友人一家の死

松崎天民




     ○

K君――――。
 物価暴騰の声に、脅やかされているばかりが能ではない。時には遊びの気分に浸って、現実の生活苦を忘れようではないか。――僕達はこうした主旨から、大正八年七月川開きの夜を、向島の百花園で、怪談会に興じた。
 泉鏡花いずみきょうか氏、喜多村緑郎きたむらろくろう氏の他、発起人として尽力したのは、平山蘆江ひらやまろこう氏や三宅孤軒みやけこけん氏などであった。七夕祭の夜、喜多きた茶荘さそうに招かれた時、平山君や僕から言い出した催しとて、趣向の事や人の寄りなどに就いては、人知れず苦労していた。しかし世間には、同趣味の人達が多いと見えて、三十人か五十人、多くて七十人位であろうとの予想は外れて、当夜になると百五十人からの参集者があった。
 従って、シンミリと寂しかるべき怪談会は、意外にもにぎかな陽気な集会となって、芸妓げいしゃ達の白い顔や、芸人達や料理屋の主人と云ったような、いなせな連中が気勢を添えてくれた。
「こんなに集っては、仕様がありませんね。会費をウンと高くして、十円位にすればかった…………」
「え、五円と云うところでしたね。しかしすうに於ては成功なんです。怪談祭の気味にはなったが、まず結構としておく事ですね」
 僕達はこんな事を云って、ボツボツ来始めた人達を案内しているところへ、自動車で駈け付けたのは、泉鏡花、喜多村緑郎、久保田万太郎くぼたまんたろうなどの諸氏であった。続いて錦城斎典山きんじょうさいてんざんの顔が見えたり、伊井蓉峰いいようほう福島清ふくしまきよし花柳章太郎はなやぎしょうたろうなどの姿が、幹事室の前に現れたりした。
 川村菊江かわむらきくえ桜井八重子さくらいやえこなど、女優の顔も見えたようであった。赤坂、新橋、柳橋、浅草の芸妓達も、四五人ずつ連れ立って出席した。
 K君――僕はこの時、久し振りに、泉鏡花氏と逢って、怪談以上の或る悲しい事実を聴いた。
 僕は今それを、君に宛て書き送ろうと思う。

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 鏡花氏と僕とが、初対面したのは、「風流線ふうりゅうせん」を藤沢、喜多村が本郷座に上演した時か、それとも芝の紅葉館こうようかんで、第何回目かの紅葉祭を催した時か。今たしかには覚えていないが、かく、途中で逢っても、「今日こんにちは」「や何処どちらへ」と云う位の知合にはなっていた。
 その鏡花氏に逢って、僕がず聞いたのは、今井君夫妻の忘れ形見の身の上なのであった。
「去年でしたか、上京してお宅に居ると云う端書はがきをくれたりで、無沙汰しているのですが、今はうしていますでしょう。一度お宅へ伺って、今井の娘にも逢おう逢おうと思っていながら、つい御無沙汰していましたが…………」
「おう、その今井の娘に就いては、実に気の毒な話があるのですよ。私の宅へ来てから……………」
と、鏡花氏と僕が話かけているところへ、いろんな人が挨拶に来たので、僕は心にかかりながら、喜多村氏と他の話をしたり、来会者へ挨拶したりして、せわしい一時間を過ごした――。
 K君――この今井と云うのは、僕と同じ作州落合の生れで、幼年の頃から竹馬の友であると共に、また村役場へ雇われて、共に筆生ひっせいを勤めた苦労の友達であった。東京へ来てからは、性来の吏才りさいが役にたって、大蔵省の判任官を奉じ、長い間煙草たばこ専売局に勤めていた。妻と男の子一人、女の子三人の六人暮しで、住宅は麹町下六番町十番地の長屋建ながやだてであった。その筋向うの二階家が、あたかも鏡花氏の住宅なので、今井夫妻は深くも交際しなかったが、幼い娘の子達は、色白の可愛い盛りを、子の無い鏡花氏夫妻にいとしがられて、殆ど毎日のやうに出入しゅつにゅうしていた。
 当代有数の知名な小説家と、名も無い専売局の一属吏ぞくりと、二人は交るべく余りに世界が隔り過ぎていたが、その隔りの垣根を越して、鏡花氏夫妻の愛に甘えていたのは、下の女の子二人であった。今年十三と七つのS子とM子は、鏡花夫人を第二の母のように懐しんで、その慈愛に弄ばれていた。殊に幼いM子は、色白の美しい上に、明敏な質であったので、生れ落てから直ぐ鏡花夫人の愛のたなごころに抱れて、三つとなり五つとなった。
 そうして過ぎ行く月日のうちに、M子の母は午後になると倦怠と発熱を覚え、夜は冷たい寝汗に苦しむような病人となった。
 悲劇はこれから醸されたのである。

