかり、
古トランクがなげだされ、
空籠がほうりだされてある。
おかみさんはいきなり、
腹だちまぎれに、テーブルの上の麦わらを手荒くほうりだした。
がしゃんと、
食事の
皿をその上に、音をたててなげだした。
男は、はじめて、「おやっ?」と、いうように顔をあげた。
「お
食事をもってまいりましたわ」
おかみさんは男をにらんで、つっけんどんに言った。
男はへんじもせず、うつむいたままで、テーブルの上においてある
眼鏡を大いそぎでとりあげてかけると、やっと、ゆっくりとおかみさんのほうにむきなおった。
男の
動作はすばやかった。しかしおかみさんは、その
間に
目玉がぬけ落ちて、ぽかりと二つの
深い穴があいているような男の顔に気づいていた。が、なにくわぬ顔でつっ立っていた。男はいたけだかに、
「この
部屋に用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね」
「ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ」
「それはしたかもしれんさ。しかしだね。この
実験は一
分もはやく
完成させなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならず
守ってもらいたいね」
おかみさんはぷんぷんして、
「わかりました。それでしたら、お
部屋に
鍵をおかけになったらいかがですか?」
「なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう」
男は、落ちつきはらってこたえた。おかみさんはなおさらいまいましそうに、
「よろしかったら、この
麦わらを片づけましょうか? ひどくよごれて……」
男はぎろりとおかみさんをにらみ、きっぱりと、
「ふれんでもらいたいね。この麦わらであなたにひどくめいわくがかかるというのなら、その分だけ
金をとってくれたまえ。えんりょなしに
勘定書につけておいてくれればいいよ」
これを
聞くと、いままでぷりぷり腹をたてていたおかみさんが、
急にねこなで声で、
「それはおそれいります。どのくらいお
掃除代をいただけましょうか?」
「一シリングでいいだろう?」
「けっこうですわ」
「では一シリングとつけておきなさい。
勘定をするときにいっしょに
払うから」
「ありがとうございます。ではどうぞ、お
食事をなさってくださいませ」
おかみさんは
礼をいい、テーブルかけをひろげて、
食事のしたくをととのえ、
逃げるように
部屋をでていった。
台所へもどりながら、
「なんておかしな人だろう。でも、
掃除代が一シリングならわるくないわ」
と、つぶやいた。
黒馬旅館に
平和はなくなってしまった。このいなかの
旅館は、いつもひっそりと
静かで、
一番客のたてこむ夏の間でさえ、たいして
変わったことがあるわけでなく、おだやかな毎日がくりかえされていた。
ところが、
奇妙な男がやってきてからというものは、おかみさんも
主人のホールもすっかり
落ちつきをなくしてしまい、ともすれば
暗い気もちにおそわれるのだった。
男の
部屋からひきとってきたおかみさんは、くるくると
忙しげに
働きつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。
客の部屋は、一日中ひっそりと静かだった。
夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。
がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ!
ガラスびんや
試験管がぶつかりあったらしい、はげしい音だった。
「たいへんだ!」
おかみさんはひと声さけぶと、手にしていた
鍋をほうりだし、
台所からよこっとびにとびだしていった。
どん、どんどん……。
はげしく
客の
部屋の
戸をノックした。なんのこたえもない。
どーんと
体ごとぶつかってみた。しかし、ドアは
内がわから、しっかりと
錠がかかっている。
こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっときき
耳をたてた。
部屋の中からは、男のわめく声が聞こえてきた。
「だめだ、また
失敗だ。どうもうまくいかんぞ。三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいした
数だ。おれはだまされたのかな? こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ」
怒りと
悲しみにしずんだ声だった。
それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、
「やっぱりがまんしてつづけよう。ここで
投げだしては、いままでの
苦心も水の
泡だ。それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ」
おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも
意味ありげな
言葉だった。
おかみさんは、
全身を
耳にして、男の声を聞いていた。
そのとき、
「こんにちは、おかみさん。いっぱいのませておくんなせえ」
大声をあげて、
入口の
酒場に
客がはいってきた。
「ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……」
おかみさんは
舌うちをしながら、
酒場にでていった。
部屋のさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。
いっぽう、
馬車屋のフィアレンサイドは、
黒馬旅館にきみょうな
客の
荷物を
運んだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一
杯かたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。
あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。
「おれはこの年になるまで、あんな
変なやろうは見たことがねえよ。おれの
犬が、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ」
「ほんとうかい?
人間の足がまっ
黒だなんてことがあるものかなあ」
「おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と
手袋のやぶれたところから、はっきり
黒ん
坊のようにまっ黒な
肌がみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね」
フィアレンサイドは、
酔いのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。ヘンフリイはまだ
半信半疑で、
「だとすると、おかしいじゃないか? あいつの
鼻はちゃんと白いんだぞ」
「そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの
体はあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつは
恥ずかしがって、あんなにえり
巻やオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ」
「まるでシマ
馬みたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは」
「はっはっはっはっ」
三人は声をあわせて
笑いころげた。いつまでたっても、かれらの
話はつきそうもなかった。
馬車屋のフィアレンサイドと
時計屋のヘンフリイの口から、
黒馬旅館にとまったきみょうな
客のことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。
うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。
しかし、村人たちはかれの
姿を見かけることは、ほとんどなかった。男はたいてい
部屋にこもりきりで、いっしんに
実験をつづけていたからだ。
日曜日に、村の人たちがみんなそろってでかける
教会へもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。
ふるくからの
習慣をまもって、平和に
暮らしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。
「
黒馬旅館では、よくあんな
変わった
客をとまらせておくねえ。どんな考えでいるんだろう」
村人は、ホールやおかみさんのホール夫人に聞こえぬところでは、よくこんなことをささやきあった。ホールは、こんなかげ口を耳にはさむと、
「おい、どうかして、あの
客をことわるわけにはゆかないのかい?」
と、いやな顔をしながらホール夫人に言った。かれはその
客がきらいだった。
廊下でばったり顔をあわせるようなことがあっても、わざとよこをむいて、
虫が
好かないことをあからさまにしめしたりした。
おかみさんは、
主人が
客のことを言いだすと、できるだけひややかな
態度をとり、いかにもりこうぶった口ぶりで、
「ただ
虫がすかないからって、あんなに
金ばなれのいいお
客さんをことわる人があるものですか。夏になって絵かきさんたちが
避暑にくるまでは、気むずかしくても、きちんきちんとお
勘定を
払ってくれるお客を、だいじにしなくてはね」
こういわれると、ホールはだまりこんでしまった。
ところが、
金ばなれのいいはずの男も、四月にはいると、そろそろふところがさびしくなってきたようすだった。それまでは、たびたびおかみさんの顔をしかめさすようなことをしでかしても、そのたびに、さっさとよぶんのお金をはらって、ホール夫人に
叱言をいわせるようなことはなかったが、四月になってからは、目にみえて金ばらいがわるくなってきた。
こうなると、さすがのおかみさんも、ときにはいやな顔を見せるようになってきた。
その日も、ホールとホール
夫人がおそい
昼食をとっていると、その
部屋からいらいらと歩きまわる
客の
足音がひびき、そのうちにはげしい
怒り
声とともに、
壁になにかをぶつけるけたたましい音がきこえてきた。
「おい、またはじまったじゃないか。いまにあの
部屋はめちゃめちゃになって使いものにならなくなるぞ。おれがいったように、あんなえたいのしれないやつは、早く追いだしてしまったほうがよかったんだ」
ホールがおかみさんにむかって言った。
「うるさいねえ。なにかって言えば、つべこべとうるさいことばかり」
おかみさんは高びしゃに言った。しかし、ホールも負けてはいなかった。
「なんだい、あんなへんな
客を
泊めるくらいなら、いっそ
化物でもとめたほうが気がきいてるよ。まだ夜もあけないうちから起きだして、いそがしそうに動きまわるかと思うと、
昼すぎてやっとベッドをはなれて、ゆっくりたばこをすいながら、なん時間ものこのこと部屋を歩きまわっている。ときによると一
日中なんにもしないで、
暖炉のまえでいねむりばかりしているときもあるじゃないか。ことに、このごろのいらいらしてるようすときたら、ただじゃないよ。とんでもないことをしでかさないうちに、でていってもらったほうがいいぜ」
二人のあらそいはいつまでたってもおわりそうもなかった。ことに
客の
金ばらいがわるくなってからは、よけいにホールが、おかみさんにしつこくいや
味をいいはじめた。
さわぎは
黒馬旅館の中だけではなかった。このごろアイピング村では、日が暮れるがはやいか人びとは、しっかりと
戸口の
錠をかけ、いつまでも
寝ないでいる子どもにむかって、
「いつまでも寝ないでいると、
黒馬旅館のこわい男がやってくるぞ」
というのだった。
村人たちは夕ぐれ時、頭から手の先まですっかりつつみこんだかっこうで、
人通りの少ないうら道とか、木のしげりあった
暗いじめじめした場所を
散歩しているれいの男にでくわすと、子どもだけでなく
大人でさえ、ひやっと
背すじにつめたい水を
浴びせかけられたような
気分になった。
四月になった、とある日、とうとうたいへんな
事件が持ちあがってしまった。
事件というのは、
牧師館に
気味のわるいどろぼうがはいったことなのだ。
夜あけもまぢかな、人の
寝しずまったしずかな
時間だった。
「おやっ?」
牧師の
夫人は、そっとベッドに起きあがり、耳をすませた。じぶんのねむっている
部屋のドアが一度あいて、またしまる音を聞いたような気がしたのである。
しかし
部屋には、なんのかわりもない。気のまよいかなと、
夫人がよこになりかけると、となりの
部屋から、ぱたぱたと、はだしで歩く
足音がはっきりときこえた。
「あなた」
夫人は、ふるえながら
牧師をゆり起こした。
「どろぼうよ。ほら
足音が……ね、階段をおりていったでしょう」
牧師は、
夫人の言うとおりに、はっきり足音がしているのをきくと、さっとガウンをはおりスリッパをつっかけて
部屋をでた。
下のへやから、ごとごとと
机のひきだしをあける音がする。
「ほら」
つづいてでてきた
夫人が、そっとひじをつついた。
「よし」
牧師は、大またに
寝室へひっかえすと、やにわに、すみっこにおいてあった
火かき
棒をにぎりしめ、足音をしのばせて、音のするほうへとおりていった。
階段の
中ほどまでおりたとき、
「くっしゃん!」
と、大きなくしゃみの音が、あたりのしずけさをやぶってひびいた。びくっと、
牧師はたちどまった。それっきり音はやんだ。
牧師は、またそろそろとおりていった。
「
書斎だな」
牧師は、かたくくちびるをかみしめて、
机をかきまわすひくい音のきこえている書斎へ、ひと足ずつ近づいていった。
書斎のドアは、ほんのすこしひらいている。まっさおな顔でついてきた
夫人をうしろにかばいながら、
牧師は、そっとのぞきこんだ。
「ちくしょうめ! どこへしまってやがるんだろう」
口ぎたなくののしる声といっしょに、ぼーっとマッチのもえる音がして、
黄色なろうそくの光がゆらいだ。
「おお、ここだ! こんなところへかくしていたんだな」
どろぼうは
喜びの声をあげ、
金貨をちゃらちゃらとならした。
「うぬっ!」
牧師は、
火かき
棒をにぎりしめた。
どろぼうのやつは、とうとう
牧師がだいじにためていた
金貨を見つけたらしい。
「あれを
盗まれてはたまるものか。わしがながい間かかって、やっと二ポンド十シリングためたんだぞ」
もう、ためらうひまはない。
牧師は、
「このやろう!」
どなるといっしょに、ドアをけとばして、おどりこんだ。
「あっ!」
いると思ったどろぼうの
姿は、どこにも見えない。どこへもぐったというのだろう。ただ
机の上にともされたろうそくの
灯が、ゆらゆらとゆれているばかりだった。
二人は、ぽかんと顔を見あわせた。
「たしかにここにいましたよ」
夫人が言った。
牧師は
机の下をのぞきこんだ。夫人はカーテンのかげをさがした。
そのとき、かすかに
部屋の
空気がゆれて、だれかが
部屋をでてゆくけはいがした。
が、やはりだれもいないのだ。
「
金貨はなくなっていますよ」
夫人がさけんだ。
「うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ」
「こんなおかしなことって、あるものでしょうか?」
夫人は
歯をがちがちいわせて、ふるえていた。
と、またもや、
廊下で大きなくしゃみがきこえた。
「いるぞ」
牧師は、はじかれたように
廊下にとびだした。あらあらしい
足音は
廊下をかけぬけ、
台所のうら口のかんぬきを、らんぼうにひきあけているらしい。
牧師が
台所にとびこんだしゅんかん、戸はあけられ、かすかな人のけはいが外へむかってかけだしたようだった。しかし、牧師の目には、やはりなにも見えなかった。
牧師と
夫人は、まっさおな顔を見あわしたまま、いつまでもいつまでも、じっと立っていた。
姿のないどろぼうが
牧師館におしいったといううわさは、その日のうちに、アイピング村じゅうにひろまっていった。
牧師館が
姿のないどろぼうにひっかきまわされていたころ、
黒馬旅館の女あるじホール
夫人は、
「おまえさん、起きてくださいよ。ぐずぐずしていてはこまりますよ」
さかんに
亭主のホールをたたき起こしていた。二人は、お手伝いのミリーよりも早く起きて、いつものように
穴蔵にしこんだビールにサルサ
根からとった
液をまぜ、いちだんと
味をよくしようというのだ。
おかみさんは、まだ寝ぼけまなこをこすっているホールをひったてて、
穴蔵におりていったが、
「おや、サルサ
根の
液のはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ」
「よしきた」
ホールは気がるにひきうけ、じぶんの
部屋からいいつかったびんをとりだし、
穴蔵へゆく
階段をかけおりようとした。
「おやっ!
