余このごろ西先生の教門論を
読に、その文
真切、その義
奥妙、反復数回発明するところ少々ならず。しかして
窃おもう、その立論の旨おおいに古説と同じからざるあるをもって、
看者胸中の先入を一洗するにあらずんば、おそらくはその真意の向うところを認めざらんことを。よりて、余いま
固陋を
省ず、その了解し難きゆえんの意を
摂録し、あえて先生に
質す。もし先生の垂教を
忝せば、あに ただ
[#「あに ただ」はママ]不佞の幸のみならんや。
およそ
政を行い
教を
布く、まず信を人に得るにあり。信ぜられてしかるのちに令
行れ、教立つ。いまだ信ぜられずんば、令して行れず、
戒め守られざるなり。これを信ぜしむるの道同じからずといえども、人をして疑わしめざるに至ては、すなわち一なり。それすでに疑わざるに及んでは、水火をも踏ましむべく、木石をも拝せしむべし。けだし信の難きにあらず、これを信ぜしむるを難しとす。すなわち徳をもって信を得る者あり、術をもって信を売る者あり、人のこれを信ずるや、いまだかつて知らずして信ずる者あらず。それこれを信ずるのはじめ、目これを見、耳これを
聞、心これを察し、その信ずべきを
知て、しかるのちはじめて疑わざるに至る。
昔し洋人はじめて
印度に航する者あり。王に
謂て曰く、臣が国、
冬日あり、水
凍結して
晶のごとく、鏡のごとく、堅きこと石のごとしと。王
己を
詐るとなしてこれを殺せり。王いまだかつて見ず、いまだかつて
聞ず、またいまだかつてこれを察せず。王のこれを殺す、また
宜なり。ゆえに
自ら
省て知らずんば、何によりて自ら信ぜん。
自ら信ぜずんば、なんぞよく人を信ぜしめん。古人身を殺して信を証せし者、少なからず。しかれどもその成功の跡を見れば、あたかもはじめより知らずして信ずる者のごときあり。いわゆる知らず知らず帝の則に従う、これなり。これ、これを
化という。そのすでに化するに及んでは、人これを
如何ともすべからざるものなり。しかれども信の心に
根する、深きものあり、浅きものあり。深きものは動し難く、浅きものは
揺し
易し。いま動し難きものにつきてこれを
蕩揺せば、幹折れ、枝
摧て、その根いよいよ
蔓せん。有力者といえどもついにこれを抜くあたわざるべし。もしまずその浅きものを選てこれを
芟艾せば、深きものも必ず孤立すること能わず。その勢ついに
自ら
仆れん。けだし釈迦は
波羅門を破り、
路得は天主教を新にす。わが邦の
沙門もまたよく
崇を興せり。これによりてこれを見れば、信あに
遷すべからざらんや。
西洋諸国たえて
鄙野の教門なし。ここをもって人の好むところに
任するもまた可ならん。かつ人々
識高く、学
博し。あに木石虫獣を拝する者あらんや。わが邦はすなわち
否ず。
愚夫愚婦の邪教に
沈溺、
惑乱する、言うに
堪えざるものあり。しかして政府、あにこれを問わざるべけんや。われ聞く、国の王者あるは、なお家の父母あるがごとし。
四海の内、みな兄弟なり。その父母兄弟の政を行う者は、その信ずるところ、
自ら愚夫愚婦の
見と同じからず。しかりしかして子弟の沈溺するを見、手を
拱して救わずんば、なんぞ父母兄弟たるにあらん、なんぞ民を
保するにあらん、またなんぞ不仁不慈の
謗を免れんや。
いま先生の言に云く、信に本末なし、ただ真とするものを信ずべきなりと。これなお
瞽者をして
五色を
撰ばしむるがごとし。いやしくもかの愚夫愚婦をして、おのおのその真とするものを信ぜしめば、ついに
草鞋大王を拝するに至らん。これ手を拱して人を
棄るの道なり。また云く、
匹夫匹婦の木石虫獣を信ずるも、その真たるを信ずと。ああ、これ何の
謂ぞや。木石虫獣にして真たらば、なんぞ天を
畏れん、なんぞ上帝を敬せん、またなんぞ教を用いんや。邪を
拒ぎ、淫を
斥し、
仮を棄て、真を求むるは、教の大本なり。先生の云く、政治の権は教門の道とその本を
同うせず
云々、その主とするところ人民を
聚め国を成し、不正をして正を犯すことを得ざらしめ、もってその治安を保す云々、もしそれ教門の道のごときはまさにこれとあい反す云々、全然その本を別にするものなり。またなんぞあい関渉して教門のためにして政治その害を受くることあらんや。余
読てこの文に至り、おおいに了解し
難を
覚う。これ先生のいわゆる教門なるものは、正教を指すか、はた邪教を指すか、その意のあるところ、いまだ
知べからざればなり。
今、仮に
耶蘇の教をもってこれを論ぜん。耶蘇に
十誡あり。その
首の三条は敬神の道なり。四に曰く、父母を孝敬せよ。これすなわち帝王、官長より父母、師長に
至まで、ともにこれを敬すべき義なり。五に曰く、殺すなかれ。人およそ
