日曜日之説

柏原孝章




 維新ののち、一異様の日を出現しきたれり。その名称いまだ一定せず、曇濁といい、損徳といい、また呑泥という。みな西音せいおん転訛てんかにして、日曜日の義なり。それ日曜は七曜しちようの一にして、毎週のはじめなり。これをもって毎歳必ず五十日あり。この日や、縉紳しんしん先生より開化処士、青年書生に至るまで、柳をとぶらい、花をたずぬるの期となせり。ゆえに妓楼ぎろう酒店しゅてんにありては、いにしえのいわゆる門日もんび物日ものびに比す。
 あんずるに、耶蘇ヤソ教の人は古来この日をもって教祖蘇生の日となせり。しかれども、元ヘーデン宗の人(ママ)陽を神なりとして、これを祭祀するの日となせしをもって名称の起るところとす。猶太ユダヤ宗の人もまたこの日をもって礼拝日となせり。いにし希臘ギリシアの一帝あり、この日をもって神を祭るべきを公布せしより、ついに世間普通の祭日となるに至れり。晩近ばんきんに及て、これを非する説ますます盛なりという。これによりてこれを見れば、奉教の人この日にあたり、安息してひとりを慎み天を敬するがごときは、もとより可なり。しかれども、いまだこの日をもって、放肆ほうし遊蕩ゆうとうすべきを聞かず。しかるに邦人語意を誤解し、はなはだしきにいたりては、嫖蕩ひょうとう放肆の義となす者またすくなからず。
 余一日、家童、門生の業をなげうち学を廃するを見、そのゆえを問う。皆う、今日日曜日なり、これをもってかくのごとしと。余おもえらく、わがくにの人、学術・品行ともに西人せいじんおくるる、あにただ数里の外のみならんや。いま人をして日夜馳駆ちくせしむるも、なお数十年の後にあらずんば、その地位に達せず。しかるをいわんや、毎週必ず一日の光陰を消耗するにおいてをや。けだし縉紳先生は功成り名とぐるの人なり。開化処士もまたおのずから見るところあるべし。青年書生のごときは、成業を将来に期すべき者なり。いずくんぞ放肆ほうし、自棄、かの両者のひそみならうべけんや。日曜の数一歳すべて五十日、つもりて十年に及べば五百日あり、二十年にして千日あり、三十年にして千五百日あり、すなわち四歳有一月ゆうひとつきの光陰なり。いやしくもこの光陰をもって、これを勉強に施さば、中人ちゅうじんといえどもまた必ず一事業を成すにたらんか。余ここに感ずることありて、日曜日の説を作る。





底本:「明六雑誌(下)〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店
   2009(平成21)年8月18日第1刷発行
底本の親本:「明六雜誌 第三十三號」明六社
   1875(明治8)年4月6日刊行
初出:「明六雜誌 第三十三號」明六社
   1875(明治8)年4月6日刊行
※表題は底本では、「○日曜日之説」となっています。
※校注者による冒頭の解説は省略しました。
※校注者による脚注は省略しました。
入力:田中哲郎
校正:岡村和彦
2020年3月28日作成
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