玄関のとびらのかんぬきがはずれているぞ」
ホールはびんを
片手に、ぽかんとドアの前につったって、ゆうべたしかに
玄関のドアはしめたはずだ、と思った。
「そうだ。おれがろうそくをもって、うちのやつが家じゅうの戸じまりをしてまわったんだから、まちがいないな。それに、はて、あの
客の
部屋の
戸もあいてたようだったぞ」
ホールはそのまま、おくへひっかえして、客部屋のドアをおしてみた。
案のとおり、ドアは
苦もなくひらいた。
客の
姿はどこにもみえない。ベッドの中はもぬけのからで、ぬぎちらした
服があたりにちらばっている。ホールは、おかみさんのところにかけおりていった。
「おいおい、ジャニイや、ヘンフリイが言ったとおり、あの客は
大悪党らしいぜ」
おかみさんは、それをきくとかんしゃくをおこしてどなった。
「なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ」
「ねぼけてなんかいねえよ。
客は
部屋にいねえし、
玄関のかんぬきははずれているんだ。が、やつの
服は
部屋にほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな?」
「おまえさん、それはほんとの話かい?」
「ほんとうとも……
信じないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな」
おかみさんは顔いろをかえ、とっとっと
階段をのぼっていった。ホールはあとにつづいた。
穴蔵の
階段をのぼって一階にでたときだった。大きなくしゃみが、近くできこえた。
おかみさんはホールのくしゃみだと思い、ホールはおかみさんのだと考えて、おたがいに気にとめなかった。
「あら、ほんとにいないわ。へんだねえ、どうしたってんだろう」
おかみさんは、さっさと
部屋にはいりこんで、ベッドにさわりながらさけんだ。
そのとたん、すぐうしろで、くすんくすん
鼻をすする音がした。おかみさんはすこしも気づかなかった。
「おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ」
「どれどれ」
ホールも、おくればせに近よってきた。
このときだった。世にもふしぎな、だれに言っても
信じてもらえそうもないことが、とつぜんに起こりはじめた。
まずさいしょは、ふとんがくるくるとまかれ、ぱっとベッドの外にとびだした。つぎには
柱にかかっていた
帽子が、きりきりとちゅうに
舞って、二、三
回転したかと思うと、矢のようにおかみさんの顔めがけてぶつかってきた。
「ああっ!」
おかみさんが
帽子をさけようと、右にむいたとたん、こんどは
洗面台のスポンジがとんできた。つぎはズボン、そのつぎは
服、
恐怖に顔をひきつらして、かの女が
部屋をうろうろと
逃げまどうと、どこからともなく、からからとあざ
笑うつめたい声がきこえてきた。
さいごに、いすがすうっと
宙にうかんだ。とみるまに、おかみさんめがけて、すごいいきおいで飛んできた。
「たすけてっ!」
おかみさんは
悲鳴をあげて、にげまどった。いすはおかみさんの
背中にぴたっとくっついた。
「あれっ! たすけて、だれかきて!」
なきさけぶおかみさんを、いすはぐいぐいとおし、
部屋の外につきだした。ホールは
這うようにして、いっしょに外にころがりでた。
ばたんと、二人のうしろでドアがいきおいよくしまった。
二人が
命からがら、
台所まで
逃げのびると、お手伝いのミリーがかけつけてきた。
やっとこさでじぶんの
部屋におちついたとき、ホール
夫人は、うわ言のように、
「ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに
玄関のかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く」
「ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと
気分がしずまるから」
ホールがうろうろしながら、気つけ
薬をおかみさんの口におしあてた。
「へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい
魔法をつかうんだわ。おっかさんの
代からのだいじな
家具に、
悪霊をふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんが
腰かけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ」
「さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ」
ホールが一
心になだめた。
やがて夜がすっかり明けはなれ、明るい
太陽の光がまばゆくかがやきはじめると、
黒馬旅館には、
鍛冶屋のウォッジャーズ、
雑貨屋のハクスターがよび集められた。
しかし、だれひとり、この
奇怪な話をきいて、これからどうすればいいか、はっきりと言える者はいなかった。
相談はおなじところをめぐって、いつまでたってもらちがあかない。
ついに、ウォッジャーズがホールにむかって、
「これはやはり、おまえが
客人の
部屋にいって、どういうわけでこんな
奇怪なことが起こったのか、よくよくわけをきかしてもらってくるのが、いちばんいい
方法じゃないかね」
と言いだした。これには、すぐにみんながさんせいして、お人よしのホールは、のこのこと
客の
部屋にでかけていった。
「お客さま、ちょっとうかがわせておもらい
申してえだが――」
ホールがまのびした声をかけた、とたん、
「うるさい、でてゆけ!」
すさまじい声といっしょに、ホールは
胸ぐらをどーんとつかれて、ばったりたおれた。
り、りりりーん! もうれつな
勢いでベルがなった。
これで三
度目だ。あの化けものの
客部屋からである。
「なんどでもならすがいいわ。だれがいってやるもんか。あんな男は
悪魔に食われて死んでしまえばいいんだ」
おかみさんは、長いすによこになったきり、にくにくしそうに言って、起きあがろうともしない。
あれっきり
客の
部屋にはよりつく人もない。おかみさんは
朝食をもってゆかなかった。きっと客は、
腹をすかせて
弱りきっているのだろう。
昼ちかくになると、おかみさんはいいにおいをたてて、じゅうじゅうと
肉をやきはじめた。
たまりかねた男は、
台所の
戸口にたって、
「おかみさんはいないかね? すぐに、へやへきてくれ」
はや口に言って、
姿をけした。
「ふん、お呼びかね」
おかみさんはうしろ
姿に
毒づきながら、ちょっと考えて、
勘定書をひょいと
盆の上にのせ、
客のへやにはいっていった。
「お
勘定でございますか?」
盆をつきつけながら、おかみさんはすまして言った。
「なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの
食事の
支度をしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは
仙人じゃないぞ。
飯もくわずに生きていられるか」
「おやおや、お
食事のさいそくでございますか? では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お
勘定をしていただきたいんです」
「三日まえに言っただろう。まだ
金を送ってこないんだよ」
「あたしは二日まえに、ちゃんと
申したはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんか
待っていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとお
叱りになりますが、あたしどもはもう、五日もお
勘定をまっておりますよ」
「な、なにを言うんだ。人をぺこぺこの
空きっ
腹にさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん」
「けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお
勘定をはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ」
この
言葉は、さすがに男の心にぐさりとつきささったらしい。男はにわかにおとなしくなり、
「まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ」
「ええっ!」
とたんにおかみさんの頭に、さっき村の人がかけこんで話したばかりの
牧師館のどろぼうのことが、さっと頭にひらめいた。なんとなく思いあたるものがあった。
そこで、ずばりとたずねた。
「お金があったんですって? いったい、どこで手にお入れになったのかしら……」
みるみる男のようすがおちつきを
失い、はげしい
怒りにぶるぶるふるえ、じだんだをふんでどなった。
「なにをぬかす。
失礼なやつめ!」
おかみさんはすこしもひるまず、
「ちっとも失礼じゃございませんわ。お
勘定をいただくにしろ、朝の
食事を
用意しますにしろ、そのまえにぜひともはっきりうかがっておきたいことがございます。お
客さまは、いったいどうやって、いすに
魔法をかけてあやつり、いつのまに
部屋からぬけだし、また、いつお
帰りになったのですか? なんのことわりもなく、
空気のように、かって気ままに出入りなさってはめいわくでございますよ。それに――」
男は、
「うるさい、やめろ、やめろ!」
ものすごいけんまくでどなりちらし、足をふみならした。
「ようし、きさまたちがそんな
料けんなら考えがあるぞ。おれがどんな
人間か、おまえらにわかるはずはないんだ。が、知りたければ知らせてやろう。見ておくがいい!」
怒りくるった男は、ついにじぶんから
正体をあらわしたのだった。
「見よ!」
男は
手袋をはめた手をふりまわし、
「おれがどんな
人間か知りたければしらせてやろう。よく見ておけ!」
そのすさまじさに、おかみさんはちぢみあがってしまった。
男は、ぱっと手をひろげると、つるりとひとなで
顔をなでおろした。
すると、顔のまん中に、ぽかりと
穴があいた。
「さあ」
男は手ににぎったものを、おかみさんの手のなかにおしつけた。
みるまに変わってしまった男の顔に、どぎもをぬかれてしまったおかみさんは、男のわたすものを、ひょいとうけとった。
が、ひと目みるなり、かなきり声をあげてほうりだしてしまった。
鼻だ! たったいままで男の顔にくっついていた鼻なのである。
ピンク色に光った鼻は、ごろごろと
床をころがっていった。
「だれかきて!」
おかみさんの
必死のさけびに、ホールや
酒場にいた男の
連中がどやどやとかけつけてきた。
男は、その連中のまえで、ゆうゆうと
眼鏡をはずし、
帽子をとった。
かけつけた連中は、立ちすくんで
息をのみ、男のやることをながめているばかりだった。
こんどは、ほうたいをぐるぐるほどきはじめた。
人びとは、ほうたいの下から、どんなおそろしい顔があらわれるのか、と考えただけでも、おそろしさにぞっとして、じっとしていられなくなった。うき足だったひとりが、
「こいつあたいへんだ!」
大声をあげると、わっとばかり、ひとりのこらず
逃げだしてしまった。
ホール夫人だけは、足がすくんで、その場にとりのこされていた。
男の顔から、ほうたいがつぎつぎととられてゆくにつれて、どうしたというのだろう?――
そのあとには、なにもなくなってしまったのである。考えていたような恐ろしい顔も、みにくい顔もあらわれてはこずに、男の顔はかき消え、
首なしの
怪人がそこにつっ立っていた。
首なしの
化けものは、そのまま、
玄関にかけだしていった。
入口の
酒場により集まって、がやがやとさわいでいた村の連中に、ホール、それからお
手伝いのミリーがけたたましい
悲鳴をあげて、
玄関のとびらをおしあけて、こぼれ
落ちるようにわっと外へとびだした。
それからあとのさわぎは、お話するまでもなかった。
人びとは
遠まきに
黒馬旅館をとりかこんで、
「頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。
帽子をとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ」
「ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ」
「ほんとだってば、おや、
巡査のジャッファーズがきたよ。
化けものをつかまえにきたんだ」
旅館をとりかこんでいた人びとは、わっと巡査をとりかこんで、おもい思いにしゃべりたてた。
巡査は、いばって、
「頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん」
「そうです、そうです。お
巡りさん、さあ、つかめえてくだせえ」
ホールは、まっすぐに
玄関にすすみ、入口のドアをいきおいよくあけた。
ジャッファーズは、えらい元気でとびこんでいった。
旅館のうす
暗い
台所のすみに、首のない
人間が、片手にかじりかけのパン、片手にチーズの大きな切れをもってたっている。
「あれですっ!」
ホールがさけんだ。
「なんだ、きさまたち! なにしにはいってきやがった」
首なしの
化物の、
首のあたりと思われるあたりから、
怒った声がきこえてきた。
「ほほう、ずいぶん変わったやつだな。しかし首があろうがなかろうが、わしは
逮捕状をもってきてるんだから、からだだけでもつかまえていくぞ」
巡査は、ぱっと男めがけてとびかかった。男はさっとうしろにとびさがり、パンとチーズを
巡査めがけてなげつけた。
「こんちくしょう! てむかう気か……」
巡査はまっかになって
怒った。ホールはせいいっぱい気をきかせて
机の上のナイフをとり、ちょうど
応援にかけつけた
鍛冶屋のウォッジャーズにわたした。
男はさわぎが大きくなったので、かんかんに
腹をたてたらしく、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけた。
「あっ!」
ふいをうたれた
巡査は、
一瞬たじろいだが、
猛然と男にくみついていった。
けとばす、つきとばす、すごい
格闘がはじまった。
巡査は、
苦心のすえに相手の
首をしめあげた。もちろん、見えない首をしめあげるのだから、ずいぶんおかしなものだったが、巡査は一生けんめいだった。
男は苦しがって、巡査のむこうずねをけとばした。
「足をつかまえてくれ!」
巡査は、
痛さをこらえてさけんだ。ホールが足をおさえにきたが、まごまごするうちに、あばら
骨のあたりを音がするくらいけとばされて、
胸をおさえてしゃがみこんでしまった。
男はふいに、
「うむ!」
とさけぶと、ばか力をだして
巡査をなげとばし、あべこべに巡査を下にくみしいてしまった。
「こいつはいけねえ」
巡査のはた色が悪いとみたウォッジャーズは、おく
病風にふかれて、
戸口のほうへ
逃げだした。そこへ、
「おーい、たすけにきたぞ!」
と、ハクスターと
馬車屋がかけこんできた。
巡査とウォッジャーズが、ほっとしたとたん、
戸棚から、がらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、
鼻をつくいやなにおいが部屋いっぱいにひろがった。
「こうさんするよ」
なにを思ったのか、
巡査をおさえつけていた手をはなして、
首なし男は立ちあがった。
みれば、頭ばかりか、右手も左手もなくなっている。
手袋がぬげてしまったからだ。
巡査は、すばやく起きなおり、
威厳をつくろいながら、男に
手錠をはめようとして、なさけない声を出した。
「こいつはいかん、どこへ
手錠をはめればいいんだ、
見当がつかんぞ」
みんなは、ぎくっとして顔を見あわせた。
「ああっ! やつは
靴をぬいだぞ、
靴下もぬいだ。あれっ! 足がない」
ホールが、とんきょうな声をあげた。
怪しい男は、うずくまって
靴下をぬいだと思うと、こんどは
上着をぬぎ、チョッキのボタンをはずしはじめた。
それは
世にもふしぎな
光景だった。
服だけが
宙に浮かび、そして、まるで
生命のあるもののように動いて、一枚一枚ぬぎすてられていくのだ。
人びとはあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりとながめるばかりだった。
男は、さっさとボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてた。シャツだけになった。
そのとき、
巡査があわてて大声でさけんだ。
「やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ」
「そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!」
しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、
怪しい男のありかをしめしているだけになった。
シャツの
袖がひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。
巡査がシャツめがけてとびついていく。ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、
悲鳴をあげた。
そのうち、シャツがくねくねと
気味わるく動き、
人間がぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんと
窓ぎわになげすてられて、
怪しい男は
完全にその
姿を
消してしまった。
かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。
「気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!」
「ほら、いた!」
「いや、こっちだ!」
だれもかれもむやみに
空間をなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。
「おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!」
「おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ」
人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。
そのとき、
巡査はかれとハクスターの間に動く、いようなけはいを
感じた。
「やつだ!」
かれは、見当をつけてとびついた。手ごたえがあり、男のがっちりとした
体をつかまえたとたんに、
首をぐいとしめあげられた。
「つかまえたぞ!」
巡査は、
首をしめられて
紫色になりながら、一生けんめいにさけんだ。
男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに
玄関のほうにでてきた。それにつれて人びとも右に左によろめきながら外へおしだされていった。
男と巡査がもつれるように
玄関のふみ
段まできたとき、巡査はもう
息もたえだえになっていた。
「えーい!」
男は、かけ声といっしょに、
巡査をぶるんとふりまわして、地面になげとばした。巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりと
倒れたまま、動かなくなってしまった。
「わあっ、
化けものがきたぞ!