忿恨、
詈罵より人を
傷け、人を害すべきことを
誡む。六に曰く、邪淫を行うなかれ。七に曰く、
偸盗するなかれ。およそ人の財物を
傷り不公平のことを
戒む。八に曰く、
妄証するなかれ。およそ人の声名を
毀り、ならびに人を
詐るなどを禁ず。九に曰く、他人の妻を願うなかれ。これ淫念を
絶なり。十に曰く、他人の財を
貪るなかれ。これ
貪心を
誡るなり。以上七誡のごとき、人もしこれを犯せば、みな必ず政府の罰を
被るに足る。教門の道、ただ刑法の
目を設けざるのみ。しかしてこれよりはなはだしきものあり。善人は天堂の賞を受け、悪人は地獄の罰を受く。その厳なる、五刑より厳なり。いやしくも人々よくこの
戒を守るに至らば、五刑ありといえどもあによく
措かざるを得んや。いやしくもこの道に反せば、なんぞよく人民を
聚め、国を成し、不正をして正を犯すことを得ざらしめ、もってその治安を保つべけんや。
これによりてこれを見れば、なんぞその本を別にすというべけん。またなんぞあい関渉せずというべけんや。政府、道なければ法律行われず、人民、教なければ政に服せず。教の人における、一日も
無るべからず。飽食・暖衣・
逸居して教なきは、禽獣に近し。教の政における、その
帰、
一なり。われ
聞、文明の国たる、王家大礼あれば必ず教師を
引てこれを
司らしむ。天を敬するゆえんなり。民を信ずるゆえんなり。教の政における大なるかな。しかりといえども、教の道正しからざれば、その政に害あるまた少々たらず。これ人の好むところに任すべからざるゆえんなり。いやしくも教、正にしてかつ真ならば、人智の開明にしたがいてその信いよいよ深く、その政を行うにおいていよいよ欠如すべからざるものとす。もしそれ
虚妄なるがごとき、なんぞ信を開明の民に得るに
足ん。いわゆる神教政治なるもの、その実は神教にあらずして、愚民を
哄騙するの術なり。蛮王、一
詭道をもって万民を
統御せんと
欲す。その滅亡に至る、また
宜ならずや。
物の弊あるは物の
性なり。聖人といえども
予めこれが
備をなす
克わざるなり。
羅瑪の
邦を復するや教門の力により、その敗るるやまた教門によれり。けだし当時の王と称する者、皆いわゆる仁義を
仮て
覇を
謀る者なり。これをもってその法王に
佞する、彼がごとくついに世を救うゆえんのものをもって、民を
土炭に
陥るるに至る。教門の弊、ここにおいてか
極る。天運循環して
路得氏興り、はじめてその弊を救い、しかして法王の権とみに衰う。けだしその弊のよりて起るところを察するに、教にあらずして人に存す。
これを治道に
喩うれば、なお聖王の後、
桀・
紂を出すがごとし。それ邦の王を立つる、民を保するがためなり。しかして桀・紂の
逆あり。人の教を立つるは世を救うゆえんなり。しかして羅瑪の
災を
免れず。しかれども一日も王者なかるべからず、また一日も教なかるべからず。それ教なるもの人心を
攻るの具なり。心正しければ身
脩る。身脩れば家
斉う。家斉わざれば何をもって自主の権を
立ん。身脩らざれば何によりて品行の高尚なるを望まん。心正しからざれば、なんぞよく国の法律を
遵守すべけんや。
今、先生、その内心を後にしてその外形を先にす。これを物に
喩うれば、内心は物なり、外形は影なり。物、円なれば影もまた円なり。物、
方なれば影もまた方なり。すなわち、その心正しければ、その
行もまた正しからざるを得ず。これを
中に誠あれば必ず外に
形るというなり。いやしくも心を
攻めずして、いたずらに外形を
責るは、あたかも方物に
就て円影を求るがごとし。およそ
左道に
惑溺する者は、財を
貪り、色を好み、福を
僥倖に利し、分を職務に忘れ、
外財を
軽じ、義を
重ずるの仁なく、
内欲に
克ち、身を脩るの行なく、
生て肉身の奴隷となり、死して
魔鬼の犠牲となる。今天下の人をして、ほしいままに
狐狸木石を尊信せしめば、人々その心をもって心となし、ついにその帰するところを知らざること
瞭かなり。
しかしてこれに加うるに形をもってせば、これ教えずして殺すなり。かつその刑重きもただ一死に過ぎず。一人を殺す者は一死その命に
抵て足るべけれども、万人を殺す者は何の刑をもって万人の命に
抵すべきや。たとい、これを殺すもただ一死に過ぎざるのみ。しからばすなわち、あに公平の法と
称べけんや。これをもって政の要は、徳を先にして刑を後にす。徳の
本は教をもって人心を一にするにあり。明主は天下の心をもって
一途に帰せしむ。ゆえに令すれば行われ、禁ずれば
止む。もし天下の人おのおのその心をもって心とせば、日に百刑を施すといえども行われず。かつ天下の人、あによく