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 何もも話さねば判らぬが、僕が今の妻と知合になって、正式に結婚を申込もうしこんだ時、仲にたって世話してくれたのは、この今井であった。大正四年五月上旬から下旬までかかって、愈々いよいよ型ばかりの結婚式を挙げた時、席に列してくれたのは、この今井君と角田浩々かくだこうこう歌客かかくの二人だけであった。細君は余程悪くなって、声もかすれていたし、咳も出るし、午後の熱にも苦んでいる様子に見えた。
「細君が病中のところを、種々いろいろ御尽力ごじんりょくになった。僕の方はこれで片が附いたが、細君の病気は何うだね。僕は不遠慮に云うが、肺に異状があるのではないか、ね」
「いや、高田耕安たかだこうあん氏にも診て貰ったし、他の医師にも診て貰ったが、肋膜の方は悪いけれど、肺には異状が無いのだそうな」
「それならいけれど、一度、友人の武田君か金田君かに見て貰っては何うだね」
「武田にも診て貰ったが、肺ではないらしい」
 僕達はこんな会話をして、別れたりであった。その年の夏には、細君の病状がにわかに進んだので、今井は一家を挙げて伊豆の伊東に転地し、秋風が吹く頃まで、そこで暮していた。長い間の事ではあるし、役所の方は休んでいたし、随分金にも困った様子であったが、当時の僕は浪人していたので、今井のために何の助けにもなる事が出来なかった。僕はそれを想うごとに、友情を表明し得なかった腑甲斐なさを、口惜くちおしく思い、残念に思い、不本意に思って、浅からぬ罪をになっている様な心持がして堪らなかった。
「一度、見舞に行くべきであったに、相済まぬ事をした。今井君も定めて、薄情な奴だと思っているに違いない……」
 僕等夫妻は、何時いつもこんな話をしては、今井一家の多幸を、心の中で祈っていた。
 そこへ久し振りに、今井から端書はがきが来て、僕は初めて細君の死去を知った。「伊東で火葬にして、遺骨は故郷へもって帰って埋葬する」との知らせもあった。「妻の骨を持て帰省した。昨日教会で葬儀を営んだ」と云う端書も来た。
 腸チブスで妻を失い、悲しい経験を辿っている僕は、その通知を得て、名状し難い気持がした。
「今井も遂に、僕の仲間になった…………」
 その頃の僕は、恥しい話であるが、五円の香典を送るのも、不如意勝ふにょいがちであった。
「東京へ帰ったら、一度訪ねて行こう」
 そう思っているうちに、今井は再び上京して、玉川電車沿線の三軒家に借家して、相変らず専売局に勤めていた。大正五年となり、六年となったが、僕は旧友を訪ねて、昔話をするような気持になれず、今井には依然として、無沙汰勝の月日を送っていた。

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 K君――誰が何と云っても、世に怖るべきは結核性の病気である。僕の結婚当時から、腹が痛むと云って食べ物に注意していた今井は、何時の間にか腸結核にかかって、不治の病床に呻吟しんぎんしていた。しかもそれを僕が初めて知ったのは、今朝死亡したと云う日の正午ひる頃であった。
 僕は愕然がくぜんとして、泣くに泣かれぬような心持がした。自分が長い間無沙汰していた事などは忘れて、病気している事位は、あらかじめ知らせてくれてもそうなものにと、驚きもし悲しみもした。――結婚の世話になって以来、碌にしみじみ話をする機会も無いうちに、今井は杳然ようぜんとしてしんだ。――こう思うと、僕はこの胸を絞め付けられるような心地がして、出そうになった涙も、容易には流れて出なかった。
 三軒家の宅へ行って、友人三五人と共に、納棺の手伝いをした時、僕は初めて落涙した。今井が病気で死んだ事に対しては、寸毫すんごうの責任も無いけれど、彼が在世中に、親友の一人として、僕は何程の力を致したであろう。細君の病中や死去に際しても、今井の病中に対しても、僕は慰めの言葉すら、怠っていたではないか。およそ今井の友人として、僕ほど不信な、僕ほど非人情な、僕ほどのほうずな男は、何処どこにあろうとも思われない。死だ後の今となっては、この苦しみも、悲しみも、思い遣りも、何の力ない空な事になってしまうではないか。
 十八になる長男は、蒼白い顔をして、如何いかにも父か母かの病菌を受けているような様子に見えた。
「君まで病人になっては不可いけないぞ。心を丈夫にもって、早く健康になって働くのだ、ね……」
 僕はこう云っている間に、我ながら涙ぐましい心持になった。十五歳の秋、母を失った当時の僕を想い起して、悲しい気持がした。妻の無い母の家で、病み疲れていた今井の心持を想った時、僕はハラハラと落涙した。頼りと思う病床の父にして、不如意勝な幾月日を送って来た子供達の心持を想像した時、僕は両手で顔をおおうて泣いた。
「何と云う不幸な一家であろう」
 雨の翌日、子供達と共に、今井の死骸を火葬場に送って、永久とわの別れを告げた。僕の竹馬の友で、親友で、妻の媒介人で、何かにつけて兄侍けいじしていた今井は、こうしてただ一片の骨とってしまった…………。
 K君――しかし悲劇は、以上で終ったのではない。この手紙を、今暫く書き続ける事を、ゆるしてくれるなら、君は人生の生々しい哀話に、必らずや心を動かされずにはいられないと思う。