巡査がたおされた! やられないうちに
逃げろ!」
村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすように
逃げていった。
人っこひとりいなくなった道に、
巡査のジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。
アイピング村から二キロほどへだたったところにある
丘の
中腹に、ひとりのこじきがすわっていた。
名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭の
働きがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。
かれはさっきから目のまえの草のうえに、二
足の
長靴をきちんとならべて、つくづくと見いっていた。
片方はいままではいていた
長靴で、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。
いままでの分は、足にぴったりとしてはき
心地はよかったが、ひどい
古靴で、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。
もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱな
品だったが、かれの足にはすこし大きすぎた。
「どっちをはいたらいいのかな? 水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし」
トーマスは、さんさんとかがやく
太陽の下で、いつまでも、どちらをはくか
迷いつづけて、ぼんやりと
靴をみながらすわっていた。
「どちらも
長靴だが、
古ぼけてるな」
トーマスのうしろでふいに人の声がした。トーマスは、ふりかえりもせずに、
「そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようで
情ぶかいですよ」
「ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!」
「そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね」
トーマスは、こう言ってふりかえった。
ところが、どうしたわけだろう。いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。
「だんな、いったいどこにいらっしゃるんで?」
かれは、きょろきょろと見まわした。
風で木の
枝がゆれているばかりで、だれひとりいない。
「おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……」
「こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから」
「ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ」
「こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの
姿がみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから」
トーマスは、あわてて
丘の上をぐるぐる見まわした。どこを見ても人っこひとりいなかった。生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている
小鳥だけだ。
「助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや」
「おちつけ、おれは
化けものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを
信用しろ。でないと、石をぶつけるぞ」
「だって、だんな、どこにおいでなんです?」
トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面から
舞いあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。
「ひゃあ!」
トーマスがわめいて
逃げだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。
「さあ、これでもおれのいうことを
信じないか?」
トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。
「どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、
空中からふってくる声だの……
気味のわるいことはやめにしてもらいたいね」
すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、
「おれの
姿がおまえに見えないからって、おれは
怪しい
人間ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は
空気とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ」
「えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ」
「ところがいるんだよ。いま、おれの
体にさわらせてやるからな」
あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。
トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の
体が、はっきりと手ざわりでさぐれた。
「こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが
体がすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう」
「それはそうだよ、
消化してしまうまでは見えてるよ」
「なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?」
「それにはながい
話があるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ」
「おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?」
トーマスは、目をくりくりさせてきいた。
「じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから
寝る
所とな――ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ」
「着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない
丘からいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。
体がすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは
着物とねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ」
「いまさら、ぐずぐず言うな。
透明人間のわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために
働いてくれ。そうすればお
礼はたっぷりやるよ。わかったな」
そして
透明人間は、大きなくしゃみをした。
「そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな」
男は、言いおわってぽんとトーマスの
肩をたたいた。トーマスは、きゃっと
恐怖のさけび
声をあげ、
「と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……
心配しねえでも
大丈夫ですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ――なんなりと言いつけてくだせえ」
トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。
その日は
復活祭だった。
アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも
晴着を
着かざって、うきうきしていた。
黒馬旅館では、
亭主のホールと
雑貨屋のハクスターは、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。
古びたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず
酒場にはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの
客部屋のほうへ歩いていった。
浮浪者のトーマスだ。
そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの
客部屋のドアをあけていた。
「おっと、お
客さん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。もどってきてくだせえ」
ホールが、まのびのした
調子でどなった。
男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、
酒場にきて、ききとれないほどひくい声で、酒を
注文して飲みはじめた。
「おい、かわったやつじゃねえか。気をつけたほうがいいぜ」
ハクスターがホールにささやいた。
男は、ぐいぐいと
流しこむようにたてつづけていく
杯ものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、
中庭にぶらりとでていった。
たばこに火をつけ、ぶらぶらと
庭を歩きまわっている。いかにも、ものうそうだった。
が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと
客部屋の
窓にするどい
視線を送っているのを見のがさなかった。
どさり!
重い物が
窓からおちる音がした。男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスに
包んだ大きな包みと、三
冊のノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで
木戸から
大通りへ走りでた。
「どろぼう!」
さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。
「どろぼうだっ! つかまえてくれ!」
ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。
外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。
シルクハットをかぶり、大きな
包みをかかえたおかしな人かげは、風のように
街路をかけぬけ、
街かどをまがって
丘へむかって走っていった。
「どろぼうだ! つかまえてくれ」
ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。しかし、
往来の人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。
とある
街かどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。
「こんちくしょうめっ! もう
逃がさんぞ、つかまえたぞ!」
おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねを
力いっぱいけとばされた。
「わっ!」
ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。
つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの
見事に
投げとばされ、
腰の
骨をしたたかうって起きあがれなくなった。
シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいで
丘のほうへ
姿を消していった。
夕ぐれがせまってきた。
シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの
並木をぬうようにして、ブランブルハースト
街道をいそぎ足で歩いていた。
テーブルクロスの
包みとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。
いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、
空中からせかせかした声がひびいてきた。
「おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいて
逃げようというのかい? こんど
逃げてみろ、ただではおかないからな」
「
逃げようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなに
肩をつっつかねえでくだせえ。おいら、いまに
傷だらけになってしまいますぜ」
トーマスは、しおしおとこたえた。
空中の声はなおも
意地わるく、
「いいか、こんど
逃げようとしたら、
殺してやるからな」
「とんでもねえ。おいら、あんたをまいて
逃げようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ」
浮浪者のトーマスは、いまにも
泣きだしそうだった。目にみえて元気を
失い、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。
空中の声は、もちろん言わずとしれた
透明人間である。
かれは
黒馬旅館でうばってきた
衣類と、
研究ノートの
包みをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。
「なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの
姿が
透明で
着物を身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで
問題はこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか」
「だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ」
しばらく二人は、だまって道をいそいだ。しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家の
灯がちらほらと見えてきた。
トーマスは
疲れきっていた。小わきにかかえた
包みが、しだいに下にずり落ちていった。
「おい、ぼやぼやするな。しっかりと
荷物をかかえて
歩け。そのノートはだいじなんだ。なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ!」
いきなりするどい声がして、トーマスの
肩をぐいと
透明人間がついた。トーマスはあわてて、ずるずると
包みをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、
「だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは
旅館からだんなの
荷物をもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの
役目はおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?」
「つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが
仕事をやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ」
「なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、
心臓もよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。
度胸はねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう」
「力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ」
トーマスは
首をすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、
「だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす
気味わるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる
権利があるんですがね」
「だまれ! だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは
利口な
人間じゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを
守っていてやろう」
透明人間は、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。
「わかってますよ。どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね」
トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。
村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しい
星がきらきらと空にかがやきはじめていた。
よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。
旅のほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの
宿屋のまえのベンチにすわりこんでいた。
ベンチの上にはれいのノートが三
冊、
革ひもでしばっておいてある。テーブルクロスの
包みのほうは、とちゅうで
透明人間の気がかわり、ブランブルハーストをでたところの
松林ですててしまったのである。
トーマスのようすはひどくへんだった。せかせかとあたりを見まわし、なんども、なんどもポケットに手をつっこんでは、しきりになにかをさがしているようすだった。
一
時間あまりもトーマスはベンチにすわって、こんな
奇妙なことをくりかえしてやっていた。
「やあ、いいお天気じゃありませんか」
ほがらかな声がひびいて、
船員ふうの気さくそうな男が、
新聞を
片手にトーマスに近づき、ベンチに腰かけた。
「そうですね」
トーマスはぎくっとしてふりかえり、気ののらないようすでこたえた。しかし、男はトーマスのようすに気をわるくするでもなく、ひどくあいそうよく、
「
暑くもなし
寒くもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね」
「遠くからですよ」
「ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい?」
本と聞かれてトーマスは、はっとして大あわてにノートをひざの上にのせた。そのひょうしにかれのポケットで、ちゃらちゃらと
金貨の音がした。
男は、目をまるくして、しげしげとトーマスを見つめた。ほこりで
汚れきったトーマスの
服装に、金貨の音はどう考えても
似つかわしくなかったからだ。しかし、その
船員は、すぐに前とおなじあけっぴろげな
態度になって、
「おれは、本なんてものはなん
年間も読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね」
「そりゃあそうでさ」
トーマスは、気がかりらしく、ちらっと
相手の顔を見て、つづいてあたりを見まわした。
「しかし、けさの
新聞には、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ」
「そうですかね」
「なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい?
姿の見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ」
とたんにトーマスは、おちつかなくなってしまった。口をもぐもぐと動かし、むやみにほっぺたをひっかいてから、きこえないほどのほそい声で、
「
透明人間ですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい?」
「ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ」
「えっ!」
トーマスは、ぐるぐるっと
心配そうにあたりを見まわした。
「はっはっは、この
辺といってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ」
「ああ、そうですか、で、その
透明人間はなにをしようってんですかね?」
「あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろ
体が見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。
昔、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね」
「そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね」
「
透明人間がはじめて
暴れだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ」
「それで……」
「その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこに
住んでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の
怪事件って書いてあるだろう」
「なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……」
「そいつは、はじめ
黒馬旅館にとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいて
服をきこんでいたから、だれひとり
透明人間だなんて気づかなかったそうだ」
トーマスは、そっとあたりを見まわしてからうなずいた。
「だが、ついに
化けの
皮のはがれるときがきたんだ。アイピング村の
連中は、そいつが
透明人間とわかったので、
大格闘をやってつかまえようとしたが、なにしろ
相手の
姿はみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとう
逃げられたということだ。」
「へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、
透明人間はどこへいったのでしょうね」
「さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ
方面へむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、
透明人間なんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね」
「まったくですよ。なにしろ
姿がみえないんですからね」
トーマスは
船員の話をききながらも、まわりの
物音に気をくばっていた。かすかな風の動きでも、ききのがさないようにしていた。
そして、あたりにかれの
主人の
透明人間の姿がなさそうだと見きわめをつけると、
「あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった
透明人間を知っているんですよ」
「えっ? おまえが知ってるというのかい?」
「へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから」
「そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ」
「あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままで
会った……」
言いかけてトーマスはふいに、
「いててて、おおいてえ!」
苦しそうにさけび、片手で耳をおさえ、片手で本をつかんで、
体をまげておかしな
腰つきでベンチから立ちあがった。
透明人間は、いつのまにか、トーマスのところに帰ってきていたのだ。
トーマスが、見しらぬ船員にかれのことをしゃべりそうになると、ぐいぐいとトーマスの耳をつまみあげた。
トーマスは、透明人間が
帰ってきていたと知ると、おそろしさでふるえあがってしまった。
もう、かれのことを
船員にしゃべるどころではない。透明人間に耳をひっぱられ、ずるずるとくっついていくだけだった。
しかし、そんなこととは
夢にも知らない
船員は、びっくりしてトーマスをのぞきこみ、
「おいおい、どうかしたのかい? どこが
痛いのだ?」
と
心配そうにたずねた。トーマスはじりじりとベンチから
遠ざかってゆきながら、
「
歯が
痛いんだよ。急にいたみだしたんで、おおいてえ、いてえ」
しかし、トーマスのようすはどこか
変だった。歯が痛いと言いながら、
片手で耳をおさえて、
片手でノートをしっかりとつかんでいる。船員は、うさんくさそうにトーマスをじろじろと見て、
「おい、どうしたんだい?