挙て
誅すべけんや。いわんや政府もまた人なり。いやしくも人ならばまたその信ずるところ、かならず人民と同一ならざるを得んや。政府もし、はたして狐狸木石を信ぜば、これ狐狸木石の政府をして、狐狸木石の人民を治めしむるなり。あにまた奇ならずや。
上世の歴史を見るに、たいてい
荒唐疑うべきもの多し。しかれども数千年の
後にありて、またこれを
如何ともすべからざるなり。西洋太古の伝説もまた、
往々疑うべきものあり。いわゆる
諾威方舟を造り、その族人および禽獣の属おのおの一

を乗せて洪水を
避しというがごときこれなり。
けだしその船の大小、人員の
多寡、いまだ知るべからずといえども、動物の属その数億のみならず、あにことごとくこれを
載するに
勝んや。また獣類中にも
残貪なるものあり、
猛悪なるものあり、かつ肉食の獣は養うに
蒭菜をもってすべからず。一頭を
屠て数頭を養うべきものといえども、なおかつ一頭の
配
を失うべし。いわんや数頭を
殺め、わずかに一頭の
餓を
救べきものにおいてをや。その餓るやその勢必ずあい
喰に至らん。あに上世の虎は
目今の猫のごとく、太古の熊は今日の犬のごとしというべけんや。もし猛獣、毒蛇をして一舟の中に戦わしめば、人いずくんぞその
災を
蒙らざるべけんや。しかして
諾威の舟
アララに漂着する、数月の
久きを経たりといえり。これあに理をもって論ずべけんや。
わが
邦皇統連綿、天地と
極なし。しかして上世の
史を
閲するに、天孫降臨すというもの、これを今日に
徴すれば、はなはだ疑うべきがごとし。しかれども上世の人、なおかつ、これを非する者なきは、当時すでに確として証すべきものありて存せしならん。近来これを外史に比較するに
及て、おおいにその疑を解くを得たり。すなわち
百露古王の
先もまた
大陽より来るというがごときこれなり。これ必ずわが上世の皇子
流竄せらるる者、
彼地に漂着して、ついにここに王たりしなるべし。今その服を見るに、胸前に飾るに菊章をもってす〈千八百六十三年
鏤行、米人
メッテェル氏地理書九十葉に見ゆ〉。かつその邦語の転化、おおいにわが国の法に類するものありという。また
ヲハイの女王額上に菊章を
文する類〈
和蘭人
ム、イ、ハンオーヘン氏著述、千八百五十五年鏤行、地上人民風俗通四百六十四葉の図に
出ず〉、皇国学者をしてこれを論ぜしめば必ず云わん、わが邦上世の人、外国に流竄せらるる者、外境において国を興せる者なりと。しかれども王家あにこれをもって教を
立るものならんや。
百露の王すでに
西班牙のために滅さる今に
至て、天孫の国、万国と
角立するもの、ひとり皇国あるのみ。
百露の
轍、それあに
鑑せざるべけんや。たといここに人あり、いま現に
雲漢より
降るも、その言行神聖ならずんば、人いずくんぞ上帝の一子なりとなさんや。いわんやその子孫においてをや。いわんやその現に雲漢より降るを見ざる者においてをや。これ天子より
庶人に至るまで、みな必ず
教なくんばあるべからざるゆえんなり。
それわが国
古より教あり、天然の教という。その法、人をして
自ら
本然の性に
復らしむるものにして、すなわち誠心の一なり。しかれども
世運ようやく
下るに
及で人事日に
繁く、天然の教いまだもって邪を
正すに足らず。これをもって名教を
布き
施せり。しかしてまた、いまだ
下愚を移すに足らず。加うるに釈氏の教をもってす。しかりしかして虫獣木石の魔道、紛然としてその間に雑出す。今日にありてこれを見れば、そのはじめより教なきの簡なるをもって
優れりとなすものは何ぞや。これけだし教法多端にして、人心を二、三ならしむればなり。教門の弊、ここにおいてか
極る。この時にあたりて新教を分布し、旧弊を救わずんば、その政に害ある、言うべからざるものあらんとす。しかれどもこれを救う法、もしその
宜きを得ざれば、その害もまた少々ならざるべし。あるいは
云、天下最良の教を
撰ぶべし。あるいは云、人々の好むところに任すべし。あるいは云、諸教を折衷して邦俗に合うべきを取るべしと。これみな、その一を
知て、いまだその二を知らざるの論なり。それ大声は
閭耳に入らず、上乗は凡夫を導くに足らず。君子の信ずるところは小人の疑うところとなり、老婆の
安ずる所は少年の笑うところとなる。新を
貪る者は
陳を
嫌い、古を好む者は
奇を
怪む。人心の
同からざる、なおその面のごとし。ゆえに、いやしくもその人を得るにあらずんば、教法、正しといえども行われず、論説、理ありといえども信ぜられず。ああ信の
難き、これを信ぜしむるを難しとす。教の道たる、あによく言語・文字の尽すべきところならんや。