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 今井君の骨を抱いて、その忘れ形見達と共に、僕が美作みまさか山中の故郷へ帰ったのは、桜花さくらに早い大正六年四月上旬の事であった。
 母の死や父の死で、病気が重くなっていた長男のTは、「死ぬるのなら故郷で死にたい」と云って、僕達の一行よりも先に、東京を立って帰省した。僕と三人の娘達は、岡山駅で友人の石田に迎えられ、それから更に中国鉄道に乗換えて、福渡駅ふくわたりえきまで急いだ。
 福渡からは旭川の流れに沿って、山の麓路ふもとじを七里あまり、人力車に曳かれて進んだ。大正二年の夏、十五年振りで帰郷してから、足掛け五年の月日は過ぎていたが、故国の春の風物は、僕のために懐しい旧山河であった。村の入口では、多数の旧知己きゅうちきに迎えられて、僕達は故郷の人々の中に包まれた。
 翌日は教会堂で、今井の葬儀が営まれた。薬屋の司会で、小学校長の説教、理髪床りはつどこの主人の聖書朗読に次いで、祈祷もあったし、感話もあった。石田は泣いて故人との友情を語り、僕もまた東京からいて来た仔細を言葉少く述べた。――東京で淋しく死だ今井も、故郷の人達の友情に依って、こんなに手厚く葬られる。自分も最後の呼吸いきを引取る時には、故郷の人々のかいなに縋りたい――。僕はこんな事を述べて、涙ぐましい心持になった。
 桜堂の山の半腹にある墓場には、細君の墓標が淋しく立っていた。今井君の墓穴はその墓標の隣に、小さく掘り下げてあった。讃美歌を歌い、祈祷をささげた後、白木の骨箱を埋めて、土塊を投げ込んだ時、コロコロと侘しい音がした。その音は、今井と僕との永久とわの別れを告げる悲しい響きであった。年上の娘は、顔を両手で隠して慟哭どうこくした。人々は愁然しゅうぜんとして、墓場の黄昏たそがれ背後あとにしながら、桜堂の山を下った――。
 父の骨よりも早く東京を立った長男のTは、その夜、病み疲れた身体を、母の実家によこたえることが出来た。「これでもう大丈夫、病気も楽になったような心持がします」と云って、十九になるTは、心から嬉し気に微笑んだ。「今井の死」は、これでようやく片付いたが、次には長男のTが……僕は何となくそう思って、暗い気持がした。不幸にして両親を亡くしたけれど、四人の子供達には幸福あれと祈って、僕はその夜を、川添の家で寝た。
 東京から故郷の山中まで、僕の心にコビリ付いていた「今井の死」から、一刻も早く完全にのがれたい……。僕はそう思って、四五人の旧友達と共に、鰆のおつくりを肴に、村の酒をのんだりした。
 滞郷わずかに二日の後、東京へ帰って見たら、桜花は今を盛に咲き匂うていた。