透明人間のことを話すと言ったじゃないか?」
「うそでさ。いっぱいかついだだけですよ」
トーマスが
苦しそうにこたえると、
船員はむかっ
腹をたてたらしく、
「新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか? しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ」
「
新聞だって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から
透明人間なんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ」
船員は、
半信半疑でトーマスの顔をじっと見つめた。
「だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが
証人になってるしな」
「うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、
透明人間なんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか」
トーマスは
必死になって、がんこに言いはった。船員はおもしろくない顔をして、
「それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ」
「なにっ!」
二人は、ぐっとにらみあった。いまにもどちらからか、げんこのつぶてが飛んできそうなあんばいだった。
「トーマス、ぐずぐずするな、おれといっしょにくるんだ」
とつぜん、
空中から声がした。
トーマスは、はっとしたようで、そのまま、おかしな
腰つきでひょこひょこ歩きだした。
「
逃げるのか」
船員がうしろからどなった。
「逃げるもんか」
トーマスはくるりとむきなおろうとしたが、あべこべにつきとばされるように、前へとんとんとつんのめった。
そして、それっきり
後もみずに
船員から遠ざかっていった。
だれかと言いあらそいでもしているようなつぶやきが、いつまでも聞こえていた。
船員は、大またをひろげ
腰に両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけ、
「あいつは
新聞が読めねえんだよ。なにがうそだい。目を大きくあけて新聞をみろ、ちゃんとくわしく書いてあるから、まぬけめ!」
声のつづくかぎり、どなりまくっていた。
このことがあって二日ほどたったとき、またまた
船員は、世にもふしぎなできごとにであった。
船員は、じぶんの
部屋でゆっくりとコーヒーをすすっていた。
たっぷり
砂糖をほうりこんだ、
濃いコーヒーをうまそうに飲みながら、かたわらの新聞をながめていると、
「おおい、あにき、あにきいるかい」
と、われるように戸をたたく者がいる。
「だれだい? しずかにしろ、戸がこわれるじゃないか。戸をたたくのをやめて入ってこい」
ころがりこんできたのは、かれのなかまのわかい
船のりだった。
「なんだい、ひどくあわてて……どんな
大事件が起こったっていうのかい? えっ、おまえ、
透明人間にでもぶつかったというのかね?」
船員はなかまの顔を、にやにや笑って見ながら声をかけた。
「いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ」
「ふしぎなこと? まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい」
やがて、
熱いコーヒーがはこぼれ、わかい
船のりはひと
息つくと、まだこうふんのさめないようすで話しだした。
「おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ」
「おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい? おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ」
「うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル
小路を歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、
街はしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にも
後にも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先の
港のことを
考えて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこの
壁に目をやった」
「うん、それで……」
「そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの
金貨が、
壁にそって
空中をふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さで
飛んでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、
欲がむらむらっと起こったんだ」
「その
金貨を、じぶんのものにしようとしたのかい?」
船のりはいつのまにか、わかいなかまのふしぎな話にひきずりこまれて、
熱心にきいていた。
「おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、
金貨は
持主がいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その
金貨をつかもうとした」
「うまくつかめたのか?」
「いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり
倒されて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどく
腰をうってのびてしまったが、かろうじて
痛みをこらえて立ちあがったときには、
金貨はちょうちょうが
舞うように、ふわふわとマイクル
小路のかどを消えていったんだ」
「おまえ、
夢でも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすり
眠ったのかい?」
船のりが
疑ぐりぶかい
調子でいうと、わかいなかまは、
不平そうにほおをふくらし、
「いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? おれの
腰は、その時すごい力でなぐり
倒されて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきん
痛んでますよ。おれだってさっきまで、
金貨が
空中をふわふわ
飛ぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは
金貨がマイクル
小路のかどに
消えてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ」
「そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが
寝ぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな
気味のわるい話じゃないか」
「そうなんだよ。おれも
金貨が見えてる間は
無我むちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろは
変なことばかり
続くじゃないか。
透明人間だなんて
恐ろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が
空中をとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ」
船のりは、その時、なぜともなく
宿屋の前で会ったシルクハットをかぶったみょうな男のことと、そのとき
空中からきこえた声のことをふっと思いだした。
(おれも頭がどうかしているのかな。あのときふいに
空中から声がきこえてきたような気がしたが……そら耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。金貨が空中を
飛ぶなら、空中から声がきこえてもふしぎではないかもしれん)
ひとりで考えこんでしまった。わかいなかまもだまりこんで、やけにたばこばかりすっていた。
金貨が
空中を
飛ぶということは、
事実だったらしい。
その
証拠にポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、
金貨がふわふわと飛んでいた。
そのようすを見たという人はいく人もあった。
「ええ、そうですよ。人もいなければ動物もいません。ただ
金貨だけがふわふわとかなりの
速さで
飛んでるんですよ。わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです」
かれらは口をそろえて言った。
「そしておどろくじゃありませんか。その
金貨は、どうも、ほうぼうの金庫やぜに
箱からとびだしてきたものらしいんですよ。村の
銀行の
金庫からも、ちょうど
片手でつかめるほどの
金貨と、紙できちんと
巻いた
貨幣とが、ふいに
空中に
舞いあがり、おどろく
行員をしり
目に、ふわふわと
飛んで
銀行をでてゆき、
表通りにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ」
ふしぎなことのあったのは、
銀行だけではなかった。
食料品をうっているこじんまりした店では、
客につり
銭をわたすために
主人が
銭箱のふたをあけた。そのとたん、
主人はすぐ
身近に人のけはいがせまるような感じをうけた。
「おやっ?」
主人は、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだ
卵を
熱心に見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。
主人が
銭箱からつり
銭をつまみだそうとすると、さっと銭箱の中のひとつかみの金貨が空中へ
舞いあがった。
「きゃっ!」
主人は
悲鳴をあげて、
舞いあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。主人の悲鳴におどろいた客も、
空中をとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。
ポート・ストウ村は、ひっくりかえるようなさわぎになってしまった。
ほうぼうの店や
宿屋から、手につかめるほどずつの
金貨が
空中をとんで
消えていった。
あちらの通りや、こちらの
街かどで、人びとは
金貨の
飛んでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。
こうして、ほうぼうの
金庫や
銭箱から
舞いあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。
金貨は人目をさけて、
街の通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな
宿屋のまえで、おどおどとあたりを見まわして
心配そうに立っている、
古びたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。
バードック町は、うしろになだらかな丘がある。丘のふもとのバスの
停留所のすぐ前の
酒場『
銀ねこ』では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりの
客をあいてに、さかんに、
競馬の話をまくしたてていた。
あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、
商売は
馬車屋だ。
おやじの
言葉に、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびと
酒を飲んでいた。
「なんだい?
表のほうがだいぶさわがしいようじゃないか」
とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うす
汚ないカーテンのすきまから、
丘のほうをのぞいてみた。
「おい、なんだか、おおぜいの人が
駈けていくぜ」
「どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな」
酒場のおやじが気のない
調子で言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの
浮浪者のトーマスがとびこんできた。
髪をふりみだし、
息をはずませて、
上着のえりもはだけてしまっている。れいの
古びたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。
飛びこんでくるなり、トーマスは
恐怖におののきながら、大声でさけんだ。
「やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。
透明人間に追われているんです」
「
透明人間がくるって……そいつはたいへんだ。おいっ! ドアを
閉めろ、ドアを閉めろ!」
酒場じゅうの
者が色を
失ってさわぎたてた。ちょうどきあわせていた
警官は、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐに
表のドアをしっかりとしめてやった。
おやじも台所のほうへすっ
飛んでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。
「さあ、もう
大丈夫だよ」
警官が言ったが、トーマスは
泣きださんばかりの声をふりしぼって、
「あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうの
鍵のかかる
部屋にかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことを
殺そうと思っているんです」
「どんなやつかしらないが、ここまでくれば
大丈夫だよ。ドアはしめたし、そちらに
警官もいらっしゃるんだ」
すみっこで、ひとりで
酒をのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。
と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。
「
透明人間だ! はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっと
殺されてしまうんだ。おお、神さま!」
「この中へはいったらいいだろう」
おやじが、カウンターのはね板をあげた。トーマスはあわててとびこんだ。
その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。
「だれだ?」
警官がどなりながらドアに近づいた。トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、
「戸をあけねえでくだせえ。たのむからあけねえでくだせえ」
黒ひげの男が、
「外で戸をたたいているのが、
透明人間だというのか。どんなやつか、見たいものだな」
その
言葉がおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。
「きゃっ!」
トーマスがふるえあがって
絶叫した。
「さあ、こちらへ
来い」
おやじは気をきかせてトーマスをおくまった
部屋にかくし、
鍵をかけてやってから、もとのところへもどってきた。
外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。
警官はドアに近より
鍵穴から外をのぞき見しながら、
「ほんとに
透明人間らしいな。
警棒をもってくればよかった」
黒ひげの男も警官のあとにつづき、
「ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう」
そして、手にしたピストルを
警官の目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。
ピストルをみると
警官は、あわてて手をふり、
「とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、
殺人罪になってしまうよ」
「へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつを
殺してしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう
名人なんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい」
カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、
「わたしをうたんでくださいよ」
と、どなった。
「さあ、こい!」
黒ひげの男は身がまえ、さっとピストルを
背にかくした。
警官は、ちょっと
思案していたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。
しかし、ドアはしまったままで、人がはいってくるけはいはさらにない。
二分たち、三分たった。やはり、なんのかわったこともなかった。
三人が
息をころしてドアを見つめていると、
奥の
部屋から、ひょいとトーマスが頭をだし、
「
家じゅうのドアは、みんなしめてありますかい?
透明人間のやつは、きっとぐるっとまわって、
開いてるドアをさがしてみますぜ。
悪魔のように、ぬけめのねえやつですからね」
「そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ」
ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、
鍵をしっかりとかけた。
やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな
肉切包丁をぶらさげ、
心配そうに、
「
庭の
木戸も
通用口のドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……」
「
透明人間が、そこからはいりこんだんじゃないか?」
気の早い
馬車屋が、おやじが話しおわらないうちに、こわそうにさけんだ。
「
調理場にお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ」
「しかし、ゆだんはならないぞ!」
警官はあたりを、ぐるぐると見まわしながらいった。黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、
調理場のほうをにらんだ。
そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの
部屋のドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。
トーマスのかなきり声がひびいた。それはちょうど
蛇にみこまれた小鳥の、
悲しいさけび声に似ていた。
「それっ!」
三人はカウンターをとびこえて、かけつけた。黒ひげの男のピストルがなった。
と、同時に、おくの
部屋の
鏡が音をたててくだけ落ちた。
「助けてくれ! だれかきてくれ!」
トーマスは、目に見えぬ人にひきずられながら、じたばたともがいている。
三人は顔を見あわせてためらった。
敵の
姿は、ぜんぜん見えないのだ。どうやってトーマスをかれの手からうばい
返して助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。
そのひまにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの
部屋から
調理場へひきずりこまれていった。
棚からフライパンや
鍋が、けたたましい音をたててころがり落ちた。
「どけろ! どけろ!」
警官はおやじをおしのけ、トーマスの
首すじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。
「ええい! じゃまするな」
恐りにもえた声がして、
警官はものの
見事に、その場になぐりたおされた。
トーマスは
必死になって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。
後からとびこんできた
馬車屋とおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、
透明人間の
体のどこかをつかまえた。
「つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!」
「いたぞ!
透明人間がいたぞ」
二人は、つかまえたが
最後、どんなことがあってもはなすものかと、むしゃぶりついてあばれまわっている。
さすがの
透明人間も、トーマスをつかまえていて、二人を
相手では、
戦えるわけがない。
「ちくしょうめ!」
いまいましげに
舌うちして、トーマスをはなした。二人がむやみにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、
透明人間もいささかもてあましてきたらしい。
「うん、なんだって、じゃまをしやがるんだ。おまえらの知ったことじゃないんだ」
透明人間と二人は、はげしく取っ組みあってあばれた。
そのうち、やっと起きあがった
警官も
加勢にかけつけ、
両うでを
水車のようにふりまわして、目に見えぬ
敵におどりかかっていった。
トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとを
這いまわりながら、
必死で逃げだす道をさがしている。
調理場での
大乱闘が二十分もつづいたころ、
「おや、おかしいぞ。やつはどこへいっちまったんだ。外へ逃げたのか?」
黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわしてさけんだ。
「
中庭へ逃げたんだ。
敵は中庭だ」
警官がまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一
瞬……。
ぴゅうっ――と風をきって
屋根がわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。
調理台の
皿小鉢が音をたてて、みじんにくだけ
散る。
「ようし、おれがひきうけた」
黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官の
肩ごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい
方向にむけてぶっぱなした。
弾はうなりを
生じて
飛んでいった。ピストルの音がしずまると、
庭はしいんとしずまりかえった。
かわったことは、なにも起こらなかった。
「五発うったぞ。こいつが一番ききめがあったろう。もう、だいじょうぶだ。透明人間の死がいを
探そうじゃないか」
その日の夕方、ケンプ
博士は、こじんまりしたかれの
書斎で、書きものをしていた。
博士の家は町をみおろす、
丘のうえに建っている。そこからは、丘のふもとの『
銀ねこ』
酒場や、バスの
停留所が、ひと目でみることができた。おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。
博士のへやの
書だなには、ぎっしりと本がつまっている。
自然科学、
薬理学の本がおもで、
窓ぎわの
机には、けんび
鏡、スライド、
培養えき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。
とつぜん、ピストルの音がした。ピストルの音は一
発だけではなかった。つづけざまに、五発の
銃声が
夕空にこだまして、
街の
静寂をやぶった。
博士は気がかりになってきた。
この平和な
街にピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。
「なんだろう?」
博士は南がわの
窓をおしひらいて
街を見おろした。
いつもとかわらぬしずかな
景色だったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、『
銀ねこ』
酒場のあたりで、がやがやとさわぐただならない
人声が、風にのってきこえてきた。
「
酒場のあたりだな」
博士はつぶやいて、なおもじっと、夕方の
街を見おろしていた。
夕空はしだいにくら
闇のいろにつつまれ、ほそい
新月が
夢のような
姿をみせ、
星もふたつみっつ数をましていった。
港にとまっている
汽船に、あかりがつき、きらきらと
宝石のようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。
博士は、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。
さわぐ声もきこえなくなっていた。
博士は
窓をしめ、もう一
度、
机のまえにすわった。一時間ほどたったとき、
玄関のベルがはげしくなった。
応対にでていくお手伝いの足音がした。
しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。
「おかしいな? だれか
訪ねてきたのではなかったのかな?」
博士は、ふと気になった。大いそぎでお手伝いをよび、
「いまのベルは、
郵便配達だったのかね?」
「いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、
玄関にはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう」
「子どものいたずらか」
お手伝いがひきとっていくと、
博士はスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。
部屋の中はしずかで、時をきざむ
時計の音だけがきこえている。夜の二時になった。
博士は書きかけの
書類から頭をあげると、
「もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、
疲れもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう」
大きくのびをして、
灯をけすと、
階下の
寝室へおりていった。
博士はひどく
疲れていた。頭がおもい。
こんな時、
博士はいつも
愛用のウィスキーを少し飲んで、ぐっすり
眠ることにしていた。
「こん夜もすこし飲んで
眠ろう」
博士はひとり言をいって、
上着とチョッキをぬいだままの
姿で
台所におりていった。
ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、
階段の下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。
「だれだろう? こんなところにしみをつけて……」
博士はぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。
「おかしいな、血かな?」
博士は
指さきで、そっとさわった。思ったとおりだった。
「だれがこんなところに血をおとしたのかな?」
にわかに
胸さわぎがして、
暗い
予感がしてきた。
博士は、考えながら
寝室にやってきた。
と、そこでもまたかれは、おそろしいことに
出会ってしまった。
なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。
これはただごとではない。
博士の
全身の
血が、さっとひいていくようだった。かれの頭には、その時、夕方
書斎できいたピストルの音が、ありありと
浮かんでいた。
おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか?
博士はきっとした
表情になり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに
部屋にはいっていった。
しかし
博士が考えたように、
警官のピストルで
傷ついたギャングはいなかった。
ギャングはもちろん、ねこの
子一ぴきすら
部屋にはみえない。
ただ、ベッドの上のふとんが
乱暴にめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。
ギャングは、
警官に追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの
寝室にしのびこんでいたにちがいない。
「そうだ。きっとそうにちがいない。なによりの
証拠に、ベッドにいままで人が
腰かけていたらしいくぼみができているじゃないか」
博士は
血ですっかりよごれたベッドのまわりを、
念いりにしらべた。
「いつのまにしのびこんだのかな?」
博士がふしぎそうにつぶやいた、そのとき、
「やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ!」
いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。
「あっ!」
ふいをうたれてかれは、けげんそうに
部屋じゅうをぐるぐる見まわした。
どこにも声の
主の
姿はない。
「だれだね?」
博士の声はうわずっていた。しかし、こんどは
返事がなかった。
ただ
部屋をよこぎって歩く足音がして、
洗面所のカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。
博士は声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて
棒立ちになっていた。
それから五分もたったであろうか……。
博士には、ながい時間がたったようにも思われた。
もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、
血のにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。
頭だけだ。
空中にぼんやり
浮かびあがったほうたいまきの頭は、目もなければ
鼻もない。いや頭ぜんたいがないのだ。ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。
もちろん手も足もありはしない。
たいていの者なら、ひと目みただけで
気絶してしまうところだ。
が、
気丈な博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。
「ケンプ!」
ふしぎなものは博士をよんだ。
「え?」
「おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら
大学で
同級だったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう」
「グリッフィンだって……なにをばかなことを……この
化けものめ!」
博士はいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。と、どうだろう……。
人の
体にふれたではないか!
ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと
空中にうかぶおかしなものをみた。
「おちついてくれよ、ケンプ。おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。ただおれはふとしたことで
体がすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。
世間のやつらが
透明人間だとさわいでいるだろう」
透明人間は目に見えぬ手で、しっかりと
博士の手をにぎりしめて、いっしんに話した。
しかし、
博士は、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。
「しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ」
「なにを、このやろう、このばけものめ。
話もなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ」
「だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……」
透明人間は、むかっ
腹をたてたらしく、とうとう、
博士の足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。
博士は、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。
「しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。きみをおどしたり、きみに
害をくわえるつもりできたんではないんだ。ぼくはいまこまっているんだ。きみの助けがほしくてやってきたんだよ」
博士は、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。
透明人間は、口におしこんだシーツをとりのぞき、
「ねえ、きみ、どうかぼくの言うことを
信じてくれたまえ。ぼくは
大学にいたときと同じグリッフィンなんだ。ただ、あることで
姿が見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく
自身は、なんにも
変わったことはないんだ。
心も
体も
昔のままのグリッフィンなんだよ」
博士は物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、
姿の見えないほうたいの
化ものの
言葉に
真実のあることを見ぬき、
「ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの
姿は見えないが、たしかに
体はあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみの
腕がわしをなげとばしたからな」
「そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしい
化けものなんぞじゃないんだ。ただ
研究の
結果でこんなことになってしまったんだ」
「
研究の
結果だって? 研究の結果できみが
透明人間になったというのかい?」
「そうだよ」
「
信じられないね。だいいち、
透明人間がグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという
証拠はないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが」
「きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せば
疑いははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ!」
「では、話してみたまえ」
「話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと
食事と
着る
物がほしいんだよ。じつはけがをしているので、
傷はいたむし疲れきっているんだよ」
「
食べ
物に
着物だって……すこし
待ちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ」
博士は、
落ちつきをとりもどしていた。
科学者らしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな
透明人間の
秘密をできるかぎり
探りだしてやろうと考えていた。
「なんでもけっこうだよ。死ぬほどつかれているんだ。なにか食べてゆっくりと
眠りたいだけなんだ」
博士は
衣裳戸棚から、古くなったガウンをとりだして、
「これでまにあうかね?」
「けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……」
空中の声がへんじをするといっしょに、
博士の手からガウンがとりあげられ、
空中でばたばたとゆれていたが、そのうち、
透明人間が
着こんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。
「やれやれ、これで身じたくがととのったよ。あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。
裸で
腹をすかせているのは、まったくつらいよ。まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、
腹がすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ」
透明人間は、
服をきてしまうと、ゆっくりといすに
腰をおろした。
「ねえ、ケンプ。早くウィスキーを
飲ませてくれないか」
透明人間は、せかせかとさいそくした。
「いま
持ってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは
催眠術にかかっているのかな?」
「ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ」
博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、
冷えたカツレツとパンを手にしてもどってきた。
「ウィスキーはここにある。さあ食べたまえ」
博士はサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンの
化けものに声をかけた。ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンの
袖が動いて、すっとグラスを持ちあげた。グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで
空中に浮かびあがっていったような感じだった。
口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みほされた。
「ああ、うまい」
つぎに、カツレツが
空中に
舞いあがった。つづいてパンも……。
「なるほど、見えないよ。で、
傷をしているといったが、どこを傷つけられたんだね」
「
傷はたいしたことはないんだ」
透明人間はがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。
見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。
「ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくは
運がよかったよ。こん夜は
泊めてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくり
眠りたいんだ。ベッドを
血でよごしてすまなかったね。
体は
透明になっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ」
「また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね」
「ばかなやつが、ぼくの
金を
盗もうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……」
「そいつも
透明なのかい?」
「いいや、かれはふつうの
人間だよ。あいつはぼくを
恐れてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんど
会ったらぶち
殺してやる。ちくしょうめ!」
透明人間は、はげしく
体をふるわして
怒りだした。ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。
博士は、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。
透明人間は、ようやく
怒りをしずめ、
「ぼくは
武器をつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを
追っぱらおうとして
乱暴するんだよ」
「なるほど、が、きみがそんな
体になったいきさつを、話してきかせてほしいな」
「それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが」
博士はいわれるままに、たばこを
透明人間にあたえた。ところが、見るからに
奇怪なことが起こった。それは透明人間が、うまそうにたばこを
吸いはじめると、たばこの
煙が流れるにしたがって、
口からのど、そして
鼻と、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。
「ありがたい。きみのおかげで、
寒さからも
空腹からものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく
感謝するよ。しかし、ケンプ、きみは
学生時代と、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ」
透明人間が言った。博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、
「いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ」
と、
博士はくらい
表情でこたえた。そのうち
透明人間は、にわかにうめき声をあげ、
体をえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。
熱がでてきて、
傷がいたみはじめたのだ。
「きみ、この
部屋で朝までゆっくり
眠りたまえ。そうすればきっと、あすの朝は
気分もさわやかになるだろうから……」
博士は
親切にすすめた。ところが
透明人間は、
苦しそうにうなり声をたてながら、どうしても
眠ろうとしなかった。
「きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……」
透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、
「ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね」
と言った。
博士はぎくりとした。
なにもかも見すかしたような
透明人間のことばは、
博士の心をぐさりと
突きさした。
「ぼくがきみを
警官の手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくを