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 K君――今井の長男Tが、故郷で血を吐いて死だのは、それから二ヶ月ほど後の事であった。恐しい結核菌は、今井夫妻の生命を奪ったのみでなく、その長男の望み多い半生をも、無残にほろぼしてしまったのである。
 平尾不孤ひらおふこ畠山古瓶はたけやまこへい山下雨花やましたうか加藤唖蝉かとうあぜん田中稲月たなかとうげつ玉井一二郎たまいいちじろう国木田独歩くにきだどっぽ永井定太郎ながいさだたろう山田桂華やまだけいか桃中軒雲右衛門とうちゅうけんくもえもん渡辺亮輔わたなべりょうすけなど、多くの知人や友人を、結核菌のために失っている僕も、今井一家にすくうた毒菌の根強い恐しさには、今更のように戦慄した。
 嘉悦孝子かえつたかこさんの女子商業学校を卒業した姉娘だけは、小柄ではあるが壮健たっしゃなように見えたが、下のS子とM子とは、何となく弱々しく見えていた。現にM子は国へ帰る時、頸部に湿布をしていたし、S子は頬を紅潮して、気のせいか熱もあるように見えていた。
「姉と妹二人きりになったのです。故郷の人達の同情なさけに依って、何とか生活して行く道はあるでしょうが、身体だけはうか大切だいじにして下さい。この上、あなたかお妹さんでも病気になると、それこそ取返しが付きませんからね…………」
 僕はこんな手紙を姉娘に送って、気勢を添えもし慰めもした。しかし東京の女学校を卒業した気丈な娘と、郷人の気心とが、果して巧く合致するか何うか。故郷の落合町よりも、未だ三四里山奥の遠縁の者と、話が持上っていた縁談は、その後、何うなったであろう。姉娘は東京へ出て、一人で働いて暮したいような希望があるらしかったが、その後、何うした事であろう。僕は気にかかりながらも、その日その日の生計に追われて、久しい間、故郷とは消息を絶っていた。
 そこへ姉娘から突然「数日前上京いたしました、何のお変りも御座いませんか、一度お尋ねせねば済まないのですが…………」という端書が来たのは、今年の春浅い頃であった。端書の表面には「趨町下六番町泉様方にて」とあって、何うして上京したのか、妹二人は何うしたのか、これから何うするつもりか、そんな事は何も書いてなかった。
「おい、今井の姉娘が上京したそうだよ。鏡花さんの宅からとしてあるが、もいろいろと苦労をしているのだ、ね」
「そうですか、一度訪ねてあげては何う。構わないから宅へ来れば宜いのに、ね」
 僕達はこんな会話をしたが、それから今日まで、娘も訪ねて来なかったし、僕も気にはかかりながら、その日の仕事や忙しさに紛れて、鏡花氏の宅を訪ねようとはしなかった――。
 それが偶然にも、怪談の会の一夜、向島の喜多の家茶荘で、鏡花氏と僕とは、久し振りに逢ったのであった。僕が何よりもず泉氏に向って「今井の娘」の事を尋ねた心持も、実にこうした過去の事実や関係があるからであった。

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 K君――怪談会は夜中の十二時頃から、茶荘の二階で賑かに開かれた。喜多村きたむら君の開会の挨拶についで、典山てんざん小夜衣草紙さよぎぬぞうしや、福島清君、伊勢虎いせとら君、伊藤晴雨いとうせいう君、鹿塩秋菊かしおしゅうぎく君など、数々の怪談が、次から次へと人々を喜ばせた。
 鏡花氏は熱い磐若湯はんにゃとうを飲んで、少し昂奮しておられたが、矢張やはり熱心な怪談の聴者の一人であった。新俳優の某が、物凄い色懺悔をして、一座が少し緊張した時、僕は鏡花氏のそばへ寄って、低い声で言葉をかけた。
「……でその今井の娘ですが、その後何うしましたでしょう」
「いや、何うも気の毒なこってしてね、SとMと二人のいもとを連れて上京したんですが、Sの方は左右の肺とも、空洞うつろになっていたそうで、コロリと死でしまいましたよ……」
「えっ、あの縮れッ毛の可愛い女の子が…………」
「そうです。妹のM子は、四月に私の宅から、番町学校へ上げましたが、この子がまた悪くてね、四五日経つとS子の後を追って亡くなったんです」
「ま、何と云う事なんでしょう。私は端書を貰ったきりで、訪ねても来ませんし、訪ねても行きませんでしたが、そうですか、とうとう結核菌のために、一家全滅してしまったのですね…………」
「姉娘が一人だけ、漸く生き残っているのです。妹二人の小さい骨箱を抱いて、愁然として国へ帰りましたよ。妹二人に先立れるために、わざわざ作州の山中から出て来はしなかったと云ってね、可愛相に、怜悧れいりな姉娘も取乱して泣いていましたっけ…………」
 K君――泣くに泣かれぬ話とは、こうした事を云うのではあるまいか。怪談会を背景として、泉鏡花氏の口から、こうした新事実を聴いた僕は、余りに身近な、余りに生々しい現実の哀話に、何とも形容し難い重々しい心持に落ちた。――
 入代いりかわ立代たちかわり、いろんな人が、いろんな怪談を聴かしてくれたけれど、僕にとっては、これ以上の怪談、これ以上の物凄い話、これ以上の悲しい、痛ましい、哀れな話はなかった。すべての者、皆く――残れる者もまた逝く――。これが人生であろうけれど、それにしても、今井一家のみをしいたげるというのは、何という陰惨な事実であろう…………。
 この八月十四五日頃には、故郷から石田が上京すると云って来た。僕は石田に逢った上で、更に「今井一家の死滅」に就き、その後の詳しい径路をつくそうと思っている。
 K君――今はただ以上の事実を、君にあてて報告するにとどめておこう。
(松崎天民『四十男の悩み』一九二八[昭和三]年、有宏社、所収)





底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」ちくま文庫、筑摩書房
   2009(平成21)年7月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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