信じてゆっくりとやすみたまえ」
しかし、
透明人間はどこまでも
用心ぶかかった。
部屋のなかをねんいりに見わたしてから、ふたつの
窓をしらべ、そしてドアの
鍵をあらため、
警官がまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。
「おやすみ」
博士が
透明人間に言って、ドアをしめようとすると、
急にナイト・ガウンがすーっと
近づいてきて、
「だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。
警官にわたしはしないだろうね」
博士は顔いろをかえ、
「わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな
心配をしないで、ぐっすりやすみたまえ」
ドアをしめると、すぐに中から
鍵をかける音がした。
博士は、
「やれやれ、とうとうじぶんの
寝室から追いだされてしまった。まるっきり、
夢をみているのか、気がちがっているのか……わけがわからない」
なんども頭をふりながら、
廊下をゆっくりと歩いて
書斎にはいった。
博士は、ぐったりといすに身をなげだして、もの思いにしずんでいたが、
「そうだ、
新聞を見れば、なにか手がかりがつかめるかもしれんぞ」
ぽつりとひとり
言をもらし、いくとおりもの
新聞をかきあつめ、
机の上にひろげて、むさぼるように読みはじめた。
どの
新聞も、アイピング村でのさわぎが、大げさに書きたてられている。
「ふうん、村人をなぐりたおしてあばれまわったというのか……なんて
乱暴なことをするのだ。えっ、なに、
巡査はなぐられて
気ぜつしたっていうのか。そして
宿屋の
女主人はおそろしさのために、寝こんでしまったのか。なんというおそろしいことをやる男だ」
博士は、ぼんやりと
前方を見つめて、考えこんでいたが、ぽとりと新聞を手から落としてしまった。いくら
考えても、この
奇怪な
事件ははっきりしない。
博士は、長いすによりかかって
眠ろうとしたが、目がさえて、
寝つかれそうもなかった。
やがて、
窓から、しらじらと朝のひかりが
流れこんできたが、博士はまだふいに
飛びこんできたやっかいな
透明人間を、どうしようかと思いなやんでいた。
「やれやれ、これでやつが
起きだしてくれば、また、
服だけの
化けものと、しかつめらしい顔をして話し、なんにもないところへ、たべものがつぎつぎと消えていくのを見ていなくてはならないのか。どうかして、この
災難からのがれるすべはないかな」
へいぜいは頭のするどさをほこり、どんなことでもあざやかにかたづけてしまう
博士も、思ってもみなかった透明人間には、すっかり手をやいたらしかった。
夜がすっかりあけはなたれると、お手伝いが朝の新聞をかかえてやってきた。
博士は、お手伝いにむかい、
「いいか、
朝食を二人まえ
用意して、ここまでもってきなさい。そしてわしが
呼ぶまで、二
階へかってにくることはならんよ。わかったな」
「はい」
お手伝いは、博士が研究であたまをつかいすぎて、気が変になったのではないかと、心配しはじめた。
博士は、お手伝いがはこんできた
熱いコーヒーをすすると、いくらか
気分がはっきりした。
朝の
新聞をひろげ、
透明人間のことが書かれているところを、ねんいりに読んだ。
「新聞には、透明人間は
狂人になったにちがいないと書いてあるぞ。じっさいやつは、気がくるっているにちがいない。なにをやりだすか、わかったもんじゃない。しかも
空気のように
自由な身だ。
悪事をやりだせば、こんなおそろしい
敵はない。そいつがおれの
家にまいこんできたんだ。それにやつは、
昔の友だちのグリッフィンだというのだから……」
博士は
机のまえに、どっかりと
腰をおろすと、ながい間、頭をかかえて考えこんでいた。
「おお、どうしてそんなことができよう――
友だちの
信らいをうらぎるなんて……。だが……たとえ友だちであっても――」
博士は、思いまよったすえ、ひきだしから
便せんをとりだすと、ペンを走らせだした。
書いてはすて、書いてはすて、博士はなんども書きなおして、やっと一
通の
手紙をかきあげると、
封をして、
宛名をしたためた。
それには
肉太の
博士のいつもの字で、
『ポート・バードック
署 アダイ
警部どの』――と書かれてあった。
透明人間は起きあがるやいなや、あばれはじめた。けさはひどく、きげんがわるいらしい。
いすをなげとばし、
洗面所のコップをたたきわった。
もの音で
博士が、あわててかけつけてきた。
「どうしたのだ? なにか気にいらないことでもあるのかい?」
「なに、頭の
傷がすこしばかりいたみだしたので、
気分がすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ」
博士はだまって、ちらばっているガラスのかけらをひろいあつめ、
「きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。
世間は
透明人間のうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね」
「うるさいやつらだ! なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう」
「それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね? むろん、ぼくはできるかぎりの
手伝いはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね」
透明人間は考えこんでいるらしく、ベッドのはしにすわりこんだまま、だまっている。
ケンプ
博士は、しばらくしてから、さりげなく、
「
書斎に
朝食のよういをさせてあるよ」
と、さそった。
透明人間はすなおに立ちあがり、
博士のあとについて
書斎にはいってきた。
ゆうべとおなじように、ナイト・ガウンだけが、すーっと
食卓のまえにすわりこんで、手も口もなんにも見えないのに、どんどん食べはじめた。
はじめて見たときほどおどろかなかったが、やはりへんな
光景だった。
食事がおわりかけたころ、ケンプ
博士は、
「これから
先のことを
相談するまえに、なぜきみがそんな
体になったか、くわしく話してもらいたいね」
透明人間は、ナプキンをとりあげ、ゆっくりと口のあたりと思われるところをふき、
「かんたんなことなんだ。きみだって
説明をきけば、なーんだ、と思うよ。
奇跡がおこったのでも、なんでもないさ」
「きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、
奇跡とおなじくらいふしぎなことだよ」
「はっはっは」
透明人間は、ケンプ
博士に会ってからはじめて、ゆかいそうに
笑った。
「さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ
医学を
勉強していたことは、きみも知っているとおりだ。その
後、ふとしたことから医学を
研究することをよして、
物理学にうつったんだ。ことに
光の
反射とか
屈折とかが、ぼくの
興味をとらえてしまったんだ」
「
昔からきみは、そういうことを
研究するのがすきだったじゃないか」
「そうだよ。しかも、この
研究は人があまりやっていないので、いくらでも研究することが
残されているのが、若いぼくには、たまらない
魅力だったのだ。まだ二十二才のわかい
科学者だったぼくには、これに一
生をささげて、いつかは
世間のやつどもを、あっといわせるような
研究をやりとげようと
決心したんだ」
透明人間は、いつもの、いんきくさい
世をのろったような声とはまるでちがう、わかい
張りのある声で話しつづけた。
「それからのぼくの頭には、
研究のことよりほかは、なにもなかったね。
寝てもさめても考えるのは、
研究のことばかり――六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ」
「どんなことだ」
「きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき
反射するか、そのまま
吸収されてしまうか、または光がおれまがる
具合によって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの
姿をもって目にみえるので――光のこの三つの
働きがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ」
「そうだ」
「たとえば、われわれが赤い
布をみるとするね。赤くみえるのは、
太陽の
光線のなかで赤い色のところだけを
布が
反射して、あとの色はみんな
吸いこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ
反射してしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど
吸収しないし、はねかえすことも、おれまがる
度合もすくないからなんだ」
透明人間はむちゅうで、しゃべりまくっている。ケンプ
博士はあきれ顔をして、じっと
相手の声をきいていた。
「そのガラスをこなごなにして、水のなかに入れてみたまえ。たちまち見えなくなってしまうだろう。これは水とガラスは、光がおなじような
具合におれまがるからなんだ。これから考えをすすめてゆけば、なにもガラスを
水中に入れなくても、水の中に入れたとおなじように見えなくすることができるはずだろう」
「そうだ。しかし、
人間はガラスとちがうからな!」
「そんなことはない。人間はガラスとおなじように
透明だよ」
「そんなむちゃな話はないよ」
「むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって
血液の赤い色と
毛髪の色などをとりのぞけば、
体じゅうが
無色で
透明になってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ」
ケンプ
博士は
透明人間のきばつな考えに、ただうなずくばかりだった。透明人間のことばはますます
熱をおびてきた。
「ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの
先生のオリバー
教授というのは、じつに
根性のまがった男で、
学者のくせに
学問や
実験に身を入れないで、
世間のひょうばんや
名声ばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも
秘密で、
研究をすすめていくことにしたのだ」
「だれの手もかりないで、きみひとりでかい?」
「そうだ。ぼくは
研究が
完成したそのとき、ぱっと
世間に
発表して、一夜で
天下に名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ」
「ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい?」
「きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは
血を
無色にすることができるということを見つけたんだよ。
血を
無色にすることができれば、人間を
透明にすることができる、というわけだ。人間の
体の
血液を
透明にしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく
自身、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのために
体に
害があってはなんにもならないが、その
点は
自信があったのだ」
「な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは」
「おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ――。
研究室にいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり
興奮してしまい、じっとしていられなくなった。
窓をおしひらいて、
夜空にしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも
透明になれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ」
「そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……」
「ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたを
消して思いのままをやるのは、人間の
昔からのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの
魔法使いとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ」
透明人間は、いきおいこんで話しつづけた。せきをきった水のように、とまることをしらぬようにさえ思われた。ケンプ
博士はしずんだようすで、かれの話に耳をかたむけていた。
「これで、ながい間、ばかな
主任教授に見はられながら、
苦心したかいがあったと思ったね。
田舎の大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない
授業をして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの
成功をしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで
研究をつづけたんだ。ところが三年たってみると、この
研究を
完成させるには、どうしても
金がたりないということに気づいたんだ」
「
金が……」
「そうだ」
透明人間は
吐きすてるように言って、だまりこんでしまった。
ケンプ
博士もだまりこんで、じっとナイト・ガウンだけの
人間を見つめていた。
ながい間、なんの物音もしなかった。
ふと、
透明人間が口をひらいた。
「金がなければ、ぼくの
研究をつづけることはできない。やむをえず、おやじの
金を
盗んでしまったんだ……」
「おとうさんの金を盗んだって……きみが?」
「うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ――。そして……おやじはそのために
自殺をしてしまったんだ」
ケンプ博士は、くらい目つきで、
透明人間をみつめた。
「ぼくのそのころ、チェジルストウの家をひきはらって、ロンドンのポートランド
街にもどっていた。
部屋をかりてすんでいたんだ。おやじの金をぬすんで、いろいろな
実験にいるものを買いととのえたので、ぼくの
研究は気もちがいいほど具合よくすすんでいったんだ」
ケンプ博士はうなずいた。そして心のなかで、
(なんというつめたい男だろう。やつは研究の
鬼になってしまったんだ。やつの心には、もうあたたかい人間の
血が通っていないのかもしれない。おそろしいことだ)
と考えていた。が、透明人間は
博士の心のなかのことなどは気にもかけず、
「おやじの
葬式は風のつめたい、さむい寒い日だったよ。ぼくはおやじがさびしい
丘の
中腹にほうむられるのをみても、考えるのはただ
研究のことばかりで、さびしいとも
悲しいとも思わなかったんだ。
葬式をすませてじぶんの
部屋にかえってきたときには、はじめて生きているかいがあると思ったよ。ぼくはむちゅうになって
研究にとりかかった」
透明人間は、ふと口をつむぐと、くらい顔ですわりこんでいる
博士に、
「きみ、つかれたのかい? 顔いろがさえないようだ」
「いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ」
「そのときすでに
研究は、九
分どおりできあがっていたんだ。その
大体のことは、
浮浪者がもち
逃げしたノートに、
暗号をつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる!」
透明人間はあの
浮浪者のことを思いだし、研究の話をするのもわすれて、さんざんにののしりはじめた。すると、
博士が、
「
研究のほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい?」
「ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の
実験には白い
羊毛を使ってみたんだ。
実験はうまくいって、白い羊毛がじっと
息をころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっと
消えていってしまったんだ。その
光景は、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ」
「それで……」
「白い
羊毛がすっかり
消えて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで
信じられない気がしたよ。ぼくはそっと、
羊毛をおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ! やはり
羊毛はまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、
気味のわるいような、
変な気もちだったよ」
ケンプ
博士は口のなかで、そっとつぶやいた。
「
信じられん話だが………うそではなさそうだ」
そして
透明人間に、ひとやすみしないかと
言い、ポケットからたばこをとりだした。
透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。と言っても、やはり
空中にたばこがういているように見えるだけである。
「つぎの研究には、ねこをつかったんだ」
「生きてるねこをかい?」
「もちろんさ。そのねこは
階下にすむ、ひとり
者の
老婆のかわいがっているねこなんだ。ぼくは
血のいろをうすめる
薬やらそのほかの薬やらを、
苦心してそのねこにのませたんだ。そして
薬で、ねこを
眠らせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ」
「ねこが
透明になってしまったって……?」
「そうだ。もっともすこし
失敗したところもあって、うまく
消えうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみと
爪だ。ねこは
薬をのませると
同時に、ひもでしばって
逃げださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに
消え、ふたつのほそい目と
爪だけが、部屋のなかにゆうれいのように
浮いていたんだ」
「ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか」
ケンプ
博士は、とがめるように言った。
「
持主の
老婆が、ねこを
探しにきて、『わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ』と、がなりたて、
部屋の中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ」
「
透明になってしまったねこは、その
後、どうしたんだね」
「さあ、どうしたかね。
透明になると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、
窓をあけてそとへ追いだしてやったよ」
「すると
透明ねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね」
「
生きていればね。だが、おそらく
死んでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね」
「そうか、かわいそうに……」
博士は、なんにもないところに、ねこの
丸いひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる
光景を、ありありと思いうかべて身ぶるいした。
「ぶきみなことだ!」
つぎに
透明人間が話しだしたのは、いよいよかれ
自身の
体が、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。
「一月のことだったよ。
雪のふる前の日で、おそろしくさむい日だった。ながい
研究のつかれがでたのか、
気分はすぐれず、いつものように
実験をつづける
元気もなかったんだ」
透明人間はつかれたようすもなく、また話しはじめた。
「四年の間、あけてもくれても、ただ
研究を
完成させることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、
体もくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりと
丘にのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの
体が
透明になって人目につかなくなったら、こんなみじめな
境遇からぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ」
「それできみは、
体を
透明にするおそろしい仕事にとりかかったのかね?」
「そうなんだ。ぼくは
下宿にかえると、さっそく
薬の
調合にかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた
下宿のおやじが、
文句を言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、『あんたはいったいこの
部屋で、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで
下宿じゅうの
人間が、おちおち
暮らすこともできないではありませんか。人には言えねえ
怪しげな
研究でもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな』と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、『うるさい! でていけっ!』と、どなってやったんだ」
「らんぼうだね!」
「しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり
首をつかむと、ドアのそとへ
力いっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この
下宿からもでてゆかねばならないことになってしまったんだ」
透明人間の
着ているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。そのときのことを思いだして、もういちど
腹をたてているらしかった。
「こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの
研究をこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの
手段を考えだした。大いそぎで
薬品の
調合にとりかかり、それができあがると、
夕方から夜にかけて、ぼくは
体を
透明にするその
薬をのみつづけたんだ――」
ケンプ
博士は、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、
透明人間の話をだまってききつづけた。
「夜ふけになったとき、
薬のために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりと
腰かけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ
放っておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな
態度で一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、
目玉がとびでるほどおどろいて、
紙きれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ」
「どうしたというのだい? そのおやじは……」
「ぼくも
鏡をみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじが
逃げだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね」
「白く?………」
「そうだ。
予期したようにね。それから夜あけまでの
苦しみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。
皮膚はもえるように
熱くなり、
体じゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも
気絶して、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。
歯をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは
気絶してしまったんだ」
ケンプ
博士は、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、
(やつの
魂は
悪魔にみいられているにちがいない。でなければ、ふつうの
人間に、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ)
と、思っていた。
透明人間は、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、
博士のことなどわすれてしまっているようだった。
「こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしい
苦しみはやんでいたが、ひどい
疲れでくたくたになっていた。明けがたの光が
窓からさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって――両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく
透明になってしまったんだ」
「
両手といっしょに、
体じゅうも
透明になったのかい?」
「もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのは
爪だったね。じぶんで
決心してやったことだが、こうして
成功して
全身が
透明になってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、
昼ちかくまでゆっくり
眠って
元気をとりもどすと、
研究に使った
機械や
道具を二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。」
「なぜ
機械をこわしたんだい?」
「ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた
下宿のおやじが、くっ
強な
若者を二人もつれて、『
化けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。
腕づくでも追っぱらう気なんだ』といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。
部屋のなかにぼくの
姿がみえないので大さわぎをしていたよ」
そこで
透明人間はおかしそうに、くっくっくっとふくみ
笑いをして、また話しだした。
「やつらがぼくの
部屋をひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの
部屋にもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、
下宿の
人間はひとり
残らず、そのうえ
出入りの
商人たちまでがぼくの
部屋にはいりこんで、
実験の
機械や
薬品をいじりはじめたんだ」
「それで……」
「ぼくはそのようすを見ながら、ふと、『こいつらのように
無学なやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに
学問のあるやつがこれを見にきて、ぼくの
研究をかぎつけるようなことになるかもしれない』と考えたんだ」
「だってきみは、
機械をこわしておいたんだろう?」
「そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで
永久にぼくの
研究を
秘密にしておく方法を考えだしたんだ」
「どんな方法だい? そんなことができるのかい……」
「
完全な
方法だよ。ぼくは、ぼくの
部屋でさわいでいた
連中がすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある
書類や
紙くずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。
燃えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム
管をひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐに
燃えあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと
火をふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと
玄関から、
街へしのびでていったよ。いやな
下宿におさらばしてね」
「それじゃあ、きみは、
放火してきたというのかい?」
「そうさ。それよりほかに、ぼくの
研究を
永久に
秘密にしておける方法があるかね? ないだろう」
博士には、そのときの
透明人間の声が、
地獄のそこからきこえてくる
悪魔の声のようにおもえた。
「
街へふみだしてみて、ぼくははじめて
透明になったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、
通行人の
帽子をはじきとばしたり、
肩をぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくは
街をあちこちと気ままに歩いていった。ところが、
夕方ちかくなると、ぼくはすっかり
弱ってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった」
「はっはっはっ、いくら
透明人間になっても、人間はやはり人間だよ。ま
冬にはだかでいられるものか」
ケンプ
博士は、はじめて
気味よさそうに笑い声をたてた。
「
笑いごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、
寒さはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ
広場をぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白い
犬が、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ」
「
透明になっていても、犬にはわかったのだろうか?」
「犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル
広場まで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの
災難がふりかかってきたんだ」
「つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?」
「こんどは子どもに見つけられたんだ。もちろんぼくの
姿を見つけるはずはない。ぼくはつかれはてていたので、ひと
休みしようと思って、
博物館のまっ白な
階段をのぼっていったんだ。その近くで子どもたちが
幾人も遊んでいたよ。そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。
『あっ、みてごらん! おばけの足あとだよ。ほらほら、はだしの足あとが
階段につぎつぎとついてるよ。おかしいなあ――だあれも
登っていってないのに、足あとだけがくっついているよ』この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ」
「それで、どうした?」
「そのうち、子どもの声で、やじ
馬がぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ」
「とんだ
災難にあったものだな」
「まったくだ。なんども
街かどをまがって、めくらめっぽう
逃げていくうちに、足のうらのぬれていたのが
乾いてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと
休み
場所をさがして歩きだしたんだ。追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、その
辺をうろうろしていたよ」
「やれやれ、
透明になっても、いいことばかりじゃないね」
「それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり
風邪をひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには
閉口したよ。落ちついてみると、ぼくの
下宿のある
街にきてたんだ」
透明人間は、ケンプ
博士になにもかも話してしまうつもりらしく、いっしんに話しつづけている。博士は、なにか、落ちつかないようすだが、それでも、じっとかれの話をきいていた。
「そのうち
往来の人たちが、きゅうに、なにかさけびながら、いっさんにかけだしていった。
人数はつぎつぎにふえてゆき、やがて火事だとわかったときには、どうもぼくの
下宿のあたりと思われる
方向から、もくもくとまっ黒な
煙がすごいいきおいで、
電話線とかさなりあった家のむこうに見えてきたんだ。それをみて、ぼくは、ほっとしたね。これでぼくの
秘密は
安全だ――そう考えると同時に、なにか新しい
勇気がわいてくるような気がしたんだ」
透明人間は、一気にここまでしゃべってきたが、なにを思ったか、いすにふかぶかと身をしずめて、だまって考えこんだ。
ケンプ
博士は、ちらりと
窓のそとに、すばやい一べつをなげ、だまってすわっていた。
「
透明人間になるということは、はじめぼくが考えたほど、すばらしい、ゆかいなものではなかったんだ。
寒いからといって
服をきれば、透明人間でいることができなくなる。透明人間でいようと思えば、寒くても
服をきることができなくなるばかりか、もっとこまることが起こってきたんだ」
しばらくだまっていた透明人間は、ゆっくりと話しだした。
「はだかでいるより、もっとこまることというと、どんなことだい?」
ケンプ博士は、つかれてしまっていたので、気のりのしない
調子できいた。
「おそらく、きみには
想像もつかないことだろう。
透明でいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、
胃にとどき
消化してしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。
体の中にはいった食べ物がそのまま
空中に
浮いてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくら
腹がすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ」
「なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、
透明になるのも考えものだね」
「もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい
生活にふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなっては
身をよせる家もなければ、たよりにする人もない。
働いて
金をもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、
夢にも思えない身の上になってしまったんだ」
透明人間の声は、しみじみとさびしそうだった。
ケンプ
博士も、さすがにかれの変わった
境遇に
同情して、
「それできみは、それからどうしたんだい?」
「どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。
雪ははげしく
降りだし、寒さと
空腹はたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、
屋根の下でゆっくりとやすんで、
腹いっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ」
「そうだろうね。で、それから……」
「そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、
体に雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような
北風が、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ」
「なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、
寒さだけはいくらかしのぎやすいのではないか?」
「ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は
一軒のこらずドアをしめ、
鍵をかけているので、いくらぼくが
透明人間でも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ」
透明人間は、そのときのことを思いだしたのか、いきいきとした声になって、
「デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの
苦労もないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしに
客が出入りしているデパートにもぐりこみ、
閉店するのをまっていたんだ。やがて店がしまって
店員たちがでていってしまった。店の
品物はすっかり片づけられ、
灯はけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうす
暗くなった店の中をわがもの
顔で歩きまわって、
下着やくつ下などの
売場から、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた」
「ほっとしたろう」
「きみの言うとおりだよ。
服装をすっかりととのえおわり、
体があたたまってくると、こんどは
地下室の
食堂におりていって、そこに残っていた
肉やパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい
果物や
菓子まで食べられるのだから、まるで
天国のようだったよ。
体もあたたまり、
腹ごしらえもできると、にわかに
眠くなったんだ。さっそくふとんの
売場のふかふかした
羽根ぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ」
「まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……」
「ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい
太陽がさしこんでいて、
出勤してきた
店員の話し声や
掃除をする音がきこえていた。あわててしまったぼくは
羽根ぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい
店員のひとりが、大声で、『あっ、
首のない
人間がいるぞ! あやしいやつだっ!』とさけんだんだ」
「そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ」
ケンプ
博士は、ものかげから走りだした
首のない人間を見つけた
店員たちのようすを思いうかべて、デパートじゅうがひっくりかえるさわぎになったろうと考えていた。
「ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに
食堂をかけぬけて、ベッドの
売場から
洋服ダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの
透明な
姿になって、
追手につかまるのをまぬがれたんだ」
「やれやれ、苦労をするではないか……」
「こんなわけで、せっかく手にいれた服はすっかりぬぎすててしまったので、ぼくはもとのはだかで、ふたたび雪のふる
街へさまよいでなくてはならなくなってしまった。ぼくはデパートをそっとしのびでると、むやみに
腹がたってたまらなかった。
しかし腹をたててみても、どうにもなるものではなし、ぼくはまえと同じように
寒さとうえになやまされだしたのだ」
「けっきょく、うえをしのいで、たっぷり
眠れたというだけだったのだね。それでもいいではないか……」
「ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、
帽子をかぶり、マスクでもつければ、どうやら
人前をごまかして、
暮らしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない
横町にある
古着屋にしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればお
金もついでに手にいれることにしたんだ」
「金も手に入れるというのか?」
「そうだ。この
古着屋でも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、『どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない』と、ひとり
言をいうと、ピストルを
片手に
家中をぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは
古着の山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ」
透明人間は、その男のことを思いだしたのか、
急にいらいらした口ぶりになって、
「いやな男だったよ。うたがい
深くておく
病で、しまいには家じゅうのドアにも
窓にも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからも
逃げることができないようにしておいて、ピストルで
射ちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつに
射たれてたまるものか、ぼくは
階段をおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった」
「頭をなぐったって! なんてらんぼうなことをするんだ。
古着屋はきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ」
「らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその
古着屋で服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくを
追いまわして、ピストルで
射つつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも
乱暴をはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった
古着でぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、
帽子をまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた」
「で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい?」
博士は顔いろをかえてさけんだ。
透明人間はおちつきはらって、
「もちろんだよ。あとでやつは、さんざん
苦心して
自由の
体になっただろう。そうとうきつくしばってやったからな」
博士はしばらく思いなやんでいるようすで、青ざめた顔をうつむけて考えこんでいたが、
「それできみは、やっと人なみの
生活ができるようになったのだね」
と、ほそい声でいった。
「いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても
透明なぼくの顔を
給仕人や、
客の目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうに
情ないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながら
暮らさなくてはならないんだからね」
「で、アイピング村へは、どうしていったのだい?」
「
研究をつづけたくていったんだよ」
「研究をつづけるためにだって? だってきみの研究は
完成して、
望みどおり
透明になったじゃないか……」
「しかし、きみ、考えてくれたまえ。
体が
透明になったおかげで、ぼくはほかの
人間が持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかも
失ってしまったんだ。
科学者として名をあげてみても、ぼくの
姿がみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい
家庭をつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、
永久にできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつの
望みは、もとの
体にかえることができる
薬を
発見したいということなんだ。その
研究のために、しずかなアイピング村へいったわけだよ」
「なるほど、そんなわけだったのか……」
博士は、ナイト・ガウンの
化けもののような
透明人間をみつめた。そこに友人のグリッフィンがいる。かれはながい間、胸にたまっていた思いをケンプ
博士にうちあけて、ほっとしたのか、ゆったりといすに腰かけて、たばこに火をつけた。
「ところで、きみはこれから、どうするつもりだい? なんのために、このバードック町にやってきたんだ?」
はじめに
下宿で
放火、つぎに、
古着屋でおそろしい
殺人をやりかけている。よくもわずかの間に、とんでもないことを
仕出かしたものだと、むかしの友人のかわりはてた
異様なすがたをながめながら、ケンプ
博士がたずねた。
「うん。ぼくがここにきたのは、
国外にのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、
寒すぎるよ。
洋服をきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっと
暖かい地方へいってしまいたいと思って、この
港町へきたのだ」
「それで?」
「ここからは、フランス行きの
便船がでる。フランスへわたり、
汽車でスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、
姿をけしてはだかで暮らしても、いっこう
寒くはないだろうからね」
「アフリカにいくのか?」
「そうだ。ぼくの
秘密がしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが
荷物をもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの
金貨が
空中をとぶような
騒ぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの
浮浪者をやとったんだが、だいじな
研究ノートと
金をもって、にげてしまった」
「浮浪者は
警察にいるよ」
「えっ、あいつが……」
透明人間が、すっくと立ちあがった。
そのとき、
玄関のベルがなった。
ベルの音をききつけると、
透明人間はケンプ
博士から二、三歩とびさって、
「あれは、なんだ?」
と、するどく言いはなった。
「なにも聞こえないが……」
「いや、二階へあがってくる足音だ」
「気のせいだよ」
警官がきたことを、あいてにさとられまいとして、ケンプ
博士は、おだやかに言った。
「ちょっと見てくる」
博士がとめようとしたが、
透明人間はドアに近づいていった。
すると、博士がドアを背にして、その前に立ちふさがった。
「なんだ、きみは! じゃまをするのか」
入口に近づけまいとする
博士から、ぱっと
跳びのいて、透明人間は
身がまえた。
「おれをだましたな!」
その声は、
怒りにふるえていた。
「
警官をよびやがって、よくも
裏切ったな……裏切り者め!」
透明人間はガウンの前をひらくと、すばやく、下に着ているものを
脱ぎはじめた。
この男を、この
部屋から外に出してはならない。博士はドアを
後ろ
手に開いて
廊下にとびだし、バタンと
閉めた。カギがない。透明人間が
内側から開けようとして、博士がにぎる
把手をひねった。その力は、ものすごく強かった。博士はドアを開けさせまいとして、
奮闘した。ドアのすき
間からガウンの
腕がのびた。博士はのどを
絞めつけられ、把手をはなした。博士はガウンの
怪物に突きとばされた。
博士からの手紙で、いそいで
駆けつけた、バードックの
警察署長アダイ
警部は、
玄関からホールを通って
階段をのぼりかけたところで、目に見えない怪物と戦っている博士を見て、立ちすくんでしまった。
「なんだ?」
怪物と戦う
博士は、倒されたり起きあがったりしながら、二階の
廊下から
階段のおどり場へのがれてきた。怪物のガウンが宙を飛んできて、博士におそいかかって倒した。目の前のできごとに、びっくりしている
署長を、ガウンの
化けものがなぐり倒した。
起きあがろうとする
署長を、
怪物は
階段から下にけり落として、動けなくしてしまった。
階下には
応援の
警官が二人いた。二人はあわてて、
宙を飛ぶガウンを追いまわした。追いまわすうち、ガウンは一階のホールの
天井へパッと
舞いあがったかと思うと、落ちてきて、そのまま、へなへなっと動かなくなった。
玄関のドアが、
人影もないのに開いて、バタンと
閉まった。
署長は起きあがったが、顔をしかめて、また、へなへなとすわった。そこへ、
透明人間との
格闘で
傷だからけの顔となった
博士が、ふらふらになって
階段を降りてきて、くやしそうに言った。
「しくじった。にげてしまった」
透明人間があばれまわるのを見ただけでなく、したたかになぐられ、
階段からけり落とされて動けなくなるほどの目にあいながら、アダイ
署長は、なおも信じられないという顔をしていた。
そんな顔の
署長に、
血だらけの
腫れあがった顔のケンプ
博士が、ぐずぐずしてはいられないと、せきこんで言った。
「あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、
得意になって話すんですからね。あきれたもんです。署長! あの男はもう、かなりたくさんの人を
傷つけています。これからもっと
暴れまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました」
「かならず
逮捕してみせます」
署長がこたえた。
「
大至急、
警官の
非常召集をおこなって、この町から
透明人間がにげだせないようにすることです」
「こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの
怪物がにげられないようにしましょう」
「
汽車や
船に乗って、逃げられないように、
駅や
港にも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その
浮浪者のトーマスは、
警察に
保護してあるんでしょうな」
「ぬかりはありませんよ、
博士! そのノートのことも」
「
透明人間をつかまえるには、
食物をあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを
実行することです」
「なるほど」
署長がうで
組してうなずいた。
「たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、
戸や
窓にカギをかけておくことです」
「さっそく
署へもどって、作戦を立てるとしましょう」
署長は立ちあがって、博士といっしょに歩きながら話をきいた。
「やつは
食物をのみおろすと、
消化するまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかに
隠れてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです」
「ほほオ、
透明人間は犬には見えますかな」
「見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいで
嗅ぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません」
「
名案ですな。ハルステッド
刑務所の
看守たちが知ってる男に、
警察犬を
飼っておる男がいるそうですから、さっそく
手配しましょう」
こうしている間に、
博士の
屋敷からにげだした透明人間が、なにをしでかすか知れないと思うと、ケンプ博士は気が気でなかった。
「
透明人間のもう一つの弱いところは、
凶器を持ってあるけないことです。
鉄棒とかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの
武器……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフが
宙を浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく
心配はありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです」
「ごもっともな
意見です。その
方針で、かならず
逮捕してみせます」
アダイ
署長はこたえた。
「もう一つ、だいじなことがあります」
「なんです?」
「ガラスの
破片を
道路にまきちらすのです。
透明人間は、はだかで、はだしで歩いていますから、これは
効きめがありますよ。すこし
残酷なやりかたですが、そんなことは言っておられませんので」
「スポーツマンシップに
欠けるようですが、お考えどおり、ガラスの
破片をよういさせましょう。目に見えない
怪物に、あばれられては
大変ですからな」
「あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです」
博士はアダイ
署長がよんだ
辻馬車に乗って、署長といっしょにバードックの
警察署にいそいだ。
ケンプ
博士の家をとびだしてからの
透明人間のゆくえは、どこに行ってしまったのか、さっぱりわからなかった。
港町ポート・バードックの人びとは、その日の朝のうちは透明人間の話もうわさにすぎなかったものが、午後になると、ほんものの
怪物が町にあらわれたと知って、大さわぎになった。
なにしろ人の目に、その姿かたちが見えないのである。道をあるいていて、いきなりなぐられても
防ぎようがない、というのだ。音もなく家に忍びこまれても、これまた、見えないのだから、どうしようもない。町の人は不安にかられていた。げんにその朝、道で遊んでいた子どもの一人が、いきなり何者ともしれないものに突きとばされて、ケガをしている。その場にいあわせた子どもたちは、友だちを突きとばしたものを、だれも見ていないのだ。
透明人間の
危害から町の人を守るには、
怪物を
捕えることである。そのための
警察の
手配は
着々とすすみ、おもったよりはやく、町のこれぞと思うところに、警官が
動員されていた。
騎馬巡査が町をねり歩いては、
戸締りをげんじゅうにするよう、家々によびかけた。小学校は午後三時には
授業をうち切って、
児童を
帰宅させた。町の人は、三人四人と組んで
自警団をつくり、
鉄砲やこん
棒をもって
警戒にあたった。
港の
船着場、
汽車の
停車場、おもだった道の出入り口。バードックの町を中心にして三〇キロの
半径の円にはいる
地域の町や村が、透明人間の
出没にそなえたのである。
透明人間にたいする
注意書が、ケンプ
博士とアダイ
署長の名をそえて、町のいたるところに
貼りだされた。
食物をとらせないこと、眠る場所をあたえないことなどが、書かれてあった。
警戒は
万全であった。
ところが、透明人間のゆくえは、どうなったのか。その日の朝、遊んでいる子どもを突きとばして、ケガをさせたのは、たしかに透明人間のしわざにちがいないが、それから先、どこへ行ったのか、音さたないのである。
ポート・バードックの町のうしろは、
高原になっている。その遠くまでつづく高原には森もある。
透明人間はおそらく、その森で、ひと休みしているのではないかと、ケンプ
博士も
署長も、そのように考えていた。
ケンプ
博士は、
透明人間はかならず町にもどってくると思っていた。
食物をもとめてのためか。それだけではない。博士に
裏切られたことへ、
仕返しをするために、夜になったら、きっと、博士の家にあらわれるものと信じていた。
夕方になった。透明人間のゆくえがわからないまま、遠くへにげられたのではないかと、みんないらいらしているところへ、町から一六キロはなれたところで起こった、
殺人のニュースがとどいた。むろん、その
事件を調べたその土地の
警察からである。
奇妙な事件であった。
そこはバードック
卿の
荘園のある
高原の静かな土地で、荘園ではたらく
執事が、じぶんの
住居に昼の食事にかえるとちゅう、
殺されたのである。
もうながいことバードック卿の荘園で執事をつとめるウィックスティード氏は、おだやかな
人柄で、ひとににくまれたり、けんかをしたりするような人でなかった。昼になると、荘園の木戸から一五〇メートルほどはなれたところにある
住居にもどって、食事をするのが
日課となっており、
草原をとぼとぼ横切る
執事を、その日も近所の女の子が見ていた。
「おじさーん」
いつものように声をかけると、いつもならすぐ、にこにこした執事の
笑顔と、おどけた返事がかえってくるのに、おじさんはステッキをふりまわして、女の子には見向きもしないで、通りすぎたというのだ。
「おじさん、なにしてるの?」
女の子は、太った
執事のあとを追った。おじさんは、おかしなことをしていた。見ると、一本の
鉄の
棒が、執事があるく前に浮かんで、ふらふらとゆれているではないか。女の子は、びっくりした。世にもふしぎな
宙に浮く
鉄棒を追って、おじさんはステッキでその鉄棒を、たたき落とそうとした。
すーっと、鉄棒がにげた。
「この
化けものやろう!」
口にしたこともないきたないことばを、おとなしい
執事が、めずらしく
吐きすてた。つづいて、このやろう……このやろう、と
夢中で
鉄棒にステッキで、なぐりかかっていった。
宙に浮いた鉄棒と
執事とのたたかいは、ブナ林をぬけて、なおもつづいた。おじさんは
汗をかいて、へとへとになり、それでもあきらめずに、なんとかして鉄棒の化けものをたたき落として
正体を
見破ろうと、追いつづけ、ついにその鉄棒を
石切場と
いらくさの
茂みのあいだに追いつめたのである。
そこで
執事ウィックスティード氏は、鉄棒の化けものの
猛反撃をくった。ただ、
残酷としか言いようのない、
無残な
殺されようであった。頭はたたき
割られ、
腕はへし折られて、これがあの
温厚な人の姿であるか、と
憤りを感じさせるほどに、ひどいものだった。
「あいつのやったことです。
透明人間のしわざです」
ケンプ
博士がニュースを聞いて、
署長にいった。
「かならず
逮捕してみせます。この町にはいってきたら、こんどこそ逃がしはしない」
アダイ
署長は
博士と、これからの打合わせをした。
「ぼくは家に帰って、
透明人間があらわれるのを待つことにします」
博士が
警察署をでると、外には
夕闇がせまり、夜になろうとしていた。
街角には
警備のひとが立ち、三人四人と隊を組んだ見張りの者が、町の通りをあるきまわっていた。
きんちょうのうちに一夜があけたが、なにごともなかった。町に
透明人間があらわれた話はなく、ケンプ
博士の
屋敷にも、透明人間は近づいてこなかった。
その朝もぶじに過ぎて、おそい昼の食事を博士がしていたときである。一
通の手紙が
舞いこんできた。
切手を
貼らないので、
郵税二ペンスの
不足となっている。透明人間からのものだ。
消印はヒントンディーン
局。どこかで紙を
盗んで書いて、ポストに投げこんだものとみえる。
――よくも
裏切って、おれを苦しめたな。こんどは、かならず、きさまを
殺してやる!
差出人の名は書いてないが、透明人間、すなわちグリッフィンからの手紙にちがいなかった。
消印のヒントンディーン局のある町からここまで、一時間あれば、やってこられる道のりである。
博士は食事をやめて、
窓ぎわに寄って外を見た。それから
家政婦にいいつけて、家じゅうの窓や戸のカギを調べさせた。どこにも手落ちはなく、透明人間が
忍びこむすきは、どこにもない。そこへ
警察署長が、しんぱいしてやってきた。
玄関のドアを開くのも、人ひとりがやっと通れるくらいの
細目にして、署長を入れる用心ぶかさで、博士は署長を中にいれると、
透明人間からの手紙をわたして見せた。
「あなたをねらって、ここへ……」
「かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません」
博士がそう言ったとき、ガチャーンと、ガラスが
砕ける音が、二階のどこかでした。
「二階の
窓だ!」
ポケットにかくしておいた銀色の
小型ピストルをにぎって、博士は二階にかけあがった。署長がそのあとにつづいた。
書斎にかけこむと、庭に
面した三つの窓のうち二つが、めちゃくちゃにガラスをたたき
割られていて、
床いちめんに、ガラスの
破片がちらばっていた。
ケンプ
博士は、まだ
破られていない三つ目の
窓に目をはしらせると、ピストルをぶっ
放した。ガラスは
たまに
撃ちぬかれてひび割れ、三
角状の
破片となって内側へ落ちた。
「やつがいましたか」
署長が目を大きくしてきいた。
「いや、ここまでは
登ってこられませんよ。ねんのために、ぶっ
放したのです」
ドスン……と
階下で
破目板をたたき
破る音がした。つづいて、
窓ガラスがやぶられた。しかし、一階の窓には、のこらず
鎧戸がつけてある。かんたんには
侵入できないだろう。
「
警察犬をつれてきましょう。用意してあるんです。十分とかかりません」
署長はケンプ
博士からピストルを
借りて、外にでた。ところが、アダイ署長が
芝生の上を門に近づいて、中ほどにきたときである。目に見えない
怪物が、署長を
襲った。
はじめ、いきなりなぐり倒された。署長がピストルで
応戦した。起きあがったが、けり倒されてピストルを
奪われ、手をあげて家のほうへ歩きだしたが、ピストルを取り返そうとして射ち倒されてしまった。ピストルは
透明人間の手にわたったのである。二人の
警官が、かけつけてきた。
博士は用心ぶかく二人をなかにいれた。そのときはもう、
裏にまわった透明人間が、
物置から
探しだした
手斧で、ガンガン、
台所のドアを
叩きこわしてるところだった。
「あれは?」
「
透明人間だ。ピストルを持っている。残りの
たまは二発……
署長は
射たれた」
おどろく
警官に
説明して、
博士は火かき
棒を手にして、台所に向かった。それに二人の警官も火かき棒を持って、あとにつづいた。
ガンガン………バリバリッと、がんじょうなドアは
叩きやぶられ、見えない手が突きだしたピストルが、博士めがけて、二度、火を
噴いた。博士と警官二人は広いホールに逃げて、ホールに入ってくる透明人間を
包囲するように
身がまえ、火かき棒を前に突きだして敵を待った。
そこへ、
手斧が頭上の高さに
回転しながら、ホールに飛びこんできた。
大乱闘となった。
「ケンプ! きさまと
勝負だ」
怒りにふるえる声がした。
警官のひとりが、くるいまわる手斧を、火かき棒でたたき落とした。もう一人の警官は見えない足で、け
倒された。そのあいだにケンプ
博士は、
窓から庭へとび降り、町に向かって走った。それに気がついた
透明人間は、
警官をなぐり倒すと、ちくしょう! とさけんで、ケンプ博士のあとを追った。
別荘がつづく
高台をかけ抜けると、町へ下るながい坂になっている。町へにげれば、追ってくる透明人間を、そこで
捕えることができると博士は考えていた。はだしの足音が、すぐうしろに追っている。
博士は走って走って、まっ青になって走った。
砂利や石ころが、ごろごろしている道をえらんで走った。透明人間との間が少しはなれた。やっと、町の入口に走りついた。
「透明人間がきたぞーっ」
さけびながら博士は、町の大通りを、
鉄道馬車の
駅のほうへ走った。駅の前に広場がある。その広場には砂利の山があり、シャベルを持った
工夫がはたらいていた。
「
透明人間だ、にがすな」
手に手に棒をにぎりしめた町の人が、わっと飛びだしてきて、博士のゆくての道をふさいだ。
「
裏切りやがったな!」
透明人間がま近にきたな、と感じた
瞬間、ケンプ博士は、したたかに
顎に一
撃をくらった。倒れたところを
脾腹をけられ、つづいて胸を重いものがおさえつけ、のどをしめつけられた。
工夫の一人が、
博士の上になっている透明人間のせなかを、シャベルでなぐりつけた。手ごたえがあった。また、なぐった。すると、こんどは博士が上になり、
警官もくわわって、透明人間の手や足をおさえつけた。
姿を見せない透明人間が、ぐったりとなった。博士のあいずで、みんな手をひいて立ちあがった。
「あっ?」
群衆に囲まれた広場の、
博士の足もとの地上に、はじめはかすかに、それから少しずつ……
半透明の人の形をした物が姿をあらわし、まもなく、若い男の
裸の
傷だらけの
体がよこたわっているのが、見えてきた。透明人間グリッフィンの
最期である。
(おわり)